チリも積もれば山となるというが、最近チリで大爆発を起こした火山から吹き出た塵はアンデス山脈に降り積もり、さらなる大きな山を形成していくことであろうが、震災からの復興も一握の塵程度の努力の積み重ねが大切に思える今日この頃である。ところで、昨今の情勢を省みると政局は混迷し、神がかり的な活躍を期待されたスポーツチームや選手は低迷し、日本を勇気付けて一つにするどころか被災地にストレスだけを与えている低たらくである。このような閉塞感を打開すべく、ハチ公と並んで渋谷の待ち合わせの聖地となっているモヤイ像にモヤモヤをぶつけにいっている輩も多いと思うが、FTBはそのパクられ元のモアイ像との出会いを求めてはるか太平洋の孤島まで遠征に出ることを決意したのだ。
2011年6月10日(金)
内閣不信任案の否決を尻目にAKB48の総選挙も無事終了し、日本の伝統文化である「オタク」を復興の起爆剤にすべく秋元康に福島県双葉町でFTB48の立ち上げを嘆願しようと考えているのだが、フラガールを生み出した福島県という土地柄だけに、東京電力の婦子女を募集すればこの計画もなまじ実現性の薄いものではないものと思われる。
それはそれとして、午後5時10分成田発ロサンゼルス行きNH006便は久々にエコノミークラスが満席になったというこじ付けでビジネスクラスへのアップグレードを果たした私を乗せて定刻通りに出発し、約10時間のフライトで午前11時過ぎに現地に到着した。その後2時40分発のAA2450便に乗り換え、午後8時前にアメリカン航空の本拠地であるダラス・フォートワース空港に到着すると、さらにAA940便に乗り換えて10時間以上を空の上で過ごすことと成った。
6月11日(土)
初夏のアメリカから赤道を超えて初冬のチリの上空に来たせいか午前7時を過ぎても窓の外は暗いままだった。定刻より少し早い午前8時前にようやくチリの首都サンティアゴのアルトゥロ・メリノ・ベニテス国際空港に到着すると何故か手元に残っていたブラジルの通貨であるレアルをチリ・ペソに両替し、空港バスに乗ってセントロ方面に向かった。
旧市街へと差し掛かる大通り沿いがバスの終点となっていたので、そこで下車すると左右に立ち並ぶ高層ビルや広場を眺めながらホテルに向かって歩いていた。楽天トラベルに予約させておいたホテル・リベルタドールには午前10時半くらいに到着し、1泊\3,300という安値ながらすぐにチェックインさせていただけたので部屋に引き篭もって横になっているといつのまにか意識を失っていた。
気がつくと夕闇迫る午後5時になってしまっていたので疲れた肉体に鞭打って街に繰り出して見ることにした。セントロの東にこんもりとした緑濃い丘が膨らんでいたので門番の指示で名前を登録させられた後、高台に登ることとなった。サンタ・ルシアの丘と呼ばれるこの場所はサンティアゴの基礎を築いたスペイン人征服者バルディビアが、抵抗する先住民に備えるために要塞を設けたのが始まりであるが、トワイライトのこの時間はアンデスの恋人たちの格好のたまり場となっているのだ。
わずか80km程しか離れていない6000m級のアンデスの峰々が夕日に赤く染まるとほどなくしてサンティアゴの町にイルミネーションが輝き出した。しかし、サンタ・ルシアの丘は治安維持のため冬季は午後7時までに撤収しなければならないので夜景を満喫出来る時間はわずか30分程度に限られているのであった。
サンタ・ルシアの丘を駆け下り、旧市街の中心に舞い戻るとにぎやかな通りに囲まれながらも市民の憩いの場所となっているアルマス広場に週末の喧騒を味わいに立ち寄ることにした。広場のステージではバンドが演奏し、陽気なチリアンがリズムに合わせて歌い踊っていたのだが、広場に面したサンティアゴ大聖堂の内部では厳かなミサが行われており、神父の説教の声と整然とした聖歌のしらべが満ち溢れていた。
6月12日(日)
まだ闇も深い早朝5時過ぎにホテルをチェックアウトすると防寒着を来た暴漢に襲われないように辺りに注意を払いながら空港行きのバス乗り場に向かった。6時のバスに乗り込み、空港に到着すると8時近くになってやっと東の空から太陽が昇ってきた。
午前8時20分発LAN航空が運航するLA841便に乗り込み、サンティアゴを離陸するとアンデスの絶景を尻目に飛行機は太平洋の上空に差し掛かった。これより3700kmもの航路を5時間以上かけての長旅となるため乗客はそれぞれビールやチリワイン等を痛飲しながら狭い機内で英気を養うことと成る。
