ボリビアの南部、アンデス山脈の中腹に世界最大の塩湖が存在し、雨季になるとうっすらと湛えた水が魔鏡のように周囲の景色を映し出し、あたかも天地が逆転したかのような幻想に陥ってしまうという。最近メディアの露出も多くなってきたウユニ塩湖であるが、今回はその光景を実際に目に焼き付けるためにボリビアくんだりまでやって来なければならなかったのだ。
2012年2月18日(土)
17:05発NH6便は成田空港を予定通りに出発し、同日の午前9時半過ぎにロサンゼルス国際空港に到着した。早速Holiday Inn LAX Airportまでの送迎を担当するシャトルバスに乗り込むと、Holiday Innには投宿せずにあらかじめ予約しておいた近くのMotel 6にしけこんで、今日は時差調整のつもりでゆっくりさせていただいた。
2月19日(日)
11:00発American Airline AA1520便に乗り込むと3時間の時差をこえて午後7時前に中南米とのゲートシティになっているマイアミ国際空港に到着した。巨大な空港内で時間をやり過ごした後、乗り継ぎ便の22:30発AA922便に搭乗すると機内で中途半端な長さの時間を過ごすこととなった。
2月20日(月)
AA922便は6時間半程度のフライト時間でボリビアの首都ラ・パスのエル・アルト空港に午前6時過ぎに到着した。尚、ボリビアの憲法上の首都はスクレとされているのだが、実際上の首都はラ・パスになっている。さらにラ・パスは南北アメリカ大陸横断ヒッチハイクの旅でスペイン語を習得したドロンズ石本が別の番組でラ・パス市内に焼き鳥屋を開業し、商売が軌道に乗り始めたときにボリビアの情勢変化のためにやむなくドロンしたことでも有名である。
とりあえず、つつがなく入国審査を通過し、小雨そぼ降る中を空港の到着口で待機しているワンボックスのミニバスに乗り込むと標高4082mの世界一高い国際空港を後にした。ミニバスはエル・アルト地区という貧しい人々が住む地区を抜けて長い下り坂に差し掛かると30分程で標高3650mで世界一高い首都であるラ・パスの中心部に到着した。私が下りた所は旧市街にあたる場所で周囲にはコロニアル調の古い建造物が多く、中でも1549年に建てられたバロック様式のサン・フランシスコ寺院が一際存在感を際立たせていた。
サン・フランシスコ寺院の北東にはラ・パスの中心となるムリリョ広場が広がっており、その中央にはボリビア独立戦争で活躍したムリリョの像が周囲の大統領官邸、カテドラル、国会議事堂を見下ろしていた。
この美しいムリリョ広場は庶民の憩いの場所にもなっており、あちこちで鳩用の餌の売り子が闊歩し、豆鉄砲を食らう危険がない鳩はすべて手乗り鳩と化して人類に襲い掛かってくるのであった。
午後近くになると町の様相に変化が見え始め、メイン通りの交通規制とともに何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物の準備があわただしく行われていた。通りには派手な衣装に身を包んだダンサーと鼓笛隊が参集し、物々しい雰囲気を醸し出し始めたのでとりあえず近くのバスターミナルにエスケープさせていただいた。
ボリビア交通の大動脈となっている巨大なバスターミナルは屋根付きであるが周囲が吹き抜けになっており、皆白い息を吐きながらおとなしくベンチに腰掛けていた。早速今晩のウユニ行きバスのチケットを物色したのだが、あいにくすべて満席となっていたので、仕方なくポトシという町へ行くチケットを購入せざるを得なかった。
あいかわらず外は雨模様だったため、長時間バスターミナルで待機を余儀なくさせられたのだが、カルナバルを祝う無数の爆竹と鼓笛隊が奏でるリズムに引き寄せられるようにいつしかメインストリートまで出て来てしまっていた。カルナバルは水かけ祭りとも言われているようで巨大な水鉄砲を手にした青少年少女が路上でコンバットを展開し、ダンサーには容赦なく水の入った風船が投げつけられていた。
