♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カステラ~~♪
というわけで、大地震クラスの余震におびえながら暮らしている今日この頃であるが、ヨーロッパの最西端ポルトガルでは与信が破綻し、ついに財政危機に陥ってしまった。大航海時代にはスペインとともに7つの海を制覇し、日本にも鉄砲やカステラを伝え、種子島を歴史の表舞台に引きずり出し、文明堂を開花させたポルトガルの栄光は遠い過去のものとなっているのだが、これから金融危機を迎えようとする日本にとってポルトガルは対岸の火事とは思えないので、危機下での庶民の暮らしをいち早く思い知るために南蛮に旅立つこととなった。
2011年4月19日(火)
午前11時50分発の空席の目立つNH207便は定刻通り出発となり、午後5時にはミュンヘン国際空港に到着した。ルフトハンザ航空のラウンジでドイツのビールを牛飲しながら時間をつぶした後、午後7時35分発LH1792便に乗り換えると3時間程度のフライトで午後10時前にリスボン空港に到着した。今日は着いた時間が遅かったので空港近くのHoliday Inn Lisbon Airportにそそくさとタクシーで移動してドイツで吸収したアルコールを抜くことに専念した。
4月20日(水)
幼少時代にテレビやラジオから流れる明月堂のカステラソング(http://www.meigetsudo.co.jp/04movie.html)を子守唄にして育ち、おいしいものを伝えるためにわざわざ船を漕いでやってきたポルトガル人に敬意を表するために、いつかポルトガルに行かなければならないと常々思っていたのだが、遅ればせながらついにポルトガルの土を踏むことになった。
空港近くのホテルからリスボンのセントロまでは7km近くの距離があるのだが、町の雰囲気を肌で感じるために軽く歩いてみることにした。ポルトガルは日本の4分の1の面積の国土を持ちながら人口は約1070万人で首都リスボンに至っては約50万の人々しか暮らしていないので町行く人もそんなに多くなく非常にのんびりした印象を受けた。
広い道とカラフルなアパートが目立つ市街地を抜けるとテージョ川沿いにそびえ立つ水色が眩しいサンタ・アポローニア駅に到着した。川沿いの建物の壁にはアートとも見紛える落書きが施されており、この国の芸術レベルの高さを垣間見ることが出来る。
とある建物の前でテレビクルーが参集している光景を目撃したのだが、どうやらそこはポルトガルの財務省関係のファシリティらしくマサのような官僚をとっ捕まえて財政危機に対する対応策を問いただそうという姿勢が見て取れた。リスボンの海の玄関口として広がるコルメシオ広場を通り過ぎると遠くに4月25日橋がその全容をあらわにした。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを彷彿とさせるこの橋は1966年に完成した全長2278mのつり橋であり、上段は車、下段は鉄道用としてリスボンと対岸との大動脈となっているのだ。
リスボン中心部からテージョ川沿いに6km程西にあるのがベレン地区である。ここには16世紀初めにエンリケ航海王子を中心に海洋国としての地位を確立したゆかりのファシリティ群があり、しかも世界遺産として君臨しているので市電に乗って見物に行くことにした。まずは手始めに16世紀初めにマヌエル1世の命により、船の出入りを監視する要塞として建てられたベレンの塔(€5)に登頂した。マヌエル様式の優雅なテラスを持つこの塔を、司馬遼太郎は貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえて「テージョ川の公女」と勝手に呼びやがったそうだが、なるほどここでエマニュエル婦人が椅子に座って佇んでいても十分絵になるくらいの官能的な建造物である。
