FTBではこれまでマヤ文明、アステカ文明、エジプト文明等数々の古代文明の謎を解明してきたが、今回はインカ帝国調査委員会を立ち上げ、捏造ではない本物の謎の究明に立ち向かうため、ペルーへと旅立つことにしたのである。
2007年8月11日(土)
盆、暮れの繁忙期にはエコノミークラスが満席となるため必ずビジネスクラスにアップグレードしていただけるNH8便サンフランシスコ行きに乗り込むと追い風にうまく乗り切れないため1時間の遅れを出しながら午前11時にやっとのことで地元サンフランシスコに到着した。早速BARTでバ~とダウンタウンに滑り込むとその足でサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークに向かった。
今回のMLB観戦のハイライトはスーパースター、バリー・ボンズの756号ホームランボールの争奪戦に勝利し、そのボールを福岡に持ち帰り王監督のサインをもらってe-Bayに出品し、高値で売り抜ける予定であったが、すでに兵どもが夢のあと状態だったため、何の変哲もない野球観戦に成り下がってしまっていた。桑田が桑わっ田ピッツバーグ・パイレーツとの試合は午後12時50分にプレーボールとなったのだが、私が見たかった出来事であるボンズのホームラン(758号)と桑田の登板はすでに昨日の出来事となってしまっており、今日はボンズは休養日で大量リードで勝利したパイレーツは桑田を出す機会がなく、唯一の見所は過去の遺物となった投手が捕手のサインを覗き込む時の「パイレーツだっちゅ~の」のポーズだけであった。
野球観戦終了後、次のフライトまでの空き時間を潰すべく、$5に値上されているケーブルカーには乗らずにその横を歩きながらダウンタウンの観光を実行することにした。夏休みの観光スポットはどこも家族連れで賑わっており、ケーブルカー乗り場には長蛇の列が出来ており、観光客は箱乗り状態でアップ・ダウンを楽しんでいた。
8月12日(日)
思わず相方のトシに「欧米か?」と突っ込まれそうになるタカ・ペルー航空が運航する午前1時20分発TA561便にチェックインする際に目的地は「南米か?」と聞かれたのでペルーのリマだと答えておいた。4時間以上のフライトで中米エル・サルバドルの首都サン・サルバドルに到着し、この空港で5時間近くを座り心地の悪い椅子の上で不貞寝をしてやり過ごし、さらに5時間以上のフライトでリマのホルへ・チャべス国際空港に到着したのは夕方の6時半過ぎであった。何故か手元にあったユーロを現地通貨であるソルに両替した後、本日の宿泊地であり、セントロに位置するシェラトンホテルまでの交通機関を探していると日本の三井物産が経営しているMITSU TAXIに捕まってしまったので仕方なく、相場より高いUS$27を支払って実車することにした。ホテルまでの道すがら、私を上客だと判定した運転手から巧みな営業を仕掛けられ、今後空港までの行き来に関してはすべてMITSU TAXIをチャーターすることになってしまった。
8月13日(月)
STAR WOODSのポイントが余っていたため、マサであればUS$100以上かかるところを私はただで宿泊することが出来たシェラトンホテルをチェックアウトすると、早朝7時に迎えに来たMITSU TAXIに乗り込み、昨日着いたばかりの空港に舞い戻った。リマ ⇔ クスコ間のフライトは多くの航空会社が参入し、競争が激しくなっているのだが、その中の代表的なエアーラインであるアエロ・コンドルを選択しようとしたところ「混ンドル!」と拒否されるのを恐れてWEBから容易に予約の出来たSTAR PERUの1117便に搭乗し、午前9時15分にリマをコンドルのように飛び立った。上空から下界を見下ろすと茶色い不毛の大地が果てしなく広がっており、起伏に富んだアンデスの遠景を鳥瞰することに成功した。
午前11時前に標高3,399mのクスコ空港に着陸し、空港外でラジオタクシーを捕まえると翌日に控えたマチュピチュ行きの列車のチケットを現地手配すべく、ワンチャック駅へ向かった。南米独特のスローサービスにより、何人もの旅行者がチケット購入待ち状態になっていたのだが、皆文句も言わずに待合室でインカ帝国探訪に思いを馳せており、怒りの火花が導線に引火することもなかったのだ。
