FTB南太平洋最強の楽園ボラボラ島ツアー

2018年8月にタヒチへの初上陸を果たしたFTBであるが、その際FTBがモーレア島で撮影した奇跡の1枚が「Air Tahiti Nui 20 year anniversary game」なるフォトコンテストで見事、最優秀賞に選ばれ、タヒチへの往復ペア航空チケットが授与されるという悪運を掴んでいた。2019年が明けると早速Air Tahiti Nuiのマーケティングにコンタクトし、チケット予約担当と渡航スケジュールを調整した結果、日本の海の日がからむ3連休を軸にした日程で有給を取り、再びタヒチで羽を伸ばすツアーが敢行されることとなったのだ。

2019年7月13日(土)
17:40発TN77便は機体のバランスをとるという名目で搭乗客を手荷物ごとヘルスメーターで測りにかけるという珍しい対応に時間を要したものの、定刻どおりの出発は維持され、約11時間のフライトでフランス領ポリネシアの首都パペーテのファアア国際空港に午前10時ごろ到着した。入国審査エリアに通じる小ステージでは恒例のウクレレの演奏で観光客のリゾート気分を盛り上げると徐々に財布の紐が緩んでいくような感覚に襲われた。両替所で当座の現金として¥10,000をタヒチの通貨であるフレンチ・パシフィック・フラン(CFP)に良くないレートで交換していただくとその足で隣の国内線の搭乗カウンターへ移動した。

AIR TAHITIが運行する11:55発VT407便は定刻どおりの出発というわけにはいかず、約1時間の遅れで行き先が同じ次の便と重なり合うように出発となった。AIR TAHITIは座席指定が出来ないため、景色の良い左側席を確保するためには早めに並ばなければならなかったのだが、乳酸が溜まって硬くなったふくらはぎと引き換えに最前列左側の非常口シートの確保に成功し、約45分の遊覧飛行がスタートとなった。

近隣のモーレア島を過ぎ、ボラボラ島に近づくと眼下にはその代名詞となるブルーラグーンのグラデーションが広がり、ひとめでその美しさの虜となってしまったのだが、無常にも飛行機は機体をよじるように旋回し、ボラボラの外輪島の空港へとソフトランディングを果たしたのだった。

到着後、早速空港の建屋に入り、荷物を確保すると居並ぶ高級リゾートホテルのカウンターからリゾートブルーのインターコンチネンタルのロゴを見つけ、名乗りを上げるとリゾートでは欠かすことの出来ないはずの花のレイで歓迎していただいた。空港の桟橋から各ホテルへはそれぞれのシャトルボートでの送迎となっているので宿泊客の人数がそろうまでしばし海を見下ろしているとボラかと見まがえるような魚の大群までが歓迎ムードで透明感を出していた。

ボラボラ島はボラれる島と呼ばれているかどうかは定かではないが、約20分程かかるホテルへの送迎ボートの代金は1人あたり片道¥7,000程度となっているのだが、他に移動の選択肢がないため、必然的に送迎代がホテル料金に組み込まれるという効率的なシステムになっている。それにしても青いラグーンを疾走する航海は快適で送迎代の高さなどその瞬間は微塵も気にならず、後でクレジットカードの請求を見て後悔すれば良いのである。

ボートがInterContinental Hotels Bora Bora Resort Thalasso Spaの桟橋に近づくと高らかなほら貝の音色とともに酋長兼荷物持ちの係りの現地人が宿泊客を出迎えてくれるシステムになっているのだが、彼の人件費も送迎代に含まれているかどうかは定かではなかったのだ。

桟橋まで電動カートを乗り付けて迎えにきたKozueと名乗る日本人コンシェルジュの隙の無い挨拶を受け、一通り敷地内の施設の案内をしていただくとIHG Club Memberのチェックイン場所に案内され、地元特産のバニラで香り付けされた冷紅茶で一息つくことが出来た。さらにボラボラ島のシンボルであるオテヌマ山を背景に半強制的に記念写真を撮られた後、待望の水上ヴィラへの案内の時間となったのだ。

部屋はすべて水上ヴィラなのだが、いくつかのグレードに分かれているようでプライベートプール付の部屋までラインアップされている。ANAの陰謀でIHGの最高級会員ランクであるスパイアエリートにプロモーションで成り上がっているFTB一行にはアップグレードされているはずのオテヌマ山ビューの上部屋があてがわれた。大きな窓とガラステーブル越しにエメラルドグリーンのラグーンが一望でき、簡易シャワー付の広々としたテラスからは水深1.65mのラグーンにエントリー可能な極楽の作りとなっている。

ところで水上ヴィラの構造で一番気になるポイントは上水の供給と下水の処理であるが、生理的な欲求により排泄される汚物等は桟橋の下に張り巡らされているパイプで処理・回収されているようで、決して海に垂れ流しにされることはないということを断言しておこう。

すでに財布の紐がゆるんでしまっていたのだが、フレンチポリネシアでここだけというタラソテラピーを体験出来るディープ・オーシャンスパからの案内はとりあえず無視してホテルの敷地内をゆっくりと散策させていただいた。初日の時差ぼけの影響を受けないようにただひたすら美しい景色に見入ったり、ハンモックでむくんだ背中に網目模様を作ったりしながら高級リゾートを味わいつくそうと躍起になっているうちに夕暮れ時が迫ってきた。

夕食はいくつかあるレストランから一番カジュアルな「サンズ」というビーチフロントのレストランに席を取った。高値のプライムリブステーキを噛み締めながらビーチ方面に目をやるとホテルの従業員のような軽いフットワークでテーブルサーフィンしている子猫と目が合ってしまったので、高い肉の分け前を与えながらボラボラ島初日は更けていったのだった。

7月14日(日)
高級リゾートでは何もしない贅沢を満喫するのが鉄則のはずなので高値で供されるホテルのウォーターアクティビティはとりあえずスルーして今日ものんびり過ごすこととした。

グルメレストラン「リーフ」で朝食のブッフェを満喫すると運動不足が気になったのでカヤックでラグーンに漕ぎ出した。ハネムーンナーやアクティビティをプロカメラマンが撮影していい気になるフォトセッションを横目に見ながら海水がしみこんだパンツが飽和状態になった頃を見計らって陸へと戻ってきた。

昼下がりのラグーンに人だかりが出来ていたので近寄って見るとエイひれを翼のようにはためかせて旋回している多数のエイが観光客に何かをおねだりするかのようにすりすりしていたのでついついその輪に加わることとなった。

当ホテルでは午後2時からエイの餌付けを行っているとの説明をすでにコンシェルジュから受けていたのだが、律儀なエイは毎日30分前には餌場に集合し、観光客と戯れるのが恒例になっているようだった。すねからふくらはぎにかけてエイひれのぬめっとした感触が新鮮さを保っているうちにいきもの係であるはずの屈強な海パン野郎が魚の切り身が入ったバケツを持って姿を現した。6匹ほどのエイに囲まれ、絶大な人気を誇っているいきもの係はこのエイの集団はファミリーで父親、母親、子供らのメンバー紹介をしてくれたのだが、末の子供の名前を
六輔と呼ぶかどうかは常に日本人観光客の判断に委ねられているのだ。

エイ六輔からパワーをもらい、その代表作である♪上を向いて歩こう♪という意識付けがなされた一方で、リゾート地滞在での脳みその流出と時差ぼけとのブレンド効果により、その後のアクティビティはあまり記憶に残っていないのだが、プールサイドでヒナノの黒ビールを飲んだり、スノーケリングのマスクがブカブカで海塩水を飲んだりしながら夕暮れまでの時間をのんびり過ごしていたようだった。

ディナーはフォーマルなフレンチレストランの選択も考えたのだが、昨晩高級牛肉をごちそうしてやった子猫におびき寄せられるように再び「サンズ」レストランに席を取った。今夜は魚系を中心としたアラカルトメニューを発注したのだが、その半分くらいは食べ盛りの子猫の胃袋に吸収されてしまったのだった。ちなみに後で分かったことだが、その猫はホテル専属ではなく、ごく普通の野良の流し猫ということであった。

7月15日(月)
ボラボラ島随一の人気ホテルで宿泊客の回転率が良いためか、スパイアエリートと言えども滞在時間の延長は許されず、午前11時のチェックアウト時間は厳守しなければならなかったのでぎりぎりまで敷地内の絶景を目に焼き付けておくことにした。

10時45分に律儀なポーターが部屋まで荷物をピックアップに来てくれたので後ろ髪を引かれるように水上ヴィラを後にした。チェックアウトカウンターではついさっきまで財布の紐を緩めていた宿泊客が殺気だったように明細の内容に間違えがないかどうかのチェックに余念がなく、1組1組の対応にかなりの時間を要していた。

チェックアウト後、出発までの時間がある上客にはデイルームというシャワー付の小部屋が与えられるのだが、特に海水を洗浄するようなアクティビティは行わなかったのでテーブルでバニラ紅茶を飲みながら夢の続きを楽しんでいた。

ボラボラ島には2件のIntercontinental Hotelがしのぎを削っており、宿泊客向けの有料シャトルボートで結ばれているので12時15分のボートに乗り、外輪島に位置するResort Thalasso Spaからボラボラ本島最南端のBora Bora Le Moana Resortに移動した。

Moana ResortはThalasso Spaに比べてアットホームな雰囲気でレートもリーゾナブルに設定されている。ここでは日本人コンシェルジュの代わりにベイと名乗るモントリオール出身のカナダ人若ギャルが名古屋国際大学で学んだ日本語を駆使して案内をしてくれた。部屋が準備出来るまでの時間を利用して通常であればWelcome Letterでしかその存在を認識出来ないGeneral Managerの生挨拶を受けることとなった。妙齢の女性GMはたどたどしいながらも棒読みで正確な日本語で歓迎の意を表し、その場で快適な滞在が保証されたのであった。

