FTBEUウィッシュ、アウシュヴィッツ、プラハの春 & ベルリンでヒットラーをひっ捕らえよツアー

ウィッシュ マサよ!

ということで、元総理大臣と同じ名前を持つ私はそのアドバンテージにもかかわらず、決して売名行為に走ることはなかったのであるが、世の中には」「ウィッシュ!」と調子をこきながらおじいちゃんの威光を利用して訴求効果を高めているミュージシャンも生息している。定額給付金のバラマキも決まったところで将来の消費税率の上昇もセットにされ、竹下元総理も草葉の陰でほくそえんでいることであろうが、今回はふるさと創生について今一度考え直すべく社会主義から自由主義への開放が進んでいるダイゴ味を実感するために東欧を視察することとなった。

2009年5月1日(金)

先週奥州から帰ってきたばかりなのに今度は欧州に足をのばすために成田空港に向かった。昨今の豚インフルエンザの脅威により、空港ではマスクをした輩との遭遇の応酬が予想されたが、意外なことにマスクをした観光客や空港職員は全体の17%程度だと見受けられた。野村監督や城島と同等の野球人である私はキャッチャーマスク以外のマスクをかぶる事を潔しとしないのであるが、手荷物検査で押収される恐れがあるため、今回はスッピンで旅立つこととなったのだ。

GW期間の航空運賃の高騰の影響を避けるため、今回はかつて南周り航路と呼ばれたルートを使ってヨーロッパに旅立つべくANA111便シンガポール行きに午前11時に搭乗すると機内で邦画「感染列島」を見て伝染病蔓延の恐怖を刻み込むことにした。また、主演の檀れいが「淡麗」ではなく「金麦」のCMに出ている現実を直視して、キリンの営業力のなさを嘆きながらサントリー・プレミアムモルツを痛飲していたのだった。午後5時過ぎにはシンガポールに到着したものの、シンガポール航空SQ26便の出発まであと6時間以上あったので広いシンガポール・チャンギ空港内をジョギングしながら疫病に対する免疫力を高めようとしていた。

5月2日(土)

移動手段と宿泊設備を兼ねた機内で12時間以上過ごした後、午前6時過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。早速ルフトハンザ航空LH3300便に乗り換え、1時間半程のフライトでポーランドの首都ワルシャワに午前9時半前に到着した。ワルシャワ・オケンチェ国際空港到着ビーには何人かの花を手に持った輩を見かけたのだが、ポーランドでは友人や家族と再会するときには花を贈るという文化があるためだ。

市バス(PLN2.8)で30分程かけてワルシャワ旧市街にやってきた。旧王宮の前で何らかのセレモニーが行われている様子で吹奏楽隊による演奏と大砲が高らかに打ち鳴らされ、あたかもFTBの東欧進出を祝っているかのようだった。ワルシャワ歴史地区は世界遺産に登録されており、その中心である旧市街市街広場に迷い込んだ。広場の中央には勇猛そうな人魚像Pomnik Syrenkiが剣を振り上げ、来る者を威嚇するかのように虚勢を張っていた。周囲には馬車の列や露天の画商やカフェが並び周囲を取り囲むカラフルな建物群とのコントラストによりマサに観光客を中世にタイムスリップさせてくれるのである。

旧市街を抜けてしばらく歩いているとふとイボイボを持つ緑の細長い野菜のことが頭に浮かんだので目の前の建物に目をやるとそこは現在博物館として公開されているキュリー婦人の生家であった。今日は何かの祝い事のために休館だったため、中に入ってラジウムの研究は出来なかったので帰国して糠床をかき混ぜて一夜漬けでキャッチアップしなければならないと思われた。キューリが萎んでしまった感覚を引きずったまま、ワルシャワ蜂起45周年を記念して1998年8月に建てられたワルシャワ蜂起記念碑にお参りすることにした。第二次世界大戦の末期にドイツ軍に対して一斉に蜂起したワルシャワ市民であったが、ソ連軍の援軍が得られなかったため、蜂起は水分の無くなったキューリと同様に次第に力を失い、20万人の死者を出した挙句にほとんどの市街を破壊され、10月2日に降伏を余儀なくされたその苦しみや無念さが兵士達の像から伝わってくるかのようだった。

旧市街の北にバルバカンという15~16世紀に造られたバロック様式の砦があるのだが、これは火薬庫や牢獄として使われていたファシリティで第二次大戦で破壊された後、1954年に見事に復元を果たしたそうだ。コンパクトな造りながらワルシャワの歴史をわかりやすく展示しているワルシャワ歴史博物館(PLN8.-)で破壊と再生について考えさせていただくことにした。第二次大戦時にドイツによって破壊の限りを尽くされたワルシャワの様子が写真と記録映画に残っているのだが、戦後首都の復興にかける市民の情熱が壁の割れ目1本にいたるまで忠実に再現して都市を見事に復元させてしまった様子にポーランド人の心意気を感じずにはいられなくなるのだった。