酔いも一回りして目が覚めた頃には眼下に真っ青な海に囲まれた緑の大地が広がっており、2時間時計の針を戻すと正午過ぎにイスラ・デ・パスクアのマタベリ空港に到着した。イスラ・デ・パスクアは、1888年にチリ領になったときに付けられたスペイン語の名前で、英語でイースター島と呼ばれる。1722年のイースター(復活祭)にこの島にたどり着いたオランダ人が付けやがった名前だそうだ。
空港のロビーに出ると花輪を手にした数多くの出迎え人が手ぐすねを引いて宿泊客を待っていたのだが、私はまだ宿を決めていなかったので人口4000人のハンガ・ロア村を目指して1kmの道を歩くことにした。空港の敷地を出るといきなり居酒屋甲太郎という日本食屋に直面し、ここは単なる日本の離島ではないのかという不安に駆られたものの、気を取り直して村の中心に踏みいった。
村内にはそれなりの数のホテルや民宿が営業しているのだが、秘境を髣髴とさせる造りが目に付いたホテル・マナバイに飛び込むとローシーズンで部屋がたくさん空いているようだったので首尾よくチェックインを果たすことに成功した。
まだ時間もお昼過ぎだったので、早速島の雰囲気に慣れるために軽く村内を練り歩いてみることにした。村にはお土産物屋だけでなく、スーパーマーケットやレストラン、教会、学校等の生活に必要なファシリティは揃っているのを確認出来たので、イースター島の代名詞となっているモアイを求めて沿岸部を散策することにした。
周囲わずか58kmのイースター島は火山島で沿岸部は溶岩が流れて固まったゴツゴツした岩で覆われている。世界自然遺産に登録されているこの小さな島に年代も大きさもまちまちの900体以上のモアイが存在しているのだが、最初に私の前に姿を現したのはアフ・リアタ遺跡に鎮座するドカベン系のモアイであった。ちなみにアフとはモアイが立っている台座(祭壇)のことでモアイ以上に神聖なものとされているのだ。
さらに村に程近い沿岸部を歩いていると裸で釣りをしている原住民や東映の三角マークがドッ・ドッ・ドッと押し寄せてくるような荒波に挑戦するサーファーの姿を数多く見かけた。また、神聖なモアイの麓でバーベキューをしている不埒な輩も見受けられた。
点在するモアイの中で弱い者は倒されたままになっており、明らかに近年の技術によって作られた最新版が金属製の台座の上で目を剥いて立ちはだかっている姿も確認することが出来た。尚、最新版とはいえ、渋谷のモヤイ像のような端正な顔立ちではないのでモヤモヤする感覚は否めないのは確かであろう。
墓場を抜けるとイースター島の見所のひとつであるタハイ遺跡に到着した。ここは1968~1970年代にかけて、アメリカの考古学者ウイリアム・ムロイ博士によって復元された儀式村の跡であり、5対のモアイが並ぶアフ・バイウリ、独身のモアイが立つアフ・タハイ、唯一イミテーションの眼がインストールされたモアイの立つアフ・コテリクと3つの祭壇があるのだ。
タハイ遺跡はイースター島で最高の夕日の名所となっており、三々五々集まってきた観光客は沈み行く太陽に照らされるモアイ達を眺めながら遥かなる郷愁に想いを馳せているかのようであった。
6月13日(月)
冬のイースター島では午前8時を過ぎてようやく明るくなり、8時半からホテルで供される朝食を済ませた後、タハイ遺跡まで軽く散歩することにした。昨夕の逆光とは異なり、朝日を受けたモアイ像はその2頭身半の巨体の輪郭をくっきりと現していた。
イースター島2日目の今日は島の全容を解明するための足が必要だったのでマウンテンバイク、スクーター、レンタカー、四輪バギーの中からヤマハのスクーターをチョイスし、$32 / 8時間でレンタルすることにした。ハンガ・ロア村を出て内陸部に向かうと道は舗装されていない悪路になったのだが、荒涼とした大牧草地帯の真ん中に突如として海を見つめて立つモアイの集団が姿を現したのだった。
1960年、ウィリアム・ムロイ、ゴンザロ・フィゲロ両氏によって復元されたアフ・アキビに立つ7体のモアイはヒバの国の7つの部落の7人の像といわれている。また、モアイ像の後ろからは石組みと人骨も発見され、墓として利用されていたことを思わせる動かぬ証拠も抑えられているのだ。
ヤマハのスクーターでごろごろした石が転がる悪路の滑りやすい斜面を下っていると急にバランスを失い、転倒を避けるために右足で地面を支えた際に、肉離れを起こしたときに聞きなれている「ブチッ!」とした快音を発生させてしまった。このトラブルにより、モアイの謎の解明も志半ばで断念せざるを得ないのか!?という覚悟も一瞬よぎったが、歩く速度を4分の一に落とせば何とか右大腿部裏筋も機能するようだったので調査を強行することにした。
