除夜の鐘がゴーンとなる頃、日産をしゃぶりつくしたカルロスが風と共に去り、日本の司法制度に軽いロスを与えている今日この頃であるが、FTBでは招き猫としての職務を忠実に果たし、唯一供与されるべき利益がカンヅメであるはずのボンに見送られ2年越しのアンダルシアツアーに繰り出すため、合法的に日本を出国することとなったのだ。
2019年12月26日(木)
午前中に収入源となっている裏の仕事の業務を放り出し、一躍羽田空港に向かうと表の仕事であるFTBツアーに着手するためにANAの国際線カウンターに向かった。年末繁忙期の飛行機代を半額に抑えるために羽田から北京を経てトルコ航空のイスタンブール経由でスペインのマラガに移動する旅程を開発していたので、荷物を羽田で預けてマラガで受け取る段取りを付けていただいていたのだった。17:25発NH963便に乗り込み、約4時間のフライトで北京首都空港に到着するとペキンダックの誘惑に屈することなく、Air Chinaのラウンジで牛肉麺をすすりながら時間をやり過ごしていた。
12月27日(金)
日付の変わった00:50発TK21便に乗り込むと約10時間のフライトで♪飛んでイスタンブール♪に早朝6時過ぎに到着した。2018年10月29日に開港した新イスタンブール空港はアジアとヨーロッパの架け橋にふさわしく、庄野真代でも迷ってしまいそうな巨大なターミナルの一角でチョコレートをふんだんにあしらったよくわからない架空動物像に出迎えられた。スターアライアンスのラウンジは吹き抜けの上階に設えられており、エスニックなトルコ料理やチャイ等の飲食物が無制限に提供されている。
09:25発TK1305に搭乗する際に羽田のANAのチェックインカウンターで指示されたとおりに荷物がちゃんと搭載されているか確認した際に係員から「オンボード」という回答をもらっていたので安心して機上の人となった。
スペインアンダルシア第二の都市マラガ国際空港に定刻12:10に到着し、早速Baggage Claimに向かったのだが、いくら待てども預けた荷物が出てこなかった。複数の被害者とともにイベリア航空のLost Baggageに駆け込むと何かの手違いでこれから出てくるはずだとターンテーブルへの帰還を促されたのだが、やはり荷物は現れることはなかった。
再びLost Baggageの担当者と対峙することになり、今日はもう荷物なしで過ごさなければならないと腹をくくり連絡先を交換した後、被害者用のキット(パジャマ用のTシャツ、短パン、洗面用具入り)を受け取り空港からの撤退を決め込んだのだ。
Lost Baggageの精神的ダメージを引きずりながらマラガ空港駅から近郊列車に乗り、マラガの中央駅であるマリア・サンブラーノ駅に移動し、スペイン国鉄Renfeの高速列車で1時間かけてコルドバ駅に到着した時間はすでに午後5時近くになっていただろうか?
