日食メガネがおつとめ品として割引販売されるのを期待してぎりぎりまで購入を控えていたのが裏目に出て金環日食は4重サングラスで観察する体たらくとなってしまった。ともかく世紀の天体ショーを無事見届けることが出来たのだが、前回のブルガリア・ルーマニアツアーのレポートを受けてマサが20世紀末にすでに東欧を訪れていたという事実の発覚は見過ごすことが出来ず、それ以上の実績を求めてさらに内陸のモルドヴァとウクライナに行かなければならなくなったのだ。
5月22日(火)
12:05発NH207便は定刻通りに出発し、午後5時過ぎにミュンヘン国際空港に到着した。空港からSバーンという近郊列車が出ているのでそれに乗ってミュンヘン郊外のMoosachという駅に降り立った。ハイシーズンのこの時期のミュンヘン近郊のホテルはどこも高値が付けられているのでその中でも比較的安めな(といっても\18,000程度)Hotel Meyerhofに投宿して英気を養うことにした。
5月23日(水)
MoosachからSバーンでミュンヘン国際空港に戻るとルーマニアの小さな航空会社であるCarpatairが運行する11:50発の V3 322便、Saab2000プロペラ機に乗り込むと、2時間程のフライトでルーマニア西部の地方都市であり、Carpatairのハブ空港になっているTimisoaraに到着した。引き続きV3 129便、Fokker100ジェット機に搭乗すると1時間程のフライトでモルドヴァの首都キシニヨウに午後5時前に到着した。
かつてソ連の一地域であったモルドヴァへの入国にはビザと「レギストラーツィア」と言われる滞在登録が必要だったのだが、近年西側自由諸国への歩み寄りを強めているせいか日本のパスポートに対してはビザなしで入国できるのだが、入国審査で観光のためにモルドヴァへ来たぜと言っても容易に理解してもらえず滞在先等を細かく訪ねられてしまった。無事に入国を果たし、両替所で手持ちの20ユーロを差し出すと300レイ(Lei)という現地通貨になって返ってきたので思わず一礼して両替所を後にした。
キシニヨウ空港には165番マルシルートカというミニバスが乗り入れていたのでLei3を支払って乗り込むと20分程で町の中心部に到着した。早速Hotels.comに予約させておいた☆☆☆ホテルであるBella Donnaにチェックインする際にどんな妖怪人間ベラが現れるのか戦々恐々としていたのだが、受付に出てきたのは普通のおしゃれなモルドヴァ・ギャルであった。
7時を過ぎてもあたりは暗くならないのでとりあえず軽く町中を散策してみることにした。町の雰囲気は旧ソ連の田舎町という感じであるが、メインストリートのシュテファン・チェル・マレ大通りには当時の威光を思わせる巨大な建造物群が立ち並び、元々寒いお国のせいか、道行くイケメン猫も高級そうな毛皮をまとっていたのであった。
5月24日(木)
九州より少し小さいサイズのモルドヴァは首都のキシニヨウといえども観光資源に乏しく、これといった見所もないのだが、とりあえず情報収集も兼ねて町に繰り出すことにした。列車の時刻を確認するために乗り込んだキシニヨウ駅の前では早朝から質素なフリーマーケットが展開されており、衣類や雑貨はまだしも誰が買うのだろうといぶかってしまうようなガラクタがシートの上に颯爽と広げられていた。青い蒸気機関車が展示されてあるキシニヨウ駅は駅舎正面の造りは重厚であるが、列車の本数が少ないために閑散としている様子であった。
駅を出て大通りを目指していく道すがらの中央市場で原住民が織り成す人間模様を垣間見た後、団地に取り囲まれているマザラキ教会の外観を窺がうことにした。1752年に建立されたこの教会は小さいながらも人々の信仰を集めており、多くの信者が出入りしていたので内部への侵入を憚られてしまった。
