アラビアの石油成金小国ツアー in カタール、バーレーン

マサよ、君は1993年10月28日にドーハで起こった悲劇を覚えているか!?

というわけで、カズ、ラモス、都並、柱谷等が寸でのところでワールドカップ初出場の切符を掴みそこなったあのいまわしいドーハを首都とするカタールがその時の状況をどう語~るのか現地に行けばわかるのではないかとの期待を抱いてアラビア半島では小国ながらプレゼンスの高い国々へのツアーが急遽催行される運びとなったのだ。

2012年1月15日(日)

イスタンブールを日本国内に知らしめるのに多大な貢献を果たした庄野真代ではなく、トルコ航空がスポンサーになっているマンチェスター・ユナイテッドの主力選手の肖像が機体にプリントされた14:40発TK51便、B777-300ER機に乗り込むと選手の面々も出演を果たしている機内のセキュリティビデオを見ながら成田空港を後にした。

同日の20:00頃に♪夜だけ~のぉ~ パラダイ~スぅ♪に到着し、引き続き21:30発TK774便バーレーン行きに乗り換えると機上で眠れぬ夜を過ごすこととなった。

2012年1月16日(月)

TK774便がバーレーン国際空港に到着したのは丑三つ時あたりであったのだが、空港内のファシリティは免税品店も含めて24時間アクティブな様子で、Transferデスクでカタール航空の搭乗券を入手すると5:15発QR151便ドーハ行きに乗り込んだ。飛行機が離陸して30分程すると後半ロスタイムにショートコーナーからカズを交わしてセンタリングを上げられ、頭で合わせたボールがなすすべも無いキーパー松永をあざ笑うかのようにゴール隅に吸い込まれるような感覚を覚えると悲劇の舞台となったドーハ上空に差し掛かっていることに気付かされた。

ドーハ国際空港では入国審査と同時にビザが取得出来るので、ビザカードでQR100を支払い、カタールへの入国を果たすとようやく東の空から太陽が昇ってきた。ドーハ中心部は空港からそんなに離れていないので青空に突き抜けているモスクの尖塔を見上げながら徒歩でカタール国立博物館を目指したのだが、改修中で閉館しているご様子だったので近代化された街中をあてどもなく彷徨ってみることにした。

「世界で最も退屈な町」と言われていること自体がドーハの悲劇であると思い知った街並みはオイルマネーの投入による建築ラッシュで近代的なビルがニョキニョキと建っているのだが、どうもアラビアの情緒は欠けてしまっているようだ。

古き良きアラビアのかけらを求めて歩いていると春を思わせる陽光の下で不貞寝を決め込んでいるラクダの楽園の向こうに白光りする伝統的な建造物を発見した。ドーハで最も古い建物のひとつであるドーハ・フォートはイギリス軍の侵略を防ぐ目的で建てられたものだそうだが、結局カタールは大英帝国の手中に落ちて手篭めにされてしまったという悲劇を味わっているのだ。ドーハ・フォートの外壁は白く塗りなおされているのだが、中にはこれといって何も無く手持ち無沙汰のまま外壁沿いの展望スペースを一周して撤収することとなった。

ドーハ・フォートから北に向かい、かすかに見える海を目指して歩いていると管理された芝生と花々に彩られたグランド・モスクが姿をあらわした。その傍らにピンク色が鮮やかなクロック・タワーが建っていたので近寄ろうとしたところ、警備員の手が手招きとは逆の方向に振られていたのでこのあたりはイスラム教徒以外の観光客は入ってはいけないところだと思い知らされた。

グランド・モスクに隣接する豪勢な首長の館の向こうには真っ青なアラビア湾(ペルシア湾)が輝いていたのだが、車社会のカタールでは歩行者が大きな道路を横切るためには大幅な迂回を強いられるため、今日は早々とグランド・カタール・パレス・ホテルに引き篭り、インド料理のブッフェを詰め込んだもののヤケ酒も食らえずに退屈な夜を過ごさざるを得なかったのだ。

1月17日(火)

秋田県程度の大きさの国土に180万人の人口を抱えているカタールであるが、その大半は首都ドーハに集中している。経済は主に石油と天然ガスに多くを依存してきたのだが、近年は観光事業にも力を入れ「世界で最も退屈な町」からの脱却を図っている。今朝はその変貌の過程を見届けるために高層ビルが並び立つ沿岸部まで足をのばしてみることにした。

