現職を退職すると同時に会社から貸与されていたブラックベリーを奉還しなければならなくなり、私の手元には国際電信電話株式会社のルーツを持つ割にはグローバル対応が出来ていないAUのWINという携帯電話しか残されていない状況に陥ってしまった。この機会に今はやりのスマートフォンでも導入しようと思い、ソフトバンクショップで最新機種であるガラパゴスの値段を聞くと、とても無職人の手の出る価格帯ではなかったので無難にAUのBRAVIAフォンに機種変更して矢沢永吉に仁義を切っておいた。
一方で、今回のツアーでは脱藩後の人生設計を確立するために「竜馬がゆく」5~8巻と多くの雑誌を携えて出立したのだが、はやりの電子書籍なるものを導入すれば荷物も軽くなったはずであろう。最近シャープ固有種の電子書籍であるガラパゴスが発売された割にはiPad程のセンセーションが沸き起こっていないのでとりあえずガラパゴスまで足を伸ばし、シャープのガラパゴスが独自の進化を遂げる過程をダーウィンと一緒に思い描かなければならくなったのだ。
2011年2月8日(火)
昨年10月にオープンした羽田空港の新国際線ターミナルに遅ればせながら初登場することとなった。新東京国際空港という名称から東京の看板をはずされて成田国際空港に格下げになっている成田空港を差し置いてアジアのハブ空港になる野望を持つ羽田空港国際線ターミナルに江戸小町という飲食店商店街が開業し、下総にあるために江戸とは名乗れない成田空港との決定的な差別化を目の当たりにすることとなった。
NH1006便ロサンゼルス行きに搭乗すべくANAのカウンターでチェックインしているとエドはるみのような丁寧な受け答えが身上のカウンター嬢からエコノミークラスが満席なのでビジネスクラスにアップグレードされた事実が告げられた。律儀なマサであれば「てやんでぇ~ 満席になった証拠を見せやがれ!」と手鼻をかみながら啖呵を切るところであったろうが、私はとりあえず「グー ググー ググー コォ~~!!」と心の中で叫んでおいた。
出国審査を抜け、免税品店街を遠巻きに眺めた後、ANA運行便をファーストクラスでご利用のお客様とダイヤモンドサービスメンバーしか入場を許されていないANA SUITE LOUNGEで生活することにした。羽田からの深夜便を利用する乗客はラウンジで散々飲み食いした後、搭乗後は速攻で寝るというライフスタイルが確立されているため、ラウンジにはフルコースの食事メニューが揃っていた。
2月9日(水)
NH1006便ロサンゼルス行きは日付の変わった午前0時過ぎに出発となり、さらなるシャンペンを流し込んで意識を無くすことに集中した。
2月8日(火)
午後5時近くにロサンゼルス国際空港に到着したのだが、驚いたことに日付が水曜日から火曜日に逆戻りしていた。これはマサにタイムボカンでも実現出来なかった新種のタイムマシンかと思い、頭をボカンと殴られた上に「おとといきやがれ」と罵られたようなショックを受け、HiltonHHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば$100くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHampton Inn Los Angels International Airportにチェックインし、ワルサーではなく、グロッキー状態となってダウンしてしまった。
2月9日(水)
折角のタイムスリップの機会を生かし、ダイナモンド探しに相当する貴重な経験をするために午前9時45分発のコンチネンタル航空CO1594便に乗り込むとヒュ~とひとっ飛びしてストンと下りたところはヒューストン・ジョージブッシュ・インターコンチネンタル空港であった。さらにCO653便に乗り継ぎ、南米エクアドルの首都であるキトに到着したのは午後10時20分頃であった。
