FTB Last Hay Say魅惑のスペイン・アンダルシア・ツアー

「平成最後の」という枕詞に踊らされること無く、努めて平静を装っている今日この頃であるが、情熱の国スペインへの憧憬はいかんとも抑えがたく、かつて近藤真彦も憧れたアンダルシアに足跡を残すツアーが開催される運びとなったのだ。



2018年12月25日(火)
クリスマスたけなわの雰囲気とは程遠い羽田空港に前日のイブにチェックインし、ANAスイートラウンジで通常メニューのディナーを召し上がると深夜0時55分発フランクフルト行きNH203便に颯爽と乗り込んだ。深夜フライトの特性を最大限に活かすために機内で意識を無くすことに集中したのだが、早めに目が覚めたので機内プログラムの邦画で「万引き家族」を鑑賞しながら万引きから「まんぷく」への見事な転身を果たした安藤さくらの豹変ぶりに舌を巻きつつ、スペイン語に必要となるはずの巻き舌の練習に勤しんでいた。

12時間以上のフライトで夜明けは遠いフランクフルト空港に到着したのは午前5時半を回った時間であった。入国後ルフトハンザのセネターラウンジでだらだらと朝飯を食っていると8時過ぎに待望の日の出を迎えたのだった。

10時15分発LH1112便は定刻通りに出発となり、約2時間半のフライトで午後1時前にマドリッド空港に到着した。空港から市内へ行くには複数の交通手段があるのだが、手っ取り早い地下鉄でいくつかのラインを乗り継ぎながら何とか宿泊先のHoliday Inn Madrid Piramidesに到着することに成功した。

ホテルでしばらく休憩し、日の暮れないうちにマドリッドの旧市街の中心であるプエルタ・デル・ソルに近郊列車に乗って繰り出して見ることにした。「太陽の門」という名の広場であるプエルタ・デル・ソルはマサにマドリッドの中心であり、多くのマドリッド子や観光客で大変な賑わいを見せている。

クリスマス・シーズンということもあるのかも知れないが、かつての新春スターかくし芸大会のハナ肇が扮した銅像よりも洗練されたオブジェに扮した大道芸人たちが記念写真用のチップをもらうまではてこでも動かないというプロ意識を醸し出しながら道行く人々の興味を引き付けていた。

フェリペ3世が1619年に完成させた四方を建物に囲まれた広場であるマヨール広場に迷~うことなく到着出来たのでその風格を堪能しながら見て回ることにした。中央にはフェリペ3世の騎馬像が設えられ、スペイン王家の紋章が刻まれた北面中央にある建物は威厳に満ちており、かつてその下のバルコニーは王家が儀式や闘牛、種々の祭といった催し物を見学するための観覧席だったそうである。

日もとっぷり暮れてしまうとお約束のライトアップとなり、広場にはさらに多くセニョールやセニョリータが詰め掛けてきた。スペインの本格的なディナータイムが始まる前に適当なレストランに駆け込み定番のパエリアを賞味させていただくと初日の今日は早々と撤収して体力を温存しておくことにした。

12月26日(水)
午前中の程よい時間にマドリッドのターミナル駅であるアトーチャ駅まで出向き、切符売り場を探し回って近郊の世界遺産都市であるトレド行きのチケットの購入を試みたのだが、近年のオーバーツーリズムの影響か、本数が多いにもかかわらず直近発車の列車のチケットの入手はかなわなかったので2時間程の待ち時間が発生してしまった。駅構内の待合室は熱帯植物園になっているのでここで森林浴をするという選択肢も考えられたのだが、寒風の下の青空が眩しかったので近隣のレディーロ公園を軽く散策し、カラフルな野鳥の観察等で気を紛らわせていた。

結局入手に成功した列車の発車時間は12時20分だったものの、高速列車Avantに乗り込むともののわずか30分で古都トレドに到着と相成った。歴史と伝統を感じさせるトレドは駅に降りた瞬間から数百年前にタイムスリップした感覚を呼び起こさせ、セントロへと続く長い坂道を登っていくとさらに時計が巻き戻されるようで、期待感が高まっていくのであった。

13世紀に造られたアンカンタラ橋を渡り、ショッカーの首領のような紋章を冠した門をくぐり長い階段を駆け上ると見晴らしの良い展望台に到着し、番猫に挨拶するとtaco-awayで軽食をテイクアウトすることなく町の中心であるソコドベール広場に到着した。

