グレたイチローがシアトルをバックれてヤンキーになった!?
衝撃のニュースが日米を駆け巡ったのは7月23日のことであった。思えばイチローが渡米し、全米にセンセーションを巻き起こした2001年からFTBのMLBツアーが加速し、同時多発テロを乗り越えてイチローは伝説の域に達してしまった。しかし、野球人生の集大成とも言うべきワールドチャンピオンのリングだけは強豪チームにいない限りは決して手にすることは出来ないのも事実である。
今回は大都市で覚醒したイチローのさらなる飛躍ぶりをこの目で確かめるためにニューヨークに飛び、さらに緩んだボルトを締めなおすためにジャマイカ、北ウイングの足跡を追ってナッソーを訪問するツアーが開催されることとなったのだ。
2012年10月2日(火)
ANAのプレミアムポイントが余っていたのでビジネスクラスにアップグレードして乗り込んだ11:00発NH010便は定刻通りに出発し、約12時間のフライトで午前10時過ぎに曇り空のニューヨークJFK国際空港に到着した。早速AirTrainと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに向かったのだが、地下鉄を降りて外界に出ると今日の野球の試合の開催が危ぶまれるように雨がしとしと しとピッチャーだった。
再び1乗車に付き$2.25に値上げされている地下鉄に乗り、柄の悪いことで有名なブロンクスのW Farms Sq Tremont Avで下車するとhotels.comに予約させておいたHoward Johnson Bronxにチェックインしてしばし雨の行く末を見守っていた。夕方の5時近くになると霧雨を切り裂くように外に出て地下鉄を乗り継いでイチロ、ヤンキースタジアムに向かった。161 St Yankee Stadiumで下車すると2009年にオープンした新ヤンキースタジアムが目の前に迫っていた。尚、老朽化のために取り壊された旧ヤンキースタジアムは跡形も残っていなかったのだ。
スタジアムの回りを一周し、その建築様式を確認するとTicketmasterでオンライン高値購入しておいたチケットを入手するためにチケット売り場のWill Callの窓口に向かった。チケットを手にヤンキースタジアムへの入場を果たすと各土産物屋ではイチロー祭りが開催されているかのように多くのイチローグッズが並んでいた。さらに食い物屋に目を向けると伝統的なホットドッグやピザを横目に日本食屋の開店も見られたのだが、メニューの目玉はイチローを転がしたようなSUZUKI ROLLだったのだ。
試合開始まで時間があり、雨よけのシートのかかったグランドでは練習も行われていなかったので球場内を隈なく散策することにした。伝統あるヤンキースは永久欠番を量産しており、欠番に値する野球の神様達を奉るためにバックスクリーンの直下にMemorial Parkなるものを開設している。神様達は銅版のプレートとなってその活躍を讃えられているのだが、何故か前オーナーのジョージ・スタインブレナーIIIの巨大なプレートが神様達を束ねているかのように中央に飾られていやがった。
続いて球場内2階にあるヤンキース博物館にも足を運び、ワールドチャンピオン27回の栄光の歴史をまざまざと見せつけられたのだが、直近の世界一である2009年にワールドシリーズのMVPを獲得したマツイの痕跡がスタジアムのどこにも見られなかったのでそれはマヅイだろうと思いながら場内を彷徨っていた。
霧雨の降り続く中ではあるがヤンキースとレッドソックスの伝統の一戦は定刻7:05にプレーボールとなり、相手が左ピッチャーのために9番という下位打線に甘んじているイチローが私が座っているレフトスタンド前のフィールドに定着した。
この日のイチローは3打席目にSUZUKI ROLLを彷彿とさせるような球を3塁線に転がし、見事なバントヒットとしたのだが、見せ場はこの打席だけで結局5打数1安打とファンにとっては物足りない結果となってしまった。
試合の方は9回裏に2点をリードされたヤンキースが代打ラウル・イバネスの起死回生の同点2点ホームランにより延長戦に突入し、12回の裏のチャンスに再び打席が回ってきたイバネスのサヨナラヒットによってヤンキースが勝利し、フィールド内とスタンドは歓喜の渦が巻き起こり、締めの定番ソングであるフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪がかき消されそうな喧騒であった。