Hotels.comに予約させておいた駅近の☆☆☆トリップコルドバホテルにチェックインすると今回のツアー中に荷物と再会出来ない可能性を考慮し、スペイン最大のデパートチェーンであるエル・コルテ・イングレスに駆け込み、物品と晩餐用の食材を買いあさりながらアンダルシアの1日目はあわただしく過ぎていった。
12月28日(土)
セビーリャ、マラガに次ぐ、アンダルシア第3の都市コルドバ(世界遺産)は、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの首都として、かの有名な皇帝ネロの家庭教師を務めた哲学者セネガをはじめ、多くの学者や詩人を輩出し、ローマ文化の中心地として栄えた。その後アル・アンダルスと呼ばれたイスラム教徒に占領された土地の首都になり、ウマイヤ朝の首都になった756年には♪甘いな いやいや♪、♪ウマイヤ イヤイヤ♪と歌ったはずの髭男爵も存在したことであろう。
1236年になるとキリスト教徒はイスラム教徒に♪グッバイ♪と言ってコルドバを奪回したのだが、♪でも離れがたいのさ♪と言わんばかりにイスラム文化をすべて拭い去ることは出来ずに現在に至っている。
駅前のトリップコルドバホテルをチェックアウトすると抜けるような青空の元でたわわに実っているオレンジの木々を横目に白壁の家々が続く旧ユダヤ人街に向かった。キリスト教徒がイスラム教徒を排除する運動であるレコンキスタ終了後の1492年に布告されたユダヤ人追放令によってこの町から姿を消したユダヤ人であるが、♪もっと違う設定で もっと違う関係で♪出会えていればよかったのだが、たったひとつ確かなことがあるのならば、この場所は♪とても綺麗だ♪と言えよう。
ユダヤ人街を抜け、グアダルキビル川に架かるローマ橋を渡り、ローマ橋を守るために築かれた要塞であるカラオーラの塔の近辺からしばし旧市街を見渡した。橋の上では、NHKのど自慢大会の伴奏でも通用しそうな腕前のアコーディオン弾きが、ローカルなメロディを奏で、小銭の収集に勤しんでいた。
コルドバのシンボルであるメスキータ(EURO10)はマサにイスラム教とキリスト教が共存するファシリティで、一歩中に入ると約850本からなる「円柱の森」に圧倒されることになる。
後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世により、新首都にふさわしいモスクを造ろうと、785年に着工したメスキータはコルドバの発展と歩調を合わせるように3回にわたって増築され、最終的には2万5000人を収容する大モスクへと発展していったのだ。
内部は、大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせたアーチが限りなく広がっているのだが、年代的に古いアーチと新しいアーチが混在しているように見受けられた。
848年にアブド・アッラフマーン2世によって拡張された部分は、レコンキスタの後ゴーンではないはずのカルロス5世によってカテドラルにコンバージョンされてしまったところが多く、今となっては元の姿を知る由はないのである。
メスキータを見学中にi-Phoneのけたたましい呼び出し音で現実世界に引き戻されたのだが、紛失した荷物がついに見つかったという連絡だったので今日中にマラガ空港に荷物を迎えに行くと言い残して電話を切った。
イスラム勢力であるはずのトルコ航空により、メスキータ見学の切り上げを余儀なくされ、近世スペインの作家セルバンテス(ドン・キホーテの著者として有名)ゆかりのポトロ(コルドバ市の紋章である子馬)広場に軽く立ち寄って駅に戻り、コルドバを後にして一路マラガ空港へと引き返した。
マラガ空港到着ロビー近辺のイベリア航空Lost Baggageカウンターで荷物との再会を果たしたのはよかったのだが、イスタンブール空港のトルコ航空搭乗カウンターで確かに耳にした「オンボード」とは裏腹にオンボロになったスーツケースを目にして言葉を失ってしまった。荷物を引き渡す際に♪感情のないアイムソーリー♪さえもなかったので、イスタンブールの印象が♪飛んでイスタンブール♪から「とんでもないイスタンブール」に変わってしまったのは♪辛いけど否めない♪と思われたのだった。