Moana Resortに隣接するように広がる浅瀬のラグーンはタヒチで最もきれいな海といわれているマティラ・ビーチでボラボラ島では唯一のパブリックビーチとなっている。特に海水浴客が大挙して押し寄せてくる雰囲気でもないので、心を空にして澄んだ海と向き合うのには最適な場所であろう。

Moana Resortの客室は大きく分けて水上バンガローとビーチバンガローで構成されているのだが、今回はThalasso Spaで散財し、JCBが1ヵ月後くらいに危機に陥れるはずの財政状態を考慮して安価なビーチバンガローを予約しておいた。とはいえ、部屋代は他のリゾートのレートよりは圧倒的に高いのでここでも相当な出費は覚悟しておかなければならないのだ。

ビーチ&プールサイドのバーでビールを流し込んで昼食の代わりとすると目の前に広がる透明な海に身を委ねることにした。泳いでも歩いても水深はへその位置を越えることは無く、水底に転がるウニと戯れながらセラピー効果を高めていた。

夕暮れ時に戻ってきたマティラ・ビーチはサンセットビューポイントとしても有名で海浴びをして戯れながら西日を見送る原住民の姿は太古から変わらぬ営みそのものであったのだ。

7月16日(火)
ボラボラ島上陸後、丸々3日間はホテル敷地内のビーチやラグーンの美しさに魅せられてホテルにへばりつくような過ごし方に終始したのだが、高い部屋代も常識的レベルの高さに落ち着き、もはや元を取るのに躍起になる必要はなくなったので今日は島を一周するアクティビティに参加することにした。

昨日のチェックインの段階でコンシェルジュのベイに相談してVauvau Adventuresが催行する4×4ジープサファリツアーの午後の部を常識的な値段で予約していたのでピックアップ指定時間の午後1時半にロビーで待っていた。何らかの不手際で30分程遅れてやってきたのはイタリアのスーパーカーであるマセラティ・ボーラ(Bora)ではなくボロボロ系の4WDであった。

FTB一行の他、米国からの観光客2組を荷台シートに乗せてツアーの火蓋は切って落とされたのだが、ビューポイントの高台に向かうべく、オフロードの急坂をビーストモードに切り替えて駆け上がる時にV型8気筒320馬力を誇るマセラティ・ボーラでも4WDジープには太刀打ち出来ないことがすぐに理解出来た。

このツアーは単に景色の良い見所を巡るだけでなく、島の成り立ちや地理、歴史、文化の説明もふんだんに含まれる教育的側面も持っている。ボラボラ島は火山活動で形成され、ラグーンを囲むように珊瑚礁の外輪島が点在しているのだが、この大きなカルデラは阿蘇の外輪山と中央の阿蘇五岳の関係に近いものがある。本島の中央には標高727mのオテヌマと661mのパヒアがそびえ、オテヌマは東の外輪島に位置するInterContinental Hotels Bora Bora Resort Thalasso Spaの方角からは「いいね!」に見えるが、島の南から見るとぬりかべにとして立ちふさがってしまうのだ。

高台からリーフの方向に目をやると世界中の色々な青をこの場所に集約させたようなグラデーションが美しく、この景色を目の当たりにすることがジープサファリツアーの最大の醍醐味であることは間違いないであろう。ちなみにボラボラの海は自然に出来たものだけでなく、人工的に形成された場所もあるとのことであったのだが、1941年12月8日に日本が真珠湾を奇襲した後、米軍は太平洋の覇権を守るために新たな軍事拠点が必要となり、ここボラボラ島に軍艦が入港できる港を造成する目的でダイナマイト爆破により水深を稼いだ暗い過去も忘れてはならない歴史の一部である。

自然のグラデーションの感動もさめやらぬうちに高台から撤収し、家内制手工業が展開する人工的なグラデーションを作るパレオ工房の見学へと移行した。出迎えてくれた猫店長の背後には植物等の自然由来の染料で染められたカラフルなパレオが風にたなびいていた。

見学者接待用のカットフルーツをほおばりながら、柄付けのデモンストレーションを行っていただいたのだが、出迎え時に作業台に上っていた猫店長はその後、少年から折檻を受けて足蹴にされ、見送りをすることなく引きこもってしまったのだ。

海沿いの遺跡のような石垣のような石壁の名残と亀の象形文字が刻まれているマラエ(野外宗教施設)でしばし歴史の授業が開かれた。ここにあった石造りの祭祀場ではかつて自然災害対策として少年少女の島民がいけにえとして捧げられる風習が長らく続けられていたが、、西洋人の侵略による文明開化ですべてキリスト教の神のご加護へと転身させられたとのことであった。

次の高台のビューポイントへは舗装路から轍路を通って到着し、ジャングルっぽい場所で車を降りた。近くの岩の表面の多くの穴はダイナマイト充填用に空けられたもので見渡しの良いこの場所には米軍の7インチ砲が数キロ先の標的をロックオンしていた。この大砲は軍艦から移設したものを岩の台座に固定したもので、結局太平洋の覇権獲得に失敗した日本軍の侵攻の脅威がないまま、その咆哮は封印され、野ざらし歴史遺産への道を辿っているのである。

周囲40kmあまりのボラボラ島をほぼ一周し、最終ポイントとなる南東の高台に上がった。ここからはタヒチ発祥の地として歴史的に重要なライアテア島とその姉妹島のタハア島の遠景を拝むことが出来る。東南アジア(フィリピンか?)から流れてきたポリネシア人の祖先達が一番最初に漂着したのがライアテア島で、その時彼らはこの地こそ伝説に伝えられる「ハバイイ」(魂の故郷でもある聖なる地の意味)だと確信したという。

ライアテア島はその後、ポリネシアの王族や信仰の発祥の地として長い間すべての中心として存在した。さらにポリネシア人はこの島からハワイ、ニュージーランド、イースター島へとカヌーでわたり、ポリネシアン・トライアングルという一大文化圏を作っていったのだった。

夕暮れ前にホテルに戻り、近隣のスーパーで買ってきたヒナノアンバー缶ビールと日本製スナックで水分と塩分を補給しながら部屋のテラスでクールダウンさせていただいた。

今夜はビュッフェ料理を肴に地元ダンサーによるタヒチアン・ダンス・ショーが開催されるということなので中庭のステージフロントの特等席を予約していただいた。お約束のダンスが一通り終わるとダンサーに指名された観客がステージまでエスコートされ、一緒に腰振りダンスを強制させられるシステムになっているのだが、ピンクレディーの♪ペッパー警部♪を彷彿とさせる大股開きの振り付けを習得するには滞在期間が短すぎるのだった。ショーが終了し、♪夢からうつつに戻された♪客にはダンサー達との記念撮影が待っており、皆一様に「ボラボラ!」との掛け声とともにポーズを取っていた。

7月17日(水)
高級リゾートに4泊して財政状態をボロボロにしたはずのボラボラ島から撤収する朝を迎えた。

早朝のマティラビーチには人影は無く、朝日に照らされた椰子の木の影が透明な水面に映し出され、これから進むべき方向を示唆しているかのようであった。

10時40分発のシャトルボートに乗るべく桟橋に向かうと異例のGeneral Managerの見送りとともに加山雄三曲のレパートリーを持つウクレレ従業員が浮かれた気分が盛り下がらないように配慮してくれたので彼らとの再会を約束してボートに乗り込んだ。

ラグーンを疾走するボートは名残を惜しむまもなく空港へと元宿泊客を送り届け、12:15発VT435便で地上最強の楽園であるはずのボラボラ島からTake Offとなった。

景色の良い席の確保に失敗したため、ふぁ~ぁ~とあくびを決め込んでいるといつの間にかファアア国際空港に到着していたので、タクシーを捕まえて一路フェリー乗り場に移動した。首尾よく午後2時発のテレバウ社の高速フェリーに乗船出来たので2時半にはモーレア島へ上陸することが出来たのだった。フェリー乗り場の目の前に出店しているAVISレンタカーで手続きをしながらフランス領ゆえ、ゴーンが風とともに去った後のルノー車が割り当てられると思ったのだが、中国製のBYD車のレンタルとなったため、ガーンとなった気分を振り払うこともままならず左ハンドル5速マニュアル車のウインカーを操作したつもりがワイパーを動かしながら海沿いの道路を走り出した。

島を半周し、約40分程でポイントを使ってただで泊まることが出来るIntercontinental Moorea Resort & Spaに到着した。このホテルには約1年ぶりの帰還となったのだが、ドルフィンセンターのイルカや保護センターの海亀は変わることなく景色の一部となっていた。

今夜はビーチのビュッフェレストランで伝統舞踊のショーが行われるということだったのだが、昨晩ボラボラでフィーバーしたばかりだったので違うレストランにエスケープして創作シーフードを発注した。舟盛の魚介類を食べ進めるうちに味がくどいと思いながらもビーチの喧騒に聞き耳を立て、モーレアのアットホームな雰囲気を懐かしんでいた。

7月18日(木)
たとえ中国製とは言え、車があるということは観光の自由度が大きく広がるというメリットを享受出来るので早速BYD車をぶん回して近くのショッピングセンターへとしけこんだ。ボラボラ島で猫店長率いるパレオの工房を見学して是非とも土産に買って帰らなければならないとの義務感にかられていたので「ナチュラル・ミスティック」というギャラリー兼ショップに足を運んだ。量産品ではない一点ものが並ぶ数多くのデザインの中から気に入った色合いのものを空港やホテルのショップで買うよりもお得な値段で入手出来たので意気揚々とホテルに戻ってきた。

一流画家ゴーギャンにして「古城のようだ」と言わしめたモーレア島のパノラマを堪能出来る高台まで車を走らせる道すがらぽつんと一頭馬と出会ったので軽くご機嫌取りをしてやった。

