4世紀から綿々と続くキリスト教の優等国エチオピアに第2のエルサレムが存在するという。貧困というイメージにとらわれがちなエチオピアは実は想像を超える精神世界に支えられており、その宗教的偉業をこの目で確かめるために今回は久しぶりに東アフリカの大地に戻ってくることとなったのだ。
2012年4月17日(火)
4月に更新されたアップグレードポイントを使ってビジネスクラスへの成り上がりを果たしたNH209便は定刻11:25に成田を出発し、約12時間のフライトで午後4時半過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。そそくさとドイツへ入国したのも束の間でエチオピア航空が運航する22:05発ET707便に乗り込むと3列席に寝転がって機内で7時間の夜を過ごすこととなった。
4月18日(水)
ET707便は定刻通り午前6時過ぎにエチオピアの首都アディスアベバ国際空港に到着したのだが、すぐさまArrival ViSAを求める長い列に並ばなければならなかった。約1時間で無事に観光VISAを入手し、晴れてエチオピアへの入国を成し遂げると手持ちの50ユーロを現地通貨のブルに両替すべく両替所で手続きをすると1135ブルもの大金を渡されたため、思わずブルってしまった。
空港のビルを出て市街地への交通手段を物色していると黄色や青の車体のタクシーを尻目に安そうなミニバスが走り回っていたのでアディスアベバの銀座と言われるピアッサに行く便に乗り込みエチオピア人と一緒に空港を後にした。多少ボラれているのは確実であるが、ボラれるのが気にならないほど安いミニバスがピアッサに到着すると、そこには銀座と呼ぶには気が引けるほどの混沌の世界が広がっていた。
排気ガスと埃と小便臭が漂う目抜き通りには路上就寝者が散見され、主要産業であるはずの靴磨きや物乞いからひっきりなしに手が差し伸べられる状況にインドやバングラデシュに匹敵するカルチャーショックを覚えたのだが、2300mを超える高地ではまとわりつくような暑さを感じなかったため、気が付くとすんなり現地に溶け込んでしまっていた。
ピアッサの上空にそびえるメネリクII世像の背後に聖ギオルギス教会が鎮座していたので敷地を歩いていると原住民が近づいて来てチケット売り場のご案内等の話を始めたので用心のため、その場を退散することにした。
高台にある聖ギオルギス教会の敷地を出て道を下っているとスカッと爽やかとは思えない巨大なコカコーラの廃れたキオスクに遭遇した。建設中の中層ビルの足場は木材で組まれており、その下をロバ使いに忠誠を誓っているはずのロバの集団が整然と歩いていた。チャーチル通りという目抜き通りを下っていると何故か事故車の展示会場のような催し物が目に付いたのだが、これはとある保険会社の恐怖広告であることが確認された。
国立劇場そばの変な形のライオン像を一瞥し、さらに歩いているとバスターミナルを併設したラガール駅に到着した。駅構内は閑散としており、のどかな線路周辺の景色は滅多に列車がやってこない事実を如実に物語っていた。
格安ホテル予約agodaでエチオピアのホテルを物色した際にアディスアベバのヒル・シェラトンといった高級ホテルしかヒットしなかったので今回はANAのマイルキャンペーンもやっているHotels.comで☆☆☆のダム・ホテルを予約していたのだが、表示された地図が実際の場所とは異なっていたのでしばらく町中を彷徨う羽目に陥ってしまった。町中でヤギを放牧しているおじさんに聞くとタクシーで行けと言われたのだが、方向感覚がかなり醸成されてきたので引き続き歩を進めることにした。昼過ぎに何とかダム・ホテルを探し当てることが出来たので近くのスーパーマーケットで買ったビールを痛飲するとダムの底を目指すように一気に眠りに落ちてしまった。
4月19日(木)
