マサよ、君は長州力を筆頭にした新日本プロレス維新軍団であるラッシャー木村、キラーカーン、アニマル浜口、マサ!斉藤を知っているか?
ということで昭和50年代後半に新日本の主流派であったアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳らに対して革命を起こそうと蜂起した軍団が存在し、リング上でからさわぎしながらワールドプロレスリングの主役となっていった。今回のFTBJはからさわぎと維新の精神を辿るためにわざわざ冬の山陰地方をさまようことになったのである。
2月22日(土)
ANK575便、B737-500機にて昼過ぎに島根県石見空港に到着すると早速ニッポンレンタカーでマツダのデミオをレンタルした。小雨がそぼ降る中、国道9号線を1時間ほど西南西に走ると1時間ほどで津和野という観光地に到着した。津和野は周囲を山に囲まれ、白壁と赤瓦のコントラストが美しい城下町であり、掘割という側溝におびただしい数の鯉がからさわぎをしながら悠然と泳いでいる様子をライブで見ることが出来ることで有名である。
しかしながら、20数年ぶりに訪れた津和野は鯉の数がかなり減少している様で、地元の郷土料理屋でも鯉こくや鯉の洗いなどの鯉料理をふるまうところもかなり少なくなっているようだった。昼飯時にとある茶屋で津和野定食(¥1,500)を発注したところ盆の上にはこんにゃくの刺身と川魚の煮付けや普通の魚の刺身等が並んでいた。この光景を見たマサであれば、土曜の夜11時でもないのに強引に「こいのからさわぎ」を発注しようとして店員に「うちではさんまはあつかってまへん!」と断られ、説教部屋に連れていかれてピコピコハンマーでぼこぼこにされていたことであったろう。
あがん祭という地元の食い物を誇らしげに展示する催場が無料で開放されていたのでそこに侵入してにごり酒等の地酒や源氏巻というお菓子やがん茶を賞味することに成功した。ちなみに「あがんさい」とは地元の言葉で「あがりなさい」つまり「召しあがりなさい」という意味だそうだ。
2月23日(日)
昨日から降り続いていた雨もなんとかあがり曇り空の中を早朝より太鼓谷稲成神社を参拝して遅めの初詣を実施した。この神社は日本5大稲荷神社の1つに数えられるほどの大手であり、270段の階段を登って到達する山間の神殿から津和野の景色を一望することが出来る。
国内旅行のツアーパッケージでは津和野と必ずセットになっているのが山口県の萩である。ということでからさわぎの喧騒もさめやらぬ津和野を後にすると50kmの道のりを西北西に向かい、一路萩を目指した。1時間ほど車を走らせると心なしか長州力の入場テーマが聞こえると同時にさそり固めをかけられた時のような激痛が腰部を襲ったような感覚に見舞われた時に長州の藩府であった萩に入ったことを実感させられた。
萩の市街地に毛利家ゆかりの萩城跡(¥210)が君臨していたので早速入城することにした。関が原の戦い4周年記念の1604年に着工し、1608年に竣工した萩城は1863年に第13代藩主毛利敬親が藩府を山口に移転するまでの260年間政治の中心であったそうだが、明治7年には天守閣、居館が解体されて今に至っているのだ。
萩城の隣の萩資料館(¥500)に入館し、数多くの幕末の志士達を生み出した長州の歴史を学習し、多くの若者が日本の夜明けを目指して散っていった様子を垣間見て首筋にリキラリアートを食らったような衝撃を味わった。そのままロープに飛ばされるような勢いで向かった先は吉田松陰を奉ってある松陰神社であった。境内に吉田松陰歴史館(¥650)というファシリティがあったので早速入場し、蝋人形を駆使した松陰の生涯のダイジェスト版を胸に刻み付けることに成功した。また、長州藩の藩校である明倫館に入ることが出来なかった子弟を教育した松下村塾が当時の面影そのままで残されている光景が大変印象的であった。
北長門国定公園内の笠山で萩つばき祭りが行なわれていたので立ち寄り、そのまま石見空港への帰路を走っていると「全国道の駅発祥の駅阿武町」という看板を目撃してしまった。現在日本には無数の道の駅が君臨しているが、なんとその元祖はここにあったことを思い知らされた。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥800
総宿泊費 ¥6,825
総レンタカー代 ¥9,975
総ガソリン代 ¥1,521
次回はFTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 久米島(出来るだけニュースを・・・)をお送りします。