あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~
マサよ、君は北の海に面する小国群がソ連崩壊のきっかけを作ったという歴史的事実におののいたことがあるか!?
ということで、世間一般の夏休みも終わり、海外旅行の旺盛な需要が沈静化した時期を見計らって北欧とは明らかに一線を画しているバルト三国でもっと北の国のアンチソ連三国志を学習するツアーが催行されることとなったのだ。
2012年9月6日(木)
JALのマイレージが余っていたのでマサであれば\12万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思いきや、燃油代として\5万円超を支払わされた10:45発JL441便はボーイングの最新鋭低燃費機であるB787-8ドリームライナーでの就航であったのでそんなに燃料代はかからないだろうと思いながら新しい機内に足を踏み入れた。
先だって六本木のロシア大使館まで申請と受け取りのため2回も足を運び入手したトランジットビザを携えてJALが月曜日と木曜日の週2回のみ運行しているモスクワ行きの直行便に乗り、乗客の少なさにJALの再上場後の株価の行く末を案じながら過ごしていると10時間程度のフライトでモスクワ最大の空港であるドモジェドボ空港に到着した。
民主化の進んでいるロシアでは入国書類もすでになくなっており、ビザがあればすんなり入国出来たのだが、乗り換えの便がモスクワ北東35kmに位置するシェレメチェヴォII国際空港だったのでモスクワの南東のはずれのドモジェドボ空港から大移動をかまさなければならなかった。とりあえず空港バスで渋滞に巻き込まれながら最寄りの地下鉄のドモジェードフスカヤ駅に移動し、そこから地下鉄で1時間以上かけてモスクワ市内を縦断し、レチノイ・ヴァグザール駅に到着するとさらにミニバスであるマルシルートカに乗って合計3時間程度の時間をかけてシェレメチェヴォII国際空港に到着した。
モスクワの町の雰囲気と交通機関を充分堪能させていただいたので22:15発アエロフロートロシア航空とエストニア航空のコードシェア便であるSU3706便に乗り込むと1時間40分程度のフライトでエストニアの首都タリン空港に1時間の時差を超えて夜11時頃到着した。EUに加盟し、さらにEUROも導入しているエストニアへの入国を果たして外に出るといきなり外気温10°C以下の冷気にさらされ、もっと北の国からの洗礼を受けることとなった。市バスでタリン市の中心部に移動し、hotels.comに予約させておいたホテルメトロポールにチェックインすると早速ベッドに入って体を温めながら休ませていただくこととなったのだ。
9月7日(金)
中世の空気を今持って漂わせているタリンはバルト海のフィンランド湾に望む港町で、かつてはソ連の一地方都市として不遇な時代を過ごしていたのだが、現在は多くの観光客が行き交う「バルトの窓」として開かれている。まずはその開かれ具合を垣間見るために曇寒空の下、タリン港周辺の散策を行うことにした。
タリンと北欧フィンランドの首都ヘルシンキの間にはLinda Line Expressの高速艇が行き交っており、その船着場はタリン港から少し離れた市民ホール港となっている。物価が異常に高い北欧都市からバルト三国くんだりに渡ってくる主な理由は船代として片道EURO50を払っても物価の安いバルト三国で買い物をすれば充分元が取れるからに他ならない。確かに船着場周辺は出航待ちの乗客で賑わっているのだが、市民ホール自体は何故か閉鎖されており、薄暗い廃墟感の中を好奇心の強そうな観光客が徘徊していたのだった。
タリンの旧市街は北ヨーロッパで最もよく保存されている旧市街のひとつで世界遺産にも登録されている貴重な観光資源である。旧市街はぐるりと城壁に取り囲まれているのだが、とりあえず北口であるはずのスール・ランナ門を通って足を踏み入れてみることにした。スール・ランナ門はかつて町の最も重要な出入口だったようで、そこを守るために1529年に建てられた砲塔がどっしりと構えている。そのかつての砲塔は「ふとっちょマルガレータ」と呼ばれているのだが、ここが監獄として使われていた頃、囚人の食事を切り盛りする太ったおかみさんがいてそのおばさんの名前に由来するという放蕩生活の帰結のような命名であったという。
