FTB地中海に浮かぶ神話の国キプロスツアー

ハッピーニュー マサよ!

ということで、日本における淡路島のようないでたちでトルコの南の東地中海にぽっかりと浮かぶキプロスは、日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、世界的なリゾートアイランドとしての地位を確立している。冬場はリゾートはオフシーズンとなるのだが、この国にまつわる神話を求めてやってくる観光客は後を絶たないのである。

1月6日(火)
トルコ航空チケットに含まれている羽田発関空行きのANA便で関空に移動し、551の豚まんをかじって時間を潰した後、23:20発TK47便に乗り込んだ。シートTVの故障発生率の高さを気にすることなく、フライト中は機内で意識をなくすことに専念しながら12時間あまりをやり過ごしたのだった。

1月7日(水)
強い寒波が到来していると見られるイスタンブールのアタチュルク空港に到着したのは夜明け前の午前5時半頃であったのだが、あたりが明るくなるにつれ、雪化粧した空港模様が鮮明になってきた。とりあえず、トルコへの一時入国を果たし、Baggage Claimで荷物が出てくるのが著しく遅かったことを大阪からの乗客とともに集団提訴して溜飲を下げると、エーゲ航空のカウンターで次の便のチェックイン手続きを行った。

9:30発A3991便は定刻どおりに出発し、11時前に底冷えのするアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港に到着した。ラウンジで2時間ほど時間を潰すと14:00発A3904便に搭乗し、午後4時前にキプロスのラルナカ国際空港に到着した。早速priceline.comで最安値で手配しておいたレンタカーをピックアップしにAVISのバンに乗り込み事務所に向かうと私に与えられたのはシボレーの右ハンドル小型マニュアル車であった。

英国連邦加盟国であるキプロス共和国では車は日本と同じく右ハンドル左側通行なのだが、何故かシボレー車のウインカーとワイパーのレバーが日本車と逆であることに違和感を覚え、クラッチのつながり具合を左足にたたきこみつつ空港を後にした。ラルナカから高速道路に乗り、ギアを5速に叩き込んで1時間程北上するとキプロスの首都レフコシアに差し掛かった。市内でホテルの位置はすぐに特定出来たのだが、駐車場の位置を見極めることが出来なかったのでそのままやり過ごすと再びホテルに戻ってくるまでに1時間程の時間を要してしまった。

Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであれば1泊あたりEUR76くらいかかるところを私はただで2泊出来るHoliday Inn Nicosia City Centreに何とかチェックイン出来たのは午後7時前であった。オフシーズンのためか、ボンザイ・ジャパニーズ・レストランをはじめとするホテル内部のレストランが休業していたので街中のケバブ系のレストランで肉を食らい、今夜は早々と休ませていただくことにした。

1月8日(木)
キプロスの1万年の歴史を効率よく学習するために紀元前7000年の新石器時代からビザンチン前期までの貴重なコレクションを並べたキプロスで最大のキプロス考古学博物館(EUR4.5)を見学することにした。扉を引いて館内に踏み込むと、そこはカラフルな色彩で装飾された陶磁器類やユニークな容姿や容貌を持つフィギュアの宝庫であり、キプロスの古代からの文化レベルの高さを思い知らされたのだった。

神話の国キプロスにはいくつかの世界遺産があるのだが、ラルナカから南西に30km程進んだところにヒロキティア(EUR2.5)という紀元前7000年頃の住居跡が残っているとの情報を入手していたので早速見に行くことにした。当時の人々は、丘の斜面に近くの河原の石を土台にワラを混ぜた土レンガで円形の住居を造り、集落を形成して狩猟、農業、牧畜で生計を立てていた。その住居の残骸がかろうじて土台のみ残っており、寒々とした雰囲気の中でも当時の生活の名残を今に伝えているのである。

また、丘の麓には円形住宅のレプリカが設えられており、質素な住居内の様子や生活、死者の埋葬方法などを窺い知ることが出来るような構成となっているのだ。

ラルナカ空港に程近い場所に冬場に塩水をたたえるソルト湖がたたずんでおり、野鳥の楽園を形成しているとのことだったので足をのばしてみることにした。湖近辺に到着したところ、最初は雑草の生えた殺風景な水溜りにしか見えなかったのだが、湖は意外に広く、道路を挟んだ向かいの湿地に目を転じてみるとそこはももいろクローバーを思わせるようなピンクの羽で埋め尽くされていた。

夕暮れ時にレフコシアに戻り、城壁に囲まれた旧市街を改めて見て回ることにした。レフコシアは観光というよりもキプロスのビジネスの中心地であるのだが、観光用と思われる胴長タクシーがホテルの近くに何台か待機していた。