沿岸部に行く途中で昨日から気になっていたとぐろを巻いている高いビルに接近したところ、Qatar Isramic Cultural Centerという看板が掲げられていたので試しに入ってみることにした。広々とした内部にはイスラムの歴史に関する説明資料が展示されており、多くの欧米人観光客が興味津々の面持ちでイスラムに対する理解を深めようとしていた。

ドーハの沿岸部は大きな弧を描いており、停泊しているレトロな木造のダウ船や林立する摩天楼と青い海が絶妙のコントラストを醸し出している。きれいに整備された遊歩道を歩いているとかつてここが真珠の産地であった名残を残すミキモト垂涎の真珠貝のオブジェがぱっくりと口を開けてカメラを持つ観光客を待ち受けていた。

カタールを語る上で重要な出来事は2006年12月にドーハで行われたアラブ諸国初のアジア大会であるが、その当時のマスコットらしき野郎も現役のオブジェとして湾岸の風景に溶け込んでいた。

遊歩道を3km以上歩いたところで遠巻きに眺めていた摩天楼が間近に迫ってきたのだが、よく見るとほとんどのビルが建設中でビル群の中には作業員以外の人の流れがなく近代化したゴーストタウンの様相を呈していた。

ヒルトン、シェラトン、フォーシーズンズ、インターコンチネンタル等の高級ホテルが並び立つ湾岸エリアに程近い場所に中近東最大級の規模を誇るシティ・センターという大型ショッピングモールが退屈な町での行き場のない金を集めているようだったので見物しに行くことにした。吹き抜けのシティ・センター中央の基盤は浅田真央であれば退屈することのないスケートリンクになっており、映画館、ブランドショップ、レストランの数も豊富で40℃を越す夏場には絶好のインドア避暑地として賑わうことが約束されているのだ。

シティ・センターで程よく時間潰しが出来たので4kmにも渡る沿岸の遊歩道をドーハの中心部に向かって引き返すことにした。夕暮れ時になると人々は遊歩道に設置されたベンチに集い、忍び寄る猫をマークしながら各自持参した食い物を広げて一日の終わりをのんびりと過ごしていた。

日が落ちるとライトアップされたオブジェや摩天楼が輝き始め、酒が飲めないという悲劇を除いて人々はすっかりアラビアにいることを忘れてしまっているかのようであった。

1月18日(水)

ドーハ市内でアラビアの雰囲気を味わうことが困難だと感じたので2007年に沿岸部にオープンしたイスラム・アート美術館(QR25)に展示されている財宝を見て溜飲を下げることにした。

博多名物にわかせんぺいを連想させるような外観を持つ美術館内に展示されている代物はにわかイスラム研究者もおもわずうなるほどの貴重品ばかりであったのだが、古いコーランに書かれているアラビア文字よりも皿や陶器に描かれているへたくそな絵のほうが当時の生活模様を如実に表しているように感じられた。

美術館の裏手には臨海公園が整備されつつあり、安楽椅子に座って対岸の摩天楼を眺めながら至福の時を過ごすことが出来るように配慮されている。尚、イラクに同点ゴールを決められた瞬間にベンチから転げ落ちたゴン中山のような悲劇を起こさないために椅子にはしっかりとした手すりが取り付けられていたのだった。

退屈とリフレッシュが表裏一体となっているドーハを後にすべく、17:05発QR160便に乗り込むと50分程度のフライトでバーレーン国際空港に帰ってきた。ここでもBHD5の支払いで入国審査時にビザを入手すると時速300kmでサーキットを疾走するような刺激を求めてバーレーンに入国した。

アラビア湾に浮かぶバーレーンは奄美大島とほぼ同じ面積を持つ小島国でありながら、110万人もの人口がひしめきあっている。アラブで初めて石油を採掘した実績を誇るバーレーンだが、その石油もあと20年しかもたないので近年は観光にも力を入れているという。その成果としてF1の誘致にも成功し、2004年に中東で初めてのF1が開催されて以来、毎年春先のバーレーン・グランプリの時期には音速の貴公子たちがおびただしい観光客を伴ってこの地にやって来ているのだ。

