♪バ バンバ バン バン バン♪ 番場蛮を輩出した侍ジャイアンツがあっさりとクライマックスシリーズで敗退し、秋の夜長をむなしく過ごさなければならなくなった今日この頃であるが、冷え込みが厳しくなるにつれて湯煙が恋しくなるのが人情というものである。温泉は日本人の専売特許と思われがちであるが、遠くヨーロッパにも世界に冠たる温泉国が存在しているので今回はその実力を実感するために中欧まで羽を伸ばすことと相成ったのだ。
2011年10月29日(土)
♪いつか 忘れていぃったぁ~♪
ということで、正午発トルコ航空TK0051便、B777-300ER機で11時間以上かけて成田から♪飛んで イスタ~ンブ~ル~♪に到着したのは午後6時を過ぎた時間で、あたりの様相は徐々に♪夜だけぇ~のぉ~ パラダイスぅ♪状態を醸し出し始めていた頃であった。乗り継ぎ便の出発時刻が翌日の午前中だったため、トルコ航空がトランジットホテルとしてアレンジした☆☆☆☆☆ホテルであるWOW Istanbulにチェックインすると♪ど~せ フェアリ~テール♪と思いながらも外出せずにゆっくり休ませていただいた。
10月30日(日)
庄野真代が夢に出てくることも無く平和な朝を迎えたので、朝食後シャトルバスでイスタンブール空港に向かった。イスタンブール空港のスターアライアンスのラウンジは専任シェフ達も躍動するほど豪華絢爛でその雰囲気に押されるように朝からシャンパンを軽飲してしまった。
午前10時35分発TK1035便は定刻どおり出発し、1時間40分程度のフライトでハンガリーの首都ブダペストのフェリヘジ国際空港に到着したのは午前11時半を回った頃であった。空港のターミナル2から市バスが出ていたので乗り込むと終点のKobanya-Kispestという地下鉄駅で下車した。そこから青白いしなびた地下鉄に乗り換えて国際列車の発着が多い東駅に辿り着いた。とりあえず整理券で管理されている整然とした切符売り場で隣国スロヴァキアの首都であるブラチスラヴァ行きの2等チケットを購入し、列車の出発まで時間があったので軽く周囲を散策することにした。
東駅の構内には怪しい輩をチェックしている警察官やチェスで雌雄を決しようとしている勝負師、旅支度を整えている紳士等が息づいていたのだが、路面電車が走る駅の外を歩くと何となく旧東欧の物寂しい雰囲気が感じられた。
15時25分発車予定であったEuro Cityの列車は30分程度の遅れを出して16時前に出発となった。車窓から流れる葉っぱの色づいた秋の寒村地帯の景色を眺めているといつしか日も暮れてブラチスラヴァ中央駅に到着したのは18時半を過ぎた時間帯であった。今日宿泊予定のDoubleTree by Hilton Hotel Bratislavaは駅から2km程離れていたので街の様子を眺めながら歩いていると地下道には芸術性のある落書きもいくつか見受けられたのだった。
10月31日(月)
1993年にちょこざいなチェコとの連邦制を解消してひとつの主権国家となったスロヴァキアの首都はここブラチスラヴァであり、その見所は狭い旧市街に固まっているので早速徒歩で向かうことにした。
旧市街はもともと城壁に囲まれていたのだが、それらはとっとと取り払われ、今ではミハエル門だけがその片鱗を残す建造物として旧市街随一の存在感を示している。この門は14世紀にゴシック様式で建てられたもので、16世紀には現在見られるようなルネッサンス様式に改築されている。
ハロウィンの余韻を残す店舗群を過ぎると旧市街の中心フラヴネー広場が開けてきた。広場はゴシックとバロックの両様式が見られる旧市庁舎等の歴史的建造物に囲まれており、こぢんまりとしているものの独特な美しさを醸し出している。
日本大使館や日本料理屋も進出しているフラヴネー広場の警備は公務員ではなく主に銅像が担当していると見受けられ、小国でありながらもユーロに参加し、ギリシャの支援に対して物申す姿勢を示しているのはこのような経費削減が徹底されているからではないかと思われた。
