FTBキラー菅送別モンゴルツアー

大相撲7月場所で大関魁皇が胃潰瘍を患うことなく引退し、日本の国技にして八百長のはびこる相撲界はますますモンゴル人力士が幅を利かせることになる。ところで、格闘技界でモンゴリアンが一躍脚光を浴びたのは今から遡ること20数年前の新日本プロレスのリングであったろう。当時国際プロレスから乱入してきた維新軍団は、今では消臭力の台頭により影が薄くなってしまった長州力を筆頭にラッシャー板前のモデルとなったラッシャー木村、アントキノ猪木に似ているストロング小林、京子のプロデュースを始める前のアニマル浜口、マサ!斎藤と蒼々たるメンバーが揃っていたのだが、中でも日本人でありながらモンゴリアンを語るキラー・カーンがひときわ異彩を放っていた。

相撲界出身のキラー・カーンから繰り出されるモンゴリアン・チョップは主流のアントニオ猪木、ドラゴン藤波辰巳、坂口憲二パパである坂口征二を筋書き上苦しめていたのだが、今では小澤正志と書いてキラー・カーンと読ませ、ちゃんこ居酒屋http://www.kan-chan.jp/のおやじに出世を果たしている。

ということで、今回はキラー・カーンがあこがれてやまなかったであろうモンゴルに代わりに行ってやることにしたのだ。

2011年8月26日(金)

午後5時20分発NH955便にて成田から北京に移動し、北京首都空港から列車で市内に入り、さらに地下鉄10号線に乗り換えて北土城に到着した。PRIORITY CLUBのポイントが余っていたのでマサであれば400元くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Express Beijing Minzuyuanにチェックインを果たすと北京ダックを食らうことなく、暗がりの中で寝静まった。

8月27日(土)

早朝5時半にホテルをチェックアウトすると北京首都空港に直行し、AIR CHINAが運行するCA901便に搭乗し、定刻午前8時35分に飛び立った。B737-800機の窓から眼下を見ると荒涼とした土色の大地が果てしなく広がっていた。飛行機が高度を落としていくにつれて、徐々に川の流れと緑も見え始め、11時前にモンゴルの首都ウランバートルのチンギス・ハーン国際空港に到着した。

空港の銀行で一万円札を差し出すと152,000トゥグリク(Tg)という大金になって返ってきたので札束を握り締めて空港外のバス停まで歩いて行った。ところで、ウランバートルの公共バスではスリ被害が多発し、その手口はナイフを使ってズボンやバックを切り裂く強引なものなので、モンゴル人でもバスの利用を避けていると物の本に書かれていたので、バスには運転手と切符売りの車掌しか乗っていないのかと思っていたが、意外にも乗客でごったがえしたバスがやってきたので意を決して乗り込むことにした。

ポケットの中の財布と手持ちのバックパックに最大限の注意を払いながら、埃の舞い上がるでこぼこ道をバスに揺られていると交通量の多いウランバートルの市街地に入ってきた。そして適当に乗客がたくさん降りるところで下車してあたりを軽く歩いてみることにした。目の前に旧国営デパートを大手電気店が買収したモンゴル最大のノミンデパートが多くのモンゴリアンで賑わっていたのでトイレを借りに入って行った。尚、ウランバートルの繁華街には有料のCITY TOILETも各所に設置されているのでおなかピーピー状態を恐れずに自信を持って町を闊歩することが出来るのだ。

躍動感のある信号機や新しい高層ビルを横目にエンフタイヴァン(平和)大通りを東に進み、今日の宿であり、モンゴルと日本の合弁会社が運営するテムジンホテルに到着した。ホテルの受付ギャルは朝青龍顔ながらも日本語を話すことが出来るので、首尾よくチェックインを果たすと部屋でビールを飲みながら少し休憩させていただいた。尚、ウランバートル入りしてからこれまで出会ったモンゴル人の10%くらいは老若男女問わず朝青龍似のしょうゆ顔であったので、ここは朝青龍ファンにとってはパラダイスだと思われたのも確かであった。