ダイエットの必要性を感じながら、旧市街の石畳の上を練り歩いていると城壁のここかしこに塔が散見され、おしゃれなプチホテルや飲食店、ギャラリー等が古い町並みの中でモダンなアクセントとなっていた。
タリンの旧市街は大きく分けて山の手と下町に分かれているのだが、山の手から高みの見物を決め込んでいる団体観光客に引き寄せられるように階段を登って高さ24mのトームペアと呼ばれる丘に登って行った。身分の高い者はお決まりのように高い場所に住んでいたためか、トームペアはは常に権力の居城として市議会が支配する下町とは一線を画していた。その最大の名残は13世紀前半に建てられた騎士団の城であるトームペア城であろう。トームペア城が現在の姿になったのは18世紀後半のことで当時の権力者エカテリーナII世により改築を命じられたもので一見すると城というよりは宮殿風の建造物である。この城に寄り添っている高さ50.2mの塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれている代物で頂上にエストニアの三色旗を掲げ、今では国を象徴する存在に成り上がっている。
1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設されたエストニア本土における最古の教会である聖母マリアの大聖堂と対極を成すように1901年に当時の支配者の帝政ロシアによって建てられたロシア正教会であるアレクサンドル・ネフスキー聖堂が立ちはだかっている。エストニアが最初に独立を果たした時代にはタリンの町並みとは調和しないこのロシア正教会を移転する計画まであったそうだが、結局実現されないまま世界遺産となったのだった。
屋台で中世のアーモンド菓子を売っているエストニア美女に目を奪われながらいくつかの展望台をはしごすることにした。トームペアの展望台からは城壁と塔が立ち並ぶタリンならではの景色を堪能出来るので多くの団体観光客が列を成して記念写真の撮影に興じているのだった。
エストニアの神話によるとトームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされているのだが、彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうとしていたのは彼の妻リンダである。リンダが墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたそのとき、エプロンの紐が切れ石が転げ落ちてしまった。疲れ果て、♪リンダ リンダ♪を歌う気力さえ残っていなかった彼女はその石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれていたという。その時の様子は今もトームペア城南側下の広場に鎮座するリンダ像により伺い知ることが出来るのだ。
マサよ、君は猫の手も借りたいほど忙しい寿司屋が秋葉原ではなくヨーロッパの北の僻地でご主人様を待っている現実に直面したことがあるか!?
というわけで、タリンには来たものの、何かが足りんという感覚を引きずりながら観光に勤しんでいたのだが、その何かとは通常観光地で養われている生猫であるということに気がつき始めた時にふと鮨猫という看板が目に飛び込んできた。バルト海から水揚げされる魚で潤っているタリンで日本食屋が幅を利かせるであろうことは理解出来るのだが、日本のコスプレ文化がもっと北の国までに及んでいるとは想像だにしていなかった。尚、このスシ・キャットは非常に繁盛している様子だったので残念ながら入店するには至らなかったのだ。
スシ・キャットで喰らった猫パンチのショックを一掃するために旧市街の下町の中心部に移動すると14世紀の半ばに建立された庶民的な聖霊教会(EUR1)に入って15世紀の木製祭壇や質素な内部装飾を見て心を落ち着けなければならなかった。
