あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~
マサよぉ、君は見知らぬ北の大地で2人組のスリの集団にあやうく身ぐるみはがされそうになるところを何とかデジカメ1台の被害で食い止めたことがあるか!?
私は・・・・・あ”る!!!
ということで、今回は満を持してFTBに導入されたペンタックスの最新デジカメOptio W60がスリの被害に遭ってしまった(詳細は後述)ため、FTBオリジナル画像なしでのレポート作成を余議なくされてしまったわけで。
2008年7月19日(土)
ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!
ということで、燃料サーチャージの高騰の影響もあってか成田空港は連休の初日にもかかわらず閑散とした雰囲気で特に欧米行きの旅行客は少ない様子であった。その恩恵を受けたのかどうかわからないが、恒例のビジネスクラスへの無条件アップグレードを受けることが出来たので早速午前11時25分発のANA205便に乗り込みパリのシャルル・ド・ゴール空港に向かった。
パリからフィンランド航空に乗り換えて♪森と~泉に~か~こ~まれた~♪ヘルシンキに到着したのは夜の11時前であったのだが、西の空に残っている夕日を背にしながら空港に隣接しているヒルトンホテルにチェックインし、深夜に日が沈んだことを確認した後、ベッドに沈み込んだわけで。
7月20日(日)
空港のヒルトンホテルをチェックアウトすると空港バス(EURO5.9)でヘルシンキ市内に向かった。ヘルシンキ中央駅でバスを下車すると早速ヘルシンキの観光と洒落こんだ。ところで、NOKIAを要するモバイル王国フィンランドでNTTドコモの携帯を持っていると「のき~やぁ~」と締め出される恐怖感を覚えるかと思ったが以外と町中で携帯で話をしている市民は少なかったのだ。
フィンランドの最も有名な建物として白亜のヘルシンキ大聖堂がそびえており、その前の広場には数多くの観光バスが一時停車していた。ヘルシンキの中心街は波止場に面しており、マーケット広場というヘルシンキで最も国際色豊かでかつ有名な市場では数多くの露店が立ち、食料品や手工芸品が高値で取引されていた。
マーケット広場からフェリーに乗り、世界遺産に登録されているスオメンリンナ要塞に侵入した。スオメンリンナは、世界でも大きく、歴史ある要塞のひとつで1700年代、6つの島に建てられた駐屯地の街はフィンランドでも人気の高い名所のひとつとなっている。ここはスウェーデン・ロシア戦争、クリミア戦争などで重要だった要塞で、その名残として潜水艦や大砲が展示されている。
また、かつて戦艦を建造したドックやビジターセンター内にある博物館も見ごたえがあり、850人の居住民の生活さえおびやかさなければ子供からお年寄りまでみなで楽しむことが出来るのだが、宴会後のビールの缶やワインのボトル等のゴミは各自持ち帰るべきだと思われた。
2時過ぎにフェリーでマーケット広場に戻り、小腹がすいたので露店で鉄板焼きにされているWhite Fish(EURO6)を食うことにした。イワシ系のWhite Fishは頭からしっぼまで骨ごと食える魚で物価が高すぎることさえ頭をよぎらなければ非常に満足のいく食い物となるのである。
テンペリアウキオ教会という自然の床岩を切りだして作られた別名ロックチャーチと言われる教会に日曜日のミサが終了した3時半ごろにお邪魔させていただいた。ここはヘルシンキで最も人気のある名所のひとつで、教会の内部の壁は自然石で出来ており、その抜群の音響効果と雰囲気を利用したコンサートの会場としても利用されているわけで。
7月21日(月)
ヘルシンキ中央駅を7時23分に発車するシベリウス号に乗り込み一路ロシアのサンクト・ペテルブルグを目指した。フィンランドの出国、ロシアへの入国手続きはすべて車内で行われたため車外には一歩も出ずに6時間もの時間をかけて午後2時半前に念願のサンクト・ペテルグブルグ、フィンランド駅に到着した。
フィンランド駅から今回の宿泊先である☆☆☆ホテルのサンクト・ペテルブルグホテルまで徒歩で移動し、チェックインをすませ、部屋のショボさに軽く愕然とした後、街に繰り出すことにした。ホテルは観光スポットの少ないネヴァ川の右岸に建っているため、ネヴァ川クルーズを楽しんでいる観光客を見下ろしながらいくつかの橋を渡り、ネヴァ川左岸の観光地帯に侵入した。
