アフリカ大陸最高峰キリマンジャロ初日の出ツアー

アメリカの金融危機に端を発した不景気の影響で白金~ゼ以外は金がね~ゼ状態である今日この頃だが、日本国民が寝正月にいそしまざるを得ないような閉塞感を打破するために高い金を払ってまでアフリカの頂点を極めるツアーが強行されることとなったのだった。

12月27日(土)

ANAの営業努力によりエコノミークラスが満席となり、必然的にはじき出された私がビジネスクラスにアップグレードされるという成り上がりの方程式の確立により1Fという最前列の席に陣取るとNH911便香港行きは定刻より30分以上遅れたものの午後11時過ぎには香港国際空港に到着した。

香港空港での乗り継ぎの時間が押してしまったため、係員の先導により南アフリカ航空SA287便の出発ゲートまで案内され、無事に機内の通路側席に身を沈めるとヨハネスブルグまでのさらに長い旅の開始となった。

12月28日(日)

SA287便は午前7時前におなじみとなったヨハネスブルグ、O.R.タンボ国際空港に到着した。空港のラウンジで7時間ほどやり過ごした後、午後2時30分発SA182便に乗り込みナイロビを目指した。3時間40分程機内で過ごし、ナイロビのジョモ・ケニヤッタ国際空港に到着したのは午後7時30分であった。さらにケニア航空とPrecision航空のコードシェア便であるPW728便は午後9時半に出発し、タンザニアのキリマンジャロ国際空港に到着したのは午後10時を過ぎた時間であり、東アフリカへの長旅には体力が必要であることをあらためて痛感させられた。

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

空港にてタンザニアへの入国ビザのスタンプを押していただき、侵入を果たすとSPRINGSLANDS HOTELのスタッフがピックアップに来ていたので同行のカナダ人のカップルとスイス人のアベックと一緒にバンに乗り込み50分程でキリマンジャロ登山のゲートシティとなっているモシのホテルに到着した。チェックインの際にキリマンジャロ登頂の簡単なオリエンテーションがあり、その後旅人の何人かはホテルの中庭にて酒をかっくらっていたのだが、私はキッチンに程近い73号室に立て篭もり、暑さとキッチンからの朝食準備サウンドでほとんど眠れない夜を過ごすこととなってしまった。

12月29日(月)

ジャンボー マサよ!

ということで、念願のキリマンジャロ登頂ツアーに出発する朝を時差ボケと寝不足のまま迎えてしまった。ホテルの2階からはこれから立ち向かうキリマンジャロの勇姿がくっきりととらえられ、朝食と一緒に供されるキリマンジャロブレンドであるはずのコーヒーを召し上がっていると嫌がおうにも闘魂が湧き上がってくるのであった。

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

SPRINGSLANDS HOTELからはおびただしい数のキリマンジャロ登頂ツアーがスタートするのだが、午前8時半にツアーガイドと送迎車が迎えに来ることになっている。昨晩私が到着した時間が遅かったため、今朝になって初めて私と旅の道連れになるツアー客の紹介がガイドのウイルソンによって行われた。必然的に私が隊長として仕切ることになるツアーは日本人客3名から構成され、1名は登山経験者の佐賀のサラリーマンでもう1名は登山素人のエチオピアの外交官ということだった。

登山の装備を確認し、かろうじて1本のストックをレンタルさせていただき、迎えのマイクロバスに乗り込むと後から数多くのドイツ人旅行者が便乗してきやがったので、バスの中はマサにどいつもこいつもドイツ人状態に陥ってしまっていた。

バスはモシの市街を抜け50分程でキリマンジャロ登山の代表的な登攀ルートであるマラング・ルートを取り仕切るマラング・ゲートに午前11時頃到着し、キリマンジャロ国立公園(世界自然遺産)の管理事務所でレジストレーションを済ますと待望のキリマンジャロ登山がついに火蓋を切ることとなったのだ。

標高1970mに位置するマラング・ゲートは観光客用の登山道とポーターが荷物を運ぶ輸送路に分けられおり、登山道はあたかも熱帯雨林のジャングルのように鬱蒼と樹木が生い茂っていた。山中では薪にするための木を刈るための鋭利な刃物を持った原住民少年達が「One Dollar、ワンダラー」と言ってまとわりつき、思わずここはワンダーランドかと感じさせられた。