試合が終わったのが11時半頃で満員の地下鉄に乗り、深夜にブロンクスのホテルに帰り着いたのだが、ニューヨークでの入浴は翌朝に回して時差でボケている今夜はとっとと寝静まることにした。
10月3日(水)
今日の天気予報も雨であったのだが、何とか曇り空が涙を流さずに持ちこたえていたので午前中にロウアーマンハッタンに繰り出すことにした。地下鉄フルトン駅で下車して9.11 Memorial方面に向かうとグランドゼロにはワールドトレードセンターに変わる高層ビルが再び天空を目指すかのように建設中であった。
タイムズスクエアで大道芸人が芸のクライマックスを警察に制止されて見物人からブーイングをくらうNYPDを横目に街頭でOREOとHOLDSの新商品のサンプルを受け取ってミッドタウンをしばし徘徊した。
午後6時頃にヤンキースタジアムに入場すると今日は雨が降らなかったために通常通りの試合前の打撃練習が行われ、外野席ではグローブを手にしたファンがホームランボールを追って右往左往していた。今日はレギュラーシーズンの最終戦でヤンキースが勝つか2位のボルチモア・オリオールズが負けるとヤンキースのアメリカンリーグ東地区の優勝が決まるという大一番であり、場内は異様な熱気に包まれていた。
その熱気の主役となるのが、ヤンキースのエース黒田とレッドソックスの崖っぷちエース松坂の先発ピッチャーの投げ合いであり、マサに日本人のために用意された舞台が幕を開けようとしていたのだ。試合開始前30分頃からウォーミングアップを開始した両エースであったが、右肘の手術から復帰して今だに調子の出ない松坂は重そうな体を引きずりながらランニング、キャッチボール、ブルペンでのピッチングへと入っていった。ブルペンでの投球はあまり球が走っていないように見受けられ、捕手の構えたミットになかなかコントロールされていなかったのだ。
試合は定刻7:05に開始となり、1回の表に黒田はいきなり1点を先行された。その裏の松坂は2番のイチローをポップフライに打ち取り、三者凡退で順調なスタートを切ったかに見えたのだが、2回にスリーランホームラン、3回にツーランと2本のホームランで5点を失い、早々と交代を告げられて日本に強制送還されるかのようにマウンドを降りていった。
試合はヤンキースの一方的な展開で7回裏にはこれまで4打席ヒットがないにもかかわらず大歓声でファンに迎えられていたイチローに5打席目が回ってきた。千両役者のイチローは右中間に2塁打を放ち、2点を追加したのだが、その時追加点の場面とは関係のないところで大歓声が上がった。電光モニターには2位のオリオールズが敗れ、ヤンキースの優勝が決定したことを告げる表示が大きく示されると観客はスタンディングオベーションで優勝を祝い、セカンドベース上のイチローもようやくその事実を理解した様子であった。
黒田は7回を7安打2失点の好投でマウンドを降り、今季16勝目を上げてヤンキースの優勝に多大な貢献を果たしたのだった。ヤンキースは14対2で宿敵レッドソックスを打ち破るとロッカールームではお約束のシャンペンファイトが繰り広げられ、その様子は電光モニターに鮮やかに写し出されていた。
優勝の余韻に浸っているヤンキースファンとともにスタジアムを後にする際に1人のファンが着ているユニフォームの背中に背番号55とともにMATSUIの文字が浮かび上がっていた。チーム公認の球場内展示物には松井の痕跡はなかったのだが、ファンの心にはマツイの幻影がしっかりと刻み込まれているのであった。
10月4日(木)
ニューヨークでヤンキース優勝の瞬間を目に焼き付け、イチローがイチロー足りうる価値を維持していることが確認出来たので次の目的地に向かうべく地下鉄でJFK空港に向かった。カリビアン航空が運行する13:25発BW014便に乗り込むと約3時間50分のフライトでジャマイカの首都キングストンのノーマン・マンレイ国際空港に時計の針を1時間戻した午後4時15分頃到着した。
入国の際に審査官のおばちゃんからあれこれ質問されてあまり歓迎されていない印象を受けたものの何とか入国を果たすと両替所で手持ちのUS$60を差し出すとあまり良くないレートで両替していただき、4,549ものジャマイカドル(JMD)の大金を手にした。空港のArrivalの出口の近くにJUTAという会社のタクシーカウンターがあったのでそこで市内までの料金がUS$28であることを確認すると安心してタクシーを発注したのだが、何故か乗り込んだ車は誰も乗っていないマイクロバスであった。