1561年に首都がマドリッドに移るまで政治・経済の重要な拠点として繁栄し、「16世紀で歩みを止めた町」といわれるトレドの旧市街はまるで迷路のように路地が張り巡らされている。長くイスラム教徒の支配下におかれ、その後ユダヤ、キリスト教の文化を融合したトレドの町並みは古いものと新しいもののトレードではなく、共存しながら歴史を構築していった様子がここかしこに見て取れるのだった。

人口の圧倒的多数がカトリックであるスペインにはどんな小さな村にも教会は必ずあり、そのスペイン・カトリックの総本山のカテドラル(EURO 10)がトレドに君臨しているのでこの機を捉えて恒例の♪何となくクリスチャン♪気分で礼拝させていただくことにした。

トレドのカテドラルはフェルナンド3世の命によって1226年に建設が始まり、1493年に竣工したスペイン・ゴシック様式の大聖堂であるが、その後、時代に応じて増改築が繰り返され、竣工時当初のオリジナルの部分は少なくなったのだが、その芸術性の高さは時代ごとのアーティストによって維持されてきたという。

豪華絢爛な聖堂内部はマサに見所が満載で、どこを切り取って写真を取ってもインスタ映えは必至で、FBにアップしようものなら♪カ~モン ベービー アメリカ♪のリズムとともに親指が乱舞する光景が目に浮かぶほどすばらしいものである。

建物は大きく分けると本堂とアネックスから構成されているようであるが、それぞれの雰囲気はガラッと異なっており、本堂にはコロンブスがDA PUMPにいざなわれたかも知れないアメリカから持ち帰った金がふんだんに使われている一方で、アネックスの内部はまるでベルサイユの薔薇が咲き誇っているような豪華さを醸し出しているのであった。

カテドラルの正面にはみやげ物屋やスナック屋の出店が数多く見られ、2ユーロで購入した揚げたてのポテトチップスを片手に油にまみれた手で人口水面に反射するカテドラルのファサードにピントを合わせていた。

12月27日(木)
長年♪アンダルシアに憧れて♪いた思いを行動に移す日がついにやってきた。マドリッドからグラナダへの移動はオーバーツーリズムの影響を考慮して事前にミキツーリストみゅうに手配させておいたプレミアムバスのチケット(EURO 50.85 + みゅうへの手数料)を握り締めて南バスターミナルに向かった。定刻9時に出発となったプレミアムバスは飛行機のプレミアムエコノミーよりも待遇がよく、添乗員の女性が飲み物や朝食等なにくれとないサービスを施してくれながら約4時間半の快適なドライブで午後1時半にグラナダ郊外のバスターミナルに到着した。バスターミナルからセントロへは多少距離があったので路面電車等の公共交通機関を使うことも考えたのだが、観光客に優しくない自動券売機の攻略に失敗したため、タクシーでグラナダでの宿泊先に向かった。

今回のツアーのハイライトであるグラナダでFTBが選定したホテルは☆☆☆☆☆のアルハンブラパレスで宮殿へのアクセスも至便なアラビック調のスタイリッシュな宿である。高台にあるので眺望もよかったので、早速ホテルへと続く狭い坂道を駆け下りてグラナダの中心部の下見をさせていただくことにした。

とりあえず近くのバルで1杯のビールに付いてくるタパス等で軽く腹ごしらえを決めて歩き始めるといつのまにかセントロの中心にあるイサベラ・ラ・カトリカ広場に到着していた。ここに君臨するモニュメントはイザベル女王がコロンブスに新大陸への出張を許可する場面を再現したものらしいのだが、実際にはグラナダ近郊のサンタフェで勅許が与えられたそうである。クリスマスの余韻を残す繁華街を抜け、川べりを歩いていると雪を被ったシエラ・ネバダ山脈の雄姿が遠巻きに眺められ、グラナダの征服者イザベル女王の援助を受けたコロンブスが♪カ~モン ベービー アメリカ♪に到着した1492年とスペインが世界制覇の夢に燃えて大航海時代の盟主となった時代に思いを馳せていた。

