FTBモン・サン・ミッシェルツアー with モンテカルロで乾杯

ボンジュール マサよ! 鯖(サバ!?)

ということで、アベノミクスの失速と消費増税による物価高で日々悶々とした生活をおくっている今日この頃であるが、この閉塞感を打破するために屈指の世界遺産であるモン・サン・ミッシェルと金持ちが集結するモンテカルロを巡るモンモンツアーが開催される運びとなったのだ。

10月22日(水)
羽田空港の国際線ANA SUITEラウンジでカレー朝食を召し上がり、10:25羽田発NH215便に搭乗すると機内エンターテイメントプログラムで放映されている映画「イブ・サンローラン」、「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」、「万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-」を立て続けに見ながら今回のフランス生活の予習を行っていた。

飛行機は定刻の午後3時半過ぎにパリのシャルル・ド・ゴール空港に到着すると列車と地下鉄を乗り継いでパリ18区に移動し、Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればEUR250くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Paris – Porte De Clichyに引きこもって英気を養わせていただくことにした。

10月23日(木)
夏時間と日の出の時間の関係で午前8時過ぎにあたりがようやく明るくなったので、ホテルを後にしてPorte De Clichy駅から通勤客に揉まれながら満員の地下鉄に乗り込んだ。車内でいい仕事をしているスリの気配を感じてディフェンスを固めているうちにモンパルナス駅に到着すると早速TGVのチケットを求めて自動販売機を操作したのだが、午前中発の列車は1stクラスしか空いていなかったのでより良いチケットを求めて窓口に向かった。首尾よく英語が通じる窓口が空いたので、そこで何とか午後2時発のレンヌ行きTGVと乗り継ぎバスによるモン・サン・ミッシェル行きの往復チケットを入手することに成功した。尚、モン・サン・ミッシェルまで通しで行けるルートの便は非常に限られているのでチケットは早めに購入しておくことが重要だとの教訓が刻まれたのだった。

予期せず手にした午前中の空き時間を利用してフランスが誇る世界遺産であるセーヌ河岸の散策と洒落込むことにした。凱旋門で地下鉄を降りてシャンゼリゼ通りを闊歩しているとグラン・パレ国立ギャラリーの重厚な建物が見えてきた。そこでは親日国であるフランスのお国柄を反映するようにユニクロをスポンサーとした北斎展の看板が誇らしく掲げられ、入場を待ちきれないムッシュやマダムたちが長蛇の列を作っていたのだ。

エッフェル塔に見送られ、コンコルド広場を駆け抜けてチュイルリー公園で一休みすることにした。園内はパリ見物で疲れた観光客が小休止出来るよう多くの椅子と彫刻やオブジェが配置され、野外美術館の様相さえ呈しているのである。

ルーブル美術館への入場を待つ長蛇の列を見てモナ・リザの瞳を鑑定する気分が萎えてしまったので、ピラミッドを遠巻きに眺めつつ、パリ発祥の地であるシテ島まで流れることにした。豪華絢爛たるノートルダム大聖堂の雄姿を一目見てシテやったりと満足すると地下鉄でモンパルナスに戻って来た。

14:08発TGV8623号は定刻どおりモンパルナス駅を出発すると16:16にフランス最西端ブルターニュ地方の中心都市であるレンヌに到着した。そこからさらにバスに乗り継ぎ、モン・サン・ミッシェルのバス停に着いたのは午後6時であった。バス停とモン・サン・ミッシェルの間には無料のシャトルバスが頻繁に往復しているので満員の乗客に押し込まれるようにシャトルに乗り込んだ。

モン・サン・ミッシェルへとつづく干潟は再生プロジェクトの最中で19世紀に築かれた従来の堤防道路を撤去して近々開通となるであろう海水を通すことの出来る橋のような道路を伴っていた。シャトルバスを降り、海に浮かんでいるような幻想的な要塞に向かって歩を進めていくと、中世に一歩ずつタイムスリップしていくような感覚を覚えた。

周囲約900m、高さ約80mの島内に足を踏み入れ、砦の守りを固めるため15世紀に建てられた王の門をくぐるとグランド・リュというメインストリートに差し掛かった。通りの両側にはおびただしい数の土産物屋が並んでいたのでタイムトラベルの時計が中世から現代に逆戻りしてしまった。島内にはいくつかの☆☆☆ホテルが高値で営業しており、そのうちの一つのオーベルジュ・サン・ピエールをagodaに予約させていたので早速チェックインすると黄昏時のモン・サン・ミッシェルを散策することにした。

島が難攻不落の砦だった頃の面影を今に伝える城壁に沿って歩いていると見張り台に到着した。ここからはモン・サン・ミッシェル湾が一望され、時間帯によっては潮のダイナミックな満ち引きを目の当たりにすることが出来るのだ。

