ミズシマ(サよ)~ いっしょに ニッポンにかえろ~~!
ということで、仏像顔の中井貴一を主演に据えて1985年に公開されたビルマの竪琴の決め台詞は明石家さんまのひょうきん族のギャグにも採用され、一大センセーションを巻き起こしたのは記憶に新しいところだが、結局水島上等兵は帰ってくることはなかった。ビルマの国名は1989年にミャンマーに変わってしまったが、水島は今でもビルマの空の下で竪琴を弾いているはずだという思いに駆られ、その音色に引き込まれるようにこの地を訪れることになったのだ。
3月9日(水)
ビザ申請用紙の渡航目的欄に沖縄弁で「アウン・サン・スー・チーに会うんサ~!」と余計な事を書かなかったおかげで、予定通りミャンマー大使館でビザが査証されたパスポートを返却していただくことに成功した。
3月10日(木)
午前0時30分羽田発のNH173便に乗り込むと後輩の水嶋ヒロが出演している機内映画プログラムがあれば見ておかなければならないと思っていたのだが、幸いにもなかったので安心して瞑想モードに突入した。バンコクのスワンナブーム国際空港に午前6時前に到着すると、数週間に渡ってチケットを暖めておいたタイ国際航空TG303便に乗り換えると午前9時頃に市川昆監督や中井貴一も利用したことがあるはずのヤンゴン国際空港に辿り着いた。
スループットの悪い入国審査カウンターでアウン・サン・スー・チーの話題を持ち出さなかったのでアウンの呼吸で入国を許可されると念願のビルマの竪琴ツアーが開始されることとなった。地場の旅行会社であるミャンマー ゴールデン ガーデン トラベルに国内線のチケットの手配を依頼しており、ヤンゴン空港でチケットを受け取る手はずを整えていたのだが、要人であるはずの私が入国するということで用心のために代表取締役社長であるカイン カイン エー氏自らがパシリの役目を買って出て到着エリアで待ってくれていた。尚、ミャンマーの現地の旅行会社はメールでの日本語対応が可能であり、カイン カイン エー氏も流暢な日本語を喋るのだが、驚いたことに日本に行ったことはないとのことだった。
空港で「坂の上の雲」を読みながら4時間程やり過ごし、午後2時にエアバガンが運行する109便に乗り込むこととなった。この便がいくつかの経由地を経てバガンに到着したのは午後5時を過ぎた時間であったので、そそくさと空港でタクシーを拾ってホテルに向かうことにした。タクシーではお約束のツアーの客引きが便乗し、しきりにガイド付きのツアーを高値で売り込もうと躍起になっていたのだが、何とかのらりくらりと交わしている間にオールドバガンのホテル・タラバーゲートに到着した。
城壁に囲まれた保護区であるオールドバガンの入口にタラバー門が開門されているのだが、この門は9世紀にビンピャー王がバガンの防護を固めようと築いた城壁の名残である。
ホテル・タラバーゲートを出て夕暮れ時の町並みを散策することにしたのだが、バガンの観光の主要交通手段となる馬車の運転手兼客引きの執拗なマークに遭い、彼はホテルにゴールするまでそのマークの手を緩めることはなかったのであった。エーヤワディー(イラワジ)川が流れる岸辺は質素な村落地帯となっており、若者村民たちがセパタクローに興じながらその見事な足技を披露していた。
ホテルで夕食を取った後、ロビーでネットに接続出来るというので早速時間当たり$3の大金を払って速度の遅いインターネットに接続したのだが、この国の厳しい情報統制のおかげでかろうじてYahoo Japanには接続させていただけるが、Yahooメール等のウエブメイルは使用不能になっており、私のタイムリーな情報発信は制限されてしまったのだ。
ネット接続につき込んだ$3が無駄になり、蚊に食われた足を掻きながら呆然と空を見上げていると、ヒロとの結婚でミズシマ一族の一員となった絢香が歌唱する「三日月」が♪みんな空の下♪を明るく照らしていた。
3月11日(金)