駅到着1時間後に何とかチケットの購入に成功すると念願の古都クスコ(世界文化遺産)の散策に乗り出すこととなった。クスコはかつて北はコロンビアから南はチリ北部まで、南北4,000kmもの地域を支配していた南米最大の王国、インカ帝国の首都であった。1534年にスペイン軍の侵攻を受けると町は崩壊したのだが、新たに精巧なインカの石組みを基盤としたスペイン風の街並みが建造されたのだ。その代表的な建造物としてサント・ドミンゴ教会(S/.6)がインカの石組みに支えられた状態で今なお堅牢さを誇っているので手始めに見学させていただくことにした。ここはインカ時代にはコリンカチャ=太陽の神殿として君臨し、内部は眩いばかりの金で装飾が施されていたのだが、黄金に目がくらんだスペイン人がすべて略奪し、延べ棒に変換して本国に送信してしまったのだ。しかし、黄金がなくなった今もその美しい石組みは健在でインカの建材加工の精密さを長きにわたって伝承しているのだ。
200mも続く石組みが残るロレト通りを歩いていると高地での酸素不足からろれつが回ってないのを感じながらも何とかクスコの中心であるアルマス広場に到着した。スペイン式町造りは中心にアルマス広場をおくことから始まるのであるが、偶然にもインカ帝国の町造りも広場が中心だった。ここは広場を見下ろすカテドラルをはじめ、レストラン、旅行会社、土産物屋に囲まれた最大の観光拠点となっている。
髭剃りメーカーのジレットがじれったく感じる「カミソリの刃1枚すら通さない」と言われるインカの石材建築を象徴する物件として宗教芸術博物館があり、その建物を支える礎石として12角の石が有名である。通常の石組みであれば4角形で十分なのだが、あえて難度が高い多角形に挑戦し、ピッタリと寸分の隙間もなく、しかも接合剤も使わずに組み上げ、数度の地震を乗り越えながら何百年もの間ビクともしていない様子は日本の城郭を支える石垣とは趣の異なる美意識を感じさせる代物である。尚、12角の石よりも小ぶりであるが、近辺に14角の石もひっそりと佇んでいるのだ。
夕暮れ時にアルマス広場に立ちふさがるカテドラル(S/.16)に侵入した。この物件はインカ時代のピラコチャ神殿の跡に建造されたもので、1550年に建築が始まって完成したのは100年後と言われている。内部にはトポシの銀300トンを使ったメインの祭壇が鎮座しており、約400ある宗教画の中ではクスコ名物のクイ(テンジクネズミ)が盛られてある「最後の晩餐」が目を引いた。
マサよ、君は空気が薄くて寝苦しい夜を過ごしたことがあるか!?
楽天トラベルに予約させておいたSan Agustin Plazaホテルの予約が通っていないという危機に直面したため、系列のSan Agustin Internationalと交渉し、新たにディールを成立させて宿泊したその夜は高地に位置するクスコの空気が薄いため、呼吸困難を経て意識不明状態に陥り、見事睡眠状態を達成するという荒業が完成されたのだった。
8月14日(火)
午前5時前に何とか蘇生し、5時より供されている朝飯を食ってホテルをチェックアウトし、マチュピチュ行きの列車が発着するサン・ペドロ駅に向かった。クスコからマチュピチュへは鉄道でアクセスするのが一般的になっており、通常早朝に数本の列車が出るのみである。午前6時15分に発車したビスタドームと呼ばれるパノラマ列車内ではペルーの旅行会社であるミッキーツアーの日本語をしゃべるペルー人のツアーガイドに席が進行方向ではないと文句を言っている日本人観光客の愚痴と隙間風のように入り込んでくるディーゼルの排気ガス以外は快適な環境が提供されていた。4,000m超の山を越えるため、3回のスイッチバックを繰り返しながら列車はゆっくりとクスコの街並みを見下ろすように進み、その後車窓は次々にとうもろこし畑、アンデスの雪山、マチュピチュ近辺のジャングルといったものを映し出していった。
わずか114kmの距離を4時間以上かけてマチュピチュ村にあるアグアス・カリエンテス駅に10時半頃到着し、観光案内所でマチュピチュの入場券(S/.120.50)を購入するとシャトルバス(US$6)に乗り込みつづら折の未舗装道路を30分くらいかけてマチュピチュの入り口に登りついた。インカ帝国を語る上で数々のテレビ番組で「空中都市」、あるいは「失われた都市」として取り上げられているマチュピチュ(世界文化自然複合遺産)は15世紀前半、スペイン軍によるインカの都市の破壊を免れるために標高2400mに造られており、無傷のままインカ帝国滅亡から400年近くを経過した1911年にハイラム・ビンガムに発見されたのだ。
