FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 奄美大島

いも~れ マサよ!

(奄美の方言:いらっしゃい)

ということで、WBCを制したサムライジャパンが寒いジャパンにならずに帰国出来、原監督のハラキリも何とか回避されたのでWBC期間は休業中であったFTBを再開し、早速奄美大島に流れることと相成ったのだ。

4月3日(金)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば¥46,000くらいかかるところを私はただで搭乗出来るJAL1953便奄美大島行き8:30発MD81機に乗り込むと2時間25分のフライトで午前11時頃に奄美大島空港に到着した。早速空港バスに乗り込み、1時間程の時間をかけて奄美大島の中心都市である名瀬に到着した。大島紬と民謡で有名な奄美大島は、とあるディレクターが元ちとせを見出したことで名を馳せており、町行く人々は離島名物の老人だけでなく、わだつみの木の下で遊んでいるちとせ飴が似合いそうな七五三系の子供の姿も数多く見られたのでこの島の将来は安泰だと思われた。

名瀬市街地の東を流れる新川は離島ならではのきれいな水を湛えており、川沿いの静かな散歩道を歩いていると色とりどりの巨大な錦鯉が放し飼いにされている様子が垣間見られ、この島のスケール感のある自然に圧倒されることになるのだ。

名瀬港のほとりを歩いていると船が数多く出入りする港にも拘わらず、その海の青さに驚かされ、数多くの魚が群れを為して泳いでいる姿に思わず目が釘付けになってしまった。今日の宿泊地は名瀬港を見下ろすトロピカルステーションホテルであったので早速チェックインを済ますと名瀬近郊の散策に乗り出すことにした。

マサよ、君はハブ対マングースの息詰まる熱戦を見て手に汗握ったことがあるか!?

というわけで、奄美観光ハブセンター(¥750)を午後2時過ぎに訪問させていただいたのだが、ハブとマングースのショーが午後2時から開催だったものの前半はハブの知識を吸収するためのビデオ鑑賞だったため、何とかその時間のショーに潜り込むことに成功した。

島のハブ名人として名高いハブセンター代表の中本英一氏が試合前のセレモニーのごとくハブに関する講釈をたれてくれたのでハブの牙が毒蛇の中で最も長いことやハブの生態に関する日常生活では役立つことのない知識が得られ、また実物のハブを取り出し、観光客に触らせて変温動物である蛇の体温は今日の気温と同じ20℃であることを体感させていただいた。

プロ野球セパ同時開幕に先立って、いよいよハブ対マングースの伝統の一戦がプレーボールとなった。ネット裏の特等席に陣取ったFTBご一行様の目の前で繰り広げられた死闘はマングースの足を使った機動力と足を使えないハブの鞭のようにしなる瞬発力による攻防となった。マングースは絶妙の距離感を保ちながらハブのアタックを交わし、鞭が伸びきった瞬間を見計らってハブの急所である頭部に食らい付き、勝負の行く末が見えたところで中本レフリーによりマングースのTKO勝ちが宣告された。尚、中本氏によれば頭を噛み付かれたハブは一時間以内にあの世行きになるだろうとのことで、ハブの死体は解体され革製品に加工されたり、肉は蛇料理に供されなければならないのでハブが傷物になる前に意図的に勝負を止めさせたのではないかと思われた。

ハブセンターの地階はハブ飼育展示場となっており、おびただしい数の生きたハブや子猫や蛙を丸呑みした状態等のおぞましいハブのホルマリン漬けが観光客に恐怖を植え付けるのに一役買っていた。また、ここには有名人の来場も見られる様子で長渕剛が♪ろくなもんじゃね~♪という及び腰でハブを満足気に握り締めている写真も展示されているのだった。

4月4日(土)

昨晩地元の島料理居酒屋「みれい」で黒糖焼酎「里の曙」、「れんと」を牛飲したにもかかわらず、二日酔いの症状が出なかったので、早朝トロピカルステーションホテルをチェックアウトし、名瀬漁港近郊にそびえる大島紬資料館への入館を試みると休館日だったため、若き日の宮崎緑が大島紬大使よろしく着物を着飾ったポスターの見物しか実行出来なかった。尚、昨日のハブ名人中本氏によると大島紬の柄は元々ハブの皮の色模様からはじまったとのことであった。

名瀬新港の北側に奄美の歴史を紐解くのに最適なファシリティである奄美博物館(黒潮館、¥300)が開館していたので見学させていただくことにした。博物館は3階建てのフロアから構成されており、特に3階の第3展示室には奄美の珍しい動植物がジオラマで再現されており、特別天然記念物のアマミノクロウサギがハブやマングースの襲撃におびえながら森で密やかに暮らしている様子を垣間見ることが出来た。

