中南米の架け橋コロンビアと世界の十字路ツアー

1998年夏、某米系一流企業の日本法人よりUC Berkley Extentionという学校にトレーニングに出され、そこで大蔵省(当時)から税金を使って来やがっていたマサを拉致した私であったが、同学校の同じ英語のクラスにリカルドというコロンビアから来ていた好青年と巡り会った。同学校ではルシアナ、アドリアーナ、カトリーナ、マリナ等、口から先に生まれてきたかのようなブラジル人ギャルが幅を利かせていたのだが、その中にあってコロンビアは麻薬大国ではなく、本当はいい国だと主張するリカルドの爽やかさは群を抜いていたのが印象的だった。

リカルドの言葉を信じていつかコロンビアを訪れなければならないと思いつつ、ついつい足が遠のいてしまっていたのだが、この度ついにコロンビアの首都ボゴタに足を踏み入れる勇断が下されたのだ。

2012年3月20日(火)

17:05発NH6便は定刻通りに成田空港を出発すると同日の午前11時前には予定通りにロサンゼルス国際空港に到着した。引き続き、17:15発UA1673便に乗り換え、しばし先般逝去されたホイットニーの冥福を祈っていると夜10時過ぎにヒューストンに到着した。さらに23:59発UA1009便に搭乗すると5時間余りの時間を狭い機内でやり過ごしながら、ヒューストン空港の名称は現在のジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル・ヒューストン空港ではなく、ホイットニー・ボディガード・ヒューストン空港であるべきだと考えていた。

3月21日(水)

コロンビアの首都ボゴタのエル・ドラード国際空港に午前5時前に到着すると愛想のいい入国審査官に笑顔で迎えられたのでリカルドの言うようにボディガードを雇うまでも無く安心して観光できることが確信出来たのだった。

空港内で手持ちのUSドルをコロンビア・ペソ(略号は$)に両替し、コロンビア・コーヒーを飲みながら時間つぶしをしていると頃合も良くなってきたのでバスでボゴタのセントロを目指すことにした。Carrera 10という大通りでバスを降り、標高2600mの高地に順応すべく町を練り歩いていると石造りの要塞のような堅牢な外観を持つ国立博物館の前で入場待ちの人々が短い列を作っていたのでそれに加わることにした。

チケット売り場で何故か無料チケットを入手することが出来たので、かつて刑務所として使用されていた名残のある館内をくまなく見て回ることにした。国立博物館の展示品は先住民族の文化や遺物、コロンビア独立の歴史、近代から現代までの美術品と多岐に渡っているのだが、私の心を引きつけてやまなかったものは様々な種類のプレインカ時代のユニークな人物像達であった。

また、特設展としてコロンビアのナショナルサッカーチームにまつわる展示があったのだが、1994年のアメリカワールドカップでオウンゴールを決めて敗退し、帰国後にファンに射殺された選手の不幸には一切触れられていなかったのだ。

お昼過ぎにagodaに予約させておいたサンフランシスコホテルボゴタに早々とチェックインしてしばし英気を養うとボゴタのセントロでにぎやかな地域に足を踏み入れることにした。ところで、コロンビアの歴史を語る上で最も重要なものは黄金郷(エル・ドラード)伝説であるのだが、それをダイジェストで理解するのに最適なファシリティとして黄金博物館($3000)が開館していたので黄金に目を眩ませてみることにした。

ヨーロッパ人が現在のコロンビアに初めて来やがったのは1500年頃で、当時この地のインディヘナの中で最大勢力を誇っていたのがチブチャ族であった。彼らはインカやマヤ文明に匹敵する高度な文明を持っていたとされ、特に金の細工技術に長じていたという。黄金博物館には彼らの技術によって製作された工芸品がギンギラギンにさりげなく展示され、♪そいつがお~れのやり方♪と言わんばかりの特殊な技法の解説まで加えられているのだ。

黄金博物館で錬金術を習得出来たので旧市街の中心であるボリーバル広場まで出ることにした。広大な石畳の広場はカテドラル、国会議事堂、大統領官邸等に囲まれていつもは賑わいを見せているのだが、今日は小雨模様だったため、中央のシモン・ボリーバル像がポツンとさびしく立っているだけであった。