今回のツアーはH.I.S. Internationalを通じてメトロポリタンツーリングというラテン系の旅行者に丸投げしておいたのでキトのマリスカル・スクレ国際空港に迎えに来ていたバンに乗り込み、深夜近くに☆☆☆☆☆ホテルであるメルキュールにチェックインを果たした。尚、キトは赤道直下の町とは言え、アンデス山脈の流れを汲む標高2850mの高地であり、しかも雨季なので気温は低く日本の冬に相当するいでたちで活動しなければならないのだ。
2月10日(木)
今日の午前中はキト市内の観光になっていたのでツアーガイドのエジソンとともに迎えに来たバンに乗り込み、他のホテルで数人の観光客をピックアップした後、キト旧市街に向かった。1978年にユネスコの世界文化遺産第一号に認定されたキトの旧市街は400年前の植民地時代の雰囲気を色濃く残している。街の中心は1809年8月10日の独立を記念した碑が建っている独立広場であり、碑の下にいるライオンに矢が刺さっているのは、スペイン(ライオン)の支配が終わった事を意味している。また、西側には衛兵に護衛された大統領府の白い建物が曇り空の下で光っている。
アルミ製の巨大なマリア像が見守るパネージョの丘を見上げながら歩いているとキトのランドマークとなっているラ・コンパニーア教会に到着した。この教会は1605年から163年もかけて建立されたのだが、教会全体の彫刻のすばらしさもさることながら写真撮影禁止の内部には約7トンの金を使って装飾した内装がきらびやかに輝いているのだ。
南米一古い歴史を持つサン・フランシスコ教会・修道院はスペインによる征服後まもなく(1535年)建立された頑丈な教会だったのだが、1987年の大地震であちこちが傷んでおり、内部は未だに修復中となっていた。教会前の石畳の広いサン・フランシスコ広場は市民の憩いの場所となっており、アンデスの民が華やかな色の布きれを売りさばこうと観光客の団体をマークしていた。
ツアー料金に含まれているということで近くの茶店に入り、コカコーラの代わりにコカ茶を発注した。コカ茶はコカインの原料であるコカの葉から作られており、高地が多い南米各地で一般的に飲まれているお茶で高山病に効果があると言われているのだ。尚、初期のコカ・コーラにもコカの成分が含まれていやがったそうだ。
キトから北へ20km、車で30分のところに赤道を記念して高さ30mにも及ぶ赤道記念碑が立てられているのでお約束通りに訪問しなければならなかった。なぜならエクアドルはスペイン語で赤道を意味し、ここに来なければエクアドルに来た意味がなくなってしまうからだ。ところで、南北の線を股にかけて満足したのは2008年8月のウガンダツアー(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2008uganda.html)以来だったのだが、線の色が赤ではなくオレンジだったのがこの国の詰めの甘さだと思われた。記念碑は展望台も兼ね、内部はエクアドルの民族博物館になっているのだが、貴重な民族関係の資料を写真撮影させていただくことは憚られているのだった。
2月11日(金)
午前7時過ぎにメトロポリタンツーリングの担当者がピックアップに来たのでバンに乗り込み、キト空港に向かった。空港からタメ航空195便に乗り、グアヤキルを経由してガラパゴスのサンクリストバル空港に向かって高度を下ろしていると美しい青い海と緑の大地のコントラストが眼下に広がった。
1978年に世界自然遺産第一号として登録されたガラパゴス諸島は南米大陸エクアドルの沖960kmの海上に浮かぶ島々でエクアドル本土とは1時間の時差がある。正午過ぎに空港に到着すると厳格な入島審査の最中に観光客は入島税としてUS$100を奉納し、晴れてガラパゴスへの侵入が許されることになる。