聖霊が宿ったところを見計らって教会の向かいに君臨する大ギルドの会館に入館させていただいた。この会館は1410年に建てられ、大ギルドの集会やパーティー、結婚式などに使われていた建物であるが、1920年にギルドは解散し、現在はエストニア歴史博物館(EUR5)として有効利用されている。3本のアーチ柱で支えられている大ホールがメインの展示室になっているのだが、時代を感じさせる地下室も公開されており、さらに館内のここかしこに大ギルドの紋章でもあった赤地に白十字のタリンの小紋章が残されている。
9月8日(土)
早朝より昨日の曇天とはうって変わった青空が広がっていたので人出もまばらな旧市街の下町を巡ってみることにした。下町の中心はデンマーク人に占領される以前から市場として存在していたラエコヤ広場であるが、そこで際立った存在感を示しているのが14世紀半ばに建てられた北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎である。広場の中に方位が描かれた円い石が鎮座しているのだが、この上に立ってあたりを見回すと、タリンの最も有名な5つの尖塔(旧市庁舎、聖霊教会、大聖堂、聖ニコラス教会、聖オレフ教会)のすべてが見えるのだ。
中世の雰囲気のみならず何となく不気味な雰囲気を湛えているタリンの旧市街には幽霊の話も多く、実際にヴァイム通り、日本語で幽霊通りも存在しているのだ。その由来はこの通りのある家でオランダ商人が妻を惨殺し、その幽霊が出るようになったからで17世紀以来、通りは公式に幽霊通りとなったのである。さらにとある建物の上から目を光らせているスケベオヤジがいるのだが、奴は「のぞき見トム」と呼ばれる実在の人物で隣の娘たちの動向にいつも目を光らせていた芸能レポーターのような役割を担っていたのだ。
旧市街で最も有名な中世の住宅であるスリーシスターズを改装した☆☆☆☆☆ホテルの大きな自慢のひとつは雨が降ると窓を閉めに来るという女性の幽霊の存在であるが、ホテル関係者に言わせるとフレンドリーなので心配ないとのことである。おそらく冥土に行き損ねたメイドの魂が森三中のようにホテル内を彷徨っており、今持って忠実に職務を遂行しているものと思われる。
幽霊話も一巡したところで、公園で演奏している鼓笛隊に身を清めてもらうと旧市街を抜け出して近郊の見所を探ってみることにした。
タリン駅前のバスターミナルから市バスに乗り、沿岸部を30分程度西に向かうとエストニア野外博物館(EUR6)に到着した。ここは17世紀~20世紀初頭にかけてのエストニア各地の木造建築が当時のままの姿で移築されている民俗博物館である。
バルト三国は伝統文化の保存に熱心なところであるが、ソ連時代の農業集団化政策によって伝統的な農村は破壊されてしまい、ほとんど残っていない。従って、彼らの文化の根底にある農村生活はこのような博物館まで足を運ばないと垣間見ることが出来なくなっているのである。農村の建物の大きな特徴は白川郷を彷彿とさせる茅葺き屋根と寒風が入ってくるのを最小限に抑えるためにコンパクトに作られた建物や部屋の出入り口である。もっと北の国ではマサにエコで低燃費な生活が送られていたのであろう。
市バスで旧市街に戻ると中世から伝わる国宝級の芸術品が収められている聖ニコラス教会(EUR3.5)を見学することにした。ここでの最大の見物は15世紀後半の作品で法王、皇帝、皇女、枢機卿、国王が浮かない顔で死を暗示する骸骨とダンスを踊っている「死のダンス」である。戦乱と疫病の時代であった中世にはこのような「死のダンス」のモチーフが普及したのだが、現存するものが少ないため、この絵は非常に貴重な逸品となっているのである。
タリンには生猫が足りんということは前述したが、「つるべ井戸」の通りに「猫の井戸」と呼ばれる枯れ井戸がある。かつてここには魔物が住み、住民は生贄としてよく猫を投げ込みやがったという。その酸っぱい思い出が鮨猫となって今も住民の心と舌に残っていることは疑いようもない事実であろう。
旧市街で最高の高さを誇る塔を持つ聖オレフ教会には建設にかかわったオレフという名の巨人の伝説が残されている。彼は莫大な報酬を要求して仕事を引き受けたのだが、もし教会が竣工する前に彼の名前がわかったら報酬は1ペニーでいいという条件だった。市民たちは手を尽くして彼の名前を探り当て、教会がほぼ完成に達したときに塔の上の十字架を取り付けているオレフに向かって「オレフよ、十字架が傾いているぜ!」と叫んだという。動揺したオレフは塔の上でよろめき、足場を失って下に落ちてしまった。オレフの体が地面に打ち付けられると1匹のヒキガエルと1匹の蛇が彼の口から飛び出し、彼の体は石になってしまったという。教会の外壁にはキリスト受難の物語のレリーフの下にオレフの石像が横たわっているのだ。