バーレーン国際空港から首都マナーマの市街地へはタクシーで行くのが一般的なので早速タクシー乗り場で順番待ちをしていた1台に乗り込み、運転手が時々メーターをたたいているのが気になったものの、相場のBHD5でConcord International Hotelに到着した。インド人が経営する同ホテルは設備は古いが部屋は広々としており、24時間営業のレストランやバーも併設されている。バーレーンはイスラム国家でありながら戒律が緩やかなために飲酒が認められており、そのせいか深夜過ぎまでディスコティックな喧騒が絶えず、善良な宿泊客の安眠の妨げとなっていた。

1月19日(木)

マナーマ市街地の中心部にあるホテルを出て市民の生活ぶりや人間模様を観察するために周囲を歩くことにした。たまたま行き当たった巨大なマーケット群は野菜、果物、魚系に建屋が分かれており、この国の多様な食文化が所狭しと並べられた新鮮な食料品の供給により支えられていることが実感出来るのだ。

南アジアからの出稼ぎ労働者の足となっているものの富裕層が乗らないために運営状態が良くないバスターミナルから適当なバスに乗り、勘をたよりに適当な所で下車して歩いていると何故か地元のアラビア人に呼び止められたので、これ幸いとバーレーン・フォートへの道筋を尋ねたところ身振り手振りを駆使したアラビア語で教えてくれたので何とか方向性だけは理解することが出来た。

マナーマ中心部から西に5km程離れた沿岸部に静かに佇むカラート・アル・バーレーンは通称バーレーン・フォートと呼ばれ、アラビア半島の数少ない世界遺産のひとつとして君臨している。

かつてメソポタミアとインダスをつなぐ中継貿易の拠点として栄えていたこの地は、その後もいくつもの都市が積み重なるようにして造り上げられ、現在残っている遺構は1512~1622年にわたりバーレーンを支配したポルトガルが残した城砦跡である。

バーレーンを代表する観光地としての整備が急がれるバーレーン・フォートの傍らにはカラート・アル・バーレーン美術館(BHD0.5)も開館しており、悠久の時を経て受け継がれた発掘品の数々がセミ貸切状態の観光客の興味を引いていた。

バーレーン・フォートからマナーマに戻る幹線道路の周辺はマサに大型ショッピングセンターの見本市と化し、地元のバーレーン人やキング・ファハド・コーズウエイという総延長25kmの橋を車で渡ってやってくる隣国のサウジアラビア人の旺盛な購買需要を満たそうという努力の結果が見て取れた。

数あるショッピングセンターの中で最大最新のものは2008年にオープンしたシティ・センターで巨大な駐車場には自家用車が列を成し、正面入口前には多くのタクシーが整然と並んでいた。ドーハのシティ・センターの目玉はアイススケートリンクであったのだが、ここには高波が起きるプールがあるらしく、緑のムーミンもどきが客の気を引こうと躍起になっていた。

マナーマ北部の沿岸に商業、居住区、娯楽などの施設が集まったファイナンシャル・ハーバーが建設中で、あたかもドーハと競っているかのようにユニークな形をしたビル群の建設ラッシュとなっていた。中でもワールド・トレード・センターはすでに完成しており、ツインタワーの間を取り持つ渡り廊下には何故か風車のようなものが取り付けられていたのだった。

1月20日(金)

昨日は洗練された近代ショッピングセンターの中で商いの様子を見ていると飽きないと思ったので今朝はバブ・アル・バーレーン(バーレーン門)の南に広がる伝統的なスークに巣食っている商人を見学することにした。

スークではカラフルな布地やドレスを売る店が多かったのだが、辺りには特徴的なモスクもいくつかあり、印象的な絵が描かれた垂れ幕のようなものが特に目を引いた。

ドーハを「世界で最も退屈な町」とするとバーレーンは世界で2番目に退屈な所ではないかとの疑念が沸いてきたので、バス・ターミナルに行ってバーレーン中部にあるインターナショナル・サーキットや1931年にアラビアで最初に発見された第1号油井の隣の石油博物館へのアクセスを模索したが、埒があかなかったのでマナーマの10km程南にあるイーサ・タウンまでバスで往復してお茶を濁しておいた。やはり車社会のバーレーンを縦横無尽に移動するにはレンタカーを借りるかタクシーをチャーターするしかないと思い知らされたのだった。