シュテファン・チェル・マレ大通りに戻り、マクドナルドで飯を食った際に店内のトイレを使用させていただくためにはレシートに記載されている4桁の暗証番号が必要であることを学び、今後の排便活動のためにはレシートをぞんざいに扱うことは出来ないと肝に銘じた後、大通り沿いの見物に精を出すことにした。ぱっとしない外観のオペラハウスと警備の手薄そうな大統領府の通りを挟んで反対側にシュテファン・チェル・マレ公園が人々の憩いの場所になっているようだったので憩いのおすそ分けにあずかることにした。尚、シュテファンはモルドヴァ建国の父であり、公園の入口には御仁の記念碑も建っているのだ。
キシニヨウ観光のハイライトは勝利の門の裏側の公園に鎮座するキシニヨウ大聖堂であろう。また、向かいの市庁舎にはためく国旗はルーマニアの旗にモルドヴァの国章を配したものでこの国はロシアよりもむしろルーマニアの影響を受けていることを容易に伺い知ることが出来るのだ。
5月25日(金)
早朝ホテルBella Donnaをチェックアウトすると修復が進んでいる聖ティロン大聖堂のネギ坊主を横目にキシニヨウ駅へと急いだ。7:22発ウクライナのオデッサ行き国際列車は古い車両に木造のシートが設えられており、5時間もの長時間にわたって硬い椅子とケツの筋肉の格闘が繰り返されることとなるのだった。
途中駅に到着した車内でモルドヴァの出国とウクライナへの入国がつつがなく果たされると列車は国際列車から国内列車に成り下がってしまった。ウクライナの入国の手続きをした駅ではどこで手に入れたのか大ジョッキのビールを手にした無頼の輩が乗り込んで来て私の前の席に腰掛けやがった。奴は最初は隣のおばちゃんにやたらと話しかけており、おばちゃんも体よくあしらっていたのだが、それでも飽き足らずついには私が読んでいた本にまで手を掛けてきた。本の内容が奴の興味に合致しないことを思い知ると程なくして黒海沿岸の港町オデッサに到着した。
1年を通して太陽に恵まれ温暖な気候で知られるオデッサであるが、この日は風も強く気温も低かったため、歯の根が合わないほど震えながら港を目指して歩いて行った。キシニヨウより数倍大きく洗練された感のあるオデッサの並木道の街路樹は異様な程高く大きく、巨大な柱や屋根となって道路を覆っているかのようだった。
港に近づくにつれて豪華な博物館の建物が増え始め、それらの前段を飾る彫刻の手足も複雑に絡み合っていた。町行く女性は例外なくウクライナ美人の遺伝子を受け継いでおり、1995年~1996年頃に富山県のパナソニック砺波の半導体工場で長時間ミーティングの憂き目に遭い、飛行機の最終便に乗れなかったときに入った高岡の飲み屋に出稼ぎに来ているウクライナギャルと比べても決して遜色のないものであった。当時はソ連崩壊後ウクライナが独立して間もない情勢が不安定な時期であったにもかかわらず、日本語をまったく理解しないウクライナホステスはその美貌だけで接客をやり遂げるという離れ業を演じていたのだった。
オデッサ最大の観光名所としてポチョムキンの階段が港へと続いている。この階段はソビエト映画史上最高と言われる、エイゼンシュテイン監督の「戦艦ポチョムキン」(1925年)の舞台となった場所である。何でも1905年の第一次ロシア革命の最中に起こったポチョムキン号の水兵蜂起事件が映画化されたものであり、このオデッサの階段のシーンは目を覆うほど残酷極まりないものであるそうだ。
強風吹きすさぶオデッサ港のターミナルにはCOSTA MEDITERRANEAという豪華客船が停泊していたのだが、ここから黒海を縦断してイスタンブール、はたまたギリシャに抜ける国際フェリーも運航されているのだ。
ポチョムキンの階段の脇に電話ボックスを長くしたようなちゃちなケーブルカーが安値で運行されていたのだが、それに乗らずに階段を駆け上がってエカテリーナII世像が見下ろす広場に到着した。「黒海の真珠」との異名をとる港町オデッサであるが、現在の形に整えたのはエカテリーナII世で、彼女はサンクト・ペテルブルグを建設したピョートル大帝にならい、「黒海に向かって開かれたロシアの窓」として町を築いたのだ。
