地中海の要衝マルタ・シチリア島ツアー

山椒は小粒でも ピリりと辛いと言うが、「地中海のヘソ」と言われても「へ~そ~」という印象しか持たれないであろうマルタ共和国はミニ国家ながらも地中海の要衝として歴史上重要な役割を担ってきた。今回は「地中海文明のゆりかご」とも称されるマルタの歴史を解明するために、マルタ島まで足を運んだわけだが、その目と鼻の先にイタリアのシチリア島が控えていたのでついでに寄ってみることにしたのだ。

2011年11月21日(月)

12時20分発NH209便成田発フランクフルト行きは定刻どおりに出発し、B777-300ER新型機のエコノミークラスでありながら10型シートスクリーンから繰り出される機内エンターテイメントプログラムで邦画「ロック わんこの島」を見ていると三宅島はマサにわんこの島であるという現実を脳内に刷り込まれた。午後16時30分頃フランクフルト国際空港に到着すると空港内にこれ見よがしに展示されているベンツを横目にAIR MALTAのチェックインカウンターに向かった。

WEBで有利な価格で購入した19時15分発KM329便は多少の遅れを生じさせたものの午後10時頃にはマルタ国際空港に到着することが出来たので早速市バスに乗り込み、マルタ共和国の首都ヴァレッタに向かった。ヴァレッタのバスターミナルには銅像を抱えた円形の噴水オブジェが不気味に輝いていたのだが、あたりにはほとんど人が歩いていなかった。

楽天トラベルに予約させておいたホテル・オズボーンはヴァレッタの中心街に位置しているのですぐに見つかると高をくくっていたのだが、現地に入るとシティ・ゲートの国家的大規模なリニューアル工事による通行制限等のためにマルタにいながらにして丸太で頭を勝ち割られて脳内GPSを破壊されたかのように方向感覚を失ってしまっていた。ヴァレッタの街は隆起した半島の丘の上に形成された堅固な要塞のようになっており、坂や路地が多いので感覚を立て直すのにかなりの時間を要してしまった。

何とか道行く人にホテルの位置を聞いておずおずとホテル・オズボーンへの道を辿り、チェックインを果たした頃にはすでに日付が変わってしまっていたのだった。

11月22日(火)

世界遺産に登録されているヴァレッタ旧市街をくまなく見て回るために朝食もそこそこにホテルを飛び出すとまずは高台からの眺望がすばらしいアッパー・パラッカ・ガーデンに向かった。ここは堡塁の上に海に突き出るような地形のためグランド・ハーバーや対岸の聖アンジェロ砦等の城塞を一望することが出来、団体観光客の絶好の記念撮影ポイントになっているのだ。

高台から下りて岬沿いを歩いていると海岸からせり上がった城壁の堅牢さに圧倒され、これぞマサに難攻不落のお手本ともいうべき造りであると思い知らされることになる。

狭い路地を通って再び高台に這い上がり、ヴァレッタの中央部に君臨し、現在は大統領府と議会が置かれている為に衛兵に警護されている騎士団長の宮殿(EUR10)を見学することにした。

ところで、騎士団とはキリスト教を尊び、勇気、礼儀、名誉を重んじた騎士達の集団でかの有名な十字軍の遠征を支えていたエリート軍団である。聖ヨハネ騎士団は聖地エルサレムに1113年に創立され、その後ヨーロッパ各地を転戦し、1530年神聖ローマ皇帝カール5世により、ここマルタに本拠地が設置される運びとなった。そのため聖ヨハネ騎士団はマルタ騎士団とも呼ばれているのである。その騎士団長の居住地であった宮殿の中は色大理石が床を覆い、その脇には重厚な甲冑が配置されていた。

数々の騎士たちの戦争グッズを展示してある兵器庫には人間の自由な動きを阻害するはずの重々しい甲冑や様々な銃剣類、大砲等が並べられており、騎士の装備には金がかかるため、富裕層の子弟にのみ騎士としての鍛錬が果たされることが容易に想像出来るのである。