スタートから3時間程で今日の目的地である標高2700mのマンダラ・ハットに到着した。早速4人が寝泊り出来る小屋にチェックインし、ポーターが汗をポーターポタ流しながら運んできてくれた荷物を受け取った後、食堂で午後の紅茶の時間を向かえた。しかし、夕食までにまだ時間があったので近くのMAUDI CRATERを軽く散策してみることにした。

クレーターまで歩く道すがら大きな木々の上からシロクロコロブスという東アフリカにに生息する猿の出迎えを受け、キリマンジャロの自然の豊かさをあらためて思い知らされた。午後6時に同行のコックが作る夕食が供されたのだが、スープから始まるメニューはフルコースの様相を呈しており、マンダラ・ハットで満更でもない美食感覚を味わい、日も暮れるとやることがなくなるので小屋に篭城し、持参した寝袋の中でサナギのような一夜を過ごすこととなった。

12月30日(火)

早朝6時ごろ目が覚めたのでサナギから成虫に出世して抜け殻をたたんだ後、爽快な朝日を眺め、朝食をとっととすませて次の目的地に向けてスタートした。マンダラ・ハットには山頂から流れる水を利用した水洗トイレがあるのだが、もしハットを出て登山の途中で催してしまったらどうするのかガイドに聞いたところ、小か大にもよるのだが、とりあえず植物や岩の陰に隠れて済ますのが一般的であるということではからずも数時間後に私自身が実践することになってしまったのだ。

老廃物を排出して身軽になったところで登山のペースも上がってきたのだが、途中見慣れぬ寝台一輪車が登山道に放置されているのを発見した。その数時間後に寝袋に梱包された状態でマサに同モデルの一輪車で配送されている日本人とレスキュー隊に遭遇してしまった。その光景を目にして背中が凍りつくような恐怖を覚え、高山病を甘く見てはいけないと肝に銘じたのであった。

今日踏破すべく11.7kmの登山道はいつしか展望が開けており、数多くの美しい高山植物と険しい岩峰であるマウエンジ峰を眺めながら歩を進めていると雪を抱いたギボ峰がその山容を見せ始めた。そう、今回の究極の目的は世界最大のコニーデ型火山を形成するシラ峰、ギボ峰、マウエンジ峰の3つの峰の中で最高峰のギボ峰のウフルピークを目指すことに他ならないのだ。

出発から5時間程で今日の目的地である標高3780mのホロンボ・ハットに到着した。おなじみの4人用の小屋にチェックインするとポーターが洗面器にお湯を汲んで来てくれたので顔を荒い、近くを流れる川べりに繁茂するセネシオというサボテン状の植物に見入っていた。

ホロンボ・ハットは決してオンボロハットではなく、マンダラ・ハットと同様に太陽電池で電源を賄っており、雪解け水を利用したシャワーや水洗トイレも備えているのだが、何といってもそこから眺める太陽に照らされたギボ峰の姿は堂々とした威容を放っていた。また、ここは登りだけでなく下りの登山客も宿泊する設備であるため、いやがおうでも登頂の成否に関する情報が入ってくる。しかも日本人の登山客も数多いため、日本語でより生々しい話が聞けるのだ。

登頂の成否はすでに富士山の標高を越えているホロンボ・ハットでの高度順応に依存する場合もあるようでここで2日間を過ごすと成功率がかなり上がると聞いていたのだが、プロである私は自分にそのような甘えを許すことは出来なかったので、この日も薄い空気と時差ボケのせいでサナギの中で十数時間眠れない夜を過ごしながら迫りくる恐怖と闘っていた。

12月31日(水)

東の空が白みはじめた頃、成虫になれる程成熟していない状態でサナギを抜け出し、朝日に向かって体を慣らしていた。標高3776mの富士山は2回程軽く制覇しているが、今日からは全くの未体験ゾーンに足を踏み入れることになる。

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

午前8時前にホロンボ・ハットを後にすると、セネシオの茂る川沿いを抜け、高山植物の美しい花が群生している湿地帯に到着した。ここで先行するポーター達が水を汲んでいるのだが、次の地点のギボ・ハットには水道がないため、あらかじめ食事や飲料用の水を確保しておかなければならないのだ。この水場からさらに進むとLast Waterという文字通り最後の水場が存在するのだが、ここは現在水量不足のため機能していない様子であった。