16世紀のヴェネツィア時代に建てられた城壁に沿って歩を進めているとファマグスタ門という全長45mの巨大な建物に到着した。扉を押して中に入ると内部はほとんど空洞状態なのだが、現在はカルチャーセンターとして人々のカルチャーショックの緩和に役立っているという。

1月9日(金)
キプロス島の地図を見ると、この島を東西に貫く1本の線が引かれていることがわかるのだが、これは1974年に起きたキプロス紛争の結果設けられた南北を分断するグリーンラインで、国連平和維持軍により今も監視されている。グリーンラインの北側はトルコ以外には独立国として承認されていない「北キプロス・トルコ共和国」となっているのだが、今では南北間の往来もかつてより柔軟になっているという。尚、グリーンラインの北側はトルコ系住民が住んでいるエリアであり、南側はギリシア系住民の居住地なのでキプロスを旅しているとキプロス自体の国旗よりもギリシアの国旗を多く目にするのである。

キプロスの首都レフコシアは城壁で囲まれた旧市街をグリーンラインで分断されているのだが、その周辺は特に危険地帯でもないので軽く見学させていただくことにした。レフコシアには南北を行き来できるクロスポイントが設けられているのだが、そこでは国連軍のおじさんが厳しく目を光らせており、多少重苦しい雰囲気が感じられたので写真を撮るのは遠慮しておいた。

新石器時代までさかのぼる歴史を持つレフコシアを後にして、キプロス島を横断すべくシボレー小型車のアクセルを踏みしめていた。キプロスは国土の4割近くが森で、中央には標高1951mのオリンポス山を頂点とした山岳地帯が広がっている。トロードスという避暑地として人気のあるエリアを目指して高度を上げていったのだが、折からの寒気のために山岳地帯には雪が積もっているため、ノーマルタイヤの小型車では峠を越えることが出来ないと判断したため、途中で山登りを断念せざるを得なかった。

山道を慎重に下り、南岸の海岸エリアに差し掛かり、さらに島の西部に向かって走っているとペトラ・トゥ・ロミウという看板が目に飛び込んできた。あまりにも海の色が澄んでいるので車を降りて見学すると、ここは美と愛欲の女神であるアフロディテ(ビーナス)が海の泡から生まれたとされる場所であると知り、思わず泡を食ってしまったような感覚を覚えたのだ。

アフロディテ生誕の地に程近い場所にはアフロディテ神殿(EUR4.5、世界遺産)が君臨しており、これはミケーネ文明時代のものと思われる神殿跡で、アフロディテ伝説の基になったものと伝えられている。

神殿にはパレパフォス博物館が隣接しており、そこに収められている高さ1mほどの黒いアフロディテの石は、子供に恵まれない女性が子宝が授かるようにとお願いにやってくるほどの実力を持つ聖なる石なのである。さらに館内には「見返りアフロディテ」を現した鮮明なモザイクが展示されており、風雨にさらされるはずの元々あった敷地にはレプリカが設置されていた。

ギリシア神話のヒロインであるアフロディテを要するキプロスの主要観光地をはしごしてその実力を思い知ることが出来たので、世界遺産の街であるパフォスの北部にあるHotels.comに安値で予約させておいたキャピタルコーストリゾート&スパに引き篭もり、オフシーズンのリゾート気分を堪能させていただいた。

1月10日(土)
早朝よりリゾート猫の先導で敷地の海岸を散策した後、ホテル近くの海岸沿いで掘り返されている王族の墓(EUR2.5、世界遺産)を見学させていただくことにした。。現在発掘されている墓は11ヶ所で、いずれも紀元前3世紀頃のものであるが、誰の墓であるのかはいまだに解明されていない。しかし、暴かれた墓の大きさや壮麗さから当時の支配者の権力の強大さをうかがい知ることは出来るのだ。いくつかの墓の中には石彫刻の柱もあり、死後の神殿のような様相さえ呈しているのだった。

町中が世界遺産で溢れているパフォスはキプロスの西岸に位置し、気候に恵まれているため、かつてはキプロスの首都として栄えていた。その繁栄の名残がパフォス考古学サイト(EUR4.5、世界遺産)で手厚く保存されている。パフォス港に面したこの場所はマサに紀元前2世紀~紀元前4世紀まで都だった町で野外劇場や集会場といったファシリティの面影がかろうじて残っている。

このサイトの最大の見所は色鮮やかに残っている美しいモザイク画の数々で、ディニオスの館、テセウスの館、エオンの館といった相当の部屋数を誇るかつての有力者の屋敷跡の床に当時の色彩そのままにへばりついているのである。

