FTBギザギザハートのピラミッドツアー in エジプト

♪ちっちゃな頃から悪がきで♪あったチェッカーズと異なり、ちっちゃな頃はチッチキチ~!だった私であるが、♪ナイフみたいにとがっ♪た鋭さは今も変わっていないので今回は頂点がとがったものを目指すことを検討していた。折りしも日本列島は寒波に襲われ、寒がりであるはずのマサであれば100円カイロが手放せない天候が続いているが、スケールの大きい私はいっそのことカイロまで飛行機を飛ばして暖を取ることに決定し、FTB史上初のアフリカ大陸に繰り出すツアーが決行されることになったのだ!!

2005年12月15日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば¥6~7万くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL719便、B777-200機シンガポール行きは定刻通り午前11時に出発すると約7時間程度の快適シートテレビ付フライトでチャンギ国際空港に午後5時過ぎに到着した。シンガポールから乗り次ぐべきフライトの時間は6時間ほど先だったにもかかわらず、今回はシンガポールへの入国は果たさずに満を持して世界のベストエアポートと言われるチャンギ国際空港の探索に乗り出すことにした。

さすがに貿易立国シンガポールの国際空港だけあって空港内にはトランジットホテルやシャワー、ジャグジー、ジム、礼拝用ファシリティ、コンビニ等至れりつくせりの設備が確認されたのだが、中でもインターネットに関してはそこかしこに無料で使用出来るPCが数多く設置されており、貧乏旅行者から小金を巻き上げて低スピードのネットアクセスしか提供しない成田空港との格の違いをいやがおうでも見せつけられてしまったのだった。

シンガポール航空のトランジットカウンターで搭乗券を入手し、ラウンジで軽飯を食った後、午後11時過ぎに待望のシンガポール航空が運行するB777-300機に搭乗する機会を得ることとなった。

12月16日(金)

まず機内で私を迎えたくれた方々は厳しいオーディションを勝ち抜いたであろう悩殺ボディコン系制服もまぶしいアジアンビューティ系のスチュワーデス群であった。また機内誌の情報によると制服の柄の色によりスチュワーデスの序列があることが確認されたのだが、何はともあれSQ492便ドバイ経由カイロ行きは定刻より多少遅れたことも少しも気にならずに浪漫飛行へと旅立って行ったのだった。

アラブ首長国連邦のドバイ国際空港に着いたのは深夜の3時過ぎであった。ここでクルーの交替等のためにカイロに行く乗客もすべて降ろされたので、空港内で夜を明かすべく、ふて寝を決め込んでいるアラブ人等を踏まないように注意しながら45分程の時間を過ごし、再び搭乗するとそこにはさらにパワーアップされたアジアンビューティ軍団が待ち構えていた。

シンガポールを出発してトータル15時間弱でついにカイロ国際空港に到着することが出来たのは午前6時半ごろであったのだが、とり急ぎ入国前に銀行に寄り、¥をエジプトポンド(LE)に両替すると同時にビザ(LE90.72)を入手するとついにアフリカ大陸への一歩を踏み出すことに成功したのであった。とは言ってもいたるところで工事が行われているエジプト空港内の勝手がわからなかったのでとりあえず第二ターミナルから第一ターミナルへバスと徒歩で移動し、エジプト航空のカウンターで今回のツアーに必要な国内線のチケットを購入することにした。

空港から市内までバス(LE2.0)が出ているのでしかるべきバスに乗り込むと40分くらいでカイロ市の新市街のタフリール東バスターミナルに到着した。カイロに来てまず実行しなければならないことはエジプトの歴史を学習することであったので世界に誇るエジプトの秘宝を展示しているかの有名なエジプト考古学博物館(LE40)に入館させていただくことにした。この博物館は概観は2階建てでこぢんまりとしているが、中にはファラオの墓から掘り起こしてきた金銀財宝や棺やミイラがところ狭しと飾られているのだ。中でもトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)の黄金のマスクと財宝は別格の扱いを受けており、専用の展示室には仮面舞踏会のように黒山の人だかりが絶えないのであった。

エジプト考古学博物館での3時間の滞在でエジプト5000年の歴史を会得することに成功したのでナイル川に架かる橋を渡って今日の宿泊先であるカイロ・シェラトンに向かった。同ホテルでは上客である私のためにナイルビューのスイートルームへのアップグレードを提供してくれたので今日は長旅の疲れをとるために早々と休ませていただいた。