日帰り観光客も帰路につき、島内に閑古鳥が鳴き始めるとモン・サン・ミッシェルが一日で最も神秘的な時間を迎えることとなる。ライトアップされた修道院は周囲が暗くなるにつれて輝きを増し、その幻想的な光景はモン・サン・ミッシェル地区に宿泊したもののみが得られる特権となっているのである。

10月24日(金)
朝起きるとあいにく雨模様となっていたのだが、これも中世の風情を高めるための一興だと割り切って、今日は島内を隈なく見て回ることにした。まずは、昨晩神秘を演出した夜景スポットに戻ってみるとかろうじて水溜りが残っており、修道院の姿を写し取る鏡のようになっていた。

モン・サン・ミッシェルとその湾はフランスを代表する世界遺産となっており、中世から脈々と歴史を積み重ねてきたのだが、その一端を垣間見るためのいくつかのミュージアムのセット券(EUR9)を購入してまずは歴史博物館に入ってみることにした。館内は中世の暮らしぶりを今に伝える家具調度品や武器のコレクション、牢獄だった頃の凄惨さを伝える蝋人形や拷問器具、鋼鉄のTバックなど、思わず背筋が寒くなるような展示品でにぎわっていた。

歴史博物館を抜けると島と一体化してそびえたつ修道院(EUR9)の入り口にたどり着いたのでそのまま入ってみることにした。修道院は966年に建築が始まり、数世紀にわたって繰り返されてきた増改築の様子が模型として展示されている。

モン・サン・ミッシェル修道院は、他の修道院とは似ても似つかない独特の様式を持つ建造物である。このモン(岩山)のピラミッドの形を念頭に置きながら、中世の建築家の巨匠たちは、花崗岩の岩山の周囲に建物を巻き込むような形で作りこんでいったのだ。

修道院の尖塔上には黄金の聖ミカエル(仏語でミッシェル)像が鎮座しているのだが、8世紀のはじめにアヴランシュの司教であった聖オベールが夢の中で大天使ミカエル(サン・ミッシェル)の「この地に修道院を建てよ」というお告げを聞いて建設が始まったという。

正午を回った時間帯に修道院の鐘の音が鳴り響き、上層階の付属教会で礼拝が始まったので悶々としながらも見届けることにした。修道僧と尼による賛美歌の合唱により教会は厳粛な雰囲気に包まれ、約1時間後の礼拝終了までその場を動くことが出来なかったのだ。

西のテラスから湾を展望すると干潮になった湾を歩く人々の姿が見受けられるのだが、ひざまで砂洲につかりながら干潟を歩くツアーが人気を博しているという。尚、この付近一帯は潮の干満の差が激しいことで知られており、満潮時には驚くべき速さで潮が満ち、島全体が水に囲まれてしまうため、多くの巡礼者が命を落としてしまったのだ。

修道院の上層、中層、下層を隈なく見て回るとちょうど昼飯時になったので、有名なレストラン「ラ・メール・プラール」でオムレツを召し上がることにした。もともと巡礼者が気軽に食べられるようにと考案されたオムレツだが、今では高級料理に成り上がっており、デザート付のランチセットを楽しむためにはEUR30の出費を強いられてしまうのだ。ただし、EUR30は節約したいが、気分を味わいたい輩のためにキッチンの前ではふわふわオムレツ作りの実演まで行われ、観光客の食欲増進に一役買っているのである。

モン・サン・ミッシェルのツアーガイドの写真は通常見栄えの良いA面が使われているのだが、裏に回りこんでB面を見てみるとそこは自然の岩とうっそうと茂る木立で覆われている事実が確認できたので、中世の幻影とラ・メール・プラールのクッキーを手土産に17:20発のバスとTGVを乗り継いでそそくさとパリに帰って行った。

10月25日(土)
♪ふ~ゆのリビエラ、おことってやつは 港を出てゆく ふ~ねのよ~だね 悲しけ~れば 悲しいほど 黙りこむもんだね~♪

というわけで、TGVの1stクラスチケットをあらかじめ安値で購入していたのでパリのリヨン駅から8:41発TGV26403号に乗り、7時間近くかけて森進一も推奨するはずのリビエラ地方までやってきた。フランス最大のリゾート地であるコート・ダジュールのニース駅で下車してagodaに予約させておいた駅前のHotel Ibisにチェックインすると「リビエラの女王」との異名を持つニースの町並みの見物に繰り出すことにした。

旧市街を抜け、高台にある展望台から海岸線を見下ろすとそこには陽光降り注ぐ「天使の湾」が広がっていた。海岸に下りてみるとそこは砂浜ではなく、丸石で覆われたビーチになっており、遅れてきたリゾートを堪能している海水浴客が数多く見受けられた。