ビールの酔いも醒めた頃、あらためてウランバートルの町に繰り出すことにした。格式高いウランバートルホテルの前にご当地レニングラード(現サンクトペテルブルグ)でもすでに撤去されてしまっているレーニンの銅像が浪人のように立ちはだかっており、モンゴルが旧ソ連の影響を受けている名残が今も残っているようだ。また、モンゴルの言語はモンゴル語なのだが、表記はキリル文字(ロシアンアルファベット)になっているのだ。

市内で最も広いスフバートル広場の脇には日本人抑留者が建設した国立ドラマ劇場がピンク色に輝いており、1921年のモンゴル革命の指導者のひとりであるスフバートル像は馬に乗って天を目指しているかのようであった。その奥には蒼き狼チンギス・ハーンの像が鎮座しており、政府宮殿の前で睨みを効かせていた。

町中にはビートルズのオブジェやオレンジ色の屋根が眩しいサーカス場がさびれかかっており、朝青龍顔を持つ安田大サーカスのヒロにはもってこいの舞台だと思われたのだが、むしろここで大相撲モンゴル場所を開くのがふさわしいのであろう。この件は八百長問題に適当な落とし所を見つけた元大関魁傑である放駒理事長が解決してくれることを期待しよう。

テムジンホテルに帰ってテレビをつけるとNHKの衛星放送を見ることが出来るのだが、これはモンゴル力士のオールスター戦である大相撲場所を見るのにかかせないものだと思い知らされた。

8月28日(日)

ウランバートルの西のはずれにソンギノハイルハン長距離バスターミナルがあり、そこからモンゴルの古都ハラホリンに行こうと思っていたのだが、本日分のバスチケットは売り切れていたので仕方なく明日出発のチケットを購入した。

バスでウランバートル中心部に戻り、1838年に建立されたチベット仏教寺院であるガンダン寺にお参りすることにした。この寺は活仏と言われるこの世に姿を現した仏の化身とされるチベット仏教の高僧により建てられたもので、モンゴルが仏教国であったことを思い起こさせてくれるものだ。

ガンダン寺の観音堂には高さ25mの観音像が起立しているのだが、これは盲目となった第8代活仏ボグドハーンがその治癒を祈願して建立した開眼観音である。実は初代観音はスターリンによって1938年に破壊され、ソ連に収奪されており、今の観音は2代目のものとなっているのだ。

ガンダン寺で起動戦士ガンダムのように崇拝されている観音がスターリンに観念させられたという事実に憤りを覚えたので心を鎮めるために自然史博物館(Tg2,500)で目の保養をすることにした。1924年に開館したこの博物館にはモンゴルの自然や考古学に関する豊富な資料が取り揃えられている。

自然科学のコーナーでは現地の動物の剥製が生き生きと展示されており、木と相撲をとるヒグマや尻尾の長いユキヒョウ、耳がキュートなネコ科の動物が目を引いた。

恐竜王国モンゴルではたくさんの恐竜の化石が発見されているのだが、ここではタルボザウルスの骨格標本が目玉となっている。その周辺には巨大なマンモスの牙や古代のサイ等の骨格も彩を添えているのだ。

人口100万人を誇るウランバートルの中心部に都市部の川の割には清らかなセルベ川が流れている。その川原にはおびただしい数のヤギやヒツジさえ進出しており、放牧大国モンゴルの実力をまざまざと見せつけているかのようであった。

8月29日(月)

マサよ、君は大草原の小さな少女が隠そうともせず、あっけらかんと放尿している光景に衝撃を覚えたことがあるか!?

