FTBサハラ入口ハラハラツアー in チュニジア

バンクーバーを根城とした真央の時代が終わりを告げると同時に上海では真夜の時代の幕開けとなった。♪涙の数だけ強くな♪ってきた岡本真夜は盗作されてしまった自らの楽曲を何の迷いもなく上海万博のテーマソングとして献上したという度量の広さを見せつけ、さらに一躍ダウンロード数を伸ばすという快挙さえ成し遂げている。FTBもそのままのFTBでいるべく♪も~と 自由に も~と素直♪なハングリー精神を取り戻すために乾いた大地を目指すことにしたのだ。

2010年4月29日(木)

ボンジュール マサよ!サバ(鯖)!!

というわけで、アイスランド火山の噴火の影響による欠航から見事な復活を果たしたNH205便で午後5時前に久しぶりのパリ・シャルルドゴール空港に到着すると引き続き午後9時5分発エアーフランスAF1784便にてバレーボールワールドカップ男子の1試合目で日本と対戦させられて弱い日本に勢いをつけさせるという重要な役目を担ってきたチュニジアに向かった。チュニス・カルタゴ国際空港に到着したのは午後11時前だったのでそそくさとタクシーに乗り込み、本日の宿泊先である中級ホテルDu Parcにしけ込んでダウンした。

4月30日(金)

立地条件のよくない町外れにあるホテルDu Parcから徒歩でチュニス中心部を目指した。長い間フランスの支配下におかれていた影響か、何となくヨーロッパを軽くとっちらかしたような印象を受けるチュニス市街にはメトロと呼ばれる路面電車が縦横無尽に走り、黄色いタクシーが♪ア~クセル 踏み込んで~ ろ~めんでんしゃ~ お~いこした~♪光景が展開され、また大聖堂から続く目抜き通りであるハビブ・ブルギバ通りにはおしゃれなカフェ等が軒を連ねていた。

TGMと呼ばれる郊外電車がハビブ・ブルギバ通りの東端のチュニス・マリン駅からカルタゴ方面に向かって走っているのでユネスコ世界文化遺産に指定されているカルタゴ遺跡を見学するために足を延ばすことにした。約30分程電車に揺られ、カルタゴ地区の中心駅であるカルタージュ・ハンニバル駅で下車するとビュルサの丘まで這い上がることにした。1890年にフランスによって建立された威圧感のあるサン・ルイ教会背後のチケット売り場でカルタゴ地区遺跡の共通券(TND8.000、撮影料=TND1.000)を購入すると古代カルタゴの中心だったビュルサの丘に侵入した。

ビュルサの丘はローマによって滅ぼされたフェニキア人によるカルタゴ市の中心があった丘であり、さらにその後のローマ人による支配下でも中心的な役割を果たした場所でもある。ちなみに「ビュルサ」という名の由来はフェニキアの王女エリッサが、この地に都市を建設しようとした際、底意地の悪い現地人が牛の皮(ビュルサ)1枚で覆える範囲の土地しか譲れないと言いやがった。エリッサはそっちがその気なら、こっちにも考えがあるぜということで、その皮を切り裂き細長いひもを作り、そのひもで土地を囲い広い領土を獲得するという一休さんもたじたじのとんちを使って快挙を成し遂げたのだが、今となってはポエニ人住居の廃墟が痛々しく広がっているだけである。

ビュルサの丘の頂上に君臨するカルタゴ博物館にポエニ時代とローマ時代の出土品から当時の様子を偲ぶために入って見ることにした。ここには周辺地域から出土されたローマのモザイクや神々の像、ポエニ時代の地中海交易品、生活用品、墓の埋葬品等が展示されている。カルタゴは度重なるローマとの戦いでついには敗北し、陥落してしまうのだが、そのときのローマ軍による町の破壊ぶりは徹底したもので、廃墟に塩を撒いて人も住めず作物も出来ないようにしたというマサに傷口に塩を塗るような非人道的な仕打ちが行われたのだった。

ビュルサの丘を下り、15分ほど歩くとローマ時代の闘技場で当時は3万6000人もの観衆を収容出来たと言われている円形闘技場に到着した。かつては円柱で支えられたアーチの上にさらにアーチが重ねられ、様々な彫刻が施されていた素晴らしい円形闘技場であったそうだが、数世紀にわたって石材が持ち出された結果、今では円形脱毛症のような悲惨な姿をさらしているに過ぎないのだ。育毛剤の必要性を感じながら、円形闘技場を後にして辿り着いた場所はローマ劇場であった。最盛期には1万人を収容したというこの劇場は育毛が行き届いているかのようにしっかり修復され、毎年7~8月に開催されるカルタゴ国際フェスティバルの会場として演劇、映画やコンサートも行われているのだ。

