FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 青い楽園フィジー

マサよ、君は南太平洋に浮かぶ楽園のゆったりとした時の流れに身をまかせ、非日常的感覚から社会復帰出来なくなりそうな脅威を覚えたことがあるか!

というわけで、昨年の年末年始はキリマンジャロ登山サバイバルツアーを敢行し、空気の薄い環境の中で天国という楽園との境界を彷徨ったわけであるが、今回は文字通りの楽園というものがいかなるものかを体験するために赤道を越えて南太平洋の十字路に繰り出すこととなった。

12月28日(月)

コンチネンタル航空がスターアライアンスの会員になったおかげで出発までのひと時をおなじみのANAのFIRST LOUNGEで快適に過ごすことに成功すると午後5時15分発のCO07便グアム行き、B737-800機に乗り込み、約3時間半のフライトで太平洋のハブ空港となっているグアム国際空港に1時間の時差を越えて午後10時頃到着した。乗り継ぎのためグアムには上陸しないことになっているのだが、入国審査を受けさせられて無理やり入国の憂き目に遭った腹いせに普天間基地の全面移転を鳩山総理に成り代わって話しをつけようと思ったのだが、元自民党総裁と同じ名前を持つ私の出る幕ではないと考え、差し控えることにした。

2009年12月18日に開設したばかりのグアムとフィジーのナンディ国際空港を結ぶ新路線をひょんなことから発見していたので午後10時55分発CO948便、B737-800機に搭乗するとガラすきの3列席を占拠しながら快適な空へと旅立ったのだ。

12月29日(火)

離陸後約6時間のフライトでフィジー沖に差し掛かり、窓のシェードを開けると眼下には青い楽園にふさわしい珊瑚礁の海が朝日に照らされていた。

午前8時30分にフィジーだけでなく、南太平洋のハブ空港として君臨しているナンディ国際空港に到着し、軽い入国審査を経て到着ターミナルへ入場するといきなり生バンドのトリオの南国演奏で歓迎され、いやがおうでもリゾート気分が高まってくるのであった。

空港を出た大通りにバス停があったのでローカルバスに乗り込みフィジアンスマイルを湛えた原住民と共にナンディのダウンタウンに向かった。尚、フィジー諸島共和国は330もの島々から成り、陸地面積は四国とほぼ同じ小さな国である。今回はその島々の中から最大のビチレブ島に的を絞り調査を決行することになったのだが、町を歩いているとあちこちで「ブラ!」という声を浴びせかけられ、思わずワコール、トリンプはたまたピーチジョンの世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えさせられた。

フィジーはかつて英国領であったため、英語が公用語のひとつになっているのだが、「BULA !」という挨拶は現地語として使い続けられており、町をブラブラ歩いているとひっきりなしに「BULA」のシャワーを浴びることになり、その度に脇や背中の肉が胸に集められ、ワイヤーで寄せて上げられるような脅迫感に苛まれてしまうのだ。

ビチレブ島西部のナンディは文字通りフィジーの玄関口になっているのだが、ダウンタウン自体は以外に小さく約1kmのメインストリートに各ショップがひしめき合っているのだ。とはいうもののフィジーの国花であるタンギモウジアは至る所で真っ赤に咲き乱れ、市民の台所となっているマーケットでは収穫されたばかりの野菜やイモ類が山積みになっている有様はマサに南国模様そのものである。

手作り民芸品を売っているハンディクラフトマーケットに軽く足を踏み入れたのだが、ブラと言わせたからには手ブラで帰すわけにはいかねえぜといった燃える商魂が漂っている気配もなく、観光客は落ち着いて物品の物色が出来る体制になっていることが確認出来た。

フィジーくんだりまで来てセレブなリゾートホテルに宿泊しなければフィジーに来た意味が無いと言われているので世界的にも有数の大規模リゾート開発地区であり、ビチレブ島西側ナンディタウン郊外に位置するデナラウ・アイランドに徒歩で上陸することにした。デナラウは小さな島で本島とは狭い水路で隔てられているだけで通常は車に乗ったまま橋を渡って行き来することが出来るのだが、島の入り口には24時間警備員が守るゲートがあり、完全に外界とは隔離された桃源郷となっている。