ミャンマー最大の見所で世界的にも貴重な仏教遺跡のひとつバガンは、1044年にビルマ族による史上最初の統一王朝が開かれた土地であり、エーヤワディー川の岸に広がる乾いた平原に数千ともいわれる仏教建築物が林立し、幻想的な光景を目の当たりにすることが出来る。
とうことで、起きぬけにエーヤワディー川岸を散策し、バガンの朝の営みの一端を垣間見ることにした。川岸に着岸している船は単に居住空間を提供しているものや物資や人々を運ぶもの等様々であるのだが、浜辺では早朝から多くの原住民の往来が見受けられた。川岸から高台に続く階段に多くの原住民が座って朝飯を食っていたのだが、何故か皆一様に通り過ぎる私に対して物乞いの手を差し伸べていた。
階段の頂上に川を見下ろすように小さな円筒形の仏塔が光っている。このぶっとい仏塔はブーパヤー・パヤーであり、一説によると7~8世紀頃、ビュー族によって建てられたと言われている。
ところで、外国人旅行者はバガンへ入る際に$10の入域料を徴収されることになっており、私も昨日空港で入域料を奉納していたので、朝食後にその元を取るために本格的にバガンの散策に繰り出すことにした。手始めにホテルのあるタラバー門から程近いバガンで最も美しい建築とされるアーナンダ寺院を見学させていただくことにした。
仏教建築に興味がないであろうマサであれば、あ~何だ・・・という程度の印象しか持たないかも知れないが、アーナンダ寺院はバガンの遺跡を代表する最大かつ最もバランスの取れた美しい寺院だといわれている。本堂の中央には高さ9.5mの4体の黄金の仏像がそれぞれ四方を向いて収められており、朝日を浴びた東の仏像の足元では僧侶の読経に合わせて熱心な信者が朝のお勤めにいそしんでいた。
バガン遺跡観光の機動力を高めるためにホテル裏の馬車配送センターを兼業している自転車屋でママチャリをレンタルすることにした。バガン観光地区一帯はオールドバガンだけでなく、ニャウンウー、ニューバガンと広範囲に渡っているため、効率的に回るための足がどうしても必要になるのだ。
オールドバガンから北東に5km程離れているニャウンウーはバガン地区の入口となる町で長距離バス乗り場もある交通のターミナルとなっている。とある旅行会社で明日乗らなければならないバスのチケットを購入し、軽く町並みを眺めていると、セブンイレブンの看板を掲げながらセブンイレブンらしくないしなびた商店を発見した。
ニャウンウーの長距離バスセンターの近くにシュエズィーゴォン・パヤーがそびえている。これはアーナンダ寺院と並んでバガンを代表する黄金の仏塔で青空の下で圧倒的な存在感を示していた。日光で熱せられた広い境内を裸足で歩いていると仏塔以外にも多くの小仏塔や仏像が安置されているきらびやかな建物を目にすることが出来、原住民は額を地面になすりつけんばかりの勢いで祈りを捧げていた。
ニャウンウーからオールドバガンに向かう途中にあるティーローミィンロー寺院は1215年にバガン王ナンダウンミャーがこの地で王位継承者に選ばれたことを記念して建てた寺院である。5人の王子の中からの王位継承者の選定方法であるが、傘が倒れた方向に座っていた者を選んだというエピソードが残されており、ナンダウンミャー王は別名ティーローミィンロー(傘の王)と呼ばれていたためにこの名称が付いたと言われているのだ。尚、この方法が財務省で採用されれば、マサがトップの事務次官に成り上がるのも夢ではないと思われた。
猛暑での体力消耗を避けるためにミャンマーでは日中の最も暑い時間帯はホテルで休憩することが通例となっているので、ホテルに戻り何気なくテレビから流れるNHK Worldのニュースを見ていた。日本とは2時間半の時差のあるミャンマー時間のお昼過ぎに信じられないような光景が目に飛び込んできた。巨大地震と津波により東日本が壊滅し、水島の帰国を按ずるどころか私自身が帰国出来ないような恐怖感に駆られながら一瞬たりともテレビから目を離すことが出来なくなってしまった。