かつての王の住居であり、国会や大統領執務室として、また士官学校や国立劇場がおかれるなど、文化、政治、経済の中心であった旧王宮(PLZ22.-)を見学することにした。ここも第二次大戦により破壊されたのだが、「王の広間」にあった最も価値の高い調度品は美術史家、復元専門家等の手で国外に持ち出されていたために難を逃れていたのが幸いしてバロック様式の建物の内部は1596年にポーランドの首都をクラクフからワルシャワに移したジムグント3世の時代そのままの様子を今も伝えているのだ。

王宮広場から南へ伸びるクラクフ郊外通りはかつて「王の道」と呼ばれた美しい建物群が林立する通りである。大統領官邸とワルシャワ大学を過ぎると今まで誰も異議を唱えることがなかった常識を疑ってみたくなるような感覚を覚えるのだが、そこには地動説を唱えたコペルニクスの像が地蔵のような頑固さで固まっているのだった。尚、コペルニクスはワルシャワ西北180kmにあるトルンの出身だそうだ。通りにビール、ハム・ソーセージやパンなどを売りつける屋台が展開されていたのでとりあえずビールと食パンにバターとキューリをなすりつけたものを買い食いして空腹を満たした後、今日の宿泊先であるシェラトン・ワルシャワ・ホテル&タワーズに荷物を置いてワジェンキ公園に向かった。

ヨーロッパで最も美しい公園のひとつに数えられ、ワルシャワ市民の自慢の種でもあるワジェンキ公園でまず観光客の目を引くのはアールヌーヴォー様式のしだれ柳の傍らに腰掛ける地元ポーランド出身のショパンの像である。また、17世紀末に当時のポーランド王ヤン3世ソビエスキが建てた夏の離宮であるヴィラヌフ宮殿の周りでは放し飼いにされている孔雀がジュディ・オングのようにその美しい羽を広げて観光客の目を引き付けるのに一役買っていた。

Centrumというワルシャワ中央駅周辺地域は近代建造物が林立しているのだが、中でも文化科学宮殿は高層建築の少ない調和の取れたワルシャワの町にはまるで似つかわしくない権威主義的な建物で「ソビエトの建てたワルシャワの墓石」などと呼ばれており、贈り主のスターリンも草葉の陰で余計な事をしたしまったと後悔の念に苛まれているはずである。

5月3日(日)

早朝文化科学宮殿前で客待ちをしているタクシーでぼったくられることなく空港に戻り、LOTポーランド航空LO3907便プロペラ機に乗り込むと1386年~1572年までポーランド王国の首都として栄えた古都であるクラクフまでひとっ飛びで移動し、ヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港からシャトル列車に乗り換えてクラクフ本駅に到着すると午前10時35分発のオシフィエンチム行きのバスに乗り込んだ。

マサよ、君はホロコーストの現実を目の当たりにして、ホロホロと涙をこぼすほどの衝撃を受けたことがあるか!?

ということで、乗客を収容したバスは1時間半程の時間をかけてクラクフの西54kmのところにある町オシフィエンチムの郊外にあるドイツ名「アウシュヴィッツ」に到着してしまったのだ。人類の負の世界遺産として登録され、現在博物館(入場無料)として一般公開されているアウシュヴィッツ強制収容所は人類が犯した過ちを永遠に記憶にとどめなければならない重要な場所として位置づけられている。

早速インフォメーションセンターで日本語の資料を購入すると収容所跡の見学をさせていただくことにした。収容所の入り口であったゲートには「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という文字がむなしく掲げられており、収容所のシンボルとなっている。内部には28棟の「囚人棟」があり、そのうちの15棟が博物館として公開されているのだが、特に見学者の目を引くものはこの囚人棟で行われていたナチスによる戦争犯罪の動かぬ証拠である。

5号棟では、ナチスが連行した人々から没収した衣類、靴、トランク、さらには遺体から取り外された義足、義手やメガネ等が山積み展示されており、また、ガス室で「チクロンB」という明らかにアリナミンAやリポビタンDといった滋養強壮ドリンクとは異なる劇薬により大量殺戮された囚人たちから切り取られた膨大な量の髪の毛やそれらを使って織られたカーペットがホロコーストの壮絶さを無言で語っていた。尚、チクロンBは気化しやすいため、密閉していた空缶の多さからも当時の常軌を逸した愚行が伝わってくるかのようだった。

