マサよ!というと
マサよ~という
こだマサでしょうか!?・・・・・私だよ!!!
ということで、復興へと大きく舵を切らなければならない今日この頃であるが、マサのような高級官僚が描く復興のシナリオにのり、電力会社に天下って行くのもよいが、「災害」と「貧困」を生業としている国から学ぶべきことも多いはずである。一方で、少年隊がもう仮面舞踏会の招待状をもらえないはずの40代半ばを過ぎても少年隊を続けなければならないほどの高度高齢化社会に備えて人間力を鍛えておくことも重要視されている。
今回は貧しいながらも頻繁に起こる大洪水のような災害を受け入れながら生きるベンガルの緑地の日の丸を持つ国バングラデシュを訪問し、近年のサイクロンの襲来により、仮面ライダーのオートバイに荒らされたような窮地から回復する術を学ばせていただくべくダッカを練り歩くツアーが敢行されることとなった。
2011年3月30日(水)
「バングラデシュを訪れよう!観光客が来る前に!!」という自虐的とも言えるキャッチフレーズを掲げているせいか、すでに昨日目黒区のバングラデシュ大使館で破格ともいえる無償のビザを査証していただき、渡航の準備も万端整っていた。尚、大使館の近くに目黒寄生虫館が開館していたのだが、衛生状態が悪いはずのバングラデシュで注意しておかなければならない寄生虫の生態を予習しておこうとは最初から思っていなかった。
震災後のショックから抜け切れていない成田空港は閑散としており、午前10時発NH909便香港行きも多くの空席が目立っていた。午後2時前に香港国際空港に到着し、JALのマイレージが余っていたのでマサであれば5~6万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思っていた割には、税金と称して\18,640を支払わされていた香港ドラゴン航空ダッカ行きのボーディングパスをトランスファーカウンターで入手した。KA192便ダッカ経由カトマンズ行きは定刻の午後6時5分に出発し、4時間のフライトで午後8時過ぎにダッカのシャージャラル国際空港に到着した。ほとんどの乗客がカトマンズを目指しているせいか、ダッカで下りた乗客は少人数だったため、割と短時間で入国審査を切り抜けることが出来たのだった。
空港ですでに蚊が多いことに気付き、今回のツアーの前途を懸念しながら空港のATMでバングラデシュの現地通貨であるタカを引き出したのだが、相棒のトシの「欧米か?!」を封印せざるを得ない程、欧米人の姿を目にすることがなくなろうとはこの時点では考えもしていなかった。運よく欧米人10人に会うまで「帰れまてん」という企画をも封印出来たので、タクシーカウンターでタクシーを発注して今回の宿泊先である当地の高級ホテルであるベストウエスタン・ラ・ビンチに投宿した。
3月31日(木)
ダッカは町歩きが好きな人にはたまらないと言われるものの、初日は心と体を慣らすためにホテル周辺の散策にとどめよと物の本に書いてあったのでまずはウォーミングアップを兼ねてホテルからダッカ中央駅までの4km程度を歩いてみることにした。
ダッカ市街地の大まかな地理を頭に叩き込み、けたたましいクラクションと喧騒の中をやみくもに歩いていると当然のように方向感覚を失ってしまった。大通りには普通車やバスだけでなく、CNGという圧縮天然ガスを充填して走る緑の三輪車が連なるように走り、リキシャと言われる地球温暖化ガスを排出しない自転車系乗客座席引っ張り乗り物が路上に満ち満ちていた。電柱から髪の毛のように伸びる電線は無造作に束ねられ、この国の電力事情の混乱を示唆しているように思われた。
蒸し暑い中、数時間歩いても駅へ向かう道の手掛かりさえ掴むこともままならなかったのだが、何とか線路を発見することが出来たので、線路の上を駅の方向に辿っていくことにした。線路沿いの風景は発展途上国にありがちなスラムの日常生活そのものであり、寄生虫が付いているであろう生鮮食品だけでなく、牛やヤギ等の家畜も列車に轢かれないようにしっかりと繋がれているのであった。