エカテリーナII世像のふもとで予約しておいたOdessa Apartments On Ekateriniskaya Streetのスタッフを電話で呼びつけると車で迎えに来たので場所が分かりにくいアパートの小部屋に何とかしけこむことに成功した。今日は寒かったのでとあるステーキ屋で肉を食らってとっとと休ませていただくことにした。
5月26日(土)
今日は朝からオデッサ本来のこの時期の温暖な気候を取り戻していたので気持ち良く散策に繰り出すことにした。ウィーンの建築家によって設計され、1884年~1887年にかけて建てられたオペラ・バレエ劇場の周辺では何がしかの婚礼の儀式が行われており、豪華な建物の外観に彩りを添えていた。
博物館が林立する広場ではEURO2012のサッカー系のイベントが行われており、リフティング青少年集団やパッとしないゆるキャラが格好の被写体として広場の主役に躍り出ていた。
巨大なカテドラル前の公園では派手な色の鞍を付けられた馬がいたいけな少女の乗馬を心待ちにしているように辛抱強く待機しており、オデッサののどかな休日の一シーンとなっていた。
横浜と姉妹都市という契りを結んでいるオデッサには「横浜」や「神戸」といった日本食のレストランも数多いのだが、私という奇人を輩出した日本では番付の高い港町であるはずの「門司」という名を冠した店がないことに憤りを覚えながらもさらに港の風情を満喫していた。
鷹や孔雀を記念写真の道具として操っている商売人を横目にプリモールスキー並木道を歩いているとのど自慢系のアコーディオンを弾いているおっさんの伴奏に合わせて民謡を歌っている美人合唱団の歌声にしばし聞き惚れていた。
夕刻になると歩行者天国のデリバスィフスカ通りに面するゴールサト公園のステージで簡易オーケストラによるコンサートが開催され、衝動を押さえきれない老若男女はリズムに合わせてついついダンスに興じながらオデッサは夕闇に包まれていくのであった。
夕暮れ時にオデッサ駅に移動し、チケット売り場で移動手段兼宿泊施設であるキエフ行きの夜行列車のチケットを所望したのだが、何とすべて売り切れということで思わず「キエ~!」という奇声を発しそうになった。仕方なく駅に近いビジネスホテル風の☆☆☆☆ホテルであるBlack Sea Hotelに飛び込むと一番安い部屋で日本円で¥5000程度の505グリブナ(rpH)ということだったので迷わずチェックインすることにした。
気を取り直してオデッサ駅に舞い戻り、明日の8:40発のキエフ行きの列車のチケットを買おうとしたのだが、これもすべて売り切れということでキエ入りそうな声で「そ~ですか~」と言って退散するしかなかったのであった。
5月27日(日)
列車のチケットの購入に失敗し、バックアップとして夕方発のキエフ行きの飛行機を押さえていたのでウクライナに来て浮かないな~という重石を背負った雰囲気を引きずりながら時間潰し観光を余儀なくされた。
町中では何らかのビューティコンテストが行われており、リムジンで乗りつけたウエディング系の衣装を身にまとった美女達が次々にレッドカーペットを歩きながら自己満足に浸っていた。
オデッサには外壁を彫刻で飾ったアール・ヌーヴォー建築がたくさんあり、見る者を飽きさせない町造りがなされているのだが、一方で緑濃き公園内では少年の心身を鍛えるフィールドアスレチック系のファシリティも充実しており、子供達はレンジャーさながらのアクティビティに興じているのだった。
思いがけず長居してしまったオデッサを後にすべくバスで空港に移動し、18:20発ウクライナ国際航空とのコードシェア便であるAEPO CIBITが運行するVV18便に乗り込んだ。1時間程のフライトでウクライナの首都であるキエフのボリスビル空港に到着すると空港バスでキエフ駅に向かった。さらに地下鉄に乗り換えてドニエプル川の中州の島に位置するビドロパルク駅に到着したのは明るさがまだ残る午後9時過ぎくらいの時間であったろうか?