ドナウ川を跨ぐ近代的な橋のたもとに聖マルティン教会(EUR2)がその高さ85mの尖塔をそびえさせながら自己主張していたので思わず入ってしまった。その主張の根拠は、1536年当時のハンガリー帝国の首都であったブダがオスマン朝に攻め落とされた際に、ここブラチスラヴァに首都が移転され、1563年~1830年もの長きにわたって聖マルティン教会で戴冠式が行われており、かのハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアも照れもせずにここで即位した実績を持っているからだ。
聖マルティン教会を脱会して廃墟のような建物を横目に坂を登っていくと四隅に突き出た塔がユニークで「ひっくり返したテーブル」とも揶揄されているブラチスラヴァ城に辿り着いた。そもそもこの城は12世紀にロマネスク様式で建てられた石造りの城であったのだが、何度かの改築の果てに1811年には火災で荒廃し、第2次大戦後に復旧された代物である。尚、18世紀には女帝マリア・テレジアの居住地にもなっていたのである。
ブラスチラヴァ城の丘から下りる頃には街は賑わいを見せており、観光用のレトロなミニバスが主な見所を練り走り、オープンテラスのテーブルでは観光客がランチを召し上がっていた。
旧市街のはずれにある大統領官邸が律儀な衛兵に警護されている様子を確認すると中央駅まで舞い戻り、13時54分発の列車でハンガリーへの帰路に着いた。17時頃にブダペストに到着すると楽天トラベルに予約させておいたMercure Budapest Koronaに速やかにチェックインして、とりあえずタオルと海水パンツを引っ掴んで美しくライトアップされた夜の街に繰り出していった。
緑色に輝く自由橋を渡り、ドナウ川の西海岸に渡るとアールヌーヴォー様式の重厚な建物が暗闇に浮かんでいた。早速そのホテル・ゲッレールト内部に侵入し、温泉カウンターで17時以降は割引となるチケットをHUF3000で購入するとICチップ入りのリストバンドを握り締めて男性用の浴場に向かった。
浴場の入口ゲートにICチップをかざすと赤色のランプが緑色に変わり、腰位置のバーを押回転させると晴れて脱衣所への入所が果たされた。脱衣所は2フロアから成るキャビン式になっていたのだが、どのキャビン使えばよいのかわからなかったのでしばらく1階と2階をうろうろしながら使用法を模索していた。それでもらちが明かなかったのでゲート入口近くに陣取っている関係者らしいおっさんに尋ねたのだが、奴は私が出場したいと勘違いしたのか、出場口の改札機に私のリストバンドをかざし、さらにそのリストバンドを回収箱に放り込んでしまった。「おっさん、まだ温泉に入ってもないのに何すんねん!?」とクレームを付けたところ奴は新しいチケットを買えばええやんと言いやがった。このおっさんには仁義というものが通じないと思ったのでInformationデスクのおばちゃんに駄々をこねてマスターIDカードで再入場を果たすと何とかブダペストの顔とも言うべきゲッレールト温泉にありつくことが出来たのだ。
ゲッレールト温泉のお湯は無色無臭で36℃と38℃のふたつの浴槽で構成されていた。尚、当地の温泉はゲイの社交場的な側面もあり、浴場の中央にひとりでいることはパートナー募集を意味すると物の本に書かれてあったので、端っこのポジションを死守しながらゲイのマークをかわしていたのだった。
11月1日(火)
美しく青きドナウ川が流れるブダペストは川を挟んで西側をブダ、東側をペストと呼び、それぞれ街の景観が異なっている。今日はペスト地区を中心に観光予定が組まれたため、Mercureホテルをチェックアウトすると昨日の温泉でのえ~湯の気分そのままに英雄広場を目指した。