ボゴタくんだりまでやって来てもオセロの中島を食い物にした霊能者や稀代の婚活詐欺師である木嶋佳苗被告の裁判の動向が気になっていたためか、気が付くとボテロ博物館の入口まで引き寄せられていた。フェルナンド・ボテロはコロンビア出身の世界的に有名なデブ専画家でボテッとした人物画を描くことを生業としている。

館内に一歩足を踏み入れると練炭によって引き起こされる一酸化炭素中毒のような息苦しさを覚えるのかと思っていたが、柳原可奈子風のモナリザ等の名画の数々を見ていると柔肉が醸し出す安心感により思わず大金を貢いでしまいそうな衝動に駆られてしまうのであった。尚、ボテロは自らの作品やコレクションを国家に寄贈し、この博物館でさえ入場無料で運営しているほどの貢ぎ人の頂点として君臨している篤志家なのであった。

ボテロ博物館を出る頃には日もとっぷり暮れており、カテドラルも妖艶にライトアップされていた。ボゴタの繁華街では雨にもかかわらずビニールシートを着て寝込んでいるホームレスも多く見受けられるのだが、一方で長尺の銃を携えた警官が至る所に配備されているので人通りの多いところであれば安心して歩けることが確認された。

3月22日(木)

雨季のせいであろうか、今日も朝から雨が降っていたので外出するのがおっくうだったのだが、意を決して再びボゴタのセントロを散策してみることにした。

ボリーバル広場の一角に17世紀前半に建てられたサンタ・クララ教会が博物館($2000)として観光客の入場を待ち構えていたので入ってみることにした。歴史を感じさせる教会の外観もさることながら、小ぶりな建物の内部にはきらびやかな内装とともに数多くの宗教画が展示されており、博物館としての価値を十分感じさせるものであった。

ボリーバル広場を通り過ぎて山のほうへ登っていくと色白の胸像の奥に門構えのしっかりした屋敷を発見した。これは1820年、グラン・コロンビア共和国独立の功績に対し、「解放者」シモン・ボリーバルに贈られたボリーバル邸($3000)である。広々とした敷地内には傾斜を利用した美しい庭園も広がっており、戦いに明け暮れた英雄が束の間の休息を取るためには最適の地であったと思われた。

ボリーバル邸の背後に鬱蒼とした緑を湛えた山が迫っており、近代技術を駆使して頂上までアクセス出来ることが遠巻きに眺められたので早速登ってみることにした。市内との標高500m差を誇るモンセラーテの丘に這い上がるためには徒歩以外にケーブルカーとロープウエイという手段があるのだが、ケーブルカーは運休となっていたので往復$14400の高値を支払ってロープウエイに搭乗させていただくことにした。

ロープウエイが高度を上げるにつれ、眼下にボゴタの町の眺望が広がり、南米5大都市のひとつであることを象徴する新市街の摩天楼群や旧市街地の茶色い屋根瓦を見比べることが出来た。

標高3000mを超える丘の頂上には白亜のカトリック教会やレストラン、土産物屋街もあり、単なる観光地としてではなく、ひとつの町としての機能も見て取れたのだった。

高台から標高2600mの平地に降りて呼吸を整えながら、今しがた鳥瞰した旧市街の中を歩いていると縞模様が鮮やかな教会や眩しい黄色に彩られた教会が散見された。コロンビアではかつてカトリックが国教であったこともあり、信仰の自由が認められた現在でも国民の95%がカトリックを信仰しているため、歴史的な古い教会とカラフルな教会が絶妙のバランスで町中に配置されているのだ。

3月23日(金)

今回のコロンビアへの歴訪によりリカルドに仁義を切ることが出来たので今日は隣国のパナマ共和国へとエスケープする予定になっている。コロンビアとパナマとは陸続きになっているので通常であれば安価な陸路での移動を検討すべきであるが、ドロンズが南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイクを敢行した際にギブアップの危機に瀕した程、コロンビア・パナマの国境地帯は治安が悪いのだ。

ドロンズは幸いにも船をヒッチハイクしてパナマに渡ることが出来たのだが、私は割高の飛行機で移動することとなった。空港のコーヒー専門店でコロンビア・コーヒーを試飲して500gのコーヒー豆をスターバックスの約半値で購入すると、パナマシティをハブ空港として中南米に多くの路線を持つコパ航空が運航する12:26発CM196便に乗り込んだ。