マルタ騎士団の守護聖人ヨハネに捧げられた聖ヨハネ大聖堂(EUR6)が騎士たちの心のよりどころとして遠く祖国を離れた騎士たちを癒していたはずなので豪華絢爛な内部を覗いて見ることにした。色大理石の床の絵のデザインは9頭身のキュートなガイコツから聖ヨハネの生涯まで様々で天井画の油絵と併せて実に個性豊かであった。また、一見簡素に見える外観だが、中央のバルコニーは新たな騎士団長が選出された際に騎士たちに挨拶をかましていた由緒正しい場所となっているのだ。

マルタを語る上で騎士団のはるか昔の有史以前に幅を利かせていた巨石神殿をないがしろにするわけにはいかないので、その歴史理解の一助とするために国立考古学博物館(EUR5)を見物することにした。ここには先史時代の巨石神殿をはじめとする遺跡からの発掘品が展示されているのだが、最大の見所は「マルタのヴィーナス」や「眠れる美女」といった小さな石像である。いずれの像の体型もふくよかなことからマルタの女としての価値はマルサの女を演じた宮本信子よりも森三中の方が高かったという伊丹十三監督も痛み入る事実を突きつけられたのだった。

マルタの首都ヴァレッタの見所をひととおりカバーすることが出来たので、市バスでマルタ本島のほぼ中央部に平野を見下ろすようにたたずむ静かな町を訪れることにした。「静寂の町」との異名を取るイムディーナは、16世紀にはヴァレッタに先立って首都が置かれていた町で「オールドシティ」と称され、今でも往時の威光をここかしこに見ることが出来る。

町への入口である堂々たるメインゲートを抜けると城壁に囲まれた町はまるで時間が止まったかのような静けさを湛えていた。町中のあちこちに見られる細く狭い路地は人通りが少ないながらもきれいに整備され、日が暮れると町の赴きが一層濃くなってくる感覚を覚えた。セントポール広場の一角に建つ大聖堂は見事にライトアップされ、暗闇に浮かぶバロック様式のファサードはサイレントシティにほのかな彩を添えていたのだった。

11月23日(水)

マサよ、君はマフィアの語源はシチリア島に存在する犯罪者による秘密結社の通称であることを知っているか!?

ということで、早朝ホテル・オズボーンをチェックアウトするとマルタ⇔イタリアの船便を運行するVIRTU FERRIESのターミナルに徒歩で向かった。あらかじめWEBで購入していたチケットをプリントアウトしていたのでそれと引き換えに搭乗券を入手して巨大なカーフェリーに乗り込むと定刻6時45分に蛍の光を奏でることなく静かに出港となった。

別名シシリーとも言われるシチリア島はイタリア半島の長靴のつま先で蹴り上げられているように浮かんでいる地中海最大の三角形の島でそのシンボルマークは3本の足(3つの岬)を持つメドゥーサである。

マフィアの財源にはなっていないと信じる船内のスロットマシンで散財することなく1時間半ほどの地中海のクルーズを満喫すると8時半前にはシチリア島最南部のポッツァーロ港に着岸した。フェリーから次々に吐き出される大きなトラックやトレーラーを見ているとマルタ島とシチリア島は物流面で密接な繋がりを持っていることを窺い知ることが出来る。

フェリー乗り場からポッツァーロのセントロまで徒歩で1時間程度かけて移動し、長距離バスを捕まえてかつて大ギリシアの首都であった美しき古代都市に向かった。「シラクーサとパンタリカのネクロポリ」として世界文化遺産に登録されているシラクーサは至る所に古代遺跡が息づいている町である。早速ギリシア、ローマ時代の発掘地域であるネアポリ考古学公園(EUR10)に侵入し、古代文明に思いを馳せて見ることにした。

ネアポリ考古学公園の入口近くに天国の石切り場があり、その中で細長い耳の形をした「ディオニュシオスの耳」がぽっかりと聞き耳を立てていたので中に入ることにした。高さ36m、奥行きの深い洞窟の内部は真っ暗ではあるが音響効果がすばらしく、「こだまでしょうか?」と言うと「いいえ、誰でも」と響いてきそうな神秘性さえ漂っていた。