12月17日(土)

午前6時15分発のエジプト航空85便ルクソール行きに搭乗するために午前4時に起床し、そそくさとシェラトンリムジン(LE140)で空港に向かい、機上の人となった。約1時間ほどのフライトでルクソール国際空港に到着するといきなり田舎者プライドを表情に滲ませたアラブ服を着た原住民タクシー運転手に捕まってしまったのでおんぼろタクシー(交渉後LE40)でルクソールのダウンタウンを目指すことにした。

車内で運転手の執拗な観光の押し売りをのらりくらりとかわしながら何とか最初の目的地であるルクソール神殿に到着するとそこで首尾よくエスケープして神殿(LE35)の見学に乗り出すことにした。紀元前1000年以前に建立されたこの神殿の有名なストーリーは2本建っていたオベリスクの内の1本はフランスに寄贈され、現在パリのコンコルド広場におっ立てられているということだ。

ルクソール神殿からナイル川に沿って1kmほど北上したところにカルナック神殿(LE40)がある。カルナックのいくつかの神殿の中でもアムン大神殿はエジプト最大規模の遺跡で大列柱室という高さ23m、15mの2種の巨柱が134本並んでいるスペースが圧巻である。尚、アムン神はもともと小部落でしかなかったテーベの地方神だったのだが、中王国時代からテーベが発展するにしたがい、太陽神ラーと結合して国家の最高神となったのであった。また、神殿内にはその周囲を回ると願いがかなうと言われている特大のスカラべ(ふんころがしの像)が鎮座しており、多くの観光客グループがぐるぐるしていたので私もマサの天下り先が税金無駄使いの不正の温床にならないように願をかけておいた。

昼飯時になったのでダウンタウンに戻り、庶民的エジプト料理を味わうためにRestaurant El Tawhidという壷焼き専門店でビーフシチュー系の煮込み料理セット(LE15)を発注するとサラダとライスとパンがついてきたので蝿がブンブン飛び回る音をバックグランドミュージックに空腹を満たし、その後今回の宿泊地であるルクソールヒルトンに引き払い、部屋からナイルの眺めを見下ろしながら古代エジプト時代のファラオの妄想にふけることにした。

12月18日(日)

ルクソールの観光地は巨大神殿を要するナイル川東岸と王墓とモニュメントが点在する西岸に分けられるのだが、今日はルクソール観光のハイライトである西岸を攻めることにした。ルクソール神殿の目の前にローカルフェリーの船着場があり、そこからナイル川横断フェリー(LE2.0)に乗船するとほどなくしてしつこい観光勧誘野郎に捕まり、仕切りにタクシーでの遺跡巡りを薦められたのだが、今回はFTBが開発した「砂漠ダイエット」を実践するために徒歩で観光スポットを回ることにした。

フェリー乗り場から西3kmの各種遺跡のチケット売り場に向かう途上にメムノンの巨像が2体青空を切り裂くようにそびえているので軽く見上げた後、数種類の遺跡チケットを購入すると早速吉村作治とその早稲田隊が仕切っている位置的には神殿の西北にあたる王家の谷(LE55)を目指した。数多くの観光バスやタクシー、自転車等に抜かれながら乾いた殺風景な砂漠道を行けども行けども目的地になかなか到着しないのもファラオの呪いのせいか?と考えながら数時間歩くと命からがら王家の谷に辿り着いた。

ファラオたちはそもそも盗掘を防ぐために奥深い谷に死後の安住の地を求めたのであるが、皮肉なことにここにある百以上の墓のほとんどは盗掘者の餌食となってしまっているのであった。現在公開されている墓は60ほどあり、入場チケットで3つの墓の中に入ることが出来るのでラメセス3世、トトメス3世、ラメセス1世の墓に侵入し、内部に残されている壁画や象形文字を堪能させていただいた。

王家の谷の中で唯一盗掘を免れ、その金銀財宝の数々はエジプト考古学博物館の2階の半分を占めているツタンカーメンの墓(LE70)が別格の扱いで観光客を待っているのでお邪魔させていただくことにした。この墓は王家の谷の中でも質素で狭い部類のものであるが、その奥には棺があり、今でもツタンカーメンが呪いをかけながら眠っている様子が確認出来た。

