1987年7月、私の初めての海外旅行先はニューヨークだったのだが、大韓航空の格安チケットを購入していたため、ソウルにストップオーバーされる憂き目に遭ってしまい、韓国が私の世界進出の第一歩として刻まれてしまっていた。さらに1989年9月、当時面倒を見てやっていた大和証券青森支店の同期の山田君を従えて韓国に乗り込み、東京国際大学を優秀な成績で卒業したはずの奴の英語力を頼りにソウル市内を闊歩していた。
その後21年が過ぎ去った今、韓国は経済でもスポーツでも日本を凌駕する強国に成り上がって来たのでその実態を体感し、日本の未来に活力を取り戻すための魂を得るためにソウルに舞い戻ることに相成ったのだ。
4月3日(土)
午前8時20分発NH1291便は定刻どおり羽田空港を出発した。2時間程度を機上で過ごしながら、トリプルアクセルの基礎点を上げてもらえるようにスケート連盟に抗議したくなるような感覚が強くなってきた頃、キム・ヨナ中心に世の中が回り始めているソウルの上空に差し掛かった。するとほどなくしてハイジャックされたよど号もおどおどしながら着陸した実績のある金浦国際空港に午前11時前に到着したニダ。早速地下鉄に飛び乗り、1時間以上の時間をかけて美しい城郭が残る町である水原(スウォン)に向かった。水原駅前の観光案内所で地図を入手した後、世界遺産に登録されている華城に向かう途中で猪八戒よりも強そうな考える豚に睨まれてしまったニダ。
李朝22代国王の正祖が造営した城郭都市である華城(W1,000)は、正祖が政争の犠牲となって死んだ父の墓を水原に設営したついでに墓所の近くに都を移そうと血迷って建設された代物である。城は優美な姿に造られ、レンガの製法に西洋の手法を取り入れたりもしているのだが、結局遷都は中止されて城郭だけが残り、その後荒廃してしまった形で後輩に受け継がれているのだニダ。
出来上がった城郭は当時の漢城(ソウル)よりも立派で、外敵に対し効率的に攻撃出来る軍事施設を備えているのみならず各所に優雅な外観が取り入れられているニダ。華城は周囲5.7kmの城郭でぐるっと一周すると3時間程かかるのだが、都になり損ねた悲哀を魂に刻み付けるために最高地点の八達山(143m)から下界を見下ろしながらウォーキングをスタートさせた。
水原華城の見所は各所に設けられた門であり、華城四大門の北門で事実上華城の正門である長安門は朝鮮戦争時に門楼が焼失したが完全な形で復元されているニダ。門には鮮やかな装飾が施されており、ユニークな鬼たちが道行く観光客を見下すようにほくそ笑んでいるのだった。尚、歩くのがおっくうな輩のために華城内を周遊する乗り物が竜の先導で運行されているので後期高齢者であっても安心して観光に励むことが出来るのだニダ。
Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればW120,000くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Innホテルを探すために適当な駅で地下鉄を降りてソウル市内を彷徨っているといよいよ道がわからなくなってしまった。場所を特定するためにホテルに電話をかけたのだが今いる地点の場所を説明出来なかったので道行く人に電話を代われと言われてしまった。ということで、とあるローカルコンビニに飛び込み、休憩中のレジで麺をすすっているおばちゃんに麺をすするのを止めさせて電話で話セヨとお願いした。
何とかタクシーを捕まえ、さらにタクシーの運ちゃんにも電話対応セヨと脅迫する代わりにチップをはずんで遂にHoliday Inn Seongbukに辿り着く事に成功したのだが、道行く人のサポート体制がしっかりと整っているのが韓流であることを思い知らされたのだニダ。
4月4日(日)
Holiday Inn Seongbukが運行するシャトルバスで明洞に移動し、地下鉄で昔ながらのソウルの街並みが残る鐘路・仁寺洞(チョンノ・インサドン)に向かった。この地域はソウル中心部の北側に広がっているのだが、2つの世界遺産が君臨しているので満を持して見物させていただくことにした。
マサよ、君は吉本系のギャグを巧みに操る韓国人日本語ガイドの案内で「エンタの神様」が打ち切られた心のすきまを埋めたことがあるのは「私だけ」でしょうかニカ!?