結局往復で3時間以上も荷物の一件で無駄にすることとなり、次の目的地であるセビーリャに着くのが午後10時過ぎになることが見込まれたため、マラガ・マリア・サンブラーノ駅のフードコートで小腹を満たすことにした。これと言って入りたいと思うレストランもなかったので消去法で選んだSUSHI ARTISTで名前負けしている握り寿司セットを食ってお茶を濁していた。
マラガからRenfeで2時間かけてセビーリャまで足を延ばし、Hotels.comに予約させていた☆☆☆☆アイルホテルに到着したのは予想通りの10時過ぎだったのだが、荷物があるという安心感に抱かれて今夜はゆっくりと休むことが出来たのだった。
12月29日(日)
セビーリャ駅前という好立地のアイルホテルの目の前は市バスのバス停になっていたので32番の市バスに乗って終点のドゥケ・デ・ラ・ビクトリア広場で下車した。途中ハチの巣をつついたような奇抜な建造物が気になったので近寄って見たのだが、それはスペイン最大級の近代木造モニュメントであるメトロポリタン・パラソルという複合施設となっている。
EURO3を支払い、28mの高さの展望台に上るとセビーリャ市街地の全体像が見渡せたので、最初に訪れる観光スポットとしてはもってこいの場所である。
近隣のカフェでカフェインを吸収する名目でトイレを借り、大腸の流出物を下水に流し込むと軽くなった足取りで旧市街の中心部に向かった。道は細く、多少迷路のようになっているのだが、カテドラルに隣接したヒラルダの塔を目印に進むと容易にセビーリャの心臓部にたどり着いた。
ビゼーのオペラ「カルメン」や「セビリアの理髪師」の舞台として知られるセビーリャは、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの主要都市として栄え、西ゴート王国の首都がおかれたこともあるのだが、ジブラルタル海峡を渡ってきたモーロ人に712年に征服され、以降500年以上にわたり、イスラム文化が繁栄したようで市街にはその当時のおもかげが色濃く反映されているようである。
巨大なカテドラルの隣に貴重な公文書を所蔵するインディアス古文書館(世界遺産)がつつましく建っていたので長い入場待ち行列の最後尾に並んだのだが、目の前で入場制限が敷かれてしまい、コロンブス、マゼラン等の自筆文書を見ることはかなわなかった。
どうやら観光地としてのセビーリャの実力を甘く見ていたようで、この地の最強の観光コンテンツであるアルカサル(世界遺産)の前には数100mもの入場待ちの行列が出来ていた。何時間かかるか想像もつかなったが、とりあえず行列の最後尾に陣取り、しばらく成り行きを見守ることにした。
予約している個人や団体客を優先させるため、フリーの客が並んでいる列は遅々として進まず、それでも3時間程待ったかいがあって黄昏時についにアルカサル(EURO10)への入場が許されることとなった。
荘厳なイスラム風の宮殿アルカサルは例えて言うならセビーリャに存在するグラナダのアルハンブラ宮殿である。
9世紀から11世紀にかけて使われていたイスラム時代の城を、レコンキスタ後にキリスト教徒の王たちが改装した建築物だが、なかでも1350年に即位したペドロ1世は、スペイン各地からイスラム建築の職人を呼び寄せ、アルハンブラ宮殿を彷彿させるような建物を建造した。
何故かイスラム文化に心酔していたペドロ1世は、イスラムの服装をまとい、宮廷内ではアラビア語を使えという無茶ぶりまでしていたそうである。
アルカサル最大の見どころはペドロ1世宮殿の内部装飾であるが、豪華なムデハル様式の装飾や、彩色タイルの内壁、ヒマラヤ杉の格子細工による円柱天井等は見るものを虜にし、3時間以上並ばされた肉体のダメージが一瞬にして消え去っていくようであった。
さらにこの宮殿中央部に君臨する「乙女の中庭」には泉があり、漆喰細工の美しいムデハル様式の列柱に囲まれているのだが、ここが最も記念撮影渋滞が起こるスポットであった。
アルカサル裏側の庭園まで足を運ぶと庭師によって整然と整えられた樹木はあたかもジパンシーの宣伝に一役買っているのではないかと錯覚させられた。
アルカサルを後にして、翌日乗るバスのチケット買うためにバスターミナルに寄ったりしているといつのまにか日もとっぷりと暮れ、ライトアップされたカテドラルが漆黒の闇に浮き上がった。