谷は山とセットになっているので「砂漠ダイエット」のハイライトとして王家の谷を一望すべく山登りを実行し、頂上から王たちに別れの挨拶をすると隊列して歩いている黒ヤギを横目に逆方向の谷に下ることにした。下りきった崖を背景にして巨大な建造物が佇んでおり、97年のイスラム原理主義過激派のテロにより日本人新婚旅行客を含む多くの犠牲者を出したハトシェプスト女王葬祭殿(LE20)だと確認されたので入場し、女王とともに犠牲者を奉っておいた。

その後廃墟と呼ぶにふさわしいラメセウム(ラメセス2世葬祭殿、LE20)で幼い姉妹の手作りみすぼら土産押し売り攻撃を受け、代わりに私からの日本製ボールペン土産でかわしながらも調査を続け、さらにデール・イル・マディーナ(LE20)という王家の谷を建設した労働者の町の遺跡を軽く見物して西岸を後にしたのだった。

日もとっぷり暮れるとカルナック神殿で音と光のショー(LE55)が各言語で上演されるというので7時45分からの英語版に参加することにした。このショーは遺跡をライトアップして冷え込んだ観光客に古代エジプトの話をサウンドとともに語りかけて金を巻き上げるという催しものであることが確認されたのだが、体験的に一度見れば十分な代物であろう。

12月19日(月)

ということで、98年のラスベガスでの擬似ルクソール体験(http://www.geocities.jp/takeofukuda/1998last.html)以来心待ちにしていた本物のルクソールを堪能することに成功したので意気揚揚と朝10時25分発のエジプト航空65便でカイロまで帰ってきた。

カイロ市内から恒例のバスでカイロ市内に移動し、日本製車両を使っている地下鉄に乗り、ギザ広場駅で下車してホテルに向かって歩いているとマクドナルドがあったのでそこでご当地メニューであるマックアラビーヤを食ってアラビヤ気分を味わった。ピラミッド通りとファイサル通りの間に位置するシェラトン・ロイヤル・ガーデンズの無駄に広い部屋にチェックインするとギザ広場にあるバスターミナルを探したが、まだファラオの呪いが解けてなかったと見えてなかなか目的地に到着出来なかったので今日はカイロの市民生活をウォッチングするだけにとどまってしまった。

12月20日(火)

マサよ、君は一級建築士のいなかった時代に設計・施工された神秘的な建造物件を見学したことがあるか!!??

ということで、FTB最大の念願であると言っても過言ではないギザのピラミッドを訪れる朝を迎えることになった。ルクソールで開発した砂漠ダイエットを引き継ぎホテルから4kmほどの道のりを歩いてギザのピラミッドの入り口に開門前の午前7時45分ころ到着した。午前8時の開門を待つゲートには数名の徒歩観光客と観光バスの数が次第に増えていった。警備員のゴーサインが出たので観光バスに先を越されながらも200mの坂を登りきり、チケット(LE40)を購入するとさらに加速して80m先のクフ王ピラミッドの入場チケット売り場を一番乗りで制することに成功した。

築4500年のクフ王のピラミッド(LE100)の内見希望者は一日300人に限定されていたものの何とかチケットを入手し、壮大な高さ137m(元々は146m)の四角錐を見上げながら入り口に向かった。この入り口は本来の物ではなく盗掘者によってこじ開けられた物だそうだが、そこを入って大回廊という腰をかがめて急な坂道を登る通路の先に待っている部屋は王の玄室である。大きな石棺が据え付けられたワンベッドルームは多少内装がリフォームされているものの居住性に難があると思われ、鉄筋を通していないであろう天井が崩落すると生きて帰れなくなるのでそそくさと退去させていただくことにした。

ピラミッド群のはるかかなたに広がる壮大なリビア砂漠を遠まきに眺めながら高さ65.5mのメンカウラー王のピラミッドを軽く見た後、中央棟として君臨している高さ143mのカフラー王のピラミッドの内見(LE20)を実施した。こちらは特に入場制限はしていなかったので多くのツアー客が列をなしていた。回廊はクフ王のものよりも広いので多少余裕のある物件だと思われ、また外装として表面を覆っている化粧岩も上部と下部の一部に残っているためギザギザした印象はなく、エジプトで最も美しいピラミッドだといわれている。

ラクダを縦横無尽に操作する砂漠の民のラクダは楽だよ!という勧誘をかわしながらピラミッドパノラマポイントに到着するとそこからギザの三大ピラミッドを眺めて♪ギザギザハートの・・子守唄ぁ・・・♪http://www.geocities.jp/haneuma512/gizagiza.htmlと心の中で熱唱すると最終ポイントであるスフィンクスを目指した。

マサよ、君はスフィンクスの鼻の先にあるものは「ケンタッキーフライドチキン」というトリビアを知っているか!?

