今から20年前の1990年にすでに海外進出を目論んでいた私であったが、その一歩を踏み出すべく当時の勤務先であった大和証券の6ヶ月海外インターン制度に応募したものの営業成績優秀な社員を流出させるわけにはいかないということで、その選に漏れてしまった。その代わりに同期の大和証券甲府支店の深田君が選出され、晴れてジャカルタに流されることになったのだった。それ以来ジャカルタに行かなければならないという観念に捕らわれてしまっていたのだが、ついに深田君の無念を晴らすべく立ち上がる時が訪れたのだった。
2010年2月11日(木)
午後5時25分発NH901便は定刻通りに出発し、深夜12時過ぎにシンガポール・チャンギ国際空港に到着した。空港での定宿となっているアンバサダー・トランジットホテルにチェックインすると5時間程度の束の間の仮眠を取るべき意識を失うこととなった。
2月12日(金)
早朝トランジットホテルをチェックアウトするとシンガポール航空のラウンジにしけこみ、朝食としてゆで卵等を食した後、午前7時50分発シンガポール航空SQ952便ジャカルタ行きに搭乗すると1時間の時差を越えて8時30分に曽我ひとみさんとジェンキンズさんが感動の再開を果たしたスカルノ・ハッタ国際空港に到着した。インドネシアへの入国をつつがなく果たした頃、ゆで卵の効力が効いてきた様子で板東英二の幻影に支配されることになり、ジャカルタ都心部へ侵入する代わりに空港から直接バンドンを目指すことになってしまったのだ。
9時半過ぎに10人乗りのバンに乗り込むと首都ジャカルタから東南に約200km離れたスンダ地方の中心であり、人口200万人を誇る大都市バンドンに正午前に到着した。バンから降りた地点が郊外だったらしく、市の中心部にたどり着くまでに思わず世界ふしぎ発見の気分を味わうことになってしまった。降りしきる雨の中、何とか今日の宿泊地であるHilton Bandungまで辿りつくと早速街の喧騒に繰り出すことにした。
歩行者用信号の機能していないバンドンの市街地は人と車と原チャリでごった返しており、道路を横断するのも車とバイクの流れを遮る勇気とタイミングが重要であることを思い知らされた。バンドンは1955年に第一回アジア・アフリカ会議が行われた場所として世界史の教科書にその功績が記されているのだが、その会議場が博物館として公開されている。今回は館内を見物することが出来なかったのだが、このAA会議には主催国のスカルノをはじめ、周恩来、ホー・チ・ミン、ナゼルなど29ヶ国の代表が勢ぞろいし、その後の反植民地主義運動に大きな影響を与えたと言われている。しかし当時は徳島商業に入学する前であったはずの板東英二は残念ながらこの会議への参加は許されなかったので、今では世界ふしぎ発見の回答者として溜飲を下げているのである。
雨季のジャワ島は毎日のようにスコールが激しく降りしきっている様子で、雨宿りしたショッピングセンターで開催されていた少女伝統舞踊コンテストを彷彿とさせる催し物を見ながら時間を潰していた。しかし雨脚が一向に弱まる気配がないので落雷の恐怖におびえながらも混雑する道をホテルに引き返すことを余儀なくされたのだった。
2月13日(土)
眼下に広がる巨大プールとバンドンの街並みを見渡す高級ホテルHiltonをチェックアウトすると街の中心として栄えている広場であるアルンアルンに向かった。この広場には何があるんだろうと思ってあたりを見渡すとモスクの巨大尖塔が天に向かってそびえており、下界では原住民に安価であるはずの飲食物を提供する出店が数多く展開され、皆思い思いにのどかな休日を過ごしているようであった。
アルンアルン広場から東に400mの地点にサボイ・ホマンという古き格調ある歴史的ホテルが存在している。1888年オープンのこのホテルには第一回アジア・アフリカ会議の際に各国首脳が宿泊したことで知られているのだが、板東英二の定宿にはなっていないようだった。反植民地化の勢いを駆ってゆで卵顔女性の胸像に圧倒される独立公園に侵入したのだが、そこでは何故か女子学生が行進の練習をしている光景が目に焼きついてしまった。