何はともあれ、hotels.comに予約させておいた治安の良いニューキングストン地区にある高級ホテルWyndham Kingston Jamaicaに約30分で到着するとフロントでチェックインを行う運びとなった。フロントのおね~ちゃんに周辺の地図をくれないかと要求したのだが、無いとの返事だったのでキングストンは観光客向けの町ではないことを即座に認識することとなった。
日本の秋田県とほぼ同じ大きさを誇るジャマイカでは北部のモンテゴ・ベイというカリブ有数のビーチリゾートエリアがあり、観光客のほとんどはそこで休暇を楽しむのだが、海外から来るビジネス客の多くは首都キングストンに滞在し、ここでは国際的な会議もたびたび行われているという。この日のWyndhamホテルではイギリスからの独立50周年を祝うイベントが行われており、多くのパーティドレスで着飾った貴婦人が入口で記念写真を撮られながら会場に吸い込まれて行った。
パーティのためにホテル内の食事処が閉鎖されていたため、「ひとり歩きは絶対にやめよう」という物の本に書かれている警告にもかかわらず夜になって外に出てみることにした。なるほど、ホテル周辺にはホームレス系を中心とした怪しい輩がたむろしており、施しを受けるために宿泊客の出待ちを行っていた。ホテルの近辺にケンタッキーがあったのでそこに入ってチキンバーガーを発注している際にも怪しい野郎が店の中を覗き込んでおり、店員が追い払った隙に店を抜け出し、何とか無事にホテルに帰還出来たのだった。
10月5日(金)
キングストンの背景に高級コーヒー豆で有名な標高2000mのブルーマウンテンがそびえているのだが、ホテル内の喫茶店や土産物屋で売られているコーヒーもすべてブルーマウンテンである。朝食として香り高いコーヒーとマフィンをいただくと意を決してキングトンの観光に出ることにした。
キングストンはレゲエ・ミュージックのふるさととして有名でキング・オブ・レゲエとして君臨しているのが、かのボブ・マーリーである。キングストンの唯一の見所でここに来なければキングストンに来たことにはならないと言われているボブ・マーリー博物館(US$20)がニュー・キングストン地区で開館しているので見学に行くことにした。
多くの来館者はモンテゴベイから1日かけてツアーでやって来ており、博物館自体はガイドによる案内で館内は写真撮影禁止となっている。この建物はアイランド・レコード社の社長の家でボブが亡くなるまでの6年間を妻と子供たちと生活した場所であるので寝室、キッチン、狙撃されたときの銃弾の跡などボブの生活が染み付いているのである。
ところで、レゲエとは1960年代にジャマイカで誕生した新しいジャンルの音楽でもともとあったアメリカのリズム&ブルースにアフリカ的なリズムを加えたアップテンポの「スカ」からちょっとスローダウンした「ロック・ステディ」を経てキングストンのスラム街であるトレンチ・タウンのルードボーイ(不良少年)によって完成されたものである。ボブも父を亡くした12歳でトレンチ・タウンに移り住み、そこで彼の音楽的な基礎が作られたようである。
尚、1時間のガイドツアーの内の最後の20分は視聴覚室でボブのDVDをじっくりと見せてくれるので、気に入れば隣のショップでCDやDVDを買って帰ることも出来るのである。
ボブ・マーリー博物館でレゲエの真髄に触れることが出来たので炎天下の中をホテルに戻り、プールのある中庭でしばしくつろぐことにした。何でも昨今のジャマイカでは小島よしおのリズムがレゲエに取り入れられているという噂を耳にしており、危険なダウンタウンやトレンチタウンに行けばその真相を解明できる可能性があるのだが、そんなの関係ね~と思っていたので終始安全なホテルでくつろぐことにしたのだ。
10月6日(土)
ジャマイカはスペインに支配された周辺のカリブ海諸国と異なり、英国連邦に加盟しているので公用語は英語であり、車は日本やイギリスと同じ右ハンドル、左側通行なので道行く車の多くは日本車である。治安が良くギャングの抗争に伴う銃撃戦に遭うリスクが少なければダウンタウンのスラム街に侵入し、ミヤネ屋が伝える上半身裸率の高い庶民の生活も垣間見ることが出来るのだが、今回はアップタウン周辺の散策にとどめることにした。