石切り場で耳の穴をかっぽじいた後、ゆるやかな坂を登るとテメニテの丘にたたずむシチリアで一番大きなギリシア劇場が目に飛び込んできた。これは紀元前3世紀、ヒエロン2世時代に着工された劇場で1万5千人の収容能力を誇っている。今でも古代劇の上演が2年に一度のペースで行われており、観客は隣の石切り場で切り出したはずの固い石のシートに腰掛けさせられて意志の強さを問われることになるのである。さらに考古学公園の敷地内には古代ローマの円形闘技場が廃れているのだが、これは3~4世紀帝政時代の物で剣闘士たちの登場口となった通路もかろうじて残っているのである。

シラクーサから再び長距離バスに乗ると1時間程度でシチリア州第2の都市であるカターニアに到着した。バスはセントロから離れた中央駅近くに停車したのでそこから海沿いに沿って歩いているとあらぬ場所に紛れ込んでしまっていた。とりあえずそこ行くおじさんにランドマークであるはずのドゥオーモの位置を訪ねると親切な彼はドゥオーモのドームが目視出来る場所までわざわざ案内してくれたのだが、「グラッツェ」と謝意を述べることが出来なかったので「ど~も」とのたまってお茶を濁しておいた。

「ノート渓谷の後期バロック都市」の一部として世界文化遺産に登録されているカターニアの中心はドゥオーモ広場であるが、着いた頃には日没を迎えていたので近くのInformationにおじゃまして本日宿泊予定で楽天トラベルに予約させておいた安ホテルヴィラメーターの場所を確認させていただくことにした。ホテルはカターニアのシティマップがカバーするエリアの範囲外だったので936番のバスを紹介されたのだが、待てど暮らせど来なかったので仕方なくはるばる中央駅まで移動して、かろうじて1台のタクシーが客待ちしているところを捕まえて言い値のEUR25を支払い、メーターを稼動せずにホテルヴィラメーターまで引き上げていった。

11月24日(木)

高台にあるホテルヴィラメーターをチェックアウトし、カターニアの目抜き通りであるエトネア通りを延々1時間かけて南に下り、ようやくドゥオーモ広場の象の噴水まで辿り着いた。象の上にはオベリスクが乗っかっており、そいつはわざわざエジプトから運ばれてきた代物なのである。

ドゥオーモ広場の裏手のバスターミナルから長距離バスに乗り、車窓から標高3323mを誇るヨーロッパ最大の活火山エトナ山の勇姿をうっすらと眺めながらカターニアを後にすると2時間半以上の時間をかけてシチリア州最大の都市パレルモに到着したのは正午前の時間帯であった。

パレルモの見所の多くはは旧市街に集中しているので、早速バスの到着したパレルモ中央駅から北北西に伸びるローマ通りを北上し、パレルモのへそと言われるクアットロ・カンティに向かった。四つ辻(十字路)の意を持つクアットロ・カンティは広場に面した4つの建物の角を均等に弧を描くように丸く切り取り、それら壁面に3段づつの装飾が施されている代物である。一番上の装飾は町の守護聖女、2番目は歴代スペイン総督、一番下は四季を表現した噴水になっているのだが、その噴水に付属している人面像はいささか苦悶の表情を浮かべているのが興味深かった。

クアットロ・カンティのすぐそばにあるプレトーリア広場の噴水を取り巻いている裸体彫刻で気分を高揚させるとイスラム人支配を今に伝えるサン・カタルド教会(EUR2)に参拝することにした。この教会は小ぶりではあるが、ノルマン時代(1160年頃)に建設された3つの赤い丸屋根がキュートで内部は非常にシンプルな分、好感が持てるものだった。

パレルモの代表的建造物としてカテドラーレが様々な建築様式を融合してかたどられているので拝見させていただくことにした。この大聖堂は1184年の創建当時はシチリア・ノルマン様式であったのだが、14、15世紀を中心とした度重なる増改築の果てにイスラム様式の濃い折衷様式に生まれ変わったのた。内部には皇帝と王の霊廟(EUR1.5)となっているエリアがあり、天蓋の下には重厚な石棺が並べられていた。

