FTB中欧復興世界遺産ツアー in ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、モンテネグロ

旧ユーゴスラビアから分離、独立した国々には美しい自然と歴史的建造物の景観が織り成す独特の風景が数多く存在するのだが、独立にまつわる紛争や自然災害により数多くの世界遺産が壊滅的な打撃を受けている。今回はそのような危機的状況から見事に復興を成し遂げた地域を歴訪し、二度と愚行を繰り返さないことを肝に銘じるべくツアーが敢行されることとなったのだ。

9月23日(火)
ヨーロッパとアジアの架け橋になっている地理的利点を活かし、中東や中欧地域に圧倒的なネットワークを持つトルコ航空が安値で欧州行きチケットを提供しているので、今回は関西空港発22:30発TK47便に乗って久しぶりに庄野真代よろしく飛んでイスタンブールまで行くこととなった。

9月24日(水)
午前6時前にイスタンブールのアタチュルク国際空港に到着すると、しばしスターアライアンスの大ラウンジで英気を養い、7:05発TK1021便で一路サラエボを目指した。飛行機がサラエボ上空に差し掛かると眼下にはこれまで見たこともないような雲海が広がり、分厚い雲を突き破って降下するとそこには素朴な町の光景と質素な空港が待ち構えていた。

早速空港で手持ちの米ドルを現地通貨であるマルカ(KM)に両替するとタクシーに乗車して今日の宿泊地であるHotel Colors Inn Sarajevoに向かった。ホテルでは早朝到着で部屋の準備にあと数10分を要するとのことだったのだが、美味な朝食を無料サービスしてくれるというホスピタリティを発揮してくれたのだった。空腹を満たすと首尾よく部屋にしけこむことが出来たので、荷物をおいて20年前には紛争地帯であったボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボの散策に繰り出すこととなった。

町の目抜き通りはスナイパー通りと呼ばれ、紛争時には、この通りで動くものは高層ビルに潜んだセルビア人狙撃兵の餌食となり、子供や老人、女性さえも狙い撃ちされたという暗い過去を引きずっている。また、通りのビルにはおびただしい数の弾痕が残っており、当時の銃撃戦の凄惨さを物語っている。尚、スナイパー通りに高級ホテルとして君臨するホリデー・インは紛争時にも営業を続けて利益を独占するという気概を見せ、当時は世界中のジャーナリストのたまり場と化していたそうだ。

サラエボの暗黒時代をさらに調査するためにトラムに乗って空港近くのイリジャという町で下車し、徒歩でトンネル博物館(KM100)に向かうことにした。目的地への道中では金を無心する青少年から尾行されるという一幕があったものの、少年の執拗なマークを振り切ると銃弾の痕が生々しいとある建物に到着した。

この博物館は1993年の紛争時に造られたトンネルの一部を公開しているもので、当時のサラエボは旧ユーゴスラビア連邦軍に包囲され、孤立していたが、このトンネルのおかげで他のボスニア軍占領地域と結ばれ、物資輸送を行うことが出来たのである。サラエボで冬季オリンピックが開催されたのは1984年であるが、そのわずか8年後の1992年からは敵陣に包囲された紛争地帯として輝かしいはずの歴史に暗い影を落とすことになるのである。

とんねるから脱出すると世界でもっとも有名な石橋のひとつを見るためにトラムで市の中心地に引き返すことにしたのだが、すれ違うトラム後部の連結器には青少年が危険を顧みずにしがみついて無賃乗車に精を出しており、この国の問題がまだ十分に解決されているわけではないことを思い知らされた。

有名な石橋であるが、何のきなしに歩いていると通り過ぎてしまうかも知れないが、1914年6月28日にボスニアを統治していたオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア青年に狙撃され、第一次世界大戦のきっかけとなったラテン橋なのだ。このようにサラエボは当時から狙撃には縁のある地域であるが、紛争後は国際開発協会の援護射撃的な援助により、今では見事に復興を果たしているのだ。

サラエボでもっとも観光客が集まる旧市街にバシチャルシアという職人街がある。中近東の雰囲気が漂うこの地域にはトルコ風の銀や銅製品の工房兼売り場が軒を連ね、あちこちで金属をとんかちで打ち付ける音が響いており、人々はやっとの思いで手に入れた平和を存分に謳歌しているようであった。

9月25日(木)
列車の運行が少ないサラエボ中央駅に隣接しているバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の観光地を目指すことにした。風光明媚な山道を3時間以上バスに揺られて到着した町はモスタルと呼ばれ、その旧市街は世界遺産となっているのである。