ベルベデールという展望台の駐車場はほぼ満車状態で4輪駆動のバギーに乗って島のオフロードを走るクアッドツアーの一団も遠慮がちに道路わきのポジションを確保して、モーレア島のシンボル的存在である標高880mのモウアロア山やふたつの湾の間にそびえる標高899mのロツイ山等の絵葉書のような絶景に見入っていた。

Late Check outの午後2時までしばらく時間があったのでホテルに戻り、ビーチバーで薄いわりに値段の高いアイスコーヒーとNachosをほおばっていると将来は有望な卵製造機やチキンソテーになることが約束されているはずのひよこ集団が首を前後に振りながらおすそ分けを求めてきたので施しを与えなければならなかった。

昨日のモーレア島の上陸以来すでに島を半周していたのだが、残りの半周はマサに輝く景色の連続であった。入り江に停泊するクルーズ船を見送り、マウヴァビーチの透明感で心を潤した後、トアテア展望台という高台に到着した。この場所はソフィテルホテルが仕切っている「水上バンガローとラグーン」の絶景ビューポイントで眼下にはモーレア島で一番美しいビーチといわれる「「テマエのパブリックビーチ」が広がっており、その先にある海と空の隙間にはタヒチ島が腰をおろしているのである。

この景色を目にしていつかソフィテルの水上バンガローを制覇しなければならないと心に誓いながらフェリーでモーレア島を脱出し、帰国準備のためにタヒチ島のIntercontinental Tahiti Resort & Spaに移動した。チェックイン手続き後、屈強な原住ポーターに荷物を運んでいただくとWelcome Drink券を握り締めてオーシャンフロントプールのバーに向かった。

テキーラのカクテルと夕日のカクテル光線のコラボレーションで最後のマリン・アクティビティを締めると晩餐の席では鹿肉のソテーと一緒に幻想のようなツアーの思い出を噛み締めていた。

7月19日(金)
夜明け前の早朝5時に迎えに来たタクシーに乗り込み、恒例のふぁ~ぁ~というあくびが収まらないうちにファアア国際空港に到着した。7:15発TN78便は定刻どおりに出発となり、「モアナと伝説の海」という漫画映画を見ながらはからずも今回学習したタヒチの伝説のおさらいをすることとなったのだ。

7月20日(土)
♪夢からうつつに戻された♪午後2時過ぎに成田空港に到着。♪カーモン ベ~ベ~ アメリカ♪というリズムとともに車を預けていたUSAパーキングで洗車済みの車を受け取り、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 AIR TAHITI NUI = ¥0、AIR TAHITI = ¥47618
総宿泊代 CFP365,805 (CFP 1 = ¥1.04)
総タクシー代 CFP6,300
総インターコンチネンタルホテル送迎フェリー代 CFP36,116
総4WDツアー代 CFP8,500
総レンタカー代 ¥9,693
総ガソリン代 CFP700
総フェリー代 CFP2,320

協力 AIR TAHITI NUI、AIR TAHITI、IHG、AVISレンタカー、Vauvau Adventures

祝FTB20執念!記念南海の楽園タヒチツアー

NHK、BSプレミアムのドキュメンタリー番組である「世界ネコ歩き」が始まるとテレビ画面に釘付けになるボンよ!

内弁慶な君たちは動物病院に搬送される以外は大半の時間を家でゴロゴロして過ごすのが日課であるが、FTBを率いているボス猫の私は「世界ネコ歩き」を体現しなければならないという使命を帯びているので今回は忙しい合間を縫って南海の楽園タヒチに肉球跡を残すツアーを開催することとなったのだ。

2018年8月13日(月)
ニュージーランド航空運行の午後10時5分発NZ92便は定刻に羽田空港を離陸した。すでにANAのSuite Loungeにてたらふく飲み食いして睡眠体制を整えていたので機内ではひたすら覚醒レベルが上昇しないように注意を払って過ごしていた。

8月14日(火)
約10時間半のフライトでニュージーランドの玄関であるオークランド国際空港に到着したのは正午前であり、日本よりすでに時計の針が3時間進んでいたのであった。入国、税関をつつがなく通過したものの1歩外へ踏み出すと真冬のニュージーランドの外気温13℃の南風がみるみる活動する気力を失わせたために路線バスで空港近辺のHoliday INNに移動し、IHGポイントを使ってただで泊ったにもかかわらずアップグレードしていただいたスイートルームに引き篭もって悠々自適なホテルライフをエンジョイさせていただいた。

8月15日(水)
南太平洋の優等国で南太平洋路線が充実しているニュージーランド航空が運航する午前9時10分発NZ40便オークランド発パペーテ行きは定刻に出発した。約5時間弱もの時間を機内で過ごして意識が朦朧としてついつい「ふぁ~~」とあくびが出た頃合にフランス領ポリネシアタヒチ島のファアア国際空港に到着したのだが、まるでタイムマシンでやって来たかのように日付は前日の8月14日に舞い戻っていたのであった。

8月14日(火)
午後4時過ぎに疲れ果てたようにたらたらとタラップを降り、空港の建物に入った瞬間にタヒチアン・ミュージックとダンスの歓迎を受け、みるみる体中に生気が蘇って来る感覚を覚えた。

簡単な入国審査を経てフランス領ポリネシアへの入国を果たし、手持ちの米ドルをいくらかのフレンチ・パシフィック・フランに両替するとタクシーを捕まえて今日の宿泊先へと急いだ。尚、タヒチでの金銭感覚だが、フレンチ・パシフィック・フラン (CFP)と日本円の換算がおよそ1対1なので¥1,000を使う感覚でCFP1,000を浪費することが出来るのだ。IHGポイントが余っていたので、私はただで宿泊出来るタヒチ島随一の高級ホテルであるインターコンチネンタル・タヒチ・リゾート&スパに颯爽とチェックインすると上半身裸の屈強なタヒチアン優男が部屋まで荷物を運んでくるシステムになっていたのだが、FTBが通常提供している高額チップを渡そうとしても優男のパンツにポケットがないことを考慮して断念せざるを得なかったのだった。

部屋に入って程なくするとあたりも暗くなってきたので、浮かせたチップ代をホテルに還元するために高級ディナーと洒落込むことにした。アポなしでホテルの水上レストランであるフランス料理の「ル・ロータス」にアタックすると首尾よく30分後にテーブルを確保することが出来たので今夜はここで散財してIHGポイントを稼ぐことにした。

フロントでウエルカムドリンクのチケットをいただいており、ビール、カクテル、スパークリングワイン等を発注出来ると書いていたので、テーブルに着いた矢先にスパークリングワインを頼んだのだが、高級フレンチのプライドを覗かせたウエイターからシャンパンならあると言われたのでまがいもののスパークリングを口に出したことを後悔しながら最初のドリンクに口を付けた。料理はアラカルトで魚系とデザートを発注したのだが、世界の渡部ほどの食通でない私でも十分アンジャッシュな気分を満喫することが出来たのであった。

8月15日(水)
IHGインターコンチネンタルホテルズグループと深いつながりを持つANAの策略により、IHGの最上位ステータスであるスパイアエリートに出世させられていたFTBはLateチェックアウトの特典を利用して昼ごろまでの滞在を決め込んでいたので早朝からじっくりとリゾート内のファシリティの調査に時間を費やすことが出来た。

レガッタ系のボートを力強く漕いでいる原住民の背景には近隣の島であるモーレア島のシルエットが浮かんでおり、青い南国の海をじっと見て佇んでいるだけで十分リゾート気分が盛り上がってくるのだが、、リゾート内にはご丁寧に亀を飼育するにごり池や外海と隔絶された巨大プール型いけすが設えられており、サンゴ礁の回りでカラフルな熱帯魚がWINKする観光客を尻目に♪ゆらゆらSwiming♪とマイペースで泳いでいた。

リッチなリゾーター向けには海の上の立地のよい場所にタヒチ名物水上バンガローが数多く用意されているのだが、スパイアエリートと言えどもそこまでのアップグレードはなし得なかったので水上部屋内の便所やバスタブの排水系とサンゴ礁きらめく海の環境とのバランスがどうなっているのかの解明には至らなかったのだ。

アイスクリームや菓子類、香水等に欠かせないバニラはフレンチポリネシアンの名産品となっているのだが、インターコンチネンタルの敷地内にもプロモーション用のバニラの木が囲いの中に数本植えられている。バニラはラン科の植物で湿気の多い場所に添え木となる軸木を植え、その湿った根元にバニラの若枝を挿し木にして栽培している。尚、ポリネシアにはハチがいないので受粉の役割は人力に頼っているそうである。

正午過ぎにホテルをチェックアウトするとチャーターしていたタクシーに乗り込み、パペーテ中心部のモーレア島行きフェリー乗り場に向かった。重厚な門構えのフェリー乗り場で下車し、チケット売り場を探していたのだが、何故か人影が少ないようであった。ようやく見つけた係りのおばちゃんから状況を聞いたところ、この日は「聖母被昇天祭」という祭日でフェリーの運行本数が少なくなっており、市内の商店街もほとんどシャットダウンしているとのことだったので思わずショックで昇天しそうになってしまった。

首尾よくフェリー乗り場近辺のうらぶれたバーが店を開けているようだったので熱中症で昇天する前に水分補給することにした。吉川と名乗る日本人がオーナーかどうかは定かではないのだが、タヒチのローカルビールはHINANOビールが定番になっているのでタヒチ語で「かわいい女の子」を意味する黄金の液体を味わいつくして時間を稼いでいた。