湾岸沿いに並び立つ高層ビルを横目に飛行機はパナマの首都パナマ・シティのトクメン国際空港に午後2時過ぎに到着した。入国後に空港外のバス停まで移動し、METRO BUSという最新型のバスに乗り込もうとしたところ、ICチップを内蔵したMETRO BUSカードがないと乗れないということが判明したため、1台目のバスに乗ることが出来なかった。次に来たバスの運転手は機転を利かせて最前列に座っていた原住乗客にカードを貸してやれと指示してくれたおかげで何とかバスに乗ることが出来た次第であった。

新市街の適当な所でMETRO BUSを下車すると高層ビルや教会が立ち並ぶ町並みを見上げながらagodaに予約させておいたグランホテルソロイ&カジノに辿り着いた。すでに午後4時を回っていたのだが、パナマ・シティの治安状況を早めに体感するために旧市街方面に向かって歩いてみることにした。

物の本によると治安が不安視されるパナマ・シティにあってもセントラル大通り沿いを歩いていれば問題ないと書かれていたのでガンジー像に見守られながら、途中から歩行者天国に変貌した大通りを南下して行った。

歴史的地区であるカスコ・ビエコ(世界遺産)に差し掛かると町の雰囲気がコロニアル調になり、観光警察も監視の目を光らせていたので獰猛な動物の脅威を物ともせずに周囲を散策することにした。

夕暮れ時に差し掛かり、観光客も少なくなっていたので独立広場で土産物を売っているクナ族も撤収の準備に余念がなかったのだが、この地域では今にも崩れ落ちそうな古い建物やゴミ収集ドラム缶に描かれたアートが異彩を放っていた。

パナマ・シティの旧市街では午後6時半を過ぎるとほとんどの店が閉まり治安が怪しくなるそうなのでそそくさと退散することにしたのだが、大通りでは大道芸人が芸の披露に励んでおり、原住民はこれぞパナマを思わせるボンネットバスに乗り込んで帰路についていた。

3月24日(土)

マサよ、君は南北アメリカ大陸を分断し、大西洋と太平洋を繋ぐ世界の十字路での船舶航行のダイナミズムを見届けたことがあるか!?

私は・・・見届けてしまった!!!

というわけで、近年治安を改善し、観光業に力を入れているパナマ最大の見所であるパナマ運河を目指すべく暗いカジノには見向きもせずに炎天下に飛び出すことにした。新市街からパナマ運河へのアクセスは通常であればタクシーやバスなのだが、距離がわずか6kmということなので私は徒歩で向かうことにした。スラムの香りがする怪しい地区を抜けると国内線の飛行機が飛来するアルブロック空港のはずれのバルボア駅舎跡に到着した。

現在はマクドナルドに支配されているバルボア駅舎であるが、かつてはパナマ運河に沿って運行されていた鉄道の駅舎であり、その名残として蒸気式の大型クレーン車が雑然と展示されている。駅舎跡の高台には運河を管理するために米国によって建てられたパナマ運河管理局の施設が鎮座し、その前には平凡な形のメモリアルが控えめにそびえていた。

バルボア駅舎はもはや機能していないのだが、Panama Canal Railway Companyは今なお現役で貨物の輸送のみならず、一部は旅客列車として営業しており、パナマ・シティとコロン間を往復する便は展望車として大変な人気を博しているようだった。

道に迷った時間も含めて3時間程歩いたであろうか?ついに線路の向こうに何がしかのファシリティがぼんやりと姿を見せ始めた。さらにパナマ運河のミラフローレス水門へ案内する看板が増え始め、汗を噴出しながらその案内を粛々と辿って行った。

パナマ運河の敷地に入ると熱帯地方パナマの豊富な生態系を誇示するかのように在来クロコダイルの看板がそこかしこに掲げられており、観光客が食われないように注意を促していた。橋の上から見たダムに続く川は干上がっており、白い水鳥がよちよちと歩いていた。

正午過ぎについにパナマ運河のミラフローレス水門($8)に到着した。尚、全長80kmのパナマ運河にはパナマシティに近いミラフローレス水門、ペドロ・ミゲル水門、大西洋側のコロンに近いガトゥン水門がある。その中でもミラフローレスは最も見学しやすい水門として常に多くの観光客で賑わっているのだ。