日本で言えば富士山に匹敵する標高の町で踊り狂うダンサーを横目に坂道で息を切らしてしまった私は何とかバスターミナルまで帰り着くと夕飯も食わずに21:30発のポトシ行きSemi CAMAバスに乗り込んだ。尚、長距離バスはNormal、Semi CAMA、CAMAと3種類あるようでCAMAとはスペイン語でベッドを表す言葉なのでそれなりに快適なバスの旅が期待されたのであった。
2月21日(火)
VOLVO製の巨大な2階建てSemi CAMAバスはリクライニングの快適性はまずまずだったものの車内はエアコンがつけられていないせいか凍えるような寒さであった。手馴れた原住民はMY毛布を持参して乗車しているため、寝つきが良かったようであるが、寝具のない私は冷気に肉体をさらしながら、眠い、寒い、高い(標高が・・・)の三重苦と10数時間格闘しなければならなかったのだ。
さらにボリビアのバスは事故や故障で悪名高いのだが、私が乗っていた車両も例外なく夜が明けた6時半頃におもむろに路肩に停車してしまった。1階最後部のエンジン近くの私の席にはもやもやした煙と共に異臭が漂い始め、このバスはもはや自走出来ないことを覚悟させられることとなった。それでも運転手は1時間程、自力で修理を試みたのだが、幸いポトシ近くまで来ていたため代車を手配して何とか8時過ぎにはポトシに到着する運びとなった。
バスを降りると丁度ウユニ行きのバスのチケットの販売が行われていたので早速購入させていただいた。出発時間が12時30分ということなのでそれまで世界遺産であり、標高4070mで世界最高所にある町ポトシを最後の力を振り絞って見学することにした。バスを降りた場所からポトシの町の中心部まで急な坂を登っていくと町の背後にそびえる赤茶けたポトシ山の雄姿が目に飛び込んできた。この山はかつて「富の山」と呼ばれ、南米最大の銀山として町に繁栄をもたらしたシンボルである。
南米の中で、植民地時代の面影を最も色濃く残す町のひとつであるポトシは石畳の狭い通りやコロニアルな建物が印象的であるのだが、カルナバルの影響で主な見所である旧国立造幣局やカテドラル、教会・修道院等はすべて閉鎖となっていた。仕方なくポトポトと雨の降るポトシの町並みを眺めながらあてどもなく彷徨っていた。
不意に昨日の昼から何も食べていないことを思い出したので、町中で唯一営業していたネットカフェに入り、コンチネンタル・ブレックファストを食していると、関西系の日本人のおばちゃんが相席を求めてきた。気の毒なおばちゃんは町はずれの展望台近くで野良犬に噛まれ、ポトシの病院で何度か注射を受けるはめになり、1週間程ここで足止めを食らうのだと元気にのたまっていた。
おばちゃんを置き去りにしてネットカフェから撤収し、バス乗り場に戻るとそこにはウユニ行きを所望する多くの人々で溢れかえっていた。乗客を満載したバスはほぼ定刻通りに出発し、風光明媚な山岳風景や放牧されているリャマを横目に順調に運行して行った。途中の悪路も難なくクリアして5時半には念願のウユニの町に到着する運びとなった。
ウユニ到着後の最重要アクションは宿を取ることであったのだが、幸い駅前のHOTEL AVENIDAに空きがあり、しかも宿泊費が1泊Bs30(日本円で\360)ということだったので取りも直さずチェックインさせていただくことにした。共同シャワーで長旅の汚れを落とした後、おびただしい数の日本人観光客を横目にHOTEL AVENIDAの隣で営業しているツアー会社であるBrisa Toursに飛び込んだ。