とりあえずagodaで予約しておいたHotel Old Townにしけこんだ後、早速周囲の散策に繰り出すことにした。石灰岩の山に囲まれた大地を切り裂くように流れているエメラルドグリーンのネトレヴァ川の両岸を美しいアーチを描いた橋がまたいでいる。スターリ・モストと名付けられた橋はこの地の象徴で、ボスニア語でモスタルとは「橋の守り人」を意味しているのである。

スターリ・モストの周辺がにわかに賑わってきたのでその喧騒に近づいてみると橋の欄干の上を集金しながら歩いている上半身裸のナイスバディ男の姿が目に飛び込んできた。橋の下の川べりでは何故かサムライもどきが決定的瞬間をとらえようとカメラの設定に余念がないようであった。ひととおりの集金活動が終了すると集金係ではない別のおじさんがしゃしゃり出て、高さ10m以上の橋の上からいきなり川に落下しやがったのだ。

7~8中世に建てられたいくつかのイスラム寺院を遠めに眺めた後、橋を構成する東岸の塔で開業しているスターリ・モスト博物館(EUR5)で橋の構造を学習させていただくことにした。スターリ・モストは1566年にオスマン朝支配下の時代に建てられたもので橋台を用いず、両岸からアーチ状に構成されており、当時の建築技術の高さを示している。塔の上からは違った角度のスターリ・モストが眺められ、橋を行きかう人を真上から見下すことが出来るのである。

旧市街は日中はクロアチアからの日帰りツアーで賑わっているのだが、夕方になると人も少なくなり、徐々に落ち着いた雰囲気を醸し出していった。さらに夜のライトアップの光景はこの地に宿泊したものが得られる特権となっているのであった。

9月26日(金)
モスタルはスターリ・モストを中心に発展してきた町であるが、この橋でさえも紛争中の1993年11月に破壊されてしまったという暗い過去を引きずっている。その出来事を決して忘れないようにと、旧市街では至る所で「Don’t Forget」を刻んだ看板が見られるのだが、橋の西岸の塔に紛争時の写真を集めた写真館(EUR3)が早朝より営業していたので入ってみることにした。

プロカメラマンにより激写された紛争時の状況を生々しく伝える写真の中には武器を携えた少年兵やスターリ・モスト倒壊後に架けられた仮のつり橋をわたる人々等の姿が映し出されており、復興成った今のモスタルの姿が奇跡としか思えないような感覚さえ沸いてくるのであった。

紛争から得られるものはむなしさ以外の何ものでもないことを思い知らされ、あらためて旧市街を歩いているとスターリ・モストより小ぶりな石橋が視界に入ってきた。Crooked Bridgeというこの橋は1558年に建造されたのだが、1999年の大晦日の洪水で破壊され、2002年に再建されたもので、戦火と災害をかいくぐってきたモスタル旧市街を裏で仕切っているような存在感さえ示していたのであった。

スターリ・モストが異民族や他宗教をつなぐ架け橋となることを祈りながらモスタルを後にすべくバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナから撤退すると3時間程時間をかけてクロアチア随一の観光地と言っても過言ではないドブロヴニクに移動する運びとなった。バスはいつしか光り輝くアドリア海沿岸を走りぬけ、吊り橋を渡ると高層マンションのような豪華客船が停泊するフェリーターミナルに隣接するバスターミナルにすべりこんだ。

ターミナルに程近いホテル・ぺトカという規模は大型だが、部屋は小型であることを思い知らされた観光ホテルにチェックインすると徒歩で2km程離れた旧市街に向かった。城壁に囲まれた旧市街の入口のひとつであるピレ門はあたかも中世への扉を開いているようで、足を踏み入れるとこの町に忠誠を尽くさなければならないかのように財布の紐を緩ませる土産物屋や飲食店が軒を連ねて待ち構えているのだ。

日も西に傾いてきたのでとりあえず一通り旧市街を回ってみていると波止場の人だかりが目に付いた。船上では何がしかのウエディング系のセレモニーが行われており、一流の観光地のサンセットに花を添えていたのだった。

9月27日(土)
マサよ、君はミキモトでも仕入れることが出来ないアドリア海の真珠と心中しそうになるほどの感動を覚えたことがあるか!?