午後の船が水門を通過するのが2時間後くらいということで、その間にビジターセンター内でスライドを見たり博物館を見学したりして時間をやり過ごしていた。関連資料によると人類最大の土木工事と言われるパナマ運河建設には1億5290立方メートル以上の土石が採掘され、もしもその土石を貨物列車に積み込めば、列車の長さが地球を4周するほどのとてつもないものであったそうだ。運河は1914年に開通したのだが、運河建設条約により長い間米国の支配下におかれ、1999年になってやっとパナマに返還されたのである。

博物館の2階ではパナマの生態系が展示されており、熱帯地方特有の巨大な昆虫類の標本や水槽に拉致された生きた川魚をむなしく泳がせながら、スループット改善のために運河拡張を目論むパナマが自然環境にも配慮していることをしきりにアピールしていた。

午後2時を過ぎるとようやく船の通過が始まり、観光客が続々と水門を見下ろすスタンド席に押し寄せてきた。船舶が運河を通過する仕組みであるが、パナマ地峡にはガトゥン湖という海抜26mの湖があり、その湖が運河の大半を成しているため船を海抜0mから26mまで段階的に上げたり下げたりして航行させる必要がある。そこで登場するのが閘門(こうもん)システムという水門の開閉により水位を調節する水のエレベーターである。ミラフローレス水門では閘門システムにより巨大な船が上下する様子をマサに目の前で見ることが出来るのだ。

最初に入ってきた船は毎週土曜日に観光客向けに高値で運行されるパナマ運河クルーズの遊覧船であった。パナマ運河では現在の仕様で最大長さ294.1m、幅32.3mの船を通すことが出来るのだが、小さい船は数隻まとめてバッチ処理されるため、遊覧船は次の小船が入ってくるまでプールでの待機を余儀なくされていたのだ。一方、となりのレーンでは香港籍の大型貨物船が異様な迫力で静かに水門に近づいていた。

船が閘門に入ってくると1隻ごとにこれまでの長い航海をねぎらい、これからの長旅の安全を祈願するかのようにMCによる船の紹介がなされていた。スペイン語と英語で忙しく喋るMCによるとパナマ政府が運河の通行料によりせしめる金額は毎日6~8百万ドルにものぼっているとのことでパナマ・シティの高層ビルは明らかにここでの水揚げにより建てられたものであろう。

おびただしい数のコンテナを満載した大型貨物船が水門を通る際の左右のマージンはわずか数10cmなので通行には細心の注意を要する訳だが、三菱・川崎に2百万ドル払って手配したというElectric Locomotiveが数台がかりで巨大船を牽引するという重要な役目を担っている。特に船体の中盤と後方を担当するLocomotiveは左右の張力を慎重に調整して船が側壁に接触しないように微妙なバランスを保っていたのだった。

パナマ運河は照明設備の普及により24時間体制で運営されているのだが、ミラフローレス水門のビジターセンターは午後5時で営業終了となるため、MCは終了時間が近づくとしきりに「No bed, No breakfast」をアピールして早めの観光客の撤収を促していやがった。世界の十字路の醍醐味を十分に堪能し、帰途に着くとクロコダイルを養っている川には轟々と水が流れており、運河の運営には大量の水を必要とすることをあらためて思い知らされたのだった。

パナマ運河の敷地から幹線道路に出るとバス停があったのでそこからバスに乗り市街地を目指した。バスはショッピングセンターも併設する巨大な国営バスターミナルに到着したのでここで念願のMETRO BUSカードを入手して意気揚々と新市街に帰って行った。

3月25日(日)

パナマ地峡は南北アメリカ大陸をつなぐ陸地が最も狭まった所であり、太平洋側のパナマ・シティから大西洋側にも短時間で出ることが出来るので、今日は国営バスターミナルからバスに乗って対岸を目指すことにした。

パナマ運河のカリブ海(大西洋)側の玄関でパナマ第二の都市として君臨しているコロンという街がある。パナマ・シティのバスターミナルから急行バスに乗ると1時間半程でコロンのバスターミナルに到着したのだが、中米で最も治安の悪い街として悪名高いコロンは重苦しい雰囲気を漂わせているように感じたのでバスを乗り継いでポルトベーロという町にエスケープすることにした。

パナマ・シティから約100km北東にある大西洋岸の小さな港町であるポルトベーロ(世界遺産)はイタリア語で美しい港という意味で、コロンブスが第4回目の航海の途中でここに停泊した際に命名されたという。地理的にも恵まれたポルトベーロはスペイン人がペルー等で略奪しやがった金や財宝がパナマ・シティを経由してこの地に集められ、ここからガレオン船に積み替えられて大西洋を横断してスペイン本国に送られていったのだ。

