祝2000本安打&世界遺産内定記念 小笠原ツアー

マサよ、君はまもなく首都・東京に誕生する世界自然遺産に先取り上陸したことがあるか!?

ということで、2011年5月6日(日)、国際自然保護連合(IUCN)は、小笠原諸島を世界遺産リストに記載することが適当であると世界遺産委員会に勧告し、順調に進めば2011年6月末の同委員会で、小笠原諸島は日本で4番目の世界自然遺産となる。これは石原都知事が多額の税金をつぎ込んでゴリ押しした東京オリンピックの招致の失敗など足元にも及ばない快挙である。また、小笠原が世界遺産となれば観光客が殺到し、その重みで島々が沈んでしまうことも懸念される。いずれにしても、世界遺産登録後に様々な制限を設けられる前に小笠原まで航海しなければ後々後悔するのは必至であるはずなのでGW後の閑散期に太平洋の荒海に乗り出すことにしたのだ。

2011年5月24日(火)

JR浜松町から程近い東京港竹芝客船ターミナルに午前8時半頃到着し、東海汽船の窓口で乗船券と人名票を入手し、必要事項を記入すると世界自然遺産登録直前小笠原先取り体験キャンペーンのゆるキャラに就任しているメグロンにガンをつけた後、通称「おが丸」として慣らしている小笠原丸に乗り込んだ。

大きな銅鑼の音を鳴らして定刻午前10時に出港となった「おが丸」は小雨そぼ降る中、東京タワーやレインボーブリッジ等の都会の建造物を尻目に東京湾を南下して行った。

おが丸には何故か日テレ等のテレビクルーも乗船しており、しきりに周囲の風景を録画しまっくていた。羽田沖を通過しているおが丸のデッキからは数十秒毎に離着陸を繰り返すANAやJALの機体が遠巻きに眺められ、これから起こるアドベンチャーの期待が徐々に高まっていくのであった。

東京湾に別れを告げ、太平洋の外洋に出たおが丸は、その6700トン、全長131mの巨体を大きく揺らしながら酒さえ飲んでいない乗客をも酔わせ、船内レストランや売店の売り上げを著しく低下させると同時に各所に設置されていたエチケット袋の消費量を増やしていた。南極に至るドレーク海峡で三半規管を強化していた私でさえ、この日は飯も食わず、持参していた三国志4巻、5巻を読破することもなく、2等雑魚寝スペースで意識を無くそうと努力するのが関の山であったのだ。

5月25日(水)

夜が明けるとようやくシケも収まっていたようで、何とか船内レストランの売り上げに貢献し、デッキで果てしなく続く青い海を眺めていた。空を舞う海鳥やおが丸が立てる白波を眺めていると、ふとGIANTSの背番号2のユニフォームに身を包んだ侍が左打席でフルスイングしている感覚が強くなってきたのですでに小笠原諸島の海域に差し掛かっていることを確信した。

島影が次第に濃くなり、歓迎クルーザーも姿を現したところでおが丸は父島二見港に着岸し、乗客は約26時間ぶりに大地を踏みしめることとなった。

下船後ほどなくすると今回宿泊することになっているトロピカルインパパヤのスタッフがバンで迎えに来ていたので早速乗り込むと宿に着く2分程の間に簡単に父島市街のガイドが施された。ATMは農協と郵便局のものが使用可能なので金融機関に金を預けている限り金欠病に罹る懸念はなく、コンビニはないものの商店や食堂、居酒屋はいくつかあるので東京都民としての暮らし向きに何ら不便がないことが確認された。

宿に到着すると父島に入植して39年のパパヤのパパ兼オーナーの田中氏から新規宿泊客に対して数々の注意事項が与えられた。基本的に南国での自由気ままな生活を謳歌してよいのだが、過去には不幸にも海や山でお亡くなりになった方々が数多いので出かけるときは行き先を伝えるようにとのことであった。

近くの中華料理屋でタン麺を食った後、パパヤの目の前にある小笠原ビジターセンターに入ってみることにした。ここには実物のカヌーが帆走時代の姿に復元されて展示されているのだが、窓越しに広がる前浜と言われる大村海岸では気安く海水浴やウインドサーフィンを楽しむことが出来るのだ。

パパヤで原チャリをレンタルすると父島の見所を一通り回ってみることにした。大村地区の繁華街を抜け、東岸の舗装道路を南に進んでいるとギルバート諸島出身の先住民「コペペ」が利用していたというコペペ海岸に到着した。さらにその奥には真っ白い砂浜が広がる小港海岸がコバルトブルーの透き通った水を満々と湛えていた。

