♪ようこそここへ♪ サグラダ・バルセロナツアー

ボンよ、これまでの長いFTB史の中で意外にも世界の人気観光地ランキングで常に上位に位置しているバルセロナに行ったことがないという汚点をどうしても埋めておく必要性に駆られたため、正座をして留守番をお願いしている間に軽く行ってみることにした。

2018年1月1日(月)
午前11時成田発ブリュッセル行きNH231便は定刻どおりに出発し、機内エンターテイメントの連続ドラマ「小さな巨人」を見ながら言葉の通じない国で意思疎通を図るための表情作りの極意を香川照之等の過剰な演技から読み取ろうと躍起になっていた。到着したブリュッセル空港はまだクリスマス気分も抜け切れていない様子で国の名産品であるはずのチョコレートが巨大なツリー状の形に成型され、その香りで観光客を引き付けていた。

ブリュッセル航空とのコードシェア便NH5147便は午後6時半に出発し、2時間のフライトでバルセロナ・エル・プラット空港に到着した。早速空港バスに乗り込むと約30分でスペインからの独立を画策しているカタルーニャ州の州都バルセロナの中心地であるカタルーニャ広場に到着した。広場に近いホテルを予約したはずだったが、すでに方向感覚を失ってしまっていたのでGoogle mapのお世話でかろうじてHotel Indigo Barcelona – Plaza de Catalunyaに到着することに成功したのだった。

1月2日(火)
さすがに世界有数の観光地だけのことはあり、バルセロナの主要観光地を巡るためにはあらかじめWebでオンラインチケットを購入しなければならない。まずは一人当たり7ユーロの支払いで午前11時に入場予約をしておいたグエル公園(世界遺産)を訪問することにした。

ちなみにバルセロナを代表する建築家は地元カタルーニャ出身のアントニ・ガウディであるが、実業家のエウゼビ・グエルはガウディのパトロンとして大枚をはたいてガウディの才能を利用し、並外れた芸術的な建築作品を生み出して行ったのだった。

グエル公園は当初の計画ではバルセロナを見下ろす山の手に60戸の住宅を造成し、イギリス風の田園都市を造ろうと構想したのだが、資金難で計画が頓挫し、公園として生まれ変わった成果物が世界遺産に登録されて多くの観光客から入場料をせしめているというマサに「災い転じて福となす」お手本のような代物なのだ。

ここでの見所は「ヘンデルとグレーテル」に出てくるお菓子の家をイメージしたといわれる正門や途中で有名なトカゲの噴水で記念写真を撮ることの出来る大階段、ギリシア神殿をイメージしたドーリア建築の柱で上部の中央広場を支えている市場である。

息を切らせて山の手の高台に登るとバルセロナの市街地と地中海まで一望することが出来、巨大クレーンで飾られたサグラダ・ファミリアも遠巻きに眺めることが出来るのだ。

グエル公園から下山するとデビュー当時の桜田淳子を思い起こさせる♪ようこそここへ♪サウンドが右耳から左耳に流れていった感覚を覚え、ふと頭上の看板を見るとサグラダ・ファミリアへ向かう矢印が示してあったので♪クッククック♪と笑いを噛み殺してバルセロナ最強の観光地へ急ぐことにした。

♪私の青い鳥♪は飛んでいなかったものの抜けるような青空に向かって伸びている4本の塔を目の当たりにした時には言いようのない感動を覚えてしまった。建築スケジュールが短縮され、竣工がガウディ没後100年の2026年に前倒しになったとはいえ、建築中の建物には目障りなクレーンが仮インストールされているため、緊張感を維持しながら周囲を巡ってあらゆる角度からその雄姿を堪能させていただいたのだった。

サン・ホセ帰依者教会の本堂として1882年に着工、翌1883年には初代建築家ビリャールからガウディに引き継がれ、今なお建設が進められているサグラダ・ファミリアの定番の見学コースはまず何よりもウエブで時間指定のチケットを事前購入するところから始まるのだ。FTBが少量購入したチケットはTOP VIEWというタイプで日本語対応のオーディオにガイドされた聖堂内部の見学と鐘塔にも登れるコースで1人あたり29ユーロもの大金がクレジットカードから引き落とされることになる。

メールで送られてきたバーコード付きのチケットを握り締めて定刻午後3時に意気揚々と聖堂の内部に侵入したのだが、塔へ登るエレベーターの前にはロープが張られ係員のセニョールから今日は風が強いためエレベーターは運行停止になっているとむなしく告げられてしまった。何本ものクレーンが活躍する建築現場の光景を思い出し、万が一の事故を考慮して風に対しては敏感になっているので致し方ないと納得して引き上げようとすると、セニュールは塔に登れなかった分の代金は後日カードに払い戻しされるとのたまい、実際に数日後に7ユーロが返金となっていたのだった。