「死のブロック」と命名された11号棟は、内部までほぼ当時のままの姿をとどめており、臨時裁判所、監禁室、鞭打ち台、移動絞首台、飢餓室、立ったまま身動きが取れない立ち牢などが残されている。10号棟と11号棟の間にある壁は「死の壁」と呼ばれ、何千人もの人が銃殺に処された場所で多くの花束が手向けられていた。

囚人の数が増大すると同時に、収容所地域も拡大していった。そして、収容所というよりもむしろ巨大な殺人工場に変貌を遂げていったアウシュヴィッツは1942年にはオシフィエンチムから3km離れたブジェジンカ村にビルケナウと呼ばれるアウシュヴィッツ2号をオープンさせた。その収容所の面積は約175ヘクタール(約53万坪)で、300棟以上のバラックがあった。

ビルケナウの正門は囚人から「死の門」と呼ばれ、中央衛兵所の棟からは全体が見渡せるようになっており、その下には100万人以上の囚人を運んだ鉄道の引込み線が不気味な静けさで収容所の奥まで伸びているのだ。いくつか残っている木造バラックの中には3段ベッドが設えられており、囚人は衛生状態が悪い腐った藁の上で寝かされていたため、疫病が蔓延していたという。

鉄道の引込み線の終点にはナチス政権下犠牲者国際記念碑が建てられており、その両隣にナチスが撤退する際にホロコーストの証拠隠滅のために爆破解体したガス室・焼却炉がその不気味な残骸として観光客の恐怖を煽っているかのようであった。当時は汽車で到着したユダヤ人はシャワーを浴びさせると騙され、洋服を脱がされて、シャワー室に見せかけた地下の部屋まで歩かされた。210平方メートルの部屋に約2,000人が押し込まれ、扉を閉じてから、天井の穴からチクロンBが投入されると中の人間はものの15分で窒息死してしまうのだ。

アウシュヴィッツで戦時下における人間の狂気によって犯される愚行の結末を学んだ後、バスでクラクフに帰ることになったのだが、最終便のバスが満席だったため、立ち牢に収容された感覚を引きずりながら1時間半の擬似囚人体験を満喫することが出来た。

5月4日(月)

アウシュヴィッツ訪問のゲートウエイシティとなっているクラクフであるが、「ワルシャワが東京とすればクラクフは京都」とも例えられる歴史的な町並みは、1978年に世界遺産に登録されているのでついでにクラクフの観光もしておくことにした。

まず最初に1498年に建立された重厚な円形の砦であるバルバカンをちら見させていただいた後、中世から残っている広場としてはヨーロッパ最大を誇る中央市場広場に迷い込んだ。広場の中央には織物会館と呼ばれる14世紀に建立されたルネッサンス様式の堂々たる建物が君臨している。会館内には土産物屋が数多く並んでおり、織物だけでなく民芸品やアクセサリー屋もぎっしり並んでいる。中央市場広場に面する聖マリア教会は1222年に造られたゴシック様式の大きな建物で内部は恒例のステンドグラスや芸術品で美しく演出されているのだ。

クラクフ旧市街の南の外れ、ヴィスワ川のほとりの高台に歴代ポーランド王の居城として名高いヴァヴェル城がそびえている。その南の麓の川べりに近いところに龍に関する勧善懲悪の伝説が残されている「龍の洞窟」があり、人々を威嚇するようにチープな龍の銅像が定期的に火を噴きやがっていた。

登城道を登り、城門をくぐると3つの礼拝堂をもつヴァヴェル城大聖堂(PLZ10)の存在感に圧倒されることになる。1320年にゴシック様式で着工されてから、数世紀にわたってルネッサンス様式やバロック様式が加えられた大聖堂はクラクフからワルシャワへの遷都後の18世紀まで歴代ポーランド王の戴冠式が行われていたファシリティである。北側のジグムント塔には1520年に鋳造されたポーランド最大の鐘が吊るされており、宗教上および国の特別な行事の際にもったいぶって鳴らされるといわれている。尚、この鐘は釘を一切使わずに木だけを使って組み立てられた周囲8mの台にインストールされているのだ。

16世紀初頭にジグムント王が建てたゴシックとルネッサンスの複合様式のヴァヴェル城旧王宮の内部は博物館になっており、今日は宝物・武具博物館と古いヴァヴェル城遺構が特別に無料公開されていたので存分に満喫してから下城させていただいた。道行く途中で前ローマ法王のヨハネ・パウロ2世の記念碑を崇めた後、ヤギェウォ大学に入学した。1364年にポーランドで最初に創立されたこの大学はコペル・ニクスやヨハネ・パウロ2世といったそうそうたるOBを抱えており、成績優秀であったはずのヨハネ・パウロ2世は回りの学生から「ほ~お~」と常に感心されていたそうだ。