サンクト・ペテルブルグの創設者が圧倒的な存在感で君臨するデカブリスト広場(元老院広場)にはピョートル大帝像である「青銅の騎士」がそびえており、婚礼の記念写真を撮っているウエディング軍団やワイングラスを持っていないひげ男爵の扮装をした有料記念写真サービス等で大変な賑わいを見せていた。ピョートル大帝像の南に金色の丸屋根が一際輝いているイサク聖堂が北島三郎の与作と同等の存在感で天を貫くかのようにそびえていたので外観のみ拝観させていただき、その勢いでネフスキー大通りになだれこんだ。
ネフスキー大通りはトルストイやドストエフスキーの作品にも登場するのでロシア文学のファンにはおなじみであるのだが、この通りは19世紀半ばの姿をそのまま残す大通りで非常に見どころが多いのである。また、ネフスキー大通りは3本の運河と交差しており、各運河からは遊覧船が出ており、サンクト・ペテルブルグが北のヴェニスと呼ばれるのも納得するくらいの高値で観光客を乗船させているのである。
ネフスキー大通りに交差する第二の運河であるグリバエードフ運河の近くにかつてナポレオン軍の軍旗が置かれたカザン聖堂が今にも噴火しそうな出で立ちで君臨しており、市民の格好の夕涼みの憩いの場所となっていた。さらに運河沿いを北上すると17世紀ロシア建築様式独特のねぎ坊主屋根が姿を現した。スパス・ナ・クラヴィー聖堂は血の上の教会の異名を持ち、1881年にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された際にロシア全土から募った寄付金によって建てられたわけで。
7月22日(火)
マサよ、君はサンクト・ペテルブルグに来てエルミタージュ国立美術館に来なければサンクト・ペテルブルグに来たことにはならないという不文律を知っているか!?
ということで、世界遺産に指定されているサンクト・ペテルブルグ歴史地区と関連建造物群の中心的存在であるエルミタージュ美術館(P350)に早朝より繰り出したのだが、チケット売り場には10時半開門の1時間前の9時半にはすでに長蛇の列が出来ていた。尚、その長蛇の列は閉館の数時間前まで途切れることはなかったのだ。
長時間の立ち仕事のためにすでに腰のあたりに重さを感じつつ、11時前に何とかチケット(P350)を入手するとバックバックをクロークに預け、エルミタージュの散策をスタートさせた。世界三大美術館のひとつであるエルミタージュのコレクションは、ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトロヴナ女帝によって始められ、その後、エカテリーナII世に引き継がれ、収蔵されている絵画、彫像、発掘品などは300万点にも上っている。
エルミタージュ=隠れ家という名前通りに内部は非常に複雑な構造になっており、3階建ての建物の中の展示室は400室にも及んでいる。また、元々は宮殿であったため、帝政ロシアの財力をつぎこみ、全世界から最高級の材料を取り寄せ、一流の職人を投入して作らせた内装と装飾品の数々が展示品と見事なハーモニーを織り成している。エルミタージュで一番の見ものは西欧美術のコレクションであり、マネやモネ、マチス、ゴッホ等の絵画が所せましと並べられている。とある一室ではふとスターバックスに押され気味であるものの新宿や渋谷等で根強く営業している老舗の喫茶店の感覚を覚えた。するとそこには印象派を代表するルノアールの絵画がキャンバス内の美女の笑顔と同等の眩さで観光客を虜にしていたのだった。
入口近くの女子トイレの待ち時間が1時間半であるというとあるツアーコンダクターの戯言を耳にしながら午後3時半過ぎにエルミタージュを後にするとネヴァ川に架かる橋を2つ渡り、遊覧船や戦艦を見降ろしながらペトロパヴロフスク要塞に向かった。チケット売り場で6つのファシリティが見学出来るコンボチケット(P250)を入手すると早速要塞の中心にそびえ立つペトロパヴロフスク聖堂に侵入した。高さ121.8mとサンクト・ペテルブルグで最も高い建築物の中にはピョートル大帝からアレクサンドルIII世までの歴代ツァーリ(ロシア皇帝)が埋葬されているのだ。
1703年5月16日にペトロパヴロフスク要塞の建築が始まったのであるが、くしくもこの日はサンクト・ペテルブルグ誕生の日となっている。湿地帯の島に要塞を築くことは容易ではなかったのだが、迫るスウェーデン軍からロシアを守るために突貫工事で建造されているのだ。尚、函館の五稜郭の見本となったといわれるこの要塞には建物の屋根に遊歩道が設置されており、そこから見下ろすネヴァ川の景色はマサにこれぞ世界遺産と言える代物なのであるわけで。
7月23日(水)