午前11時過ぎより早速マチュピチュの謎の解明に取り掛かることにしたのだが、手始めにマチュピチュの背後にそびえる峰であるワイナピチュに登頂することにした。ワイナピチュへの入山は一日400人に限定されており、何とか400番目の入山権利を首尾よく入手すると断崖絶壁で急勾配の道をピチュピチュと汗を滴らせながら進むトレッキングをスタートさせた。眩い太陽の下、過酷な坂道を40分ほど登ると、頭上にインカの遺跡が見えてきた。さらに岩の下に空いた洞窟を抜けると頂上に到達し、巨大な岩の上で多くの観光客がマチュピチュの遠景や周囲の山々を覆うジャングルの景色に見入っていた。頂上からマチュピチュを見下ろすと遺跡が尾根にあるのがよくわかり、そこに到達するためのシャトルバスの路線がつづら折状に山間に美しくつづられているかのようだった。
ワイナピチュから滑落することなく来た道を逆方向にチュピチュピと下山することに成功したので遺跡の隅々を隈なく調査することにした。マチュピチュの食生活を支えるために重要な役割を果たしていた段々畑が大きなスケールで広がっており、遺跡の中心部には石を削って造られた水路が張り巡らされ、きれいな山水が流れていた。また、遺跡の中央には太陽の神殿が君臨しており、石で描かれた美しい曲線が目を引いた。神殿の下は陵墓になっており、ミイラの安置所だったと思われる。
マチュピチュの最高点にインティワナと言われる高さ1.8mの日時計が時を刻んでいる。その眼下には糸のように細いウルバンバ川とめまいをおこしそうな絶壁が見下ろせる。高台に沿って神聖な広場と3つの窓の神殿を抜け、市街地を通り過ぎ、最も定番のマチュピチュの風景が撮影できるポイントである見張り小屋に登った。記念写真の順番待ちをする観光客の合間を縫って風景を撮影していると飼いならされているリャマの集団に遭遇し、砂浴びの砂嵐を見舞われてしまった。
マチュピチュを発見したアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムの名を冠したバス道ではなく、下山道はジャングルを切り開いた階段道を選択し、1時間ほどで麓のマチュピチュ村に帰った来た。ミッキーツアーによる日本人観光客に占拠されているHOSTAL ELSANTURIOにチェックインした後、村の散策に乗り出すことにした。村長の多忙さを尊重して面会は申し込まなかったものの、村内にはインターネットカフェやトレッキングで疲れた肉体を癒すためのマッサージ屋、さらにはアンデアンスパという温泉まで沸いているのだ。
8月15日(水)
早朝よりバスに乗り、再びハイラムビンガムロードをくねくねとドライブし、マチュピチュの入り口に到着した。ここで直面した衝撃の事実は大金をはたいたにもかかわらず、入場チケットは有効期間は3日であるが、1回入場すると無効になるという事実が私の理解しないスペイン語で書かれているということであった! やむなく空中都市から地上に舞い戻ると列車の時間を変更してもらい、9時15分発のオリャンタイタンボ行きのバックパッカー列車に乗車した。
6000m級の山々に囲まれたインカの聖なる谷のほぼ中心に位置するオリャンタイタンボ(S/.70=周遊チケット)はインカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれており、300段の階段に沿ってタンボの代わりに段々畑が斜度45度の斜面に造られている。300段の階段を登りつめると広場に出た。広場の周辺には恒例のインカの石組みが続き、中央には6個の巨石を並べた不思議な建造物が残っている。一説によると太陽の神殿の作りかけではないかと言われているが、いずれにしてもこの急斜面をどうやって持ち上げたのか謎は残ったままである。
オリャンタイタンボで乗り合いタクシーに乗りあって午後5時くらいにクスコに戻ってきた。街中では何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物に遭遇し、原住民ギャルが脚線美を見せ付けるように踊り狂っていた。夕暮れ時にクスコの市街を見下ろせる高台にあるサン・クリストバル教会に息を切らせて駆け上がり、たそがれる夕暮れの風景にインカ帝国への思いを馳せることにした。