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

やがて、植物限界を超えた登山道は砂漠のようなガレ地に様変わりしたものの、真っ青の空の下、迫りくるギボ峰を眺めながらさわやかなトレッキングはさらに続くのであった。私が仕切っているパーティの他の2人よりもかなり先行して歩いていると途中でアシスタントガイドと名乗る若者がどこからともなく姿を現し、最後は一緒にギボ・ハットまで同行することとなった。

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

標高4700mのギボ・ハットに到着するとさすがに酒を飲むと人の3倍くらい赤くなるほどの赤血球を持つ私であってもマイルドな頭痛に悩まされることとなった。血液中の酸素を運ぶヘモグロビンがまだ足りていないことが要因であるとも考えられるのだが、キリマンジャロ登山では毎月2~3人程がお亡くなりになられているため、ギボ・ハットを訪問した霊能力者の宜母愛子には見えるはずの霊の仕業ではないかと思われもした。また、4700mのキリマンジャロ山中での思考能力の低下により、誇大広告を取り締まるのはジャロ、大晦日に歌っている演歌歌手はジェロだという見分けもつかなくなっているし、ましてや桑田佳祐のように一人紅白を行う余裕もなかったのだ。

Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE
Exif_JPEG_PICTURE

ギボ・ハットの小屋は一部屋12人体制となっており、基本的には早い者勝ちで場所を取る事が出来るのだが、同じ部屋にいる哀れな日本人は先に場所を確保しておいたにもかかわらず米人女性にここは我々グループの場所だとイチャモンをつけられて他の場所に追いやられてしまっていた。

頂上で日の出を見るため、今晩中に出発しなければならないので夕食は午後4時半に供された。高山病のため食欲が出ない登山客を見越してかメニューはスープスパゲッティと非常にあっさりしたものであった。夕食後はとにかくサナギに入って意識を無くすことに集中したため、何とか1時間くらいは熟睡出来たのではないかと思われた。

午後10時15分にガイドが起こしに来ると言われていたものの10時には勝手に目が覚めたので早速出発の準備をすることにした。食堂には暖かい飲み物とビスケットが準備してあったので紅茶を飲み、食いたくもないビスケットを数切れ流し込んだ後、午後11時過ぎに出発となった。

今にも降ってきそうな星空を眺めながら、ヘッドライトの明かりを灯してガイドのウイルソンに続き頂上への一歩を踏み出した。尚、頂上へのアタックに関してはどの登山客も防寒対策を施し、2本のストックを頼りに登っていくのだが、私の装備はジャンパーの下にフリース、ジャージにタイツとかなり軽装かつシングルストックであったものの、ガイドは手袋を付ける代わりにポケットに手を突っ込み、しかもストックなしというマサに原住民にしか出来ないようなスタイルだった。

1月1日(木)

ハッピー ニュー マサよ!

ということで、カウントダウンは無かったものの道中登山客が鳴らしたクラッカーにより2009年の新年を迎えたことを思い知らされ、皆それぞれに「Happy New Year」と挨拶を交わしていた。登山道は火山礫や砂地で形成されており、ジグザグの登り道であるものの非常に歩きにくく猛烈な寒さの中ゆっくりとしか進めないため、いくらフリースを着込んでいても自分の肉体にバグがあるかのように何度もフリーズしてしまい、そのたびに再起動が必要となった。

人類の高度限界を超えている5500mくらいから急な岩場が出現し、ガイドの経路選択により何とか岩場を登りきり、午前4時50分にギボ峰のクレーターのへりにある標高5681mのギルマンズ・ポイントに命からがら到着したころには意識が朦朧とした状態であった。ウイルソンに体を抱えられ、とりあえずのギルマンズ・ポイント制覇の祝福を受けると休む間もなく、アフリカ大陸最高地点であるウフル・ピークへ向かって歩を進めた。