当初の目論見では今朝早くウユニに到着し、その場で2泊3日のツアーに参加するつもりであったのだが、ウユニのツアーは2泊3日どころか1泊2日のツアーもすべて満席だということで、あらためて当地の人気の高さを思い知らされた。他のツアー会社を巡って問い合わせをしても同様であり、ツアーの空きは宿泊設備のキャパの制限によるものなのでどうしようもなかったのだ。
カルナバルの喧騒が残る町中を歩きながら思いを巡らし、結局日本人御用達のBrisa Toursの隣のTunupa Toursで明日の1 DAY TOUR(Bs180)を申し込み、屋台でチープなバーガー系のパンを食って夕食とすると早々ときしむベッドに横たわり、英気を養うことにした。
2月22日(水)
ウユニ塩湖へのツアーはどのタイプであろうと午前10時半にツアー会社の前に集合し、11時頃に出発することになっているのでTunupa Toursのオフィスの前で乗るべき4WD車が到着するのを今か今かと待ち構えていた。
11時過ぎにLEXUSというブランド名のランドクルーザーに乗り込むとウユニの町を後にしてツアーの最初の目的地であるTrain Cemetaryに向かって行った。列車の墓場にはマサにJR東日本の職員であれば目を覆いたくなるほどの多くの機関車が無造作に放置され、観光客は屋根まで這い登ったり、ぶら下がったりとやりたい放題に退役した汽車をもてあそんでいた。
列車の墓場への参拝を終了させるとコルチャニ・タウンという製塩所に立ち寄ることとなった。ここにはミュージアムと土産物屋が併設されており、塩のブロックで建造されたミュージアムの中には不細工なリャマをかたちどった塩のオブジェ等がしおらしく展示されていた。また、土産物の多くも塩で作られたものでお手頃な小物入れや灰皿等が観光客の人気を博していた。
マサよ、君は標高3760mに広がる塩水の平原で天と地が釣り合った光景を見て言葉を失ったことがあるか!?
というわけで、製塩所での滞在が潮時を迎えた頃に再びLEXUSに乗り込み、今回のツアーのハイライト且つ、ここに来なければボリビアくんだりまで来た意味が全くなくなってしまうウユニ塩湖まで疾走することとなった。車が雨季のために冠水した塩湖に差し掛かると時速を10km程度まで減速し、おだやかな水しぶきを上げながら塩湖の中心に位置する目的地をゆっくりと目指していた。
世界一大きな塩の湖ウユニ塩湖の鏡面は非常になめらかで風もなく好天に恵まれた雲や遠くに見える島の形をはっきりと映し出し、マサに天地を錯覚させるかのような幻想にしばし浸ることとなった。
1 DAY TOURの最終目的地である塩のホテル、プラヤ・ブランカにはすでに多くのツアー客が到着し、そこはあたかもランド・クルーザーのモーターショーの様相を呈していたので豊田章男社長もここに来れば別の意味で満足することが約束されていると思われた。
プラヤ・ブランカの隣の塩の小島には各国の国旗がつき立てられており、皆それぞれの国旗を抜き取って記念写真のおかずに出来る体制が整っていた。また、お調子者の日本人観光客はすでににわかパフォーマンスに興じており、盛塩の上で何の変哲もないポーズを決めて悦に入っていた。
日本人の宿泊客が圧倒的に多いプラヤ・ブランカの内部にはミュージアムもあるのだが、「展示物を見たいビジターは何か買いやがれ!」との注意書きを無視して中に入ってみることにした。飾ってある代物は塩で出来ている以外は特筆すべきことがない物ばかりであるのだが、むしろTOTO社員が体験すると腰を抜かすほどの強烈な塩ホテルの便所が気になってしようがなかったのだ。
ツアーではランドクルーザーのテールゲートを簡易テーブルとしてランチが提供されることが定番となっているのでパサパサの米とゆで、生野菜、巨大な鶏肉の塊をいただくことにした。当然のことながら、足りない塩っ気は地面から無限に供給されるのだが、全面鏡張りの中で食べる食物はこの上なく美味なものであったのだった。