目覚ましを早朝4時半にセットしていたにもかかわらず4時前に覚醒すると昨夜は姿を現さなかった無線LANのアンテナ表示がかろうじて1本立っていたのでネットで所用を済ませると5時前にフロントギャルをたたき起こしてチェックアウトの手続きをしていただいた。空港までタクシーの手配をしなければならないのだが、電話が繋がらないようで「何で昨日のうちに言ってくれないのよ」という不満を聞き流しているうちに門番のおじさんが首尾よくタクシーを調達してきた。
空港のセキュリティは厳重で搭乗者であろうとも検問で身分証明書と航空券の情報を提示しないと空港ビルにさえ入れない仕組みになっていた。ET124便は定刻7:00にアディスアベバ空港を離陸すると、バスでは約2日かかるところをわずか1時間のフライトでエチオピア第3の町であるゴンダールに到着した。空港からゴンダールの町まではそんなに距離はないだろうと高をくくって歩き始めたのは良いのだが、道行くタクシーからゴンダールまでは24kmあるぜ!と忠告を受けたため、近隣の町でミニバスを拾うことにした。
1636年にファシリデス王によってエチオピアの首都と定められてから1864年までの2世紀にわたって首都であったゴンダールに到着したのは10時を回った頃であったろうか?早速最大の見所であり世界文化遺産に登録されているゴンダール城(100B)の見学になだれこむこととなった。
ゴンダール城内には標高2300mのファシルケビの丘に建てられた6つの城と12ヶ所の城門が残されており、アフリカのような文明とは程遠い地域に中世ヨーロッパと紛う城塞があったため、後世になって「不思議の城」と呼ばれるようになったという。城はポルトガル・フランス様式を取り入れた建築で、はっきりとはしていないが、インドの建築家により建造されたとも言われている。
ゴンダール王朝を治めた王たちは開祖のファシリデス王を始め、ヨハンネスI世、イヤスI世、ダーウィットIII世等、何世代かに渡るのだが、それぞれの王は先代の宮殿を使用することはなく、自分の趣味に合わせた施設や宮殿を建設したためにこの地に多くの城が残されているのだ。
尚、1941年にゴンダール城を占拠していたイタリア軍を追い出すためにイギリス軍が爆弾を落としやがったためにほとんどの城は廃墟となったのだが、4つの丸い塔が印象的なファシリデス王の城だけは無傷で原型をとどめているのである。
正午を回ったところでゴンダール城の見学を切り上げるとHotels.comの検索にもヒットしなかったゴンダールのホテルを物色するために町中を練り歩くこととなった。この町にはミニバスの他に三輪車のトクトクも走り回っており、何となくアジアの風情も感じさせられるのだが、みすぼらし系の制服を着た小学生は皆元気な笑顔にあふれていた。
結局ゴンダール城の近くのLODGE DU CHATEAUが何となく雰囲気が良さげだったので$35を支払ってしけ込むことにした。当宿の中庭の木にはカラフルな鳥たちが代わる代わる姿を現し、そのさえずりに癒されながら午後のひと時を過ごさせていただいた。
体力も回復したところでゴンダールにある44の聖堂のうち、1800年代の南スーダンからのイスラム勢力との争いにも屈せず唯一残ったオリジナルの教会であるダブラ・ブラハン・セラシエ教会(50B)に礼拝に行くことにした。17世紀、イヤス王により建立されたエチオピアで最も有名なこの教会の外観は質素であるが、聖堂の上の十字架はゴンダールの十字架と呼ばれている由緒正しいものである。
教会内部全面を彩る壁画はオリジナルの色彩のまま残っており、天井に無数に描かれたエチオピアの天使は目が大きく顔の横に羽が生えている。体がない理由はこの天使が聖ヨハネの象徴であるからだ。イエスに洗礼を受けた聖ヨハネであったが、美しい娘サロメが養父ヘロデ王に踊りの報酬として聖ヨハネの首を願い、ヘロデ王はヨハネの首を切りやがったのだが、聖ヨハネは首を切られてもなお50日間の間、首だけで飛んで伝道活動をしたという逸話からエチオピアの天使は顔の横に羽を持っているのだ。