ガラパゴスエコツアーの先駆けとして名高いメトロポリタンツーリングが催行するクルーズは3泊4日、4泊5日、7泊8日と3種類あるのだが、今回は手ごろな3泊4日クルーズに申し込んでいたので、そのクルーズ船であるサンタクルス号が停泊してある港までバスで向かった。眩しいほどに青い洋上には数多くのクルーズ船や漁船が浮かんでおり、桟橋には怠惰なアシカたちがのん気に昼寝をこいていたのだった。
ツアー客はパンガ(別名ゾディアック)と呼ばれるゴムボートに次々と乗り込み、沖合いのサンタクルス号に向かったのだが、その途中でアシカに占拠された漁船やそれを冷ややかに見守るペリカンの姿に遭遇した。
サンタクルス号のスペックは全長72.35m、幅11.85m、収容乗客数90名というガラパゴスクルーズ船の中では大きいほうで、屋上にはサンデッキ、バーやジャグジーまで付いている豪華船である。早速メインデッキのバー・ラウンジで登録を済ませ、アッパーデッキにある窓から海を見下ろす客室に荷物を放り込むとダイニングルームで昼食を取らせていただくことと成った。
昼食後に簡単なブリーフィングが行われ、ガラパゴスには人間の生命に危険を及ぼすようなエキサイティングな生物はいないが爬虫類を中心にユニークな固有種が多いことが確認された。引き続きサンデッキでスノーケルギアを選んでいるとまもなく最初のランディングポイントであるサンクリストバル島のセロブルーホに到着した。
パンガに乗りビーチにウェットランディングで上陸するといきなり二日酔いのオヤジがゲロを吐いてのた打ち回っているようなアシカの鳴き声に迎えられた。さらに砂浜には色黒のウミイグアナが徘徊し、岩場には茹でてもいないのに真っ赤なカニが這い回っていた。
観光客はおのおのビーチの散策や海水浴やスノーケルにいそしんでいたのだが、その間にもガラパゴスミヤコドリは潮間帯に生きる小さなカニや貝を捕捉しようと歩き回り、カツオドリはピンポイントで魚を捕らえようとダイビングを繰り返していた。
乳飲み子を抱えたガラパゴスアシカはしきりに胸ビレでまとわり付くハエを追い払っていたのだが、周りを取り巻く人類には無関心で自ら絶好の被写体となり、図らずも観光客を喜ばせていた。
船に戻ると程なくしてウェルカムパーティーが開始され、船員やガイドやスタッフ等の紹介や挨拶が行われた。今回のクルーズでは世界11ヶ国から参加者が集まっているのだが、アジア人は私しかいなかったのでツアー中はガラパゴスの動物並みの希少人種としての振る舞いを余儀なくされることになったのだった。
2月12日(土)
午前6時のモーニングコールで覚醒し、あわただしくビュッフェの朝食を食した後、7時にはエスパニョーラ島のプンタスアレスにドライランディングする運びとなった。
この島はガラパゴス諸島内で最も古く400万年前に形成されたといわれている。また、ここでは他の地域では見られない赤いウミイグアナを間近にすることが出来、そのあまりの美しさに親戚であるはずのヨウガントカゲも顔を真っ赤にして照れているのである。
ビーチでしきりにイナバウアーを繰り返しているアシカに高い芸術点を与えることもなく、川辺の石を思わせる枕上溶岩の上を歩く3時間にも及ぶ過酷なトレッキングが開始された。
岩場の高台にガラパゴス食物連鎖の頂点に君臨するタカ派のガラパゴスノスリがその鋭いくちばしとカギ爪を隠そうともせず周囲を見渡していた。その下の岩が突き出た大地は羽を広げると2m以上に達するガラパゴスアホウドリの繁殖地になっているのだが、群れはすでにペルーの沖合いに飛び立っており、廃墟のようになっていた。
アホウドリはすでに巣立っていたのだが、ガラパゴスマスクカツオドリはいまだに繁殖と子育ての最中であった。尚、磯野家との関係が取りざたされるはずのカツオドリは英名でブービーと呼ばれているのでやつらが巣立つ順番はビリから2番目ではないかと思われた。
