しかしマサよ、ひとつになろうニッポン!というキャッチフレーズがむなしく響く中、復興担当大臣は不幸を引き受けてしまったかのようにばっくれやがり、九州電力が不作為的に実施したストレステストにより我慢の限界を超えた玄海町長は原発の運転再開を白紙に戻してしまい、庶民は日々尻の奥が塞がってしまったような閉塞感に苛まれている。
このような状況では復興の早期実現は望むべくもないと思われがちであるが、北海道の離島奥尻島では巨大地震と津波で壊滅的な被害を被りながらも尻の穴を引き締めてより強固な災害対策を実現させているという。その不屈の闘志に敬意を示すと共に、今後の節電方針を模索するために北の離島までやって来たのであった。
2011年7月9日(土)
JALのマイレージが余っていたので、マサであれば¥3万くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL1201便は定刻午前7:35に出発すると9時前に青森空港に到着した。早速空港バスで青森駅まで移動して駅の周辺を散策することにした。整備の行き届いた青森駅周辺で目に付いた代物は国鉄時代に栄華を誇ったはずの青函連絡船の遺物である八甲田丸である。青森駅から連絡線の桟橋までは直結しており、かつては本州と北海道を結ぶ唯一の交通手段であった連絡船が今では「津軽海峡冬景色歌謡碑」に慰められながら、記念館として細々と余生を送っている姿が見て取れた。
私もひとりローカル線に乗り、北のはずれを目指すことにした。青森駅から10:21発の津軽線に乗り、蟹田で乗り換えて終点の三厩に着いたのは正午過ぎであった。駅から列車の発着にあわせて運行する路線バスが一回¥100という破格の運賃で運行していたので乗車させていただくと14kmもの道のりを30分かけて終点の竜飛崎灯台バス停に到着した。
竜飛崎にもお約束の「津軽海峡冬景色歌謡碑」が設営されているのだが、さすがにご当地だけあり、ボタンを押せば石川さゆりの歌が2番から流れる本格的なセットとなっていた。私もこの歌を耳にして以来、♪ごらんあれが 竜飛岬ぃ 北のはずれとぉ~ 見知らぬぅ人がぁ 指をさすぅ♪の見知らぬ人を演じてみたいと念じており、ついにその時がやって来たと思ったのだが、よく考えてみると連絡船から岬を指差さなければならないシチュエーションだったため、敢なく断念せざるを得なかったのだ。
石川さゆりが青森県知事に立候補すれば、確実に当選することを思い知ったので、その勢いで岬の頂上に駆け上り、さけ茶漬けを主食とする北島三郎の聖地である函館を見渡そうとしたのだが、お茶漬けの湯気で曇っているかのように見通しが悪かった。そこで北の漁場で釣れるはずの竜飛まぐろのオブジェを一瞥し、♪さ~よな~ら マサよ~ 私はか~えりますぅ~♪と歌いながら撤収することとなった。
次から次にやってくる観光客の衝動により、絶え間なく流れる津軽海峡冬景色の歌謡碑の隣に日本唯一の国道339号階段国道の案内図があったのだが、それをスルーして青函トンネル記念館(\400)に向かった。
竜飛は青函トンネル本州方基地になっており、その基地の跡地が記念館に成り代わり、観光客と世界一の海底トンネル掘削の苦労をわかちあう形となっている。しかし、青函トンネルのリファレンスとしては英仏海峡トンネルを取り上げやがっており、日本初の海底トンネルであり、本州と九州を苦労して結んだ関門トンネルには一切触れられてなく、九州人を敵に回しているのではないかと懸念されもした。
ついつい語気が荒くなりそうになったけん、バスで三厩に戻り、蟹田駅でスーパー白鳥25号に乗り換えて実際に青函連絡トンネルを通過してみることにした。トンネルは深さ140mの津軽海峡のさらに100m下に掘られており、実際に最深部を通過するときに私の腕時計に内蔵されている高度計に目をやると-280mを指していた。
蟹田の次の駅の木古内は北の大地の始発駅となっており、函館を目指す特急白鳥に別れを告げてローカル線で江差に向かった。JTBに予約させておいたホテルニューえさしは天皇皇后両陛下も宿泊したことのある江差随一のホテルではあるが、他の宿泊施設はしなびた旅館しかない静かな町であった。
7月10日(日)
北海道の里 追分流れるロマンの町江差の代表的観光地である「かもめ島」を目指していると幕末のロマンが再現された開陽丸が座礁したかのように黒光りしている様が目に飛び込んできた。かもめ島の入口には頑固親父が鉢巻を締めているような瓶子岩が鎮座しており、それは必然的に江差町のシンボルとしての地位を不動のものとしている。
風光明媚なかもめ島には民謡の王様と言われる江差追分の記念碑も建てられており、民謡は江差追分に始まって江差追分に終わるという威光がつつましくも存分に示されているかのようだった。