ジャマイカの民族構成の内90%以上はアフリカ系であるのだが、彼らは英国の統治時代にアフリカから連れてこられた奴隷の子孫である。よってその類まれなる身体能力はオリンピック100m、200mの金メダリストのウサイン・ボルトを頂点としたアスリートに引き継がれているのだ。そのボルトがネジ業界ではナットに相当するはずの共同経営者と開店しているレストランがキングストンにあると伺っていたのでネットで場所を調べて突撃することにした。
ボルト・ポーズをデザインに取り入れたTRACKS & RECORDS(http://www.tracksandrecords.com/)というレストランは幸いホテルから2km程しか離れていなかったのだが、夕食の時間帯に移動するのはリスクを伴うのでランチの時間を狙って来店することにした。店に入るとすぐボルトの叩き出した世界新記録のタイムが誇らしげに掲げられており、店内はスポーツバー風の装いであった。
この店はジャマイカ料理のレストランなのでローカルな食物であるザリガニの出汁をベースにしたジャンガスープとタラをすり身にしたフリッターを発注させていただいた。出汁が利いているジャンガスープは非常に美味だったのだが、フリッターは味が薄くマヨネーズをなすり付けて食うよりも醤油の方が相性がいいはずだと思ったのだが、何とか完食してボルトに仁義を切っておいたのだった。
昼過ぎにホテルに戻った途端に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨が降り始めた。何ボルトに相当するのか想像はつかないが高電圧の雷がそこら中に轟音を立てて落ちている様で必然的に午後からの活動は制限されることになってしまったのだ。
10月7日(日)
正午前にWyndhamホテルをチェックアウトしてホテルの敷地で待機しているJUTAタクシーに乗り、キングストン国際空港へとひた走っていた。空港で出国審査を受ける際の審査官は偶然にも入国の際に遭遇したおばちゃんで「楽しめたか?」と聞かれたので大して出歩くことは出来なかったものの「楽しんできたぜ!」と見栄だけは張っておいた。
朝飯を食って来なかったので空港のコーヒーショップでブルーマウンテンコーヒーを軽飲し、ついでに粗挽きされたコーヒー豆も買っておいた。免税品かつ原産国でありながら、ブルーマウンテンコーヒーの価格は高く、227g入りの真空パックでJMD1995(日本円で約\1700)もしやがった。尚、日本が誇るUCCコーヒーはブルーマウンテンに自前のコーヒー農園を持っており、以前はガイドツアーも行われていたそうだが、現在は高値でコーヒー豆を日本に輸出することに専念しているようであった。
♪Love is the My~stery~ 私をよ~ぶのぉ~ 愛はミ~ステリ~ 不思議なち~からでぇ~~~~~~~~~~~~~~♪
ということで、14:30発BW063便は定刻通りに出発し、途中モンテゴベイを経由して3時間弱のフライトで1時間時計の進んだ午後6時過ぎにバハマ連邦の首都ナッソーに到着した。
ところで何故ナッソーくんだりまで来なければならなかった理由であるが、1984年5月1日にリリースされた名曲「北ウイング」を収録した中森明菜の6枚目のアルバムのタイトルが「ANNIVERSARY FROM NEW YORK AND NASSAU AKINA NAKAMORI 6TH ALBUM」となっており、ニューヨークはわかるが、当時の私にとってナッソーは謎であり、将来ナッソーに行くのはめっそ~もないと思っていたのだが、北ウイングを飛び立った中森明菜がやって来たのはニューヨークを経由してナッソーだったという定説が強まったため、私もナッソーに来なければならなくなったのだ。
何はともあれ、フロリダ半島の東数百km沖にあるバハマ諸島の中心ニュープロビデンス島のナッソー国際空港に降り立つとナッソーダウンタウンまで9kmと距離も手頃だったので徒歩で予約しておいたホテルに向かうことにした。歩いてみると思ったより距離感が感じられ、2時間経ってもダウンタウンにたどり着かず、挙げ句の果てに雷雨に見舞われ濡れ鼠になりながらagodaに予約させておいたNassau Junkanoo Resortにチェックインを果たしたのは午後10時近くになってしまったのだ。
10月8日(月)