ローマ時代当時の暮らしぶりが想像できるローマ人の住居に入居させていただいた。しっかりと区画整理がされた住宅地の一部は修復が行き届いており、「ヴォリエールの別荘」と呼ばれる屋敷の跡には列柱回廊と中庭、出土した彫刻、碁盤の目状に構成されている4世紀初頭の床モザイクが残っている。ダイワハウチュを仕切っている役所広司であれば、この場所に役所のように大きいダンスホールを建設し、バレリーナを引退した草刈民代と全裸でシャール ウィ ダンスを楽しんでいたことであったろう。

ローマ人の住居で全裸になった妄想に駆られた勢いでアントニヌスの共同浴場に入浴することとなってしまった。ここは海を背景に建てられた広大な公共浴場で、2世紀にローマ五賢帝のひとり、アントニヌス・ピウスにより建設された健康ランドである。当時、建物は2階建てで、更衣室、温浴風呂、水風呂、サウナ、プール、噴水、談話室、トイレ等、健康ランドに必要なファシリティは一通り揃っていたと言われている。さらに、壁にはフレスコ画、柱には彫刻、床には色鮮やかなモザイクが敷き詰められ、非常に贅沢な作りだった名残がかすかに残されているのだ。

灼熱の健康ランドでひと汗かいた後、火照った体を冷やすためにトフェというポエニ人の墓地にお参りした。当時カルタゴには幼児を殺害して神に捧げるといういけにえの習慣があったと伝えられており、敷地内には小さな墓が無造作に並び、実際にここからは炭化した幼児の骨が入った骨壺が発見されているのだ。

海洋博物館(TND2.000)という名のチープな水族館で狭い水槽でストレスのたまっているはずの魚に神経を逆なでされた感覚を癒すために今ではただの池のようにしか見えない古代カルタゴの港を遠巻きに眺めることにした。かつてここには古代カルタゴの繁栄を支えた商業港と軍港がインテグレーションされており、周囲には倉庫街と砂岩の岸壁が巡らされ、最先端のセキュリティ体制が取られていたそうである。

マサよ、君はチュニジアで最も美しいチュニジアンブルーと真っ白な壁が映える町を地中海からのさわやかな風を受けながら闊歩したことがあるか!?

というわけで、TGMでさらに数駅北東に進出し、シディ・ブ・サイド駅で下車した。南地中海に面した岬の丘の上に敷かれた石畳の坂道を歩くと白い壁に青い窓枠や扉がインストールされた建物が次々と姿を現した。この色使いはシディ・ブ・サイドの基本カラーになっており、景観を損ねないように多くのペンキ職人により定期的なメンテナンスが行われている様子が見て取れた。

「街並み保存区域」に指定されているシディ・ブ・サイドの建物の窓際はジャスミンやハイビスカスの花で彩られ、多くの土産物屋やカフェに群がる観光客で大変な賑わいを見せていた。地中海を見下ろす高台を占拠するカフェ・レストランには青いパラソルが広がり、眼下のヨットハーバーやビーチが彩りを添えていた。

TGMでチュニス市街に戻り、ハビブ・ブルギバ通りのカフェでビールを流しこんだ後、チュニス鉄道駅から交通手段兼宿泊設備の列車の一等席に陣取り、指定席の番号が明確でないため、席の奪い合いに発展した車掌も解決することが出来ない立ち回りを見物しながら乾いた南部へと向かって行った。

5月1日(土)

列車はかつて「ローマン・アフリカの果て」と呼ばれていた、アルジェリアとの国境に近い大オアシスであるトズールに午前5時12分に到着する予定であった。時刻は5時半を回り、とある駅で大量の乗客が下車したので寝ぼけ眼で私も釣られるように列車を降りてしまった。駅のトイレに入っているタイミングで汽笛が鳴り、列車が走りすぎて行った後に駅名を確認するとそこにはMETLAOUI(メトラウイ)と書かれている驚愕の事実を目の当たりにし、一気に目が覚めてしまった。

メトラウイで朝日を浴び、ハラハラしながら道をさまよっているとさびれたバスターミナルに到着したのでそこで原住民の行動を観察していた。人はそこそこ集まっていたのだが、午前6時台にはバスはあまり来なかったので、乗合タクシー風のワゴン車であるルアージュの運転手にトズール行きかどうかを確認し、首尾よく乗車を果たすと1時間程度でチュニジア南部観光の玄関口であるトズールのバスステーションに到着することに成功した。