1960年にエンリケ航海王子の500回忌を記念して建造された発見のモニュメント(€5、展望台とリスボンエクスペリエンスというシアター込み)を発見したのでエレベーターで屋上に上がってみることにした。大航海時代のポルトガルはアフリカ南岸経由インド航路を開拓し、様々な陸地を発見したことで世界史に名を馳せているのだが、展望台の上から鳥瞰出来る世界地図の極東部には1541年に発見されたへたくそな形の日本列島も見受けられたのだった。
エンリケ航海王子の偉業を称え、さらにヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓を記念してエンリケ王子が建てた礼拝堂の跡地にマヌエル1世が1502年に着工したジェロニモス修道院(€7)に安置されてあるヴァスコ・ダ・ガマの棺に、文明堂や明月堂に成り代わってカステラ伝来のお礼を言いに行って来た。
ところで、この修道院はマヌエル様式を代表する壮麗な建物もさることながら、中庭を囲む55m四方の回廊もすばらしく、その魅力の虜となった観光客は中々帰ろうとはしなかったのだ。
桃山時代の日葡交流の様子を思い起こすべく狩野派の手により描かれた南蛮屏風を見学するために国立古美術館(€5)を訪問した。この美術館は17世紀に建立されたシャネラス・ヴェルデス宮殿を改装して1884年に設立されたポルトガルを代表する美術館でかつてポルトガルと交流のあった国々の美術品の展示も充実しているのだ。
ベレン地区からリスボン旧市街に戻り、とある歩行者天国の大通りを歩いていると地に足が付いていないポルトガルの経済状態をあらわすように大道芸人が空中に浮いており、それを見ている取り巻き観光客が恐怖に脅えながらもチップをはずんでいた。
夕暮れ時のリスボンの一大パノラマが美しいサン・ジョルジェ城(€7)に歩きつかれた重い足を引きずりながら登城した。この城はもともとローマ人の手によって要塞として建設されたのだが、その後西ゴート族、イスラム教徒、キリスト教徒の王など数百年の間に次々とテナントが代わったせいか、程よい具合にさびれているので今では城内は「憂愁のポルトガル」が絶妙に表現された公園となっているのだ。
4月21日(木)
マサよ、君はリスボンの西の郊外に森に抱かれたエデンの園がで~んとした存在感で世界文化遺産に登録されている実態を垣間見たことがあるか!?
というわけで、かつてイギリスの詩人バイロンがエデンの園と呼んだシントラまで足を延ばすためにリスボンのヘソであるロシオ広場の脇に建つロシオ駅から近郊列車に乗り込むこととなった。
シントラ駅に到着するとエデンの園に♪デン デン デ デン デン レッツゴ~♪と乗り込む前にバスに乗ってユーラシア大陸の西の果てであるロカ岬に立ち寄ることにした。北緯38度47分、西経9度30分、高さ140mの断崖の上には、そこがユーラシア大陸最西端であることを示す石碑が建っており、目の前に広がる真っ青な大西洋を見下ろすとここがマサに地の果てであることが実感させられるのだ。さらに、ロカ岬の敷地にある土産物屋で2種類の最西端到達証明書の発行を有償で行っているのだが、私は証明書関係には飽きていたので購入は控えておいた。
シントラ駅に戻り、起伏の激しいシントラ地区を楽して回ることが出来る巡回バスに乗り込むとペーナ宮殿の麓で下車した。窓口でペーナ宮殿ともうひとつの史跡を観光することが出来るコンビチケット(€14)を購入すると小雨降るあいにくの天候の中、急な坂道を登っていくことにした。
ドイツのルートヴィヒ2世はかの有名なノイシュヴァンシュタイン城を築城させたことで名を馳せているのだが、ペーナ宮殿を建築させた輩はそのいとこにあたるフェルディナント2世で、ここに来れば両名とも共通したおとぎの国系悪趣味を持っていることが確信出来るのである。1850年に竣工したペーナ宮殿はイスラム、ゴシック、ルネッサンス、マヌエルなど各様式の寄せ集めではあるが、それが見事にブレンドされて不思議な魅力を醸し出しているのである。
標高529mの山の頂に建つペーナ宮殿からはシントラの町並みのみならず、天気が良ければ遠くリスボン市はもとよりテージョ河口から大西洋まで見晴らすことが出来るのである。