12月28日(金)
朝シャンプーならぬ、朝シャンペン飲み放題のホテルのブッフェ朝食でエネルギーを充填すると腹ごなしがてらに広大なアルハンブラ宮殿周辺を散策し、午後のツアーに備えた予習と観光客の動向の観察にしばし勤しんだ。

さらに、アルハンブラ宮殿から続いているゴメレス坂を下り、観光の中心であるヌエバ広場に出てセグウエイ観光集団を見送るとカテドラルを中心とした下町の密集地帯に向かった。

ぎっしりと軒を連ねる土産物屋の誘惑を振り切ってカテドラル(Euro 5)の内見へと舵を切ることにした。グラナダ陥落後、モスク跡に1518年より建設開始となったこの箱物は当初は当時のトレンドであったはずのトレドのカテドラルが採用しているゴシック様式を範として基礎工事が進められたのだが、1528年以降に担当者が変更となり、プラテレスコ様式最大の建物となって完成をみた。

構造的にはゴシックで装飾にはアラブ的なムデハル様式を用いた折衷的なものであったが、その後「髭男爵・山田ルイ53世」も推奨したはずのルネッサンス風へと移行したそうである。

「レコンキスタ」、スペインの歴史を語る上で最大と言っても過言ではないこのキーワードはイベリア半島でのキリスト教勢力がイスラム勢力を排除する動きでアンダルシアの主要都市であるコルドバやセビーリャが続々と陥落する中でグラナダは最後の抵抗勢力として繁栄を維持し、イスラム文明の輝かしいモニュメント、アルハンブラ宮殿(世界遺産)を花開かせたのであった!

スペインを代表する観光地であるアルハンブラ宮殿は入場制限があり、ネットで事前購入するというパターンが効率的なので約1ヶ月前にウエブサイトを訪問したのだが、すでに12月分のチケットは完売状態であったので思わず行き先をアンダルシアからサンタルチアに変更しようという欲望に駆られてしまった。ページをスクロールしてみると英語もしくはスペイン語のパッケージガイドツアーが高値(Euro 69)ではあるが、予約可能だったのでマウスのボタンの上に置いた人差し指に思わず力を込めてしまっていたのだった。

ツアー催行会社であるGRANAVISIONのミニバスが午後1時50分ごろにホテルに迎えに来たので乗り込むと、ものの数分で集合場所のGranaVision Welcome
Visitor Centreに到着し、番号札とツアー用のイヤホンセットを渡されて待っているとスペインの優男風のカルロスというガイドが軽快に姿を現した。先行するツアーのグループを見送るためのしばしの待機時間があったものの午後2時過ぎに待望のツアーの火蓋が切って落とされた。ちなみに申し込んだのは英語ツアーだったのだが、実際の運用は英語とスペイン語の説明が交互に繰り返されるのでスペイン語を勉強したい英語が分かる輩にとっては格好の生きた教材ともなるのである。

バーコードチェックの後、宮殿の敷地への侵入を許されると本物には絶対に手を触れることの出来ない精巧なレリーフのサンプルを撫で回し、最高の技術を持っているはずの庭師により整えられた角刈り並木を抜けてカルロス5世宮殿の前で個体管理されている猫と一緒にカルロスの説明に聞き入った。

カルロスが途中で行方の分からなくなった車椅子参加のツアー客の救済に成功した後、ツアーのハイライトであり、訪れる者を千夜一夜の世界に誘う、幻想的な王宮であるナスル宮殿への入場と相成った。内部は精巧なモザイクやレリーフで装飾されているため、バッグ類(特にバックパック)は常に体の前面に保持する指示が徹底され、バッグのエキスがナスル宮殿の壁に決してなすりつかないように配慮しなければならなかったのだ。


「王は魔法を使って宮殿を完成させた」といわれるように宮殿内部はマサにイスラム芸術の結晶でどのタイルやレリーフを取って見ても絵になるのだが、特に気になったのはまるで生き物に見えるアラビア語の習字のレリーフであった。

内部構造は精巧な仕掛けが施されており、宮殿の中心部であるコマレス宮のアラヤネス(天人花)の中庭いっぱいに造られた青い池は水鏡となってコマレスの塔を写しだしている。