島内にはいくつもの森林生態系保護地域があり、そこに入るためには観光ガイドの同行が必要でさらにマットの上で泥や種子を落とさなければならない程の厳重管理がなされている。さらに大陸と陸続きになった実績のない小笠原には固有の動物や植物が生息しているのだが、中でもアカポッポとの異名を取るアカガシラカラスバトは十分にマークされ、野猫の脅威から防御されているのだ。

島の中央に標高319mの中央山がそびえているのでそこからの絶景を堪能した後、宇宙航空研究開発機構の何らかの機器をチラ見していくつかの展望台をはしごしながら大村地区に帰ってきた。

気象庁傘下の父島気象観測所が小笠原諸島一帯の天気予報を担っており、石原良純のへたくそな天気予想よりも高い信頼性を誇っているのだが、三日月山という小高い丘は何故かウエザーステーションと呼ばれており、夕日の絶景ポイントになっているのだ。クジラの繁殖シーズンともなればこのステーションからザトウクジラが座頭市のように海上でもだえている様子を遠巻きに眺めることが出来るという。

夕食に島鮨をたらふく食った後、パパヤの相部屋の部屋に戻り、オーナーの田中氏の勧めで2009年7月に観測された皆既日食のDVDを鑑賞させていただいた。その年の日食のホットスポットは鹿児島沖のトカラ列島であったのだが、奄美大島に上陸した沢尻エリカ様の祟りのために暴風雨になり、鹿児島沖では見れなかったのだが、何と小笠原諸島南部で目撃された天体ショーがしっかりと記録されていたのだ。さらに田中氏の説明によれば東京都の石原軍団に仕切られている小笠原では毎月¥5,000をぼられながら東京都と同じチャンネル数のテレビが見れるとのことで、何故か地デジ対応後は¥1,500になると満足気に話していた。尚、小笠原好きでしかも海の男である石原都知事は自家用のヨットで小笠原まで来やがった実績もあるとのことであった。

5月26日(木)

今回宿泊しているトロピカルインパパヤはドルフィンスイムやホエールウォッチングを通年営業しているマリン系のツアーを生業としており、今日は父島周辺1日コースのツアーに空きがあり、しかもキャンペーンでツアー代金が10%割引になるとのことなのでマサであれば\8,000かかるところを私は\7,200の支払いで参加させていただくことにした。

午前9時過ぎに桟橋に到着し、そこに繋留してあるミス・パパヤという大型クルーザーに乗船すると小笠原で最もエキサイティングな海上ツアーの火蓋が切って落とされた。ミス・パパヤは二見湾を抜けると父島の東岸を南に進路を取り、父島南東にひっそりと佇むジニー・ビーチの近辺に浮かぶ南島に到着した。

大型クルーザーのミス・パパヤでは南島に着岸出来ないため、ツアー客はミス・パパヤに伴走してきたマンボウという小型船に乗り換えると石灰岩で出来ている沈水カルスト地形の小さな島に一歩を踏み出すこととなった。

南島では貴重な自然環境を保全するため、1日100人という入島規制が敷かれており、しかも最大15人までを管理出来る東京都認定ガイドの同行が必要となるため、どこぞのテレビクルーもガイドの指示に従いながら粛々と絶景をカメラに収めていた。

南島での最大の見所である扇池の砂浜には貴重な半化石状のヒロベソカタマイマイの貝殻が散乱しており、さらにアオウミガメが産卵した後には観光客が卵にダメージを与えないように目印として3本の小枝が白砂に突き刺されていた。

マサよ、君はかつての女王小谷実可子が野生のイルカとシンクロして泳いだ時に人生観が変わり、オリンピックで獲得した銅メダルなど、ど~でもよくなった程の衝撃を受けたという逸話を聞いたことがあるか!? http://spiritual.syuji.com/?eid=501699

というわけで、小笠原はドルフィンスイムの先駆けであり、聖地であるとも言えるのであるが、南島からミス・パパヤに戻り、辺りをクルーズしていると程なくミナミハンドウイルカの群れに遭遇し、すぐさまドルフィンスイムのスクランブル体制が取られた。海の水はまだ冷たいため、乗客はウェットスーツに身を包み、クルーザーの後方から次々にイルカ目指して青い海にエントリーして行った。