1泊2日のツアーでプラヤ・ブランカに宿泊する観光客はこのまま明日のランチの時間まではここで放置プレーとなる一方で、1 DAY TOURの参加者は午後3時~4時くらいにこの場所から撤収することになっている。帰りも来た道と同じルートを通ったのだが、塩湖の入口の塩山ポイントでは原住民家族がのんきにビーチ遊びに興じていた。
午後4時過ぎにウユニの町に帰り着くと、交通事情等を考慮して早めにウユニを脱出すべくバスターミナルでポトシやスクレ行きの深夜バスを物色したのだが、いずれも満席ということだったので、とりあえず翌日のラパス行きの深夜バスのチケットを確保しておいた。引き続き今夜の宿を確保すべくHOTEL AVENIDAに問い合わせをしたのだが、すでに満室になってしまっていた。隣のホテルも満室の札がかかっていたのだが、3件目のPALACE HOTELに空きがあったのでBs35を支払って何とかしけこむことに成功した次第であった。
2月23日(木)
押し寄せる観光客の数に対してホテルの部屋数が不足しているためか、バックパッカーの中にはウユニ駅の敷地や寒空の下で野宿を楽しんでいる輩も見受けられた。いずれにせよ、ウユニ塩湖の絶景はそのような苦労をしてまで見る価値があることは疑いようの無い事実であった。
早朝ウユニの町を散策していると駅からはずれた場所にTrain Cemetaryにうち捨てられる難を免れた機関車が展示保存されている光景を目にした。ウユニではチリとの貿易を担う鉄道員も数多く働いているようでその繁栄の様子を示す壁画も目に留まった。
結局この日もウユニに滞在しているという最大限のアドバンテージを活かすために塩湖への1 DAY TOURに参加することにした。今日利用したツアー会社はバスターミナルの前にオフィスを構えているSANDRA TRAVELSであったが、どこの会社もツアー内容も価格も同じらしく、最初の訪問地はTrain Cemetaryであった。JR西日本の職員であれば思わず手をあわせてしまいそうな光景を再び目にしたのだが、列車の墓場という割には煙突に線香さえ手向けられていなかった。
コルチャニ・タウンの土産物屋で一番小さい塩製の小物入れを購入して売り上げに貢献すると塩湖の入口でランドクルーザーの屋根に登り、今日は車窓からでなく屋根の上から高みの見物をさせていただくことにした。
塩湖に突入して塩を満載したトラックとすれ違ったのだが、この約120km x 約100kmにも渡る広大な塩の大地には約20億トンという東京ドーム何杯分という単位では計ることも出来ない量の塩が眠っているのだ。
2日続けて好天に恵まれたおかげで強い日差しの照り返しにより顔の下半分がこんがりと焼けてしまっていた。しかし、曇っていたり、雨が降っていたりすると天空の鏡もその威力を存分に発揮出来ないので絶景を見れるかどうかはマサに運次第という側面が強いと思われた。
雨季の塩湖は足首くらいまで水が張っているので皆長靴、ビーチサンダル、裸足といった足回りでそれぞれの活動に興じている。日が照っていると水温が上がるのでビーサンで歩き回っている分には快適であるのだが、乾くとスネ毛にまで大量の塩がまとわり付いてしまうのだ。
今回は1 DAY TOURしか取れなかったため、2泊3日ツアーの参加者のみ訪れることが出来る赤い色をした湖ラグーナ・コロラダを目にすることは出来ないのだが、そこを居住地にしているはずのチリフラミンゴがいくつかの群れを形成してはるか湖の彼方を飛んでいるのをかすかに眺めることに成功した。
2日に渡るウユニ塩湖のツアーが終了し、夕方ウユニの町に戻ると大通りにインディヘナ(先住民)の市が立っていた。とりあえずその辺のベンチで塩にまみれた足を清掃してボディに十分な防寒対策を施すと午後7時に出発予定のラ・パス行きの夜行バスに乗り込んだ。今回もSemi CAMAのバスであったのだが、運行会社の違いのせいか、各シートには毛布があり、ラ・パスに戻る道中もそんなに冷えなかったので割と快適な移動手段兼宿泊所と成り得たのであった。