再び中央市場広場に戻り、旧市庁舎の塔の前で打ち首にされていた巨大な銅像の雁首の意味を理解できないままクラクフ本駅から列車に乗り、ヨハネ・パウロ2世・クラクフ・バリツェ国際空港に帰って行った。LOTポーランド航空でワルシャワを経由して春まだ浅い寒気を感じるチェコのプラハ・ルズィニェ空港に到着したのは午後7時半を過ぎた時間であったので空港に付属しているホリデーインホテルにマサであればEURO85くらいかかるところをIHG ANAホテルポイントを使ってただで宿泊し、しばしプラハの春を待つことにした。

5月5日(火)

1992年に世界遺産に登録されたプラハ歴史地区解明の第一弾としてそのシンボルとも言うべきプラハ城に登城する朝を迎えた。ヴルタヴァ川の西岸、小高い丘フラッチャニにそびえる聖ヴィート大聖堂の威風堂々とした外観に度肝を抜かれながらも気を取り直してチケットA(CZK350)を購入すると早速その内部をくまなく探索することにした。この大聖堂はもともと930年に建造されたロトンダ(円筒型のシンプルな教会)から端を発し、14世紀のカレル4世の時代に現在のような堂々たる建物に改築され始めたそうだ。建築は1420年まで続き、その後もバージョンアップが繰り返され、最終的な完成を見たのは20世紀に入ってからのことであった。

聖ヴィート大聖堂で胸のビートが高鳴り、目眩を感じたので旧王宮で応急処置をすることにした。ヴラディラフホールは完成当時はヨーロッパ最大のホールで梁が肋骨上の模様となっているアーチ型の天井が印象的である。またこのホールに付属しているバルコニーからはプラハ市街眺望が堪能でき、何とか胸の鼓動を正常に戻すことが出来た。

聖ヴィート大聖堂と旧王宮の間を通り抜けるとイジー広場に出た。その北面にはロマネスク様式の2本の白い尖塔を持つ聖イジー教会が920年に完成したのち、現在まで維持~されている現実を目の当たりにした。チケットAには「プラハ城についての展示」と国立博物館の入場券も含まれているのでそれらを軽くこなしてプラハ通に成り上がった後、色とりどりの小さな家が並んだおとぎ話のような世界である黄金小路に迷い込んだ。ここは元々1597年に出来たもので当時は城に仕える召使いなどが住んでいたという。黄金小路に建ち並ぶ家々の2階はすべてつながっており、中世の武器や甲冑が展示されているのだが、実写版「科学忍者隊ガッチャマン」のような仮面が来る人すべてに♪だれだ だれだ だれでゃぉ~♪と子門真人よろしく問いかけているかのようだった。

黄金小路を♪命ぅを~ かけてとびだせば~♪そこはダリボルカと呼ばれる塔であり、中世には牢獄として使われていたファシリティだった。さらに真反対の城の正門に回りこみ正午からの衛兵の交代式に参列させていただいた。建物の窓に陣取った音楽隊のファンファーレと共に衛兵の行進がスタートし、無表情のまま粛々と式は進行し、滞りなく業務の引継ぎが完了する瞬間を目の当たりにすることが出来た。

正門の前の広場ではにわか専門的クラシックパフォーマーがスメタナの交響詩「我が祖国」で有名なヴルタヴァ(モルダウ)の美しい旋律で観光客の足を止めさせていた。城の高台から下界に降りる道すがら、プラハの建物のオレンジ色の屋根が醸しだす小奇麗な景色を十分堪能させていただいた。HILTONHHONORSのポイントが余っていたのでマサであればCKZ2,500くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るヒルトン・プラーグホテルにチェックインするとガラス張りの天井まで吹き抜けになっている広々としたロビーを抜けてどんより曇ったプラハ旧市街に繰り出すことにした。

プラハでひときわ豪華な装飾が施された建造物があるのだが、これは市民会館で内部には音楽祭「プラハの春」の会場となるホールが内蔵されており、プラハ市民はこの会館で快感に浸れるようになっているのだ。旧市街に到着すると緑青グリーンでコーティングされたヤン・フスの銅像が目に飛び込んできた。「フ」に濁点がつくと女性からの指示が得られなかったであろうフスは15世紀における宗教改革の先駆者で腐敗したローマ教会を厳しく批判した結果、火あぶりの刑に処せられ、それが彼のカリスマ性にも火を付けフス派と呼ばれるフスの信奉者たちは以後カトリック教会と激しく戦うこととなったそうだ。

