♪たとぇ~ どんなにぃ うらんでい~ても~♪
というわけで、飼い犬の陣内に手を噛まれた格好で離婚を余儀なくされてしまった藤原紀香であるが、たとえどんなにうらんでいても陣内の悪口を言わない紀香魂に敬意を表するために奥州藤原氏の歴史探訪に繰り出し、「つわものどもが夢のあと」で有名な栄枯盛衰を実感させていただくことになったのだ。
4月24日(金)
午前8時50分発ANA873便に搭乗すると約1時間で秋田空港に到着し、空港でスズキのワゴンRをレンタルすると早速しだれ桜の名所角館に繰り出すことにした。さすがに全国有数の桜の名所であるため、角館に近づくにつれて車の渋滞がひどくなり、周辺には1台当たり¥500にてにおびただしい数のにわか駐車場が展開されていた。
角館の中心部を流れる桧木内川の堤に約2kmにわたって400本あまりのソメイヨシノが桜のトンネルを形成し、しかも満開になっているので観光バスで訪れた老若男女に混じって花見と洒落込むことにした。桜の背後にはまだ雪を被った山脈が広がっており、テキヤの屋台から上る比内地鶏焼き鳥の煙と相まって秋田県独特の花見の雰囲気を醸し出しているようだった。
武家屋敷で有名な角館には青柳家や岩橋家等の名家の庭に枝垂桜がしだれているのだが、だいぶ葉桜になりかけていた。とりあえず、角館に現存する最も古い武家屋敷である石黒家(¥300)にお邪魔させていただくことにした。茅葺の母屋や黒板塀等、十分その格調の高さを感じさせてくれる石黒家であるが、出来ちゃった婚によりモーニング娘を脱退に追い込まれた石黒彩のような放蕩娘はその家計図には決して載せることは出来ないのだと思い知らされたことも事実であった。
角館で格調高い桜の美を堪能した後、ワゴンRを転がして田沢湖を過ぎ、さらに奥地の八幡平温泉郷の有名な湯治場である玉川温泉に向かった。末期ガンのような難病でもここに来れば治るということで全国からその効能を求めて大変な賑わいを見せている玉川温泉旅館部に午後4時前に到着すると、現在はやっているかのように警戒されているノロウイルス対策の消毒を無視してにそのままチェックインさせていただくことにした。ここの旅館は湯治がメインということでアメニティらしきものはなく、4畳半の部屋にはテレビさえ完備されていなかった。
国指定天然記念物である北投石から放出される自然の放射線を浴びるために地面からもくもくと煙を出す硫黄による異様な臭いが充満した天然岩盤浴場には老人達がゴザを敷いてその弱った体を横たえていた。その周囲は遊歩道になっており、98℃の源泉が毎分8400㍑湧き出す大噴や硫黄の煙突等、焼山の自然の驚異を十分に感じさせる賽の河原系のものがなしさをたたえた光景が広がっているのだった。
ところで、肝心の玉川温泉の泉質であるが、林やペー・パー子も腰を抜かす脅威のpH1.2の強酸泉であり、塩酸をたっぷり含んだ源泉100%のストレートや源泉50%のお湯割り、39℃のぬる湯、44℃のあつ湯、蒸気風呂、箱蒸し等のバラエティを入浴者の好みや体調に合わせて選んで入ることが出来るのだが、飲泉だけは源泉50%をさらに6~8倍に希釈して紙コップ一杯のみに限定し、しかも飲泉のあとは歯が溶けないように水道水で口をゆすがなければならないという自主規制がしかれているのだ。
4月25日(土)
玉川温泉で体からほとばしる力を取り戻すことに成功したので、八幡平エリアをさらに北上し、初春の雪の壁が立ちはだかるアスピーテラインを走りぬけることにした。除雪により道路の脇に高さ数mの雪の壁が建造されたアスピーテラインの頂上は標高1700mを超える八幡平の登山口である。レストエリアの建物内で午前10時より八幡平の山開きの儀式が厳かに行われていたのでその行く末を見守ることにした。どこぞの神社の宮司の礼拝により、近隣の市町村の長が入れ替わり立ち替わりうやうやしく二拍一礼を繰り返していた。私も山を開くのを手伝ってやろうかと思ったのだが、戦隊系のレンジャーが登山口でポーズを決めていたので、とりあえずそいつにまかせることにしておいたのだ。
アスピーテラインの頂上は秋田と岩手の県境になっており、岩手に入ると山を下り、渋民という田舎に石川啄木の軌跡を辿ることにした。
マサよ、君は国語のテストで石川啄木と書くべきところを豚木と書き間違えて「豚もおだてりゃ~木にも登るぜ!」と開き直ったことがあるか!?