というわけで、今朝はソンギノハイルハン長距離バスターミナルに速やかに移動し、午前11時発のハラホリン行きのバスに乗り込んだ。ウランバートルから西に向かう365kmの長旅は草原に挟まれた管理状態の良くない舗装道を延々と走ることになる。

バスが出発して1時間程経つと何の前触れも無く路肩に停車し、数人の少女が開かれた草原に駆けて行った。すると彼女らはいきなりパンツを下ろして草原にしゃがみこみ微笑みさえ湛えながら尿を大地に放っていた。するとバスに同乗していた妙齢の女性もおばちゃんも釣られるように草原に飛び出し、草花に肥やしを提供していたのだった。

慎ましさを美徳とする倭人には理解出来ない生態であるが、島田紳助というプロデューサーを失った羞恥心さえコントロール出来ればなでしこジャパンであっても問題なく対応可能な行為のはずである。

ところが、バスが昼食休憩のために寄ったドライブインには掘建て系のトイレがあり、草原に馴染まない人々のプライドを頼りなく紙一重で支えていたのだった。

車窓を流れる遊牧民の日常生活を遠巻きに眺めていると長い移動時間も苦にならなかったせいか、5時間以上のバスの旅はあっさりと終了し、寒村地帯の雰囲気を漂わせるハラホリンのバスターミナルに到着と相成った。早速宿を探さなければならなかったので村の中心を通り過ぎて草原にポツンと立つ宿泊所らしい建物を目指して歩いていた。

HOTELという看板を掲げた建物に窓越しに来意を告げると多少英語の出来る若者が出てきて宿泊システムの説明が始まった。宿泊者はホテルの快適な部屋に泊まるか値段の安いゲルにしけこむかを選択することが出来るのだが、私は馬乳酒を牛飲して泥酔し、ゲルをゲロだらけにするリスクを避けるために1泊US$45のホテルを選択し、前払いで支払いを済ませて部屋に引き篭もり静かな一夜を過ごさせていただくことにしたのだった。

8月30日(火)

ハラホリンはかつてモンゴル帝国の首都が置かれており、カラコルムと呼ばれていた。現在では往時の栄華を偲ばせるファシリティはほとんど残っていないのだが、エルデニ・ゾーという巨大な仏教寺院群が世界遺産であるオルホン渓谷の文化的景観の中で最も規模が大きく有名な建造物として君臨しているのでじっくり見させていただくためにここまで足を伸ばしたのだ。

エルデニ・ゾーに侵入する前に小雨そぼ降る町中を歩きながら悠久の時の流れを感じることにした。集団で通りを闊歩する野犬の群れをなだめながら歩いているといつしか牛のドクロが転がる草原に迷い込んでいた。広大な草原はなだらかな山や丘に囲まれており、丘陵部には集落とゲルのキャンプが固まっていた。

天候も回復の兆しを示してきたところで108個の卒塔婆(ストゥーパ)の塔と外壁に囲まれた約400mx400mの正方形を目指して歩を進めた。城壁の東のはずれに亀石という石碑を載せる台座として彫られた亀型の花崗岩が祀られているので亀井静香には静かにしてほしいとの祈りを込めた後、城壁の回りのビーフを愛でながらエルデニー・ゾーの西門に向かって行った。

城壁の内部は草原と仏教大寺院群のコントラストが美しく、さらに青空の下で中国式木造寺院が一際輝いていた。早速17世紀初頭から18世紀初頭に建立されたダライラマ寺を通り過ぎて3つの寺の意味を持つゴルバン・ゾー(Tg3,500)にお参りすることにした。

ゴルバン・ゾーは中央寺を挟んで西寺と東寺から構成され、内部にはユニークな仏像が祀られているのみならず天井の仏画や修復された壁画も非常に印象的なものがあった。

インド仏教伝来の仏舎利塔(ストゥーパ)ソボルガン塔の装飾にモンゴル風味が加えられているのを確認し、さらにチベット式建築のラプラン寺で勤行している僧侶たちに敬意を表した。

エルデニ・ゾーの広い敷地内にかつてチンギス・ハーンが陣営で煮炊きに使用したものといわれている鉄鍋が無造作に置かれていた。チンギス・ハーンも将来自分の名前がジンギスカンというくせのある料理名に使われるとは思ってもみなかったであろう。