デナラウ地区にはビーチ沿いに7つのホテルが仲良く軒を連ねており、初日はその中でも最高峰であるはずのフィジー・ビーチ・リゾート&スパ・マネージド・バイ・ヒルトンに意気揚々と乗り込んだ。チェックインするには少し時間が早く、日本人スタッフのYukoも中々捕まらなかったのでとりあえずホテルの散策を先にこなすことにした。青く輝くプール脇のビーチに面して建つ「ヌク・レストラン」でフィジーの地ビールである「Fiji Gold」とシーザーサラダを飲み食いしてさわやかな海風にあたり、胃腸の調子を整えていた。

ビーチのパラソルの下のクッションで寝不足を補った後、Yukoの案内でビーチフロントの部屋へと向かった。パティオから太陽の光が燦燦と差し込む広々とした部屋は吹き抜けのバスルームからベッド越しに海を眺められる構造になっていると同時に外を歩いている人からもバスルームを覗かれるスリルも提供されているのだ。

夕暮れ時に意識を取り戻すとビーチ沿いの散歩と洒落込んだ。いつの間にか隣のソフィテルの縄張りを通り越してウエスティンのビーチに迷い込んでいる内にサンセットを迎えてしまった。オレンジ色に染まる西の空とぽっかり浮かぶ船、そよ風に揺れるヤシの木のコントラストはマサにこの世の楽園にふさわしい幻想的な風景であった。

12月30日(水)

早朝より日課となっているビーチの散策がスタートした。そもそもデナラウはマングローブが生い茂る湿地帯を埋め立てて形成され、またナンディ川が土砂を運ぶ河口に位置するため海の透明度はそんなに高くないのだが、砂浜はよく手入れが行き届いており、またビーチでスパのトリートメントを受けるためのファシリティもセットされている。海に入って静かに打ち寄せる波と戯れていると足の裏に執拗に攻撃を仕掛けてくる未確認生物のハサミのような感触を覚えたのだが、海水が濁っているのでその実態を解明するには至らなかった。

ヒルトンをチェックアウトするとデナラウ地区を巡回するデナラウ・シャトルで天井に草が生えている通称ブラバス(F$6/day)に乗り込み数多くのリゾート・フェリーが発着するポートデナラウに向かった。マリーナには数多くのクルーザーが停泊しており、ここから珊瑚礁に囲まれた白砂の離島に行って満足して帰ってくることが出来る体制が整っているのだ。

ブラバスでデナラウの中心部を形成するデナラウ・ゴルフ&ラケットクラブをスルーして、今日の宿泊先であるザ・ウエスティン・デナラウアイランド・リゾート&スパ、フィジーにしけ込んだ。このリゾートは全体的にフィジーの伝統建築の流れを組み込み、重厚かつ南国ムードあふれる雰囲気を醸しだしている。

さらにスターウッド・ホテル&リゾーツというグループを形成する他の2つのシェラトン系のホテルとは隣接する立地条件になっており、シェラトン所有の無料のブラバスで各ホテルの玄関も結ばれ、いちどの滞在で3倍のリゾートを体験出来るマサにリゾートのコンビナート状態が提供されているのだ。

夕飯時に再びポートデナラウに繰り出すことにした。ここはマリーナだけでなく、いくつかのショップやハードロック・カフェをはじめとするレストランの出店も見られ、リゾートホテルのレストランよりもお得な価格帯で食事を楽しむことが出来るために連泊のリゾーターは少なくとも1回はここで飯を食っているのではないかと思われた。

日没後のシェラトンのショッピングアーケードは相変わらず多くの人出で賑わっており、予約が必須なはずの高級レストランfeastは赤を基調とした異様なまでの存在感で観光客の散財スピリットに火を付けているかのようであった。

12月31日(木)