ハンガリー建国1000年祭の事業の一環として1896年に造られた英雄広場は緑青をまとった英雄達の銅像に取り囲まれ、その中心の墓石のような物体の左右には衛兵がにらみを利かせ、11時になると律儀に衛兵交代の儀式さえ行われたのだ。
英雄広場の裏手には広大な市民公園が広がり、各種博物館の重厚な建造物群の前では人々が写真撮影に興じていた。さらにその近辺には1913年に造られた大温泉センターであるセーチェニ温泉や動物園、サーカス場等もあり大規模な市民の憩いの場になっているのだ。
ブダペストの目抜き通りであるアンドラーシ通りで最も存在感のある建造物は1884年に完成した国立オペラ劇場である。今回は劇場見学ツアーに参加する機会を逸したため、劇場の両脇にシーサーのようにひっそりと佇むスフィンクス系の巨乳石像を凝視して立ち去ることとなった。
アンドラーシ通りから高さ96m、直径22mの巨大なドームが目に飛び込んでくるブダペスト最大の聖堂は1851年の着工から半世紀をかけて1905年に完成した聖イシュトヴァーン大聖堂である。尚、イシュトヴァーンは初代ハンガリーの国王でキリスト教を積極的に推進し、死後聖人に列せられた程の大人物として崇められているのだ。
聖イシュトヴァーン大聖堂の参道からドナウ河岸に出てしばらく歩いていると川べりに金属で固められた多くの靴が並んでいる光景に遭遇した。これは第2次大戦中に撃たれてドナウ川に落ちて亡くなってしまった犠牲者を偲ぶメモリアルとなっているのだった。
ドナウ川の東河岸に建つネオゴシック様式の巨大な建造物は1885年~1902年の間に建立されたブダペストのシンボルとも言うべき国会議事堂である。ルネッサンス風のドームの高さは聖イシュトヴァーン大聖堂と同じ96mだが、その豪華絢爛さにおいては他の箱物を圧倒するほどの存在感を示している。
ドナウ川の中洲の島であるマルギット島に繋がるマルギット橋を歩いて対岸に渡り、西日に輝く国会議事堂の勇姿を眺めているとマサにここはブタに真珠ではなく、ドナウの真珠と形容するに値するブダペストの光景であると思われた。
早朝からかなりの距離を歩き回り、疲労もピークに達していたのだが、夕暮れ時に最後の力を振り絞って標高60mの王宮の丘に這い登って行った。中世からの城壁に囲まれた王宮の丘は長さ1.5kmの平坦な岩山で発掘途中の遺跡や中世の雰囲気漂う建造物で溢れている。「ドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通りを含むブダペスト」という登録名で世界遺産として君臨しているこの丘の上にHiltonBudapestが陣取っているのでここに投宿し、今夜は夜景見物に出かける余力もなくダウンしてしまった。
11月2日(水)
早朝より王宮の丘の南半分を散策し、ドナウ川の対岸から朝もやの中を朝日が上がっていくのを眺めていた。王宮のファシリティ自体は第2次大戦後に修復され、完成したのは1950年代となっており、建物自体はそれほど古くないのだが、朝日を浴びるとその荘厳さがいっそう際立っていたのだった。
王宮の丘からマイルドな紅葉を眺めながら下界に下りると目の前にライオンのコンビに守られたくさり橋が姿を現した。くさり橋は1849年にブダ側とペスト側を初めて結んだ橋で現在のブダペストを創った礎とも言えるのだが、発酵したチーズのように腐り始めていないか慎重にチェックしながら対岸まで渡らせていただいた。
街はすでに活気づき始めておりトラムや多くの車が行き交っているのだが、船の運航していない早朝のドナウ川の水面は鏡のようになめらかに周囲の景色を映し出しており、朝もやと併せて神秘的な光景を現出させていた。
ハングリーなハンガリー人が集まるはずの中央市場にはペストにかかっていないブタ肉、ソーセージ、野菜、パンといったあらゆる食材が売られているのだが、売り手サイドのハングリー精神が乏しいせいか、いささか活気を欠いた淡々とした商売が展開されていた。