2月24日(金)
バスが順調にラ・パスのバスターミナルに到着したのは午前8時前であったろうか?とりあえずターミナル内の日本語が読めるインターネット屋で時間を潰すとラ・パス市の中心部に向かって歩を進めることにした。
今週月曜日にラ・パスに来た時には冷たい雨に悩まされたのだが、今日は天気も良かったのでラ・パス市街を一望出来るライ・カコタの丘(Bs3.5)に登ってみることにした。丘の上の公園は高層ビルが並び立つ市の中心や低級住宅がへばりつくように建っているすり鉢を見渡すのに絶好のポイントで、眼下にはバラック風の屋根が並び立つカマチョ市場の様子も見受けられた。
昼過ぎに目抜き通りに面したビジネスホテル風のエル・ドラードに飛び込みでチェックインを果たすとラ・パス市内を効率良く回ることが出来る市内観光バス(Bs50)に乗ってみることにした。この観光バスによるヘッドホン解説は日本語にも対応しているのだが、日本語の「語」のへんとつくりがそれぞれ別の字であるかのような印象を受けてしまった。
バスが市内の見所を回る際にボリビアという国に関する様々な解説がなされたのだが、平均寿命は男60歳、女65歳とマサにボリビアのおばちゃんの体型のように太く短い人生にもかかわらず、定年が65歳になっているので日本のように年金財源が底を付くというような懸念は一切無いことが確認出来た。また、総人口に占めるインディヘナ(先住民)の比率が50%を超えており、南米の中で最もインディヘナ人口の多い国となっているため、多くの観光客がボリビアに引き付けられるのだと思われた。
市内観光バスは急な坂を登り、町の北にあるミラドール・キリキリという展望台のような高台に到着した。ここから見える景色は、思わず「おさむちゃん で~す!!」と勢いをつけて叫んでしまいそうな見事な「ザ・ぼんち」の眺望であり、すり鉢の底には5万人もの観客を収容出来るスタジアムも横たわっていた。とりあえず、市内観光バスの案内でラ・パス市内の全貌を理解出来たので、A地点からB地点に向かう途中のC地点でたばこを買ったりするような動きをする場合は急な坂を上り下りする覚悟が必要だとの認識をあらたにした。
サンフランシスコ寺院の裏の坂を登っていくとメルカド・ネグロという市場に辿り着いた。ここには地元の人向けの食料や日用品が取り揃えられており、アンデス山中にもかかわらず新鮮な魚さえ取引されていたのだった。
2月25日(土)
早朝ホテル・エル・ドラードの前からミニバスに乗り、セメンテリオという墓地で下車すると近くにティワナク行きのミニバス乗り場があったので約2時間かけてラ・パスから72km西のティワナク遺跡(世界遺産)を目指すことにした。遺跡に到着すると入場料Bs80を支払い、まずはMUSEO CERAMICOという遺跡から発掘された土器等を展示している博物館をチラ見しながら遺跡に対面する心の準備をさせていただいた。
ティワナク遺跡に入場すると高さ15m、底辺210m四方の赤茶けたアカパナのピラミッド跡に遭遇した。その隣には遺跡の中心だったと思われるカラササーヤという長方形の巨石と角石を組み合わせた壁に囲まれた神殿があり、そのモザイクを思わせる石組みは、インカ末期の石組み技術と比べてもひけをとらない見事さであった。
カラササーヤにはモノリートと呼ばれる一枚岩から切り出された石像が2体立っているのだが、高さ7m30cmの「ベネット」という固体は風雨による傷みが進行するのをおそれてすでに屋内博物館に移設されているのだ。また、カラササーヤの隅には高さ3m、幅3.75mを誇る太陽の門という巨石で作られた門が立ちふさがっている。門の上部にはビラコチャの神と神を囲んで飛ぶ48人の鳥人が刻まれている。
