バラ咲くブルガリアとルーマニアドラキュラツアー

前回のエチオピアツアーで患ったお腹のグルグル感が未だに解消されていないので腸内の調整が必要であると考えた時にふと善玉菌の存在が脳内をよぎってしまった。善玉菌は主に明治ブルガリアヨーグルトに含まれているそうなので世界に冠たるヨーグルト立国であるはずのブルガリア方面へのツアーが企画され、即座に実行に移されることになったのだ。

2012年5月2日(水)

東欧へのアクセスが便利なイスタンブールをハブ空港とするトルコ航空TK51便は到着機材の遅れのため1時間成田からの出発が遅れてしまったものの無事に20:00発TK1029便に乗り継ぐことが出来、ブルガリアの首都ソフィア・ヴラジデブナ国際空港に夜の10時頃到着した。空港バスに乗り込み、30分程走って到着した先はどうやらソフィア大学の近くだったのだが、この大学の日本名が上智大学であるのかどうかは知る由も無かった。

ともかく予約している宿を目指して歩き始めたのだが、暗闇からブルガリア出身力士の琴欧洲のような大関が現れていきなり寄り切られてはたまらないので周囲への警戒を怠らなかった。多少人通りのある町中にはアルファベットではなくロシア語のようなキリル文字が溢れていたので多少不安感を感じていたものの日付が変わる前に何とかagodaに予約させておいたMaxim Boutique Hotelにしけ込むことに成功した。

5月3日(木)

ブルガリアのホテルに居ながらにして朝食にヨーグルトが供されない状況に納得出来ないままソフィアの町中に出てみると道行く女性の何人かはソフィア・ローレンやソフィー・マルソーのようなソフィスティケートされたレディだったのでとりあえず腹の虫を抑えることは出来たのだ。

ソフィア市街の南西にあるオフチャ・クベル・バスターミナルまで辿り着くと10:20発のバスに乗って人里離れた深い山々に囲まれたブルガリア最大の見所に向かった。3時間もの時間をかけて到着した目的地はブルガリア正教の総本山ともいうべきリラの僧院(世界遺産)で壁の向こうにはこの世のものとは思えない別世界が広がっていた。

リラの僧院はもともと10世紀に建立されたのだが、現在の形になったのは14世紀でその後ブルガリアは約500年間にわたってオスマン朝の支配下に入ることになった。その間はキリスト教の信仰はもちろんのこと、ブルガリア語の書物を読むことも制限されていたのだが、この僧院だけはそれらが黙認されていたという。

僧院の中心には4階建ての外陣に囲まれて建っている聖母誕生教会が君臨している。白と黒の横縞模様が眩しいアーチをくぐると外壁の壁面と天井に隙間無く描かれたフレスコ画に圧倒されることになる。写真撮影厳禁の内部にはイコノタスという幅が10mもある立派な壁が立ちはだかり、その壁面には精緻な彫刻が施され、さらに金箔で彩られている豪華版であった。

リラの僧院は1833年の大火で古い建物はほとんど焼け、その後復旧された代物であるが、聖母誕生教会の横に寄り添っているフレリョの塔は消失を免れ、14世紀に建てられた当時のままの姿で残っている。尚、塔の1階の土産物屋は14世紀の竣工当時から商売を営んでいたのかどうかは定かではなかった。

リラの僧院を退院して、来た時と同じバスに乗り込み、ソフィア市街に帰り着いたのは午後6時くらいの時間帯であった。トランヴァイに乗って町の中心部に戻ると東西の文化が混在した独特な雰囲気の町並みを眺めながら歩いていた。

バルカン半島で最も美しいといわれる教会であるアレクサンダル・ネフスキー寺院が威厳のあるたたずまいで12の黄金のドームを光らせていたので収容人員5000人を誇る内部に入ってみることにした。この寺院はブルガリア独立のきっかけとなった露土戦争(1877年~1878年)で戦死した約20万人のロシア人兵士を慰霊する目的で建てられたもので一番豪華な中央の祭壇はロシアに捧げられているのだ。

アレクサンダル・ネフシキー寺院とは対照的な質素な教会がひっそりと佇んでいる。ソフィアという町の名はブルガリアの栄枯盛衰を見守ってきたこの聖ソフィア教会に由来するもので、ソフィアはギリシア語で「知恵」を意味するという。尚、その中で最上級のものを自画自賛する上智がどういった位置づけにあるのかは四谷に行かないと分からないであろう。

5月4日(金)

早朝よりソフィア中心部の教会・遺跡巡りに精を出すことにした。ソフィアに現存する最古の教会は4世紀にローマ帝国によって建てられた聖ゲオルギ教会で高級ホテルのシェラトンや博物館の建物に守られるようにしてかろうじてその威厳を保っているようだった。