午後2時を過ぎたあたりからフェリー乗り場周辺が観光客でざわつき始め、テレパウというフェリー会社のチケット売り場で首尾よくチケットを入手すると高速船はようやく3時過ぎに出港となったのだった。モーレア島へはわずか30分の船旅でデッキで潮風に吹かれているとモーレア島の荒々しい島影がみるみる近づいてきたのであった。モーレア島には公共交通機関がないのでホテルまでの遠い道のりをタクシーに揺られていくことになるのだが、タクシー乗り場で出会った推定85歳以上のエリザベスと名乗る運転手は果敢にも重いスーツケースをトランクに抱え上げ、道中はモーレア島のガイドまでかましてくれたのだ。モーレアしまんちゅのプライドを会話のここかしこに織り交ぜるエリザベスによるとモーレア島では週5回ゴミの収集が行われ、島は至って清潔に保たれているとのことで、タヒチで一番人気のボラボラ島ではぼられるとは言っていなかったが、ボラボラ島よりモーレア島の方がすばらしいことは十分に脳内に刷り込まれていったのだった。

待望のインターコンチネンタル・モーレアリゾート&スパにチェックインを果たすとスパイアエリートのFTBにアップグレードしてあてがわれた部屋は藁の屋根をかぶったガーデン・バンガローであった。驚いたことに部屋のデッキには源水?垂れ流しのプライベートプールが装備されており、これからビーチで付着するであろう塩分をこんこんと流れ出る真水で清める体制が整えられていた。

たそがれ時に広大なリゾートの敷地を散策していると離れの水上バンガロー地区で沈み行く太陽を背景に手招きしている猫科のシルエットが視界に入ってきた。思いもよらぬ場所での「世界ネコ歩き」となってしまったのだが、南国の離島にひっそりと暮らすネコに対して「マサにネコ歩きに国境などないのだよ」と語りかけていた。

8月16日(木)
リゾート滞在での最大の贅沢は何もしないことなので、今回は特に島内を散策することもなく、ひたすらリゾート内で静かに過ごすことにした。かつて画家ゴーギャンはこの島を「古城のようだ」と評しており、海底火山の大噴火で生まれた大自然の起伏ある景観をくまなく見て回るのは予定のされていない次回滞在時に譲ることにした。

レストランで朝食のビュッフェを高値の支払いで食しているときに足元に放し飼いのヒヨコがまとわり着いてきた。このホテルではシーフードだけでなく、卵料理や鶏肉料理のメニューも充実しているのだが、ヒヨコたちも近い将来スクランブルエッグやチキンソテーとして貢献することが約束されているはずだと思いながら朝食を値段負けしないように無理して胃に詰め込んでいた。

リゾート内の船着場から鳥の目線で青い海を眺めていると丁度パラセイリングのボートが出航するところであった。マリンアクティビティはひととおりそろっており、スノーケリングセットは無償で貸与していただけるのでマスクとフィンを小脇に抱えてビーチ沿いをうろうろしていた。

ラグーンではビートの利いた音楽に乗って水中ビクスに興じているリゾーターがいる一方で、ドルフィン・エクスカーションなるイルカと人との触れ合いが出来るプログラムも高値で用意されており、トレーナーの指示で魚目当てで従順になったふりをしているイルカを手篭めにすることも出来るのである。

スノーケリングは基本的にどこでやっても自己責任でOKなのだが、水上バンガローの宿泊客は部屋から出れば即海中世界となっている。海の中を覗いてみると魚が密集しているエリアはあるものの環礁地帯になっていない所を泳ぐと普通の海水浴に成り下がってしまうのであった。

敷地内には海亀保護センターもあり、生まれたばかりの小亀から干からびた甲羅で命からがら生きながらえているような老海亀も平和に暮らしているのだが、果たして小亀たちはいつ大海原への航海に繰り出すことが出来るのであろうか?

定番の「世界ネコ歩き」の時間になったので昨日出会った場所を訪れると今日はよりフレンドリーになっていたので涙なしに別れの時を迎えることが出来るのか心配になってきたのであった。

8月17日(金)
リゾートでやり残したことを数えればきりがないのだが、滞在中に運動不足に陥っていることを鑑みてカヌーを漕いで海に出ることにした。カヌーは2人乗りのタンデム仕様のものと立ち漕ぎで「レレレのおじさん」のポーズで前進するタイプのものがあるのだが、ギタリストのようなポーズが決められなかったのでちまちまと2人乗りを漕ぎながら浅瀬での座礁を繰り返していた。

ドルフィン・エクスカーションは相変わらず活況を呈しているのだが、施設の近辺には珊瑚の養殖だなも見られ、豊かな南国の海でも珊瑚の白化現象は刻々と進んでいる状況に脅威を覚えていた。

2泊させていただき、社会復帰が心配になるほどのくつろぎを堪能したインターコンチネンタル・モーレアリゾート&スパを後にするとタクシーでフェリー乗り場に帰っていった。フェリーの到着時間が近づいた頃、ふとタクシー乗り場に目をやると島を愛する勤勉なエリザベスは今日も客待ちに余念がないようであった。

タヒチ島に戻るとタクシーでインターコンチネンタル・タヒチリゾート&スパへと急ぎ、チェックインすると何故か前回宿泊した部屋の隣の部屋があてがわれていた。どうしても居心地最高だったモーレア島のインターコンチとの比較になってしまうのだが、ホテル代はタヒチ島の方が高いとはいえ、室内にはプライベートプールどころかバスタブさえなかったので太平洋フロントのプールで夕暮れまでのひと時を楽しむことにした。

プール型巨大いけすに場所を移して見るとすね毛を餌と間違えた熱帯魚が早速群がってきやがった。人口ものの設備とは言え、間近で感じる熱帯魚の感触は格別であり、カラオケで♪淋しい熱帯魚♪しか歌えないような仕事で疲れた病んだ心もここに入れば一気に晴れ上がっていくのである。

モーレア島をオレンジに染める夕日を見送るとリゾートにつかの間の静寂が訪れる。

週末のこの日に静寂を打ち破るのはティアレ・レストランで行われる島内随一の本格的タヒチアン・ダンス・ショーである。あらかじめ7時半に予約しておいたので舞台近くのかぶりつき席に陣取るとまずは地元料理のビュッフェで腹ごしらえをして、タヒチでNo.1の実力を誇るダンスグループ「ヘイタヒチ」のメンバーが登場するのを今か今かと待ちかまえていた。

8時過ぎに念願の開演となると会場は一気に盛り上がり、BEGINを髣髴とさせるバックバンドが奏でる独特なリズムにより伝統的なポリネシアンの雰囲気に包まれていった。

演目は少年が火のついたバトンをグルグル回しにするお決まりのものや、伝統的打楽器に合わせて踊る「オテア」、手の動きで物語を表現する「アパリマ」、男女が輪になって踊る「ヒヴィナウ」等であるが、松雪泰子や蒼井優が「フラガール」で披露した膝折り仰向け寝の状態から徐々に上体を起き上がらせる技は実演されなかったのだ。

ダンス・ショーも佳境を迎えたところで観客参加型のプログラムに移行し、各ダンサーは舞台に上げるべきスターを物色するために客席中を目を血眼にして歩いていた。たまたま赤シャツを着ていた私はドラフト1位で指名されてしまったのだが、ここでダンスチームへの入団を拒否するわけにもいかない雰囲気になっていたので契約金なしで堂々とデビューを飾ることにした。

観客の大歓声を浴びて切れのあるステップを披露した後は記念写真撮影大会となった。顔の小さい私よりもさらに一回り顔の小さいセンターダンサーと無事にツーショットが決まるとほどなくしてダンスショーはお開きとなったのであった。

8月18日(土)
夢のようなひとときを過ごしたインターコンチを早朝チェックアウトするとタクシーに乗り、「ふぁぁ~」とあくびをしながらファアア国際空港に向かった。Air TahitiNuiが運行するTN101便は定刻9時5分に出発すると6時間弱もの時間を機内でやり過ごさなければならなかった。

8月19日(日)
日付変更線を越えるといつのまにか日にちが進み、オークランド国際空港に到着した時間は午後1時過ぎとなっていた。空港からSky Busに乗り込むと約40分でオークランドの市街地に到着し、Crown Plaza Aucklandにチェックインを果たすと窓越しにスカイツリー系のタワーのフォルムが目に突き刺さった。スカイタワーと名乗るこの建造物は高さ328mの南半球で最も高いタワーであり、オークランドの観光名所となっている。なるほど、安全ロープに身を委ねた観光客がアウトドア高所スカイタワーめぐりを楽しんでいる様子で遠めにもその緊張感がひしひしと伝わってきたのであった。

明るいうちにオークランドハーバー近辺をうろうろしていたのだが、一等地に店を構えているOK GIFT SHOPは日本人の店員を多数配置しているにもかかわらず適正価格で土産物を販売しているようであった。

夕食はカニをメインにふるまうカジュアルなレストランで取ることにしたのだが、あえて時価のカニの姿ものは発注せずにカニの身が少し入ったサラダやシーフードチャウダー等でコストを抑え、タヒチで緩んだ財布の紐の修復を図っていた。

8月20日(月)
ニュージーランドドル札が少し余っていたので昨夜OK GIFT SHOPで買わなかったマヌカハニーを空港の免税店で購入し、午前8時55分発NZ99便で成田への帰路に着いた。午後5時過ぎに成田に到着すると殺菌作用の強いマヌカハニーで今年の冬も喉を消毒し、インフルエンザワクチンを接種することなく冬を乗り越えようと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥159,780
総宿泊費 CFP114,711、NZ$176.4
総タクシー代 CFP16,900
総フェリー代 CFP2,320
総バス代 NZ$36

協力 ニュージーランド航空、Air TahitiNui、IHG

第5回カンガルーと一緒に地球環境問題をカンガェル~ツアー in オーストラリア(ケアンズ)