午後1時前にニッポンレンタカーでホンダのライフをレンタルすると島の北東に位置する西郷南洲謫居地(¥200)に向かった。生涯で奄美大島、沖永良部島、徳之島に流された実績のある流され名人の西郷隆盛は1858年に菊池源吾という偽名を使って奄美大島に砂糖積船福徳丸に乗ってやってきた。西郷は妻帯者であるにも拘わらず、島妻である愛加那との間に菊次郎と菊子の二児をもうけやがり、島津の殿様の呼び戻しによって薩摩藩に戻るともう二度と愛加那には会えなかったという悲しい物語がこの家の当主によって長々と語られることとなったのだ。尚、築150年のこの家には西郷隆盛を敬愛する稲盛和夫が仕切っている京セラの社是となっている「敬天愛人」と刻まれた看板が燦然と輝いていたのだ。

西郷が上陸した地である西郷松でその見事な枝ぶりに感心した後、さらに北東に進み、ライフでエンジョイしているとふと申し訳ない気持ちに苛まれてしまった。気がつくと、風光明媚な岬に立っており、看板には「あやまる岬」という文字が躍っていた。仕方がなかったので過去の財務省の悪行を走馬灯のように頭に思い巡らせてマサの代わりに透明な海に向かってあやまっておいた。

「あやまる岬」での懺悔によりみそぎをすますと奄美で一番美しいと言われる土盛海岸に向かった。太陽の光によって変化するエメラルドグリーンの海は南国の雰囲気そのものでここは沖縄の海にも引けをとらない透明度を誇っていたのだった。

島の北東部よりはるか沖縄本島から続いている国道58号線に入り、名瀬を経由して奄美の南部を目指した。途中マングローブ原生林という緑の悪魔を彷彿とさせるジャングルを見下ろし、なるほどこの景色が東洋のガラパゴスである所以であると感心しているうちに瀬戸内町に到着した。すでに夕方の5時を回っていたので今日の宿泊地であるネプス ダイブリゾートに潜り込み、¥300の発泡酒を注文するとただで付いてくる黒糖焼酎「里の曙」と痛飲しながら意識を無くすことに躍起になっていた。

4月5日(日)

早朝奄美名産黒砂糖を土産にネプス ダイブリゾートから浮上すると奄美大島南部のリゾート地であるヤドリ浜に向かった。夏場にはダイビングやウインドサーフィン、ジェットスキー等のマリンレジャーで繁盛するヤドリ浜であるが、シーズンオフのこの日はエメラルドグリーンの海は静かな水面を湛えているだけであり、雨が降っても雨ヤドリが出来ない場所であることが確認された。ホノホシ海岸という訪れる人を一瞬立ち止まらせる光景が広がる海岸に到着した。太平洋の激しい荒波に洗われ、珍しい丸みを帯びたおびただしい数の石が転がるホノホシ海岸は波が押し寄せるたびにそれらの石が「カラコロ」と音を立て、幻想的な狂想曲を奏でていた。

大島海峡全体を西から東まで一望出来る高知山展望台にらせん階段を駆け上って登頂した。展望台からは海峡を隔て近隣の加計呂麻島、与路島、請島まで見渡すことが出来、眼下には古仁屋市街地もひっそりとした佇まいを見せている様子が確認された。

古仁屋港からは加計呂麻島までの主要交通手段となっているフェリー「かけろま」が航行されており、その隣には半潜水船 マリンビュワー「せと」が大島海峡の水中散策に誘ってくれるというので¥2,500を支払って乗船することにした。半潜水船というだけあって船倉部には海中の景色が楽しめるように窓が作りこまれており、そこから大島海峡に生息する珊瑚や熱帯魚の姿が垣間見られたのだが、沖縄や八重山諸島の海に比べると華やかな彩りに欠けるのはいたしかたがないと思われたのも事実である。

半潜水船を下船するころには天気予報通りに雨となってしまったので名瀬まで引き返し、市内で車を返却するとそのまま空港バスに乗り込み奄美大島空港への帰路についた。JALのマイレージが余っていたのでマサであれば\23,000.-くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL3732便鹿児島行きに乗り込むと後方客席部より数10cmしか離れていないMD81機のジェットエンジン音を気にしながらも午後4時前には鹿児島空港に到着した。鹿児島空港におやっとさぁ(おつかれさま)天然足湯温泉が沸かされていたのでかろうじて温泉気分を味わった後、ANA630便にて東京に帰って行った。

FTBサマリー

総飛行機代 JAL = ただ、ANA = \17,100

総宿泊費 ¥12,275

総レンタカー代 ¥6,825

総ガソリン代 ¥1,608

総バス代 ¥2,200

総走行距離 240km

協力 ANA、JAL、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

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