かつて中央ヨーロッパに存在したユーゴスラビアという社会主義国家が紛争を伴って分裂し、古代からの歴史的都市や大自然が崩壊の危機に瀕したことがあった。しかし、そのいくつかは不死鳥のようによみがえり世界遺産としての輝きを取り戻しているのだった。
2016年6月2日(木)
午前11時発ANA231便は定刻11時に出発し、13時間弱のフライトで今なおテロに対して厳戒態勢が敷かれているはずのブリュッセル国際空港に午後4時前に到着した。次の便の乗り継ぎまで4時間程の時間潰しが必要だったので空港から15分程度でアクセス出来るブリュッセル市街に繰り出すことも考えたのだが、リスク管理の観点から安全であるはずのラウンジに立て籠もりベルギービールを痛飲して世界平和を祈願しておいた。
スロヴェニアの航空会社であるアドリア航空が運航するJP395便は定刻より少し遅れて21時頃の出発となったものの、2時間弱のフライトで定刻22時25分前にはスロヴェニアの首都リュブリャーナのブルニーク国際空港に到着した。首尾よくタクシーの勧誘に捕まると30分程度でBooking.comに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテルであるHotel Lev Ljubljanaに無事到着の運びとなった。
6月3日(金)
1991年6月に旧ユーゴスラビアからの独立を果たしているスロヴェニアの首都リュブリャーナは人口27万と非常にこじんまりとしており、旧市街も徒歩で回れる範囲内にあるので起き抜けに軽く散策してみることにした。
ルネッサンス、バロック、アールヌーヴォーなど各様式の建築物が調和した街並みの中心はプレシェーレン広場となっており、19世紀の詩人フランツェ・プレシェーレンの銅像が観光客を迎えている。広場に面して建っているピンク色のフランシスコ教会は1646年~1660年の間に建てられたものでデザインは隣国イタリアの影響を受けている。
リュブリャーナ川をまたぎ、旧市街と新市街を結ぶ小さな三本の橋はトロモストウイエと呼ばれており、この地で最も有名な橋としての地位を確立しており、絶好の記念撮影スポットとなっている。旧市街のヴォードニク広場には市場が立っており、青果や生鮮食品からこの地の特産物であるハチミツ等が安値で取引されている。
リュブリャーナ駅から列車で1時間40分ほど南西に移動し、ディヴァチャという駅で下車すると停車していた送迎バスに乗り込んでスロヴェニア唯一の世界遺産であるシュコツィヤン鍾乳洞に到着した。
スロヴェニア南西部クラス(カルスト)地方にあるシュコツィヤン鍾乳洞は長さ5km、幅230mの規模があり、そのうち2kmをガイドツアー(EUR16)で見学出来るので早速12時のツアーに参加させていただくことにした。ツアー開始前の時間にビジターセンターで洞窟の遊歩道設置工事らしい歴史を軽く学習した後、数十人の集団に膨れ上がったツアーの幕が切って落とされた。
ツアーは洞窟の入り口で現地語ガイドと英語ガイドの2組に分かれ、まず英語集団が暗闇へと歩を進めた。年間を通して12℃に保たれた洞窟内はひんやりとしており、1㎜成長するのに100年くらいかかる鍾乳石が悠久の時を経て巨大な柱となっている自然の造形美に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。
ツアールート上には「沈黙の洞窟」、「ドリーネ」と呼ばれる地底湖などの見どころがあるのだが、最大のハイライトは地底に眠る深さ250mの大峡谷である。鍾乳洞内部にはユリアン・アルプスの山から流れ出した雪解け水が川となって地底を削り、峡谷に近づくにつれ、その轟音は大きくなり、郷ひろみが♪君たちおんなのこ♪と歌っても、♪僕たちおとこのこ♪と音程を外しても♪ゴーゴー♪という音しか返ってこないのであった。尚、この大峡谷はヨーロッパのグランドキャニオンとの異名を取り、吊り橋の上から見るとマサに地底に吸い込まれる程の迫力を誇っている。
1時間半ほど暗闇を歩き回り、前方に光明が差し始めた所でツアーは解散となった。ガイド曰く、この先はエレベーターで地上に出るか、400段ほどの階段を風光明美な景色を楽しみながら這い上がるかは自分たちで決めやがれとのことだったので、ダイエットを兼ねて困難な道に立ち向かうことにした。
うっそうとした森の隙間には今なお洞窟を削っている川が白日の下にさらされており、あらためてその神秘と迫力が心に刻まれた。階段を登り切った先はこじんまりとした集落になっており、いくつかの見どころが点在していたのだが、体力の限界が迫っていたのでそそくさとビジターセンターへの帰路を急いだ。