高さ123.7mを誇る聖オレフ教会の60mの高さのところに展望台(EUR2)が設置されているので258段の階段を登って高みの見物を決め込むことにした。急な階段を息を切らせながら登っていると狭いらせん状の階段室が前を行く飲酒若者達の吐く酒息で充満されたため、苦しさが2倍になって跳ね返ってきたのだが、無事に頂上にたどり着いた。空気のいい展望台で深呼吸をしながら酒を抜き、最後のタリン旧市街の眺望を十分に堪能させていただいた。
旧市街を後にして街の中心から1.5km程離れたバスターミナルまで徒歩で移動すると長距離バスに乗り込み、2時間程の時間をかけてパルヌというリゾートタウンに向かった。リゾートタウンといえども町は晩秋の装いで一向にリゾート気分の盛り上がりが見られなかったのでビーチにほど近いホテル・アストラに引き上げると晩飯も食わずにいち早く不貞寝体制に入ることにしたのだった。
9月9日(日)
歴史と海と太陽の町パルヌはエストニアの「夏の首都」と言われ、泥治療で有名なリゾートタウンである。早朝人影のないビーチに出てみるとなるほどリゾートの面影が残っているが、季節は過ぎ、つわものどもの夢の跡の様相を呈していた。パルヌの泥治療は180年以上の歴史を持つこの町の名物であり、そのファシリティであるネオ・クラシック様式の建物は今もパルヌのシンボル的存在として君臨しているのだが、設備の老朽化ですでに営業を停止しており、裏に回り込むとマサに廃墟そのものであった。
ホテル・アストラをチェックアウトしていくつかある町のサナトリウムを横目に旧市街に向かって歩いて行った。歴史的建造物である赤い塔が目立つバロック様式のエリザベート教会や17世紀の城門の一つであるタリン門等を見やりながらバスターミナルまで移動し、午前11時25分発のバスに乗って次の目的地を目指すことにした。
バスはいつしか国境を超えてラトヴィアに入っており、午後2時過ぎにはラトヴィアの首都リーガのバスターミナルに到着した。早速手持ちのユーロをラトヴィアの現地通貨であるラッツに両替するとホテルを目指して旧市街方面に歩いて行った。歌舞伎という名を冠したスシバーを見ながら市川染五郎の早期回復を祈り、石畳の道を歩いているとタリンでは足りんかった生猫が早くも姿を現しやがった。
旧市街に立地するホテル・セントラにチェックインすると目の前には大きな教会が迫っていたのでその威風堂々とした姿に引き寄せられるように町に繰り出すことにした。約70万人の人口を抱えるリーガはバルト三国では抜きん出た大都市でタリンの古風な雰囲気とは打って変わった都会的な空気が漂っている。ハンザ同盟の町並みが残る美しい通りにある姉妹都市のブレーメンから贈られたブレーメンの音楽隊像に挨拶をして市庁舎広場まで出てみるとそこには目を見張るほどの立派な建物が立ちはだかっていた。
リーガの守護神聖ローランド像の背後に建っている壮麗な建物はリーガを代表する建築として名高いブラックヘッドの会館である。この建物は基礎が発掘された後、リーガの創設800年を記念して再建されたものであるが、その個性的な姿がほぼ完全に再現されているという。彫金細工と彫刻で飾られた外観で目立つのが、月、日、時間と月齢を刻む大時計で、その時計を造った職人は二度と同じものが造れないように目をくり抜かれてしまったほどの秀作である。
旧市街の南側にあるのは13世紀に創立され、その後16世紀に再建されたゴシック様式の美しい聖ヨハネ教会である。通りに面した外壁上部には口を開いたふたつの修道士の顔が見えるのだが、これはこの教会に伝わる中世のエピソードによるものである。当時は生きた人間を壁に塗り込めれば災いから建物を守ることができるという信仰があり、ふたりの修道士が志願して壁の中に入ることになった。壁には外から穴が開けられて、通りかかる人から施しを受けられるようになっていたが、彼らはほどなく亡くなってしまった。その後穴は塞がれ、彼らの行いは人々の記憶から消え去ったのだが、19世紀半ばの教会修理の際に彼らの屍が実際に発見されたことから彼らを記念してこのような人面像が造られたそうだ。