火山島であるイースター島には無数の洞窟や穴があるのだが、あるものは宗教的な儀式に使われ、あるものには穴にたまった土で食用になる植物を育てた痕跡が残っている。最大の規模を誇るアナ・デ・パフは長さ910mを誇っており、今でもアボガド、バナナ、タロイモなどの植物が茂っている。
1300年代からモアイの頭にはプカオという赤色凝灰岩で作られた帽子や髪飾りのようなものが盛られるようになったのだが、プカオはプナ・パウという遺跡で切り出されて運ばれたと言われている。ここの高台は島全体を見渡すビューポイントにもなっており、多くの観光客が牧歌的な風景を堪能していたのだが、切り出し中のプカオはその辺にも転がっており、それぞれシリアル番号で管理されていたのだった。
プナ・パウから下山すると島を縦断する状態の良い舗装道路に出たので一気に島の北岸のアナケナビーチまでやってきた。ビーチには1961年にタヒチから運ばれたココヤシが生い茂っており、温暖な気候から海水浴にも絶好のスポットとなっている。入り江を望む丘の上には先ほど現場を確認したばかりのプカオを載せた7体のモアイが立ふさがっていたのだが、足が痛かったのでとりあえず遠巻きに眺めておくにとどめてしまった。
舗装道路を全速力でハンガ・ロア村まで取って返し、空港近くの唯一のガソリンスタンドで満タンにしたスクーターを返却した後、傷めた足を引きずりながらもアフ・タハイまで引き寄せられて行った。サンセットの景色は昨日にも増して輝いており、愛想の良い野良犬たちも人類の気を引こうと寄り添いながらもモアイの背景に沈む夕日に見入っていた。
夕食時には島でも高級カフェ・レストランの部類に入るであろう店に入って意味のわからないスペイン語のメニューの中から手頃な価格の物を指差し発注すると高級そうなシーフードが目の前に現れた。皿の中央に鎮座する魚はミディアムレアに焼かれており、それを取り巻くソースはこの上なく美味だったのだ。
6月14日(火)
昨日傷めた足が5%程度の回復を示していたので再びスクーターに足をそろえて一気に島を縦断することにした。
アナケナビーチにはホツマツアの像といわれる顔の短いモアイが立っているのだが、これは島で最も早く1956年にヘイエルダールと原住民が立て直した者である。しかも、モアイをどのように立てたかを試したものということで、12人がかりで18日もかかったそうだ。
1978年に復元されたアフ・ナウナウに有るプカオを載せた7体のモアイは砂に埋もれていたため保存状態が良好で背中に彫られた模様やふんどしもほんのりと残っているのだ。
アナケナビーチを後にして海岸沿いを走っていると放牧された集団の馬がランダムに草を食んでいるので減速を余儀なくさせられるのだが、その向こうには今まで目にしたことがないようなモアイの集団が海風を背に受けて立ちはだかっていた。
島最大の15体のモアイが立つアフ・トンガリキの再建は1993年~1995年にかけて日本企業の援助によって行われており、その偉業を称えるクラックの入ったプレートが高性能クレーンの写真と共に誇らしげに掲げられていた。
ちなみに再建を請け負った会社は四国の高松に本社を構えるタダノという大手クレーン会社で再建に際して「特命係長 只野仁」に匹敵するプロジェクトが組まれ、その模様は同社のHPで詳細に紹介されているのだ。http://www.tadano.co.jp/tadanocafe/moai/about/moai/index.html
尚、タダノが負担した再建に関わる費用は1億8千万円と言われているが、タダノはただのボランティアという立場に甘んじていたため、彼らには一銭の見返りも与えられていないのだった。
アフ・トンガリキから離れた場所でポツンと独身で立っている1体のモアイはいったい何だろうと思っていたのだが、これは1982年に日本に出張し、東京と大阪で展示された由緒正しい像であった。また、アフ・トンガリキの敷地に転がっている石にはマケマケ神や魚等の岩絵が描かれているのだった。
マサよ、君はモアイの量産工場がISO9001の認証が受けられるはるか以前に稼動していたのだが、今では箱根彫刻の森美術館のようにモアイが山間に点在する廃墟に成り下がっている光景を目の当たりにしたことがあるか!?