広場の東に2本の塔を天に突き刺している教会が1135年に建てられたティーン教会であるが、中に入ることが出来ないのでそれに対抗するかのような存在感を示している旧市庁舎に足を向けた。元々は塔の横にも建物があったそうだが、第2次大戦中ナチス・ドイツにより破壊されてしまったそうだ。午後3時近くになると旧市庁舎塔の側面の下におびただしい数の観光客が群れをなしてきた。何事かと思って目を上げると神秘的な造形の天文時計が壁にインストールされていることが確認され、しかも3時の時を告げるタイミングで仕掛けが動き出し、キュートなガイコツ君が鳴らす鐘の音と共に窓から12人の使徒が財務省の使途不明金を批判するかのように順番に現れ、最後は時計の一番上に現れる鶏が鳴いてあっけなく終了したのだった。

旧市街で白い壁がひときわ輝いている聖ミクラーシュ教会で午後5時からのコンサートの案内ビラが配られているのを確認した後、ヴルタヴァ川にかかるプラハ最古の美しい石橋であるカレル橋に向かった。この橋は14世紀後半から15世紀の初めにかけて、カレル4世の時代にゴシック様式で建造されたもので、全長520m、幅は約10mもある。カレル橋の上では常に世界各国からの旅行者があふれ、、ストリートパフォーマーや土産物屋で枯れるどころか大変な賑わいを見せている。橋の欄干には左右15体づつ、合計30体の聖人像が配置されており、その中で聖ヤン・ネボムツキー像のレリーフに触れると幸運が訪れるということで触れられた部分は不自然な輝きを放っていた。

建築博物館とも称されるプラハであるが、新市街にもいくつか特徴的な建造物がある。プラハ随一の繁華街となっているヴァーツラフ広場は、大通りといったほうがむしろ似つかわしい感じでその頂点には国立博物館が堂々と立ちふさがっている。国民劇場は「チェコ語によるチェコ人のための舞台を」というスローガンの下に集められた国民の寄付などで1881年に完成したチェコ人が自らのアイデンティティをかけたチェコ文化復興の象徴たる劇場である。多くの国際列車が発着するプラハ本駅はアールヌーヴォー様式で装飾された華麗な丸天井が特徴的であるが、残念なことに地下の男子トイレが使用禁止になっていたのだった。

5月6日(水)

♪ボヘミア~ァァァン や~ぶれか~けの タ~ロット投~げて~ 今宵もぉぅぉぅぉぅ あなたの行方占ったひ~と~♪

というわけで、プラハから東へ65km、中部ボヘミアに位置する都市クトナー・ホラに葛城ユキ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E%E3%83%A6%E3%82%AD)の幻影を求めてバスで1時間半程の時間をかけて行って見ることにした。13世紀に銀鉱山の町として栄え、当時はボヘミア地方第2に都市だったクトナー・ホラは16世紀に銀が枯渇して衰退するまでの栄光が町の至る所に残っており、その歴史都市は世界遺産に登録されているのだ。

クトナー・ホラで圧倒的な存在感をもってそびえる聖バルバラ聖堂(CZK60)の名前になっているバルバラは坑夫の守護聖人であり、建設資金のほとんどがカトリック教会ではなく市民たち自身によって調達されたと言われている。この大聖堂は1338年に建設が開始され、1558年にひとまずの完成を見ている。その後も改修が続けられ、17から18世紀にはバロック様式の影響も加わっている。聖堂の内部をよく観察すると17世紀頃の民族衣装を着けランタンを掲げた坑夫の像、貨幣鋳造職人たちのフレスコ画などが見られ、坑夫たちの気休めのために建てられたという歴史を雄弁に物語っているのだ。

聖バルバラ聖堂を出て小ぶりながら造形美が特徴的な石の泉をちら見した後、ファサードの精巧なレリーフが印象的な石の家(CZK40)に立ち寄った。この石の家は田中邦衛が富良野に造ったものとはレベルが違い、内部は博物館にもなっており、クトナー・ホラの美術や工芸品が展示されているのだ。

昔の銀鉱山の跡をガイドツアーで見ることが出来るフラーデク鉱山博物館の14:30のツアー(CZK110)に首尾よく潜り込むことが出来たので財務省を凌駕する錬金術を身に付けるために参加させていただくことにした。尚、ガイドはチェコ語のみで行われるため、英語の説明資料を拝借してまずは試し堀り系の穴を軽く見学させていただき、その後大きな木製粉砕機がインストールしてある建屋でオリエンテーションを受けることになった。