地球温暖化のあおりを受けたためか、今年の梅雨は露ほどの期間もなく、猛暑の訪れとともに西日本に甚大な豪雨の被害をもたらせてしまった。見事な大猫に成長したボンよ、君たちは家の中で涼しい寝場所を見つけることには長けているはずので、FTBツアー中の留守を守っている間は各自で暑さをしのぐことはたやすいことであろう。

ということで、酷暑の日本を脱出し、赤道を越えてオーストラリア北東部のクイーンズランド州ケアンズに飛んで雄大な自然環境の中でひとときの涼しさを求めるツアーが敢行されたのだった。

2018年7月14日(土)
ANAが多数所有するロールスロイス社製トレント1000エンジンを搭載したボーイング787ドリームライナーが航空当局の指導により、一斉整備、点検による欠航便多発のあおりを受け、FTB一行が搭乗するはずであった東京→大阪の便が欠航となったものの、今回のツアーはどうしても決行しなければならなかったので振り替え便の午後3時発ANA33便、ボーイング737-700機に搭乗し、4時過ぎに伊丹空港に到着した。空港バスで関西国際空港に移動し、「ぼてじゅう」でお好み焼きを詰め込んで腹をぼてっとさせた後、午後9時発Jetstar JQ16便、ボーイング787GE製エンジン搭載機に搭乗するとLCCの不便を感じないためにひたすら意識をなくすことに専念した。

7月15日(日)
約7時間のフライトを何の不便もなくやり過ごすと、夜明け前のケアンズ国際空港に到着したのは午前5時を少し回った時間であった。関空だけでなく、成田からケアンズに飛んでくるJetstar便も同じ時間帯でのフライトだったので入国エリアはおびただしい数の日本人でごった返していた。機械での自動入国処理、税関での甘い手荷物審査をパスするとATMでオーストラリアドルを引き出し、停車していたプリウスタクシーに乗車して予約しておいたホリディイン・ケアンズ・ハーバーサイドにようやく到着する運びとなった。

熱帯地方とはいえ、冬まっさかりのケアンズの早朝の気温は15℃を切っているように感じられ、部屋が準備出来るまでの時間に海沿いを歩いたりもしてみたが、バカンス風邪をひきたくなかったのでしばらくロビーのソファーで惰眠を貪りながら待機していた。朝日が昇ると一転して気温は夏日を目指し始めたので9時を回った頃に徒歩でダウンタウンに向かうことにした。

毒々しい高層ビルが見当たらないケアンズダウンタウンの主要道路であるLake Streetに沿って南下しているとなんかよくわからん木々の集合体のような植物に遭遇し、上方から鳥の鳴き声らしき喧騒が聞こえてきた。これは絞め殺しのイチジクという熱帯地方の代表的な着生植物で大きく成長したこの木はこうもりの棲家になっており、喧騒は夜のハンティングを終えて戻ってきた団体が枝にぶら下がって狩の成果を自慢しあっていたと思われた。

都会の一等地のこうもり団地を過ぎるとWoolworhsという巨大平屋スーパーマーケットが姿を現したので軽くマーケティングを行うことにした。乾季のこの時期はこうもり傘は売ってなかったが、強い日差し対策のスキンケア用品の品揃えは豊富で、ケアンズの誇るグレート・バリア・リーフの名に恥じない強力なバリアを肌に施してくれる商品で陳列棚が埋め尽くされていた。また、店内のフードコートは揚げ物づくしのSeafoodのみならずSUSHIもコーナーも充実しており、サッカーワールドカップで日本をすしにして食ってやるといったベルギー代表チームもすばやくカウンターで注文をしかけにくることは間違いないであろう。

意外に小さいケアンズのハーバー沿いの町並みをひととおり見て回ると迎えに来たホテルのシャトルバスに乗り込み、ホリディインに帰還すると部屋待ちの時間を利用して現地ツアーを物色することにした。ケアンズでの有意義な過ごし方はツアーの選択にかかっており、世界最大の珊瑚礁地帯グレート・バリア・リーフ、世界最古の熱帯雨林ウエット・トロピックスという世界遺産は必見項目なので各1日づつそれぞれのツアーに当て込む予定を急遽作成した。

ホテルのブルーマンゴーカフェでトロピカルテイストのビールをすすっていると部屋の準備が出来たとの知らせを受けたので4階のオーシャンビューのStandard Roomの風呂場で体を清めると再びダウンタウンに繰り出すことにした。到着初日に何のアクティビティもないという体たらくを打開するために5時半に出港するCairns Harbour & Sunset Cruises(AU$48)に参加することにした。

クルーズ自体はトム・クルーズのようなアクション性はなく、いたって静かに夕日に染まるケアンズのハーバー周辺を眺めるもので時間と金を持て余している輩に優雅なひとときを提供するツアーなのである。

燃えるサンセットを堪能した後、手ごろなタイレストランでそんなに辛くない麺類と揚げ魚の香草ソースかけを召し上がり、周辺をうろついているとOK GIFT SHOPに遭遇した。故大橋巨泉が経営していたこの店もすでに巨泉写真建て看板もなく、土産物屋としてのカリスマ性が失われている様子で盟友のビート・たけしや石坂浩二の援助が待ち望まれるところであろう。

7月16日(月)
ケアンズ人気ツアーランキングの第2位にキュランダ1日観光なるツアーが君臨している。端的に言うとケアンズの北西30kmに位置する世界遺産の熱帯雨林に囲まれた高原のキュランダという小さな町にロープウエイや観光列車を駆使して行って帰って来るという単純なツアーである。ホリディインでホテル片道送迎付きのツアーを申し込んでいたので9時55分に迎えに来たバスに乗り込むと15分ほどでスミスフィールドというスカイレールの搭乗駅に到着した。

スカイレールは1995年に完成した全長7.5kmの6人乗りゴンドラ式のロープウエイで世界最古の熱帯雨林と言われている太古の森を高所から見下ろして自然環境の大事さを再認識させてくれる最新式の乗り物である。スピーカーから流れる標準英語の解説によると、現存する世界最古の熱帯雨林はかつてはオーストラリア全土を覆っていたが、何百万年前以前に起きた気候と地殻変動により、現在はオーストラリア全土のわずか0.1%にも満たないものに成り下がってしまったということであるが、驚くほど多様な生態系は今もなお息づいているそうだ。

スカイレール全行程中に途中停車駅が2つあり、最初のレッドピーク駅で下車してトレイルを歩くと樹齢400年のカウリ・パインという巨木を見上げて首のストレッチをすることが出来る。また、バンヤンツリーやアレキサンドラ・パームも見ごたえがあり、このあたりは高温多湿な環境でよく発達した熱帯雨林の様相を呈している。

レッドピーク駅を過ぎるとスカイレールは徐々に降下を開始し、途中シーニックレールウエイという観光列車と熱帯雨林のコラボレーションが堪能できるポイントでシャッターチャンスを逃さないようにゴンドラの同乗者同士が気を使いあっていた。

次のバロンフォールズ駅で下車してバロン渓谷とバロン滝の絶景を短時間で堪能し、後方から流れてくるゴンドラに再搭乗し、バロン川を越えてしばらくすると終点のキュランダに到着した。全体で約1時間程度の空中散歩が終了し、地に足を付けるとキュランダの町の散策へと歩を進めることにした。

キュランダという名前はアボリジニの言葉で「熱帯雨林の村」という意味で、19世紀には鉱山の町として栄えたそうであるが、その名残はかつて町を席巻していたはずの髭もじゃヘルメットマン人形に色濃く残されていたのであった。

観光地化された町の標識を支えるカマキリの案内でショッピングストリートにたどり着くと、土産物屋では非売品のワニの剥製が鎮座し、孫の手の代替品のワニの手が観光客の痒い所を虎視眈々と狙っており、リアルがま口財布の目つきの悪さに一旦たじろいだものの総じて手ごろな価格設定になっていることが確認できた。

特に買う気がなかったのでカンガルーの毛皮の手触りだけ確認して近くのカフェでランチタイムを楽しむことにした。マンゴースムージーに刺さっている竹紋様のストローは紙で出来ており、地球環境に配慮した脱プラスティックの一刻も早い普及が世界レベルで必要になっていることを実感させられた。

キュランダには熱帯雨林トレイルをはじめ、いくつか見所があるのだが、時間の関係で今回はコアラガーデンズ(AU$19)のみに集中してお約束のオーストラリア特有の動物と触れ合うことにした。まずは観光客が来るのを首を長くして待っている亀を威嚇して首をすくめさせると、カラフルな爬虫類コーナーをスルーしてご本尊のコアラ舎に向かった。

通常であれば、観光客がコアラに触ろうとすると係りの人に「コァラ~!}と怒られるのであるが、大金さえ支払えばコアラを抱いて手篭めにしているところの証拠写真を撮らせる仕組みはオーストラリア国内のどこの動物ランドも同じであろう。

その希少価値の無さでオーストラリア国内の動物園ではたいてい放し飼いにされ、自由に餌付けされているカンガルーの語源は、キャプテン・クックがアボリジニの原住民に「この動物は何?」と尋ねたところ、原住民は特にカンガェル~こともなく「カンガルー」と答えたそうだ。尚、当時のアボリジニの言葉で「カンガルー」とは「何言ってるのかわからん」という意味だという説があり、マサにキャプテンと原住民のコント仕掛けにより命名された動物だと言えるであろう。

コアラの鎮座するユーカリの木の下には小型のワラビーのクオッカが佇んでいるのだが、その愛らしさゆえに取って食ぉっかとは決して思ってはいけないのだが、池にいるワニは自由にスッポンを追い回してよいシステムにはなっているようだった。