また、神秘的な音響効果が得られるように天井や壁の形状を最適な形に作りこんでいるのも非常に印象的であった。

コマレス宮を過ぎると12頭のライオンの噴水があるライオンの中庭に到着した。ここは王族のプライベート空間で装飾はより繊細に施されていた。

東側は謁見の間になっており、天井の中央にはナスル朝歴代10人の王の肖像画が描かれている。

アルハンブラ宮殿の心臓部であるナスル宮殿を出て一休みした後、軍事要塞であるアルカサバに移動した。アルカサバはアルハンブラで最も古い部分でローマ時代の砦の跡にモーロ人が9世紀に築いたもので、キリスト教国の攻撃から都を守るため、アラブ世界の軍事技術を結集した難攻不落の要塞である。

見張り塔に上ると360度の眺望は圧巻であり、グラナダ最古の町並みが残る歴史地区アルバイシンや遠く青空に溶け込むシエラ・ネバダ山脈の美しい遠景が瞼の裏に焼き付けられたのだった。

アルハンブラの幻想世界は宮殿だけでなく、いろいろな目的で造られた庭園も重要な構成要素となっている。パルタル庭園は、イスラム時代には、貴族の宮殿や住宅、モスクなどが立ち並ぶ緑地だったのだが、アルバイシンを見下ろす展望台には貴婦人の塔が、前面に池を従えた優美な姿を見せている。

実験農園から糸杉の植えられた遊歩道をさらに進むと、ヘネラリフェの入り口へと到着した。

ヘネラリフェはアルハンブラ宮殿の北、チノス坂をはさんだ北側の太陽の丘に位置する14世紀に建設されたナスル朝の夏の別荘である。いたるところにシエラ・ネバダ山脈の雪解け水を利用した水路や噴水が設けられ、「水の宮殿」との異名を持っているのだが、やはり一番印象に残るのは重い水がめを背負わされてゲロのように水を吐く人面噴水であったろう。

離宮中央に位置するアセキアの中庭は、イスラム=スペイン様式を代表する庭園でアンダルシアのイスラム建築で最も保存状態の良いものである。

2時過ぎから夕暮れ時までたっぷりとガイドのカルロスによってアルハンブラの神髄をたたきこまれ、良い具合に腹も減ったのでホテルでグラナダの夜景を見ながらディナーと洒落込んだ。ホテルは高級の部類ではあるが、レストランのメニューは比較的リーゾナブルなので前菜、メイン、デザートまで安心して発注をかけることができ、新鮮や野菜や魚をまんぷくになるまで堪能させていただいたのだ。

12月29日(土)
名曲「アルハンブラの思い出」の旋律を胸に朝の散歩を楽しんでいると19世紀の米国人作家ワシントン・アービングの銅像が朝日に輝いている姿に遭遇した。レコンキスタの完成後、アルハンブラは凋落の一途を辿っていったのだが、荒廃した宮殿を「アルハンブラ物語」というペンの力で立て直した偉人の目は誇らしげにアルハンブラを見上げていた。

ヌエバ広場から続くダーロ川沿いを歩いていると、丘の上に続く数多くの路地の美しさに圧倒され、アルカサバを見上げる展望台を支配する有名であるはずのフラメンコダンサーの銅像が観光客のハートを射抜いていた。

起伏の激しいグラナダ市街を迷路のように張り巡らす一方通行道を機動力良く走り回るアルハンブラバスに乗り、11世紀頃にイスラム教徒によって築かれたグラナダ最古の町並みが残る世界遺産地区アルバイシンのサン・ニコラス展望台に到着した。ここから見るシエラ・ネバダ山脈を背景にしたアルハンブラ宮殿は非常に有名だということで多くの観光客が肩を寄せ合って写真撮影に興じているのだが、もやと逆光によりもやもやしたプロファイルの写真で我慢せざるを得なかったのだ。

展望台の裏手に広がるラルガ広場は16世紀に市場として栄えたアルバイシンの中心で多くの商店が軒を連ね、原住民と観光客が織り成す混沌とした熱気で非常に活気に満ちていた。

アルハンブラの最後の王ムハマンド11世が、城を落ちシエラ・ネバダの険路にさしかかる丘の上で宮殿を視界に収めて惜別の涙を流したと伝えられているが、それと同じ気持ちでグラナダを後にしてバスでマラガに向かった。約1時間半のバスの旅で温暖なマラガのバスターミナルに到着すると近年完成したはずのきれいなMetroに乗車すると10分程度で目的駅に到着し、マラガでの宿泊先であるHilton Garden Inn Malagaに投宿し、近隣のスーパー、カルフールで食材を買って晩餐を楽しんだ。

