こち(東風)吹かば にほひ(匂い)おこせよ むめ(梅)の花 あるじなしとて 春な忘れそ by 道真
(訳:マサよ、こっちに来ることがあったらうめ~貢物を主である総統に必ず持ってきてくれ、でないと左遷されるぜ!)
というわけで、901年に京の都から大宰府に左遷された菅原道真は上のような捨て台詞を吐いて飛ばされていったのであるが、その後太宰府天満宮を立ち上げて学問の神様として君臨し、歴史に名を残しやがった。しかし忘れてはならないのは道真の独断と偏見により894年に遣唐使が廃止され、白紙(894)に戻されてしまったことだ。それにより私のような優秀な人材が遣唐使として活躍するチャンスが失われてしまったのであるが、今回はFTB独自のルートにより、1,110年ぶりに遣唐使を再開するプロジェクトを実行に移すことにした。
11月11日(木)
JALのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた西安行きのチケットを手に午前9時50分発のJL609便に乗り込み、5時間弱のフライトで現地時間午後2時前に西安国際空港に到着した。空港からバス(25元)で西安市の中心部である鐘楼に向かっていたのだが、古都長安城の石垣を基礎にして建造された周囲14kmにもわたる明代城壁の北門が目の前に迫ってくるといやがおうでも遣唐使としての責任感によるプレッシャーで胸が詰まる思いであった。
奈良の平城京がパクった条里制は中心の鐘楼という鐘を打ち鳴らすためのタワーから東西南北に大通りが伸びている。とりあえず、鐘楼の近くでバスを降りるとその足で城壁の南門近くに君臨している西安碑林博物館(30元)を訪れることにした。碑林には書道好きにはたまらない難しい漢字で文章を彫った古い石碑が林立しており、拓本と言って石碑に紙を貼り付けてその上からタンポで墨を塗り付け、文字や絵の部分を白抜きにして複写する技術をライブで行っており、また、由緒正しそうな拓本自体も観光客相手に高値で販売されていた。この博物館には石碑だけでなく、石刻芸術や陶器、青銅器、鉄器、玉器、絵画等も展示されており、非常に見ごたえのある観光スポットであることが確認出来た。
今日の宿泊先である鐘楼に程近い東大街の☆☆☆☆ホテルである西安皇城ホテルにチェックインすると日も暮れた時間に街を散策することにした。鐘楼、鼓楼といったランドマークになる建造物は夜はきれいにライトアップされ、古都西安の夜景を彩っており、はるか昔の遣唐使の健闘を讃えているかのようであった。
11月12日(金)
あいにく朝から小雨がそぼ降っているため、とりあえず屋根のついている陝西歴史博物館(35元)の見物から今日の遣唐使の業務を開始することにした。伝統的宮殿様式の概観を持つこの博物館には先史時代から秦代、漢代、魏晋南北朝時代、隋唐代、宋、明、清代の貴重な逸品が数多く展示されている。古代中国は文明の発達した巨大国家だったため、日本のような周辺弱小国がわざわざ船を漕いで長安くんだりまで貢物を持参して先進文化を吸収していたのだが、その名残や足跡もここには残されていたのであった。
昔昔、長安はシルクロードの起点となっていたのは有名な話であるが、玄奘三蔵もこの地を発って天竺まで経典を取りに行ったという話が西遊記といういい加減な話として受け継がれている。三蔵法師ゆかりの寺として648年に建立された慈恩寺(25元)があり、その中に大雁塔(20元)が64mの高さを誇っていたので登頂したのだが、あいにくの雨模様の空のため、西安の区画整理された町並みがぼんやりと眺められた程度にとどめられてしまった。寺の中に玄奘三蔵院という建物があり、その中に玄奘がたどった天竺までの道のりやそれにまつわる資料が展示されていた。しかし、ここには坊主頭の夏目雅子風の三蔵はいてもギャラの高そうな「あるある大王堺正章風孫悟空」や「釣りバカ西田敏行系猪八戒」、「破産の帝王ルックルック岸辺シロー式沙悟浄」、「白馬おひょ~え藤村俊二」等のとりまきに対する資料はみじんも残されておらず、これではゴダイゴがいくらガンダーラをヒットさせても決して浮かばれないのではないかと思われた。http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/2781/data/tv/tv-ntv.html
ANAマイレージクラブダイヤモンド会員のみが手にすることが出来る全日空ホテルズ無料宿泊券が2枚余っていたのでマサであれば合計$200以上かかるところを私はただで泊まることが出来る☆☆☆☆☆ホテルであるANA GRAND CASTLE HOTEL XIANに早々とチェックインして高級中華ディナーを楽しみながら西安の長い夜は更けていった。
11月13日(土)
ホテル近くのバス停からバス(1元)に乗って西安駅で下車し、駅前の人間模様を軽く見渡した後、今回の遣唐使としての最大の任務である秦俑博物館(90元)に向かうべく、走っているバスの窓からおばちゃん車掌が手招きをしながら乗客の客引きをしている兵馬俑行きミニバス(4元)に飛び乗って世界遺産に指定されている現地に向かった。西安最大の見所として君臨する通称兵馬俑は1974年にたまたま井戸を掘っていた農民により偶然発見されたものである。兵馬俑はあの世に行ってしまった秦の始皇帝を守るべく、紀元前220年ごろから製作され始めた大地下帝国的兵士騎馬集団であり、兵士の身長は平均178cmで顔立ちはそれぞれ異なっているのだ。
博物館は一号坑、二号坑、三号坑、秦銅車馬展覧館などで構成されており、7000もの兵士俑や100あまりの戦車、400あまりの陶馬などから構成されているのだが、発掘されているのはまだほんの半分以下であり、坑内にて生々しい発掘の現場を目の当たりにすることが出来る。尚、原型を保っている兵士俑のポーズは直立のものだけではなく、ブルースリーが「アチョ~!」と叫んでいるような格闘系のものやホストが片膝をついて「いらっしゃいまほ~♪」と言っている様なものまで確認された。ところでマサよ、現在上野の森美術館で大兵馬俑展http://www.heibayo.com/が開催されており、雰囲気のかけらだけでも体験することが出来るので大阪から新幹線を転がして必ず見に来るようにしてくれないか!?