早朝差し込んでくる光で目を覚まし、最上階である6階の部屋の窓越しから巨大なクルーズ船がゆっくりと入港する光景が目に入った。ナッソーはカリブ海クルーズの寄港地になっており、前夜マイアミを出た船が翌朝ナッソーに着くことになっているので毎日何らかの豪華客船の入港、出航の様子が見られるのだ。
ダウンタウンの目の前に広がるJunkanooビーチは白砂のビーチにエメラルドブルーの海の景色が美しく波も穏やかなので早朝から夕暮れ時まで海水浴を楽しむことが出来るカリブ海の天国と言えよう。
ダウンタウンのちょっとした高台を目指していると階段脇を流れる水が涼しげでコケに覆われたクイーンズ・ステアケイスに遭遇した。階段を上りきったところはフィンキャッスル砦($2)になっており、船の舳先のような形が印象的であった。この砦は1793年に造られたもので3つの大砲が海の彼方を狙ったまま残されている。
砦のとなりには水道塔がそびえており、以前はエレベーターで塔の頂上まで上がり、ナッソーの街全体を見渡すことが出来たのだが、残念ながら今は立ち入り禁止となっていた。
ナッソーの北にパラダイス・アイランドという細長い島が浮いており、リゾートの架け橋を渡って到達することができるので、その楽園ぶりがいかほどのものかこの目で確かめに行くことにした。
ナッソーのダウンタウンには大型のホテルが少ないこともあり、観光客のリゾートの拠点は主にパラダイス・アイランドか西に4km程離れたケーブル・ビーチとなっている。パラダイス・アイランドに立ち並ぶホテルは皆リッチでゴージャスなのだが、その最高峰に君臨するのがアトランティスというテーマパーク型リゾートホテルである。
アトランティスホテルの中庭にあるプールや魅惑のアトラクションは主に宿泊客専用となっているのだが、観光客から金を巻き上げるカジノはアクセスフリーになっているのでリゾート客の散財ぶりを冷やかしにカジノを通過してみたのだが、昼の時間帯だったためディーラーも暇を持て余していた。
さらにアトランティスの目の前には豪華クルーザーが停泊するハーバーがあり、その周辺はショッピングセンターになっていたのでこのホテルに宿泊していなくても充分リゾートのおこぼれに預かることが出来るのだ。
10月9日(火)
早朝目を覚ますと港にはすでに昨日とは違うクジラの尻尾が突き刺さったようなクルーズ船が停泊していた。クルーズ船の乗客は下船するとローソン・スクエアというコンビニはない小さな広場を通過しておのおの街に繰り出す日常となっている。
ローソン・スクエアの近くにストロー・マーケットという土産物屋のたまり場があり、観光客はここでストロー(やしの木の葉を裂いてよったもの)製品や木彫りの置物を物色したり、バハマ・ママたちと仁義なき値段交渉をして交渉力を鍛えようとしていた。
政府庁舎を有するパーリアメント・スクエアにはコロニアル風のピンクの建物が立ち並んでいるのだが、バハマにピンク色の建物が多いのはフラミンゴを国鳥とし、シンボルカラーとしてフラミンゴ色を採用しているからだ。
ダウンタウンの路地には個性的な土産物屋や飲食店も多く、海賊をモチーフにした人形がそこかしこで観光客の目を楽しませてくれるのだ。
カリブ海というと海賊を連想してしまうのだが、カリブ海に海賊がいたのは実話で1700年代前半にはナッソーに2000~3000人もの海賊が住んでいたという。海賊に関する知識についてはパイレーツ・オブ・ナッソーという博物館($12)で学習することが出来るので早速入場してみたのだが、館内には臨場感たっぷりの人形や模型がマサにディズニーランドのカリブの海賊のように配置されているのだ。
途中で地元の小学生ツアーに合流し、彼らは海賊に扮した荒くれ男の説明を要所要所の生返事を加えながら律儀に聞き入っていた。一通り説明が終わって中庭に出ると記念写真撮影タイムとなり、青少年少女たちは代わる代わる海賊のオブジェを背にしてポーズを取っていた。
フラミンゴ色の建造物はすでに充分堪能したので今度は本物のフラミンゴを見るためにオーダストラ・ガーデン&動物園($16)に入園することにした。園内はそんなに広くはないのだが、飼育されている動物は鳥類、爬虫類、哺乳類と非常にバラエティに富んでおり、観光客は手を消毒してインコに餌をあげることも出来るのだ。
ネコ科の動物もSERVAL、OCELOT、JAGUARと取り揃えられており、それらが狭い檻の中をアクティブにのし歩く様子も間近にすることが出来たのだった。