大江戸線の数倍の深さの大深度地下を縦横無尽に走っている地下鉄(P17)のプラットフォームを目指し、果てしなく続くエスカレーターを下り、古い車両のメトロに乗ってヴィチェプスク駅を目指した。そこからローカルの鉄道に乗り換えてサンクト・ペテルブルグの中心から27km程離れたエカテリーナ宮殿に向かった。エカテリーナ女帝の命により、ロシアバロック様式を代表する建築家の設計により1756年に完成した宮殿はおびただしい数の観光客が押し寄せるため、団体客と個人客に分かれて厳格な入場制限が敷かれていたのであった。
宮殿内の内装はそれはそれは見事だと言うことであり、特に2003年に修復なった琥珀の間は世界の奇蹟と賞讃されている代物だそうだが、今回は入場チケットを入手することが出来なかったので琥珀の間でコ~ハク歌合戦を実行し、徳永英明直伝の社会主義が崩壊し、レニングラードからサンクト・ペテルブルグへの変貌を遂げた自由主義の悲哀を綴った「レーニン・ブルー」を熱唱することもままならなかったのだ。しかしながら、宮殿内部への侵入の野望はついえたもののエカテリーナ宮殿の庭園(R180)には何とか潜り込むことが出来たので光り輝く宮殿を背にしながら♪輝きながら♪を口ずさみそれを最後の言い訳として英明には仁義を切っておいた。
午後再びサンクト・ペテルブルグに戻ってくると人類学・民族学博物館(P200)に入場すべく長蛇の列の最後尾にスタンバることにした。1時間待ちでロシア人の倍の外国人料金で何とか入場を果たし、疲れた足腰を引き摺って見学をスタートさせた。ここはエスキモーや正露丸を呑んで日露戦争に打ち勝った日本等のロシアにゆかりの人類学・民族学的展示物が多いのであるが、何故か奇形新生児のホルマリン漬けの展示品が数多く、観光客を好奇と恐怖のどん底に陥れていたわけで。
7月24日(木)
3日間お世話になったホテルサンクト・ペテルブルグをチェックアウトすると今ではすっかりおなじみとなったスパス・ナ・クラヴィー聖堂(P300、カメラP50)の内部を内見させていただくことにした。1881年にロシア皇帝アレクサンドルII世が暗殺された際にロシア全土から募った寄付金によって建立された通称血の上の教会の内部はそれは見事なモザイク画で飾られており、床の大理石の模様も見事に修復されていた。
サンクト・ペテルブルグ到着の初日に外観のみ拝観させていただいたイサク聖堂(P300、カメラP50)の内部に満を持してお邪魔させていただくことにした。高さ100mを超え、収容人数は1万4千人とも言われるロシア正教の聖堂は世界で3番目の大きさを誇り、内部を飾る壁画の数々は聖書の名場面や聖人を描いており、非常に見ごたえのある芸術作品となっている。
イサク聖堂の調査を終えた後、宮殿広場に建つ半円形の凱旋アーチを抜け、ネフスキー大通りに向かっていたときに何者かにつけられているような脅迫感を覚えたので100mくらい注意しながら歩いていた。また、私の斜め前方には携帯電話でしきりにしゃべっている男が私との距離を保ちながら歩いていた。違和感を感じた私がふいに方向転換すると二人はいきなり絵葉書やガイドブックを手に私に襲い掛かり、「ワンダラー、One Dollar」と叫びながら超強引な押し売りに変貌を遂げやがった。何とか身をこなしながら彼らの攻撃を数10秒間にわたって耐え、大通りにエスケープしてしばらくほっとしているとジーパンの左ポケットに収納しているはずのデジカメがなくなっていることに気付いてしまった。通常であれば再び彼らの元に戻り、力づくで盗品を奪い返すところであったのだが、言葉の通じない異国では逆に被害を拡大させてしまう恐れがあるので今回伝家の宝刀「泣き寝入り」を余儀なくされ、涙で濡れた枕もとで藁人形に五寸釘でも打って欝憤をはらすことにした。尚、当然のことながら、旅行先では命と同じくらい大切なパスポートや財布、現金等は何とか防衛することに成功したのだった。
というわけで、旅の記録が詰まったデジカメとSDメモリーを強奪されてしまったたという傷心を抱えて♪あの頃のぉ~ 優しさにぃ 包まれてたぁ お~もいでがぁ 流れてく この町♪をレーニンブルーのメロディーと「もやもや病」を発症した時の徳永英明の感覚を引き摺りながらヘルシンキへの帰途についたわけで。
7月25日(金)
早朝ヘルシンキ中央駅からフィンランド鉄道に乗り、1時間半の時間をかけて湖水地方のタンペレという町にやってきた。午前10時前に予約していたホリデーインに首尾よくチェックインすることが出来たので荷物を置くと早速観光をスタートさせた。
マサよ、君はカルピス子供劇場でおなじみのムーミンがここタンペレで誕生したというトレビアによりわざわざタンペレまで足を延ばさざるを得なかったことがあるか!?