1583年に建造されたヌオーヴァ門を見上げて今ではシチリア州議会堂になっているノルマン王宮を取り巻いている民衆の多さに圧倒されながらもパレルモ観光のハイライトと称されるパラティーナ礼拝堂(EUR7)に辿り着いた。

ノルマン王宮の2階に設けられたアラブ・ノルマン様式のパラティーナ礼拝堂の入口は艶やかなモザイク画で彩られ、中に入るとさらなるモザイク画の宇宙空間が展開されていた。内部は大理石のアーチに無数のモザイク画がちりばめられ、これらはコンスタンティノープル、ラヴェンナと並びキリスト教美術の最高傑作に称されているのだ。

黄金のモザイク画に圧倒されながらパラティーナ礼拝堂から退堂すると赤い丸屋根が印象的な12世紀アラブ・ノルマン様式のサン・ジョヴァンニ・デッリ・エレミティ教会を遠巻きに眺めた後、イエズス会がパレルモで最初に建立したジェズ教会を訪問した。1564年の創建で比較的地味な外観ながら、内部は豪華絢爛で華麗に広がっている天井のフラスコ画が目を引いた。

今日宿泊している☆☆☆☆ホテルのクリスタル・パレスの近くにシチリア料理の店があったのでそこで夕食をとることにした。ビールを頼んだつもりなのに何故かダイエットコーラが出てきたのでついでに痩身効果がありそうなタコのサラダと名物カジキの焼き物を発注した。タコのサラダは蛸足の先っちょの方を切り集めてオリーブオイルと香草をなすりつけただけなのにEUR12もしやがり、カジキはサイコロ状の切り身にされ、変な衣で覆われながら玉ねぎと香草とともに串刺しになった変わり果てた姿をさらしていたのだ。

11月25日(金)

パレルモ中央駅から列車に乗り、シチリア島の最大の見所であるアグリジェントに向かった。途中の駅でバスへの振替輸送になったものの午前11時前には「アグリジェントの考古学地域」として世界文化遺産に登録されている壮大な神殿群の残る町に到着した。

中央駅から市バスに乗り、神殿の谷と呼ばれる地域で下車し、入口で各種神殿に入るコンボチケット(EUR13.5)を購入すると壮大なギリシア神殿遺跡のアドベンチャーをスタートさせた。

最初にギリシア神殿建築の最高傑作と持ち上げられているコンコルディア神殿を見学させていただいた。この神殿は紀元前450~440年頃のものなのだが、6世紀末の初期キリスト教時代に聖ペテロ・パウロ教会として転用されていたため比較的高い保存状態がキープされてきたのだ。

神殿の谷の東端、標高120mの丘の頂点で、上半身のない翼の折れたエンジェルの奥に位置するのはジュノーネ・ラチニア神殿である。コンコルディア神殿と同時代の物であるが、紀元前406年にカルタゴの進攻にあって炎上し、中世の地震で全壊した暗い過去を持っているのだが、♪も~し、お~れが ヒ~ロ~ だぁ~たら♪というような気概を持つ輩の活躍でここまでの復興を果たした様子が見て取れる。

さらにエルコレ(ヘラクレス)神殿、ディオスクロイ神殿を立て続けに見学したのだが、何故か神殿の谷で一番印象に残った物は局部をダイナミックに表現した銅像群と股間を占拠した人面局部そのものであったのだった。

神殿の谷から一時的に撤収し、紀元前4世紀にさかのぼる町の遺構であるヘレニズム期・ローマ期地区で区画整理された古代都市の様相を確認した後、州立考古学博物館を覗いてみることにした。

約20室もの部屋に展示された発掘品の中で最も目を引く代物は地下と1階を貫いた中央展示室に立て掛けられている高さ7.75mの人像柱テラモーネである。こいつはジョーヴェ・オリンピコ神殿の柱として組み込まれていた実績があり、その様子は神殿の模型により再現されている。さらに古代の人物や神様が描かれた壺が数多く展示されているのだが、その図柄から神殿の谷に放置されている銅像の役割が多少なりとも理解出来たように思えたのだった。