世界遺産という看板につられてシュコツィヤン鍾乳洞観光の優先度を上げていたのだが、スロヴェニアにはその他にもヨーロッパ最大の鍾乳洞も君臨しているのでそちらの方にも足を伸ばしてみることにした。列車でリュブリャーナ方面に30数キロほど戻り、ポストイナという駅で下車して20分ほど歩くと巨大な観光地の看板が目の前に現れた。
ヨーロッパ最大の大きさを誇るポストイナ鍾乳洞は、1818年に初めて調査隊が入って以来、スロヴェニア有数の観光地に成長し、毎年100万人近い観光客を集めているという。何とか17時スタートの最終ガイド付きツアー(EUR23.9)に潜入することが出来たのだが、ツアーの参加者の多さはともかく、洞窟内での徒歩での散策開始地点まで列車を走らせていることに度肝を抜かれてしまったのだ。
マサにテーマパークと言っても過言ではないわくわく洞窟ランドの内部は写真撮影禁止のシュコツィヤン鍾乳洞と異なり、フラッシュを焚かなければ撮影可能なのでライトアーティストが絶妙に配置した照明を巧みに利用して自然の造形美を思う存分フラッシュメモリーにため込むことが出来るのである。
尚、ガイドによるとスロヴェニアは洞窟の宝庫ということで、国の全人口200万人の一人に一つづつMY洞窟をあてがうことが出来るとのたまっていた。日本にも福岡県北九州市の平尾台千仏鍾乳洞や山口県美祢市の秋芳洞等で洞窟体験は可能であるが、スロヴェニアの鍾乳洞はマサに日本のものとは比較にならないワールドクラスの規模であることが確認出来たのであった。
6月4日(土)
昨日は洞穴の探検に終始したので、今日は朝から地上の方を見物すべく朝からリュブリャーナの旧市街をぶらぶらしていた。三本橋トロモストウイエの東にもいくつか橋がかかっており、その近辺にシュールなオブジェや銅像が構えているのだが、「竜の橋」の欄干に佇む4頭の竜がリュブリャーナ市の象徴として崇められている。
旧市街を一望出来るリュブリャーナ城が高台にそびえているのでケーブルカーを使って入城(EUR10、ケーブル代込み)してみることにした。1144年に建設されたリュブリャーナ城は、中世のハプスブルグ家の支配等を経て1905年にリュブリャーナ市に買収されて現在に至っている。
城内には展望塔のほか、歴史博物館やハチミツ博物館、操り人形博物館等見どころも多く、観光客や市民も終日ここで楽しむことが出来るのだ。
ドイチェバーンが運行する2階建てバスがミュンヘンからリュブリャーナ経由でクロアチアのザグレブまで運行しているので12時40分発のバスに乗り、約2時間半の時間をかけて三浦知良もクロアチア・ザグレブのサッカーチームの一員として滞在した実績を持つザグレブに到着した。今回宿泊する☆☆☆☆ホテルであるDouble Tree Zagrebはバスターミナルから徒歩圏内だったので、速やかにチェックインを試みたのだが、部屋の準備が遅れているとのことでロビーでしばらく待たされたものの、部屋に荷物を置くとすぐにザグレブ市街地の散策に乗り出すことにした。
街を縦横無尽に行き来するトラムに乗ってイエラチッチ広場で下車すると小高い丘を登って旧市街へと突入した。ふと空を見上げると高さ100mあまりの尖塔が天を指す聖母被昇天大聖堂が目立っていたので入ることにした。13世紀~18世紀にかけて建てられた、ザグレブのシンボルであるこの大聖堂は1880年の大地震後に修復され、ネオゴシック様式を取り入れて現在の外観になっている。内部には、ルネッサンス様式の祭壇やバロック様式の説教壇等が厳かに配置され、信者たちが静かに祈りを捧げていた。
一旦丘から降りてイエラチッチ広場を西に移動するとケーブルカー乗り場を発見した。この路線は高低差わずか20m、片道30秒ほどの運行で坂が苦手な人にはうってつけの乗り物なのだが、なぜか運航停止になっていたので隣の階段で丘を駆け上がった。坂の上には2つの紋章をモザイクで表現した聖マルコ教会が鎮座しており、その前には中世のいでたちをした役者系の人物が立ちふさがり、観光客の被写体として賑わいを後押ししていたのだ。尚、聖マルコ教会は、13世紀に建てられたゴシック様式の教会で、屋根の紋章の向かって左側はクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方を表し、右側はザグレブ市の紋章である。
夕暮れ時になると雲行きが怪しくなってきたので繁華街にある人気のシーフードレストランでおすすめの柔らかいイカやタコの料理に舌鼓を打っていると雷雨が炸裂し始めたのでしばらく雨宿りをしながらザグレブの夜は更けていったのだった。
6月5日(日)
ザグレブから南へ約110kmのところに荒廃の危機を乗り越え、今なおひっそりと佇む森と泉に囲まれた楽園があると聞いていたので満を持して行ってみることにした。ザグレブのバスターミナルからモデルは古いがWiFiが使える長距離バスに乗り込み約2時間半で到着した場所はプリトヴィッツェ湖群国立公園である。