ウフル・ピークへの道のりは今まで登って来た登山道に比べて非常に緩やかだったものの暗がりからウルフの遠吠えのように吹いてくる強風により体感温度は著しく低下し、大阪漫才で言うところの「鼻の穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせたろ~かい」状態が終始続くこととなった。ところで先導するウイルソンはと言うと従来の堅調な足取りから多少欽ちゃん走りの兆候が見られるようになり、明らかに高山病の症状を発症していやがった。心の優しい私は通常であればウイルソンをおんぶしてでもいち早く頂上に這い上がっていたところであったが、それでは私が逆にチップをもらう立場になり、彼の山岳ガイドスピリッツに傷が付くのを恐れてその申し出は控えておくことにした。

マサよ、君はアフリカ最高峰で初日の出を拝んだものの酸素不足でお願い事をする余裕さえなく、普通に呼吸出来ることが最高の贅沢であることを思い知らされたことがあるか!?

ということで、午前6時15分を過ぎると東の空がオレンジレンジに染まり始め、ウイルソンのペースダウンにより、ウフル・ピーク到着を目前にして初日の出を迎えることとなった。とりあえず写真は1枚撮ったものの官僚の天下り制度が廃止になる前にマサに高額給与が給付される天下り先が見つかるように願をかける時間はなかったのだった!

午前6時40分、ついに標高5895mのアフリカ大陸最高峰に虫の息で辿りつくとウイルソンがハグを求めてきたのでバグのある肉体にもかかわらず軽くサバ折りで返したのだが、そのままバックドロップに持ち込む体力はもはや残されていなかった。頂上での唯一無二のアクティビティは当然のように記念写真を撮ることであるのだが、気温が氷点下に達しており、デジカメの使用温度を著しく下回っているため常温時下のようにバチバチシャッターを押すことが出来なくなっていた。

地球温暖化現象のためキリマンジャロ山頂の雪は減少していると言われているが、目の前には分厚い氷河が立ちふさがっており、眼下には弱肉強食と酒池肉林の営みが日々繰り返されているであろう広大なサバンナが広がっていた。頂上での滞在が我慢の限界を超えた頃、ウイルソンが堰を切ったように登山道を下り始め、思わず5000m級マラソンに参加させられた気分になった。すると暗がりでは見えなかったギボ峰のクレーターが太陽光線により白日の下にさらされ、ここに落下すると神様が準備してくれ~た~霊界の片道切符を手に出来ることが確信された。

高山病からいち早く回復したいウイルソンは下りのルートとしてスキーのゲレンデを彷彿とさせる急斜面を滑り降りる方法を選択しやがった。砂場のモーグル地帯と化している急斜面にはところどころ巨大な火山岩があたかもジャンプ台のように露出しており、通常であれば上村愛子のようにバックフリップを決めるべく第一エアーに差し掛かったところで着地に失敗し、左ケツを強打した際、マサであればケツが二つに割れるほどの衝撃まで覚えてしまった。

満身創痍になりながらも何とか午前9時半頃にはギボ・ハットに帰還することに成功し、疲労で食欲の無い状態でかろうじて朝食のスープをすすり、帰着が遅れているエチオピア大使館員を置き去りにして10時過ぎには9km以上先のホロンボ・ハットへ向かって歩を進めていた。尚、同行した佐賀人は極度の高山病に襲われ、ギルマンズ・ポイントには達したものの頂上への登頂を断念し、その後症状を引きずったままホロンボ・ハットまで帰ってきた。

数時間後に生きながらえて帰ってきたエチオピア大使館員も合流し、疲労のため部屋でもだえ苦しんでいるとウイルソンが登頂成功を祝して乾杯するための赤ワインを持ってきたのでもはやヘモグロビンも必要ないと思いながらも付き合ってやることにした。さすがに今日は寝不足と困憊した疲労のため、午後5時過ぎに夕食を取った後、一生羽化出来ないのではないかと思われる程、泥のように眠り込んでしまった。

1月2日(金)

朝起きるとキリマンジャロから注入された霊力のおかげで体力が120%回復していることに気づかされた。多くの登山客の後塵を拝しながらも貧困国スピリッツを発揮し、昨日の登山では辛くもウフルピークに到達したエチオピア大使館員と共に眼下に広がる雲海を眺めていると、登頂が成功するもしないも所詮は運かい?と考えていた。