ムーアの城跡という元々7~8世紀にムーア人によって築かれ、1147年アフォンソ・エンリケス王子によって落城され、その後修復されたのだが、今では廃墟のようになっている夢のあとに登ってみた。城壁の塔からはペーナ宮殿の遠景とエデンの園の全景が眺められ、この場所がかつて王侯貴族の避暑地になっていた中世の景色の記憶さえ呼び起こされそうな気がするのだった。
ムーアの城跡から下山すると多くの観光客で賑わっているレプブリカ広場の近辺を軽く散策し、シントラを後にした。リスボンに戻るとサンタ・アポローニア駅から急行系の列車に乗り、ポルトガル第3の都市であり、15万人の人口を持つコインブラに向かった。2時間半程の列車の旅でポルトガル中部のコインブラに着いた時間は午後9時を回っていたので、とある中華料理屋で麺を食った後、楽天トラベルに予約させておいたホテルアストリアに引き篭もって暗い夜を明かした。
4月22日(金)
☆☆☆ながらクラシックな佇まいが歴史を感じさせるホテルアストリアをチェックアウトするとコインブラ最大の見所であるコインブラ大学を目指して丘を駆け上がった。現在の大学は新しい部分と古い部分に分かれているのだが、見所は旧大学の方に集中しているのでGeneral Admission代(€7)を支払ってアカデミックな建物とその内部を見学させていただくことにした。
旧大学内部は写真撮影禁止となっているのだが、ポルトガル歴代の国王の肖像がかかっている帽子の間は優秀な学生のための学位授与の儀式などに使われていたそうである。建物の幅の狭いテラスは眼下にコインブラの町並みを見下ろすことが出来るちょっとした展望台にもなっており、近隣のカテドラルの奥行きの深さまで傍観することが出来るのだ。
大学近辺のカテドラルは新旧2つのものがそれぞれ入口の階段に物乞いをはべらせながらも特徴的な雰囲気を醸し出していた。イエズス会のコレジオ付属教会として1598年に建立された新カテドラルはバロック様式の美しいファザードが印象的であるのに対して初代ポルトガル国王アフォンソ・エリンケスによって1162年に建立された旧カテドラル(€2)は要塞のように堅固な概観を持つロマネスク様式の教会となっているのだ。
旧カテドラルから坂を下り、古い城壁の名残であるアルメディーナ門をくぐってコインブラの商業の中心地区である5月8日広場に到達した。広場を見下ろすように1131年にアフォンソ・エリンケスによって建立され、16世紀にマヌエル1世が大規模なリフォームを施したサンタ・クルス修道院がそびえている。修道院の中では皆それぞれシスター等を捕まえて懺悔をしているようで、それを文句も言わずに聞いてやらなければならない関係者は大変な忍耐力の持ち主であることは疑いようのない事実であろう。
町を歩いているとふと魚が見たくなったので市場に立ち寄り魚の切り身を見てお茶を濁した後、モンデゴ川にかかるサンタ・クララ橋を渡り、対岸から高台にそびえるコインブラ大学を見渡した。
1286年に建立され、かつてはコインブラの守護聖人であったイザベル王妃の棺が納められていたが、度重なるモンデゴ川の氾濫により17世紀にお払い箱となった旧サンタ・クララ修道院が見事に修復されていたので、そのお払い箱ぶりを見物することにした。現役の修道院ではなく、単なる遺跡となっているので箱物の中にはインテリアや装飾は見られないのだが、13世紀の竣工当初は豪華絢爛であったことが広大な敷地から容易に想像出来るのであった。
今日は終日天気が思わしくなく、ポケットの中で増殖したユーロのコインがブラブラする違和感を感じてきたので早々とコインブラを後にしてローカル列車でさらに北上し、午後4時過ぎにはポルトガル第2の都市であるポルトに到着した。街の中心に位置するサン・ベント駅の壁は見事な装飾で飾られているばかりか南蛮菓子を代表するカステラも販売されていたのだが、最低販売のボリュームが多そうだったので購入を見合わせた。
