マサよ、君は南極遠征に参加するためだけに将来の社会復帰の可能性の難局を恐れずに長年勤めた会社を辞職した勇者を知っているか!?
・・・私だよ・・・
ということで、南極ツアーを催行するためには通常の会社勤めの輩にはかなわない最低2週間以上の休暇が必要になるわけだが、それを強行するためには、時として自分の将来にふりかかるリスクを省みない勇気を振り絞らなければならない。このたび自らの意思でそのような境遇を設定することに成功し、FTB史上最大のアドベンチャーがついに実行に移されることと成ったのだ。
1月13日(木)
午前11時10分発のNH2便ワシントンDC行きは定刻どおりに出発し、同日の午前10時前にはワシントン・ダレス空港に到着した。実は現職を辞職した早々にもかかわらず私の有り余る野望と才能を求めてB社の最終面接がその本社のペンシルバニア州で設定されてしまっていたために、午後12時40分発UA7817便アレンタウン行きに乗り継ぎ、さらに迎えのハイヤーに乗り込むと3時過ぎにはB社に到着する運びとなった。
B社ではPresident兼CEO、HRの副社長、とある事業部長の副社長の3名と面談し、いかに私がマサのような財務官僚を凌駕するほど優秀であるかという印象を植え付けることに成功し、午後5時半に迎えに来たハイヤーに乗り込み意気揚々と空港への帰路に着いた。アレンタウン空港に着いたのは午後6時半頃でここからB社が手配しておいた午後8時発のワシントンDC行きの便に乗り込めばつつがなくブエノスアイレス行き午後10時4分発UA847便に乗り継げるはずであった。
ハイヤーの運転手が私を空港に送り届けた大仕事を終えて帰路に着き、私はそのままUAのカウンターに向かったのだが、ここで驚愕の事実が突きつけられてしまった。何と搭乗予定のUA7818便は2時間以上の遅れを出す予定で、この便に搭乗するともはや予約していたブエノスアイレス行きの便に乗り継ぐことが出来ない。時刻も7時近くになり午後10時4分発の便に間に合わせるためにはタクシーかレンタカーを飛ばしてワシントン空港に辿りつくしか道が残されてなかった。田舎の空港でタクシーが首尾よく捕まらなかったためにハーツでレンタカーを借り、地図も持たずに勘で車を走らせているといつのまにかあらぬ方向にひた走っていたようだった。
3時間程無駄道を走ってしまったようで、ブエノスアイレス行きの便はすでに出発した時間となってしまい、仕方なく今夜はどこかに泊まることにした。ボルチモア近くのResidence Innに12時近くに宿を取ったのだが、今夜は悔恨のために一睡もすることが出来なかったのだ。
1月14日(金)
日付も変わったところで何とかバックアッププランを画策すべく、2ヶ月前から手配しておいた南極ツアーの緊急連絡先にメールを投げて返事を待った。尚、当ツアーのキャンセルは90日前までは受付可能なのだが、それを超えると旅行代金は一切返金されないという恐ろしいシステムになっていたのだ。
正午前にホテルをチェックアウトし、ワシントン・ダレス空港で車を返し、UAのカウンターに向かった。何とか$250の追徴金で一日遅れのブエノスアイレス行きの便に変更していただき、UAのRed Carpetラウンジに引き篭もり、引き続き対策を講じていた。ラウンジでメールを開くと緊急連絡先から返事があり、待ち合わせ時刻は4時となっているが、船の出港は15日の6時なのでそれまでに到着すれば間に合う可能性があるので何とかあきらめることなく精進せよとのことであった。また、ブエノスアイレスからアルゼンチン南端のウシュアイアへの乗り継ぎ便が満席なのでとりあえず空港に辿りついてキャンセル待ちをしておけとの指示もあった。
UA847便ブエノスアイレス行きは定刻通りの午後10時04分に出発し、10時間以上のフライトで翌日の午前10時50分に到着予定であったのだが、その後のせっぱ詰まった旅程を考えると気が気でないまま機内で長い夜を過ごすこととなってしまった。
1月15日(土)