数時間後に何とか気を取り直し、仏教の聖地に来ているアドバンテージを利用してブッダに救いを求めるべく、再び炎天下に飛び出すことにした。12世紀半ばにアラウンスィードゥー王によって建立された美しい寺院は65mの高さを誇るバガンで最も高いタビィニュ寺院である。タビィニュとは全知者を指し、仏陀を意味しているのでここにお参りすれば何とかご加護を受けられるはずであろう。
バガンの遺跡は広い範囲に散らばっているので考古学保護区であるオールドバガンの南5~6kmに位置するニューバガンまで足を伸ばしつつ周辺の寺院や仏塔を眺めていた。
バガンの平原に夕暮れ時が訪れた頃、夕日の名所とされているシュエサンドー・パヤーに到着した。この仏塔はバガン黄金期の初期にあたる1057年の建立で、特徴的な5層のテラスの上を目指して観光客が急な階段を我先にと這い上がろうとしていた。塔のふもとでは金属製のリングをはめて首を長く見せる風習のあるバダウン族の女性が機を織りながら購買意欲の高い観光客が来るのを首を長くして待っていた。
サンドーとはビルマ語で「聖髪」を意味し、この仏塔の中にはモン族の所有していた釈迦の遺髪が納められていると言われている。この仏塔の最上部のテラスからはバガンの平原に無数に林立する仏塔群を見下ろすことが出来、夕暮れ時にはバガン中の観光客が参集するため、テラスの上は観光客で溢れ返ってしまうのだった。
3月12日(土)
早朝7時前にホテル・タラバーゲートをチェックアウトし、朝日を浴びながらニャウンウーの長距離バス乗り場への道のりを徒歩で目指していた。バス乗り場には日本でお払い箱になったバスが数多く停車しており、その余生はミャンマーでの過酷な道路事情でスクラップになるまで酷使されることになっているようだ。
原住民を満載したトラックも日本製で、あらためて日本の工業製品の品質の高さを認識することが出来るのだが、日焼け止めは現地の伝統の自然化粧品が使われている。しかし、柑橘系の木の幹をすりおろして粉にしたその化粧品は何故か「タナカ」と命名されており、ミャンマーではどこへ行ってもタナカギャルやタナカ児童が炎天下を闊歩しているのだ。
座席の広い日本の夜行バスの払い下げを受けた長距離バスは8時半にバガンを出発すると不安定な橋、水没した道路、迫り来る牛の大群を避けて午後2時前にはミャンマー第二の都市であるマンダレーに到着した。
バスを降りるとゲストハウスやタクシーの客引きが大挙して押し寄せてきたのでその攻勢をかわしながらバス乗り場を後にするとなおもバイクタクシーの客引きが追いかけてきたので仕方なく乗ってやることにした。マンダレーの長距離バスターミナルは市街から10km程南に位置しているので移動交通手段がないと市街に辿りつけないのだが、2時半頃には何とか伝統的ミャンマー様式を模した堂々とした概観を持つセドナ・ホテル・マンダレーに到着した。
予定よりも早くチェックイン出来たので、町に出て整然とした碁盤目状の町並みを歩いてみることにした。ホテルの目の前に一辺が3km、高さ8mの城壁に囲まれ、さらに濠をめぐらせてある旧王宮が町の中心部をなしているのでその南側の大通りに沿って西に歩いているとマンダレー駅に到着した。重厚な駅ビルとは裏腹にホームのある駅の構内は典型的な東南アジアの旅情が溢れており、原住民が織り成す人間模様を観察するのに持って来いの場所となっている。
さらに西に向かって歩を進めるとマンダレー最大のマーケットであるゼェジョーマーケットに到着したので、ここで中古の竪琴でも売っていないかと探し回っていた。路上ではナイトマーケットの準備がぼちぼち始まっていた頃であったのだが、何気なく見上げた視線の先にある看板を見て愕然としてしまった。何とここでは大胆にも竪琴がそばヌードルとして宣伝されていやがったのだ!しかも現地のそばということで竪琴を粉にしてそばにしてしまったのか!?という疑念さえ沸いてきたのでそのままホテルに引き返して平常心を取り戻すためにレストランに駆け込んだ。
