祝令和ツアー第一弾FTBはるかシルクロード敦煌の砂漠

令和なる新時代を迎えた今日この頃であるが、昭和が最終回に入った1988年の夏、大和証券の新入社員として営業成績を上げるべく激戦地の兜町周辺を奔走する毎日に疲れていた私はいつしか飛び込み営業もそこそこに映画館で時間を潰す日々を繰り返していた。映画評論家への転進が視野に入り始めた頃、若き日の佐藤浩市や西田敏行がスクリーンで躍動する「敦煌」という映画に魅せられ、私もいつしか敦煌の砂漠で身を清めることになるだろうとの予見を胸に、豚骨ラーメンの聖地である北九州支店に流されて行った。30年にもおよぶ平成の世を平静にやり過ごしているうちに中国の大動脈はシルクロードから一帯一路に進化しつつあるものの、時代の転換期である令和初日に縁あって敦煌行きのミッションを実行することとなったのだ。

2019年5月1日(水)
各テレビ局が競って放映している新時代への改元の儀式への注目もほどほどに、昼過ぎにGWの中だるみが見られる羽田空港へそそくさと移動し、ANAの搭乗案内スクリーンが映し出す「祝令和」の文字を横目に17:20発NH963便にご祝儀の期待を抱きつつ乗り込んだ。機内では特に鏡割りのサービスがあるでもなく、すでにANA Suiteラウンジで暴飲暴食の限りをつくしていたので機内食には見向きをせずに機内ビデオで放映されている「101回目のプロポーズ」の「ぼくは死にましぇん」という決め台詞を右から左に聞き流していた。

1時間の時差を越えて午後8時過ぎに北京首都空港に到着すると小腹を満たすために小辛ラーメンを流し込み、タクシーを捕まえて予約しておいたHoliday Inn Beijing Airport Zoneに移動して速やかに休ませていただくことにした。

5月2日(木)
早朝5時から運行開始するホテルのシャトルバスに乗り込み、北京首都空港のターミナル3まで送迎していただいた。朝の早い時間から空港の国内線カウンターはおびただしい数の搭乗客でごったがえしており、プレミアムチェックインが期待出来るAir ChinaのStar Alliance Goldの列を探したが見つけることが出来なかったので一番端列の最後尾にへばりつくことにした。絶え間ない横入り客のため、列の進みは芳しくなかったもののチェックインの担当者は私が上客であることを理解し、手荷物にも通常通りのPriorityタグを付けてくれたので溜飲を下げながら搭乗口に向かった。

チェックインで出遅れたため、すでに搭乗開始となっている6:40発CA1287便に乗り込むと約3時間30分かけて中国の東端から西端へと移動した。飛行機が高度を下げるにつれ、タクラマカン砂漠の荒涼とした景色に刻まれたシルクロードの道筋がくっきりと浮かび上がるとともに喜太郎のシルクロードのメロディが頭の中を駆け巡り、時を越えてよくぞここまで来たろうという感動で心が埋め尽くされたのであった。

10時過ぎに敦煌空港に到着し、女性ドライバーの客待ちタクシーに乗り込むと車窓を流れる乾いた景色からオアシスグリーンを経由して約15分ほどで市街地に到着した。Agodaに予約させておいた日本人観光客御用達の☆☆☆☆ホテルである敦煌太陽大酒店にチェックインを試みたものの、日本語を操るフロントレディが予約がうまく通っていないという動揺した表情を浮かべており、最上階のPremier Deluxeルームにたどり着くまでかなりの時間を要してしまったのだった。

敦煌初日である今日は特にこれといった予定を立てていなかったので、とりあえずコンパクトにまとまっている敦煌市街地を散策することにした。かつてはシルクロードを代表する交易都市だったわりには人が少ない印象で、中国の大都市を練り歩く時の人いきれとは無縁のリラックス状態で町の雰囲気を楽しむことが出来るのだ。

市街地の目抜き通りの中央交差点に鎮座する飛天は仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人でシルクロード経由で各地に伝わり、敦煌のシンボルとして崇め、奉られている様子で、新高輪プリンスホテルの「飛天の間」の拝金主義とは一線を画している優美さを醸し出していた。

まだ夜には程遠い時間であったが、空腹を満たすために敦煌夜市の門をくぐることにした。ワゴンショップの土産物屋や多くの屋台は開店前で閑散としていたのだが、一部営業活動を展開している食堂の客引きは積極的でその勢いにつられるように入店し、適当な地元料理を賞味させていただいた。内陸地域のため、肉料理のメニューが圧倒的に多かったのだが、ひき肉を乗せた黄麺や塊あぶり肉の表面をこそぎ落として供されるケバブ系の食べ物はそれなりに美味であった。