年末の日曜日の目抜き通りは何故か立錐の余地がないほど人があふれ、いつの間にか海洋生物を模したちょうちん行列の波に巻き込まれてしまい、その流れに逆流しながらも、地元民が集まる食堂で飯を食い、タクシーでホテルに帰って行った。
12月30日(月)
アイルホテルをチェックアウトし、昨日と同様に32番バスでセビーリャの市街地に向かった。旧市街地の中心であるヌエバ広場の市庁舎前の街路樹が角刈りにされているのに軽い動揺を覚えたが、気を取り直してカテドラル方面に向かった。
インディアス古文書館は残念ながら休館ということだったので、前足で巧みにボールをキープしているライオン像を尻目にセビーリャを象徴する建造物であるカテドラル(世界遺産、EURO10)の入場待ちの列に陣取ることにした。
スペイン最大、またヨーロッパの聖堂としてはローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇る、奥行き116m、幅76mの箱物の内部に開門時間の午前11時過ぎに入場を果たすと、「後世の人々がわれわれを正気の沙汰ではないと思うほどの巨大な聖堂を建てよう」という1401年に開かれた教会参事会の決定当時の意気込みがひしひしと伝わってきた。
聖堂内部は数えきれないほどの見どころがあるのだが、観光客が最も足を止めるポイントは4人の国王に棺を担がれたコロンブスの墓である。さすがにスペイン随一の有名人の墓は内部で一番人目に触れやすい入口近くの一等地に設置されており、果たした役割の大きさが自ずと参拝者に伝わってくるような仕掛けになっている。
カテドラル内部の北東の角部屋を占める高さ97mのヒラルダの塔が観光客に開放されているので遠慮なく登らせていただくことにした。狭い階段を何度も何度も折り返して登ったその先には巨大な鐘楼が君臨し、展望台からはセビーリャの町中を360度の角度で見渡すことが出来たのだった。
数あるセビーリャの観光地の中で、世界遺産に指定されてはいないものの、その威厳ある独特の景観から観光案内の一面を飾るスペイン広場が市民の憩いの場を提供しているので癒されに行ってきた。
半円形状に建物が囲むスペイン広場は、、1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場として造られたもので、日本で言えば大阪の万博記念公園に相当するファシリティだと言えなくもないが、太陽の塔のような芸術の爆発物の代わりにスペイン各県の特徴や歴史的場面をタイルで描いた58のベンチが置かれている。
情熱的なギターの音色に釣られて人だかりに近づいてみると真っ赤なドレスに身を包んだフラメンコダンサーが切れ味鋭いステップを踏んでおり、そのリズムの余韻を胸にセビーリャに別れを告げることとなった。
タクシーでアイルホテルに戻り、荷物をピックアップして同じ車でプラド・デ。サン・セバスティアン・バスターミナルに移動した。アンダルシア最南端のアルへシラス行きのバスは定刻通りの15:30に出発し、2時間以上かけてアフリカ大陸モロッコへの船が出航する港に到着した。下車したところが次の町へ行くべきバスターミナルではないことに気づかされたので徒歩でしばらく歩いていると道端にいるおじさんが頼んでもないのでジェスチャーで行くべき方向を示してくれた。
アルへシラスからラ・リネア行きの市バスに乗り込むとすっかり暗くなった海岸線沿いをバスは走り、約30分でラ・リネアに到着した。早速国境へと足を運び、スペイン出国のスタンプはもらったものの、イギリス領ジブラルタルへの入国の証はパスポートに刻まれないまま、国境沿いのジブラルタル空港を抜け、予約していたHoliday Inn Express Gibraltarへたどり着いたのだった。
12月31日(火)
昨晩の暗がりの中では分からなかったが、ホテルは岩山の麓に位置しており、得もいえぬ威圧感を感じながらアメリカ流のブレックファストで腹を満たすと大英帝国繁栄の余韻が残っているはずであろう街中を散策することにした。
大西洋と地中海をつなくジブラルタル海峡に突き出た岩の塊からなる岬がジブラルタルであるが、ここはスペインの王位継承戦争の間イギリス軍に占領され、1713年のユトレヒト条約によって晴れてイギリスに統治権が与えられたそうだ。