かもめ島から程近いフェリーターミナルで午前9時半発ハートランドフェリーが運航するアブローラおくしり2等席に乗り込むと江差を後にして尻の穴を引き締めながら奥尻島に向かった。曇り空の下、アブローラはアブノーマルな挙動を示すことなく順調に航行し、定刻11時40分に奥尻フェリーターミナルに着岸した。
観光シーズンもたけなわとなっている奥尻島ではゆるキャラの「うにまる」が観光客を迎えているのだが、皆上陸すると条件反射でついつい写真を撮ってしまうのだった。
今日宿泊する浜旅館はフェリーターミナルから徒歩5分の近距離だったので、サクッとチェックインすると近隣地区を散策することにした。奥尻市街に程近い海岸に凱旋門のような奇岩が立ちはだかっているのだが、これは奥尻島のシンボルとして君臨している鍋釣岩で囲炉裏で使う鍋のツル(弓形の取っ手)が名前の由来になっている。
海岸線に沿って2km程南下し、少し山間に入るとうにまる公園に到着した。ここに奥尻島で最も重要な観光施設であるはずの佐藤義則野球展示室が無償で観光客を待ち構えていたので満を持して見学させていただくことにした。奥尻島出身の佐藤はその強靭な背筋力を背景に奥尻中学時代に頭角を現し、函館有斗高校では甲子園出場は逃したものの、日本大学で大学球界のエースとして君臨し、ドラフト1位で阪急ブレーブスに指名され、新人王を獲得したつわものである。通算165勝を挙げた佐藤投手の野球人生のハイライトは1995年に史上最年長の40歳で達成したノーヒットノーランで当時ライトを守っていたイチローも試合終了後に俊足を飛ばして一路マウンドまで駆けつけていたのだ。
うにまる公園をうにまる公園ならしめている代物は平成元年のふるさと創生資金の投入により建立されたうにまるモニュメントである。ウニによる町おこしが順調に進んでいるのは町を照らす街灯もうにまるモニュメントを模した形に作られていることからも窺い知ることが出来るのだ。
うにまる公園を後にして東海岸線を北上していると民家の庭から野生のミンクが姿を現した。奥尻島にはクマ、毒ヘビ、キツネといった動物はいないのだが、島の60%を占めるブナ林はタヌキの居住地となっており、冬季には天然記念物のオオワシやオジロワシも出張してくるという。
1831(天保2)年に島の漁師たちが大漁祈願に弁天様を奉納したことから始まっている宮津弁天宮に164段の階段を上り下りして辿り着いた。気が付くと浜旅館から6km程離れた場所まで北上してしまっていたので道沿いに咲いている奥尻の花々を愛でながら奥尻市街まで帰って行った。
7月11日(月)
瀬川商会奥尻観光レンタカーで4段変則機能付きママチャリをレンタルすると、今後対応しなけらばならなくなるかも知れない自家発電のトレーニングを兼ねて島内の一周にチャレンジすることにした。奥尻島の海岸周囲は84kmなのだが、道路一周はわずか66kmなので26インチのチャリのサドルを最大限に上げ、尻の奥に食い込ませるようにしてサイクリングをスタートさせた。
島の道路の至る所にウニの殻が落ちているので、それらを踏んでパンクしないように注意しながら北上していると程なくして最北端の稲穂岬に到着した。もの悲しい雰囲気をたたえる岬の周辺は賽の河原と呼ばれており、海難犠牲者や子供を慰霊する霊場となっている。
さらに近辺には佐藤義則投手もその才能を開花させた野球場や決して八百長が行われることが無いはずの相撲広場、生きた海産物をその場で地獄焼きにして提供する土産物屋が少ない観光客を心待ちにしていたのだ。
賽の河原にさいならすると道はいつしか深いブナ林に囲まれ、開けた草原に到着すると、そこには魚介類に飽きた島民に肉の味を提供する奥尻牛の放牧場が展開されていた。
山道でところどころ視界が開ける絶景ポイントに遭遇し、思わず息を呑むような自然美を堪能しながら峠を降りると島内唯一の温泉地である神威脇に到着した。
通常であれば離島の温泉に浸かって英気を養うところであるが、島内一周を制覇する志半ばであったため、近隣のホテル緑館の巨大な足湯に手を差し入れて温度を確認するだけに留まってしまった。
北追岬で謎のオブジェをちら見した後、ほほえましい少し大人向けの艶笑話を由来とするみかげ石の奇岩を拝みに行った。そのモッ立岩の由来とは「一人の未亡人が、この磯に岩ノリを採りに来てこの岩を発見。亡くなった自分の亭主のからだの一部にあまりに似ていたので、喜び懐かしみ、そのままの名を付けることに恥ずかしさを覚え、上の一文字を抜いて、モッ立岩と呼んだと言われている」
マサよ、君がもしモッ立岩との勝ち負けをどうしても判断しなければならないのなら、遠路はるばるここに来なければならないのだ!