エチオピアの天使に見送られてダブラ・ブラハン・セラシエ教会を後にすると夕飯時が迫っていたので、ゴンダールでは高級の部類に入るはずのFour Sistersというレストランで空腹を満たすことにした。とりあえずビールとエチオピアの郷土料理を発注したのだが、付け合せのパンの色が使い古しの雑巾色であまりにも酸っぱかったので3ロールの内の1ロールしか食することが出来なかった。尚、酢のような酸味は意図的に付けられたものであり、ワッフルのようなパンの食感だけは悪くなかったと言えよう。さらにエチオピア特産のハチミツ酒がサービスで提供されたのだが、これもほろ甘い泡盛のような独特の味だったので完飲には至らなかったのだ。
4月20日(金)
夜も暗いうちからアザーンの轟音で叩き起こされると、目の前の教会からは永遠と続く祈りの声が響き始め、この国の信仰心は半端ではないことを思い知らされるに至ったのである。7時半に宿の2階のテラスでホットハチミツをなすりつけたパンケーキとエチオピアコーヒーの朝食をいただくと軽く朝の散歩と洒落込んだ。
町中は早朝礼拝の名残が残っているものの徐々に活気を見せ始め、牛やヤギも草を求めて路上を練り歩いていた。10時過ぎに宿所属の空港への送迎ワゴンに乗り込むと30分程度でゴンダール空港に到着し、予定の飛行機が早めに出発したために午後1時前には次の目的地に到着する運びとなった。
今回のツアーのハイライトであるラリベラは辺りを高山に囲まれた山村風情の田舎町であるのだが、エチオピアで最初に登録された世界文化遺産である岩窟教会群は4世紀から続くキリスト教国エチオピアのシンボルとして君臨しているのだ。
ラリベラ空港に到着すると、到着口には数々のホテルが長机の上に客引き看板を出しており、私の宿泊予定宿のLAL HotelもFree Shuttleの案内を出しながらも担当者不在の状況であった。そこで隣のホテルの兄ちゃんに問い合わせたところワゴン車に乗せられて無料でLAL Hotelまで送ってもらえるような雰囲気を漂わせながら空港を後にした。ワゴン車では観光客は私だけであとは空港に参集していた原住民が数人乗っていたのだが、兄ちゃんにLAL Hotelはツアー会社による予約なのか飛び込みなのかを聞かれたのですでに予約していると答えたところ、いきなりその車は送迎車からタクシーに変貌を遂げ70Bを払わなければならなくなってしまった。
何はともあれ30分程でホテルに到着すると受付の若者がすぐに「教会に行くのは今日かい?」と質問を投げかけ、さらにガイドを売り込もうとしたので教会巡りは明日の予定だと答えてはぐらかせておいた。とりあえず町の様子を確認するために外に出てみたのだが、町行く原住民から郷ひろみでもない私に対してひっきりなしに「ジャパン!」という声援が浴びせられるのもお約束の一つととらえていた。さらに、私の風貌にジャッキー・チェンの幻影を見出した輩は「俺と戦え!」と挑みかけてくる始末であったが、人々は総じてフレンドリーなのである。
町の頂上に唯一の銀行があったのでそこで手持ちのUS$をいくらかのエチオピアブルに両替してもらい、金銭面の不安を払拭することに成功した。また、エチオピアではエイズの感染者が多いためかHIVに対する注意を促す看板も見受けられた。青少年の娯楽は粗末なボールを使った草サッカーか路上卓球のようであるが、スマッシュを決めたときに発する「サ~!」という掛け声を教えるのは控えておいた。
岩窟教会は一枚岩を堀抜いて作られており、保護のためのブリキの屋根で覆われているため遠目からでも場所を確認することが出来るので、岩盤を登ってラリベラで一番大きい聖救世主教会を見下ろして明日の礼拝の予習とした。教会の傍では敬虔な信者が聖書を熟読しながらひっそりと佇んでいた。
原住民が住む家は教会周辺から郊外まで広く点在しているのだが、教会の頑強さとは裏腹に土レンガや泥壁で塗られたような極めて質素なものであった。また、ユーティリティも蝋燭や薪や雨水等の自然の恵みを存分に活用している様子であったのだった。
4月21日(土)
マサよ、君は巨大な岩さえもくり抜いて次々と教会を造ってしまうエチオピア正教の真髄に恐れ入ったことがあるか!?