夕暮れ時に神殿の谷に戻り、ジョーヴェ・オリンピコ神殿を見学した。神殿には人像柱テラモーネがあたかも腹筋運動を始めるかのように横たわっているのだが、博物館の展示品が本物でこちらは体幹が弱いはずのレプリカになっているので立ち上がることが出来ないのもうなずけるのだ。

神殿の谷が闇に包まれると壮大な遺跡群の建造物が守護神の銅像とともに不気味に浮かび上がってきた。神秘的な光景を目の前にしてしばし息を呑んだ後、ホラー映画の殿堂「サスペリア」がイタリアで製作されたことを不意に思い出し、「決してひとりでは見ないでください」との啓示を受けたような感覚を覚えたので市バスに乗ってホテル・デッラ・ヴァーレにエスケープしなければならなかった。

11月26日(土)

阪急交通社が提供する「南イタリア、シチリア島の旅 10日間」のツアー客に包囲されながらもそそくさと朝食とチェックアウトを済ませると長距離バスターミナルからバスに乗り、カターニアに向かうことにした。カターニアに到着して埠頭を見物していると巨大なカーフェリーが停泊していたのだが、これはナポリを夜に出て翌朝カターニアに到着するお得な宿泊施設兼移動手段であると思われた。

相変わらずエトナ火山には雲がかかっていて眺望が悪かったので、ドゥオーモ広場に移動し、大聖堂内部を除いてお茶を濁しておいた。ドゥオーモ広場の脇から活気のある大きな声が聞こえてきたので近づいてみるとそこには新鮮な魚が直売されている青空市場が開かれていた。

今日の重要なミッションは無事にポッツァーロの港に辿り着き、夜のフェリーでマルタに帰り着くことだったので中央駅でイタリア鉄道のチケットを購入し、午後12時45分発の列車で肩の荷を下ろすかのようにカターニアを後にした。

1時間程で到着したシラクーサで途中下車すると考古学地区とは反対方向にあるオルティージャ島に向かった。シチリア本島から橋を渡り、小さなオルティージャ島に上陸を果たすと紀元前7世紀末に一世を風靡したはずのシチリア最古のアポロ神殿が廃墟のいでたちで出迎えてくれた。

やわらかな日差しが降り注ぐ中、狭い島内を散策しているとパピルスが生い茂る小ぶりのアレトゥーザの泉に辿り着いた。泉の周辺は住民と観光客と住猫の憩いの場所になっており、人々は海沿いの洒落たカフェで遅いランチを召し上がっていた。

抜けるような青い海が広がる沿岸部では釣りで生活の足しを得ようとする者や何らかのメディアのイケメンモデルとそのイケメンぶりをファインダーから覗いている写真家との爽快な駆け引きの模様を眺めることに成功した。

アルキメデスを輩出したシラクーサに敬意を表して歩きで島内巡りをしているとアルキメデス広場の奥にシラクーサのシンボルとされるドゥオーモが構えていたので臆せずに中に入って見た。かつてこの場所には紀元前5世紀にアテネ神殿が建てられていたということだが、その証として神殿の円柱がドゥオーモの身廊にどっしりと組み込まれていた。

日暮れ時を迎えたドゥオーモ広場に妖精のように金色に着飾ったハイカラな物乞いが佇んでいたので思わず手持ちの小銭を提供してその有様をフラッシュメモリーに刻み付けると眩しい夕日に照らされたシラクーサを後にして、列車でポッツァーロに移動した。

今回のマフィアの起源シチリア島ツアーではジローラモのようなチョイ悪おやじにはちょいちょい出くわしたのだが、マーロン・ブランドのような極悪のコルリオーネには出会うことが出来なかったので、日本ではゴッド・ファーザーのテーマが暴走バイクのクラクションに採用されている事実を伝えることが出来なかった。いずれにしても午後9時発のフェリーに乗り込むと10時半には平和であるはずのマルタ島に帰着することが出来た。ところで、フェリーで思い出したのだが、ギリシアショックが飛び火して不景気真っ盛りのイタリアではフェラーリどころか乱暴な運転をするランボルギーニさえ目にすることが出来なかったのだ。