ということで、モッ立岩をあっさり完封した私はママチャリに跨り、落石防止のために絶壁に張り付いて作業している労働者にエールを送りながらウイニングランを続けることにした。
保水性の高いブナ林の高台から豪快に流れ落ちるホヤ石の滝でマイナスイオンを浴び、離島最北端の田んぼの風景をのんびり眺めながらペダルを漕いでいるといつの間にか島の南端部の岬に到着していた。
青苗というこの地区は津波で最も大きな被害を受けた地域だが、その教訓を生かして漁港からすぐに高台に非難出来る望海橋と命名された人工地盤が海と人との幸せのかけ橋になることを望んでいるかのように浮かび上がっていた。
奥尻島最南端の青苗岬をヒットして、奥尻まで残り17kmの距離を東海岸沿いに一気に北上していると沖縄の海のように透明な北の海が永遠に続いているかのような鮮烈な印象が心に刻まれた。
予定通り4時過ぎに奥尻市街に帰着し、チャリを返却するとさらに5km程歩いて今日の宿泊地である御宿きくちに向かった。この宿は奥尻島で一番新しい民宿だが、2006年、2008年、2009年に北海道地区の楽天トラベルアワードを受賞した名門で、授賞式に列席した際に、三木谷会長から表彰された様子が誇らしげに飾られていた。この宿で地獄焼きにされるアワビは水揚げ後1時間以内の新鮮なもので、何もつけずに召し上がっても十分に磯の味が口内に広がるのだ。
7月12日(火)
御宿きくちをチェックアウトし、フェリーターミナルに付属するバスターミナルまで送っていただいた。乗客の少ない9:40発のバスに乗り込むと30分程で最南端の町である青苗に戻ってきた。ここで忘れてはならない観光地は震災から8年、災害の記憶を忘れないために2001年にオープンした奥尻島津波館(¥500)である。
1993年7月12日、午後10時17分、北海道南西沖の深さ34kmを震源とするM7.8の地震が日本海地域を襲った。震源地に近い奥尻島は地震発生後わずか3分で襲来した大津波により壊滅的な被害を受けたのだ。津波の速度はなんと佐藤義則投手の速球の4倍近い500kmにも達したと言われ、オリックスが誇るブルーウェーブも全く歯が立たない程の威力で島を呑み込み、船の燃料である重油やプロパンガスに引火した炎は青苗の町を焼き尽くしていた。津波襲来後すぐに先発を生業とする佐藤義則投手も救援に駆けつけ、今回の震災とは比べ物にならないほどの速さで復興が始まり、5年後には早くも復興宣言が出されているのだ。
今日7月12日は震災の発生日ということで、北海道南西沖地震慰霊碑である時空翔の前には地元のテレビクルーが陣取り、震災の恐怖と教訓を後世に伝えるべく入念な番組のリハーサルが繰り返されていた。
この震災による被害を乗り越え、最新の津波対策を確立し、実施した奥尻には海外からのメディアも数多く取材に訪れていたのだが、高台への避難路、高さ6mの空中広場、遠隔操作出来る水門等の技術を十分に学ぶことが出来たので、速やかに奥尻空港に移動し、午後3時5分北海道エアシステムが運行するHAC2894便で函館までひとっ飛びした。
函館空港には北島三郎の痕跡が残されていないことにある種の安心感を覚えたので、午後9時10分発JAL1170便で羽田空港に帰還し、すし太郎も買わずに流れ解散とさせていただいた。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥5,380
総宿泊費 ¥6,720(食事なし)、¥22,300(2食付)
総JR代 ¥4,260
総バス代 ¥1,500
総フェリー代 ¥2.300
総レンタサイクル代 ¥700
協力 JAL、北海道エアシステム、楽天トラベル、JTB、ハートランドフェリー、JR