脳内から分泌された脳内モルヒネと言われるベータエンドルフィンのせいか、ドルフィンスイム中は皆リラックスした状態でイルカと戯れることが出来るのだが、イルカにもイルカの事情があり、餌取りで忙しいときもあるので必ずしも一緒に遊んでくれるとは限らないのである。また、♪イルカに乗った少年♪である城みちるが水平線の向こうから乗ってきたイルカは自家用イルカでないかとの疑いを持たれているのだが、その根拠はドルフィンスイムでは決してイルカに触れてはいけないという厳しい自主規制が敷かれているからだ。

複数の船からイルカの群れにエントリーする場合には一隻あたり5回のイルカアタックまでというルールがあるのだが、今日は複数のイルカの群れが出現したため、ドルフィンスイムはお昼過ぎまで続けられた。イルカを追いかけて腹も減ったので父島の北に位置する兄島南岸の兄島海域公園まで移動して海底に固定されている浮きにミス・パパヤを繋留して昼食を取ることとなった。船の上から餌を撒くとすぐに熱帯魚が群れを成して集まって来たので、ここで釣竿を垂らせば入れ食い状態になることは間違いないはずである。

昼食後もイルカやクジラ等を探して父島海域をクルージングしたのだが、これといった成果も上げられなかったので島の横穴の奥まで泳いで探検して帰ってくる等のスノーケリングアクティビティで時間をやり過した後、午後5時前にサンゴが茂っている二見港の桟橋に無事帰港し、ツアーの終了となったのだった。

5月27日(金)

離島の静かな夜も明けきった早朝からあわただしく相部屋の同宿人が道を隔てた目の前のビーチに走り去っていったので、何事かと思い、私も後を追いかけてみると夜中に安産を終えたはずの巨大なアオウミガメが砂の窪地に排卵の余韻を残しながら砂を掻いていた。この光景を目にすると、わずか数m先に人類が住んでいる喧騒のビーチにまでアオウミガメが産卵に来るほど、この地域は自然と密接に繋がっている事を思い知らされるのであった。

午前6時半には朝食を済ませてトロピカルインパパヤをチェックアウトするとフェリー乗り場まで徒歩5分の道のりにもかかわらずバンで送っていただいた。小笠原諸島くんだりまで来て父島だけで母島に上陸しないと両親に対する仁義を欠くことになりはしないかと思ったので片道\4,400の大金を支払って「ははじま丸」に乗り込み、親孝行のつもりで50kmもの距離を2時間かけて航行することにした。

航海途中の船上で「船の周辺にイルカを発見しました~!」とのアナウンスが鳴り響いたりしながら、午前9時半過ぎには母島の沖港に到着した。ところで小笠原の携帯電話情報なのだが、父島ではドコモとAUは使用可能だが、ソフトバンクには対応していないのでiPhoneユーザに対して優越感を持ちながら観光していた。ところが、母島に入るとAUもNGでドコモのみとなったので仕方なく「圏外」となったAU電話を引っさげて沖港船客待合所に付属している母島観光協会で今日の宿を探していただいた。

幸いにも石で作ったクジラのオブジェが反り返っているクラフトイン・ラ・メーフという宿にしけこむことが出来たので、チェックインするとすぐに母島の探検に繰り出すことにした。沖港内にバスタブ系ではあるが浄水設備が整ったははじま水族館に拉致されているアオウミガメの子供を見舞っているとその下の海には体長1m程度のネムリブカが眠そうに泳いでいた。

港の脇はその名の通りの脇浜なぎさ公園という人口砂浜になっており、その上には鮫ヶ崎展望台という見晴らしポイントが設置されているので季節がよければザトウクジラの絶好の観察ポイントになりうるのだ。

脇浜なぎさ公園の入口にアオウミガメの人工産卵場が整備されていたので覗いて見ることにした。産卵場内の海域は柵で外海と隔てられており、わざわざ産卵に来たであろう成人アオウミガメはしきりに柵外に出ようと無駄な努力を繰り返しているのがやるせなかった。さらにネムリブカも繁殖のシーズンを迎えているようで岩を中心とした添い寝がしやすいフォーメーションが形成されていた。

ロース記念館という母島特産のロース石で製作された生活用品を展示していると見せかけて実は母島の歴史を学ぶための郷土資料館として君臨しているファシリティでパンフレットに記念スタンプを押していただいた後、町を流していると行幸紀念碑に遭遇した。東京から1,000kmも離れた離島であっても昭和天皇も平成天皇もしっかりとこの地を訪れている様子から小笠原はいつの時代にも日本の重要拠点であることが確信されたのである。