コアラに別れを告げ、園外のガーデンのカフェにたむろするイグアナとお近づきになった後、木陰を散策していると第二次大戦中に墜落したDouglas社製の飛行機の墜落現場が保存されている光景を目の当たりにし、ANAが書き入れ時に多数の欠航便を出してまでエンジンの整備・点検を行い、安全確保している姿勢に敬意を表さずにはいられなかったのだ。

ケアンズへの帰路はキュランダ鉄道駅から15:30発のシーニックレールウエイに乗車することになっていたのでレトロな雰囲気の客車12号車の指定席に腰掛けて出発の時間を心待ちにしていた。客車内のシート配列は峡谷が見える側4列のみだったが、あいにく峡谷フロントとは反対の法面ビューの席だったため、絶景が現れてもタイムリーにシャッターを切ることは難しいと思っていた。

キュランダからケアンズまでの34kmを1時間45分かけて遅走する列車の車窓には熱帯雨林の山の斜面に開けた絶景が次々と現れる。出発して程なくするとバロンフォールズ駅に停車し、観光客はここで一時下車して展望台風に造られたプラットフォームや見晴台から滝や列車の写真を撮ることが出来るのだが、地味な色合いの客車を引っ張るディーゼル機関車の車体には熱帯雨林に棲むカーペットスネークをモチーフにしたアボリジニの絵が緑の魔境と絶妙なコントラストを形成しているのが印象的だった。

ヘアピンカーブに差し掛かる前には社内アナウンスで写真撮影スポットが近いことが告知され、牛歩戦術で進行する列車の車窓から観光客は一斉にシャッターを切っていた。列車はケアンズ近郊のFreshwater駅でツアー送迎車に乗り換える多くの客を降ろし、定刻17時前には無事ケアンズ駅に到着し、流れ解散となったのだった。

7月17日(火)
G.B.R.、それは日産ファンが信奉するGTRではなく、オーストラリアの代表的な世界遺産、グレート・バリア・リーフのことである。全長2,600kmを超える世界最大の珊瑚礁地帯G.B.R.に最も手軽にアクセス出来るケアンズ沖合い27kmに浮かぶグリーン島への1日クルーズがツアーランキング不動の1位になっているので当然のことながら参加予約者に名を連ねていた。

8時5分にホテルに迎えに来た大型バスに乗り込むといくつかのホテルで予約者をピックアップしながらリーフ・フリート・ターミナルへと向かった。グリーン島へのツアーはGreat VenturesとBig Catの2社が催行しているのだが、ボンに敬意を表してBig Catを選択していたのでツアー窓口のカウンターでバウチャーを出して搭乗券を入手すると巨大な緑の船体のクルーズ船に乗り込んだ。

さわやかな晴天の下、定刻9時に出発となったBig Catは毎日目にしている大猫のすばやい動きとは裏腹にゆっくりとした速度で波を切っていた。船が進行している間にツアー客は船体後部のデッキでツアーメニューに含まれているスノーケルセットを調達するのだが、配布する側のクルーズのスタッフは客の様子を一瞥すると一瞬でサイズを割り出し、適切なサイズのマスクとフィンを次々に渡して行ったのであった。

約1時間15分の航海でG.B.R.の島としてはめずらしい純サンゴの島グリーン島に到着した。長い桟橋の最先端に横付けされたBig Catを下船するとあたりは一変して青い海のパラダイスとなり、果てしなく透明度の高い海に取り囲まれることになる。

強い風に吹かれながら、まずは島への上陸を急ぎ、ユネスコ世界自然遺産の表示でテンションを上げているとナンヨウクイナという飛ぶことよりも走ることが得意な鳥から歓迎を受けた。近くのビーチではすでにスノーケル教室の看板が掲げられ、多くの観光客はすでに波に身を任せていた。

今回予約したツアーに含まれるメニューとしてグラス・ボトム・ボートがあり、11時45分からの便に乗ることになっていたので島のカフェで軽くコーヒーを飲んだ後、急ぎBig Catに戻り、何故かFTBが乗るべき日本語解説付きの便よりも早い便に乗るはめになってしまったのだが、運転手兼ガイドは自分の英語はSecond Languageだと言い張る日本人女性であったのだ。

強化ガラスを通して見るG.B.R.の景色は目を見張るものがあり、様々な種類のサンゴがガラスのフレームに姿を現しては消えていった。。砂地に生えている水草を主食とする海亀も高確率で見られたのだが、運転手兼ガイドは海亀の姿をロックオンしたまま海上で船を停止させるという高等技術までは持ち合わせていなかったのだ。

約30分のグラス・ボトム・ボートツアーの最後を飾るのは、海上に餌を撒いて魚や鳥を集めてそのじたばたぶりを見物するというものであったのだが、巨大な魚が我先に餌にありつこうとする様はマサに弱肉強食の世界であった。

島に戻ると丁度昼飯時となったので島内随一のファイン・ダイニングであるエメラルド・レストランでスモークド・サーモン乗せベーグルとWagyuという名のオージービーフバーガーを高値で発注した。バーガーが出てくるのに長時間を要したものの、その味は決してWagyuの看板を汚すものではなかったのだ。

空腹も満たされたところでスノーケルギアを片手にビーチに移動し、軽く水中散歩と洒落込むべく海に身を投じたのだが、思ったより海水温が低くビーチの周辺は砂地で魚も泳いでいなかったので早々と撤収を決め込み、次のアクティビティに向けてBig Catへ戻ることにした。

Big Catの後部のデッキはグラス・ボトム・ボートとSemi-Submarineという半潜水艦を密着させて乗客の乗り降りがスムーズに行われるようになっている。スノーケリングで濡れた体を乾かす暇も無く、14時45分発のSemi-Submarineの狭い螺旋階段を下りて最前部のスクリューフロントの特等席に陣取ると早速窓の横に巨大な魚がお目見えとなった。

ツアーガイド気取りの巨大魚は出航から帰還まで休むことなく先頭の窓位置をキープしていたので目が合ったときに少し避けてくれと目配せをしたのだが、最後まで潜水艦の盲導魚の職務をまっとうしてくれたのであった。

G.B.R.の魚の勤勉さに胸を打たれた頃、ツアーは終了の時間となり、15時45分にグリーン島を後にすることになった。グリーン島周辺の珊瑚礁は種類は多彩だが、そんなにカラフルではなかったようだが、松田聖子が推奨するはずの♪青い珊瑚礁♪だけは♪素肌にきらきら♪かがやいているようだった。尚、ビーチの♪渚に白いパラソル♪を立ててリラックスしたり、高級リゾートホテルであるはずのグリーンアイランド・リゾートホテルに宿泊して♪渚のバルコニーで待ってて♪といった待ち合わせ状況を作り出すことも十分可能なので次回訪問の際には検討してみたいと思っている。

定刻17時にケアンズに帰港し、ツアーに大満足だった参加者は下船後ツアークルーとハイタッチを交わしてそれぞれの帰路に着いていた。ホテルに戻って体に付着した塩分を除去すると夕飯時になったのでホリディインのレストランで産地の食材を賞味することにした。特に印象的だったのはカラマリと言う名のイカのリングフライだったのだが、有名シーフードレストランでもカラマリの味はからまわりすることが多い中、ここのイカは味といい、やわらかい食感といいマサに絶品中の絶品と呼ぶにふさわしい代物だった。

7月18日(水)
短い期間であったが、まる3日間でケアンズのエッセンスを吸収出来たのでロビーで呼んでもらったプリウスタクシーで空港に戻り、免税品店で機内食や飲み物が有料のLCC対策の飲食物を仕入れた後、定刻13時発JQ15便は遅れを出すことなく、19時30分には関西国際空港に戻って来れたのであった。関空の551で豚饅をほおばりながら、頻繁に発生する懸念のあるスケジュールの大幅な変更や欠航さえなければコスパの高いLCCでオーストラリアを旅行するのは結構なことだと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 Jetstar = ¥65,220、ANA = ¥25,880
総宿泊費
総Cairns Reef Tour – Full day Green Island Pak3 Semi-Submarine代 AU$117.-

総タクシー代 AU$35.5
総オーストラリア電子ビザ代 US$9.95

協力 ANA、Jetstar、IHG、Big Cat

天国にいちばん近いニューカレドニアツアー

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

というわけで、マサが悪徳官僚に成り下がっているのであれば、将来地獄にいちばん近い島に流れることが約束されているはずであるが、ブレンディコーヒーを飲みながら時をかけてきた原田知世は天国にいちばん近い島を訪れて以来、今だにその若さと美貌を保っている。

今回はその舞台となったニューカレドニアの島々がどれほど天国に近いのかをこの身をもって確認するために赤道を超えてはるばる南太平洋までやって来たのだった。

2012年7月8日(日)

角川事務所が原田知世を擁して開拓したリゾート地であるニューカレドニアへの日本からの直行便のフライトは曜日により成田と関空から出発する便があるのだが、ニューカレドニアの国際航空会社であるエアーカランのWEBサイトを精査しているとソウルから飛んだ方が割安になることが判明したので10:55発NH907便でまずは成田からソウルの仁川に移動することにした。

午後1時過ぎにアジアのハブ空港としての勢力を拡大している仁川国際空港に到着すると空港バスで東大門に向かったニダ。東大門を横目にHotels.comに予約させておいたアパート風の宿であるウルジロコープレジデンスにチェックインすると久しぶりにソウルの街中を散策してみることにした。

東大門はアパレル系の卸売と小売で賑わう一大商業地区で巨大なデパートと商店街では日本よりも勢いを増しているソウルっ子と円高という追い風に乗って日本からやってきた観光客が仁義なき財布の紐の緩め合いに没頭していたのだニダ。

明洞まで移動して韓流系の美女がいないかニカと思って群衆に揉まれてみたのだが、大した成果が見られなかったのでホテルに戻ってテレビを見ることにした。K-Pop系の番組では日本でお馴染みのグループが日本語で歌っていないのに違和感を感じたのでそそくさとNHKにチャンネルを変えて平清盛を見ながら身を清めることにしたスミダ。