ということで、イースター島ツアーのハイライトとも言えるモアイの切り出し場ラノ・ララクがアフ・トンガリキを見下ろす場所にそびえているので謹んでモアイの要塞に足を踏み入れさせていただくことにした。エントランスでラパ・ヌイ国立公園の入場料$60を支払う際に日本語を一生懸命学習しようとしているイースター原住ギャルから中途半端な日本語での注意事項と説明を受けた後、山に残る遺跡を散策することとなった。
ラノ・ララクのトレイルは火山の火口の周囲とモアイいっぱい地帯の二つに分かれているのでまずは火口の周囲を巡って見ることにした。水を湛えた火口を取り巻く斜面に、完成して斜面から切り離され、出荷直前の状態になっているモアイが工場の操業停止によりキャンセルの憂き目に遭い、むなしく前を見つめている姿はマサに哀愁を感じさせるものがあった。
モアイいっぱい地帯にはマサに凝灰石から切り出されようとしている製造途中のモアイが多数横たわっており、島最大のエル・ヒガンテと呼ばれるモアイは21.6m、160トンに達するとも言われている。
ここにあるモアイはモアイ製作時代の後期に作られていた代物なのでサイズが大きいのが特徴であるが、一体のみ正座した珍しいモアイ・トゥクトゥリがあごひげをたくわえて礼儀正しく大空を見上げていた。
ラノ・ララクの監査を無事終了すると島の西南まで一気に突っ走り、オロンゴと呼ばれる聖域に辿り着いた。モアイ倒しが始まった17世紀以降、モアイ信仰に代わって登場したのが「マケマケ信仰」「鳥人儀礼」であり、その鳥人儀礼がここオロンゴで行われていたのだ。
南太平洋の風が吹きすさぶラノ・カウという火山の目の前にモトゥ・ヌイというグンカン鳥が営巣する島があるのだが、そこまで泳いでグンカン鳥の卵を最初に持ち帰った上官が「鳥人」と呼ばれ、以後1年間全島を治める権利を有することになるのだが、あくまでも笑い飯の漫才のネタにある顔が鳥で体が人間になっている「とりじん」とは異なり、「人と鳥の境目をみせてあげよう!」という脅し文句は使えないのである。
オロンゴ岬の先端の岩には鳥人のレリーフが数多く刻まれ、鳥人儀礼の際に使われたとされる53の石室も復元されている。また、ラノ・カウ火山の火口湖は直径1600m、水深11mを誇り、島の貴重な水源にもなっているのである。
オロンゴ遺跡の麓の沿岸部にアナ・カイ・タンガタと呼ばれる海に面して口を開いた20畳ほどの広さの食人洞窟がある。天井には鳥の絵が描かれており、この場所で晴れて鳥人になった上官が戦って敗れた部族を儀式として食人したと伝えられているのだ。
マタベリ空港に程近い南海岸にアフ・タヒラという遺跡がある。ここには顔を下にして地面に倒れたモアイが数体あるのだが、アフをよく見るとその石組みはインカの石組みのように全く隙間がないのに驚かされる。そのため、イースター島文明とインカ文明との関連性さえ取り沙汰されているのだった。
スクーターのガソリンが余っていたので、アフ・タヒラから南海岸に沿って一気に東海岸に舞い戻り、15体のモアイでお馴染みと成ったアフ・トンガリキを通り過ぎてテ・ピト・クラというパワースポットに到着した。ここの海岸に、まるでやすりでもかけたようにツルツルの表面が眩しい丸い石が鎮座している。これがテ・ピト・クラと呼ばれる石で直径98cm、重さ82トンを誇っている。この石には磁場があり、不思議なパワーを秘めているので観光客がこぞってそのパワーにあやかるべく、しきりに石を撫で撫でしているのだ。
今日の夕食は空港近くのモアイに守られたカジュアルレストランで適当に指差し発注すると白身魚の輪切りをソテーにした焼き魚がフライドポテトと共に出てきたので、この島には豊富な魚料理のメニューがあり、決して侮ってはいけないと肝に銘じたのだった。
6月15日(水)
イースター島滞在最後のこの日は、通り雨のおかげで発生した虹をバックにしたタハイ遺跡のモアイ達を眺めながら、その近くのイースター島博物館に向かった。
たまたま社会見学に来ていた学童で賑わっているイースター島博物館(CLP1,000)ではモアイ像がどのように作られ、どのように運ばれたのかなどを学ぶことが出来る。特にモアイの運搬に関しては、これまで宇宙人説や自立歩行説といったモアイ自体がも~あいそをつかしてしまうほどの愚説を唱える輩が多かったが、ここでは科学的根拠に基づいた方法が詳しく説明されているのだ。