ドナウ河岸に標高235mの岩山がゲッレールトの丘として多くの観光客を集めているので登ってみることにした。ゲッレールトはハンガリーの初代国王イシュトヴァーン1世によってイタリアから招かれた伝道師でハンガリーのキリスト教化に一役買った人物なのだが、1046年の異教の暴徒によって手押し車にはりつけられ、この丘のてっぺんから突き落とされて殉教したという。
ゲッレールトの丘の頂上にはツィタデッラと呼ばれる要塞があり、さらにドナウ川に向かってシュロの葉を天に掲げ持つ女神像はナチス・ドイツからの解放を記念して旧ソ連軍が建てたものだ。また、中世にはゲッレールトの丘でワインを醸造していたが、丘に住む魔女が夜な夜な人家を襲ってワインを巻き上げていたという言い伝えがあり、その魔女は今ではほうきにまたがったチャチな人形に成り下がっている。
ツィタデッラの要塞の中にはBunkerと呼ばれる博物館(HUF1200)があり、ナチス・ドイツやソ連軍等に関する思い出したくも無いはずの歴史が不気味な蝋人形で再現され、この国の複雑な背景を雄弁に物語っていた。
ブダペストには地下鉄やトラム、バス、ヘーブと言われる近郊列車といった便利な乗り物が多いのだが、今朝それらの乗り物が乗り放題の24時間券(HUF1550)を購入していたのでトラムとヘーブを乗り継いでドナウ川西岸北部のローマ時代の遺跡が点在するオーブダ(旧ブダの意)まで足を伸ばすことにした。早速ローマ帝国の植民地時代に造られたローマ軍の円形劇場跡を見物したのだが、現役当時は1万6000人の観客を収容した大劇場も今では地元住民の憩いのドッグランに成り下がっているようだった。引き続きバラの丘の中腹にあるグル・ババの霊廟というオスマン朝の参謀グル・ババの墓にお参りさせていただいた。年老いた墓守に八角形の霊廟の扉の鍵を開けてもらい、しばし棺に敬意を表した後、墓守が写真撮影がすんだことを確認すると礼拝はあえなく終了となった。
オーブダを後にして3本の地下鉄が交差するペスト側のデアーク広場駅に移動した。一流ホテルであるKempinskiが見下ろすおしゃれな通りにファーストフードやバー、土産物といったいくつかの出店があり、薪を燃やした釜焼きのピザがうまそうだったので1つ買って昼食とした。
今日は体力を温存するためにデアーク広場から16番バスに乗り、くさり橋を渡って王宮の丘へと上って行った。眺めの良い城門が見えたところでバスを降り、階段を上るとそこはマサに中世の世界であった。
白い石灰岩でできたとんがり屋根を持つ丸塔とその回廊は漁夫の砦と言われており、かつてこのあたりに魚の市がたっていたことや、城塞のこの場所はドナウの漁業組合が守っていた伝統からこの名をいただいている。すでにうろこが落ちてしまったはずのこの場所はドナウ川やペスト地区を見下ろす最高のビューポイントに成り上がっているのだ。
カラフルな建造物が多い丘の上のメイン通りを北西に進んでいると一際背の高い塔に遭遇した。これは13世紀に建てられたフランシスコ派の教会の一部でマーリア・マグドルナ塔という代物である。教会の本堂は第2次大戦で壊れてしまい、しなびたこの塔だけが残されてしまったのだ。
Hilton Budapestの隣に位置し、ブダペストのランドマークのひとつとして君臨しているマーチャーシュ教会(HUF990)はブタを焼いてチャーシューにしたことがないはずのマーチャーシュ王の命で高さ88mの尖塔が増築されたことに由来すると言われている。尚、現在の塔の高さは80mになっているのだが、これは数々の増改築の賜物であると思われる。
マーチャーシュ教会の前に広がる三位一体広場にはバロック様式の三位一体像があるのだが、これは中世ヨーロッパで猛威をふるったペストの終焉を記念して18世紀に建てられたものでブダペストにも例外なくペストが蔓延したことを物語っている。