聖ヨハネ教会に隣接するように建っている高い塔をもつ教会は聖ペテロ教会(Ls4)である。最初の教会は13世紀に建てられ、18世紀にはほぼ現在の姿に改築されたのだが、塔自体は第二次世界大戦後に改修されたもので、高さは123.25mを誇っている。72mの地点までエレベーターで昇ってリーガの町並みを一望できるということなので早速楽して高みを極めてみることにした。塔の上からはタウガヴァ川とかつての堀に囲まれた世界遺産であるリーガ歴史地区を鳥瞰するとともに旧市街の主要な観光ポイントの大まかな位置関係をいち早くつかむことができたのだった。
旧市街には飲食店で太らされているはずの生猫も多く生息しているのだが、リーブ広場の北側では屋根の上で伸びをしている猫の姿を見ることができる。「猫の家」と呼ばれるこの家には大ギルドに加盟したいと思っている裕福なラトヴィア商人が住んでいたのだが、ドイツ人が支配的なギルドへの加入を拒否されてしまった。その腹いせに大ギルドの会館にケツを向けた猫を屋根に取り付けたのだが、その後大ギルドの会館がコンサートホールに変わると猫は音楽に誘われてその向きを変えやがったのだ。
9月10日(月)
朝食ビュッフェを提供するホテル・セントラの食堂に何故かシャンペンがスタンバイされていたのだが、それには手をつけずに朝食を済ますとバスターミナルの近くの中央市場で腹ごなしをすることにした。市場には巨大なドームが5つ並んでいるのだが、これらは20世紀初頭にラトヴィア領内にあったドイツのツェペリン型飛行船の格納庫で今ではおびただしい量の肉や魚や乳製品等が格納されているのだった。
市場の調査を終了し、緑多き大地で威厳を示している国立オペラ座を横目に自由記念碑に向かった。これは1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51mの記念碑でソ連時代にも壊されることはなかったのだが、反体制の象徴として当時は近づくだけでシベリアへの片道切符がいただけると噂されていたそうだ。
リーガの新市街にドイツ語でアールヌーヴォを意味するユーゲントシュティール建築群が林立している通りがあるということだったのでその斬新性を確認するために足を伸ばすことにした。ユーゲントシュティールは19世紀後半にヨーロッパ各地を席巻した新芸術様式で、その特徴は過度に装飾的なデザインであり、デフォルメされた人体像なども使われている。
最も装飾的傾向が強い初期ユーゲントシュティールを代表する建築家はミハイル・エイゼンシュテインというユダヤ系ロシア人のおっさんで新市街のアルベルタ通り周辺に彼の手がけた建築が集中しており、人気の街歩きスポットとなっている。
1902年建立のラトヴィア国立劇場の前を通ってタウガヴァ川沿岸部まで辿り着き、あたりを散策しているとチャチな人間像に遭遇した。こいつは巨人クリストファーという川の渡し役で、ある夜彼が運んだ子供が翌朝黄金となっていて、そのお金でリーガが創設されたという伝説がある由緒正しい像である。尚、河岸にいるこの像はレプリカでオリジナルの木像は博物館で丁重に保管されているのだ。
タリンの旧市街では三人姉妹(スリーシスターズ)の幽霊話で肝を冷やしたのだが、リーガには三人兄弟という肩を寄せ合って建っている中世の住宅群がある。兄貴格の建物は15世紀に建てられたもので、一般住宅としてはリーガで最も古いのだが、「窓税」なるものの影響で貧相な窓しか付いていない。弟分達の建物は「窓税」がなくなったため建物の目鼻立ちは良くなったのだが、土地不足のため、末弟の建物は非常に細っそりとしているのである。
塔の高さ80mを誇る聖ヤコブ教会には「哀れな罪人の鐘」と呼ばれた鐘が吊り下がっている。市庁舎広場で罪人の処罰が行われる際にはこの鐘がそれを市民に知らせる役を担っていたからだが、違う言い伝えによると、この鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴り出しやがったので女性の敵となり、夫らに尻で圧力をかけてこの鐘をはずしたという恐るべきかかあ天下のエピソードも残されている。