何とか辿り着くことに成功したダッカ中央駅にたまたまローカル系の列車が止まっていたのだが、乗客は車内だけでなく、屋上にも溢れており、完全に安全性を無視した運行体制が敷かれていることが確認出来た。また、男性が路上で用を足すときは通常の立ち姿ではなく座って放尿していたので、私も早くこの方式を会得しなければ膀胱炎は免れないのではないかと懸念された。
バングラデシュは日本の半分ほどの広さの国土に世界7位の1億4000万以上の人々が暮らしている人口過密地帯である。今回のツアーでは喧騒の首都ダッカだけでなく、近隣に2つの世界遺産を抱えるクルナを訪問しようと考えていたので、駅で気軽に列車のチケットの手配でもぶちかまそうと思っていたのだが、駅構内の表示や案内がほとんどベンガル語でクルナには来るな!と脅迫されている感覚を覚えたのでダッカに留まることにした。
ダッカ市内を数時間練り歩いて異様な疲労感を感じたのでホテルにとぼとぼと徒歩で戻ることにした。帰る道すがらの歩道には下水施設がいくつも崩壊した痕跡があり、これがサイクロン等の自然災害によるものか、もともとこのような体制なのか識別することが出来なかった。また、交通量の多いダッカでは事故も多いと見えて、ほとんどの乗用車は鉄パイプ系のバンパーを車体の前後にインストールしているのだった。
4月1日(金)
ホテルのふもとに大きな生鮮食品市場であるカウラン・バザールが商売繁盛していたので軽く覗いて見ることにした。貧困の国とはいえ、バザールには豊穣なベンガルデルタの恵みを実感させる程の食べ物が溢れており、お金が無くても何とか食いつないでいけるようなたくましさを思わず感じてしまうのだった。
昨日の放浪により、多少ダッカ市内の地理感覚が身に付いてきたので、ダッカ町歩きの目玉といっても過言ではないオールド・ダッカに恐る恐る足を踏み入れる決断が下された。道行く途中の広場では青少年が国技であるはずのクリケットに興じていたのだが、たまたまバングラデシュでクリケットのワールドカップが開催されているため、町中には主催者たるものを誇示する看板が至る所に設置されていた。
人間の巣窟とも言えるオールド・ダッカに足を踏み入れると、そこには将来マトン・カレーの原料となる羊たちが道端で沈黙していやがった。迷路のような細い路地を歩いていると、私のようなよそ者外国人は原住民から平均10秒くらいガン見されるのでそのプレッシャーに耐えながら歩を進めなければならない。
路地を抜け切るとブリコンガ川に行き当たった。ヒマラヤの雪解け水によって形成されたベンガルデルタと呼ばれる氾濫原を担っているはずのこの川とその岸辺はおびただしい程のゴミで汚されているのだが、原住民は平気で沐浴を楽しんでいらっしゃった。
ショドル・ガットという船着場にはロケット・スチーマーという外輪を持つ蒸気船が停泊しており、この船はダッカとクルナを26時間以上かけて航行する定期船となっているようだった。
ピンク・パレスとの異名を取るアージャン・モンジールを鉄格子越しにチラ見した後、ひといきれで窒息しそうになっても一息入れることが出来る場所のないオールド・ダッカからそそくさと退散させていただくことにした。
ホテルの近くにダッカ最大のショッピングセンターであるボシュンドラ・シティがリッチな買い物客でごった返していたので、フードコートがあればここで夕飯でもご馳走になろうと思って入ってみることにした。果たして中央ぶち抜きの7階建ての最上階はファストフード天国だったのでここでお約束のカレー系の食い物を食いつないで英気を養っておいたのだ。
4月2日(土)
ダッカを初めて訪れ、少しでも町中を歩いてしまった輩は、その後ホテルの外に出るのが非常におっくうになることが実証されたのだが、私は人間力を鍛えなければならない使命を帯びていたので、勇気を振り絞って喧騒に戻ることにした。ダッカ大学の近くに国立博物館(Tk75)がアカデミックな装いで門を構えていたのでバングラデシュ人と一緒にバングラデシュに関する各種展示物を見学させていただくことにした。ここで一番印象に残ったものはパキスタンからの独立戦争にかかわる資料で、壮絶な写真や虐殺された人々の遺品や遺骨が当時の惨劇を物語っていた。尚、バングラデシュの国旗の赤い円は独立戦争で流された血を表しているのである。