ビチレブ島の中でも隔離された感のあるデナラウ地区を後にすると本場のフィジーを求めて炎天下の中、徒歩で1時間かけてナンディバスターミナルまでやってきた。正午発のバスに乗ると幹線道路であるクイーンズロードを南下して行った。ビチレブ島の南の海岸線はコーラル・コーストと呼ばれ、文字通り珊瑚の海が広がっており、フィジーでも早い時期からリゾート開発が行われてきた地域である。

コーラル・コーストを代表し、フィジーらしさを全面に打ち出したアウトリガー・オン・ザ・ラグーン・フィジーは高台のロビーからリゾートの全景と透明な海を見下ろすことが出来る構造になっており、緑豊かなガーデンの中にはフィジーの伝統的家屋を模したブレが点在し、しかも各ブレには2種類のハンモックがインストールされている実態が確認された。

ビーチ沿いを歩いているとリゾートの敷地外に出てしまったのだが、馬がうまそうに草を食っていたのでそのまましばらくあたりをさまようことにした。リゾートに戻ると原住従業員が伝統的打楽器とホラ貝でゆく年くる年の雰囲気を高めようと躍起になっていた。

すっかりおなじみとなったフィジーの息を呑むほど美しい黄昏の光景をバックに戯れていた少女AとBが♪じれぇた~い じれったい♪と言わんばかりに新しい年を待ちわびているかのようであった。またプール脇ではフィジーの伝統的儀式であるカバの儀式がおごそかに執り行なわれていた。カバとは南太平洋一帯に生える胡椒化の木のことで、カバの儀式ではこの木の根を乾燥させ、パウダーになるまで付き砕き、それを水で濡らして絞り出した汁を回し飲みして親交を図ることが目的であるのだが、同じブラ繋がりであってもタニマチとして押尾被告にドラッグ部屋を貸し与えていたピーチジョンの野口美佳社長のような胡散臭さのない神聖な儀式であることは疑いようもなかった。

午後11時45分にプールサイドの芝生の近くに人だかりが出来ると「BULA!」の掛け声も高らかに片側に火の付いたバトンを手にしたポリネシアン・ダンサー群がガソリンの残り香とともに登場した。彼らは驚いたことに素手で炎に触り、バトンの片側にも点火するとお約束の火の玉バトントワリングの開始となった。ダンサーはものすごいスピードでバトンを回したり、バトンを回転させながら高く放り上げてキャッチに成功したり、失敗したりしながら観光客に「BULA!」の声援を強要させていた。

ポリネシアンダンシングの興奮も覚めやらぬまま、観光客は芝生広場に参集し、ついにカウントダウンを迎える時間の到来となった。

1月1日(金)

ハッピー ニュー マサよ! ブラ!!

ということで、間延びするほど長かった1分前からのカウントダウンもついに5秒前になり、ついに2010年の新年が時と告げると「BULA」の新年ボードに明かりが灯され、皆一様にブラと叫びながら、あたりに散らばらせた風船を踏み割って破裂音を発生させていた。30分ほどの新年を祝う喧騒を経た後、会場スタッフが機材の撤収作業を始めやがったので新年の饗宴は流れ解散的にお開きとなったのだ。

昨年はキリマンジャロ山頂で初日の出を拝み、それはむこう30年くらいの効力があると信じて疑っていないので今年は太陽の昇りきった時間に余裕をこいて起きだすことにした。アウトリガーの近辺にもいくつかのリゾート施設が展開されているので海岸沿いをブラブラしながらそれらを遠巻きに眺めていた。昨日出会った馬は今朝は鞍を付けられて乗馬観光客を迎えるべく待機させられていた。

記念すべき2010年のスタートを切ったアウトリガーをチェックアウトするとローカルバスに乗り込みビチレブ島南岸を東に向かってひた走った。3時間以上かけてバスはついにフィジーの首都であるスバのバスターミナルに滑り込んだ。

スバは南太平洋随一の大都市と呼ばれるフィジーの首都でリゾーターはほとんどこの町を訪れることはないのだが、フィジーの実態を知る上でFTBの旅程に組み込んでおいたのだ。町の雰囲気は南の島にしては大都市の様相で多くの船が停泊している埠頭や近代的な行政府のビル、カトリック・カテドラル、ショッピング・センターのビル群等が林立しているのだ。