竣工成ったあかつきには必ず塔に登るという決意をして気を取り直し、あらためてオーディオによるガイドでツアーを開始することにした。ツアーの最初はサグラダ・ファミリアの3つあるファサードのうち唯一ガウディ自らの指揮で1930年に完成した「生誕のファサード」を見上げて恐れおののくことである。生命の始まりということもあり、生誕のファサードは太陽が昇る東側に面しており、イエス・キリストの生誕と幼少期の出来事が精緻な彫刻で表現されている。

聖堂の内部はガウディ建築のエッセンスが詰まった空間で、樹木のように枝分かれした柱は構造上の利点があるだけでなく、神との一体化を擬似体験できる森のようになっている。2010年の完成時にはローマ法王ベネディクト16世を迎え、正式にカトリックの教会として認定された儀式が催されたのだが、法王もガウディ最大の傑作を目の当たりにして「ほ~お~」と感心したのはまぎれもない事実であろう。

内部の構造を存分に堪能した後、西側から外に出てイエス・キリストの死がテーマとなっている「受難のファサード」を見上げていた。ガウディによる原画を元に1954年に建設が始まったのだが、ほぼ完成形に達しているようで磔にされたイエスが覆いかぶさってくるような威圧感でしばしその場に立ちすくんでしまったのだった。

見学の最後にガウディが残した聖堂のスケッチや模型、建築の経緯を追った写真等が展示されている地下博物館にもぐることにした。晩年のガウディが泊り込んでいた作業場は現在では♪しあわせ芝居♪の舞台裏のようなラボとなっており、建築の工期の短縮を可能にした3Dプリンターが彫刻のモデルを精巧に作りこんでいた。

今回は塔に登ることが出来なかったので日本人彫刻家の外尾氏が製作したフルーツの実の彫刻を見ながら桜田淳子よろしく♪去年のトマトは青くて固かったわ♪と♪気まぐれヴィーナス♪のメロディーを奏でることは叶わなかったが、某新興宗教に入信している桜田淳子が♪17の夏♪に♪リップスティック♪を塗って、この地を訪問した実績はないはずだと思いながらサグラダ・ファミリアを後にした。

世界中にファンを持つFCバルセロナの本拠地ということもあり、町のあちこちにサッカーのポスターが貼られているのだが、スーパースターのメッシの写真がメシ時を教えてくれたのでスペイン人の社交場Bar(バル)で小腹を満たすことにした。店主に飲み物を注文し、お皿を受け取るとピンチョス(薄切りパンの上に具をのせたバスク地方のタパス)を手当たり次第に召し上がったのだが、狭くて観光客で込み合っている店内を自在に動くことが出来なかったので多くの種類を食すことが出来なかったという不満が残った。会計はつまようじの数をカウントするのだが、いっそのこと回転寿司のようなコンベアを導入してくれれば来店客に均等にピンチョスが行き渡るはずであろう。

1月3日(水)
芸術の町バルセロナでは一般にアールヌーヴォーとして知られる19世紀末芸術も花開き、モデルニスモ建築を代表する建築家としてモンタネールがガウディとは異なる個性を発揮していたのでその代表作を見学させていただくことにした。地下鉄サグラダ・ファミリア駅で下車し生誕のファサードを仰ぎ見た後、斜めに延びる街路の向こうに荒鷲のような羽を広げた重厚な建物が立ちはだかっていた。

サン・パウ病院として知られるサン・パウモダニズム区域(10ユーロ、世界遺産)はモンタール最大のプロジェクトとして1902年に着工し、1930年に完成しており、1916年から2009年まで実際に病院として使われていた。

完成当時のこの区域の建築群は、病院建設において活気的な作品となっていた。オレンジの木が生い茂る患者に優しいはずの庭園に囲まれ、分離された個々の美しい建物が地下を巡るトンネル網によって相互に連結された内外の空間は、マサに患者への最大限の配慮と快適性を追求することを目的に設計されている。

見学可能な8棟の建物の中で中央に位置するものは手術室であるが、ファサードには、著名な医師らの姓が書かれているのだが、かろうじてドクターXの痕跡らしきものは目にすることが出来たのだった。

建造物の内部に目を移して見ると、あまり快適そうに見えないベッドが並んでいる入院設備とは裏腹に、いたるところにあしらわれているステンドグラスやタイルなどの装飾を見上げると、「芸術には人を癒す力がある」というモンタネールの信念が垣間見えるのだった。

バルセロナに到着してからというもの、スペイン料理の王道であるはずのパエリアの看板を掲げるおびただしい数のレストランをスルーしてきた。昼飯時になった頃を見計らい、大通りにあるカフェに突入し、イカ墨パエリアとサラダを食したのだが、普通にうまかったのだ。