別に意図したわけではないのだが、人間の磁力に吸い寄せられるようにオールド・ダッカに舞い戻ってしまっていた。ここでは通りごとに異なる種類のバザールがござ~るのだが、鳥インフルエンザが蔓延するリスクのある家禽類のコーナーではスリムクラブが2010年のM1の決勝で世の中で一番弱いとのたまったウズラが籠の中に封じ込められていた。尚、世の中で一番強いものは放射能であることは皮肉にも実証されてしまっており、イスカンダルまで取りに行かなければならないコスモクリーナーDのような装置の早急なる自力開発が望まれているのだ。
これまでダッカ市内を歩き回って欧米人どころか東洋人にさえ会うことがなかったのだが、町で声をかけられてもほとんどはリキシャやCNGの運転手であった。となりのインドでは10m歩くごとに客引きに声をかけられたのだが、バングラデシュでは引き当てるべく観光資源が乏しいので無理もないことだと思われた。
今夜もボシュンドラ・シティで夕食をとることにした。フードコートでは多くのバングラデシュ人がクリケットワールドカップ決勝戦インド対スリランカに見入っており、時折大きな歓声が上がっていた。飯を食っていると雨季に入ったバングラデシュの氾濫の兆しを思わせるような雷雨のサウンドが聞こえてきたかと思うと館内の電気が一斉に消えてしまった。水はけの悪い道路はとたんに冠水しているようだが、原住民はビーチサンダルを履いているにもかかわらず、水溜りを避けて歩いていたので狭い歩道はいつにも増して渋滞状態だったのだ。
4月3日(日)
ダッカ滞在の最終日はホテルのチェックアウト時間の正午ギリギリまで部屋に引き篭もり、極力外界との接触時間の短縮を図っていた。重い気分を引きずってホテルを後にすると、今日はダッカで最も洗練された雰囲気を持つグルシャン地区に足を運ぶことにした。グルシャンに向かう道すがらで踏み切り待ちをしていると列車の屋根で少年が大の字になって立っている光景を目にした。
グルシャンが洗練されているとはいえ、その手前の池の周辺はスラム系の水上住宅街になっており、住民は渡し舟でそれぞれの帰路に着いていた。ウェスティン・ダッカがグルシャン地区随一の高級ホテルとして君臨していたので高い金を払って昼飯を食うという名目でしばらく目撃していないバングラデシュ人以外の人種の見学に行ったのだが、大きな成果は得られなかったのでとっとと撤収することにした。
ダッカ国際空港はグルシャンからわずか5km程度の距離だったので乗り物に乗らずに徒歩で向かっていると途中で何がしかのデモに遭遇してしまった。おびただしい数の原住民の熱い視線を感じ、声援さえ受けながらも何とかデモ隊を交わして無事に空港に到着することに成功し、念願の出国の手続きとなった。午後9時5分発KA191便カトマンズ経由香港行きは定刻通り出発し、機内でカトマンズに向かう観光客が少しでもダッカに立ち寄る気を起こすような観光客受入体制の確立を祈っておいた。
4月4日(月)
午前6時前には香港国際空港に到着したのだが、そこには日本からの到着旅客向けの健康相談デスクの案内が風評被害を煽るように各所に立てられていた。さらにキャセイパシフィックが運行する成田行きの便は何故かキャンセルになっており、スリムクラブも恐れる放射能の脅威をマザマザと見せ付けられたような気がした。
午前9時45分発、機体にパンダ紋様をあしらったNH912便はキャセイパシフィックがフライトをキャンセルするのもうなづけるほど空席が目立っていた。午後3時に成田に到着するとリハビリの必要性を感じたのでスリムクラブを輩出した沖縄へ流れされるように解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥21,830、日本航空(香港ドラゴン航空)= ¥18,640(税金のみ)
総宿泊費 Tk 22,880(Tk 1 = ¥1.2)
総タクシー代 Tk 800
総バングラデシュ ビザ代 ただ
協力 ANA、日本航空、香港ドラゴン航空