温暖な気候を誇るパフォスとはいえ、雨模様のこの日は異常な寒さで、手もちぶたさのシーフードレストランが立ち並ぶ港の突端のパフォス城(EUR2.5)にのぼり、寒風にさらされてみることにした。この城はビザンティン時代、港を守るための砦として造られ、13世紀に城として再建された歴史を持っている。その後、オスマン・トルコがキプロスを支配したときに再々建され、今に至っているのである。

オスマン・トルコの台頭のせいか、キプロスにはキリスト教が弾圧されていた時代があり、その当時にひっそりと礼拝、埋葬に使われていた小さな穴蔵が聖ソロモンのカタコンベとして奉られている。人々の祈りがしみ込んだ白い布きれが無数に結び付けられている木の横の石の階段を下りると暗がりにフレスコ画やイコンを目にすることが出来る。最深部の穴の中には水が湛えられており、その水は目に良いので水をつけた布を木に結びつけ、眼病完治の祈願をしたそうだが、暗がりの中で水の存在を見過ごしてしまった私はビシャっとズボンの裾を浸してしまったのだ。

寒風で濡れたズボンを乾かしがてらカタコンベの近くにある聖キリヤキ教会に移動した。ここには「聖パウロの柱」という使徒パウロが縛られムチで打たれたという話の伝わる円柱がある。この体罰の理由は、無知なパウロの使途不明金を追及するものではないのだが、最終的にはパウロはムチ打ちの刑を命令したローマ提督をキリスト教に改宗させたという実績をあげたのだった。

ムチ打ちの恐怖がズボンの乾きを早めたところでパフォスを後にしてキプロス第二の都市、南岸のレメソスに向かった。Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればEUR94.5くらいかかるところを私は1泊分のみただで泊まることが出来るクラウンプラザ・リマソルにチェックインすると美しいビーチを眺めながら軽くリゾート気分を味わった。日が暮れると海上には釣り船の灯りがともり、アフロディテのお膝元と相まってムードが高まっていったせいか、隣室から美と愛欲を実践するうめき声が夜通し聞こえてきたのであった。

1月11日(日)
ホテルの目の前のビーチは絶好の釣り場となっているようで、地元民や観光客が早朝から競うように釣り糸をたらしているのを横目に海岸を散策した。

昨日とは打って変わった好天に恵まれ、さらにシボレー小型車も体に馴染んできたこともあり、今日は再び山岳地帯を攻めてみることにした。ここ数日のキプロス滞在中に雪が解けていることを期待したのだが、トロードスへ向かう山道は積雪からアイスバーンに変貌を遂げようとしていた。このような路面状態にもかかわらず、高度が増すにつれ、山岳地帯に向かう車の列が長くなってきた。今日は日曜ということもあり、世界遺産に指定されている壁画教会群への巡礼渋滞かと思ったのだが、実際は多くの家族連れがオリンポス山周辺での単なる雪遊びに向かっていたのだった。

結局警察の交通規制に阻まれ、トロードス地方の世界遺産にはたどり着けなかったので、低速エンジンブレーキを駆使して慎重に下山することを余儀なくされた。無事にレメソス市内に帰還出来たので、その勢いをかってさらなる遺跡巡りに精を出すことにした。レメソス市内から東に11km程進んだ所にアマサスの古代遺跡(EUR2.5)が廃墟のいでたちで観光客を待ち構えている。高台にあるこの遺跡はキプロスの最も重要な古代遺跡のひとつと位置づけられており、現在も粛々と発掘作業が続けられているのだ。

1月12日(月)
昨夜も隣室からの愛欲のうめき声にうなされていたにもかかわらず、5時前には起床してそそくさとラルナカ空港へと向かった。8:30発A3991便の窓からはラルナカ市街地と青く澄んだ地中海のコントラストが見下ろされ、山岳地帯への再訪を誓いながら帰路に着いた。アテネで13:40発A3992便に乗り換え、さらにイスタンブールで17:15発TK50便に搭乗し、一路成田を目指していた。

1月13日(火)
定刻11:30前に無事成田に到着し、少子化問題対策としての美と愛欲の大切さを噛みしめながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 トルコ航空 = \71,130、エーゲ航空 = EUR262.41
総宿泊費 \7,891、EUR94.5
総レンタカー代 \6,167、EUR73.09
総ガソリン代 EUR36.01

協力 トルコ航空、エーゲ航空、Priority Club、Hotels.com、AVISレンタカー、priceline.com

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