年間約80万人の観光客が訪れる世界的に有名な湖群公園は1949年に国立公園に指定され、1979年に世界遺産に登録されたのだが、1990年代の紛争による被害により、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録されもしたが、現在は幻想的で美しい湖群の姿を取り戻し、リストからも除外されたのだった。
公園に到着してまず驚いたのは入園を待つ観光客の多さであった。公園には入口が2つあるのだが、FTB一行が到着した入口1の方は団体客でごった返しており、何とかチケット売り場への列を確認するとKn110の入園料を支払って森の国でのトレッキングが始まった。
200km2の広さを誇るプリトヴィッツェには大小16の湖と92カ所の滝が程よい高低差でちりばめられており、エメラルドグリーンの湖水を見ているとマサに心が洗われるような感覚さえ覚えるのだ。
広い園内を移動するために遊覧船系の渡し船とエコロジーバスが運行されているのだが、料金はいずれも入園料に含まれている。早速遊覧船で大きな湖を横断し、上陸して本格的なトレッキングをスタートさせた。
園内には木道が張り巡らされ、その上を渋滞した観光客が秩序正しく歩き、滝の前では一様にマイナスイオンを浴びながら記念撮影に明け暮れることとなる。公園内には、321種の蝶、161種類の鳥および21種類のコウモリがこれまでの研究により発見され、大きな捕食動物としてオオカミやヒグマも潜んでおり、特にクマは公園のシンボルマークとなっているのだ。
遠目からはエメラルドグリーンに見える水も近づくと透明度が高く、餌を求めて近づいてくる淡水魚の魚影もくっきり見えるのだ。
途中雨に降られたものの、夕刻までクマに遭遇することなく園内をクマなく散策出来たので、17時15分の路線バスで無事ザグレブへの帰路につくことが出来たのだった。
6月6日(月)
今では分裂してしまったユーゴスラビアであるが、首都としてユーゴスラビアを統括していたのがベオグラードである。ということで、午前9時にややオンボロ系のバスに乗り、車窓を流れる地平線を見ながら6時間かけてセルビアの首都ベオグラードまでやってきた。
ベオグラード本駅に隣接するバスターミナルに着いたは良いが、初めて来た場所では当然右も左もわからず、小さな駅のインフォメーションも係りが留守の様子だったので、ホテルまでの移動をタクシーに託すことにした。駅前に停泊しているタクシーのおやじに宿泊先であるHoliday Inn Expressを地図を見せながら説明すると10ユーロで連れて行ってやると言ったので乗車したのだが、案の定おやじは間違ったHoliday Innに連れていきやがった。ホテルの係員のサポートで運転手のおやじに正しい場所をインプットしてHoliday Inn Expressにたどり着いたのだが、何とおやじは自分のミスを棚に上げてさらなる20ユーロを要求しやがった。通常であれば当然却下となるのだが、このおやじは舛添知事なみの神経の持ち主に違いないと感心させられたのでチップ代わりに明細書付領収書なしで12ユーロを渡しておいた。
Holiday Inn Expressのフロントギャルは非常に親切で、当ホテルはまだ新しいのでタクシー運転手は場所を理解しないかも知れないとのたまっていた。地図をもらってホテルの場所と駅や繁華街の場所を照らし合わせるとどこでも徒歩で行けることが確認出来たのだった。
というわけで、ベオグラードの繁華街や見どころに繰り出すことにしたのだが、最初に私の目を引いたのは大学と思われる建物の前で読書をしている二コラ・テスラの銅像であった。
この地は日本との関係もそれなりにあるようで市内を走るバスのいくつかは日本から寄贈されたものらしく、ボディにセルビアと日の丸の交差がペイントされていた。さらに、「お寿司プレー」という名の日本食屋を発見したのだが、残念ながら空いていなかったのでイカ、タコ、マグロ等の着ぐるみを来たシェフが握るであろう寿司を賞味することはかなわなかった。
旧社会主義体制の威光を残す重厚な建物が立ち並ぶ大通りとSTARI GRADと呼ばれるカフェやショップが立ち並ぶ目抜き通りを抜けるとカレメグダン公園という憩いの場所に到着した。ベオグラードは美しき青きドナウ川とサヴァ川が交わる場所に位置するバルカン半島の交通の要衝で、紀元前4世紀にはすでにこの場所に要塞が造られていたという。現存する建造物は18世紀以降に造られたものであるが、城壁を守るように配置されている紛争時に使われた武器や戦車、恐竜をアセンブルしてジュラシックパークもどきを建設している様子が特に印象に残った。