というわけで、クロアチア最南端に位置するアドリア海沿岸の小さな町ドブロヴニクは「アドリア海の真珠」との異名を持つ風光明媚な観光地である。その旧市街はオレンジ色の瓦屋根を頂いた家屋がぎっしりと並び、8~16世紀に増改築を繰り返して建造された城壁で囲まれている。

旧市街を取り囲む城壁は1940mもの長さがあり、周囲をぐるりと歩いて回ることが出来るので早速Kn100を支払って城壁への急な階段を上ってみることにした。1438年に造られたオノリフの大噴水で汲んできた天然の湧き水を片手に一方通行の歩道を進んでいくとほどなくしてシーカヤックツアーの一団がアドリア海の景色の一部となっていた。

城壁から見下ろす旧市街の奥地は原住民の生活感が息づいており、多くの洗濯物がさわやかな風にたなびいている。一方、アドリア海を行き交うクルーズ船はさまざまなタイプがあり、太陽電池を使ったものやグラスボート、半潜水艦等、観光客の好みに応じて乗り分けることが出来るのである。

世界の一流観光地は名所・旧跡、博物館の入場料、飲食店の割引、乗り物代等がパッケージとなっているお得な期日限定のカードを発行している。観光立国としての道を歩んでいるクロアチアも例外ではなく、1日、3日、7日有効のドブロヴニクカードなるものを発行しており、すでにKn100を支払った城壁巡りも含まれているにもかかわらず、今後の観光プランを考慮してあえてKn150を支払って1日カードを購入することにした。

早速1516年に建立されたスポンザ宮殿への侵入を試みたのだが、カードでは入場出来ないとけんもほろろだったので気を取り直して総督邸に入ることにした。15~16世紀に栄えたラグーサ共和国の最高権力者である総督の住居兼共和国の行政機関であった総督邸は今では文化歴史博物館へと変貌を遂げており、武器、硬貨、絵画など当時の反映を偲ばせる代物が取り揃えられている。

聖イヴァン要塞を利用した海洋博物館でドブロヴニクの貿易都市としての実力を垣間見た後、1699年~1725年に建てられたバロック様式の聖イグナチオ教会でフレスコ画を見ながら聖母像に祈りを捧げさせていただいた。

夕暮れ時が迫ってきた頃合を見計らって旧市街の背後に控えるスルジ山に登頂して高みの見物を決め込むことにした。標高412mを誇るスルジ山へはKn100を支払ってロープウエイで上るのが一般的で、頂上からは堅固な城壁に囲まれたオレンジ色のパズルと紺碧の海、ロクルム島の緑のコントラストを楽しむことが出来る。

水平線に沈み行く夕陽を見送ると旧市街に灯がともり、マイルドな夜景が現出された。西の空は旧市街の屋根よりもオレンジ色に染まり、その残像はいつまでも消え去ることがないのではと思えるほど鮮やかであったのだ。

下界に戻ると旧市街のライトアップを眺めつつ、ディナーと洒落込むことにした。とある雰囲気のいいレストランでシーフードの盛り合わせを発注したのはよいが、ドブロヴニクにはどぶろくのような濁り地酒がなかったのでビールで肴を流し込むしかなかったのだった。

9月28日(日)
ドブロヴニク旧市街は1979年に世界遺産に登録されたのだが、1991年からのクロアチア独立戦争時には旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃により、かなりの被害を受け、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に挙げられていたものの、終戦後に急ピッチで修復が進み、1994年に再度世界遺産にカムバックした不屈の闘志を誇っている。その復興成った雄姿を海上から眺めるために50分のクルーズ船(Kn75)に乗船してみることにした。

船長としての威厳を感じさせない船の運転手が携帯でしゃべり倒しているのが気にならないほど美しい光景が次から次に出現するアドリア海の色は海底の地形により猫の目のように色を変え、高級ホテルのプライベートビーチでは過ぎ行く夏を惜しむかのようにセレブ達が日光浴に勤しんでいた。

クルーズの余韻を崖っぷちカフェでのコールドドリンクで抑えると、旧市街の喧騒に戻ることにした。何故か大聖堂の周辺が立ち入り禁止エリアに成り上がっていたのだが、どうやら何かのロケをやっているらしく、中世の兵士の衣装に身を包んだ多くのエキストラがテーブルでくつろぎながら出番が来るのを今か今かと待ち構えていたのだった。

ドブロヴニクカード使用のパフォーマンスを上げるために今日も城壁巡りで足腰を鍛え、さらに民俗学博物館でシュールなおとぎ話に登場しそうな怪人物や民族衣装を見学させていただき、土産物屋の店番猫に別れを告げるとドブロヴニクを後にする時間となった。

バスに乗って国境を越え、モンテネグロに入るとアドリア海の入り江の奥に向かうくねくね道を進んでいった。イタリア語のヴェネツィア方言で「黒い山」を意味するモンテネグロはアドリア海沿いにそびえる山々に木が生い茂り、黒く見えたからだと言われているのだが、福島県と同じくらいの面積の国土の中に4つの国立公園を持つ風光明媚な国なのである。