知っていたら、80へぇ~と「金の脳」を贈ってくれ!!!

というわけで、My Favorateトリビアであるスフィンクス周辺にはエジプト人遠足小学生を筆頭におびただしい数の観光客で大賑わいであった。尚、スフィンクスの頭はカフラー王に似せて造られたという説があるのだが、アラブ人の侵入後、鼻が削られイギリスに立派であったはずのあごひげを削り取られ、しかもそのひげは大英博物館で「ものじち」になっているとのことである。ちょうど昼飯時になったのでスフィンクス側のゲートから退場して仕方なく、ケンタッキーフライドチキンの3階の窓際に陣取り、スフィンクスとピラミッドの絶景をさかなに鳥肉を貪ってギザのピラミッドを後にした。

古代遺跡で有名なエジプトであるが、もうひとつの顔としてイスラームの世界を心の拠り所にしているのでバスに乗って世界遺産であるイスラーム地区の最も有名な観光地であるシタデルを目指したのだが、その道中のバスの車内では車掌と乗客の口喧嘩が永遠に繰り返されていた。シタデル地区(LE35)の中心はカイロのランドマークとなっており、ヘビー級ボクサーを連想させる名前を持つ、ガーマ・ムハマンド・アリというモスクである。軽快なフットワークで蝶のように舞いながら中に入るとシャンデリアをはじめとしたうっとりするような内装に見とれて思わずダウンしてしまった。気を取り直して外から建物を眺めると蜂のように刺すことが出来るほど尖ったミナレットが天を貫くようにそびえていた。

12月21日(水)

今回のエジプトとカイロのツアーでエジプト観光に必要な回路を構成することに成功したので午後1時45分発のSQ493便で再びドバイを経由してシンガポールに帰っていった。

12月22日(木)

午前7時15分にシンガポールに到着するとそのまま8時15分発のJAL便で帰国し、思わずカイロが必要な寒さに襲われ、次回のリターンを誓うのであった。

ミイラ取りをミイラにするエジプト情報

*アラブの主要国であるエジプトでは西洋数字のかわりにアラビア数字が幅を利かせており、バスの番号や物品の値段もすべてアラビア数字で表記されている。したがって、アラビア数字を理解しないマサであれば、小学生レベル以下に貶められてしまうのだ。

*エジプト人はボールペンを欲しがる傾向にあるという情報を入手していたので仕事関係の展示会等で略奪していた大量のボールペンを携えて現地入りし、遺跡の中を裸足で歩きまわり、手作りの物品を売りつけようとする青少年少女にくれてやった。何故なら、日本人はせいぜい2000年程度の日本史を学べが良いのだが、やつらは5000年ものエジプト史を学習しなければならないことが不憫に思えたからだ。

*カイロ大学は行かず後家兼小泉首相の情婦として活躍している小池百合子環境大臣を輩出したことで有名な割にはエジプト国内の環境は悪いと思われた。世界遺産の遺跡内であっても煙草の吸殻やゴミ等が溢れており、町を走る古い車は排気ガス規制がなされておらずおまけに信号がほとんどないので歩行者は危険を冒して道路を横断しなければならないのだ。

*エジプト国内はイスラム原理主義過激派によるデモを警戒して至る所で厳重な警備体制が敷かれているので緊張して観光しなければならないのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥11,350(JAL税金)、SG$2,033(シンガポール航空)、LE1,078(エジプト航空)

総エジプトビザ代 LE90.72

総宿泊費 LE1,664.05

総タクシー代 LE220

総ナイル川渡しフェリー代 LE4.0

総カイロ地下鉄代 LE3.75

総カイロバス代 LE8.0

総目撃した車にはねられたおばちゃんの数 1

協力 JAL、シンガポール航空、エジプト航空、HiltonHHonors、Starwood

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