リーガに唯一残るかつての城門はスウェーデン門で、この門にも悲しい伝説が残っている。かつてリーガの娘たちは外国人と会うことを禁じられていたのだが、ひとりの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で逢い引きをするようになった。しかし、スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられ、罰として門の内側に塗り込められてしまったというではないか。それ以来、真夜中にここを通ると娘のすすり泣きが聞こえるようになったのだった。
現存するバルト三国最古の建築のひとつであるリーガ大聖堂(Ls2)は修復の途上にあったのだが、内部は公開されていたので入ってみることにした。この聖堂は1211年に僧正アルベルトが建設を始め、その後何度も増改築がなされて18世紀の後半に現在のような姿になった。そのため、ロマネスクからバロックにいたるさまざまなスタイルがこの教会には混在しているのだ。内部にはアルベルト僧正を映したステンドグラスや重厚なパイプオルガン等の見所がたくさんあるはずなのだが、修復中の影響でお目にかかることはかなわなかった。
腹も減ってきたので市庁舎広場にあるラトヴィア料理のレストランで夕飯をごちそうになることにした。昨日は旧市街にあるステーキハウスで300gの牛肉が縮んだ硬いステーキを食ったので今日はパンの器にオニオンスープを流し込んだものとムニエル系の平たい魚を発注した。バルト三国ではほとんどの商品に20数パーセントの付加価値税がかかるのだが、すべて内税でしかも物価が安いのでビールとこれだけの美味な料理をいただいても日本より安く上がるのだ。
9月11日(火)
これまでバルト三国の港町であるタリン、リーガの調査を行ってきたが、今日はリーガのバスターミナルから午前10時発のバスに乗ってリトアニアの首都で内陸部に開かれた町であるヴィリニュスに移動することにした。約5時間もの時間をかけてバスがヴィリニュスのバスターミナルに到着したのは午後3時くらいであった。早速手持ちのユーロをリトアニアの現地通貨であるリタスに両替して小銭を得ると、予約していた旧市街にほど近いホテル・コンティが提供する安い屋根裏部屋にチェックインして町に出てみることにした。
バルト三国に来て初めてTシャツで過ごせるほどの好天に恵まれたヴィリニュスは深い緑に囲まれており、ドイツ商人の影響を受けずに建設されたため、タリンやリーガと違って天を突くゴシック教会の塔は見当たらない。世界遺産に登録されているヴィリニュス歴史地区は東ヨーロッパで最も広い旧市街のひとつでもあり、バロックを中心とした様々な様式の建築が、迷路のような旧市街の全域に広がっているのである。
ヴィリニュスの中心に建ち、ヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会は高い鐘楼を従えた巨大なギリシア神殿を思わせる大聖堂である。最大の見所はリトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子が安置された17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所である。正面に置かれた聖カジミエルの聖画には手が3つあるが、3つめの手は画家が何度消しても再び現れてきたので根負けして残されたと伝えられている。
丘の上でリトアニアの国旗を誇らしげに掲げているのはケディミナス塔でかつての城壁の塔である。現在は展望台と丘の上の城博物館(Lt5)としてヴィリニュスの眺望と歴史の知識を提供している。博物館の展示品はケディミナス城の模型や武具、出土品が主な物であるが、私の最も興味を引いた内容はバルト三国独立に関するビデオや写真である。特に1989年に「人間の鎖」がバルト三国の首都を結び、連帯と独立への意思を示している写真には人心に訴えるものがあった。タリンからヴィリニュスまで600kmを200万人(民族人口の約半分)が手を結んで作った人間の鎖は腐りかけたソ連の支配からの解放を実現に導いたのである。
大聖堂の鐘楼近くに「Stebuklas(奇蹟)」と書かれた1枚の敷石があるのだが、ここが人間の鎖の起点となった場所で、この上で反時計回りに3回回りながら願い事をするとかなうと言われているので観光客がこぞってグルグルしていたのである。