雨と水滴が染み込んだ白い作業着とヘルメットを見に付けさせられ、1人1個の電池寿命が長そうな懐中電灯を手渡されていよいよ地下の坑道跡のツアーがスタートすることとなった。肥満人間にダイエットの必要性を実感させるような狭い坑道をあるときは身を屈めながら進み、ところどころでチェコ語ガイドの理解することの出来ない説明を加えながら銀の採掘がいかに大変な作業であったかを身を持って体験することに成功した。坑道を出ると銀の製錬や硬貨の鋳造現場を人相の悪い人形で再現した展示室での説明を持って1時間半にもおよぶツアーは幕を閉じたのであった。

5月7日(木)

昨晩宿泊した1952年~54年に建立されたアールデコ様式の建物を利用したクラウン・プラザ・プラーグをチェックアウトするとトラムと地下鉄を乗り継いで旧市街に舞い戻ってきた。「百塔の町」と称されるプラハの遠景を自分の目とデジカメのSDメモリーに焼き付けるためにCZK100を支払って旧市庁舎の塔に這い上がることにした。高みよりプラハの市街を見下ろしていると1968年に旧チェコスロヴァキアで始まった政治改革である「プラハの春」や1989年に共産党政権が無血革命で崩壊した「ビロード革命」の場面が走馬灯のように流れていくような妄想に駆られていた。

ユダヤ人と言えば苦難の歴史がつきものだが、ユダヤ教徒が住むことを許された一定の地区はゲットーと呼ばれ、他とは隔離された地域に密集して住んでいた。プラハでは旧市街広場のすぐ北にユダヤ人地区が歴史の重みを背負ったまま観光地化されているので少しでもその苦難を理解するために足を踏み入れることにした。早速ユダヤ博物館のセットチケット(CZK300)を購入するとまずはピンカスシナゴーグに侵入した。尚、シナゴーグとはユダヤ教徒の祈りの家や教会を指すファシリティでこの地区には多くのシナゴーグ(内部写真撮影禁止)が存在しているのだ。

ピンカスシナゴーグの内部の壁一面にナチスに殺害されたユダヤ人およそ8万人の姓名とその死亡場所および死亡年月日がびっしりと書き連ねられているのだが、この地区にはドイツ占領下の各国からユダヤ人が狩り集められ、ここからさらにアウシュヴィッツのような強制収容所へ転送されたという。ピンカスシナゴーグを出ると旧ユダヤ人墓地の入り口につながっている。1万2000墓もの石板状の墓石が無造作に放置されているように感じるこの墓地は一種異様な雰囲気を醸し出しているのだが、1787年にこの墓地はキャパ不足であると思われる理由で廃止され、以後新しく埋葬された者はいないそうだ。

旧ユダヤ人墓地の出口の近くに儀式の家がオープンしている。この建物はもともと儀式のためのホールであり、遺体置き場でもあったそうだが、現在はユダヤの伝統や生活習慣、なかでも病気や死生観、墓についての情報が満載されている。その後クラウスシナゴーグ、マイゼルシナゴーグの見学を立て続けに行い、スペインシナゴーグではユダヤ民族の歴史に関する展示も確認した。中でも第二次大戦中に「JUDE」のバッジをつけさせられたユダヤ人の写真が何か大切な物を語りかけているかのようであった。

旧新シナゴーグ(CZK200)がユダヤ人地区で別料金を徴収し、独立した存在感を漂わせているので現役シナゴーグとしての機能に敬意を表してお邪魔させていただくことにした。1270年頃に建てられたゴシック建築のシナゴーグはヨーロッパ最古の物でもともとは新シナゴーグと名乗っていたのだが、16世紀以降新しいシナゴーグが林立しやがったため、このような回りくどい名前になってしまったのだ。内部には16世紀のラビ(ユダヤ教の司祭)レウが使ったと言われるイスや、ダビデの星が中央に描かれたユダヤ紋章旗などが目を引いた。

これまでのツアーでポーランドやチェコにおけるユダヤ人の虐殺に対して言いようのない憤りを覚えたのでナチスのご本尊であるベルリンに乗り込むことが決断された。その前にくすんだ黒が独特の存在感をかもし出す火薬塔で火薬を入手すべく塔の頂上(CZK70)まで登ってくまなく探したのだが、見つかったのはプラハ市街の絶景だけであった。

プラハ・ホレショヴィツェ駅というベルリン、ワルシャワ、ブタペストなど旧東欧諸国の国々とを結ぶ列車が発着する駅から12時40分発のドイチェ・バーンの列車を転がして、4時間半もの時間をかけてドイツの首都ベルリンまでやって来た。思えばナチスのヒットラー、ガミラスのデスラーから総統の職務を引き継いだ私にとってベルリンは約束の地でもあったのだ。列車は定刻17:20にベルリン中央駅であるBerlin Hauptbahnhofにすべりこんだ。到着後は右も左もわからない状態であったため、とりあえずベルリンとその近郊の乗り物がすべてフリーパスになるBerlin Welcome Card72時間有効分をEURO25で購入し、Sバーン(近郊列車)とUバーン(地下鉄)を乗り継いで今日の宿泊地であるヒルトン・ベルリン近くの駅に降り立った。