12月30日(日)
スペイン南部アンダルシア州のマラガ県の海岸地域をコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と呼んでいる。強烈な日差しを跳ね返すために多くの村では建物を漆喰で真っ白に塗り、マサにマラガの海の贈り物と言っても過言ではない「白い村」がアンダルシアに点在するようになった。最も有名な「白い村」のひとつであるミハスがマラガからのアクセスも良かったので話の種に行ってみることにした。

マラガ・マリア・サンブラーノ駅からRenfe近郊線に乗り、30分程で終点のフエンヒローラ駅に到着し、さらにバスに乗り、地中海を見晴らす山の中腹に位置するミハスのビルヘン・デ・ラ・ペーニャ広場で下車すると色白の労働者像に出迎えられ、多少の白々しさは否定出来ないと思われたものの念願の「白い村」への入村となった。

なるほど、山の中腹には白塗りの建物が密集し、アンダルシアの青空とのマッチングは見事であるのだが、家畜系の香りが漂う方向に目を移すとそこは馬車とロバ・タクシーのターミナルで多くの頑固そうなドンキーが寒空の下で出番を待っていた。

地中海を見下ろす展望台の一角で尖っているのはラ・ペーニャ聖母礼拝堂で16世紀に修道士が岩を掘り抜いて造ったと言われており、完成当時はピノキオのように鼻高々であったことが容易に想像される。

サン・セバスティアン教会を基点にして丘の上へと続く坂道はサン・セバスティアン通りで、アンダルシアで一番美しいと言われている通りである。通りの左右が商店街になっている一方で坂を上りきると一転して住宅街になるのだが、各民家もミハスの景観をさらに見栄えのよいものにすべく努力をしているようだった。

今日は風が強く、雲の流れが速かったので地中海のかなた、遠くアフリカ大陸までの眺望は拝めず、寒さでトイレを探しているうちに1900年に造られた世界最小といわれる闘牛場近辺のコンスティトゥシオン広場に紛れ込んでいた。この時期はオフシーズンのためか闘牛場内への入場はかなわなかったのだが、ここでのアクティビティは闘牛と観光客の生死をかけた一騎打ちではなくマタドールに扮した観光客が温厚そうな牛君と一緒に記念写真を撮ることであるようだったのだ。

12月31日(月)
昨日地中海の風に吹かれすぎた影響か、スペイン風邪の前兆のような症状が出始めたので午前中はホテルで療養し、12時のチェックアウトの時間を待ってタクシーでマラガ=コスタ・デル・ソル国際空港に向かった。この空港は別名パブロ・ルイス・ピカソ国際空港と呼ばれているのだが、マラガはピカソの出身地でピカソの生家、ピカソ美術館も人気を博しており、マラガの海の贈り物はマサにピカソ自身であるとの思いをあらたにした。

ルフトハンザ航空LH1149便は定刻15時40分に出発し、3時間のフライトで18時40分にフランクフルト国際空港に到着、IHGのポイントが余っていたのでただで宿泊できるHoliday Inn Frankfurt Airportにエミレーツ航空の乗務員と一緒にチェックインし、2018年最後の夜を地味に過ごした。

2019年1月1日(火)
平成最後の年が幕開けとなった日本の新年の喧騒とは裏腹に静かな2019年の初日をフランクフルトで迎えると午前11時30分発NH204便に乗り込み、スペイン風邪を日本に輸入しないように細心の注意を払いながら約11時間30分の元旦フライトを楽しんだのだが、残念ながら機内食で雑煮とおとそは出なかった。

1月2日(水)
夜明け間近の午前7時前に羽田空港に到着、世界まるごとHOWマッチの中でも尽きることの無いアンダルシアへの憧れを胸に流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥131,650、EURO370.77
総宿泊費 EURO871.87
総バス代 ¥9,408、EURO17.47
総地下鉄、鉄道代 EURO37.8

協力 ANA、ルフトハンザ航空、IHG、Hotels.com、ミキツーリストみゅう、CITY TOUR ALHAMBRA VIAJES, S.L. (GRANAVISION)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です