UA847便は予定通り午前10時50分にブエノスアイレスのエセイサ国際空港に到着した。首尾よく入国審査と税関を抜け、手持ちの米$をいくばくかのアルゼンチンペソに両替するとタクシー乗り場でタクシーを捕まえて国内線が発着するホルへ・ニューベリー空港まで飛ばした。明らかにボラれているはずの300ペソを運転手に支払うと早速アルゼンチン航空のカウンターに向かい、Check in カウンターとTicket saleカウンターをたらいまわしにされ、さらにTicket saleカウンターでは1組の客を処理するために驚く程の時間がかかり、いらいらしながら私の順番を待っていた。
何とか午後3時40分発のAR2856便のキャンセル待ちリストに滑り込み、搭乗口で出発時間がくるまでの間にインターネットに接続し、南極ツアーの緊急連絡先に近況報告をするとAR2856がウシュアイアに到着する午後7時半まで船の出航を遅らせて待っていてやるので幸運を祈るとのことであった。
AR2856便は午後3時10分に搭乗時刻となり、予約客が次々と機内に吸い込まれていった。どうやらキャンセル待ちをしているのは私の他にアルゼンチン人の若ギャルが1人いただけなので、この便に搭乗できるかも知れないという淡い期待が膨らみ、実際に便出発間近の3時40分くらいに搭乗しても良いということで私と若ギャルのためにゲートが開かれた。しかし、その瞬間にLast callをとうに過ぎているにも拘わらず、正規の搭乗券を持った家族ずれが3名押しかけ、無常にも私と若ギャルを残してAR2856便は飛び去ってしまったのだった。
失意のままメールを開き、南極ツアー緊急連絡先の担当者にクルーズには参加できない旨を伝え、支払い済みの60万近くのクルーズ代金がパーになったため、気が狂う~ぜと思いながら、私が行こうとしているのは南極ではなく難局であるとの確信が強くなっていったのだった。さらに本来であれば今日の4時にウシュアイアの桟橋近くのホテル・アルバトロスのレストランに集合して船に乗り込むはずであったのだが、「アホウドリ」を意味するアルバトロスにちなんで、今日だけは私がアホウに落ちぶれてしまった屈辱感を味わったのだ。
クルーズ失敗のリカバリープランなど当然考えているはずもなかったので、とりあえずホルへ・ニューベリー空港からタクシーに乗り、ブエノスアイレスのセントロに位置するシェラトン・ホテルに飛び込み、今夜は窓から見える夜景を眺めながらむなしい夜を過ごすしかなかったのだった。
1月16日(日)
不貞寝の割には朝早く目が覚めてしまったので、とりあえずブエノスアイレスの中心地を歩いて気を紛らわすことにした。ブエノスアイレス自体にはこれといった見所がないのだが、南北に抜ける7月9日大通りは世界一幅が広いと言われ、その中心に天空を指すようにそびえているオベリスコが目を引いた。
正午に宿泊代の高いシェラトンホテルをチェックアウトするとその足でHoliday Inn Expressに宿を移した。さらに観光を続けるために町中を歩いていると5月広場に到着した。ここではピンクの家との異名をとる大統領府が観光客に開放されていたのだが、何故か内部に飾られているアルゼンチンの英雄であるチェ・ゲバラの写真が圧倒的な存在感を示しており、マラドーナの痕跡は跡形もなかったのだ。
また、日曜日ということもあってか30℃を越す真夏の町中にはおびただしい数の露天商が出店しており、地元のアルゼンチン人で大変な賑わいを見せていた。但し、ブエノスアイレスは物価が高いようだったので、とりあえず10ペソを支払い半分に裂いたチョリソを固めのパンにサンドしたチョリパンと5ペソのオレンジ生絞りジュースで飢えと喉の渇きを抑えておいた。
1月17日(月)
一昨日キャンセル待ちの便に乗れなかったため、そのまま南極ツアー自体をお蔵入りにすることも考えたのだが、とりあえずウシュアイアだけには行って敗北感を味わおうと思い、失意のまま今日の午前7時40分発AR1852便ウシュアイア行きの便を予約していたので2時間前の5時半過ぎにはホルへ・ニューベリー空港に到着した。月曜日の空港は早朝にもかかわらず想像以上にごったがえしており、どこがチェックインカウンターの列の最後尾か判断出来なかったので仕方なく人の比較的少ない自動チェックイン機の列に並んだ。機会はスペイン語だけでなく英語も理解したので何とかチェックインを果たすとAR1852便は予定通り離陸となった。
南米大陸のほぼ南緯40度以南の地域はパタゴニアと呼ばれ、ウシュアイアはブエノスアイレスから3250km離れたパタゴニアの最南端に位置する世界最南端の町である。ウシュアイアのあるフエゴ島はマゼラン海峡、ビーグル水道と大西洋に囲まれた九州よりも一回り大きな島で半分がチリ領、もう半分がアルゼンチン領となっている。