市街地にはこれといった見所もなく時間を持て余すこととなったのでさらに散歩を続けていると町中にはチリひとつ落ちてなく、スカーフで防塵対策を施した掃除人があちこちでほうきを手にレレレのレ活動に勤しんでおり、この町の主要産業は観光と清掃ではないかと思わずにはいられなかったのだ。

5月3日(金)
朝7時より供される朝食会場には昨日は気づかなかった日本人観光客が数多く集散しており、祝令和よりも観光を優先させたはずの彼らは野菜中心の健康的な惣菜や中国粥、主食であるはずの牛肉麺に舌鼓を打っていた。

今回のツアーのハイライトである敦煌のシンボル、「砂漠の大画廊」と称される世界遺産「莫高窟」の見学を確実のものとするために中国の旅行会社である西安中信国際旅行社に高値を支払い、敦煌1日観光を申し込んでいた。朝8時に張し玉と名乗るうら若き観光ガイドギャルがSUVの運転手を伴ってホテルまで迎えに来たので専用車に乗り込んだ。道すがら張嬢は大連で2年間日本語を学んで日本語観光ガイドの職を得たとのことであったが、このツアーで彼女の一番得意な日本語であるはずの「お手洗いは大丈夫ですか?」という基本フレーズを何度も聞くことになるのである。

ホテルから10分程度のドライブで莫高窟数字展示センターに到着した。お手洗いに行っている間に張嬢がチケットを買って来てくれたので長い行列の最後尾に並び入場を心待ちにしていた。入場待ちの列の進み具合がやけに悪いと感じていたのだが、ある瞬間から一気に進み始め、最初に入った映画館のような場所で1本目のビデオを見せられた。さらにプラネタリウムを彷彿とさせるドーム型のシアターに移動するとすばらしい仏教画や仏像の3D映像が次々と大迫力で目の前に迫ってきたのであった。

2本の感動的なビデオで莫高窟見学の気分を盛り上げさせられた後、おびただしい数の観光客をさばくために運行されている多くのシャトルバスの先頭車に乗り込むと荒涼とした景色の中を15分ほど走り抜け、ついに莫高窟への悠久の扉が開かれる入り口へと到着した。

莫高窟勤務の中国人日本語ガイドのコストパフォーマンスを最大化するために集合場所に決まった数の日本人観光客が集まるまでの時間はちょっとした記念撮影タイムとなり、皆整然と莫高窟の看板の下のベストポジションを譲り合っていた。

ところで、莫高窟とは敦煌市の近郊にある仏教遺跡で別名、千仏洞、敦煌石窟とも称される。岩窟群は4世紀から約千年間、元代に至るまで淡々と彫り続けられ、大小492の石窟に彩色塑像と壁画が保存されており、仏教美術として世界最大の規模を誇っている。雲崗石窟、龍門洞窟とともに中国三大石窟のひとつに数えられている。青い制服を着た日本語ガイドの説明によると492の石窟はすべて公開されているわけではなく、ロシア革命時に北の国から流れてきた難民がいくつかの石窟の中でアウトドアライフを余儀なくされた 時のバーベキューの煙で内部がいぶされ、すでに修復不可能となっている壁画もあるというではないか!

とにもかくくにも多くの団体を効率よくさばくべく、粛々とツアーの開始となったのだが、残念なことに石窟内部は写真撮影禁止となっているためシルクロードを伝わって調達した多くの種類の顔料を粘土に溶いてなすり付けて彩色した保存具合の良い壁画や仏像をあらためて見るためには石窟の入り口にインストールしてあるバーコードをスキャンしておかなければならないのだ。

遣隋使、遣唐使の時代から宋、西夏、元と中国の歴史が移り変わるにつれ、仏教画の画風や色彩も変化しており、女性だけの寄進者の石窟が出現したりとバラエティに富んでいるのだが、多くは宋、元、清の時代に修復が入ったもので隋、唐時代のオリジナルのまま残っているものは大変貴重なので観光客は心してその光景を胸に刻み込むことが推奨される。

ついに莫高窟を世界に知らしめた「第17窟」に入場する瞬間を迎えることに相成った。1900年、一人の道士が莫高窟の第16窟に進入したところ、入り口の右手の壁にクラックが入っているのを見つけ、掘り進めたところ、多数の経典や仏画などが見つかったのだ。それらの多くはフランス、イギリス、日本などの探検家に買い叩かれて、持ち去られたものの、発見された古文献を研究する「敦煌学」という学問が成立する契機となったのだ。