午前8時前には登山ゲートに戻るべく18kmにもおよぶ道を歩き始めたのだが、グロッキー状態の佐賀人の回復が思わしくなかったのでポーターがポータルラジオから流れる軽快な音楽に乗って行き来しているのを横目にゆっくりと下山するしかなかった。昼過ぎにゲートに到着すると国立公園事務所でシリアルナンバーで管理されている登頂証明書が授与される運びとなった。尚、賞状の縁取りはウフル・ピークが金でギルマンズ・ポイントは緑としっかりと差別化がなされていたのだ。

昨晩の山小屋でガイドをはじめとする各隊員の勤務評定を行っていたので、浦島太郎がキビ団子を配る要領でチップの支払いを完了し、マイクロバスでホテルに戻ってきた。ホテルではタンザニア国内のツアーを取り仕切っている大手ZARA tours(http://www.zaratours.com/)からもキリマンジャロ登山ツアーの参加賞的な賞状がウイルソンの手から授与された。通常であれば記念写真でも撮るところであるのだが、ウイルソンが共にHappy New Yearを過ごした喜びを分かちあうためにさらなるお年玉を要求してきたので賽銭のつもりで10,000タンザニアシリングを奉納させていただいた。

部屋に戻り、シャワーで5日分の汚れをそぎ落とし、中庭でエチオピア大使館員とキリマンジャロ・ビールで祝杯をあげながら登山の余韻に浸っていた。夕食時に見も知らぬ外人達と登山の成果を報告しあっている頃、初日に出会った時はアルプスの少女ハイジが大人になったような雰囲気をたたえていたスイス人ギャルが高山病のため4700m地点で登山を断念したことをクララのようなクラーい表情で報告しにやってきた。一方、連れのペーター(仮称)はこちらに手を振りながら何事もなかったかのように飯をかっ食らっていやがった。ということで、いかに物知りな♪おしえておじいさん♪というブレインを持っていても高山病は実際に体験しなければ克服出来ないということが教訓として刻まれたのだ。

1月3日(土)

早朝ホテルをチェックアウトし、キリマンジャロ空港発PW721便プロペラ機に乗り込むとあらためてその偉大さを感じさせるキリマンジャロ山を横目にナイロビまで飛行していった。ジョモ・ケニヤッタ空港でDODOWORLDが手配した送迎車に乗り込むと今日の宿泊先であるCOMFORTホテルに早々と引き篭もった。

何とかキリマンジャロから生きながらえて帰ってきたばかりなので治安の悪いナイロビで危険を冒すことのないよう今日はホテルのバーやレストランでウダウダしながら有り余る時間をやり過ごした。

1月4日(日)

早朝4時半に迎えにきたDODOWORLDの職員は治安を考慮してか2名体制を取っていた。5時過ぎには空港に着いたのでしばらくラウンジでインターネットに接続し現世への回帰を図らせていただいた。SA183便ヨハネスブルグ行きは定刻7時30分に離陸し、快晴の空の下、機長の貴重な計らいでキリマンジャロ近辺を飛行していただくこととなった。私の座っている窓側からはクレーターの様子がくっきりと見えるのだが、ブラインドサイドから乱入してきたピントの合わせにくいデジカメギャルにしばらく狭い窓を占領されるはめに陥ってしまった。

午前11時頃O.R.タンボ国際空港に到着し、高利回りにつられて購入した南アフリカランド建て債券が南アフリカランドの暴落により大損害を被っている腹いせに免税品を買い占めようかと思ったが、ランドセル程度しか買えない現金しか持ち合わせていなかったため断念した。

1月5日(月)

SA286便にて13時間の空の旅を経て香港に到着。アップグレードされたNH910便のシートテレビで映画「鉄道員」(ぽっぽや)を鑑賞しながら鼠先輩の事を考えているうちに成田に到着。そのまま六本木に繰り出すことなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \63,210、南アフリカ航空 = HK$13,321

総キリマンジャロ登山ツアー旅行代 $1,995

総タンザニアビザ代 US$50

総ケニアビザ代 US$50

総チップ US$128、Tsh10,000

総登山装備レンタル代 US$5

総歩行距離 64km

協力 ANA、南アフリカ航空、DODOWORLD、ZARA Tours

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です