真っ青な足が眩しいガラパゴスアオアシカツオドリが人類の接近も恐れずに岩の上に佇んでいた。尚、ガラパゴスにはアカアシカツオドリも生息しているのだが個体数が少ないため、めったにお目にかかることはないのだが、その代わりに結膜炎を患ったような赤い目を持つアカメカモメが私の前を横切っていったのだった。
きれいな海と鮮やかな色の動物達が印象に残ったエスパニョーラ島を後にすると船は次の目的地であるフロレアーナ島を目指していた。船が順調に航行していたその時、突然バンドウイルカの群れが姿を現し、船と伴走したり、船の前を先導するように泳ぎ始めた。そのため船上からは城みちるもアイドル時代に乗ったことがあるはずのイルカの背中を長時間観察することが出来たのであった。
フロレアーナ島でのアクティビティはディープウォータースノーケリングとグラスボトムボートの2組に分けられたので私は果敢にもスノーケリングに参加して潮の流れに逆らってみることにした。ガラパゴスは赤道直下に位置しているとはいえ、南極からの冷たい海流の影響で比較的寒冷な気候となっており、実際に海の中では冷たい流れと暖かい流れが交わっているポイントがあったのだった。
スノーケリングが終了すると島を散策する機会が与えられたので緑濃いトレイルを歩いてみることにした。マングローブに囲まれた大きな沼はフラミンゴの生息地であるのだが、一羽も居住していなかったので対岸のビーチまで歩を進めて海ガメの産卵地の夢の跡を見物してお茶を濁しておいた。
雨季にもかかわらず晴れ渡ったガラパゴスにサンセットが訪れ、西の空が茜色に染まり始めた。ガラパゴスのアクティビティは日中の酷暑を避けるため、早朝と午後3時以降に集中して行われるため、サンライズとサンセットの絶景はクルーズの定番となっているのだ。
2月13日(日)
午前8時よりガラパゴス諸島で一番新しいと言われているフェルナンディーナ島のプンタエスピノーサというポイントに上陸することとなった。ガラパゴス諸島はハワイ諸島と同様に海底火山の隆起により形成されているのだが、この島は過去200年の間に24回も噴火した実績を持つ非常にアクティブな島なのである。
マングローブが生い茂る上陸ポイントにドライランディングするといきなりウミイグアナの絨毯に遭遇し、観光客はそのおぞましさから足のすくむ思いをさせられることになる。
いかにも最近溶岩が流れましたという毒々しい黒い大地を歩いているとクジラの骨がわざとらしく陳列されており、ガイドのニコラスによる説明が加えられたのでそれをおとなしく聞いてやらなければならなかった。
クレバスが縦横無尽に走る黒い大地の所々には溶岩サボテンがニョキニョキと生えており、淡水と海水が混ざる汽水地帯はアカウミガメの格好の保養所となっているようだった。
ビーチはウミイグアナの繁殖地となっており、土木工事担当のメスのイグアナがしきりに穴を掘っていやがった。近くには過酷な労働のために殉職したはずのイグアナの遺体も遺棄されているのだが、それらはカニやトカゲのデザートとして重要な栄養源になっていることが確認できた。
腕立て伏せの得意なヨウガントカゲが外的を威嚇するように筋力トレーニングを行っている脇をすり抜け、不貞寝アシカを起こさないように注意しながら船に戻るとほどなく昼食の時間となった。
クルーズ船サンタクルスで供される食事はおおむね豪華で今日の昼食はおおぶりのエビのカクテルのオードブルで始まるエクアドルをフィーチャーしたメニューであった。中でもローストされて恨めしそうなブタの目とラテン系ではじけるようなシェフの笑顔が対照的であったのだった。
マサよ、君は赤道直下の暖かい海で小さなペンギンの鋭い攻撃を紙一重でかわしたことがあるか!?