結局バンドンと板東英二との関連の解明には至らなかったため、Hoka Hoka Bentoの出店が見られるバンドン駅から列車パラヒャガン号のエクセクティフクラスに乗り、インドネシアの首都ジャカルタに戻ることにした。列車が線路脇に密集するスラム系の住宅街を抜けると車窓からはジャワ島のジャングルを開墾して形成した美しい棚田が次々と流れていった。
あたりの景色が深い緑からスラム系瓦茶色に変化し、ついには摩天楼が姿を現した頃、かつてスカルノ大統領の愛人から第三夫人に成り上がったデヴィ夫人が幅を効かせていたはずのジャカルタに足を踏み入れることとなってしまった。パラヒャガン号がジャカルタの中心部に位置するガンビル駅に到着した時間は夕刻4時近くでしかも小雨が降っていたため、とりあえずホテルに向かうためにちょっとした街歩きをかますことにした。
人口1100万人を誇り、東南アジア最大の都市であるジャカルタにヤシの木のように生えている摩天楼を見上げながら歩いていると意外ににデブ夫人のような恰幅系の女性には遭遇しなかった。これもひとえに赤道直下の熱帯気候により活発になった新陳代謝の賜物であると思われた。それと同時にJAL破綻の遠因となっているはずの放漫ホテル経営を象徴する巨大な箱物NIKKO JAKARTAもリストラの対象にならなければならないはずである。
STARWOODSのポイントが余っていたのでマサであればUS$50くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るル・メリディアン ジャカルタホテルにチェックインし、夕食のビュッフェレストランでデヴィ夫人がデブ夫人に成長しないように厳密にカロリー計算されたメニューに舌鼓を打ちながらジャカルタの夜は更けていった。
2月14日(日)
ジャカルタでの安全確保のためにスリの出没の多い市内バスは避け、比較的安全なトランス・ジャカルタという専用道路を走るバスに乗車した。日曜日の今日は何がしかの祭りが行われているような雰囲気でパレードの列が歩行者天国となっている幹線道路を練り歩いていた。
国立中央博物館前で下車し、その足で博物館に向かったのだが、何故か休館だったため、若い頃に東洋の真珠と評された美貌を誇るデヴィ夫人のようなインドネシア通に成り上がるという野望は断念せざるを得なかった。ところで美川憲一グループ所属のデヴィ夫人の本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと言うのだが、旧名(日本名)は根本七保子だと言う事実は美川憲一や神田うのであっても知らないのではないかと思われた。尚、奴は軍事クーデターによりスカルノ大統領が失脚するとフランスへとっとと亡命しやがったのであった。
ジャカルタ中心地のシンボルとして独立記念塔(モナス)がそびえているので広大なムルデカ広場となっているその敷地内に足を踏み入れようとしたのだが、柵で囲まれたその広場は容易に市民の侵入を許さない構造になっており、入り口にたどり着くまでに数百mもの距離を汗だくになって歩かなければならなかった。
ここムルデカ広場でも何らかの催し物が行われている様子でチープな仮装パレード等で大変な賑わいを見せていた。独立記念塔はエスニックなレリーフが施された壁で囲まれており、Rp2000を支払って中に入ると台座部分が博物館になっており、インドネシアの歴史を48のジオラマで学習することが出来るようになっている。しかし、展望台へのエレベーターに乗るためにはインドネシア人と一緒に長蛇の列に並ぶ必要があったので慎んで辞退させていただいた。
マサよ、君はかつてのオランダ東インド会社の拠点バタビアに足を踏み入れ、おびただしい数の停泊船を見ながらそれらがはるばる長崎まで来やがっていた鎖国時代の光景に思いを馳せたことがあるか!?