ここでの最大のイベントは1日3回行われるフラミンゴのショーでフラミンゴ・アリーナに訓練されたカリビアン・フラミンゴを寄せ集め、アリーナ内を行進させるのと観光客に一本足のポーズを取らせてフラミンゴと記念写真を撮ることであった。
午後4時過ぎから海に入って波に揺られていたのだが、常夏と思われるバハマ諸島でも12月~3月の冬季には気温が下がるため、ビーチでくつろげるのは11月くらいまでかも知れないのだ。
10月10日(水)
Energy Surchargeと称してagodaに事前に支払っている宿泊料とは別に3泊分で$46.5を払わされたNassau Junkanoo Resortをチェックアウトすると沿岸部を走るバスに乗って空港まで2km程の距離のオレンジヒルビーチに移動し、そこから徒歩で空港まで向かった。歩いている途中で何故中森明菜がアルバムのレコーディングの地としてナッソーを選んだのか考えていたのだが、それは単に来たかっただけだろうという結論に至った。
ナッソー国際空港の米国行きのターミナルは他の国行きとは離れており、アメリカへの入国手続きもナッソー国際空港で行われるという離れ業が演じられていた。バハマ連邦はジャマイカと同じく英連邦加盟の国であるのだが、これではまるでアメリカの植民地ではないかと思われたのだった。何はともあれ12:40発のUA1462便に乗り込むと約3時間でニューアーク・リバティ空港に到着した。空港から列車と地下鉄を乗り継いでニューヨークでの定宿となってしまったHoward Johnson Bronxの最寄駅まで移動し、チェックイン後すぐにヤンキースタジアムに向かった。
マサよ、君はMLBのポストシーズンの試合を現場で見てサヨナラ勝ちの瞬間に見知らぬヤンキースファンとハイタッチを交わしたことがあるか!?
というわけで、アメリカン・リーグのディビジョン・シリーズであるボルチモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの戦いはすでにオリオールズの本拠地で1勝1敗となっており、第3戦はヤンキー・スタジアムでの初戦であったので試合前に選手紹介等のセレモニーが賑々しく行われていた。
試合はエース黒田の好投にもかかわらず、2対1とヤンキースがリードされて9回の裏を迎えた。4打席目のイチローがレフトライナーに倒れた後、度重なるチャンスに凡退を繰り返し、ヤンキースファンから辛辣なブーイングを浴びていた3番アレックス・ロドリゲスについに代打が出され、「Rauuuuu~L」の声援とともに勝負強いラウル・イバネスが打席に立った。イバネスが振り抜いた打球はライナーとなって右中間スタンドに突き刺さり、ついにヤンキースはスコアを振り出しに戻したのだった。
試合の方は延長戦に突入し、大歓声とともに12回の裏に先頭打者として打席に立ったイバネスが振り切った打球は大きな弧を描いてライトスタンドに舞い降りた。その瞬間にヤンキースタジアム全体に驚喜の嵐が吹き荒れ、観客は誰彼構わず隣近所同士でハイタッチを繰り返し、勝利の喜びを分かち合っていた。
10月11日(木)
昨日のヤンキースタジアムでの喧騒をひきずりながら入浴して身を清め、Howard Johnson Bronxをチェックアウトすると地下鉄でのんびりとJFK国際空港に向かっていた。12:30発NH009便は20分程の遅れを出したものの、眠れない機内で映画を3本ほど鑑賞しながら14時間近くのフライト時間をやり過ごしていた。
10月12日(金)
午後3時過ぎに成田空港に到着すると、実は間違って翌日の試合のチケットも購入していたため、ヤンキースタジアムに魂は残してきたと思いながら流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \127,140、Caribbean Airlines = $370.91、ユナイテッド航空 = \15,870
総宿泊費 \75,500
総ナッソーホテルEnergy Surcharge $46.5
総ニューヨークAirTrain、地下鉄代 $55
総ジャマイカタクシー代 $56
総ナッソーバス代 $1.5
協力
ANA、Caribbean Airlines、ユナイテッド航空、hotels.com、agoda、Ticketmaster.com