3時間30分程度のフライトでウシュアイア空港に到着すると、そこは万年雪をいだいた山々と港町から成る風光明媚な南の大地であった。早速タクシーで市の中心部に向かうことにしたのだが、10分ほど走るとゴルフでパー5のところを2打でホールアウトしたような感覚を覚えたときにはホテル・アルバトロスの目の前に到着していた。何しろ今日の宿さえ決まってなかったので桟橋近くの観光案内所に乗り込み、適当な安ホテルを紹介していただいた。ウシュアイアはアルゼンチンの夏の避暑地となっているため、国内、海外からの観光客も多いのだが、何とか町の中心のホテルにしけこむことが出来たので早速町の散策に乗り出すことにした。
観光案内所の隣に南極公式案内所があったのでそこで今日、明日くらいに出航する南極ツアーがあるかどうか確認したのだが、埒が明かなかったので自力で町を練り歩いてツアー会社を血眼になって探していた。クルーズだけにどうしても後悔(航海?)したくないという思いが強かったからだが、とあるツアー会社のウインドウにLast Minutesと書かれた南極クルーズの案内が出ていたので早速そこに入って見た。おね~ちゃんに詳細を確認すると明日18日に出航予定のantarapply社のクルーズに空きがあるので何とかそこにネジ込めるべき交渉を開始した。
料金は$3,500の10泊11日のクルーズであったのだが、南の僻地まで来ていまさら手ぶらで帰るわけにもいかず、余分の大金をつぎ込んで予約することにした。尚、南極に行く前には様々な手続きが必要でいろいろな書類にサインさせられるとともに、日本人の場合は環境省地球環境局環境保全対策課に事前の届出を出す必要があったためにおね~ちゃんに速攻でFAXを送ってもらい、つつがなく予約を完了することに成功した。
何とか南極に行ける目処がつき、気が楽になったのであらためてウシュアイアという町を見直すことにした。折角世界の果てまで来たので世界の果て博物館(30ペソ)というファシリティに入って見たのだが、マサに世界の果てという感じで展示物はあまりなく、原住民の質素な生活様式が確認出来たにとどまってしまった。
1月18日(火)
ウシュアイアまで来て飛び込みでクルーズに申し込み、本当に南極に行けるのか未だに不安が残っていたのだが、午後4時にクルーズ船に乗船する運びとなった。桟橋には何隻かの船が停泊しており、古式の風帆船やNATIONAL GEOGRAPHIC EXPLORERという大型船の他にUSHUAIAと命名されたトラディショナルな船舶もひっそりと佇んでいた。
南極へ行くとなると砕氷船「しらせ」やタイタニックのような大型船でのクルーズをイメージするかも知れないが、実際にantarapplyが催行するクルーズは全長84.73xm、幅15.54m、乗客定員84名の「USHUAIA」というそんなに大きくない船で南極大陸まで繰り出すものであり、船に乗り込むと二名一室のツインの部屋に荷物を放り込み、上階のパブラウンジに集合した。するとほどなくシャンパンでのウエルカム・パーティで酒を飲んでいる間にUSHUAIAは蛍の光を奏でることもなく、いつのまにか出航となっていた。
その後乗客はカンファレンスルームに集められ、船長とExpedition LeaderのMonicaからクルーズの注意事項が伝えられ、さらに乗船後24時間以内にかならず実施しなければならないLife Boat Drillという救命着の実装訓練が開始された。尚、この救命着にはホイッスルがインストールされており、頭からすっぽり被ると顔の前に笛が来るので、皆安心して遭難できるような工夫が施されているのだ。
船はおだやかなビーグル水道を抜けると午後10時半過ぎにはドレーク海峡の荒波に乗り出した。乗客はそれぞれ酔い止めの薬をもらっており、船内の至る所にはエチケット袋が配備され、一種ものものしい雰囲気を醸し出していた。予想通り、船は木の葉のように上下左右に揺れ始めたため、皆意図せぬままに欽ちゃん走りのような様相で船内を行き交っていた。
1月19日(水)