ということで、トランス・ジャカルタでジャカルタ湾に面した北部のコタ地区まで足をのばすことにした。オランダ植民地時代にはジャカルタはバタビアと呼ばれ、港町として栄えていた。その政治の中心地だっだのが旧市街のコタであるのだが、今ではすっかりさびれてしまっている。スンダ・クラバ港が当時の港町の繁栄を思い起こさせるかのように数多くの観光バスを集めているのだが、そこにはおびただしい数のピニシと呼ばれる古い木造帆船が停泊し、忙しく荷揚作業を行っている様子を垣間見ることが出来る。また、ジャワ海を航海する原住船員が観光客を船内に招きいれ、船の模型等の土産物を売りつけようと躍起になっていた。
海洋博物館(Rp2000)の見張り塔に登り、さわやかな風を受けながら港の遠景を見ていると西洋人をガイドしているツアーガイドのおっさんがここは天然のクーラーだと自慢すると同時に日本人の連中はこのような光景にはあまり興味を示さず、とっとと有名スポットに流れていってしまうぜと皮肉交じりに話していた。
さびれているとはいえ、当時のバタビアの繁栄をかすかに残すコタ地区にオランダ統治の面影である跳ね橋がドブ川系の川に架かっている。しかし1980年代前半に改修されたこの跳ね橋は通路面をアスファルト舗装で固定してしまったため、もはや跳ねることが出来ない代物と化してしまっているのだ。
コタ駅の北側にあるファタヒラ広場には現在博物館になっているコロニアルな建物がいくつかあるのだが、この広場も何らかの祭りの会場となっているようであった。1627年に市庁舎として建立されたジャカルタ歴史博物館(Rp2000)に入場したのだが、館内は不法地帯の様相を呈しており、オランダ総督が使った家具や陶磁器などの触ってはいけないはずのコレクションに対して原住民達は代わる代わる手に取りながら写真撮影を凶行していやがった。
バタビアから船を漕いで長崎まで来ていたオランダ人の拠点の謎を解明することに成功した勢いを駆ってトランス・ジャカルタで一気にブロックMまで南下することにした。大都市ジャカルタを代表するショッピングエリアであるブロックMに深田君も休日の暇つぶしに来ていたはずの巨大デパート「バサラヤ」が君臨していたので買う気もないのに見物することにした。さすがにイスラム教勢力の強い国のデパートだけあり、館内にはイスラムファッション専用のフロアもあり、雑貨用品を売りさばいているフロアでは仏教やヒンズー教関連の民芸品も数多く取り揃えられていた。
ジャカルタの喧騒の中で深田君の深いため息が聞こえてきたような錯覚を覚えたのでガンビル駅前の空港バス乗場からバスに乗り、スカルノ・ハッタ国際空港に帰って行った。尚、国際ターミナルの外見はチープに見えるのだが、内部は数多くの免税品店で溢れかえっており、デヴィ夫人がまとめて土産物を買う時に困らないような配慮がなされているかのようであった。
午後7時5分発のSQ963で午後9時半頃にはシンガポールに戻ったものの、成田へ帰国するANA便が1時間半程遅れるという衝撃の事実に直面してしまったのでシンガポール空港のファーストクラスラウンジで不貞寝を決めこむしかなかった。
2月15日(月)
日付の変わった午前1時前に出発となってしまったNH902便に乗り込み、午前9時過ぎに成田に到着。流れ解散後、午後から裏の仕事へ・・・
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥15,370, シンガポール航空 = S$506.-
総宿泊費 S$68.27, Rp1,687,950 (Rp1 = ¥0.0127)
総空港バス代 Rp110,000
総鉄道代 Rp50,000
総Trans Jakarta代 Rp14,000
総インドネシアビザ代 US$25
総空港使用料 Rp150,000
協力 ANA,シンガポール航空, HILTONHHONORS, STARWOODS HOTELS