ということで、サンクト・ペテルブルグで発症した「もやもや病」を完治させるためにタンペレ市立美術館ムーミン谷(EURO4)に癒されに行った。ここにはムーミンの声を担当した岸田今日子のナレーションは無いものの原作者のトーべ・ヤンソンによる原画のイラストやムーミンの話に描かれた出来事を表現する立体模型が数多く展示され、おさびし山での寂しさを紛らわすことが出来るにょろにょろしたファシリティとなっている。
♪レーニンブルー も~おぉ~ 終わった は~ずなのにぃ~ レーニンブルー いつまで おいかけるのぉ♪
というわけで、フィンランドの独立に貢献し、ロシア革命の時期に何度もフィンランドに匿われていたレーニンにゆかりのレーニン博物館(EURO5)に♪あなたの まぼろしぃ 消す♪目的で入って見ることにした。受付で日本語の説明ガイドブックを借り、レーニンの生い立ちや社会主義活動を綴ったパネルや展示物を見学していると再び「もやもや病」の症状が再発してしまったために、世界初のスパイ専門の博物館であるスパイ博物館(EURO7)でスパイスを効かせた逆療法を試みることにした。ここでは表の政府よりも世界の歴史に大いなる影響をおよぼしたスパイ達の諜報活動を支えた秘密の道具等が展示されており、よく人質の命と引き換えに要求されるマイクロフィルム等の実物を間近に観察することが出来るのだ。しかしながら、冷戦時代の主流であった盗聴器は今ではホームセンターで購入出来る代物に成り下がってしまっているのが残念である。
タンペレ市内には200湖を超える湖があり、ランチやディナークルーズ等の遊覧船も数多く出ている。しかし、ここでの特筆すべき事実は携帯電話で世界の通信市場を制覇したノキア市が隣接していることであり、実際にタンペレにも数多くのノキアの従業員が高い通信料を払いながら暮らしているという。また、ノキア社やその営業所をめぐるツアーも存在しているとのことで、携帯マニアにはたまらない地域であることは間違いないわけで。。。
7月26日(土)
タンペレからヘルシンキに戻り、ヘルシンキ大聖堂の内部がサンクト・ペテルブルグのイサク聖堂に比べて随分地味であることを確認した後、マーケット市場に乱入し、サーモンスープ(EURO5)を食ってブランチとした。その後、観光客や地元の原住民で賑わうヘルシンキ市街の喧噪を見ながら空港バスでヘルシンキを後にした。
午後4時発のフィンランド航空873便にてパリに戻り、ANA206便に乗り換えて帰国の途についたわけで。。。。
7月27日(日)
午後2時半に成田空港に到着し、そのまま流れ解散。
♪人影も見えない午前零時♪に眠りにつこうとしたが、時差ボケの関係で♪寝たふりが~ こ~んなにつらいことだと~は♪思いもしなかった時、レーニンブルーが実は♪レイニーブルー♪であったことを知り愕然としながら徳永英明への最後の言い訳を考えていたわけで。。。。。。。。。。。。。。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA ¥214,880 フィンランド航空 EURO263.13
総宿泊費 フィンランド EURO 358、ロシア ¥34,200
総空港バス代 EURO 5.9
総フィンランド鉄道代 ¥32,700
総ロシア地下鉄代 P17 (P1 = ¥4.6)
総ロシア鉄道代 P72
総ロシアビザ代 ¥5,000
総ビザ取得代行手数料 ¥5,250
協力 ANA、フィンランド航空、フィンランド鉄道、ジェーアイシー旅行センター