ウシュアイアから南極への距離はわずか1000kmとはいえ、南極に到達するにはまる2日以上の日数を要するため、この日は船内で静かに過ごすこととなる。同部屋の日本人サーファー観光客は波にうまく乗れなかった様子で昨夜2度も吐いてしまったため、ベッドの上階でピクリとも動かなくなっているのだが、酔い止めの薬を飲んでいない私は午前7時のモーニングコールを聞いて果敢にラウンジまで這い上がってきた。朝食は7時半に供されるのだが、水を一杯飲むとすぐに胃の中から酸っぱい物体が上がって来る感覚を覚えたので部屋に戻り、今日は一日中グロッキー状態でついに起き上がることさえ出来なかったのだ。
1月20日(木)
朝からそんなに体調もすぐれなかったのだが、さすがに2日目ともなると私の鍛えられた三半規管も揺れになれた様子で何とか気合を入れてビュッフェ形式で供される朝食を胃に詰め込んだ。南極探検のガイドとしてリーダー、サブリーダー、ナチュラリスト、レクチャラー等5人のスタッフが交代で南極地域に関することや動物に関するレクチャーが行われているのだが、今日は何とかそのいくつかを聴講するまでに回復した。
船内で供される昼食と夕食は前菜、スープ、メイン、デザートからなる豪華なフルコースで牛、豚、羊、チキン、ターキーを中心とした肉類が多いのだが、決して地ペンギンの塩焼き、クジラの竜田揚げ、アザラシの甘露煮等の地場の食材は使われないのだった。
午後3時より必須のレクチャーとして南極地域での行動の仕方、ゾディアックというゴムボートへの乗船の仕方、動物との距離のとり方等の注意事項が講義され、上陸用の長靴も各乗客にレンタルされ、否が応でも南極上陸への期待が高まっていくのだった。
夕刻になり、ついに荒波のドレーク海峡を超えた様子で目の前に白い雪をまとった南極半島の北に位置する南シェトランド諸島の景色が広がった。さらに午後10時半を過ぎると白夜であるはずの空にサンセットが訪れ、白い大地や雲が幻想的なピンクやオレンジに染まっていったのだった。
1月21日(金)
この日より念願の陸地に上陸してのアクティビティが開始される。上陸に先立ち、乗客達は外来物を陸地に持ち込まないために船上でまず長靴を洗浄することが義務付けられている。このような地道な努力により南極の自然環境は守られており、当然のことながら大地に糞便を撒き散らすことは野生動物の特権となっており、人類の生理現象はわざわざ船に戻って解消しなければならないのだ。
午前8時半についにモーターエンジンをインストールしたゴムボートであるゾディアックが海に下ろされ、乗客を順番に乗せると猛スピードでハーフムーン島(南緯62度35分)を目指して進んでいった。
島ではくちばしの下にヒゲのような一本線の模様があるアゴヒゲペンギンが雪の解けた岩場のあちこちにルッカリー(巣)を形成しており、周辺にはペンギンの糞の堆積による窒素系の異臭が充満していた。尚、ルッカリーから海に向かうペンギンの腹部は茶色く汚れているのだが、海から戻ってくる固体はきれいにクリーニング済みであった。
また、頭部を金髪に染めたマカロニウエスタン系の種であるはずのマカロニペンギンが一羽ツッパりながら家路に着いているのが一際目を引いた。さらに探検隊はハーフムーン島に建つアルゼンチンの基地であるBASE CAMARAに乗り込み、お茶をご馳走になったにもかかわらず従業員を慰労することもなく、そそくさと船に帰って行ったのだった。
船は南下するとLivingston島(南緯62度36分)に到着した。この島のWalker Bayは黒い火山系のビーチが続き、Hanna Pointとという場所はジェンツーペンギンの繁殖地になっており、さらにアザラシのハーレムも形成されている。
ビーチは色とりどりの巨体を横たえたゾウアザラシの見本市になっているのだが、個々の顔を見るとまだゾウのような鼻の成長が進んでなかったため、ほとんど年端も行かないゾウアザラシであるとの解説もBiologistから加えられた。
わくわく動物ランドを後にして、氷河を見下ろすことが出来る高台まで上るといきなり雷鳴が轟くような氷河の崩れる音に見舞われ、度肝を抜かれてしまった。また、そこらには行き倒れになったはずの動物たちの遺体も転がっており、過酷な環境の中で生き延びる厳しさをまざまざと見せ付けられたのであった。
1月22日(土)