地中海の恵みが胃腸の中で蠢いている感覚を引きずりながらガウディの代表作の一つである世界遺産マンションカサ・ミラの前に立っていた。マンションの中を見る価格としては破格であるはずの25ユーロを支払い、吹き抜けの天井からのぞく青空を見て、見学コースに設置されてあるエレベーターに乗り込んで屋上へと上がっていった。

カサ・ミラは石を積み上げたような独特の形状から、石切り場を意味する「ラ・ペドロラ」とも呼ばれている。山がテーマということでゆがんだ曲線を主張するこの建物は徹底的に直線を排除しているので私もまっすぐな気持ちで向き合わないように注意しながら特徴のある構造物を見て回った。

屋上の煙突は、山の尾根から突き出た峰峰を表しており、遠くの景色はサグラダ・ファミリアやモンジュイック城が借景となっており、いずれに絶好の記念写真スポットとして観光客渋滞に一役買っていたのであった。

屋上から螺旋階段を下ると幾何学文様の美しい屋根裏部屋に到着し、暗がりの中カサ・ミラのミニチュアが白く浮かび上がる等の嗜好がこらされていた。このフロアはガウディ作品に関する資料や模型などの展示スペースになっており、中でも観光客たちはガウディが考案した逆さづり模型を興味深く見入っていた。

螺旋階段でもう1フロア下に下りるとそこは内見可能なモデルルームになっており、カサ・ミラが建築された1910年当時の家具・調度品を配した機能的な作りとなっていた。尚、部屋は細かく分かれており、実業家のペレ・ミラとその妻および使用人のための邸宅として使われていた当時の様子がそのまま保存されている。

尚、カサ・ミラの賃料であるが、築100年とはいえ、駅近の一等地で300㎡、7部屋で月賃料わずか14万円程度ということで、すぐさま手付金を払うべく、財布に手を伸ばしたのだが、ペット飼育に関する規定がわからなかったのでやむなく断念したのだった。

ガウディ作の世界遺産マンションはカサ・ミラ以外にもいくつかあり、海をテーマにしたカサ・バトリョの前を通りかかったのだが、内見待ちの観光客が列をなしているのとマンション診断の達人「住優師(じゅうゆうし)」でもない私が、すべてを見て回る必要はないと判断したので財布をポケットの奥深くにしまって遠慮しておくことにした。

1881年にスペイン南部のマラガで生まれたピカソは美術教師だった父親の転勤にともない、14歳の時にバルセロナに移住し、多感な青春時代を過ごしていた。9歳の時から「青の時代」までの作品がおもに展示されているピカソ博物館の入場券をあらかじめwebで買っていた(11ユーロ)ので約束の5時に入館する運びとなった。展示されている絵を1枚1枚ながめていると彼の天才的な早熟ぶりを見て取ることが出来、子供にしてアカデミックな技法を完全にマスターしていたピカソの初期の作品を閉館まで堪能することが出来たのだった。

1月4日(木)
午前中に少し時間があったので、古くはローマ時代に起源を持つ、バルセロナの中心であるゴシック地区を散歩することにした。その中心に鎮座するカテドラルはバルセロナが隆盛を極めていた13~15世紀に150年の歳月をかけて建てられたものでサグラダ・ファミリアに匹敵する価値を有するものであるはずなのに入場料が無料のためか特に観光客は集まっていなかったのだ。

カタルーニャ音楽堂(世界遺産)はモデルニスモ建築の中で最も美しいといわれるモンタネールの最高傑作であり、現役のコンサートホールとして多くの音楽ファンを集めているのだが、中を見学するのは次回に持ち越しとさせていただくことにした。

バルセロナのあるカタルーニャ州はフランスとの国境に程近いこともあり、南仏への小旅行も旅程に組み入れることも出来るので、バルセロナ最大のターミナル駅であるサンツ駅から先が尖っている高速列車に乗り、ヨーロッパ最大規模の城壁が残る、フランス有数の人気観光地であるカルカッソンヌまで足を伸ばすことにした。バルセロナから遠くパリを目指す列車は満席でフランス国鉄のwebで事前にチケットを購入していなければ乗車不可能であったろう。4人掛けの席の対面に座っていたマドモアゼルがしきりに咳き込んでいたのだが、車内は特にマスクをした人もいなかったので甘んじてスペイン風邪のウイルスを浴びさせていただいた。

フランスの途中駅でTGVから先の尖りがゆるやかになった列車に乗り換え、合計3時間程度の列車の旅でカルカッソンヌに到着したのは日も傾きかけた午後4時過ぎであった。駅を出ると世界遺産ミディ運河のクルーズ船が発着する場所の近くは水門になっており、マサに水位調整の真っ最中であったのだが、ホテルへ到着するまでの時間調整の方が重要だと判断したのでひたすら城壁へ向かって歩を進めていた。