7月9日(月)

早朝地下鉄と空港鉄道を乗り継いで仁川空港まで移動するとニューカレドニアの首都であるヌメア行き10:30発SB701便に乗り込んだ。ニューカレドニアはフランス領であるために機内はパリからエールフランス機を乗り継いでやってきたムッシュー、マダム、マドモアゼルで溢れており、すでに高貴なフランスの雰囲気を漂わせていた。

約9時間の長時間フライトでヌメアのトントゥータ国際空港に到着したのは2時間時計の針の進んだ午後10時くらいであった。つつがなく入国審査をパスし、空港のATMで現地通貨であるフレンチ・パシフィック・フラン(CFP)を20,000ほど引き出すと空港送迎サービスのシャトルに3,000フランもの大金を払ってヌメアの中心部に向かった。

agodaに予約させておいたヌメアの中心街に位置するベスト・ウエスタン・ホテル・ル・パリにチェックインしたのは日付も変わろうかという時間帯であったので何はともあれベッドに横になって天国の夢でも見ることにした。

7月10日(火)

ニューカレドニアはシドニーの北東約1970km、南回帰線のやや北に位置している南の楽園であり、細長い本島であるグランドテール島は南太平洋でニューギニア、ニュージーランドに次いで3番目に大きい島である。ニューカレドニアの首都は本島のほぼ南端の小さな半島を覆うように広がるヌメアで地球の裏側にあるもうひとつのパリとも称されるほど洗練された雰囲気を持っている町である。

プチ・パリとも言われるヌメアの食生活を支えている朝市に朝一から繰り出してみると、そこには新鮮な魚やカラフルな果物や野菜が高値で取引されているのだが、物価レベルは本国のフランスや日本よりも若干高いのではないかと感じられた。

ヌメアのへそであり、人々の憩いの場所となっているココティエ広場を通り過ぎて自動車通り沿いを北東に向かって歩いていると海沿いにモクモクと煙を発している巨大な工場が現れた。これはニューカレドニアの経済を支えるニッケル工場で日本が輸出先の筆頭になっているという。おそらくマサが桜宮造幣局で500円硬貨を製造していた時の原料となっていたニッケル銅のニッケルはここで発掘されたものだと予想される。

坂道を数キロ駆け上がると標高167mのモンラベルの丘に到着した。ここからはヌメアの町並みだけでなく、ニューカレドニア南部を取り巻く環礁なども遠巻きに眺められ、ヌメア屈指の展望台として格好の労働者の休憩場所になっているのである。

動物園、植物園、自然公園を融合したニューカレドニアを代表する施設が森林公園(CFP400)として地元民と観光客の憩いの場所になっているので入ってみることにした。動物園エリアにはニューカレドニアの島々をはじめ、世界各国から取り寄せられたカラフルな鳩、インコ、オウム、コウモリ等がカゴの中で自由を奪われているのだが、孔雀だけは自由に園内を動き回る権利が与えられているようだった。

ここでの最大の見ものはニューカレドニアの国鳥カグーであるのだが、空を飛べない奴らは絶滅の危機に瀕しているため保護が必要で、犬猫のような獣系の鳴き声を発しながら家具のない飼育エリア内を元気に走り回りアイドル的な人気を誇っているのだ。

ヌメア中心部のベスト景観スポットとしてエフ・オー・エルの丘が小高く盛り上がっているので登ってみると丘の上のショッピングセンターは閉鎖されている様子で、ここも少なからずヨーロッパの不景気の影響を受けている現実が示されていた。しかし、丘の上からモーゼル湾を望んだ絶景は普遍の美しさでこの風景が観光パンフレットに使われているのもうなずけるのだった。

丘を降りて2本の尖塔が天を指すセント・ジョセフ教会を礼拝し、さらに下ってふと教会の方を見上げるとその背後のエフ・オー・エルの丘の上に立つ潰れたショッピングセンターが助けを求めているように感じられてならなかった。

ヌメアの市街地の先にアンスバタというビーチリゾート地があり、今日はそのエリアに宿泊する予定になっているのでリゾートホテルとショッピングセンターの立ち並ぶ楽園を目指して歩いていた。道行く途中でタバコを所望する原住民に断りを入れると奴は地団駄を踏んで悔しがるオーバーアクションを示したものの何とかagodaに予約させておいたホテル・ル・サーフにたどり着いた。

チェックインするとほどなくサンセットが迫ってきたのであわただしくビーチに飛び出し、太陽が水平線に沈むのを見守っていた。太陽が沈んだ瞬間に緑色の光を見ると幸せになれるという伝説があるため、まばたきもせずに西の空を見守っていたのだが、心なしか淡い緑が私のまぶたを横切った気がして仕方がなかったのだ。

7月11日(水)

早朝ホテル・ル・サーフをチェックアウトして目の前のバス停からバスに乗り、ヌメアの中心部に向かった。そこからバスを乗り換えて国内線専用のマジェンタ空港に向かう腹積もりだったのだが、バスがタイムリーに来なかったので3km程の道のりを歩いて8時前にマジェンタ空港に到着した。9:00発Air Caledonieが運行するTY307便に乗り込み、離陸すると眼下にヌメア周辺の環礁の絶景が広がった。

ヌメアの環礁を見た興奮も覚めやらぬ間に飛行機は高度を下げ、雲が切れるとそこには緑色のヤシの林と抜けるような青のグラデーションとどこまでも続く白い砂浜がまるで天国への扉が開かれたかのようにその全貌を露にした。時をかける少女の尾道とともに原田知世の聖地と称されるはずのウベア島こそマサに「天国にいちばん近い島」と定義されているのだが、この島はヌメアから北に40分程飛行して到着する半月形の陸地と世界遺産に登録された環礁が織り成す夢の世界である。

何もない典型的な離島の空港であるウベア空港に10時くらいに到着するとこの島での宿となっている民宿ココティエのバンに乗り込み、島の最南端に向かった。ひと口にウベア島といわれている所は、中央がくびれた細長いウベア島と南端のムリ島から成り立っているのだが、ココティエはムリ島に位置しているので橋を渡ってしばらくするとムリ湾に面する質素な宿に到着した。

ヌメアではたいていどこへ行っても英語が通じたのだが、ここではフランス語しか通じなかったため、宿に到着し、部屋があてがわれると後はひたすら放置プレイとなったのだった。とりあえず、宿の目の前のムリのビーチに出てみたのだが、そこには真っ白なパウダーサンドのビーチがはるか天国に向かって続いているかのようであった。

宿に向かう途中ですでに「天国にいちばん近い島」におけるウベアでのロケ場所の目星をつけておいたのでさわやかな風を受けながら徒歩でまっすぐ伸びる一本道を一時間程トボトボと歩いていた。観光地にありがちな商業主義的設備が一切ない素朴な島で貴重なカフェを見つけたので鳥肉とご飯の定食を食っているとそこで養われている白猫も海と同じ色の目を持っていることが確認されたので、これはマサに天国にいちばん近い猫に違いないと思われた。

ウベア島とムリ島を無理やりつないでいるムリ橋は1981年に架けられたものであるが、この橋のあたりから見るレキン湾や対岸のファヤワ島などがウベアで最も美しい所といわれている。

海の色は雲の流れとともに刻々と色を変え、そのまま紺碧の空まで繋がっており、今まで見たこともないような美しい青に包まれていると昇天しそうになったので意識をなくす前にココティエに引き上げることにした。

ココティエのすぐ先に映画にも登場したカラフルな教会が南洋杉の並木の向こうに静かに建っていた。さらに近辺を散策しているとすでに天国に召された方々はビーチ沿いのお墓に埋葬されている様子で、十字架がきれいな花々で彩られているところからこの場所と天国との距離がいかに近いかを実感させられるのだった。

7月12日(木)

昨日の放置プレーで宿主とほとんどコミュニケーションを取れなかったため、予約が必要な夕食を食い損ねたためビールで空腹をしのぎ、今朝は今朝でペプシの炭酸で胃の容積を満たすと颯爽と朝の散歩に繰り出すことにした。

ムリ島の最西端のムリ岬まで足を伸ばしてみたのだが、そこはムリ・ビーチで見た白い砂浜とは異なるゴツゴツした岩礁地帯で海の色がより透明に見えるため、心が洗濯板で洗われるような感覚に陥ってしまうのだ。

ムリ岬から戻る途中の民家に豚を囲っている柵があったのだが、そこで生を受けた子豚は小回りを利用して柵の間から自由に出入りを繰り返し、親豚をやきもきさせていた。豚を適当におだてた後、民宿に戻ると依然として放置プレイが継続されていたので天国のようなビーチを眺めながら空港への送迎の時間が来るまで十分に現実逃避させていただいた。

放置プレイの割には予約や客の管理がしっかりしているココティエのバンで空港まで送ってもらうと16:00発TY316便に乗り込み、名実ともに「天国にいちばん近い島」であることが実証された夢の世界を後にした。

5時前にヌメアのマジェンタ空港に戻り、引き続き17:50発TY417便に乗り込むとニューカレドニアで最も人気のある離島と言っても過言ではないイル・デ・パンに向かった。30分程度のフライトで全く何もなかったウベア島の空港よりもずいぶん商業化されているイル・デ・パンの空港に到着すると迎えに来ていたホテル・コジューのバンに乗り、そのわずか30分後にはすでにチェックインを果たしていた。英語が通じるホテルの受付嬢が気を利かせて時間外にも関わらず夕食の予約を勧めてくれたので今夜はホテルのレストランで割とまともな食事にありつけることが出来たのであった。

7月13日(金)