クルーズで上陸するポイントは必ずしも予定通りになるとは限らず、当日の天気や風、海氷の状況によって船長と探検隊長によって決められることになっている。この日の朝は強風のため、当初予定していたポイントへの上陸がかなわなかったのでWilhelmina Bayのクルーズと相成った。
南極クルーズ船「USHUAIA」はOpen Bridge Policyをとっているため、乗客は自由に操舵室への出入りが許されているので、早速ひやかしに行ってきた。Bridgeでは船長の厳しい視線の下で3等航海士のヤングギャルが緊張した面持ちで面舵やとり舵を切っていた。船の操縦はコンピューター管理されており、レーダーには海氷の位置がリアルタイムで示され、航路とともに常に最新情報がアップデートされているのだ。
現在乗客は浮世とは隔絶された状態になっているはずなのだが、どうしても文明と連絡を取っておく必要がある輩のためにE-mailサービスが1分につき$3の高値で提供されている。しかしインターネットは開通していないのでFACEBOOKが使えないザッカーバーグの面目を保つまでには至っていないのだ。
午後から天候の回復が見られたのでDanco島(南緯64度44分)という小さい島への上陸が決行されることとなった。この島もご多分にもれずジェンツーペンギンの繁殖地になっており、多数のペンギンが雪を踏みしめることにより形成されたペンギンハイウエイを行き来するペンギンの生態を十分に堪能した。しかし、人間がペンギンハイウエイを歩くことは禁止事項になっているので足場の悪い新雪に埋まりながら前進するしかないのである。
高台まで到達するとそこには360度の展望が開けており、Expedition Team主催の中途半端な人間ピラミッドの余興等により凍えそうな参加者の心が温まるような配慮がなされていた。
1月23日(日)
今日もあいかわらず極地の空はどんよりとした雲に覆われていた。午前中はCuverville島(南緯64度49分)に上陸したのだが、ここも相変わらずロッテクールミントガムを噛んだ時の爽やかさとはかけ離れたペンギンの排出物が醸し出す獣臭に覆われた白い大地であった。
Cuverville島周辺の海は氷山の景観が非常に見事なのでゾディアックによるショートクルージングが行われ、乗客は冷たい波をかぶり、寒風に打ち震えながらも海上に浮かぶ白い芸術作品を堪能したのであった。
マサよ、君は世界七大陸を制覇し、ペンギンとともにトラベラーとしての誇りを胸に刻んだことがあるか!?
というわけで、南極大陸における細長い尻尾のように飛び出た南極半島の一端とはいえ、ついに南極大陸に上陸する瞬間がやってきた。南極クルーズで南極大陸に上陸出来るポイントはいくつかあるのだが、USHUAIA号は氷河が砕け落ちて津波が発生するリスクのあるNeko Harbour(南緯64度50分)に錨を降ろすこととなった。
Neko Harbourという名前にもかかわらずこの地は猫の代わりにジェンツーペンギンの支配下に置かれており、やつらは勢力を拡大するための子育てに躍起になっていた。さらに、所々でWeddellアザラシが寝こんでいる光景も目にすることが出来た。
対岸では雪崩や氷河の崩壊が頻繁に発生し、津波の脅威にさらされていたので探検隊一行は足早に高台に登ったのだが、結局周囲の風景をさらっと見渡した後、皆そそくさと雪の斜面を滑り降りて行ったのだった。
Neko Harbourから船に戻り、短い休憩時間を取った後、探検隊はペンギンさんチームとアザラシさんチームに分かれ、再びゾディアックによる1時間程度のクルーズが開始されることになった。ペンギンさんチームに所属していた私は先行して海に戻ることになり、氷山の絶景とともにCrabeaterアザラシやヒョウアザラシが氷のベッドでくつろいだり、側筋を鍛えているところを冷やかしていた。
今回は特にホエールウォッチングがフィーチャーされており、各ゾディアックは無線で連絡を取りながらクジラを探していた。そしてついにミンククジラがその勇姿を現し、各船は一斉にその後を追うようにエンジンを全開した。その結果、遠目ではあったが、何とかクジラの背びれだけは写真に収めることが出来たのであった。