11月27日(日)

昨日深夜に到着した☆☆ホテルであるカスティーユの朝食会場は屋上のレストランだったので、そこからヴァレッタの遠景を眺めると早朝に行われていたMALTA CHALLENGE MARATHONのゴールテープを切った勢いで町に飛び出していった。

市バスの一日乗車券を購入するとマルタ本島最南部の青の洞門に向かった。この場所は陸続きの高い岩礁が年月をかけて波と風でえぐられて自然の大きなアーチを描き、真っ青な海の色とコラボレーションした名勝である。

洞門巡りの小型遊覧船(EUR7)が観光客を満載して行き来していたので乗船してみることにした。波はそんなに高くないのであろうが、船体が小さいために大きな揺れを体感し、長時間乗っていると船酔いは免れないと思いながらも洞門の美しい光景に引き付けられていった。浅瀬で海底に白砂が体積しているエリアは太陽光に照らされてマサにエメラルド化しており、岩礁の波に洗われている箇所は何故か紫式部状に変色していたのだ。

20分程度の短い航海を終え、遊泳おやじに見送られながら下船し、マルタ島に残る注目の神殿群を見学すべく高台に向かって歩いていると船着場の入り江が遠巻きに心細く眺められた。

マルタには先史時代に築かれた巨石神殿が数多く存在し、数十トンに及ぶ巨石がいかにして運ばれ、組み上げられたのかは今もって大きな謎となっている。「謎解きはディナーのあとで」と悠長に構えていると入場できなくなってしまうので取り急ぎ世界文化遺産に登録されているハジャー・イム神殿とイムナイドラ神殿(EUR9)の歴史をなぞってみることにした。神殿自体を直視する前に切符売り場の近くのミニ展示室にある模型を見たり、説明を読み込んだりしたのだが、どうやら春秋分の日に海から昇る太陽の光が神殿の入口から差し込んでくる構造になっているようだ。ちなみに森三中のような下半身の石像は実は性別の判別がついてなく、力士説さえ取り沙汰されている様子であった。

まず最初にハジャー・イム神殿の調査から始めることにした。遠目からは東京ドームに見える遺跡の有様は歴史的価値の高い神殿を酸性雨等から守るためにドーム型の白布傘で覆いながら古代の無防備と現代の知恵を融合させているという調査結果が得られた。この神殿には重さ20トンもの巨石が組み込まれており、人海戦術で巨石を運んで立ち上げた様子が紹介されているのだが、「クレーンを貸してくれ~ん」と暴言を吐く者は一人もいなかったことであろう。

ハジャー・イム神殿を退殿して海に向かって続くかのような一本道を進むと番犬を養っているイムナイドラ神殿に辿り着いた。紀元前3000年~2400年に建てられたこの神殿の一部の石積みはオリジナルであるが、その他のものは後世に再現されたものとなっている。しかし、世界中の巨石ファンにとって胸が躍るような魅力的な遺跡であることは間違いないであろう。

市バスで一旦ヴァレッタのバスターミナルに戻って体勢を立て直すと別経路の市バスでマルタ本島最大の漁村であるマルサシュロックに向かった。ちなみに、マルサというと東京国税局査察部を思い浮かべる輩が多いと思うが、マルタ語では「港」になっているのだ。マルサシュロックを一躍歴史上の表舞台に引き上げた出来事は1989年のマルタ会談で、マルサシュロック沖のソ連客船マクシム・ゴーリキー内でアメリカのパパ・ブッシュ大統領とソ連のゴルビー書記長の間で米ソ冷戦の終結が宣言されたことである。

マルサシュロックを散策していると極彩色の船を多く見かけるのだが、大小にかかわらずどの船にも前面に一対の目が描かれている。これは悪天候や不漁から漁師を守る魔よけと海のお守りを意味しているとのことだ。