なぜ4万点もの書画や経典が「第17窟」に隠され、壁に塗りこまれていたのかは今もって謎とされているが、井上靖の小説「敦煌」によると西夏軍に攻め込まれた敦煌が火の海となったときに貴重な経典を「灰にしてはならん」と思った敬虔な仏教徒たちが佐藤浩市の指示のもとで石窟に避難させたという説が日本人の心情に最も訴えるはずであろう。

2時間あまり続いた見学もクライマックスをむかえ、莫高窟のシンボル九層楼で締めることとなった。九層楼は莫高窟の第96窟で、俗に大仏殿と呼ばれている。高さ43mを誇り、9層を重ねた軒があり、うちの7層は山に寄りかかって築かれたが、上の2層は山を突き出して建てられた。洞窟内に弥勤の坐像が彫塑されており、石造で彩色絵画が施された泥彫塑で、高さ34.5m、幅12.5で、中国では第五番目に大きい仏像で、世界では現存する室内泥彫聖の第一大仏を誇る。仏像は唐代につくり始めたが、後代に幾度再建を繰り返しても、依然として従来の風貌が保たれているのである。

最高気温28℃まで達した乾燥晴れの中で無事に莫高窟の見学を追え、FTB一行は青い服の日本語ガイドから張嬢へと引き渡された。予約していた昼食の時間も押し迫っているようで、30年前にこの地を訪れた佐藤浩市、西田敏行の幻影に思いをはせる間もなく近郊の昼食会場へと移動した。高い観光代を払っているだけあって、昼食メニューは若鶏1羽まるごと鍋でぐつぐつにした敦煌の郷土料理や羊肉の串焼き等食べきれない品々が食卓を賑わした。

丸々太った若鶏にしゃぶりつき、鶏がらへと変身させるとその勢いを駆って次の目的地である鳴沙山へ向かった。トリップアドバイザーの敦煌観光地ランキングで莫高窟に次いで2位となっている鳴沙山は敦煌の市街区からわずか5kmに位置し、その砂山の長さは東西約40km、南北約20kmにもおよぶ広大なものである。風が吹くと「砂が鳴く」ような音を出すことから鳴沙山という名称になっているのだが、砂が鳴くような音をたてる現象は、物理的には長い年月を経て、砂粒の表面がきわめてよく洗浄され,微粉状の物質が付着していないことが重要だという。

鳴沙山くんだりまで来てラクダに乗らないと、シルクロードに来たにもかかわらずシルクのような透けスケの観光に成り下がってしまうことを恐れて100元の大枚をはたいてケツの筋肉を鍛えなおすことにした。多数の頑固そうなラクダがたむろしているラクダステーションでアサインされたラクダは前後の足を折り、正座して観光客を待ちうけ、池中玄太80キロに迫ろうかという私の肉体を軽々と背にしてゆっくりと歩き始めた。

ラクダドライバーの先導により、隊商は足場の悪い砂漠を慎重に進み、観光客が落ラクダしないように配慮されていたのだが、ラクダの機嫌次第では振り落とされそうな体勢に持ち込まれるため、常に手綱を引き締め、ケツのポジションを調整しなければならなかった。途中2箇所で記念撮影のための時間が設けられ、ラクダドライバー兼写真家の演技指導により、ポーズを取ることを強制されたのだった。

約1時間のシルクロード体験を終えると、張嬢のすすめで鳴沙山への登頂を試みることになったのだが、張嬢は「私は下で待ってます」とのたまったのだった。急角度で上昇する滑りやすい砂道ははしご状に埋め込まれたロープでサポートされているものの、息を切らした登山者はさわやかな砂風に吹かれながらその場に立ち尽くしていた。「滑沙」という有料の砂すべりアクティビティが人気を博しているのだが、その陰には修行僧のようにすべり板を運び上げる労働者の努力があるという事実を忘れてはならないのだ。

ある程度高度を稼いだところで振り向くと遠く敦煌の市街地が蜃気楼にように見え始め、三日月型の「月牙泉」の雄姿が砂山の裾野にあらわとなったのだ。

あらためて月牙泉フロントでそのオアシスぶりを眺めて見たのだが、砂漠の中にあって何千年前から絶えることなく湧き続けている神秘性に思わず引き込まれそうになってしまった。泉のそばには楼閣もあり、砂漠と水と建物のコントラストは敦煌の代表的な景色として多くのトラベラーを引き付けてやまないのだ。