ミャンマービールを飲みながらフィッシュカレーを流し込み、気持ちも落ち着いてきたところでロビーに出るとそこでは民族衣装に身を包んだホテルの契約踊り子が民族舞踊でマンダレーの夜を彩っていたのであった。
3月13日(日)
ミャンマーのほぼ中心に位置する古都マンダレーは1857年にミンドン王によって建設され、以後1885年にイギリスに占領されるまで、ミャンマー最後の王朝として栄えていた。その栄華の夢の跡を偲ぶために早朝より旧王宮を散策させていただくことにした。尚、このファシリティはミャンマー国軍の軍事設備も兼ねているため、外国人の入場エリアは限られているのだ。とりあえず、入口でマンダレー入域料としての$10を徴収されると中心部の美しく再現された旧王宮の建造物群に向かって突き進んでいった。
1945年3月に日本軍と英印連合軍との戦闘によって焼失した王宮であったが、現在では王の謁見の間や控えの間、宝物館等、往時の栄華が偲ばれるほど豪華に再現されている。
円筒形をした監視塔からは建物群を鳥瞰的に眺めることが出来るばかりか、遠くマンダレーヒル迄の眺望も提供しているのだが、実際に建造物を間近に観察すると建て付けの悪さがどうしても目に付いてしまうのである。
マンダレー駅の近くにエアバガンのオフィスがあり、そこでフライトのリコンファームを行った後、近隣のショッピングモールを軽く散策して猛暑を避けるためにホテルに戻ってきた。テレビから流れるCNNのニュースでは暗い音楽とともに日本の地震の状況がひっきりなしに伝えられていた。
午後3時を回った頃に活動を再開することにした。マンダレーの見所はマンダレーヒル周辺に広がっており、まずは麓の寺院であるチャウットーヂー・パヤーを見学させていただくことにした。本堂にある大きな石仏は1865年にミンドン王によって開眼されたのだが、その切れ長の目は中井貴一を髣髴とさせる細さであった。
白い仏塔が果てしなく並ぶサンダムニ・パヤーは、ミンドン王が王宮造営の間、仮の王宮となっていたそうで、そのひとつひとつの白い仏塔には律儀にも仏典を刻んだ石版が納められているのだ。
クドードォ・パヤーには仏陀が悟りを開いてから死ぬまでの説教をまとめた経典を刻んだ石版が729もの小仏塔群に納められており、時のミンドン王にして2400人もの僧を招集してその作業にあたらせたと言われている。
旧王宮の東北に隆起している標高236mのマンダレーヒルは、丘全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地であると同時に絶好のサンセットスポットとなっているので満を持して登ってみることにした。マンダレーヒルへは車を使って7合目付近から観光を開始することも出来るのだが、私は当然のように麓から攻めることにした。
マンダレーヒルの頂上に達するまでの間は屋根のある参道が展開されており、要所要所に祠や仏塔が点在しているので、それらを見て歩くと結構時間がかかるのだ。また、道行く途中からも麓の寺院の遠景を拝みながら仏塔の配置と全体のスケール感を堪能することが出来るのである。
1時間程かけて何とか頂上に這い上がるとそこにはマンダレーヒルで最も古いスタンピー・パヤーの豪華絢爛な配色が施された仏教施設が待ち構えている。また、奥には下りの階段があり、ムイジーナッカという2匹のコブラの像が口を開けてそこにお布施のお札を挟めと催促するような上目遣いをしている。尚、このムイジーナッカはミャンマー人に大変な人気を誇っているようで、頂上まで巡礼に来た輩はもれなくこの像の前で記念写真を撮っていた。
夕暮れ時が訪れると僧侶も観光客も皆一様に西側のテラスの手すりにもたれかかると沈み行く太陽を最後まで見守り、マンダレー観光のハイライトを飾っていた。
3月14日(月)