ということで、タツノオトシゴをほうふつとさせるガラパゴス諸島最大の島であるイサベラ島プンタ・ビセンテ・ロカというポイントに船は錨を降ろした。目の前は見上げる程の断崖絶壁がそびえているのでここでの上陸は出来ないため、おのずとパンガを使ったアクティビティになる。
グループは再び2つに分けられ一組はパンガでのクルージングに専念する代わりにもう一組はディープウォータースノーケリングで最後の力を振り絞ることになる。海に飛び込む前にパンガで近辺を徘徊しながらこのあたりの生態系の説明が行われた。岩場に張り付いている動物はアシカよりも一回り小さい割には毛深いオットセイであり、かつてはその毛皮目当てに乱獲され、生息数が著しく減少した時期もあったそうだ。
世界で3番目に小さいガラパゴスペンギンはフンボルト海流に乗ってマゼランペンギンが漂流して来やがったと言われているが、近年ではエルニーニョ現象の影響で生息数が激減し、希少価値が増しているのである。
波のおだやかな海の中は珊瑚はないもののカラフルな地形となっており、巨大なブダイの格好の棲家となっていた。海底には多くのガラパゴスアオウミガメがへばり付いており、容易に引き剥がせないような頑固さを誇っていた。
ガラパゴスに居住している動物は何故か人類を恐れないどころか自ら近づいてくるような好奇心の強さを示しているのだが、海中でも例外でなく、アシカ等があしからずとまとわりついてくるのだった。ふと高速で飛行するような黒いシルエットが目の前を横切ったかと思うと急速方向転換して陸の王者であるはずの私にマイルドな攻撃を加えてきた。防水機能付きのコンパクトデジカメであっても一眼レフのように使いこなす技量を持つ私はすぐに体制を入れ替えるとかろうじて水中を飛ぶガラパゴスペンギンの勇姿をフラッシュメモリーに刻みつけることが出来たのであった。
2月14日(月)
昨晩のうちに船はガラパゴス諸島の中心に位置するサンタクルス島北部沖合いに錨を降ろしていたので、クルーズ最終日は早朝7時に早々とチェックアウトし、下船の運びとなった。
港に迎えに来ていたバスに乗り込むと一行はサンタクルス島を北から南に縦断し、プエルト・アヨラというガラパゴス最大の町を抜けてチャールズ・ダーウィン研究所に到着した。
ガラパゴとはスペイン語でゾウガメを意味するところからゾウガメがガラパゴスという名の由来になっているのだが、1964年に設立されたチャールズ・ダーウィン研究所では特にゾウガメの飼育観察を盛んに行い、乱獲により激減した個体数の回復を図っている。子ガメは生まれると各年次毎に卵から帰った順番を表す背番号で管理され、2010年物はなかなかの出来であることが確認出来た。
成長して大きくなったビンテージ亀には広くて快適な生活空間が与えられ、ガラパゴス諸島各島に生息する固有種ごとに管理されているのだが、甲羅の形状を見るだけで明らかに違いがあることがわかるのである。
チャールズ・ダーウィン研究所のスター的存在として君臨しているロンサム・ジョージというピンタ島に生き残った最後の1頭のゾウガメがひとり旅でこの場所に連れて来られていた。。日本名で山本と名乗るかどうかは確認出来なかったのだが、♪ここでぇ いっしょにぃ死ねたらいいとぉ♪思えるような伴侶を首を長くして待っているという。結婚相談所も兼ねているはずのダーウィン研究者は総力を上げてピンタ島固有種に遺伝子レベルの近いメスガメを紹介してあげたのだが、ジョージは面食いだったようで興味を示していないのだ。
今回のツアーで海草好きなウミイグアナは嫌と言うほど見ることが出来たのだが、陸上で独自の進化を遂げたガラパゴスリクイグアナには出会うことが出来なかった。リクイグアナはウミイグアナと比べて肉や皮が珍重されたために乱獲された過去を持ち、さらに人間が持ち込んだヤギやブタがリクイグアナの大好物であるサボテンを食い荒らしたために生息数が激減していたのだ。そこでダーウィン研究所では色鮮やかなリクイグアナの保護、育成も重要なミッションとなっているのだ。
キオスクでお土産を買うこともなくダーウィン研究所を後にすると再びバスに乗り込み島北部の港に帰って行った。港から連絡船に乗り、ガラパゴスペリカンに見送られながらバルトラ島に向かった。