複雑に入り組んだ入り江ポカ・コトルスカの最奥部に位置し、背後を山に囲まれた海洋都市コトルに到着したのは夕暮れ迫る時間であった。古い城壁の正門をくぐり、旧市街へ入ると、日本人団体旅行客をかわしてagodaに予約させておいたホテル・ランデブーにチェックインすると併設されているレストランで山盛りのシーフードをいただきながら、明日のランデブーアクティビティに備えることにした。

9月29日(月)
ホテルで食した豪華ブレックファストにフルーツが入ってなかったので旧市街の外ではあるが、城壁沿いに営業している市場で新鮮であるはずのぶどうとりんごを安値で仕入れることにした。気がつくと目の前の港には豪華客船が停泊しており、こんな湾の奥地にまでクルーズ船がよく入ってきたものだと感心させられた。

世界遺産に登録されているコトルの旧市街の最大の特徴は、背後の山に沿って築かれた城壁でかつては堅固な要塞都市として栄えていた。そこで、早速EUR3を支払って全長4.5kmにおよぶ城壁沿いの山道を練り歩いてみることにした。

急な石段を登り、高度が増すに連れ、オレンジ屋根が密集した旧市街と迫りくる黒い山、コトル湾の地形がその全貌を現しはじめた。山の中腹には15世紀に建てられた小さな救世聖女教会が急峻な山道の城壁巡りをする観光客を救済するかのようにつかの間の休憩場所の役割を果たしていた。

城壁には要所要所に要塞が造られており、複雑な地形を有効活用した防衛体制が構築されているようであった。しかし、今となっては最上部の要塞はここまで登りつめて来た観光客の達成感を満たすためのお山の大将的記念撮影エリアに成り下がっているのだが、ここからの絶景は何物にも代えがたいほどすばらしいものであることは確かである。

下山してあらためて旧市街を歩いていると、ここが1979年の地震によって多大な被害を受けたことがうそであるかのような重厚な建物群が目を楽しませてくれた。狭い石畳の路地が走る旧市街は、貿易でもたらされた富で築かれた豪華な館や美しい教会が建ち並んでいるのだが、そのうちのいくつかに入ってみることにした。

小ぶりな聖ルカ教会は1195年の創建で、内部に当時のフレスコ画をかろうじて残している。1160年に建てられた聖トリプン大聖堂(EUR2)はロマネスク様式の教会で塔以外の部分は創建当時の姿をととめているのだが、内部は1667年と1979年の地震の後に改修が施されているそうだ。

日が落ちると旧市街はライトアップされ、光を放つ城壁の要塞によりその輪郭があらわとなる。旧市街の喧騒は深夜になっても鳴り止まず、ホテル・ランデブー近辺では音楽と話し声がついに途切れることはなかったのであった。

9月30日(火)
アドリア海の奥座敷とも言えるコトルを後にするとバスでモンテネグロの首都であるポドゴリツァに向かった。山間部を走り抜けるバスの車窓からは緑の山とオレンジ屋根の町並み、紺碧のアドリア海のコントラストが美しく、小国であるが、マサに観光資源の充実したすばらしい国であることが実感できた。

ポドゴリツァのバスターミナルに到着した瞬間にタクシー運転手の客引攻勢にさらされた。気のよさそうなおじさんが10ユーロという破格の値段を提示してくれたので乗ることにした。同時にメーターも倒したのだが、なるほどメーターの示す金額は13ユーロであり、おじさんは元々空港での集客を狙っていたためにあえてディスカウントを提示したのではないかと思われた。

トルコ航空のはからいでビジネスクラスへのアップグレードを果たした14:25発TK1086便は定刻どおりに出発し、1時間の時差越えで午後5時過ぎにイスタンブールに到着した。成田行きのフライトまでかなり時間があったのでトルコに入国を果たし、♪夜だけぇ~のぉ~パラダイス♪になっているイスタンブールを軽く見学し、今回のツアーを締めることにした。

10月1日(水)
深夜1:00発TK52便に搭乗し、約12時間のフライトで午後7時前に成田に到着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥126,770
総宿泊費 \31,321、Kn1,933.24 (Kn1 = \18.5)、EUR100(全朝食付)
総タクシー代 KM30 (KM1 = \72)、EUR10
総バス代 KM50、Kn100、EUR7.5
総トラム代 KM3.6、TRY16

協力 トルコ航空、agoda

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