エルデニ・ゾーの目の前には土産物やモンゴル料理を提供するテントが積極的に客引きするでもなく、控えめな営業体制を取っていた。同様に観光客の腕に止まって有料被写体となる巨大な鷹も爪を隠しながら止まり木の上でおとなしく出番を待っていた。とりあえず、一軒のテントに入り、モンゴル語で書かれたメニューを見てとある料理を指差し発注すると強烈なマトン臭を発する羊肉入りの麺が出てきやがった。はしではなくスプーンだけで食べるその麺を何とか完食し、観光を続けていると数十分はお腹のグルグル感が残ったものの体内に驚くべき活力がみなぎり始め、その後の草原の丘登りが非常に楽になったのだ。

エルデニ・ゾーから数百m離れた所に日本の協力によって設立されたカラコルム博物館(Tg3,500)が開館していたので見学することにした。お約束の蒙古帝国の歴史の資料によるとエビフライが好きであってほしいフビライ・ハーンは1274年と1281年の2度にも及ぶ日本への侵略未遂を行っているのだが、時の執権北条時宗が胸をときめかせながら元寇に対応した日本サイドの観点は示されていないのだ。

ハラホリン一帯を見下ろす小高い丘の頂上へ行く途中に殿方の性的シンボルをかたちどった男根岩が誰の手にも触れさせぬように柵で覆われながら手厚く祀られていた。男根岩の触感を味わうことが出来なかった腹いせに頂上に鎮座している亀石の頭を撫で回しておいた。

丘の上からはエルデニー・ゾーの遠景や伝統的なゲルの集落が眺められ、草花から漂ってくるハーブやミントの香りでリラックス効果を高めながら、ゆっくりと流れるぜいたくな時間を思う存分堪能させていただいた。

丘の上の草原には保護色に彩られている茶色や緑のバッタが羽音を響かせて飛び回っており、どこからやってきたのかカエルまでが帰る道を探そうと歩き回っていた。

8月31日(水)

早朝窓から差し込んできた柔らかな光で目を覚まし、ホテルの外に出てみると東の空がオレンジ色に輝いていた。ホテルの敷地内で休んでいた牛達も徐々に目を覚まし、ゲル周辺の短い草を牛タンでからめとるように食みはじめた。

サンライズの幻想を十分に堪能するとホテルを出て晴れ渡った草原を眺めながらバスターミナルに向かった。ウランバートルへは午前10時発の大型定期バスで帰ろうと思っていたのだが、いきなりミニバンで運行するミニバスの関係者に腕を取られ、それでも私が大型バスの方へ向かおうとすると彼は地団駄を踏んで悔しがる姿勢を示した。その熱意に敬意を表してミニバスに乗ってやることにしたのだが、乗客が中々集まらなかったため、大型バスよりも1時間遅い出発となってしまった。

ミニバスには学生系の少女や青年、母親に連れられたまだ蒙古斑も消えていないであろう幼女の姉妹等が乗っていた。出発して1時間も経たない頃にいきなり社内で「ボン!」という激しい破裂音がこだまし、ミニバスは路肩に停車した。スライドドアを開けるとカルピスソーダの爽やかさとはかけ離れた酸っぱい白色液体が後部のシートから社外に流れ出てきた。この現象は恐らくポリタンクに詰めてあった馬乳酒が振動により膨張し、ついに圧力に耐え切れなくなった栓を吹き飛ばして暴発したものであろう。ちなみにハラホリンはよほど高品質の馬乳酒を生産するためか、多くのモンゴリアンはウランバートルから空のポリタンクを多数持ち込み、帰りはその中に液体を満たしてバスやバンに積み込んでいる光景が印象に残っていた。

馬乳酒が醸し出す酸臭がようやく薄まってきた午後5時前にウランバートルのソンギノハイルハン長距離バスターミナルに到着し、近くのバス停から市バスに乗り換え、町の中心部に戻ると予約をしていないが空室があるはずだと信じていたテムジンホテルに帰還し、バックパックにしみ込んでいる馬乳臭を気にすることなく休ませていただいた。