王宮の丘の南半分を占めているのが文字通りの王宮であるのだが、13世紀の最初の建設以来、戦争や大火災で何度も大改築を繰り返し、現在のものは1950年代に完成した最新バージョンとなっている。
最新版の王宮はセーチェニ図書館と国立美術館、ブダペスト歴史博物館になっており、今回はブダペストの栄枯盛衰の歴史を探るためにブダペスト歴史博物館に入館することにした。マサであれば入館料HUF1400を支払わなければならないところを私は閉館30分前の特別価格のHUF700で入館し、広い館内を駆け足で回って見ることにした。展示室は中世の竣工時から現在まで残されている地下室や洞窟をうまく利用しており、その中に昔の王宮を飾っていた柱や壁、武器や図面等が所狭しと並べられているのだ。
王宮の丘に最短距離でアクセス出来るケーブルカー乗り場をスルーして16番バスに乗車し、デアーク広場からロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄M1線でセーチェニ温泉を目指した。
マサよ、君は日本の健康ランドを凌駕するローマ帝国時代の公衆浴場を彷彿とさせる大温泉センターでチェックメートをかけられたように固まったことがあるか!?
ということで、ブダとペストの統合を願う貴族政治家セーチェニ公の尽力でくさり橋が架橋され、その本名はセーチェニ公のくさり橋と呼ばれる程高名なセーチェニの名を冠した温泉に満を持して入浴させていただく機会を得ることとなった。
チケット売り場で夕方料金のHUF2900を支払い、リストバンドを受け取った後、回転バーを回して入場すると脱衣所番のおね~ちゃんの仕切りでスムーズにロッカーが割り当てられたので海水パンツに着替えて嬉々として浴場に突入していった。硫黄臭が漂う浴場には温水プールをはじめ多くの温度別浴槽があったので36℃の温泉に長時間浸かっているとおびただしい数のハンガリー水着ギャルやおばちゃんが行き来する姿が眺められ、図らずも混浴のチャンスさえ与えられたのであった。外には巨大な温泉プールが沸いており、寒風吹きすさぶ中を果敢に泳いでいる者や寒さで38℃高温プールの中で固まっている輩もいた。名物のチェス盤にも何人か集まっていたのだが、閉館時間も迫っていたため、プレーは打ち切られている様子だった。
セーチェニ温泉からドナウ河岸に戻ってみるとそこで待っていた光景は息を呑むほど洗練された夜景であった。
ライトアップされたくさり橋を徒歩で渡り、丘までの階段を登り切り、Hilton Budapestへの帰路を急いでいるとマーチャーシュ教会が闇の中で妖しく輝いていたので思わず足を止めて見入ってしまった。中からはコンサートのゴスペル曲が荘厳なトーンで聞こえてきたのだった。
11月3日(木)
中世へのタイムスリップを終了させるべくHilton Budapestをチェックアウトすると朝の冷たい空気を裂いて王宮の丘を駆け下りてデアーク広場の地下鉄乗り場に向かった。地下鉄、バスを乗り継いでフェリヘジ国際空港に戻り、12時35分発TK1036便で再び♪飛んで イスタ~ンブ~ル~♪の機上の人となった。
成田行き18時40分発TK0050便は多くの日本人ツアー客で満席となっていたものの、ヨーロッパのベストエアラインに選ばれているトルコ航空の機内で10インチの巨大画面から映し出されるオンデマンドの映画を鑑賞しながら苦痛なく過ごさせていただいた。
11月4日(金)
定刻の午後1時前に成田空港に到着後、温泉に流されるように流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥109,450
総宿泊費 EUR317.81、¥7,200
総鉄道代 EUR16
総スロヴァキアトラム代 EUR0.35
総ブダペスト市営交通代 HUF2,910 (HUF1 = 約¥0.4)
協力 トルコ航空、HiltonHHonors、楽天トラベル