今晩の夕食はAntarctic BBQが企画されていた。南極でのバーベキューということで、ついにペンギンが焼かれ、アザラシが甘辛く煮られ、カレー風味の衣を着けられたクジラが油で揚げられる瞬間が来るのか!?と期待したのだが、船上のグリルを賑わしたのは何の変哲もない家畜系の肉とチョリソだけであったのでたまたま乗客として乗り合わせていたシーシェパードの会員も目くじらを立てることはなかったのだ。
BBQの牛を食った後、ペンギンの無事を祈りながらラウンジでくつろいでいると、あのタイタニックを沈め、主役のデカプリオさえ死に追いやった程の巨大な氷山が忽然と姿を現した。氷山はデッキから手を伸ばせば届く程に接近したのだが、ぎりぎりのところで衝突は回避され、ライフベストに頼ることなくツアーは進行していったのだった。
1月24日(月)
南極という僻地からわざわざ手紙を出したい輩のために朝一からPort Lockroy(南緯64度49分)に寄ることになった。Port LocroyはWienke島にあるイギリスの元基地をそのまま保管し、ジェンツーペンギンを寄宿させたファシリティで上陸に先立ち臨時島民として基地に駐在しているイギリス人ギャルによるレクチャーが行われた。
Port Lockroyの郵便局から手紙を出すと6週間かかり、速達もないということだったのでここから郵政民営化に反対する抗議文を送るのは控えておいたのだが、その代わりに博物館の展示物をじっくりと見学させていただいた。館内には観測器をはじめ当時の生活を偲ばせる居住空間が保存されており、極地での生活の一端を垣間見ることが出来るのだ。
併設された土産物屋では観光客の極地での購買意欲を満たすために豊富な品物を揃えているのだが、南極1号、2号といった類の物は販売していなかったので何も買わずに退散することにした。
昨日までの曇り空と打って変わり、今日は朝から青空が広がっている。生まれてこのかた見たこともないような青と白のコントラストの中をUSHUAIA号はLemaire海峡という両端を氷河の絶壁に挟まれ、その狭さと海氷の多さのせいで大型船では通過出来ない絶景ポイントを進んでいた。
あまりの絶景のために乗客はすべて船の甲板やデッキに集まり、それぞれ記念写真の撮影に興じていた。Bridgeでは船長がその類まれであるはずの航海技術を駆使して海氷や氷山に接触して船が座礁しないように慎重に航行している様子が見て取れた。
Lemaire海峡の鏡のように澄んだ海水は迫りくる絶壁や氷河を写し込み、ここがマサに世界で最も美しい海峡であることは疑いようのない事実であることが記憶の底に深く刻まれたのだった。
船は慎重にLemaire海峡を抜けるとさらなる絶景を提供するPort Charcot(南緯65度5分)に錨を降ろした。ここで再び探検隊はペンギンさんチームとアザラシさんチームに別れ、ゾディアッククルーズのアザラシさんチームとは裏腹にペンギンさんチームはPleneau島に上陸することと相成った。
抜けるような青空のせいか、この島のペンギンはいっそう輝いて見えた。さらにペンギンのルッカリーの先には青い海と白い雪と氷を湛えた山々が広がっており、これがマサに南極の景色であり、南極ツアーの醍醐味であることが実感された。
アザラシさんチームと入れ替わりで今度はペンギンさんチームがIceberg Alleyと言われる氷山彫刻の森美術館のクルーズに乗り出すこととなった。太陽に照らし出された様々な形状の氷山は単純なテーブル状の物から表面を研磨されたオブジェ等様々であった。
また、白鳥の湖を連想させる形状の氷山の向こうから何故か小さなヨットまで登場してIceberg Alleyの景色の一部として溶け込んでしまっていた。
氷の上で匍匐前進をしているアザらしい模様をまとった流線型のフォルムを持つ動物はこの地で食物連鎖の頂点に立つヒョウアザラシである。獰猛なヒョウアザラシはペンギンを捕食しているのだが、たまに人類も襲われることがあるので注意しなければならない。恐れを知らぬヒョウアザラシは観光客を前にして腹を抱えて笑っているようにも見えるのだが、腕立て伏せでの勝負ではマサであっても勝てるのではないかと思われた。
夕暮れ時にオルカのファミリーが出現したとのアナウンスが船内にこだました。オルカを見ないとおろか者になってしまうぜとスペイン語で言われたかどうかは確認出来なかったのだが、乗客は皆カメラを携えて船首の甲板に集合した。今回のクルーズでは何度もクジラに遭遇し、そのたびに歓喜の声が上がったのだが、皆自分がいかにクジラ好きな人間であったのかをはるか南の海くんだりまで来て再認識させられてしまうのだった。