カルカッソンヌを世界的な観光地として君臨させているものは「シテ」という城塞都市であり、誰も株を買い占めて値を吊り上げ、高値で手じまい売りをする集団だとは思っていないのだが、近隣の丘がストップ高した高台に見える城塞が目に入ると「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称えられている理由がよくわかるのだ。

シテの入り口ナルボンヌ門に程近い☆☆☆☆ホテルであるオテル・デュ・シャトーにチェックインすると受付に近い快適な1号室があてがわれた。夜になると城塞はイルミネーションに照らされて浮かび上がるというので時を待ち、周囲が漆黒に包まれてると満を持して絶景の買占めに向かうことにした。

ナルボンヌ門をくぐり、緩やかな石畳の坂を歩いているとお洒落な土産物屋は店じまいの最中であった。現場感覚を養うために闇雲に歩いていると多くのレストランが客が来るのを今か今かと待ち構えていたため、とりあえず広場の中で賑わいを見せている店に入り、長靴ビールを飲みながらフランス南西部の郷土料理として有名な「カスレ」を賞味することにした。

白インゲンや豚肉等を煮込んだ熱々のカスレは味はまあまあだが、風邪を引いて声がかすれた輩にはもってこいの滋養食になるはずであろう。

1月5日(金)
一人当たり15ユーロで発注していたコンチネンタルブレックファーストは犬のガン見が付いているのでプレッシャーに耐えながら完食させていただくと、マサに青天井の相場環境に気を良くした時と同様の気分で青空の下に広がるシテの全容を解明するために再びナルボンヌ門をくぐることとなった。

カルカッソンヌのシテは、全長3kmに及ぶ城壁と、52の塔で構成されている。二重になった城壁は古代ローマ時代の要塞跡に築かれたもので、3~4世紀に造られた内壁の下部には当時の石が今も残っている。

1082~1209年にはトランカヴェル家統治のもとで絶頂期を迎えるが、アルビジョワ十字軍に屈し、城壁はその後フランス国王に占拠され、世界遺産となった今に至っているのだ。

城壁や棟を見て回るとところどころに昔の名車ジャガーのエンブレムを彷彿とさせる動物の突き出た前半身が目に付いたのだが、11世紀からの歴史を持つサン・ナセール・バジリカ聖堂のものは人間が「何ですか~」ポーズを決めているようであった。

広大なシテ内の有料エリア(10ユーロ)は長い城壁を持つコンタル城であるのだが、残されているのは石造りの構造物だけであり、内装や当時の生活様式まではうかがい知ることは出来なかった。しかしながら、はじめ人間ギャートルズが使っていた石の貨幣のようなものは確かに存在していたのだ。

魅惑のスイーツを量り売りする土産物屋をいくつか回ったのだが、特に値ごろ感がなく、購買意欲がわかなったので、手仕舞い売りをするようにシテを後にすることにした。しかし、モンサンミッシェルと並び称されるフランスの人気観光地であるこの地を訪れた観光客はそのすばらしさに皆してやられたという強い印象を持って帰っていくことになるのであろう。

バルセロナのサンツ駅に戻ってきたのは午後9時前になっており、さらに空港線に乗り換え、空港からわずか2,3km程度のBarcelona Airport Hotelまでのタクシー代として28ユーロをむしりとられながら何とかツアー最終日の寝床にありついた。

1月6日(土)
午前7時発LH1137便は定刻に出発し、約2時間のフライトでフランクフルトに到着した。ルフトハンザ航空のラウンジのスナックエリアにフランクフルトソーセージはなかったのでスープやパンを肴にしてビールとワインを流し込んだ。

午前11時30分発NH204便は定刻に出発し、羽田着が日本の早朝であることを考慮しながら血中アルコール濃度を調整して体内時計の修復を図っていた。「小さな巨人」の最終回を見ながら香川照之らの顔芸はスペインではそんなに役に立たなかったという反省も忘れなかった。

1月7日(日)
午前7時前に羽田に到着、流れ解散。

アムロはともかくコムロの引退騒動はマーク・パンサーに言わせると♪道徳もな~い、規則もない、誰も止めることの出来ないサガ♪と切り捨てられてもおかしくないだろうと思いながら原稿執筆にいそしんでいた。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥158,590
総宿泊費 EURO345.33、¥27,886
総鉄道代 EURO114
総バス代 EURO5.9
総地下鉄代 EURO13
総近郊線代 EURO6.7
総タクシー代 EURO28.8

協力 ANA、ブリュッセル航空、ルフトハンザ航空、IHG、Hotels.com、SNCF

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