トズールで一番にぎわうエリアはハビブ・ブルギバ通りでそこには観光客目当ての土産物屋が軒を連ねているのだが、時間の経過とともに灼熱の太陽がその本領を発揮しはじめたので広大なナツメヤシのオアシスに身を隠すことにした。砂漠を目の前に控えた1000ヘクタールという広大なオアシスには20万本ものナツメヤシと果樹や野菜が植えられており、ナツメヤシの実であるデイツはトズールの特産品になっているのだ。

夏目漱石を思い出させるような「吾輩は猫である」ということをアピールする多数の野良猫が徘徊するナツメヤシのオアシスから「門」をくぐって脱出し、それからバスセンターに戻るとタメルザ行きのルアージュを探した。とある古びたバンの後部座席にイスラム服に身を包んだおばちゃんが佇んでおり、「ボンジュール」と挨拶を交してきたのでこの車はタメルザ行きか聞いたところ、そうだと答えたので乗り込んで出発を待つことにした。数十分経過後、ほどなく人が集まってきたので誰が運転するのだろうと様子を見ていたところ、いきなりそのおばちゃんが運転席を占拠しやがった。

保守的なイスラム世界では珍しくルアージュの女性ドライバーとして生計を立てているおばちゃんの運転するバンは荒涼とした景色が広がる山道を登り、途中どこかで道草を食いつつ、正午過ぎにはアルジェリアとの国境に近い山岳オアシスの村であるタメルザに到着した。北アフリカの先住民族であるベルベル人は紀元前から近世にいたるまで、海を渡ってくる侵略者から身を守るために地形の険しい内陸や南部などに住み着いてきたと言われている。タメルザ峡谷は、3つのベルベルの村がポイントとなっており、タメルザ村にはベルベル・テイストの最高級のホテルとして君臨するタメルザ・パラスが切り立つ山の上に建っているので宿泊する予定にしていたのだ。

タメルザのルアージュ乗り場からホテルまでの1kmを歩く道すがら、いくつかのベルベル系のオブジェを目にしながら酷暑の中、午後1時過ぎに命からがらタメルザパラスに辿り着いた。早速チェックインし、Standard roomが満室のため割高なContemporary Delux Double roomをTND495.000の大金で予約させられていた部屋にしけ込んだ。部屋のベランダからはごつごつの岩山とナツメヤシオアシスに囲まれたタメルザの旧村を見下ろすことが出来、またホテルの建物自体も周囲の景観に溶け込んだ作りと色合いになっているのだ。部屋のテーブルの上には「光の指」と呼ばれるナツメヤシの実であるデイツが皿に盛られていたので指を加えて見守る代わりに味見してみると甘い干し柿のようであった。

タメルザパラスの宿泊代に含まれるディナーはブッフェ方式で供され、宿泊客はそれぞれプール脇にセットされたテーブルでお腹に食い物をたらふくタメルゼという勢いで皆牛飲馬食に興じていたのだった。

5月2日(日)

軽く朝食を済ませた後、ホテルから続く階段を降りて旧ベルベル村の廃墟の探索と洒落込むことにした。すでに何人かの日本人ツアー客が入村し、写真を撮りまくっていたのだが、近くで見ると普通の荒れ果てたレンガの残骸地帯に過ぎないと思われたのも事実であった。

タメルザパラスをチェックアウトし、浮世離れした景観と豪華なホテルの内装に別れを告げ、タメルザの新村に向かって歩いていると羊飼いが多数の羊に急斜面を下らせながら放牧地帯に追いやろうとしている光景に遭遇し、山肌の茶色と白と黒の羊のボディのコントラストに思わず見入ってしまった。ルアージュ乗り場では昨日と同じおばちゃんドライバーが手ぐすねを引いているように待ち構えていた。おばちゃんは多くのベルベル友人たちと油を売りながら乗客が集まるのを待っていたのだが、一旦人数が揃い、出発するような素振りを見せたのはフェイントで近隣で荷物を下ろして元の場所に帰ってくるという小技を繰り広げながら時間だけが経過していった。何とかトズールへの帰路に就くことが出来たものの、おばちゃんの携帯電話は10分毎に呼び出し音を響かせていた。