ケディミナス塔の展望台からの眺めで一際私の目をひいたのは16世紀後半に建てられたゴシック様式の聖アンナ教会である。建設には33種類もの異なった形のレンガが使われており、当時の技術の粋を集めたものだったという。1812年ロシアへ攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際、この教会を見て「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」とざれ言を言ったのは有名な話だそうだ。
旧市街の東にはヴィリニャ川が流れており、「川向こう」という意味を持つウジュピスというしなびた地域がある。流れる川の壁面に見つけると幸せになれるという人魚像がインストールされているのだが、周囲の落書きのせいか、妙に寂しげに見えたのだった。
ヴィリニュスには元来9つの城門があったのだが、現在唯一残っているのが、旧市街の南の入口となっている「夜明けの門」である。門の2階は小さな礼拝所になっており、お祈りをする信者が絶えないのであるが、ここにある聖母のイコンは、1363年にアルギルダス公がクリミア半島に遠征した際持ち帰ったものだといわれており、奇跡を起こす力があると今も信じられている。
居酒ファミリーレストラン風の純リトアニア料理を出す食堂が市庁舎広場沿いの通りで繁盛していたので晩飯はここで食うことにした。とりあえず500mlの地ビールとイワシの酢漬けとジャガイモやベーコンをつぼ焼きにしたものを食したのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスの高いディナーとなった。
外はすでにとっぷりと日が暮れており、大聖堂等のメジャーな観光物件が見事にライトアップされている様子をアイスを舐めながらゆっくりと楽しむことができたのだった。
9月12日(水)
ヴィリニュスの中心にある大聖堂から徒歩15分程東に歩くと一見普通に見える教会が現れた。入口のおばちゃんに促された寄付金の小銭を払って中に入ると息を呑むような装飾に圧倒されてしまった。
聖ペテロ&パウロ教会はバロックの町ヴィリニュスを代表する記念碑的な建築である。建物そのものの建築は1668年から7年間しかかかってないのだが、凝った内装にはその後30年あまりの時間がかけられているという。ここにある2000以上の漆喰彫刻はひとつとして同じものがなく、聖人からはじまって天使や想像上の獣といった芸術品でマサに彫刻のデパートの様相を呈しているのだ。尚、この教会には団体観光客がひっきりなしに訪れるのだが、入口のおばちゃんは何故か中国人団体に寄付を要求するタイミングは逸していたのだ。
新市街のモダンな通りを歩いていると国立ドラマ劇場からは彫像トリオが今にも襲いかからんばかりの迫力で前のめりになっており、とある建物の屋根ではキューピー系の天使が微笑みかけていた。ルキシキュウ広場の花畑の向こうでは砂で固められたジョン・レノンが暇人の私にイマジンを歌いかけてくれるかのようにギターを携えていた。
ソ連時代の秘密警察KGBが1944年から1991年まで本部として使っていた建物がTHE MUSIUM OF GENOCIDE VICTIMS(Lt6)として開館していたので入ってみることにした。展示内容は過去の戦争における虐殺の歴史でビルの正面の壁にはおびただしい数の犠牲者の名前が刻まれている。来館観光客が特に注目しているのは地下にあるKGB関連の展示で冷たい時代に実際に行われたKGBの所業を当時のファシリティや記録フィルムで確認することができるのだ。とりわけ見学者の背筋を凍りつかせるものは血のついたクッションで防音された拷問部屋や1000人以上の銃殺が実行され、その様子がビデオで再現されている地下室であったろう。
ヴィリニュスの観光も一巡したところでバスで近郊の見所まで行動範囲を広げてみることにした。ミニバスに40分程揺られて着いた所はヴィリニュスに移る前にリトアニアの首都が置かれていたトゥラカイという風光明媚な観光地である。