ということで、啄木の故郷である渋民公園にて啄木の歌碑を拝んだ後、石川啄木記念館(¥450)に乗り込むことにした。わずか26歳2ヶ月の短い生涯にもかかわらず、その鋭い感性により数々の秀作を世に出した啄木の代表作である「はたらけど はたらけど・・・」というくだりがあるのだが、現代はサブプライムローンをうまく処理出来なかった財務省の失政により、働きたくても働くことの出来ない輩が増えてしまっているのである。尚、この記念館の隣の敷地に啄木の母校であり、代用教員として教壇にも立ったこともある渋民尋常小学校が移設されており、明治時代の学校の雰囲気を擬似体験出来るようになっているのだ。
岩手県を代表するもう一人の偉人である宮沢賢治記念館(¥350)がその出身地である花巻の高台にて活況を呈していたので降りしきる雨ニモマケズ、行ってみることにした。宮沢賢治は岩手県をイーハトーブといってそこにまつわる様々な芸術や文学作品を残しており、わずか37歳のその人生を宮沢りえのような美人妻をもらうことなく一気に駆け抜けていった様子が確認出来た。尚、槇原敬之を盗作のかどで訴えている松本零士も宮沢賢治にしてみれば銀河鉄道自体をパクった同じ穴のムジナであると見下して波動砲で砲撃したい気分であったろう。
古き良き温泉街の情緒漂う花巻温泉郷に鉛温泉という伝承六百年、白猿伝説を持つ名湯が湧いているのでその湯治部に宿泊させていただくことにした。藤三旅館の3種類の100%源泉掛け流しの湯のうち白猿の湯は、その湯船の深さが125cmと深く、立って入る珍しい温泉として有名である。また、桂の湯の露天風呂は川のせせらぎを間近にする野趣あふれた風呂であり、ここでは普通の温泉旅館では味わうことの出来ないバラエティに富んだ温泉ライフを満喫することが出来るのだ。
4月26日(日)
夏草や つわものどもが 夢のマサ
というわけで、今回のツアーのハイライトであり、世界遺産になるという野望を今も抱き続けている平泉を満を持して訪問することとなった。平泉は言わずと知れた奥州藤原氏が平安時代に築いた黄金文化の遺跡や景観が、現在まで守り伝えられている景勝地である。まず最初に特別史跡・特別名勝である毛越寺(¥500)の見学をかますことにした。堂塔伽藍こそ焼失したが、当時の土塁・堂宇・回廊の基壇、礎石などを残し、平安時代の伽藍様式を知る上で、最も貴重な遺構として保存されている毛越寺の起源は白鹿伝説につづられており、850年に慈覚大師が東北巡遊のおり、窮地に陥ったところを白鹿に救われてこの地に堂宇を建立して霊場にしやがったと伝えられているのだ。
延暦20(801)年に征夷大将軍坂上田村麻呂公により創建されたと伝えられている達谷窟毘沙門堂(¥300)にお参りすることにした。覆い被さってくる岩を下から支えるように建立されている毘沙門堂にお参りすると悪鬼を降し、福を招いたり、何でも願いがかなうと伝えられているので、とりあえず定額給付金の見返りとして消費税を上げるのだけは勘弁してほしいと祈っておいた。毘沙門堂の背景となっている岩に岩面大仏が睨みを利かせているのだが、これは弓の名手であるはずの源義家が何本もの弓を射って彫り付けたと伝えられており、その完成度の低さの言い訳になっているのではないかと思われた。
奥州平泉にはかなく散った若き英雄、源義経公最期の地と伝えられている高館義経堂(¥200)に入山し、源頼朝の圧迫に耐えかねた藤原泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに♪ここでいっしょに 死ねたら いいと♪自害したその無念を共有することにした。高館は北上川に面した丘陵で判官館とも呼ばれており、中には義経公の木造が安置されている。また、元禄2年(1689年)にこの地を訪れた松尾芭蕉が詠んだ「夏草や 兵共が 夢の跡」と掘り込まれた句碑も眼下に広がる北上川を無念そうに見下ろしながら君臨しているのだ。さらにここは義経が平泉を脱出して生き延びたという「北上伝説」の起点にもなっており、この話は♪生きてぇ~ いたなら いつかは会える~♪と信じた判官びいきがでっちあげたのではないかと思われた。
嘉祥3(850)年、慈覚大師によって開山された中尊寺についに足を踏み入れる機会を得ることとなった。12世紀のはじめには奥州藤原氏の初代清衡公が多宝塔や二階大堂など多くの堂塔を造営しているのだが、何といっても中尊寺をメジャー寺院に押し上げたのは天治元年(1124年)に完成し、創建当初の唯一の遺構となっている金色堂(国宝)である。金色堂を参拝するためにはまずチケット売り場で¥800を支払い、讃衡蔵に安置されている奥州藤原氏の遺宝、国宝、重要文化財3,000点を見て敬意を表し、金色堂の解体修復をビデオで学習した後、満を持して鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう)で過保護されている写真撮影禁止の金色に輝く建造物に対面することが出来るのだ!
何重もの漆塗りの上に眩いばかりの金箔を施された金色堂の内部の中央の須弥壇の中に初代清衡公、向かって左の壇に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体と泰衡公の首級が納められており、それらはご本尊の阿弥陀如来や多くの菩薩に守られて安眠しているのである。尚、覆堂のオリジナルは元々木造であり、長年金色堂を風雨から守ってきたという功績にもかかわらず、今では無造作にカバーをかけられてその内部は参拝客の好奇の目にさらされているのだった。
ところでマサよ、義経と言えばその従者である弁慶を語らなければ片手落ちになるということは弁解の余地のないところであろう。中尊寺の境内には当然のことながら、弁慶堂も建立されており、市川海老蔵も参考にしたはずの弁慶の木像も義経とペアで安置されている実態が確認出来た。また、中尊寺の入り口には武蔵坊弁慶の墓が立ち往生したおももちで参拝者の注目を集めていた。
ということで、♪うしろ髪ひく かなしい声を 背なで断ち切る♪ようにして平泉を後にし、秋田空港に戻り、ANA878便にて松尾芭蕉の数万倍の速さで江戸に帰って行った。
FTBサマリー
総飛行機代 ただ
総レンタカー代 \14,430
総高速代 \1,000
総ガソリン代 \3,632
総宿泊費 \20,630(2食付)
協力 ANA、ニッポンレンタカー、楽天トラベル