発展著しいバーレーンの道路は工事中や交通規制で至る所で通行が制限されており、パトカーや白バイもけたたましいサイレンを鳴らして猛スピードで走り回っていた。歩行者保護の意識の乏しい車が走り抜ける幹線道路の脇を心細く歩いて行くと何とかバーレーン国立博物館(BHD0.5)に辿り着くことが出来た。

広大な敷地の中にある広い館内にはポップな現代アートや自然史展示室、バーレーンの歴史を紹介した展示室等があり、太古の石器時代からティルムン文明、イスラムにいたる歴史の変遷を学習するのに最適なファシリティとなっている。

この博物館で特筆すべき代物はバーレーン全土に8万5000以上あるといわれる古墳の重要なものをそのまま持ってきて展示しているコーナーである。尚、古墳は断面が分かるように切断されており、暴かれた墓や副葬品も豪華絢爛さは見られないが、非常に興味をそそるものである。

また、石油発見前のバーレーンは遠浅の海で採れる真珠も主要産物のひとつであり、当時の採集の様子や真珠貝、銀座のミキモトでは高値がつかないはずの粒の大きさと形がまちまちな真珠が展示されていた。

バーレーン博物館から南へ向かう幹線道路沿いの海岸は公園等の整備が進んでおり、マリーナ脇の広場は地元住民の憩いの場になっていた。さらに南下するとグランド・モスクの通称で通っているアハマド・アル・ファテフ・モスクの尖塔が天空に向かってそびえていた。今日は金曜日なのでイスラム教徒以外は入場できないのだが、それ以外はモスク内への侵入どころか写真撮影も許可されているとのことだ。

バーレーンでのバーゲンを期待したわけでないが、世界で2番目に退屈な町ではショッピングモールが最適な暇つぶしスポットであるはずなので夕暮れ時に再びシティ・センターに突入することにした。イスラムの休日ということもあり、フォルクスワーゲンの新モデルの実車展示等に群がる富裕層で溢れ変えるシティ・センター内には安価なファストフードを提供するフードコートから高級感のあるエスニックレストランまで多くの食欲スポットがあるのだが、とりあえずアラビア湾で採れた魚を様々な国の料理方法で提供するシーフードレストランで骨抜きはしてあるが、小骨には手が回っていない白身大魚のアラビア風ソテーを召し上がって夕食とした。

ウインドショッピングも一巡したところでタクシーに乗り、手持ちのキャッシュが底をついたところで降りるつもりが、ぎりぎりでバーレーン空港まで辿り着けた幸運に感謝しながらも空港の両替屋で手持ちの米ドルをバーレーン・ディナールに両替し、買い食いでもしながらさらなる時間潰しをしなければならなかった。

1月21日(土)

今回のツアーで持参したダヴィンチ・コードの文庫本、上・中・下巻を完読した頃、ついに搭乗の時間となったので3:10発TK775便に乗り込み、4時間程のフライトで早朝イスタンブールに帰ってきた。成田行きのフライト時間まで半日程あったのでイスタンブールで入国してトルコ風呂にでも行こうと思っていたのだが、外は冷たい雨がしんしんと降っていたのでラウンジに留まり、数日振りのアルコールを朝から浴びながら怠惰な時間を過ごさせていただいた。

18:40発TK50便成田行きはマンチェスター・ユナイテッド機ではなかったものの日本人ツアー客を満載して離陸し、完全日本語対応された機内エンターテイメントプログラムを楽しみながら11時間もの長時間フライトを快適に過ごさせていただいた。 

1月22日(日)

13時過ぎに成田空港に到着し、成金になったとはいえアラビアの伝統とは異なるものを急激に取り入れると退屈地獄に陥ることがあると肝に銘じながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 トルコ航空 = ¥99,880 カタール航空 = BHD72.8 (BHD1 = 約¥204)

総宿泊費 $300.36

総バーレーンタクシー代  BHD11.5

総バーレーンバス代  BHD0.6

総カタールビザ代 QR100(QR1 = 約¥21)

総バーレーンビザ代 BHD5

協力 トルコ航空、カタール航空、agoda

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