地下に目を移すと旧共産党本部での地下鉄工事の際に偶然発見された古代の城塞都市セルディカの遺跡がひっそりと眠っている。石造りのブルガリア正教の教会である聖ネデリャ教会は朝の出勤前の淑女がロウソクを捧げ、内部はおびただしい数の灯されたロウソクで壁に描かれたイコンを照らし出している。

1566年にオスマン朝最高の建築家といわれるミマール・スィナンによって設計されたイスラム寺院はバーニャ・バシ・ジャーミヤである。トルコ語で「風呂」を意味するバーニャの名の通り、このモスクの裏の公園には飲用の温泉が湧き出ており、ペットボトルで汲みに来ている善良な市民の姿も見受けられた。

ブルガリアくんだりまで来てヨーグルトに関する成果が上がっていないことを遺憾に思ったので、ヨーグルトほど知られていないが、実は世界市場の7割を占めるバラの香料の産地であるブルガリア中部のバラの谷へのツアーを強行することにした。ソフィア中央駅隣の中央バスターミナルから10:30発のバスに乗り、3時間以上かけてカザンラクというバラの谷の中心地までやって来た。

早速セヴトポリス広場の近くにあるインフォメーションで地図を入手すると町の中心から少し離れた場所に位置するバラ博物館を見学することにした。館内にはバラをばらばらにして絞る機械や香油のサンプルが展示されており、バラの香油が非常に貴重な産物であることが容易に理解出来る展示内容になっていた。

見学の途中からバラの香油にはリラックス効果はあるが痩身効果が無いことを体現しているおばちゃんガイドが登場し、英語での解説が加えられた。琴欧洲より横幅の広いおばちゃんの言うことにはバラの花が咲くのは5月中旬からで今はまだ時期尚早でやはり「バラ祭り」の開催される6月の最初の週がベストであるとのことであった。館内にはバラ祭りや歴代バラの女王の写真も展示されているのだが、バラの精油を1kg得るためには3000kgものバラを琴欧洲より強い握力で絞らなくてはならないので必然的に逞しくなるのはいたしかたないと思われた。

バラの満開の時期にはまだ早すぎたものの、バラ博物館を擁する研究所の敷地内のビニールハウスにて数種類のバラが試験栽培されていたので水やりをしているおっさんの許可を得て中に入ってみることにした。尚、先ほどのおばちゃんガイドの説明を思い返すとブルガリアで栽培される芳香用のバラは通常見かける観賞用のバラよりも小ぶりだが香りが強いということだったのだが、ハウスで咲いているバラエティに富んだ数種類のバラもそのような特性を持ったものであった。

結局カザンラクでの滞在は2時間程度だったのだが、バラの香水や石鹸等を入手して意気揚々と午後4時発のソフィア行きのバスに乗り込んだ。7時過ぎに若干治安の怪しそうな雰囲気を漂わせているソフィア駅で夜行列車の切符を購入すると移動手段兼宿泊施設となるモスクワ行きの寝台車に乗り込んだ。

ソフィアからブカレストまでの乗車券+寝台車の料金はわずか61レヴァ(日本円で¥3000程度)と大変お得でしかも空いていたので4つのベッドがあるコンパートメントを占拠してくつろいでいると隣のコンパートメントに居住しているおばちゃん車掌からシーツとタオルを差し入れていただいた。そそくさとベッドメーキングを済ませると列車は定刻午後8時半に出発となった。

5月5日(土)

早朝3時過ぎにルーマニアとの国境駅であるルセに到着し、車内でパスポートに出国のスタンプを押してもらうと次の駅であるCIURGIUでは乗り込んできた制服姿のおっさんにパスポートを預けてルーマニア入国の手続きをしていただいた。

列車は30分程遅れたが、午前7時前にはルーマニアの首都であるブカレストの北駅に到着した。車のキーを見せながら忍び寄る怪しい白タクの運転手の勧誘をかわして駅構内のマクドナルドで朝飯を食うことにした。すでに駅のATMでルーマニアの通貨であるレイ(RON)を引き出していたのでカウンターでエッグマックマフィンとコーヒーを発注したのだが、店員はハッシュポテト付きのお得なメニューであるセットがRON10なのにそれを薦めることなく、単品の合計でRON11.6を請求する気の利かなさを見せていた。