ホテルにチェックイン後、Berlin Welcome Cardに支払った大金の元を取るために、夕暮れ時のベルリン市街を軽く散策することにした。ユダヤ人の虐殺に対して憤懣やるかたない気持ちを引きずって町を歩きはじめたのだが、市の中心部にHolocaust Mahnmalという虐殺されたユダヤ人を追悼するメモリアルを目の当たりにした瞬間にドイツ人がどいつもこいつも反省している気持ちが伝わってきたので許してやることにした。その近辺にはブランデンブルク門という東西ドイツ統一の象徴がそびえているのだが、かつてはここに近づくことさえ許されなかったという。事実ドイツ自身も戦争による被害を被っているので東西分断から統一への歴史も解明していく必要性があらためて認識された。

ドイツ連邦議会議事堂が午後10時まで屋上にあるガラス張りの中央ドーム内部の見学を無償で提供している事実が判明したので30分の入場待ち時間をやり過ごし、金属探知機を通過後エレベーターで屋上に向かった。中央ドームには螺旋階段が巡っており、頂上では吹き抜けになった天井から青空が覗いていた。多くの観光客は寝転がりながらどいつもこいつもボケ~と空を見上げていやがった。尚、頂上は当然のことながら360度の展望を提供しており、無償パンフレットによるOutlooksの説明のフォローアップ体制も出来ているのだ。

5月8日(金)

昨晩ドイツ人のユダヤ人虐殺の反省の気持ちが形になっている現実を確認出来たので、早く戦争を終結させるためにベルリンからSバーンに乗り30分程で到着するポツダムに向かった。ベルリン近郊にはいくつかの宮殿が残っており、ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群はユネスコの世界遺産に登録されている。まず手始めにフリードリヒ大王が愛したサンスーシ宮殿(EURO12)から攻めることにした。サンスーシとは憂いのないという意味で、各国の観光客が見学中に憂いを感じないようにチケット売り場で各国語に対応したオーディオガイドを貸与する仕組みになっている。ガイドから流れる回りくどい日本語の説明に耳を傾け、フリードリヒ大王の執務室や彼が敬愛したヴォルテールの部屋をふくらはぎを伸ばしながら見た後、宮殿まで段々になっている庭園を経由して大きな風車がゆっくり回っているファシリティまで到着するとお約束の正装したパフォーマーがフルートを吹いていた。

ポツダムくんだりまで来てポツダム宣言を受諾しなければ「耐えがたきを耐え」てきた日本国民に申し訳ないと思ったのでポツダム宣言が採択されたツェツィーリエンホーフ宮殿(EURO8)まで足を伸ばすことにした。20世紀の初めに建てられたこの宮殿はホーエンツォレルン家最後の王子、ヴィルヘルムが家族と住んでいたところであるが、スターリンがポツダム会議の会場としてこの場所を選んだという歴史的事実によりそんな王子のことはどうでもよくなったのである。お約束のオーディオガイドでセルフツアーを進行させていると宮殿の各部屋がソ連や各国の控室になっていたりした等の歴史的事実が臨場感のあるものとして伝わってきた。特にメイン会議室ではテーブルに各首脳国の国旗が立っており、アメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長をはじめ各国の外務大臣や通訳の席順が示されており、ドイツの民主化という大義名分のもと、交渉を有利に運ぼうとする緊張感も現場に残されていた。

ポツダム宣言の受諾により戦争を終結させ、心の平穏を取り戻すことに成功したのでベルリンに戻りMuseumsinselと呼ばれる博物館の島に向かった。ベルリン大聖堂に見守られたこの島にはボーデ美術館や旧博物館等、その外観だけでも見ごたえのある建造物も多いのであるが、その中で展示品のスケール感に圧倒されるペルガモン博物館(EURO10)に入場することにした。

博物館の名前となっているペルガモンは現在のトルコにあり、そこからはるばる運ばれた祭壇には外側に様々なレリーフが施されている。その中でもひときわ有名な物は伝統の一戦であるはずの「神々と巨人族のレリーフ」であろう。この状況は日本における阪神・巨人戦で巨人が11連勝しているように巨人族が神々を圧倒しているように見受けられた。伝統の一戦の他にもミレトス市場の門、バビロンのイシュタール門といった甲子園球場並みの非常に規模の大きな遺跡が所蔵されており、鐘やラッパやジェット風船に依存しなくても観客は十分に興奮のるつぼに陥ってしまうのだ。