トズールでは宿泊の手配をしていなかったため、ハラハラしながら高級ホテルの建ち並ぶツーリスティックゾーンを彷徨っていた。数あるホテルの中で一番高級そうな☆☆☆☆☆ホテルであるソフィテルパーム・ビーチ・トズールにアポなしで突入するとかろうじて空室があったので荷物を部屋に放り投げてトズールのメディナの散策に繰り出すことにした。

14世紀に造られたと言われているウルド・エル・ハデフ地区というメディナは砂と粘土を混ぜ合わせて造った日干しレンガの町なみが魅力的である。建物にはレンガを手前に引き出したり奥に引っ込めたりする伝統的な技術を使って、幾何学的な模様が壁に描かれているのが印象的で保守的な衣装を身にまとった原住民とすれ違うと数百年も昔にさかのぼったような不思議な感覚さえ覚えてしまうのだ。

炎天下のため、頭も適当にのぼせてきたのでカレーシュという馬車に乗ろうかとも考えたのだが、中年オヤジの加齢臭と馬の香りがマッチしないと思ったので、徒歩で撤収することにした。ホテルに帰る道すがらで数多くのツアー会社から夕暮れ四輪バギーツアーの勧誘を受けたのだが、トズールではフランス語でクアッドと呼ばれる四輪バギーで近隣の砂漠やオアシス、はたまた丸一日かけて、かのスターウォーズのロケ地を巡るツアーが人気を博しているのである。

5月3日(月)

早朝ホテルを出てツーリスティックゾーンからオアシスを抜け、ラクダ飼いがラクダに給水している様子を垣間見ながら15分程度歩くと巨大な南海キャンディーズのしずちゃんが腰掛けているシーンに遭遇した。近づいてよく見ると生身のしずちゃんが静かに佇んでいるのではなく、巨大な原住民女性のオブジェが睨みを利かせているだけであった。

ここはラス・エル・アイン展望公園で広場中央の小高い岩山に登ると緑豊かなオアシスや近隣のゴルフ場が一望出来ると同時に岩山自身にはトズール出身の偉大な詩人、アブール・カセム・シェビの顔が刻み込まれており、遠くから眺めるとまるでアメリカの歴代大統領の人面岩から構成されているマウント・ラシュモアと見紛えてしまうのだ。

砂漠ホスピタリティを提供するトズールの治安の良さを十分に堪能し、暑いのとハエがブンブンまとわり付いてくるのを我慢すればマサであっても十分暮らしていけることが確認出来、また、ナツメヤシのオアシスでも夏目雅子のような肌の露出は許されない事実を認識して納得したのでバスターミナルからトズールを後にした。

長距離バスで5時間程度走るとチュニスの南165km、周囲をオリーブ畑に囲まれた内陸部に位置する古都ケロアンに午後4時頃到着した。早速バスターミナルから南東に2km程歩くと高さ8m、厚さ2mを誇るメディナの城壁が姿を現した。グランド・モスクの尖塔をチラ見してメディナの周囲を一周しながら今日の寝床をハラハラしながら探していた。メディナから1km程離れた場所に☆☆☆であるオテル・コンチネンタルを発見し、何とか忍び込むことに成功したので荷物を置いて身軽になり、メディナに舞い戻ることにした。

ケロアンは7世紀にマグレブ征服(アラブ化)の目的でウマイア朝より派遣された、総督ウクバ・イブン・ナーフィにより建設された北アフリカにおけるイスラム発祥の地である。ここはイスラム世界ではメッカ、メディナ、エルサレムに次いで4番目に重要な聖都であり、ケロアンへの7回の巡礼は、メッカへの一度の巡礼に値するとまでいわれているのだ。

世界文化遺産に指定されているメディナの内部は白壁の家々が織り成す景観が美しく、人々の生活が息づいており、町を歩いているとジャパン、ジャポン、ジャパニ、がんばれニッポン、ジャッキー・シェン等、数多くの声援を浴びることになるのだが、ジャパネット高田は残念ながら浸透していない様子であった。メディナの家々には人間の手の形をした取っ手がインストールされており、その取っ手でドアをノック出来る仕組みになっているのだった。

5月4日(火)

フランス語でHを発音しないオテル・コンチネンタルをチェックアウトすると目の前にアグラブ朝の貯水池があったので軽く見学しておいた。中世世界で最高技術を用いて造られたこの貯水池は現在もケロアン市民の水源となっており、乾燥地帯の水不足解消に一役買っているのだ。