カレメグダン公園内に2つの美しい教会がある。聖ルジツァ教会は甲子園球場のように蔦で覆われた外観が神秘的でその下にある聖ペトカ教会には息を飲むほど美しいモザイクの壁画が人々を引き付けていたのだった。
6月7日(火)
ベオグラードの中心部に君臨する国会議事堂の前面に紛争の空爆等で亡くなった人たちを忘れるなという横断幕が掲げられている。その国会議事堂から南西へと延びるクネズ・ミロシュ通りは官公庁の建物が多く、別名「空爆通り」と呼ばれており、1999年に起きたNATOの空爆の際には通り沿いの建物も標的となり、次々に破壊されていった。いくつかの建物は広島の原爆ドームのようにいまだに破壊されたままの姿で残っており、廃墟を見上げていると通りすがりのおっさんが、「ここにアメリカのゲス野郎が爆弾を落として行きやがったのさ!」と捨て台詞を吐いて去って行ったのだった。
空爆にも参加したそのアメリカのシリコンバレーにテスラモーターズという電気自動車の製造会社がある。日本の自動車メーカーは矢沢永吉に「やっちゃえ日産」と言わせて喜んでいるが、テスラはすでに自動運転を実用段階までやっちゃっている会社なのである。私も数年前にこの会社の面接を受けてからここに注目しているのだが、この社名はセルビア人の物理学者の二コラ・テスラにちなんでおり、その博物館がベオグラードにあるということで謹んで訪問することにした。
二コラ・テスラがセルビアの通貨100デナール(RSD)の肖像画に採用されている縁で入場料は100デナールであることを期待したのだが、500デナールの支払で彼の発明品が数多く展示されている館内に入場させていただいた。交流電流や無線トランスミッターなどの発明でエジソンに匹敵する科学者である二コラ・テスラのニコりともしない肖像画を見ながら、テスラ社のイーロン・マスクCEOがその仮面の下で考えている次なる戦略にも思いを馳せていた。
尚、この博物館はテスラ社の後援は受けていないようで、代わりにサムソンが協賛しているというパネルが誇らしげに展示されていた。また、定時が来るとテスラコイルを使った空中放電実験が行われており、コイルの放電とともに子供たちが手にした蛍光灯が怪しい光を放っていた。
実験のための電気代は使っているが、トイレのない二コラ・テスラ博物館を後にして、トイレ休憩を兼ねたコーヒーショップでハートマークのカプチーノを召し上がると東方正教系の教会としては世界最大の規模を誇り、セルビア正教の中心的教会である聖サヴァ教会へ向かった。噴水に彩られ、市民の憩いの場になっている正面広場から教会内に入ると内部は大規模な工事中であったが、信者達は恭しく十字を切り、体を半分に曲げるほど深いお辞儀をしてイコンに口づけを交わしていた。
オンボロ系のトラムでベオグラード本駅に移動し、そこからバロック風の塔が印象的なセルビア正教大聖堂をチラ見してリュピツァ妃の屋敷(RSD200)を見学した。屋敷自体は第2次セルビア蜂起の指導者として、オスマン朝からセルビアの自治を獲得したミロシュ・オブレヴィッチのものであるが、その夫人の名前を冠しており内部は1832年の建設当時のように装飾されているので、当時の生活様式を少なからず垣間見ることが出来るのだ。
夕飯時になったので、ホテルの人も推奨するスカルダリアという郷土料理店が密集しているエリアで地元の味を賞味させていただくことにした。伝統衣装を身にまとった客引きをかわしながらドゥヴァ・イェリナというレストランのテラス席を占拠し、セルビアの国民酒と呼ばれる蒸留酒であるラキアのプラム味とアプリコット味で喉の奥を焼きつかせながらムツカリツァという豚肉をトマトとパプリカで煮込んだ料理を向かいの店から流れるライブ演奏に耳を傾けながら堪能したのだった。
6月8日(水)
早朝3時半に目を覚まし、4時のモーニングコールをスルーして4時半に予約しておいたまじめなタクシーで二コラ・テスラ・ベオグラード空港に向かった。6時15分発ルフトハンザLH1411便は定刻通りに出発し、2時間のフライトでフランクフルトに到着した。ラウンジでドイツビールを軽飲しながら4時間余りをやり過ごし、12時10分発ANA204便に乗り継ぐと11時間以上の浪漫飛行が待っていた。
6月9日(木)
午前7時前に小雨の羽田空港に到着し、舛添狂想曲たけなわの雰囲気を感じながら流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 \137,440
総宿泊費 EUR222.04、HRK883.1(HRK1= \16.7)、RSD15,894.76(RSD1 = \1)
総タクシー代 EUR67、RSD2,200
総バス代 EUR18、HRK425
総鉄道代 EUR14.74
総トラム代 HRK40
協力 ANA、アドリア航空、ルフトハンザ航空、Booking.com、Hiltonhhnors、IHG