このような都会的光景を目にするとスバはスバらしい所だと思えるかも知れないが実態は外務省も「十分注意して下さい」の警告を出しているほど強盗等の犯罪が多発している地域だそうだ。スバではブラという挨拶の割合が少なくなったものの、町をブラブラ歩いていると、とある煙草を1本手にした謎の男が近藤真彦でもない私に対して「マッチ、マッチ」と近寄って来た。♪そいつが お~れの やりかた♪である♪ギンギラギンにさりげなくぅ♪やり過ごすとそいつは♪愚か者♪に変貌することなく私の前を過ぎさって行ったのだった。

1月2日(土)

熱帯地方特有の降水量の多さで部屋にカビのフレグランスが漂っているHoliday Inn SUVAをチェックアウトするとフィジーの歴史を学習するために熱帯地方の植物が生い茂るサーストン・ガーデンを抜けフィジー博物館(F$7)を訪問させていただくことにした。

館内には各種古典ボート類やフィジアンの文化・習慣などを伝える生活用品や武器等が展示されているのだが、中でも私の関心を引いたのはフィジー人とインド人の関係の歴史であった。フィジーの民族構成はフィジー系が57%、インド系が38%となっている通り、この国にはおびただしい数のインド人が暮らしている。フィジーに最初にインド人が来島したのは1879年で当時はフィジーもインドもイギリスの植民地下にあった。イギリスはフィジーにサトウキビプランテーションを開き、その労働力として勤勉なインド人を移住させたのだが、その後移住者は増え、プランテーションの契約が切れた後もフィジーの環境を気に入ったインド人が居座り続け、今日に至っているのだ。のんびり屋でマイペースなフィジー人とは水と油のような関係であったインド人に引導を渡そうとした時期もあったそうだが、独立後インド人による産業基盤の確立が大きな役割を果たしたという実績から今ではすっかり市民権を得たインド人もフィジーに根付いてしまっているのだ。

フィジー博物館を後にし、日本から払い下げられているタクシーを横目に埠頭沖の鮮魚マーケットにおびき寄せられた。そこには水揚げされたばかりの大小さまざまなカラフルな魚やマングローブを棲家とする蟹が拉致されており、一山いくらの感覚で原住民同士の取引が展開されていた。

大都市スバの胃袋となっているマーケットは2階建てになっており、生鮮食品売り場の1階と比較して2階ではカバの儀式に使う植物の根やインド人のために色とりどりのスパイスが袋詰めで販売されていた。マーケットの外で鼓笛隊の演奏サウンドが響いていたので様子を見にいってみると何らかの新年系のパレードが展開されており、スバの年始の光景を彩っていた。また埠頭沿いではピクニックをしている家族連れも多く、何故かスカートを穿いている男性を数多く目にしたのだった。

思いがけずスバのすばらしさを実感することが出来たのでローカルバスでナンディに帰る道すがら、途中立ち寄るバスターミナルでトレイに盛り付けられラップにくるまれた軽食を購入し、車内で食った後にそのパックを窓から投げ捨てているフィジー原住民のファジーな感覚に慣れてきた頃、空港に到着した。

今日で最後となるフィジーの夕焼けを空港で眺めながら、社会復帰にいったいどれくらいの月日が必要となるのか不安に駆られながら次は離島に行かなければならないという決意を固めていた。

1月3日(日)

深夜1時40分発CO949便にてグアムに戻ってきた。早朝のグアム国際空港は年末年始をお手軽な海外で過ごしてきたエコノミー観光客で大変混雑していたのでその間隙を縫うようにしてCO961便に乗り込み午前10時前には成田空港に到着し、そのまま流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー

総飛行機代 \142,710

総宿泊費 F$1,560.46 (F$1 = \50)

総バス代 F$41.10

協力

コンチネンタル航空、HILTONHHONORS、STARWOOD、INTERCONTINENTAL HOTELS GROUP

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