ブカレストの北約170kmの位置に中世の町並みを残した美しい古都が血の気の多い観光客を待ち構えているので8:25発のインターシティの列車に乗ってブラショフという町までやって来た。早速駅から数キロ離れた中心街まで進出するとカフェやレストランが立ち並ぶ歩行者天国には中世のいでたちをした警備兵が練り歩き、中央公園では新郎新婦系の男女がマサに写真に撮られようとしているところだった。

ブラショフの南西26kmの所にとあるオカルト系の城が不気味にそびえ建っているという話を聞いていたのでバスに乗って近寄ってみることにした。バスで40分程走ると田舎町の中ににわかに日本では水谷豊のデビュー作として知られるバンパイアやドラキュラの看板が目に付くようになってきた。

吸血鬼ドラキュラの居城のモデルとして知られるブラン城(RON25)は岩山の上にそびえる典型的な中世の城砦である。この城は1377年にドイツ商人がワラキア平原から入ってくるオスマン朝の兵士をいち早く発見するために築いたものであるが、14世紀末にはワラキア公ヴラドI世がここを居城とした。ヴラドI世の孫がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュで、奴はオスマン朝軍の兵士を杭で串刺しにして並べた残虐さを持つことから串刺し公との異名をとっている。尚、ツェペシュはルーマニア語で串刺しを意味するという。

何はともあれ、にんにくや十字架等のアンチドラキュラグッズも持たずに入城させていただいたのだが、城内はいたって普通の中世の居住空間で最上階の展示室に取って付けたようなドラキュラに関する説明パネルが展示されていたのだった。

ブラン城の入口付近は一大土産物屋地帯となっており、長身のバンパイアが客寄せしている店先にはドラキュラ人面マグカップ等のミーハー土産だけでなく、本格的なチーズも展示販売されていた。

ドラキュラに遭遇したショックでぶらんと首をうなだれながらブラン城を後にしてブラショフの中心街に戻ってきた。スファトゥルイ広場は相変わらず多くの人々の憩いの場所になっており、広場を見下ろす高さ65mの黒の教会はトランシルヴァニア地方最大の後期ゴシック様式の教会である。14世紀後半から15世紀初頭まで、約80年の歳月をかけて建設されたこの教会の名前の由来は、1689年にハプスブルグ軍の攻撃に遭い外壁が黒こげになってしまったことからきているとのことであった。

5月6日(日)

早朝ブラショフを後にすると7:30発ブダペスト行きの列車に乗り、さらに128km走ってルーマニアの中心に位置する歴史都市シギショアラに到着した。一見するとしなびた雰囲気を湛えているシギショアラ駅を出て白壁にドーム状の正教会を見上げながら歴史地区を目指した。

14世紀に建てられた時計塔を中心とした旧市街は、中世の雰囲気を色濃く残しており、世界文化遺産にも登録されているのだが、旧市街は高台にあるため、階段を登っていくにつれてその時計塔の威容が徐々に迫ってくるのであった。

とりあえずATM番犬を刺激しないようにいくらかの現金を出金すると歴史地区を一回りしてみることにした。カラフルな建物が多い旧市街には新旧の教会が混在しており、建物の業態のほとんどはレストラン、土産物屋、宿泊施設といった観光系のファシリティに特化していた。また、旧市街の南側には古びた屋根付き木造階段が山上教会まで続いており、最上段には素朴なギター弾きがこれ見よがしの小銭入れと化したギターケースを空けて観光客を待ち受けていた。

マサよ、君はドラキュラは夜は生き血を吸っているが、昼間に吸っているものは何であるのか、その現場を押さえたことがあるか!?

というわけで、シギショアラの出身者で最もよく知られている人物はブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」のモデルとなったヴラド・ツェペシュで彼の生家は今なおレストランとして繁盛しているのでここでブランチをすることにした。この店のプロモーション役として現役のドラキュラがテラス席で客寄せに励んでいるのだが、どうも思ったほどの集客の成果が上がっていないようであった。夜は処女の生き血を求めて彷徨うドラキュラであるが、手持ち無沙汰の昼間の時間はタバコを吸って気を紛らわせているというドラキュラファンを幻滅に導く愚行が多くの観光客の眼前で行われていたのだった。

シギショアラのシンボルである時計塔(RON10)は展望台兼歴史博物館になっているので登ってみることにした。博物館の展示品は中世の備品や医療機器等珍しい物もいくつか見られたのだが、時計を動かす仕掛けやそれにまつわる怪しい人形類がゆるキャラのような役割を演じているようだった。

塔の展望台から周囲を見渡すとこの町はヨーロッパでよく見られる茶色い屋根の建物で埋め尽くされており、それを取り囲むように広がる緑の大地と非常にマッチしていることがよくわかるのだ。