海に面した通りには魚料理を売り物にするレストランが所狭しと立ち並び、多くの観光客の憩いの場所となっていた。とりあえず私も一軒のレストランのオープンテラスに腰掛けて適当な魚介類の入ったスパゲッティを発注するとムール貝、カキ、エビ、イカ、ハマグリ等を満載した豪華な物が出てきたので、このような状況で必ず出没する物欲猫に見守られながら完食させていただいた。

マルサシュロックでは海沿いの市場も大きな見所で大量の魚介類の迫力に圧倒されながら歩いていると漁師の銅像に遭遇したのだが、魚のおこぼれに預かろうとする猫も漁村生活には欠かせない風物詩として堂々と銅像化されているのだ。

市バスの一日乗車券をフル活用すべく、ヴァレッタに戻ってさらに別のバスでヴァレッタの対岸に位置するマルタ最大のリゾート地であるセント・ジュリアンに移動した。高級リゾートホテルが並び立つ中で楽天トラベルに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテルでありながらシーズンオフ価格の\6,100で宿泊することが出来るル・メリディアンにチェックインするとしばし沿岸部を散策した後、ホテル近辺のレストランで夕食をいただくことにした。

シチリア島の痛メシ屋ではコペルトという席料の名目で付属のパンにも金を取るシステムが横行しているのだが、マルタのこのレストランではパンは無料で提供され、濃厚なバターとともにサケのほぐし身をオリーブオイルで練りまわしたサーモンディップもパンのお供としてテーブルを賑わしてくれたのだ。発注品はマルタ名物であるはずの魚介汁とエビのソースが濃厚なスパゲッティだったのだが、完食後はディナーのあとで謎解きをする気力をなくすほど骨抜きにされていたのだった。

11月28日(月)

早朝からそぞろ歩きの楽しいセント・ジュリアンの沿岸部を犬の糞を避けながら散策しているとCAT VILLAGEという猫の下宿のようなファシリティで寝起きを共にし、いい気になっている猫の集団に遭遇した。さらにこの漁港の生活を表現する銅像にも猫の出演が確認された。三宅島はロックの活躍によりわんこの島としての名声を築き上げたのだが、マルタはにゃんこの島としての地位をマサに不動のものとしているかのようであった。

開放的雰囲気の溢れるセント・ジュリアンを後にすると、バスでヴァレッタを経由してマルタ最大のタルシーン神殿(EUR6)を目指した。ヴァレッタの北東に位置するこの神殿は紀元前3000~2500年に建設されたもので20世紀前半に発掘されるまで地中に埋まっていたため保存状態が良く、らせん模様や動物の行進、羊飼いなどのレリーフなどが鮮明に残っている。神殿内には各種の発掘品が見られるのだが、いずれもコピーでオリジナルは先に訪れたヴァレッタの考古学博物館で手厚く保管されているのだ。

タルシーン神殿から北に進むとヴァレッタの対岸に3つの岬が突き出て格好の天然要塞となっている地域に到着した。この地域にある3つの町が総称されてスリー・シティーズと呼ばれているのだが、ここからマリーナ越しにヴァレッタ要塞を眺めながら騎士団に別れを告げ、マルタ国際空港への帰路に着いた。

午後3時20分発KM328便は遅れて出発し、さらに濃霧のためフランクフルトへの到着が遅くなってしまったが、乗り継ぎの午後8時45分発NH210便には余裕で間に合う時間だったのでラウンジでソーセージを食べずにシャンパンだけを飲ませていただいた。

11月29日(火)

午後4時過ぎに成田空港に到着すると、このフライトで10年連続ダイヤモンド会員の地位を防衛することになる上客の私をマークしていたチーフパーサーから来年は新型機B787ドリームライナーで羽田-フランクフルト便が就航することになるのでどうしても乗ってくれと懇願されたのでその愛社精神に免じて検討しておくことにした。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥61,840、AIR MALTA = EUR208.62

総宿泊費 ¥36,900(すべて朝食付き)

総フェリー代 EUR58

総バス代 EUR49.9

総イタリア鉄道代 EUR16.8

総タクシー代 EUR25

協力 ANA、AIR MALTA、VIRTU FERRIES LTD、楽天トラベル

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