アルマス広場に戻り、民芸品を売りつけようとするアンデスの民の攻撃を避けながら、日本食堂であるKINTAROに非難し、マスの塩焼きを食っていると熊と相撲を取ったときのような振動を感じて思わず店員と顔を見合わせてしまった。これが何百人もの命を奪った大地震であることをその時点では知る由もなかったのだった。
8月16日(木)
早朝7時30分発のSTAR PERU航空でリマに戻り、待ち構えていたMITSU TAXIでダウンタウンに向かい、かつてフジモリが仕切っていたペルーの心臓部への侵入を果たした。1535年の建設以来、、南米におけるスペイン植民地の中心として栄えたリマは今では旧市街のセントロと新市街のミラフローレンス地区に分かれているのだが、まず手始めに世界文化遺産に登録されているセントロの中心であるアルマス広場を訪問した。
アルマス広場の正面に堂々とそびえているカテドラルはコンキスタドール(征服者)の総督フランシスコ・ピサロにより」礎石が置かれ、リマ建設と同時に建立されたものだ。その脇には1587年建造のペルー政庁が構えており、毎日正午を迎えると衛兵交代式が行われるので話の種に軽く見学させていただいた。
旧市街で最も美しいと言われるサン・フランシスコ教会・修道院に宗教博物館(S/.5)が開館していたのでスペイン語のガイドツアーに便乗させていただくことにした。丁度現地在住であると思われる日本人のおじいちゃんを訪問した家族集団と一緒だったのでおじいちゃんの中途半端な解説を聞きながらのツアーとなった。ここでの最大の見所は地下にある墓地カタコンベである。天井の低い暗い地下室には長方形の囲いの中に人間の手足の骨が詰め込まれ、さらに奥にある大きな穴の中にはドクロが渦状にまるで芸術品のように並べられているのだ。
セントロのアルマス広場とサン・マルティン広場を結ぶラ・ウニオン通りを通っているとどこぞの国のTV局の取材クルーが地震被害の取材を行っている様子でガラスが軽く割れているビルは立ち入り禁止の黄色いテープが施されていた。
すでにリマでの定宿となった旧市街のはずれに位置するシェラトンホテルから新市街へのシャトルバンが出ているので便乗してミラフローレンス沿岸沿いにあるラルコ・マルというショッピングモール、ダイニング、エンタメ系の複合ファシリティにたどり着いた。ラルコ・マルの展望台からは太平洋が一望出来、そこから徒歩10分位のところに位置する恋人達の公園という海岸公園には日本柔道協会が公認しそうなケサ固めによる押さえ込みのモニュメントが置かれていた。
8月17日(金)
早朝より再びアルマス広場を訪れ、2001年に破綻したフジモリ政権に別れを告げると、ホテルに迎えに来たMISTU TAXIに乗り込み、空港への帰途に着いた。尚、今回の地震で最大の被害を受けたイカ州はナスカの地上絵の観光拠点となっている場所で今回は予定していなかったのが幸いした。もしイカにいた時に地震に遭遇していたら崩壊したビルの下敷きとなり数日後にスルメの状態になって発見されていたかも知れない。
リマのホルへ・チャべス空港からTACA PERU航空に乗り、再びサン・サルバドルを経由してサン・フランシスコに帰る機内で黄色い液体であるインカコーラを痛飲しながら、ペルー人にイイン加減な奴だと思われることなく帰路に着いた。
8月18日(土)
サン・フランシスコよりNH7便に搭乗し、機上の人となる。正露丸を飲みながら乗務している気分の悪そうなスチュワーデスがいたが、救いの手を差し伸べることが出来なかった。
8月19日(日)
ペルーで地震が起こった時には無事帰国出来るかどうか自信がなかったが、何とか成田空港に到着し、そのまま流れ解散。しかし、むしろこの地震を理由に会社には帰国出来なくなった旨を伝え、ボランティア活動に移行すべきではなかったかとも思われた。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥207,290、TACA航空(UNITED) = ¥96,690、STAR PERU = US$209.44
総ペルー空港使用料 US$42.5
総宿泊費 S/.1,007.16、US$99.96、¥6,000
総BART代 US$10.3
総MITSU TAXI代 US$108
総ペルータクシー代 S/.20
総PERU RAIL代 US$96.5
総マチュピチュシャトルバス代 US$12
総サンフランシスコタクシー代 US$16
協力 ANA、TACA航空、STAR PERU航空、STAR WOODS、MITSU TAXI、PERU Rail