地上に降りて再び歴史地区の内外を散策してみたのだが、日曜日ということもあり、町の各所にあるバーはどこも盛況で皆中世の雰囲気に包まれながら酒を酌み交わして歓談していたのだった。

agodaに予約させておいた旧市街の中心の広場に面したカサ・ワグナーという19世紀に建てられた家を改装したアンティークなホテルにすでにチェックインしていたのだが、夕飯は義理でこのホテルのレストランでご馳走になることにした。ルーマニア料理として有名なチョルバ・デ・ブイというチキンスープとサルマーレというロールキャベツと付け合せにママリガというトウモロコシの粉を蒸したものをいただいたのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスが高かったのだ。

日が暮れると旧市街に灯がともり、見事なライトアップの景観を現出させることになる。待ちに待ったドラキュラのゴールデンタイムが始まるのかと戦々恐々としていたのだが、ここのドラキュラは民間人と同じライフサイクルのためかすでに撤収されているご様子だったのだ。

5月7日(月)

9:09発の列車に乗って294kmもの距離を5時間程度の時間をかけて午後2時過ぎにブカレスト北駅に戻ってきた。駅構内のマクドナルドでビッグマックセットを食った後、独裁者チャウシェスクにより造られた近代的な町の散策に出ることにした。尚、世界史的な観点であればチャウシェスクがルーマニアを支配した独裁者になるのだが、日本人に取ってはビート・たけしをスターダムに押し上げた伝説のギャグである「コマネチ」が最も馴染み深いルーマニアの産物であると言っても過言ではないであろう。

ブカレストの大通り沿いでは旧共産党の遺物であるはずの巨大なビルが廃墟になりかけている光景を目にするのだが、全般的に巨大な建造物群が目に留まる。近代的な建築物を横目に歩いているともはや遺跡としか表現できない旧王宮跡が姿を現した。

応急処置によりかろうじて往時の面影を残している旧王宮跡(RON3)は吸血鬼ドラキュラのモデルのヴラド・ツェペシュ公が15世紀に築いた砦の跡である。内部はおよそ近代美術館への変貌を遂げようとしているかのように奇抜な絵画や彫刻が寄せ集められていた。

1989年12月の革命の舞台となった革命広場は共和国宮殿(国立美術館)アテネ音楽堂、旧共産党本部、クレツレスク教会等に取り囲まれており、その中心に血を流して自由を手に入れた犠牲者のために建てられた慰霊碑が天を指している。尚、1989年12月22日に故チャウシェスク大統領は共産党本部のテラスで大群衆を前に最後の演説をぶちかまし、その直後にヘリコプターでばっくれやがったのだ。

旧共産党員のアパートが立ち並ぶエリアにかろうじてナディア・コマネチの痕跡を見つけたのだが、それは診療所のようなファシリティとお見受けした。14歳で参加したモントリオール・オリンピックの体操で10点満点を連発した白い妖精コマネチであったが、その後は共産党独裁政権に翻弄され、チャウシェスクの次男の愛人になることを要請されたのだが、夜の床運動で金を取る自信まではなかったせいか、ついにはアメリカに亡命してしまったのだ。

故チャウシェスク大統領の野望の集大成とも言うべき未完の宮殿「国民の館」が夕日を背に巨大なシルエットを浮かび上がらせていたので遠巻きに眺めることにした。日本円にして1500億円を投じて造らせたというこの館は地上8階、地下5階、核シェルター内蔵の豪華版で、世界の官庁、宮殿などの建物の中では、米国防省のペンタゴンに次ぐ規模を誇っているのだ。マサにとてつもない財力が投入されていたわけであるが、その陰で善良な国民は飢餓を強いられていたのだった。

5月8日(火)

早朝6時過ぎにホテルをチェックアウトすると近くのバス停から空港行きの783番バスに乗り込み、1時間程でアンリ・コアンダ国際空港に到着した。10:15発TK1044便はやや遅れて出発したもののお昼過ぎにはイスタンブール国際空港に着陸した。引き続き16:55発TK50便に搭乗すると恒例のJTB旅物語トルコ8日間のツアー客に包囲されてのフライトとなった。

5月9日(水)

午前11時前に成田空港に到着し、こわばっていた体をほぐすために四肢で平行四辺形を型どる運動をしながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥116,890

総宿泊費 RON315.92、¥11,915 (RON1 = ¥24)

総ブルガリア鉄道代 Lv61 (Lv1 = ¥54)

総ブルガリアバス代 Lv55

総ブルガリアトランヴァイ代 Lv1

総ルーマニア鉄道代 RON150.7

総ルーマニアバス代 RON8.6

協力 トルコ航空、agoda

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