サンセットを見送るとディナーセットが恋しい時間帯になったので、プロムナード・デサングレという海岸沿いの目抜き通りの中心にある気軽なレストランでシーフードを堪能し、優雅な雰囲気の中で自らの誕生祝いを満喫させていただいたのだった。

10月26日(日)
♪飛んでイスタンブール♪のヒットにより、一発屋としての地位を確立した庄野真代であるが、次作の「モンテカルロで乾杯」もそれなりに売れたことを覚えている輩は少ないかも知れない。中学時代にこの曲を聴いて以来、いつかはモンテカルロに行かなければならないと思い続けていたのだが、ついにその悶々とした気分を払拭する日を迎えたのだ。

ニースからローカル列車に乗るといつしか国境を越えて30分ほどでバチカン市国に次ぐ世界第2の小国であるモナコ公国のモンテカルロ駅に到着した。わずか2平方キロメートルの面積しかないモナコであるが、6つの地区を要している。まずはカジノで有名なモンテカルロ地区に足を踏み入れることにした。パリのオペラ座パレ・ガルニエを設計したシャルル・ガルニエの作であるカジノ・ド・モンテカルロで勝負するほど現金を用意してこなかったので、カフェ・ド・パリで茶をしばいているセレブを遠巻きに眺めながらモナコ湾の方へ下っていった。

ちょっとしたクルーズ気分を味わうためにEUR2を支払ってBateau Busという水上バスで300m程のモナコ湾を横断するとモナコの歴史が集約されている高台のモナコヴィル地区を見学することにした。

モナコ最大のイベントといえば、5月のF1グランプリで市街道路がサーキットへと変貌を遂げる。F1のコースをクラシックカーで駆け抜けるツアーもあるのだが、今回はプチトラン(EUR9)に乗って日本語解説を聞きながら「リビエラの真珠」との異名をとるモナコの観光名所を30分かけて巡って行った。

プチトラン観光でモナコの歴史を学習することが出来たので、大聖堂に入って歴代のモナコ公の墓参りをさせていただいた。多くの墓の中でひときわ美しいバラで装飾されたものがあるのだが、これはヒッチコック監督を従えてハリウッドに君臨した女優グレース・ケリーのものである。グレースは1956年に前モナコ公レニエ3世の妃になったのだが、ド・ゴール大統領のプレッシャーをものともせずフランスの手先になることを拒んで独立を守り、モナコの名を世界的に知らしめたヒロインなのである。

「公妃の切り札」を見せ付けられて喉の渇きを覚えたのでビールで乾杯し、さらに大公宮殿(EUR8)を見学させていただくことにした。衛兵に守られた宮殿内部は写真撮影禁止となっているのだが、日本語解説のヘッドセットを無償で貸し出してくれたので、1215年にジェノバ人が築いた要塞の跡地に建てられた宮殿の各部屋や装飾仕様を細かく見て回ることが出来たのだ。

高台にあるモナコヴィル地区には多くの展望台があり、高級クルーザーが整然と停泊しているハーバーや地中海に面した崖や高台を埋め尽くす高層ビルの様子が眺められる。また、3万人の人口が60数人に1人の割合で配備している警察官で守られているいるセキュリティ体制は圧巻で野良猫さえ自由に街を闊歩出来ないのだ。

10月27日(月)
早朝より太陽が燦々と降り注ぐ中、コート・ダジュールの景色を目に焼き付けるために再びプロムナード・デサングレを歩いていた。すでに海岸ではビーチパラソルの花が咲き、多くのリゾーターが海水浴と日光浴に興じていた。

ニース市街地から5km程離れたニース・コート・ダジュール空港まで市バスで移動するとエール・フランス航空が運航する13:00発AF7703便に乗り込みパリのシャルル・ド・ゴール空港まで帰って行った。引き続き、17:05発NH206便に搭乗する際にビジネスクラスへのアップグレードを果たすことが出来たので成田まで快適なフライトが約束された。さらに飛行機が北極圏に差し掛かった頃、キャビンアテンダントがオーロラが出ているので見てくれと迫ってきたので半沢直樹の最終回を一時停止してうっすらと見えるオーロラの確認に勤しまなければならなかったのだ。

10月28日(火)
飛行機は定刻前の午後12時半頃成田に到着。高飛車だが、高級ワインのように文化が熟成しているフランスに敬意を表しながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \143,850
総宿泊費 \40,011、EUR218
総鉄道代 EUR246.35
総バス代 EUR31.4
総地下鉄代 EUR8.5

協力 ANA、エールフランス、Priority Club、agoda、sncf

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