カラササーヤの背後にある半地下神殿の中央にはコンティキの神の立像が君臨し、周囲の壁には180個もの石の顔が訪問者に睨みを利かせている。
ティワナク遺跡は4km四方にも及ぶ広大なものなので、その発掘が進んでいるのは30%に過ぎないと言われている。また、スペインからの征服者がティワナクに町を造ろうとしたときに教会に最適な石を探したのだが、ティワナク遺跡の石も数多く教会や家々の土台として流用された形跡が残っている。
ティワナク遺跡の神殿から500mほど離れた場所にプーマプンクの宮殿跡がある。ここはかつて巨石の宮殿だったらしく、足元には最大で縦8m、幅4.2m、厚さ2m、重さ10トン超のとてつもなく大きな石が転がっている。また、巨石と巨石は銅をかすがいにしてつながれたらしくその痕跡の溝も生々しく残されているのだ。
ティワナク遺跡でプレインカ文明の技術の高さに圧倒されたのでミニバスでラ・パスに戻り、市の南地区にある月の谷(Bs15)を見物することにした。人口170万人を誇る大都市ラ・パスにあって月の谷を要するマリャサ地区には四輪バギーも乗り回せる自然の大地が残っており、奇岩が広がるその景観はまるで月面のようであった。
月の谷にはアンデスでは滅多に見られない猫が見守る遊歩道も整備されており、脆い砂岩に刻まれた岩の芸術を間近に見ることが出来るのだ。
「パタゴニアの蒼き河と天空の鏡ウユニ塩湖」ツアーを催行する西遊旅行の一行と入れ替わるように月の谷を後にするとミクロというボンネットタイプの古バスでセントロに戻り、魔女通りとの異名を取るリナレス通りを散策することにした。魔女通りの所以は呪術に使われる小道具がおみやげに混ざって展示販売されているからなのであるが、どの店先もキュートなリャマの胎児のミイラがこれ見よがしに供えられていた。
大都会のラ・パスに帰還後、何とか食生活を改善することが出来、昨日はCorea Townという韓国レストランで韓国料理を召し上がった。今日はボリビアの最後を飾る晩餐なのでわがままを聞いてもらうべく「Wagamama」という日本食屋の暖簾をくぐることにした。食費の安いボリビアでは高値であるはずのBs8.3で供されるWagamama Teishokuはティティカカ湖で採れるはずのトゥルチャ(マス)の刺身をはじめ、日本食通のわがままを十分に聞き入れた結果を反映したメニューであると思われた。また、高地では沸点が低くなるため、米を炊くのが難しいはずであるが、Wagamamaが供するご飯は日本食堂に匹敵するほどの出来であったのだ。
2月26日(日)
早朝4時半にホテル・エル・ドラードをチェックアウトするとホテルの人にラジオ・タクシーを捕まえてもらって一路エル・アルト空港に登っていった。
7:15発AA922便は定刻通りに出発し、ボリビア第2の都市サンタ・クルスを経由して午後4時前にはマイアミ国際空港に到着した。マイアミからAA231便に乗り換え、ロサンゼルスに着いたのは午後9時前であった。
2月27日(月)
0:10発NH1005便, B777-200機に搭乗する直前にビジネスクラスへのアップグレードを果たし、機内エンターテイメントプログラムによる「ステキな金縛り」に遭いながらも邦画を3本見ることに成功した。
2月28日(火)
定刻5:15前に羽田空港に到着し、ヘモグロビンの血中濃度が高くなっていることを実感しながら流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥47,530、AA = ¥80,120
総宿泊費 $75.26 、Bs577 (Bs1 = ¥12)
総バス、ミニバス、ミクロ代 Bs260.5
総タクシー代 Bs60
総ウユニ塩湖ツアー代 Bs360
総空港使用料 $25
協力 ANA、アメリカン航空、Motel6