今日予約していたホテルはポルト市の郊外に位置しており、メトロで移動して相当な距離を歩くことが予想されたので、とりあえずメトロで最寄駅に向かった。最寄駅に向かう途中で雨で冷却されたお腹の具合が悪くなったのでトイレを探したのだがなかったのでトイレの面影をすでに確認しておいた出発点のサン・ベント駅に戻ってきた。ところが、そこのトイレは50€セントコインを投入しなければドアが開かないしくみになっていたのだが、あいにく手元にはコインブラでブラブラさせていた45セントしか残っていないという危機的状況に陥ってしまった。そこで近くにいたポルトガル語しか理解しなさそうな掃除のおばちゃんを捕まえ、表情で窮状を訴えて5セントまけさせた上に近くの両替機から50セント硬貨を引き出させるという離れ業を演じ、何とか財政危機を乗り越えることが出来たのだった。
4月23日(土)
早朝ポルト郊外のHoliday Inn Expressをチェックアウトするとバスとメトロを乗り継いで世界文化遺産にも指定されているドウロ川北岸に広がるポルト歴史地区にやってきた。昨日の雨模様とは打って変わって今日は朝から晴れ渡っており、アズレージョ装飾を施された建物も一際輝いて見えた。
まず手始めにポルトの全貌を把握するためにクレリゴス教会に付属している塔(€2)に登ってみることにした。76mあるクレゴリスの塔はポルトガルいちの高さを誇り、頂上からはオレンジ瓦の町並みとドウロ川、さらに対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区まで見渡すことが出来るのだ。
ポルトガルでは窓から干された洗濯物が古びた町並みに溶け込んでいるのだが、クレリゴス教会近隣のビルでは何故か普段着を着たみすぼらし系の人形が財政難を苦にして首吊り自殺をしているようないでたちで干されていたのだった。
ポルト市民の日々の暮らしぶりを感じるためにボリャオン市場を見物することにした。活気のある場内ではポルトガル人が財政危機を感じさせないほどの勢いで肉、魚、野菜、果物等を売りさばこうと躍起になっていた。
街を見下ろす丘の上にカテドラルが異様な存在感を示していたので内部を軽く覗いた後、となりの回廊(€5)を渡り歩いてみることにした。ゴシック様式の回廊の内側には18世紀のアズレージョが貼りめぐらされており、展示場となっている各小部屋には伝統的なクリスチャングッズが陳列されていた。
高台にあるカテドラルから路地を抜けて下界に下りるとボルサ宮前の広場で大航海時代の立役者であるエンリケ航海王子が頭上に泊まるカモメをものともせずに遠く大西洋を指差していた。
撮影禁止ながら内部を覆うタ-リャ・ドウラーダ(金泥細工)と呼ばれるバロック装飾が豪華なサン・フランシスコ教会(€5)でギンギラギンにさりげなく精神統一を行うと休日の観光客で溢れかえるドウロ川岸まで下ることにした。
ドン・ルイス1世橋を見上げるドウロ川ではクルーズが大変な人気を博しているようで乗り場は常に長蛇の列が形成されていたので参加を断念し、再び丘の上に這い上がってドン・ルイス1世橋を渡る決断が下された。
ドン・ルイス1世橋は車が通る下部とメトロの路線が引き込まれた上部の2層構造になっており、メトロのレイヤーにはチャチなケーブルカーもしくは階段で到達することが出来るのだが、私は風情のある階段沿いの景色を見ながら軽く息せき切ってみることにした。
ポルト歴史地区の対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアの丘には楽して丘の上り下りをしたい輩のためにゴンドラも定期運行されており、川向こうの斜面にへばりつく世界遺産の眺望も楽しむことが出来るのだ。
ポルトに来てポートワインを賞味しなければポルトに来た意味をなくしてしまうのでヴィラ・ノヴァ・デ・ガイア地区の麓に林立するワイン工場街を彷徨うことにした。ワイナリーの多くは無料で見学ツアーを行っているので適当な人の波に身を任せてCROFTというワイン工場に紛れ込んだ。
ポルト在住であるはずのポルトギャルの案内で開始されたツアーにはおびただしい数の観光客が参加していたのだが、スペイン語かポルトガル語なのか私には意味をなさない言語で展開されていたので私は黙ってワイナリーにぐっすり寝かされている樽と芳醇な香りに包まれて時間をやり過ごすしかなかったのだ。ツアーも終わり、待望の試飲の時間となったのだが、ワイングラスの底に注がれているルビーのワインを舐めながら、説明→試飲の工程を何度繰り返せば酔えるのだろうと考えていた。