博物館での最大の目玉はそれをはめ込むことでマナ=霊力が宿ったとされるモアイの眼である。量産出荷された当時のモアイにはすべて眼が入っていたのだが、モアイを怖いと思った侵略者は、その霊力の影響を避けるためにモアイを倒したり、眼を取り去ってしまったと言われている。
ホテル・マナバイをチェックアウトする際にホテルのオーナーからモアイのちゃちなネックレスを記念にいただいた。午後1時発のLA842便は30分程遅れて到着し、そのまま折り返しでサンティアゴに向かって離陸となった。遠ざかるイースター島を眼下に、モアイにはも~会いに来ることはないだろうと思いながら、機内で紅白のチリ・ワインをいただいて顔色を変化させているとサンティアゴに着いた時間は午後9時前になっていた。バスと徒歩で楽天トラベルに予約させておいた機能的なCESAR BUSINESSホテルにチェックインすると2軍のイースタン・リーグに落とされたような一抹の寂しさを感じながら夜を過ごしていた。
6月16日(木)
サンティアゴ旧市街のはずれにあるCESAR BUSINESSをチェックアウトし、新市街を目指して東に向かって歩いているとおびただしい数の学生集団が何らかのデモで街中を練り歩いていた。
新市街にはこれといった見所がなかったので、セントロの北東にそびえる丘陵地帯を公園にしたメトロポリタノ自然公園に足を引き摺りながら這い上がっていくことにした。標高が上がり、時間が経つにつれてサンティアゴ盆地を覆っていたスモッグが晴れ、雄大なアンデス山脈が姿を見せ始めた。
メトロポリタノ自然公園の中心は、丘の上に立つマリア像なのでひたすらそれを目指して歩いていた。標高880m(市街地との標高差は288m)の頂点に「アンデスとは何ですか?」とでも言っているかのように両手を広げて立つマリア像は、高さ14m、総重量は36.6トンに及ぶ巨大なオブジェで1908年に完成している。
像のすぐ下には展望広場のみならず、何らかのコンサートも出来る会場や教会まであるので観光客や信者にとっての格好の憩いの場となっているのだ。
負傷したにもかかわらず酷使に耐えた足をいたわるためにケーブルカーで下界に下り、国立美術館の前に立ち塞がっている体の半分が足から成る馬に目を奪われながら旧市街に戻ってきた。
日本に匹敵する漁業大国チリの醍醐味を味わうために中央市場で魚介類の見学をさせていただくことにした。市場内には食堂も多く、魚を物色していると日本語で「ウニ、ウニ!」と言いながらメニューを持って擦り寄って来る客引きに対して最初はトゲのある対応しか出来なかったのだが、意を決して一軒の食堂に入ってみることにした。当然のことながら、何を発注していいのかわからないのでおっさんの薦めで豊富な魚介類が煮込まれていい出汁が出ているスープを食って溜飲を下げておいた。
チリから撤収しなければならない時間が迫ってきたので街中でダンスを楽しむチリアンを尻目に旧市街を抜け出してバスで空港に帰って行った。午後8時50分発AA940便は定刻通り出発し、三国志をハイペースで読みながら、10時間もの時間を機内で過ごすこととなる。
6月17日(金)
午前6時前にダラス・フォートワース空港に到着し、AA2407便に乗り換えて3時間のフライトで9時前にロサンゼルスに辿り着き、さらに午後12時55分発NH005便に乗り換えて帰国の途に着いた。機内でALI(アリ)というモハメド・アリの波乱万丈の人生を描いた157分の長編映画を見て時間を潰すことにした。当然アントニオ猪木との異種格闘技を中心としたストーリーになっていることを期待したのだが、この映画はハリー・フォアマンとザイールのキンサシャで対戦し、ヘビー級王座を奪回したところで終わってしまったので、思わず「そんなのアリえね~」と叫びそうになってしまった。尚、猪木のテーマソングであるボンバイエが元々はキンサシャで「アリ、ボマイエ!」と声援されていたことが起源になっていたことを思い知る羽目となったのだった。
6月18日(土)
午後4時半に成田空港に到着し、渋谷のモヤイ像前で待ち合わせて帰朝報告をするまでもなく流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥47,250, AA = ¥118,030, LAN = $882.04
総宿泊費 ¥10,900、CLP162,000(朝食付き)
総空港バス代 CLP5,600 (CLP1 = \0.17)
総タクシー代 CLP2,000
総ケーブルカー代 CLP1,000
協力 ANA、アメリカン航空、LAN航空、楽天トラベル