ペルガモン博物館を完封した後、SバーンとUバーンを乗り継いでシャルロッテンブルク宮殿に到着したのだが、延長12回時間切れ引き分けのため、もはや中に入ることが出来なかったのでその外観だけを記録にとどめておくことにした。さらにUバーンを乗り継いでKaiser Wilhelm Memorial Churchに到着した。この教会は戦争の恐怖を記憶に焼き付けておくため、あえて爆撃された当時の状況そのままに放置されているように見受けられた。

マサよ、君は近代的なビルや歴史的建造物が林立するこのベルリンはかつて「壁」というもので東西に分断されていたという歴史的事実におののいたことがあるか!?

ということで、1989年も暮れかかり日本のバブルがピークを打った頃、大和証券の優秀な若手営業マンであった私は巨額のコメルツ銀行株やダイムラー・ベンツ株の注文をさばき、その功績により外国株式部よりドイツ製の名刺入れを授与された実績があるのだが、その時がマサにベルリンの壁崩壊のタイミングであったのだ!ベルリン市内には現在でも壁の残骸を各所に残しており、当時の壮絶な状況が今に伝えられている。中でも「チェック・ポイント・チャーリー」と呼ばれるポイントは東西両陣営の対立を象徴する検問所であり、幾度にもわたってデモの舞台となっているのだ。

「チェック・ポイント・チャーリー」の目の前に「壁」の博物館(EURO12)が立ちふさがっているので人生の壁を越えるための何かのヒントが得られることを期待して入ってみることにした。1961年8月13日、西ベルリンは旧東独武装部隊によって完全封鎖され、「壁」の敷設が始まり「西ベルリン包囲網」の全長は155kmにもおよんだ。館内の展示では地下を掘って西側へ脱出する人々のフィルムやフォルクス・ワーゲンのトランクの奥に隠れて検問を突破しようとして見つかってしまうテクニックやハング・グライダーやチープな飛行船を使って壁を越える等、失敗を恐れず命がけのチャレンジの歴史が所狭しと示されているのだ。また、破壊された壁の残骸はまだふんだんに在庫してある様子で博物館付属のショップでカプセルに入れられて販売されていた。

この歴史的事実を目の当たりにして、日本においても戦後東西両陣営に分割され、マサの居住する埼玉県浦和市を含む東日本は「ソ連邦ジャポニカ連合共和国」として統治されていたかも知れないと思うと消費税アップぐらいではおちおち文句を言うことは出来ないと思われたのも事実である。 

5月9日(土)

昨夜の宿泊先であったウエスティン・グランド・ベルリンの前に置いてあるベルリンの壁の残骸に別れを告げるとUバーンとバスでベルリン・テーゲル空港に向かった。空港に向かう道すがらBerlin Welcome Cardに支払ったEURO25の元を取ることが出来なかった後悔の念を飲み会で割り勘負けしたときの損失と比較検討していた自分に気づいていた。

旧東ドイツ陣営のせいかドイツの首都のわりにはチープなベルリン・テーゲル空港からルフトハンザLH179便にてフランクフルト国際空港に帰ってくると数時間後にはシンガポール航空SQ25便の機上の人になっていた。機内で「K-20怪人二十面相・伝」を見ながらグリコ・森永事件の犯人である怪人21面相こと、きつね目の男は実は着ぐるみに身を包んだ東山紀之でジャニーズ事務所の圧力によりもみ消されたのではないかという心配に駆られてしまい眠ることが出来なかった。

5月10日(日)

午前6時過ぎにシンガポール空港に到着し、その2時間後にANA112便に乗り換え、午後4時半過ぎに成田に到着。検疫で黄色い紙をもらった後、空気中に浮遊しているはずの豚インフルエンザ・ウイルスを避けながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥68,850、シンガポール航空 = S$1,899、ルフトハンザ・ドイツ航空 =  ロト・ポーランド航空 = PLN664.99

総宿泊費 PLZ693.12, CZK2,300.-, EURO269.-

総ポーランドバス代 PLN22.8 (PLN1 = 約¥29.-)

総ポーランド鉄道代 PLN15.-

総ポーランドタクシー代 PLN31.-

総チェコバス代 CZK162.- (CZK1 = 約¥5.-)

総チェコ地下鉄、トラム代 CZK78.-

総鉄道代 CZK1,133.-

協力 ANA、シンガポール航空、ルフトハンザ・ドイツ航空、ロト・ポーランド航空、HILTONHHONORS、SPG、IHG ANAホテルズ

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