観光の中心地は14世紀後半に建設され、その後廃墟となったが、1987年に復元されたトゥラカイ城(Lt12)である。湖上に浮いている様子は非常にメルヘンチックであるが、構造を見ると戦争のために築城されていることがわかり、興味をそそるものがある。
現在は城壁、本丸ともに博物館となっており、特に中世の生活様式を物語る展示品の中にはジュリ扇のようなセンスのない羽が生えた扇子やライオネル・リッチー系のリッチな貴族も一服したであろうパイプ等が目を引いた。
トゥラカイからヴィリニュスに戻ると不意に向学意欲が湧いてきたので16世紀に創設された由緒あるヴィリニュス大学に入学金Lt5を支払って入学させていただくことにした。大学に付属する聖ヨハネ教会に礼拝すると言語学部の建家の2階のホールに書かれている「四季」のフレスコ画を見ながら自然崇拝時代の生活について自習し、軽くキャンパス内を歩き回って退学となった。
大学裏手の大統領官邸では丁度国旗の降納の儀式がリトアニア兵により厳粛に執り行われていた。国旗も降ろされたところでヴィリニュス観光も潮時を迎えたことを悟った私は昨日と同じレストランでリトアニア料理を食って明日の朝に備えてホテルに退散することにした。
9月13日(木)
早朝4時にタクシーを発注してヴィリニュス空港に移動し、5:40発SU2109便に乗り込む際に機材の脇にロシア語の新聞・雑誌が置いてあったのだが、何故か巨匠ビートたけしの巨顔が目についたのでアウトレイジする代わりに手にとって座席に着くことにした。
定刻8:05にモスクワのシェレメチェヴォII国際空港に到着すると空港に乗り入れている便利な特急列車に乗って30分程でモスクワ中心部のベラルーシ駅までたどり着いた。成田行きの飛行機が夕方発だったのでそれまでの時間を有効に使うためにモスクワ観光のお約束の地である赤の広場を目指して歩き始めた。赤の広場は何らかのイベントの準備のためか設営関係の工事が行われていたのだが、相変わらず観光客で溢れかえっており、かぶりもの系のキャラクターも控えめながら観光客に愛想を振りまいていた。
聖ワシリー教会のネギ坊主の華やかさぶりは2006年の7月に来た時(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2006moscaw.html)と変わらなかったのだが、入場料は倍以上に値上げされていた。クレムリンの入場料も同様で内部のすべての見どころを網羅するためには日本円で\5000くらいの出費は覚悟しなければならないのだが、幸い木曜日はクレムリンの定休日だったので周囲を一周してその広さを実感するだけにとどめておいた。
赤の広場でロシアの民主化の進展ぶりを確認出来たので、徒歩でバヴェレツ駅まで移動し、特急列車でドモジェドボ空港へ40分程かけて移動した。今回のツアーでモスクワの空港間を移動する際に空港バスや特急列車を利用したのだが、コストの安いバスは渋滞に巻き込まれるおそれがあるが、バスの3倍以上のコストがかかる特急列車は時間も正確で便数も非常に多いので乗り継ぎの際には非常に信頼性が高いと思われた。
ロシア・ルーブルが余っていたので土産物のマトリョー猫を購入する代わりにドモジェドボ空港内の自動販売機でロシアのビールを買い込んで飛行機に搭乗した。
17:45発JL442便B787-8ドリームライナーは定刻通りに出発し、JTB旅物語のツーリストや多くのロシア人とともに機内で9時間もの時間を過ごすこととなった。
9月14日(金)
定刻の午前8時過ぎに成田空港に到着し、こざかしいコザックダンスをすることなく流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 JAL = ¥52,010(燃油代のみ)、アエロフロートロシア航空 = $316.2
総宿泊費 ¥32,549、EUR45
総モスクワバス代 RUB180 (RUB1 = ¥2.6)
総モスクワ地下鉄代 RUB28
総モスクワ鉄道代 RUB640
総ロシアトランジットビザ代 ¥5,600
総エストニアバス代 EUR18.4
総ラトヴィアバス代 Ls9 (Ls1 = ¥142)
総リトアニアバス代 Lt13.6 (Lt1 = ¥29)
総リトアニアタクシー代 Lt50
協力
JAL、アエロフロートロシア航空、hotels.com