500mにもわたるメインストリートを抜け、ひたすらロープウエイ乗り場を目指してひた歩いた。ジブラルタルを象徴する岩山であるターリクの山「The Rock」に上らなければ、この地を訪れた意味をなくしてしまうので高い運賃を払って標高426mの山頂にある展望台に到着した。
雲が多く、アフリカ大陸までは見渡すことが出来なかったが、岩山のエッジの効いた先端部の形状はすばらしく、これからも丸くなり過ぎず、尖った部分を残して今後の人生を歩んで行くべきだと励まされているようだった。
展望台からの眺望にしばし気を取られていると毛深い生き物が、観光客の背中にあるが視線の届かないリュックサックを目指して一直線に突進して行った。敵もサルもので、やつは巧みにファスナーを開けると一瞬にして食べ物を取り出し、立ちサルでもなく、ふてぶてしくその場に座り込んで完食してしまったのだ。
猿は9世紀にアラブ人が持ち込んで野生化し、観光客を楽しませるとともに脅威となっている。「岩山に猿がいるかぎりイギリスの統治が続く」という古い言い伝えがあるそうだが、ここはイギリス領というよりは単なる猿の惑星にしか見えなかったのだ。
猿山から下山し、イタリアンカフェで免税ではあるが、物価の高いパスタを食した後、再びスペインに帰国すべく、国境へ向かって歩いていた。赤信号の遮断機で立ち止まったその先はジブラルタル空港の滑走路となっており、小型の飛行機がイギリスの本土目指して離陸して行った。私の入っている生命保険も満期と更新の時期を迎えており、ここで得た体験次第ではジブラルタ生命に乗り換える可能性も検討したのだが、そこまでする必要はないであろうと思いとどまったのだった。
スペイン国旗を仰ぎ見ながらラ・リネアに戻り、市バスでアルへシラスに移動、その後長距離バスでマラガに向かい、着いた時間は夜だったので地下鉄のとある駅で下車して予約していたHilton Garden Inn Malagaに投宿した。
Hiltonhhonorsのポイントが余っていたので宿泊代が無料であったのが忍びなくホテルのレストランでシーフードを奮発して帳尻を合わせておいた。
2020年1月1日(水)
ハッピーニュー ボンよ、
ということで、国際的なリゾート地として有名なコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の玄関口として賑わうマラガでアンダルシアの最終日を迎えたわけだが、かの有名な変画家であるピカソが1881年にマラガでおぎゃ~と生まれてから10歳までの幼少期をこの地で過ごした生家があるということなので立ち寄ってみたのだが、元日のため休館となっていた。
近隣のピカソ美術館も門戸を開いてくれなかったのだが、唯一歓迎してくれたのはピカソの遊び場だったメルセー広場に佇むピカソのベンチだけだったのだ。
髪のないピカソの生涯の解明がかなわず、後ろ髪を引かれるように乾燥したマラガを後にすると17:25発TK1304便でとんでもないイスタンブールへ飛んで行った。
1月2日(木)
イスタンブール空港で荷物が迷子になった憂さ晴らしをすることも考えたのだが、ここでは♪恨まないのがルール♪となっているので1:45発TK26便に乗り、おとなしく上海へと旅立った。約10時間半のフライトで上海浦東国際空港に17:15に到着したのだが、今回はきっちり入国後に荷物をピックアップして再発防止策を実践することにしたのだった。
1月3日(金)
約6~7時間もの時間をラウンジでやり過ごし、1:45発NH968便に搭乗し、羽田に着いたのは夜もまだ明けぬ5時半くらいであった。いくつか問題はあったものの♪Yesterday♪から始まる♪Traveler♪魂を胸に、次回は「ルネッサ~ンス!」の音頭とともにワイングラスをカチンと鳴らすイタリアツアーが発生するだろうかと考えながら流れ解散。
FTBサマリー
総飛行機代 ¥75,710 (ANA)、¥101,918(トルコ航空)
総宿泊費 EURO405.65、GBP108.3
総Renfe代 EURO111.8
総バス代 EURO39.74
総メトロ代 EURO4.4
総タクシー代 EURO14
総ロープウエイ代 GBP14
協力 ANA、トルコ航空、IHG、Hiltonhhonors、Hotels.com