ということで、早朝9時前にホテルを出て教会群見学のチケットオフィスで350Bを支払って4日間有効のチケットを入手すると、まずは質素なミュージアムで古い聖書と司祭の衣装、十字架等の展示品を見学させていただいた。ちなみにラリベラの由来であるが、12世紀初頭にアクスムという地からこの場所に遷都したラリベラ王が、当時聖地エルサレムへの道がイスラム教徒に占領されたことにより巡礼が困難になったため、この地に第2のエルサレムを造り上げ、その王の名を取ってラリベラと呼ばれるようになったのだ。
ラリベラの主要な岩窟教会群は第1、第2、第3グループから成るのだが、まずはチケットオフィスに一番近い第1グループの聖救世主教会から巡礼させていただくことにした。長さ33.7m、奥行き23.5m、高さ11.5mとラリベラで一番の大きさを誇る聖救世主教会は、窓に特徴があり、上部の窓はアクスム様式で下方がギリシア様式の十字架様になっている。
靴を脱いで内部に入ると絨毯越しに岩のゴツゴツ感が感じられ、暗い中で聖書を読み耽っている聖職者と中に飾られている宗教画を見ていると何人も犯すことが出来ない神聖な雰囲気がひしひしと伝わってくるのである。
狭い岩穴通路を抜けると町の信仰を集めている聖マリア教会が出現した。教会の脇には洗礼をするために使う水を貯める穴があり、片隅には観光巡礼者に十字架を売りつけようと隙を窺っている児童が目を光らせていた。
聖マリア教会を退出し、高台から観光巡礼者の集団を見送りながら第1グループ教会群の狭い通路を下っていった。数ある扉や岩窟の前では相変わらず聖職者がはべっており、彼らは観光客が通るのを気にする様子もなくお祈りや聖書の熟読に勤しんでいた。
今日は土曜日ということで、広場に町中の人が参集し、農産物や衣類、日用品等を取引するサタデー・マーケットが開催されていた。広場は大量の原住民が広げる産物でマサに足の踏み場を見つけるのも難しい程の盛況でエチオピア正教とは一味違うラリベラの一面を垣間見ることが出来た。
マーケットに程近い小道を下り、宗教画を展示販売している小屋を過ぎると崖っぷちに参集している人々の向こうに巨大な石の十字架が姿を現した。岩窟教会群第3グループ唯一の教会である聖ギオルギス教会にまつわる伝説は、ラリベラ教会群建設が終盤にさしかかっていた頃、白馬にまたがり戦いの鎧に身を包んだ聖ギオルギスがラリベラ王に望んで「私の教会はどこだろうか」と尋ねたところ、ラリベラ王は彼に最も美しい教会を建立することを約束したといわれている。
岩盤に掘られている狭い通路を通って高さ12m、奥行き12m、幅12mの正十字形の教会の入口に辿り着き、別名「ノアの方舟」と言われる聖ギオルギス教会の威厳ある外観を息を呑んで見上げていた。教会内部は柱がない彫り貫き状態となっており、常駐している司祭は手にしている十字架の角が教会のどの角に相当しているのかを説明し、積極的に写真撮影にも応じてくれたのだった。
残る第2グループの教会群を見学するために再び坂を登り、聖ガブリエル・聖ラファエル教会の入口に辿り着いたのだが、扉が閉ざされていたため、岩盤の上を歩き回って聖エマニュエル教会を見下ろす位置まで移動した。この教会は第2グループの中では最も美しいと言われており、上から見ると岩を掘り抜いて造られたのだということが良くわかるのだ。
正午になると教会群が一旦しまってしまうのだが、聖エマニュエル教会も団体巡礼者の記念写真の撮影を持って扉を閉ざしてしまった。ホテルに戻る道すがらではサタデーマーケットでの戦利品を携えた原住民が意気揚々と帰路に着いていた。
午後2時くらいまでホテルで休憩した後、再び第2グループに戻ると聖ガブリエル・聖ラファエル教会の扉が開いていたので遠慮なく入会し、中に飾られている宗教画をじっくり見学させていただいた。