締めのポートワインでポルト観光全行程の終了と相成ったのでカンパニャン駅からIC列車に乗って300kmの道のりを3時間かけてリスボンまで帰り、Holiday Inn Lisbonのアップグレードされた無駄に広いスイートルームに引き篭もり、レストランで最後の南蛮晩餐を堪能させていただきつつ長い夜を過ごしていた。
4月24日(日)
リスボンのほぼ中央に位置するHoliday Inn Lisbonをチェックアウトし、大胆な落書きを施されたビルを横目に南に向かっていると日中は緑豊かだが、夜間は麻薬と売春の巣窟になるというエドゥアルド7世公園に紛れ込みゆったりとした斜面を下って行った。
リスボンは「7つの丘」と呼ばれ、その起伏に富んだ地形がリスボン特有の美しい街並みを作り出しているのだが、短いながらも3路線あるケーブルカーが彩りを添えている。ポルトガルのシャンゼリゼともいわれるリベルダーデ通り沿いにひっそりとラヴラ線のケーブルカーが停車していたのでその脇の階段を上っていくとモラエスの生家に到着した。ちなみにモラエスとは1899年にポルトガル領事として神戸に赴任し、その翌年には徳島出身の芸者ヨネと同棲まで始めやがった手の早い輩だそうだ。
へたくそな落書きが目に余るグロリア線ケーブルカーを上りきるとサン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台に辿りついた。展望台から眺めるリスボン市街の景色の美しさもさることながら公園内には昨晩の夜景を楽しんだであろうビールやワインのビンの残骸がそこら中に転がっていたのが印象的だった。
1584年に苦難の航海の末にリスボンにたどり着いた日本の天正遣欧少年使節が1ヶ月程お世話になったイエズス会の教会であるサン・ロケ教会に入会した。しかしながら、この教会には伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの足跡は一切残されてなく、日本史では大きく取り上げられているイベントでもイエズス会では日常的な寄宿者が通り過ぎて行った程度に過ぎないことを思い知らされるのだ。
サン・ロケ教会のロケハンが終了するとこれぞリスボンという風景に出会えるビッカのケーブルカーを見に行くことにした。テージョ川を背景にケーブルカーが急坂を上り下りする姿は観光客の絶好の被写体になっているのだが、意外にもケーブルカーの出発地点はビルの一室に紛れているような地味な場所だった。
南蛮ツアー最後の訪問地は1147年イスラム礼拝堂跡にアフォンソ・エリンケスの命により建立されたカテドラルとなった。正面のバラ窓が特徴的なカテドラル内部では日曜日のミサのプログラムの一部であるはずの何らかの合唱が行われており、私も思わず合掌しながら見入ってしまうこととなった。
街中に乗り捨てられている観光用のレンタルゴーカートや市街を走り抜ける市電を横目にロシオ広場まで移動し、そこから空港バスに乗り込みリスボン空港へと帰還した。TAPポルトガル空港のラウンジで南蛮菓子を肴に色々な色のワインを飲みながらフライトまでのひと時を過ごしていた。
午後2時15分発LH1791便に乗り込み、午後6時過ぎにミュンヘン空港に到着するとルフトハンザ航空のラウンジに直行し、すでに南蛮菓子の面影が無くなっていたのでミュンヘンビールを痛飲しながら午後8時55分発NH208便のフライトまでの時間潰しをしていた。
4月25日(月)
異様に空席の目だったNH208便は定刻通りの午後3時半過ぎに成田空港に到着し、そのままポルトガル人が種子島に流れ着くように流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥133,330
総宿泊費 €203、¥9,900
総鉄道代 €48.4
総タクシー代 €18.5
総メトロ、トラム、バス代 €22.4
協力 ANA、ルフトハンザドイツ航空、PRIORITYCLUB、楽天トラベル、明月堂