16世紀末にはこれらの財宝を狙ったカリブの海賊の攻撃に備えて強固な要塞と財宝を一時保管するための倉庫と税関が築かれたのだが、その遺構が今なお残されているのだ。サン・ヘロニモ砦の中には城壁と湾を守る18門の大砲が残っており、カリブ海に向けて錆びた銃口を向けていた。

税関博物館($5)の中には当時の繁栄を示す各種資料や武器等が展示されており、近くには古びているが威厳のある教会が静かに佇んでいた。湾内には多くのヨットも繋留されており、リゾート地の側面をアピールするかのようにカリブ海の美しい景色を彩っていた。

サン・ヘロニモ砦から少し離れたところにサンティアゴ砦が廃れていたので軽く見学していたのだが、目の前の海岸では原住民がピクニックにいそしんでおり、常夏の海で海水に浸かって世間話に花を咲かせているおばちゃんの姿も見受けられた。

大都会パナマ・シティの喧騒とは趣を異にするのんびりしたポルトベーロを後にすべくローカルバスに乗り込んだのはいいのだが、重低音の効いた南国音楽を大音響で流して騒いでいる連中が後方座席を占拠していたため、一種興ざめしながら帰路につくこととなった。コロンの手前のバス停でローカルバスを降り、満席の急行バスに乗り換えて立ったままパナマ・シティに向かった。バスターミナルには夕食の頃合に到着したので隣のアルブロック・ショッピングセンターの巨大なフードコートに陣取り、中華とアイスクリームを食って空腹を満たしておいた。

3月26日(月)

パナマ初日に訪れた歴史的地区カスコ・ビエコをくまなく見届けるために早朝より散歩に出ることにした。対岸にそびえる高層ビル群と国立劇場、サンフランシスコ教会等のコロニアルな造りの建造物の景色の中でパナマ帽を売る土産物屋は開店の準備に余念がないようであった。

旧市街には不思議なアートを感じさせるビルの落書きがあるかと思うと落書きを寄せ付けない古い遺跡もあり、カスコ・ビエホは非常にバラエティに富んだ見所に溢れている。

カスコ・ビエホの南東にフランス広場という記念広場がある。パナマ運河は元々はフランスによって手がけられたのだが、黄熱病やマラリア等の疫病の蔓延によりフランスがばっくれたためにアメリカの手に落ちたわけであるが、ここには運河ゆかりの胸像や記念碑が建てられており、未だにフランスの威光が残っているのだ。

フランス広場から遠く海を見渡すと運河の通過待ちの船舶も見受けられ、クナ族のおばちゃんはカラフルなモラという布を整然と陳列して観光客が販促の網に掛かるのを虎視眈々と待ち構えていた。

地味な外見とは対照的に黄金の祭壇が輝いているサン・ホセ教会は、カスコ・ビエホが海賊の被害を受けて金銀財宝が持ち去られてしまった時にあって漆喰を塗って祭壇を隠しておいたために、今なおそのきらびやかな装いを目の当たりにすることが出来る貴重な遺産である。

カスコ・ビエホの見所を一通り押さえることが出来た満足感を胸にグランホテルソロイ&カジノをチェックアウトすると得意満面でトクメン国際空港に帰り、13:50発UA1033便でヒューストン行きの機上の人となった。さらに21:10発UA1687便に乗り継ぐと午後11時過ぎにロサンゼルスに到着し、そそくさとTravelodge at LAXに引き篭もって念願の就寝時間となった。

3月27日(火)

チェックイン時にアップグレードしていただいた12:35発NH5便は定刻通り出発し、新型B777-300ER機ビジネスクラスの全席通路側アクセスと完全フルフラットへと変貌する座席の快適さを堪能し、さらに機内軽食メニューのロブスター・カレーを貪り食いながら機上でダラダラ過ごしていた。

3月28日(水)

定刻より早めの午後3時半に成田空港に到着し、運河でせき止めた水が堰を切るように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥68,590、ユナイテッド航空 = ¥71,950、コパ航空 = $349

総宿泊費 $573.16

総コロンビアバス代 $4,650($1 = ¥0.0463)

総パナマバス代 $14

総パナマ空港税 $1.25

協力 ANA、ユナイテッド航空、コパ航空、agoda

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