過去米軍に接収されていたバルトラ島の空港はガラパゴスのもうひとつの空の玄関口となっており、キトやグアヤキルから頻繁にフライトが出ているのである。正午過ぎに離陸したタメ航空192便に乗り込むと眼下の景色を眺めながらガラパゴスとの別れを惜しむと同時に官僚機構という暖流で独自の進化を遂げているはずのマサもここで進化論を会得しなければならないと考えていた。
人口300万人を誇るエクアドル最大の都市であるグアヤキルのシモン・ボリーバル国際空港に到着したのは午後3時を回った頃だった。迎えのバンでセントロの☆☆☆☆☆ホテルであるユニパークまで移動し、速攻でチェックインして街の散策に繰り出すことにした。ホテルの目の前に巨大なゴシック様式のカテドラルがあり、そのふもとにセミナリオ公園がグアヤキルの中心的公園としてその地位を確立しているので気軽に入ってみることにした。
ガラパゴス諸島を後にする際にイグアナとはすっぱり縁を切ったはずなのに、なんとこの公園には緑色が眩しいリクイグアナがぞろぞろとうごめき、子供たちの絶好の遊び相手となっていた。通称イグアナ公園と呼ばれているこの公園にはカメや魚も飼われており、大都市における市民の憩いの場となっているのだった。
グアヤキルはグアヤス川に沿って発展してきた港町で、約2.4kmにわたる遊歩道は「マレコン2000」と呼ばれる市内最大のエンターテインメント・スポットになっている。少子化が叫ばれる日本と違って、この場所にはおびただしい数の子供の歓声が上がっており、この国の将来はイグアナと共に安泰であることを確信させられるのである。
グアヤキルで最も古いサンタ・アナの丘周辺はスペイン統治時代の面影が残る一画である。丘へ上る石畳の階段には、ご丁寧に一段一段、段数が刻まれており、444段で頂上にたどり着くことが出来るのだ。階段の両脇にはカラフルな建物に入居したレストランやバーがひしめきあっており、頂上には海賊船のオブジェや教会があり、、さらに灯台型の展望台からグアヤキルの町並みを一望出来るようになっているのだ。
2月15日(火)
午前4時半という早朝にもかかわらず、メトロポリタンツーリングは律儀にもツアーガイドと運転手の2人体制で迎えに来たのでバンに乗り込み、グアヤキル空港に向かった。午前6時23分発コパ航空CM300便に乗り込むと2時間程度でパナマシティに到着した。さらにコンチネンタル航空CO873便に乗り換え、4時間以上のフライトでヒューストンに到着後、米国入国を果たした時間は次の便の出発間近になってしまったため、広い空港でマラソンをさせられながらもCO137便に乗り継ぎ、ロサンゼルスに到着したのは午後5時くらいであった。
2月16日(水)
日付の変わった夜中の12時10分にNH1005便は離陸したのだが、16日という日は空の上で霧のように消え去ってしまった。ところで、CDMA方式というマイナーな技術を採用してしまったAUの携帯こそマサにメジャーな3Gという環境から隔絶され、独自の進化を遂げたガラパゴスそのものなので今更ソフトバンクショップに頭を下げさせてシャープのガラパゴスを買う必要はないとの結論はとうに下されていたのだった。
2月17日(木)
早朝5時半過ぎに羽田空港に到着し、無職人であるにもかかわらず、そのまま何食わぬ顔で会社に行って業務が出来るかどうかのシミュレーションをするためにANAのArrival Loungeに入ってみることにした。さすがに旅行者から仕事人への変貌をサポートするためにラウンジ内には多くのシャワー室が設置されているのだが、もはやビールやワイン等の酒類はここでは供されることはないのである。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥32,740 、コンチネンタル航空 = ¥81,710
総宿泊費 ただ
総ガラパゴス島入島税 $100
総グアヤキル空港出国税 $29.78
総ガラパゴスクルーズ代 $3,790
協力 ANA、コンチネンタル航空、HiltonHHonors、メトロポリタンツーリング(http://www.metropolitan-touring.com/)、H.I.S. International Tours