遊興地帯とお見受けするビドロパルク駅周辺は週末の喧騒さめやらず、ディスコティックなサウンドが高らかに鳴り響き、多くの人々が遅くまで飲み食いに興じていた。パルクというだけあり、島の大部分は緑溢れる公園で島の南部から宿泊予定のホテルのある対岸に渡ることが出来ると高をくくっていたのだが、鬱蒼とした森林地帯を犬に吼えられながら歩き回っても島と対岸を結ぶ橋を見つけることが出来ず、1時間程むなしく島内を彷徨って結局ビドロパルク駅に戻ってくる失態を演じてしまった。不本意ながら地下鉄で橋を渡り、駅に降りて30分程歩くとついに予約しておいた☆☆☆ホテル・スラヴィティッチに到着したのは午後11時近くになってしまい、浮かない気分を引きずったままチェックインとなったのだった。
5月28日(月)
早朝旧ソ連時代に建設されたはずの大型ホテルであるスラヴィティッチの8階の部屋から周囲を見渡すと対岸に立ちはだかる像や塔の様子が朝靄越しに見て取れた。ホテルを出て地下鉄駅に向かう道すがらのドニエプル川沿いを歩いていると静かな水面に美しい緑の景色が写し出されていた。
地下鉄1号線に乗ってキエフの市街地である対岸に渡り、アルセリナという駅で降りて南に向かって歩いていると戦没者慰霊碑の向こうに数多くの修道院系の金色の屋根が姿を見せ始めた。
ドニエブル川沿いの深い緑の中に広がる、東スラヴで最も長い歴史を持つ修道院はペチェールスカ大修道院(rpH50、写撮rpH100、世界遺産)でロシア正教文化の源泉であり、ロシア正教ウクライナ支部の総本山となっている聖地である。巨大な壁画を横目に入口の門をくぐったのだが、門の中には聖三位一体教会が内蔵されており、その先には工事中の大鐘楼と豪華絢爛なウスペンスキー大聖堂が光り輝いていた。
広い敷地内には通路も多く、修道院南側の地下洞窟にある地下墓地を目指したのだが、門が閉ざされていたので北側の教会や博物館が集まっているエリアを中心に散策することにした。19世紀後半に建てられた比較的新しい教会であるトラペスナ教会の内部では天井画の下の祭壇の前で信者が参集し、何らかの礼拝が行われていた。
展示場となっているいくつかの小部屋の中にはこの修道院にまつわるはずの金の装飾品や司祭グッズが写撮代を支払った者のみ撮影出来る特典つきで丁重に展示されているのであった。
大修道院内のほとんどの教会が18世紀にウクライナ・バロック様式で立て直されているのに対して、三位一体教会のみが12世紀の姿を留めているとのことなので内部にまで足を踏み入れてみることにした。内部の造りは狭いものの、壁を埋め尽くすフレスコ画と木製のイコノスタースは圧倒的な迫力を醸し出していた。
北側の門の中に造られた教会はウスィフスヴィヤツカ教会で、階段を上って中に入ると中央ドームからキリストに見下される内装が施されていた。
ペチェールスカ大修道院でキエフ住民のキリスト教への帰依具合の確認が取れたところでドニエプル川沿いの大通りを北に向かって歩いてみることにした。風光明媚な川には多くの橋が架かっており、船着場には大きな遊覧船が停泊している様子も見受けられた。
マサよ、君は原発事故後の放射能漏れ対策としてロシアの伝統民芸品のテクノロジーの応用を検討したことがあるか!?