敦煌観光のハイライトを駆け足で巡り、身も心もカラカラになったので、ホテルに戻って麦酒アルコールで水分を補充し、しばし休憩を取った後、夕食を取るために敦煌夜市に繰り出した。とある店先で一心不乱に木の円板に飛天を彫刻している青年の姿に釘付けになったものの、数ある食堂の客引きの声援を受けながら適当な一軒の店のテラス席に陣取った。途中となりの店で警察沙汰に発展した小競り合いがあったのだが、特に気にするでもなく地元料理を腹におさめるとライトアップされている飛天を見て体のバランスを取り戻しつつ太陽大酒店に帰還した。

5月4日(土)
晴れているのか、曇っているのか区別がつかないのは鳴沙山おろしで舞い上がった微小な砂粒が大気とコラボレーションしているせいであろうか?おかげで敦煌に着いてから今日まで謎のアレルギー症状が発生し、日本では花粉症耐性を持つ私の目、口、鼻を容赦なく蝕んでいた。清掃業者であるはずの五幸福田の従業員に対策のノウハウを聞きたいところだったが、敦煌の最終日を有効活用すべく「敦煌博物館」へと足を向けた。

チケットカウンターでパスポートを提示するとただで入場出来るシステムになっていたので遠慮なく広い館内を散策させていただいたのだが、莫高窟の仏教画のレプリカとともに私の印象に残ったものはマイクを持つポーズを取っているかのような石像のコーラスグループだったのだ。

昨日夜市で目を付けておいた飛天の彫刻をファーウエイのスマホの計算機でコミュニケーションされた言い値で購入すると洋風の喫茶店で午後のコーヒータイムと洒落込み日中はのんびりと過ごさせていただいた。夕食を取るためにホテルに早めに戻り、青島ビールを頼んだものの出てきたのは黄河ビールだったのだが、特に大差はないので気にしなかった。

前日に交わした約束の時間にたがわず、張嬢が午後8時に運転手つきのセダンに乗ってホテルに迎えに来てくれた。敦煌郊外の劇場では日夜シルクロードを題材にした劇が公開されているとのことだったので敦煌のラストナイトは観劇で決めることにした。

定刻8時半に開演となった絹路花雨「シルクロードの花吹雪」はミュージカル仕立ての活劇で飛天をモチーフにした踊り子を中心にアクロバティックな演者たちが舞台を縦横無尽に跳ね回り、シナリオは幕間に大型スクリーンに中国語と英語のストーリーが表示されるので言葉がわからない輩もストレスなくシルクロードの世界に浸ることが出来るのだった。

午後10時過ぎにホテルに戻り、張嬢に観劇のチケット代と諸経費を支払おうとしたところ、今夜の観劇はプライベートということで運転手として張嬢の彼氏を夜遅くまで引っ張りまわしているので観劇代だけ受け取ることにすると言い放ち、中国の観光業の従事者としてありえない特別対応をしていただいたことはこの場を借りてお礼を申し上げるべきであろう。

5月5日(日)
昭和、大和(証券)、令和にまたがって抱き続けた敦煌への憧憬を舞い上がった砂粒のように昇華させることが出来たので、充血した右目を手土産に11時発CA1288便で北京への帰路に着いた。高速鉄道、地下鉄を乗り継いでホテルに到着した時間が中途半端だったものの近隣の観光地、世界遺産の天壇にはかろうじて入場出来る時間帯だったので明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所の一角(15元)に足を踏み入れることにした。

天壇でもっとも有名とされる建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在とされる祈年殿は入場時間の関係で遠巻きにしか眺められなかったものの、高い青空の下に広がった緑の楽園で、ここが悪名高いPM2.5の聖地であることが信じられないほど、のんびりとした時間を過ごすことが出来たのだ。

天壇散策で胃腸が活発に動き始めたので繁盛してそうな近隣の町食堂に入店し、名物北京ダックに舌鼓を打つことにした。北京で食する北京ダックはマサに本家中の本家の味で、そのまま天壇に向かって昇天しそうなくらいコストパフォーマンスが高かったのだ。

5月6日(月)
早朝5時半にホテルからタクシーで空港に移動し、8:20発NH964便で羽田に向かった。機内映画の「ボヘミアン・ラプソディ」を見ながら♪ボヘミアン♪と言えば葛城ユキの代名詞ではないかと思いながら、敦煌でハスキーになってしまった声をいたわりつつ流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥78,230、 Air China = ¥74,720
総宿泊費 RMB2,764.86
総鉄道、地下鉄代 RMB29
総タクシー代 RMB245
総敦煌1日観光代 ¥20,700

協力 ANA、Air China、IHG、西安中信国際旅行社
非協力 Agoda

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