長さ20mほどの長く暗いトンネルを懐中電灯の明かりを頼りに慎重に歩き、地上に這い出ると聖マルコリオス教会に到着した。内部をちら見して下に続く階段を下りると目の前に午前中に見下ろした聖エマニュエル教会が立ちはだかっていた。
靴を脱いで聖エマニュエル教会の中に入り、絨毯に巣食うダニやノミや南京虫に注意を払いながら、神に救いを求めた。尚、教会内部は太陽光がほとんど差し込まず、湿度が高いのでこれらの虫にとっても天国となっているものと思われた。
狭い通路を通って聖アバ・リバノス教会に辿り着いた頃に夕立が激しく降り始めたのでしばらく雨宿りをしなければならなかった。教会内部は大勢の観光客が占拠していたので中に入れなかったのだが、教会を保護するブリキの屋根のおかげで濡れ鼠になるのを免れた。なるほど、強い日差しや激しい雨から教会の侵食を防ぐためには景観を犠牲にしても屋根が不可欠であることは確かなようであった。
4月22日(日)
日曜日はミサが行われる日であるが、早朝から厳かな雰囲気をたたえた町に繰り出すとおびただしい数の礼拝服をまとったエチオピア正教の信者であふれかえっていた。
聖ギオルギス教会の十字架を取り巻く崖っぷちも白い模様で彩られているように見え、マサに世界的に類を見ない宗教シーンが目の前に広がっているのであった。
信者でない私ごときがミサを見させていただくわけにはいかないと思ったのだが、果敢にも下に下りて教会周辺を歩いていると「ジャパ~ン」という声援も心なしか控えめになっているように感じられた。
聖救世主教会に続く広場ではマイクを使った神父による大々的な説教も行われており、信者の間を縫うようにして聖マリア教会に達するとそこでは何がしかの婚礼の儀が行われているようで独特の盛り上がりを見せていた。
早朝礼拝を終えると午前10時にLAL Hotelを出発する送迎マイクロバスに乗り込み、無償でラリベラ空港まで送っていただいた。正午過ぎに飛び立ったET123便は1時間程度のフライトで大都会アディスアベバに舞い降りた。徒歩およびミニバスでピアッサまで移動し、人ごみの中を歩いているとここでの私に対する声援は「チャイナ!」というものが支配的になっていた。
高台の大通り沿いにあるソランバ・ホテルという多少高級感のあるビジネスホテルにチェックインするとエチオピアに来て初のバスタブに身を沈める欲求を抑えて町に出ることにした。アディスアベバから90km程離れた村にTiyaという一枚岩の墓石群を擁する世界遺産があり、バスで到達可能だということだったので長距離バスターミナルにバスを物色しに行ったのだが、行き先の看板は英語表記ではなく、すべてエチオピアの公用語であるアムハラ語であったのでバスでの小旅行は断念せざるを得なかった。
バスターミナルの向かいにマルカートという東アフリカで最大の規模を誇る大市場が迷宮への入口を開いていたのだが、外国人観光客がガイドなしに紛れ込んだら出て来れないと物の本に書かれてあったので深く侵入することは控えていたのだが、アディスアベバの秋葉原に相当する道端では電子機器を解体して得られた電子部品が青空の下に広げられていたのだった。
エチオピアの宗教はエチオピア正教に代表されるキリスト教だけでなく、イスラム教も大勢力を誇っているのだが、それを証明するかのように巨大なモスクもここかしこでミナレットを天に差し向けていた。
4月23日(月)
エチオピアのホテルでの伝家の宝刀である停電に何度か遭遇したものの、部屋の前の大通りを通る車の毒々しいクラクション音もなかったのでこの国には混沌とした中にも秩序があると思いながら一夜を過ごした。
今日は早朝より国立博物館(10B)に入館してエチオピアの歴史について学習させていただこうと考えていたのだが、2階の美術品と3階の民俗学のコーナーが閉鎖されていたので考古学の分野を中心とした調査に絞らざるを得なかった。ところで、人類発祥の地はアフリカであり、アフリカ人からすると他の民族はすべて子孫であるという位置づけになるのだが、その事実を誇示するかのように人類学のコーナーの展示は充実している。