母島の母性本能をくすぐるために父島、母島の最高峰である乳房山に登頂することにした。標高がわずか463mということで楽勝かと思いきや、地形上トップとアンダーの差が大きいので乳房山遊歩道一周には約4時間かかるのが標準となっているのだ。

集落近くの乳房山遊歩道入口から急な斜面を登り始めると程なくしてうっそうとした亜熱帯雨林のジャングルに紛れ込んでしまった。森の中は小笠原の固有植物の宝庫であり、母島にしか生息していない特別天然記念物の鳥「メグロ」等の野鳥が喉を潤すために観光客は小鳥の水場で給水に協力しなければならないのだ。また、山中の所々に第二次大戦中に掘られた塹壕の跡や米軍が置き土産として不要爆弾を落とした跡が今も生々しく残されているのだ。

登山遊歩道は各所で展望が開けており、高台から沿岸部を見下ろすことが出来るのだが、頂上から見る東側の景色はとりわけすばらしいものであった。

蒸し暑い中、体中に汗をしたたらせながら何とか2時間半で乳房山遊歩道を制覇し、集落に戻ると売店でビールを買って前浜でひっそりと登頂記念の祝杯をあげていると車の中からとある少女が私が食っていたスナックを見て「それ、かっぱえびせんですか?」と気軽に声をかけてきた。母島はわずか450人しか人が住んでなく、人とすれ違う時は必ず挨拶を交わす習慣が徹底されているのでそこいらの児童からも魔法の言葉が「ポポポ ポ~ン!」と出てくるのである。

1927年の行幸の折、天皇が生物採集にいそしまれたことから命名された御幸之浜に向かう途中で東京電力母島発電所に遭遇した。この発電所はLNGを燃焼させる火力式となっているので小笠原は放射線の脅威にさらされるリスクがなく、人々は紫外線のことしか気にかける必要がないのである。

5月28日(土)

クラフトイン・ラ・メーフをチェックアウトする際にオーナーのおばちゃんと雑談していると部屋の隅に無造作に置かれた色紙群から、この宿にはCWニコルやアルピニストの野口健といった自然派有名人が宿泊した実績があることが判明した。また、ルネサスソフトボール部所属で日本代表のエース上野は律儀にもサインボールまで提供していたのだった。

午前9時半過ぎに父島から到着したははじま丸は10時半に折り返し出港となった。港に見送りに来ていた面々を見ると圧倒的に母子連れが多く、母島は将来に渡って安泰であることが約束されているかのようであった。

午後12時半過ぎに父島に帰着し、ペリー提督来航記念碑に別れを告げた後、おが丸に乗り込み着岸側のデッキで出港の行く末を見守っていた。出港の10分前には航海安全と再会を祈念して勇壮な小笠原太鼓が打ち鳴らされ、船長とおぼしき人は船員らしき人々の一団と儀式的な握手を交わしていた。

おが丸が岸から離れると父島中のクルーザーが狂い咲きのように一斉に伴走を開始した。港外に出てもなお追っ手のスピードを緩めない見送り船団であったが、それまで大きく手を振っていた海人たちは頃合を見計らって皆コバルトブルーの海に飛び込んで藻屑と化していったのだった。おが丸を最後まで追いかけてきたのは最大級のクルーザーであるミス・パパヤでオーナーの田中氏も運転席から手を振っていたのだが、彼にはこれから藻屑を回収するという残務が残されているのであった。

5月29日(日)

台風2号の接近により復路の航海は大荒れを覚悟していたのだが、航路は概ね波静かで持参していた三国志も順調にページが進んでいった。小笠原での滞在により、乗客は顔見知りが多くなり、会話もはずんでいたのだが、誰も巨人のクリーンアップに君臨している小笠原道大の2000本安打達成キャンペーンが無かったことを議論している者はいなかった。小笠原親善大使に就任している小笠原道大にとっては立場のない状況だと思われたが、彼は今年の日本シリーズでMVPを取った後に凱旋来島することであろう。http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/sightseeing/ambassador.html

おが丸は定刻午後3時半に竹芝港に着岸し、台風2号が熱帯低気圧に変わってもなお雨が降っている浜松町にて流れ解散。

FTBサマリー

総フェリー代 ¥56,296

総宿泊費 ¥22,300 (2食付き)

総レンタルバイク代 ¥1,350

総ガソリン代 ¥319

協力 小笠原海運、伊豆諸島開発株式会社、(株)パパヤマリンスポーツ (http://papaya.ecgo.jp/)

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