セドナ・ホテルをチェックアウトするとダウンタウンにあるいくつかの見所を拾ってみることにした。シュエチミン・パヤーはマンダレー最古の仏塔とされ、バガン王朝時代に建立されたものらしいのだが、現在メンテ中になっているのでこの寺院が信者と猫の憩いの場になっている状況を確認して撤収することにした。
退官した東京都バスが走る大通りを抜けるとエインドーヤー・パヤーに到着した。ここには整った形の仏塔がそびえているはずなのだが、やはりメンテ中らしく、布で覆われた残念な姿をさらしていた。通常遺跡はそのままの姿で保存されることが多いのだが、ここミャンマーでは積極的に修復の手が加えられ、現役の仏塔や寺院として地元の信仰の支えとなっているのだ。
マンダレー市街から南に40km以上離れたマンダレー空港に移動するために流しのタクシーを捜していたのだが、中々捕まらず結局マンダレー駅まで流れ着いてしまった。駅で客待ちをしていたタクシーはMAZDAという看板は持っているものの明らかに日本製ではないオンボロ車だったのだが、時間も押していたので運転手にマンダレー空港まで走れるかと聞くとたどり着けるという自信を持った意思表示をしたので$20で契約して乗り込むことにした。バックミラーもサイドミラーもなく、走るための必要最低限の機能しかないタクシーは一応ガソリンで走るのだが、何とそのガソリンタンクは運転席の足元のポリタンクに満たされていたのだった。
普通車系のタクシーに何台も抜かれながら1時間以上かけて何とかマンダレー空港に到着した頃には、この乗り心地の悪いオンボロ車に情が移っていたので$5のチップを渡して無事に市街地に帰還出来るように祈っておいた。午後1時40分発エアバガン120便に乗り込むと4時前にはヤンゴン空港に到着し、空港タクシーで今日の宿泊先であるパークロイヤル・ヤンゴンに移動した。
ところで、ヤンゴン市街地までの空港タクシー代は$8なのでホテル到着時に運転手に$10札を渡したのだが、ドル札のお釣りがないと言いやがったので、それではミャンマーの紙幣で釣りをよこせと要求し、この旅で初めてミャンマーの通貨であるチャットを目にした。ミャンマーでは旅行者向けに米ドルが流通しているのだが、米ドルからチャットに両替するための公式な手段がなく、町中で物を買い食いしたりするのに非常に苦労するのである。通常の両替手段は両替商の看板も何も掲げていないブラックマーケットでの両替となるため、チャットを入手するのはYahooインスタントメッセンジャー等のようなお気軽さとは無縁のものであることを思い知らされるのだ。
ヤンゴン市街地中心部に位置するパークロイヤル・ヤンゴンにチェックインし、CNNニュースを見ながら相変わらずYahooメールが使えない不便を思い知った後、町に繰り出してみることにした。イギリス植民地以降、この町はラングーンと呼ばれてきたのだが、町には多くの植民地時代に建てられた重厚な建物が並んでいる。
ヤンゴン川沿岸に建つ仏塔はボータタウン・パヤー($2)で2500年以上昔、8人の僧がインドから仏陀の遺品を持ち帰ってここに安置したことに始まるといわれている。仏塔の内部はまばゆいほどの金で装飾されており、迷路のような道が張り巡らされている。
広い境内は多くの仏像で賑わっているのだが、日本から伝来したはずの「シェ~!」のポーズを決めたシュールな仏像が一際目を引いた。寺院の外ではそこいらの鳥たちを拉致して閉じ込めてある鳥かごが無造作に置かれているのだが、これは信者が金を払って鳥を逃がして徳を積み、逃がした鳥を子供が捕まえて小遣いを稼ぐという人間の身勝手なお金の流れの連鎖を支援するものであろう。
3月15日(火)
ヤンゴンの市街はスーレー・パヤー($2)を中心に設計されている。スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が納められているといわれている。スーレー・パヤーでは早朝より多くの参拝客で賑わっており、仏教がミャンマー人の生活の一部として溶け込んでいる様子を間近で観察することが出来るのだ。