メディナに戻り、共通券(TND8.000、撮影料TND1.000)を購入し、いくつかの見所を回ってみることにした。640年、時の権力者ウクバ・イブン・ナーフィによって建立されたアフリカ最古のグランド・モスクは外観はいたってシンプルであるが、内部もそれなりにシンプルに見えた。しかし、中庭には大理石が敷き詰められており、ローマ・ビザンチンの遺跡から拝借した列柱が重々しい雰囲気で並び、中央には濾過設備を持つ雨水を貯めるための排水溝さえ装備しているのだ。

鳥を取り押さえていい気になっている猫にガンをつけて、ラクダが水をくみ上げる聖なる井戸であるビル・バルータに立ち寄った。ここはもともとは7世紀に掘られた井戸であるが、その周囲を囲むように、1676年にモハメッド・ベイが白いドーム状の屋根をもつ建物を建設した。一見モスクのような外観であるが、入り口から階段を上がった2階には、井戸と拉致されたラクダが待ち構えている。このラクダが井戸の周囲を歩くとロープで水がくみ上げられる仕組みになっているのだが、ラクダにとっては楽な仕事であるのではないかと思われた。

白黒縞模様が目に焼きついたガリアーニ霊廟をチラ見してメディナを後にすると市場をスルーして数多くの観光バスを集めているシディ・サハブ霊廟を見学することにした。ここはマグレブで最も美しい霊廟と言われ、壁、床、天井といたるところに見られる色鮮やかなアラベスク模様がそれを実感させてくれるのだ。

大規模なケロアンのルアージュステーションでチュニス行きのルアージュを捕まえて2時間程で首都チュニスに帰ってきた。チュニジアのルーブルとの異名をとるバルドー博物館は大規模な改修工事の真っ最中であったのだが、一部展示品を公開していたのでTND4.000を支払って突入した。ここでの見所は世界最大規模を誇るローマ時代のモザイクコレクションであるはずなのだが、あまりにも閉鎖中の展示室が多かったため、印象に残ったのはビートたけしが推奨するはずの「男には男の武器がある!」銅像のみであった。

世界文化遺産に指定されているチュニス旧市街はフランス門がメインゲートになっており、かつては門の両脇から城壁が延びてメディナを取り囲んでいたと言われている。門を通るとビクトワール広場に出てそこから先は夕方の買い物時の群集で押しくらまんじゅう状態になっているスークに繋がっている。スークは観光客用の土産物だけでなく、原住民が日用品を買うための重要な市場となっており、食肉や地中海で取れた新鮮な魚を売りつける生鮮食品屋も軒を連ねているのだ。

メディナの中央は巨大な広場となっており、チュニス最大で最高の聖地であるグランド・モスクや草サッカー少年を多数集めるほどの広大な敷地を持つ首相官邸等の箱物で占められている。午後5時前に何故かモスクからカラフルな鼓笛隊が出てきたと思ったら奴らは首相官邸の広場に掲げられている国旗を降納するためのセレモニーを行う要員であったのだ。

今夜はあらかじめ予約してあった街を見下ろす高台に位置するシェラトン・チュニスを予約していたのでハラハラすることなく過ごせると思ったのだが裏の仕事の電話会議に参加するためのブラックベリーが熟れすぎて腐ってしまい、電話が繋がらなかったのでもっとハラハラする羽目に陥ってしまった。

5月5日(水)

シェラトンからタクシーでチュニス・カルタゴ空港に移動し、午前11時30分発AF2185便の機上の人となった。エアーフランス機内で今風のマリー・アントワネット系のスチュワーデスに白ワインを注文したところ、赤ワインをいただいたのでそれを白ワインだと信じて飲み干したのだが、パリのシャルル・ドゴール空港のスター・アライアンスのラウンジで本物の白ワインを痛飲して溜飲を下げておいた。

午後8時発NH206便で成田に向かう機内ではサハラ砂漠に一人取り残され、真夜中に岡本真夜のAloneを熱唱するというアクティビティが出来なかったことを後悔し、真夜よろしく♪カードがぁ も~ないから~♪とうそついて電話会議への参加をキャンセルすべきではなかったかと悩んでいた。

5月6日(木)

NH206便は定刻通り午後2時40分に成田空港に到着。涙の数だけ強くなった自分を実感し、みずほ銀行の支援を受けているはずの井上真央の巻き返しに期待しながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥197,870

総宿泊費 TND1,235.000 (TND1.000 =¥67)

総鉄道代 TND25.450

総バス代 TND15.570

総タクシー代 TND10.000

総ルアージュ代 TND10.340

総TGM代 TND1.450

総メトロ代 TND0.800

協力

ANA、STARWOOD

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