1月25日(火)
昨晩の内に船は南シェトランド諸島沖に戻っていたので、今日は朝からDeception島(南緯62度56分)に上陸することとなった。この島は海底活火山の火口部にあたるカルデラ島で、島の噴火口に海水が流れ込み、内海のあるユニークなU字の形状をしている。
Neptune Bellowsと呼ばれる狭い入口から内海に入り、船を停泊させると探検隊はTelefon Bayへの上陸を果たした。折からの雪で火山灰土に白い化粧を施した道をカルデラの淵に沿って頂上を目指した山登りが開始された。皆汗をかきながら何とか頂上へ到達すると黒いキャンバスの上に描かれた白い模様の芸術作品を黙って見守っていた。
一行は一旦船に戻った後、対岸のPendulum Coveに再び上陸することとなった。この島は火山島であるので湾内には温泉が湧き出ている箇所がいくつかあり、南極くんだりまで来て温泉に漬かることが出来るということがひとつの名物になっている。皆♪バ バンバ バン バンバン アビバノンノン♪状態を期待して水着姿になり海に突進したのだが、これが単なる寒中水泳に過ぎないという事実を体感すると5秒と持たずに陸に舞い戻って来るしかなかったのだ。
とんだ温泉ツアーだったにもかかわらず誰も文句を言わなかったことをいいことにして、最後の上陸ポイントであるGreenwich島にあるYankee Harbour(南緯62度32分)に向かった。この島は過去クジラやアザラシ漁の拠点になっていた場所であり、今でも若干その面影が残っている。
Yankeeということでここに住む動物はどれもツッパッているのかと思っていたのだが、実際はすれていないペンギンと高級毛皮を着ていい気になっているFurアザラシが勢力争いをすることなくのん気に暮らしているほのぼのとした場所だったのだ。
1月26日(水)
一行は再びドレーク海峡の荒波に身を委ねることとなった。船内のあちこちには行きと同様に多数のゲロ袋が配置されたのだが、すでに往路で鍛えられた三半規管によりその消費量は著しく減少したものと思われた。また、午前と午後に行われたレクチャーにもそれなりの人が集まり、皆南極地区を離れていくのを惜しんでいた。
1月27日(木)
船は午後にはビーグル水道に到着し、とある停泊ポイントに錨を降ろした。3時半よりカンファレンスルームでExpedition teamによる最後のプレゼンテーションが実施された。内容は南極ツアー全行程のレビューであり、また驚いたことに行程やスナップ写真を音楽付きでまとめたDVDがすでに編集されており、乗客はそれを見ながら歓喜の声を上げていた。尚、DVDは数百枚の写真から構成されており、私が登場しているカットが4、5枚あったのだが、明らかに私中心の編集となっていたようだった。さらに部屋に戻ると机の上には南極大陸に上陸したことを自慢できる証書が飾られており、参加者はこの実績を胸に抱いて今後の人生が送れるように配慮されていた。
最後の晩餐は船長主催のディナーということでシャンペンが無料でふるまわれ、前菜はカニのカクテル、メニューは牛フィレステーキと豪華なものであった。一行は形式どおりに今回の船長の航海実績を拍手とともに称えつつ、最後の夜は予想通りのドンちゃん騒ぎで更けていくのであった。
1月28日(金)
クルーズ最終日は午前7時に朝食を食った後、8時にUSHUAIA号を下船する運びとなった。乗客達は別れを惜しみつつ、皆それぞれの次の目的地に向かって散って行ってしまった。
午後7時33分発のブエノスアイレス行きAR2899便への搭乗までにはかなり時間があったのでウシュアイアの「元監獄と船舶博物館」(60ペソ)を見学することにした。ここはその名の通り、元監獄として囚人が暮らしていたファシリティを博物館として再利用したエコな博物館であり、館内の展示物は監獄に関するものから南極航海に至るまで非常に多岐に渡っているのだ。
AR2899便は10分程度遅れて離陸したものの窓の下に荒涼としたパタゴニアの大地が広がっているのを目にすることが出来た。途中エル・カラファテというパタゴニアを代表するロス・グラシアレス国立公園のゲートシティを経由した際には乾いた大地を流れる蛇行した川の景色が印象に残った。