9月1日(木)

スリの被害に遭わなかったのでキラー・カーンには申し訳ないが、モンゴリアンチョップで防戦することなくモンゴルツアーの最終日を迎えることとなった。ところで日本では国民を見殺しにするキラー菅がついに退陣するとのことで海外との対人関係も大いに改善されることが期待できよう。

ウランバートルを南北に走るチンギス通りからバスに乗ってしばらくすると黄金色に輝く大仏からここで降りよとの啓示を受けたので素直に従うとその大仏の背後の丘に記念碑のようなオブジェが天空を指していたので登ってみることにした。

行き場を失った旧ソ連製の戦車を尻目に階段を登りきると幅3m、周囲60mの鉄筋コンクリート製の輪に囲まれた伝統的なモンゴルの灯「トルガ」に到着した。トルガは、生命を具現すると同時に、ソ連兵士がモンゴル兵士と共同で侵略者から防衛したモンゴル人民共和国独立を象徴している。

なるほど、輪の内側のモザイクの壁画にはモンゴルとソ連人民の友好が描かれており、一方で大日本帝国とナチスドイツの旗は無残に踏みにじられているのだった。

ザイサン・トルゴイと呼ばれるこの展望台は360度の視界が開けており、密集した都会の周辺に広がる草原までウランバートル市を一望することが出来るのだ。

丘の麓に建つおとぎの国系の住宅街を過ぎると荘厳な造りの寺院が目に飛び込んできた。寺院付属の土産物屋の前に狼の剥製があったので谷村新司よろしく♪オ~かみよ、彼を救いた~まえ~♪と海江田を海に沈めてチャンピオンの座に着いた野田首相の活躍を祈っておいた。

ボグドハーン宮殿博物館(Tg2,500)は第8代活仏ボグドハーンの冬の宮殿であった。現在の建物は1919年に建立されたもので、その建築様式は釘を一本も使わない木組み方式の最新テクノロジーが駆使されているそうだ。

引き続き第8代活仏の弟の寺として建立されたチョイジンラマ寺院博物館(Tg2,500)を見学したのだが、今では高層ビルとの対比が美しい景観を醸し出している寺院の内部には土俵入りのような格好の仏像が躍動している姿が印象的であった。

通常であればモンゴル入りして一番最初に訪問しなければならなかったはずの民族歴史博物館(Tg5,500)に遅ればせながらモンゴルに関する基礎知識を身に付けるために入館することにした。展示物は民族衣装や生活様式に関する物が主であるが、フエルト生地で覆われた本物のゲルも展示されており、内部の構造やインテリアも覗き見ることが出来るようになっていた。

ウランバートル市内を歩いていると蓋が開いているマンホールを見かけることがあるが、ここには社会問題化しているマンホールチルドレンが住んでいるという。様々な理由からホームレスになった彼らは冬の厳しい寒さに耐えるために地下に潜行し、物乞い等をしながら生計を立てていると言われている。

今回のツアーで似非モンゴリアンのキラー・カーンがモンゴルの知識を身に付ける一助となったことを確信したのでバスでチンギス・ハーン国際空港に戻り、午後6時20分発のCA956便にて北京へ飛び立っていった。

9月2日(金)

再びただで宿泊させていただいたHoliday Inn Express Beijing Minzuyuanを早朝チェックアウトすると午前6時半前には北京首都空港に到着した。空港第3ターミナルのファシリティを軽く見学させていただいた後、午前8時30分発NH956便で成田に飛び、フビライ・ハーン似の朝青龍がモンゴルの大統領に就任した暁には、神風の吹かない財団法人日本相撲協会はモンゴルに買収されるだろうと考えながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥31,660、AIR CHINA = ¥49,130

総宿泊費 = US$270

総北京鉄道代 = RMB100

総北京地下鉄代 = RMB8

総モンゴルバス代 = Tg32,800 (¥100 = 約Tg1,500)

協力 ANA、AIR CHINA、PRIORITY CLUB

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