中でも1974年にエチオピア北部の村で発掘されたアウストラロピテクスのルーシーは320万年前の二足歩行の原人の化石人骨として独立したコーナーで多くの考古学ファンを引き付けていた。
国立博物館ではエチオピア民族の解明には至らなかったので近くにあるアディスアベバ大学メインキャンパスに侵入して内部の民俗学博物館(50B)でリベンジする運びとなった。建物はかつてハイレ・セラシエ皇帝の宮殿であったので皇帝の寝台やトイレ等の生活感も残っている。
展示品はエチオピア各民族の民具や衣装、楽器等多岐に渡っているのだが、コーヒーのルーツであるエチオピアのコーヒーセレモニーという客をもてなすときの代表的な習慣に使われる道具が非常に興味深かった。
宗教画のコーナーではキリストにまつわる様々な出来事が漫画チックに描かれており、ヨーロッパの教会等で見られるフレスコ画の厳かな絵とは一味違った宗教の世界を垣間見せてくれるのだ。
アディスアベバ大学を出学してエチオピアで最も大きい三位一体教会(30B)に参拝することにした。この教会は先のハイレ・セラシエ皇帝により、第2次世界大戦直前の対イタリア戦勝利を記念して1941年に建立された比較的新しいものである。尚、近くに政府の建物があり、そちらの方にカメラを向けるとカメラを没収されるので心技体を集中して余計な物が写りこまないように注意しなければならないのだ。
ソランバ・ホテルに戻り、何気なくベッド横の引き出しを開けるとエイズ対策に力を入れているお国柄のためか、コンドームが2箱入っていた。しかもそのフレーバーはコーヒー味であったので、コーヒー発祥の地としてのプライドがこんなところにも込められている現実にかすかな興奮を覚えてしまった。
4月24日(火)
早朝朝飯も食わずにソランバ・ホテルをチェックアウトし、長い下り坂を下り終えたところでミニバスに乗り込んで空港を目指した。アディスアベバ空港の免税品店で500gのエチオピアコーヒーを$6で購入すると10:00発ET706便に乗り、7時間半もの長時間を機内で過ごしていた。
フランクフルト国際空港に着いたのは午後5時前だったので空港に乗り入れている近距離鉄道に乗り込み、フランクフルト中央駅へ向かった。駅前にあるダ・ヴィンチをモチーフにしたホテル・レオナルドにチェックインすると近くの台湾料理屋でドイツ・ビールと日本食も含むビュッフェで満腹感を味わった後、早めに就寝させていただいた。
4月25日(水)
11:55発NH209便の機材はANAとボーイングが共同開発し、通常ではありえない3年遅れで納品となったB787-8機であった。B767の後継機となるはずの中型機である同機のエコノミークラスのシートアレンジは2列、4列、2列であり、中央4列席の通路側の33D席に陣取った私には特に狭さを感じることなく快適なフライトとなった。
4月26日(木)
午前6時過ぎに羽田空港に着陸した際に窓際の33A席の頭上の通気孔から水滴が漏れ、客がCAに文句を言っていたのだが、東レのカーボンを機体に採用し、錆びに強いために機内湿度を高めに設定出来るメリットを享受出来るために多少の水滴くらいは我慢しやがれ!と思いながら水滴が流れるように流れ解散となった。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥51,030 、エチオピア航空 EUR806.33
総宿泊費 ¥39,266、$35
総エチオピアビザ代 $20
総タクシー代 420B(1B = ¥4.6)
総ミニバス代 19.1B
総フランクフルト鉄道代 EUR8.2
協力 ANA、エチオピア航空、Hotels.com、agoda