ヤンゴンで最も大きいボーヂョーアウンサン・マーケットに買う気もないのに行ってみることにした。ここではお土産物や宝飾品店等が多いのであるが、道行く外国人に対してミャンマー通貨のチャットへの両替を勧誘するささやき声も聞こえるのだ。
正午前にパークロイヤル・ヤンゴンをチェックアウトしようとした際に、昨日はクレジットカードは使えると言ったはずなのに今日になって現金払いにしやがれと手の平を返されてしまった。手持ちの米ドルが底をつきかけており、もう現金では払えね~ぜとダダをこねたところ他の通貨も受け付けるという妥協案を示してきたのでタイバーツで支払っておいた。尚、ミャンマーではクレジットカードを使える所が非常に限られているので観光客は米ドルでの現金掛け値なしの取引を覚悟して入国しなければならないのだ。
ミャンマーでの国営天気予報であってほしいミャンボ~ マーボ~天気予報の確認を怠っていたせいか、ヤンゴンに来て雨に見舞われてしまった。しとしとと降りしきる雨の中、ヤンゴンを見守るミャンマー最大の聖地であるシュエダゴン・パヤー($5)を参拝させていただくことにした。
ヤンゴン市外の北、シングッダヤの丘に金色に輝くシュエダゴン・パヤーの歴史は、今から2500年以上も昔にさかのぼるといわれている。言い伝えによると、とある兄弟の商人がインドで仏陀と出会った際に引導を渡される代わりに8本の聖髪をもらい、紀元前585年にこの地に奉納したのが起源とされている。
「シェ~!」の変形バージョンのポーズを決めたおやじに迎えられて104段の階段を登りきると高さ99.4m、基底部の周囲433mの巨大な仏塔に圧倒されることになる。この仏塔には8688枚の金箔が使用され、塔の最頂部には1個76カラットのダイヤをはじめ、総計5451個のダイヤと1383個のルビー等がちりばめられているのだ。
広大な境内の東西南北には祈祷堂があり、それぞれにシュエダゴン・パヤーにゆかりのある仏陀像が祀られている。尚、これまで無数のパヤーを見てきたが、仏教国ミャンマーの象徴ともいうべき仏塔「パヤー」は英語では「パゴダ」と呼ばれており、日本では「パゴダ」という呼称の方が通りが良いようである。
今回のツアーでは結局「ミズシマ」と名乗る日本人を探し出し、「いっしょにニッポンにかえろ~!」と呼びかけておきながら、連れて帰れないという実績を残す前に、自分が日本に帰れるかどうかの不安感に苛まれ、仏陀にすがるような思いで多くの仏教施設を訪問させていただく結果となってしまった。午後7時40分発TG306便でヤンゴンからバンコクに戻り、11時55分発NH916便が予定通り出発出来るのも仏陀のご加護であったのは間違いないはずである。
3月16日(水)
機内のエンターテイメントプログラムでキムタク主演のSpace Battleship Yamatoを見ながら有効な放射線除去の方法を考えていたのだが、宇宙戦艦ヤマトの原作のイメージが損傷されている印象だけが残留してしまった。
午前7時30分過ぎに成田空港に到着すると、Arrival Loungeにしばらく立て篭もり、過去数日に日本で起こったことをレビューし、気持ちの整理をしながら流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ANA = だた、タイ国際航空 = THB11,900、エアーバガン = $197
総宿泊費 $354.08、\5,300
総バス代 $11
総タクシー代 $51
総バイクタクシー代 $3
総レンタサイクル代 $5
総ミャンマー出国税 $10
総ミャンマービザ代 ¥3,000
協力 ANA、タイ国際航空、Myanmar Golden Garden Travels & Tours Co., Ltd(http://gg.yangon.jp/)、楽天トラベル