兵馬俑からわずか1.5kmほどの場所に同じく世界文化遺産に登録されている秦始皇陵(25元)が国家AAAA景区として観光客の客引きに成功しているので見物することにした。ここはいわずと知れた中国最初の皇帝である始皇帝の陵墓であり、その存在感は心霊現象が多発する青山墓地や多摩川霊園が束になってかかってきても敵わないほどである。始皇陵の頂上まではザクロを栽培している段々畑を横目に階段を登っていくのだが、当然階段の途中で収穫したザクロを観光客に売りつけようとしている農民も待ち構えているのであった。尚、ふもとの広場では秦代の兵士の服装を身にまとった人民が鐘や太鼓を打ち鳴らしながらのパフォーマンスが定期的に行われていた。
マサよ、君は中国にも古くから温泉保養地が人民を癒していた事実を知っているか!?ということで、秦始皇陵から西安市街に戻る道すがらでバスを降り、華清池(35元)という温泉と風景の美しさで有名な観光スポットに立ち寄ることにした。この温泉は2700年あまり前に発見され、歴代王朝により離宮や浴槽などが造られたその遺跡が残っているのだが、特に有名なのは世界3大美女の1人である楊貴妃専用の浴槽や当時の唐の皇帝であった玄宗のプールのような巨大浴槽が博物館として残されているところである。また、蒋介石もここで静養した実績があり、1936年の西安事変における弾痕がガラスを突き破った跡も生々しく残されているのであった。
11月14日(日)
2日間お世話になったANAホテルをチェックアウトするとその足で小雁塔(18元)に向かった。707年に建立された小雁塔はもともと15層の塔であったのだが、地震により上部2層が崩壊して現在は13層43mの塔として君臨しており、狭い階段を登って到達する頂上からは西安市の街並みが一望出来るのだ。
最近真言密教の研究を開始した私は空海にゆかりのある青龍寺(8元)を訪問することにした。この寺は582年に霊感寺として創建され、711年に青龍寺に改名された由緒正しい寺であり、804年、当時日本から入唐した多くの僧のひとりだった空海は、この寺の恵果和尚に弟子入りし、密教の教義を習得したのである。唐末の戦乱で廃寺となっていたのだが、1973年に塔の土台と殿堂の発掘により再建され、その後、空海紀念碑や恵果や空海の像が安置されている恵果空海紀念堂などが建造され、ひっそりとしたたたずまいながらもマニアの日本人観光客を集めているのである。長崎県の五島列島を出航した空海が長旅を経て到着した目的地をとうとう見つけ出すことに成功したFTBは遣唐使としての役割を何とか果たすことが出来たのであった。
空港行きバスが出るまでの時間を利用して鐘楼(15元)の内部を見物することにした。鐘楼はもともと鐘を鳴らして時間の告知をしたり、戦時に物見台や司令部としての役割を果たしていたファシリティであったそうだ。建物内部の歴史的な資料もさることながら正午から鐘の楽器を使った民俗音楽つき美女式舞踊等のパフォーマンスがおっぱじまってしまったので美女の動きに思わず目が釘づけになり、思いもよらず楽しいひとときを過ごさせていただけたのであった。
15時30分発JAL660便にて帰国、そのまま流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 \3,960 (税金のみ)
総宿泊費 \8,500
総バス代 60元(1元 = \13くらい)
今後の予定: ドォ~モ~FTBEUイタリア~ノ
協力 日本航空、全日空ホテルズ