というわけで、ソ連時代の1986年にレベル7の原発事故を起こしたチェルノブイリに乗り込むには特別なツアーの手配が必要であるのだが、キエフ市内にはチェルノブイリ博物館が開館し、原発事故の悲劇を後世に伝えようとしているので見学を試みることにした。しかし、この博物館は日曜日と毎月最終月曜が休館日ということだったので、事故後に石棺によって封じ込めた放射能が30年近くの時を経てコンクリートの経年劣化により漏れ出す恐れに対応すべく、新たな石棺をマトリョーシカ状に何層も覆いかぶせるアイディアを館長と議論するには至らなかったのだ。
低地の川沿いから山の手にあるウラジーミルの丘に手軽なケーブルカーで移動すると目の前に鮮やかな青で彩色された聖ミハイル修道院が姿を現した。1713年にウクライナ、バロック様式で建てられたこの聖堂は付属の鐘楼とともにソ連時代の1936年に破壊されてしまったのだが、1997年から1998年に修復されて今に至っているのである。
丘の上で瞑想をしながらも勧誘のチラシを配っているヨガ軍団をかわして、裏の方からは地味にしか見えないウラジーミル聖公像の背中で哀愁を感じることにした。ウラジーミル公は遊牧民との戦いに勝利し、対外的にも有力となったキエフ・ルーシの統制を強めるために988年にギリシア正教を国教に定めた偉人として崇められているのだ。
聖ミハイル修道院を背景に広場に立つポフダン・フメリニツキーというおっさん扮するコサックの英雄像を通り過ぎて、1037年に建てられた現存するキエフ最古の教会であるソフィア大聖堂(rpH50、世界遺産)までやってきた。現在の姿は17世紀後半にウクライナ・バロック様式で再建されたものだが、写真撮影禁止の内装は11世紀のものが残されている。壁面は豪華なフレスコ画とモザイクで埋め尽くされているのだが、とりわけ中央および祭壇上のドームを占めている巨大なモザイクのキリストと聖母マリアの迫力に圧倒されることになる。
エレガントな装飾が眩しいアンドレイ教会がキエフで一番チャーミングといわれているアンドレイ坂の頂上にそびえている。この教会はロシアの女帝エカテリーナII世のキエフ来訪を記念して1749年から建設が始められたもので、設計はエルミタージュ宮殿など多くのバロック建築を手がけたイタリア人ラストゥレリによるものである。そのためアンドレイ坂の周辺ではサンクトペテルブルグの雰囲気をそこはかとなく感じることが出来るのだ。
キエフの歴史が凝縮されたウラジーミル通りを下っていると村神と名乗る日本食系居酒屋チェーン店とその配達車に遭遇した。その先にはオペラ・バレエ劇場がウクライナの文化の中心であるかのように鎮座しており、往時のキエフの正面玄関であった黄金の門が彩を添えている。
聖人ウラジーミルにちなんだファシリティのハイライトであるかのように1882年に完成した比較的新しいウラジーミル聖堂が黄色光りしていたので中に入り、アール・ヌーヴォーのフレスコ画に見入っていたのだが、写真撮影にはrpH50もの大金の支払いを求められるので心のフィルムにその光景を刻み付けるに留めておいた。
1834年にウクライナで2番目に開校されたキエフ大学があたかも血塗られたかのような色で彩色されているのだが、これはロシアのニコライI世が徴兵拒否運動を起こした学生たちへの罰としてニコリともせずに建物を血の色で塗りつぶすよう命令した嫌がらせの名残となっているといわれている。
キエフで一番にぎやかなフレシチャーティク大通りは月曜日なのに歩行者天国になっており、何がしかのイベントの前触れであるかのように生ビールのサーバーが道路脇のテントに続々と運び込まれていた。多くの噴水を湛えたネザレージュノスティ(独立)広場にそびえ立つ長身のオブジェの麓ではイベントの設営が粛々と行われていたのだが、近々ウクライナとポーランドで開催されるEURO2012のサッカーイベントにまつわるものではないかと推測された。
5月29日(火)
早朝ホテル・スラヴィティッチをチェックアウトすると徒歩と地下鉄でキエフ駅に向かった。キエフ駅から空港バスでボリスビル空港に移動すると11:10発ウクライナ国際航空が運行するPS401便に搭乗し、午後1時頃にはフランクフルト国際空港に到着した。引き続き20:45発NH210に乗り換え、帰国の途についた。
5月30日(水)
定刻15:00に成田空港に到着し、最後のキエフで何とか浮かばれた実感を胸に流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥60,790、Carpatair = EUR214.48、ウクライナ航空 = $419.4
総宿泊費 Lei1,317、rpH1,080.17、¥26,357
総ドイツ鉄道代 EUR20
総モルドヴァバス代 Lei3 (Lei1 = ¥6.7)
総モルドヴァ鉄道代 Lei106
総ウクライナバス代 rpH52.5 (rpH1 = ¥10)
総キエフ地下鉄代 rpH10
総キエフケーブルカー代 rpH1.5
協力 ANA、Carpatair、ウクライナ航空、Hotels.com