1月29日(土)
日付の変わった午前1時過ぎにブエノスアイレスでの定宿になっているシェラトンホテルにチェックインすると、久しぶりに船のエンジン音に悩まされることのない静かな夜を過ごすことが出来た。
アルゼンチンとウルグアイはラ・プラタ川で隔てられており、ブエノスアイレスはラ・プラタ川の河口に開けている大都会でその巨大なフェリーターミナルからは頻繁にウルグアイ行きの高速フェリーが発着している。この好機を捉え、ウルグアイという国がどういう具合になっているのかを確認するためにウルグアイ唯一の世界遺産であるコロニア・デル・サクラメントを訪問することにした。
シェラトンホテルにほど近いダルセナ・ノルテ港に午前9時半頃到着し、フェリー会社ブケブス社のチェックインカウンターで昨日ウエブで購入しておいたチケットのバーコードを提示するとつつがなく搭乗券が発行された。アルゼンチン側のイミグレーションで出国とウルグアイへの入国手続きを同時に行った後、高速フェリーに乗船すると10時半に出航となった。
2時間程の航海で1時間の時差を越えてコロニア・デル・サクラメントに到着したのは午後1時半を回った頃だった。早速手持ちのUS$をウルグアイペソに両替すると1995年に世界文化遺産に登録されている旧市街に繰り出すことにした。コロニア・デル・サクラメントは1680年にポルトガル人が開拓し、1777年にスペイン人によって支配された複雑な歴史を持つ都市でその歴史地区は植民地支配の雰囲気を色濃く残している。
旧市街には植民地時代の建物を利用したいくつかの博物館(50ペソ、共通チケット)があるのでまずはポルトガル博物館に入ってみることにした。館内でポルトガル統治時代の武器や陶器、航海図等を見物した後、植民地時代の暮らしを再現したナカレリョの家をちら見して市立博物館に乱入した。
市立博物館には古代から現代までの生活品や恐竜の骨格標本等が展示されており、この地はポルトガルやスペインが支配するはるか前は巨大生物に支配されていたことが確認された。
旧市街のランドマークとなっている灯台の脇にはサン・フランシスコ修道院の遺構があり、石垣の隙間は鳥たちの絶好の棲家となっていた。また、石畳の上に停車している旧式の車がコロニアルな雰囲気と非常にマッチしていた。
3時間程の滞在でコロニア・デル・サクラメントの全容を解明することが出来たのでウルグアイを後にした。午後6時前にはブエノスアイレスに帰還出来たのでそのまま空港バスに乗り、エセイサ国際空港に帰って行った。
1月30日(日)
UA846便は定刻より早い午前6時半前にワシントンダレス空港に到着した。午前11時20分発のNH1便に乗り換えるとさらに13時間のフライトが待っていた。
1月31日(月)
成田へ帰る機中で機内映画のウォールストリートを見ながらキャンセルと払い戻しの出来ないクルーズ代は株や大根やペンギンの先物取引で損したものとさして変わらないだろうということを主演のマイケル・ダグラスから教えられていると午後3時過ぎに成田空港に到着したのでそのまま流氷のように流れ解散となった。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ただ、ユナイテッド航空 = \136,466、アルゼンチン航空 = $709.21
総宿泊費 $169.86、2,123.65ペソ (1ペソ = \21)
総レンタカー代 $267.52
総タクシー代 434.5ペソ
総空港バス代 45ペソ
総ウシュアイア空港使用料 $8
総フェリー代 313.07ペソ
総南極クルーズ代 $3,500
総難局クルーズ代(最初申し込んだクルーズに参加出来なかったが払い戻し出来ない費用)\575,190
総海外旅行保険代 ¥10,800
協力 ANA、ユナイテッド航空、アルゼンチン航空、ハーツレンタカー、spg.com、PRIORITY CLUB、メルカードツアー(http://www.mercadotour.jp/)、oneocean expeditions (http://www.oneoceanexpeditions.com/)、Antarpply expeditions (http://www.antarpply.com/eng/index.php)