ということで、地下鉄3号線安國駅3番出口から徒歩5分のところに世界遺産に登録されている華麗な離宮である昌徳宮(チャンドックン)がおびただしい数の観光バスを停車させているのでW3,000を支払って10:30からの日本語ガイドツアーに参加することにした。入り口付近にはHISの旗を目印に参集してきた格安であるはずのガイドツアー参加者を中心に数多くの日本人がひしめきあっていた。
すると軽めの防寒ルックに身を包んだ普通のおばさんがマイクを使ったアナウンスで昌徳宮に入場するにあたり、あらかじめチケットを切り離しておくようにと依頼すると同時に「日本ではあり得ないことだと思いますが・・・」とつぶやきやがった。この一言で日本人観光客がこのガイドはただ者ではないという雰囲気を感じ取った後、ついにガイドツアーの火蓋が切って落とされたニダ。
昌徳宮の正門である敦化門をくぐり、20年後のだいたひかるを彷彿とさせる笑いの暴走自転車系ガイドは参加者が集合してくる間に「皆さんが集まるまでイライラしないで待ってください。イライラしてもわたしほどではないでしょうから・・・」と淡々とした口調で冗談を言いやがった。
昌徳宮は李朝3代国王の太宗が1405年に建てた宮殿で始めは離宮として創建されたのだが、後に王たちが居住しながら実質的な法宮の役割を果たした由緒正しい場所である。さらに昌徳宮は人為的な構造に従わず、周辺の地形と調和を成すように建築され、最も韓国的な宮廷という評価を受けているニダ。
だいたひかるの説明によると王の執務室として使われた宣政殿の高級青瓦は韓国の大統領府である青瓦台と同じ瓦が使用されており、マサに見事な光沢を放っていたのだった。また王の日常生活の場であった熙政堂の屋根のオブジェは西遊記を表しており、夏目雅子風の三蔵法師に先導された孫悟空、沙悟浄、猪八戒等が膝まづいている様子が遠巻きに確認出来た。
昌徳宮の観光を終え、エンタの神様が終わってもだいたひかるの将来が安泰であると思われたので、別のテレビ局に移動する勢いでその隣の昌慶宮(チャンギョングン)になだれ込むことにした。道行く途中で冬のソナタの撮影地を示す看板があったのだが、だいたひかるが代打で出演しているわけでもなかったので無視することにした。
昌徳宮の東にある王宮である昌慶宮(W1,000)は李朝4代国王世宗が父親の太宗のために建てた寿慶宮が前身となっており、一時荒廃の憂き目にあったのだが、第9代国王成宗が当時の3人の皇后のために宮殿を建て、以来昌慶宮と呼ばれるようになったのだニダ。
昌慶宮の正門の弘化門は東に面しており、続く正殿の明政殿も正面が東に面しているのが特徴になっているとのことである。何故なら普通王宮の正殿は南を正面に造られているからだ。何はともあれ、広い敷地内には多くの樹木が生い茂り、かつ大温室もそなえているのでのんびりと散歩を決め込むには絶好の場所だと思われた。
昌慶宮をくまなく探索し、道路を跨いでいる橋を渡るといつのまにか宗廟(世界遺産)に紛れ込んでいた。李氏朝鮮歴代国王とその妃の位牌を祀っている宗廟は毎年5月に行われる宗廟祭が有名で王の末裔にあたる全州李氏一族が集まり、雅楽が響く中、厳かな儀式が執り行なわれることになっているニダ。
4月5日(月)
昨晩の宿泊地で白蓮山の麓にあり、豊かな緑に囲まれたリゾートタイプのホテルであるグランドヒルトンからホテルのシャトルバスに乗り、明洞近辺で下車すると都市の緑を保ってきた歴史と文化の香り漂う森である南山公園へ這い上がることにした。南山はソウル中心部に位置したソウルの象徴で、本来の名前は引慶山であったが朝鮮太宗李成桂が1394年に都を開城からソウルに移して来てから南にある山だと言って南山と呼ぶようになったのだ。南山公園内に千円札の帝王である伊藤博文を暗殺し、韓国で英雄扱いされている安重根義士祈念館がリニューアルのため閉館になっているという驚愕の事実に直面してしまったため、安重根の銅像にどうぞ~よろしくという感じで財布に控えていた野口英世の肖像画を見せつけて溜飲を下げることにした。
標高265mの南山の頂上に高さ約230mのソウルタワーが天を突き刺すようにそびえている。ソウルタワーにはケーブルカーと言う名のロープウエイで登ってくることが出来るのだが、私は恒例の徒歩ですでに辿り着いていた。タワー展望デッキの欄干に願い事を書き込んだ無数の南京錠がかけられているのを発見したのだが、私もついでに子供手当の財源を消費税の増税なしに確保セヨと願をかけておいた。
南山公園から下界に降り、しばらく歩いていると21年前に山田君と共に練り歩いた梨泰院(イテウォン)に舞い戻っていた。この場所は米軍基地に近いため、外国人が集まるインターナショナルな町として毒々しい雰囲気を醸しだしていたのだが、今ではすっかり毒抜きされたおとなしい町に成り下がっているようだったので近くの飯屋で海鮮粥とチヂミを朝鮮人参茶で流し込んでとっとと撤収することにした。
南大門市場(ナムデムンシジャン)に行けば何でも揃うと聞いていたので買う気もないのに立ち寄ってみることにしたのだが、あまりの人の多さに買う気がそがれてしまったため、2008年の火事で燃え尽きてしまった南大門に非難することにした。正式名称を崇礼門(スンネムン)という南大門は漢城四大門のひとつであり、ソウルに現存する最古の木造建築で、国宝第一号にも指定されている。しかし今では再建のための覆いで隠されており、その雄姿が回復するのは数年待たなければならないものと思われるニダ。
ソウルを代表する繁華街である明洞(ミョンドン)を歩きながら一向に回復しない日本の景気を嘆いていると何故かIKKOがほめる化粧品の看板に遭遇してしまったのでこいつのせいだと割り切ってソウルの魂に身を浸して見ることにした。歩行者天国になっている明洞エリアは月曜日にもかかわらず若い男女で溢れかえっており、各ショップからは韓国語だけでなく、日本語の呼び込みもこだましていたのだった。
明洞の喧騒を避けるように地下鉄で金浦国際空港に戻り、午後7時30分発NH1294便羽田行きの機上でキム・ヨナはソチオリンピックはそっちのけでプロに転向するはずなので次回のオリンピックでは浅田真央の金メダルは確実だと安心しながら帰路に着いた。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥27,140
総宿泊費 W224,153
総地下鉄代 W6,600
総タクシー代 W10,000
協力
ANA、Priority Club、HiltonHHonors