フランス語で松の島という意味を持つIle(島)Des(の)Pins(松)をヨーロッパ人として初めて訪れたのはキャプテン・クックと言われている。おっちょこちょいなキャプテンはこの島に群生している杉の木を松と勘違いしてイル・デ・パンと名付けたというスギちゃんもくっくっと笑いをかみころさなければならないほどのワイルドなエピソードが残っている。ところで、朝食でオーダーしておいたコンチネンタル・ブレックファストは特に「パンいるで!」とも頼んでないのにテーブルにはパンしか並んでなかったのだ。

今回宿泊させていただいた島の西部のワメオ湾のビーチ沿いに立つホテル・コジューで椅子の硬いマウンテンバイクをレンタルすると島を1周する全長40kmの舗装道路を通ってイル・デ・パンの見どころを一通りなぞってみることにした。この島の観光の中心は南部にあるクト湾とカヌメラ湾周辺で、このあたりにホテルや民宿が集まっている。クト湾にはヌメアからのフェリーが着岸する桟橋があり、それを取り巻く海は世界遺産の環礁にふさわしく、底抜けの透明度を誇っていた。

クト湾に隣接するカヌメラ湾はさらに景観が美しく、波に侵食されて空中に浮いているかのように見える小島まではパウダーサンドの細道が続いていた。南半球に位置するニューカレドニアの季節は冬で、この時期の最低気温は15°程度まで下がるために水温が低いので気軽にスノーケリングをする気分にはならないのだが、及び腰の日本人観光客を横目に若いヨーロッパ人はビキニで水面に浮いていたのだった。

岩場の近くは水生生物の格好の隠れ家と見え、カラフルな熱帯魚が元気に泳ぎ回っていた。また、自給自足で海から食材を得ているはずの原住民はルアーを海に放り投げてうまそうなイカを見事に引っ掛けやがったのだ。

クト地区から4km程東に進んだ島の南端にある集落はバオというイル・デ・バンの一番の中心となる村である。最南端のセント・モーリス湾のビーチには最初のカトリック教徒が上陸したという記念碑がうやうやしく建てられている。記念碑の周りをメラネシアの魔除けの木彫りが取り囲み、一種異様な風景に見えるのだが、木彫りの魔除けの表情はどれも個性的で微笑ましいものであった。

バオ村の中心には立派な教会や素朴な青少年を教育する学校もあり、ここで古来からのメラネシア文化とフランス文化が融合され、新たな歴史と伝統を作り上げているのであろう。

過酷なサイクリングによりダメージを受けている股間とケツに鞭打ってバオ村から一気に島の中央まで駆け上がり、そこから島の東部のオロ湾に向かった。島随一の☆☆☆☆☆ホテルであるル・メリディアン・イル・デ・バンを擁するオロ湾にはピッシンヌ・ナチュレルという天然のプールがあり、スノーケリングのメッカになっているのだが、ローシーズンのためか、ひとけがなかったのでそそくさと撤収することにした。

今でこそ「海の宝石」という異名で多くのリゾーターを集めているイル・デ・パンであるが、かつてフランス人たちはこの島を政治犯の流刑地として多くの囚人を集めていた。囚人は主にパリ・コミューン(パリの革命的自治政権)の政治犯で、当時のオルタンス女王の同意により、島の西部は流刑者が、原住民は東部に住むといった取り決めがなされていたのである。そのため、島の西側には流刑地の跡や共同墓地が数多く残っているのである。

夕暮れ時にホテル・コジューに帰還すると丁度サンセットが佳境を迎え、雲と水平線の隙間からわずかに太陽が沈んでゆく姿を拝むことが出来た。6時前に送迎のバンに乗り込むと空港まで移動し、18:50発TY418便を静かに待っていた。結局出発時間はこれといったアナウンスもなく1時間もの遅れを出したため、ヌメアに到着した時間は8時をかなり過ぎた頃であった。

マジェンタ空港から明朗会計で名高いタクシーに乗り、ベスト・ウエスタン・ホテル・ル・パリまで送ってもらうと隣のカフェで高値のサラダを食いながら時間潰しをすることとなった。9時過ぎにあらかじめ予約していたトントゥータ国際空港行きのシャトルバスに乗り込むと1時間弱で空港に到着し、いそいそとチェックインをした後、土産のコーヒーを買ってフライトの時間が来るのを待ちわびていた。

7月14日(土)

00:05発SB700便は定刻通りに出発すると行きの飛行機で会った時には私に韓国語で話かけていた韓流スチュワーデスが、飲み物サービスの時に一瞬躊躇したものの帰りの便ではすべて英語で話すという学習効果を発揮しながら9時間余りを機内で過ごしていた。

定刻の8時前に仁川国際空港に到着し、入国すると列車で金浦国際空港に移動した。12:40発NH1162便は定刻通りに出発し、3時前には羽田空港に到着となった。東京には夢の島があるが、天国とは程遠いと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥10,230、Air Calin = W1,202,500 (W1 = ¥0.07)、Air Caledonie = CFP41,080 (CFP1 = ¥0.83)

総宿泊費 ¥19,025、CFP10,960

総ソウルバス代 W10,000

総ソウル地下鉄・鉄道代 W8,350

総ニューカレドニアバス代 CFP400

総ニューカレドニアタクシー代 CFP1,100

総空港送迎代 CFP9,800

総レンタサイクル代 CFP1,500

協力 ANA、Air Calin, Air Caledonie、Hotels.com、agoda、Caledonia Spirit (http://www.caledoniaspirit.com)

モアイとの出会いを求めるイースター島ツアー

チリも積もれば山となるというが、最近チリで大爆発を起こした火山から吹き出た塵はアンデス山脈に降り積もり、さらなる大きな山を形成していくことであろうが、震災からの復興も一握の塵程度の努力の積み重ねが大切に思える今日この頃である。ところで、昨今の情勢を省みると政局は混迷し、神がかり的な活躍を期待されたスポーツチームや選手は低迷し、日本を勇気付けて一つにするどころか被災地にストレスだけを与えている低たらくである。このような閉塞感を打開すべく、ハチ公と並んで渋谷の待ち合わせの聖地となっているモヤイ像にモヤモヤをぶつけにいっている輩も多いと思うが、FTBはそのパクられ元のモアイ像との出会いを求めてはるか太平洋の孤島まで遠征に出ることを決意したのだ。

2011年6月10日(金)

内閣不信任案の否決を尻目にAKB48の総選挙も無事終了し、日本の伝統文化である「オタク」を復興の起爆剤にすべく秋元康に福島県双葉町でFTB48の立ち上げを嘆願しようと考えているのだが、フラガールを生み出した福島県という土地柄だけに、東京電力の婦子女を募集すればこの計画もなまじ実現性の薄いものではないものと思われる。

それはそれとして、午後5時10分成田発ロサンゼルス行きNH006便は久々にエコノミークラスが満席になったというこじ付けでビジネスクラスへのアップグレードを果たした私を乗せて定刻通りに出発し、約10時間のフライトで午前11時過ぎに現地に到着した。その後2時40分発のAA2450便に乗り換え、午後8時前にアメリカン航空の本拠地であるダラス・フォートワース空港に到着すると、さらにAA940便に乗り換えて10時間以上を空の上で過ごすことと成った。

6月11日(土)

初夏のアメリカから赤道を超えて初冬のチリの上空に来たせいか午前7時を過ぎても窓の外は暗いままだった。定刻より少し早い午前8時前にようやくチリの首都サンティアゴのアルトゥロ・メリノ・ベニテス国際空港に到着すると何故か手元に残っていたブラジルの通貨であるレアルをチリ・ペソに両替し、空港バスに乗ってセントロ方面に向かった。

旧市街へと差し掛かる大通り沿いがバスの終点となっていたので、そこで下車すると左右に立ち並ぶ高層ビルや広場を眺めながらホテルに向かって歩いていた。楽天トラベルに予約させておいたホテル・リベルタドールには午前10時半くらいに到着し、1泊\3,300という安値ながらすぐにチェックインさせていただけたので部屋に引き篭もって横になっているといつのまにか意識を失っていた。

気がつくと夕闇迫る午後5時になってしまっていたので疲れた肉体に鞭打って街に繰り出して見ることにした。セントロの東にこんもりとした緑濃い丘が膨らんでいたので門番の指示で名前を登録させられた後、高台に登ることとなった。サンタ・ルシアの丘と呼ばれるこの場所はサンティアゴの基礎を築いたスペイン人征服者バルディビアが、抵抗する先住民に備えるために要塞を設けたのが始まりであるが、トワイライトのこの時間はアンデスの恋人たちの格好のたまり場となっているのだ。

わずか80km程しか離れていない6000m級のアンデスの峰々が夕日に赤く染まるとほどなくしてサンティアゴの町にイルミネーションが輝き出した。しかし、サンタ・ルシアの丘は治安維持のため冬季は午後7時までに撤収しなければならないので夜景を満喫出来る時間はわずか30分程度に限られているのであった。

サンタ・ルシアの丘を駆け下り、旧市街の中心に舞い戻るとにぎやかな通りに囲まれながらも市民の憩いの場所となっているアルマス広場に週末の喧騒を味わいに立ち寄ることにした。広場のステージではバンドが演奏し、陽気なチリアンがリズムに合わせて歌い踊っていたのだが、広場に面したサンティアゴ大聖堂の内部では厳かなミサが行われており、神父の説教の声と整然とした聖歌のしらべが満ち溢れていた。

6月12日(日)

まだ闇も深い早朝5時過ぎにホテルをチェックアウトすると防寒着を来た暴漢に襲われないように辺りに注意を払いながら空港行きのバス乗り場に向かった。6時のバスに乗り込み、空港に到着すると8時近くになってやっと東の空から太陽が昇ってきた。

午前8時20分発LAN航空が運航するLA841便に乗り込み、サンティアゴを離陸するとアンデスの絶景を尻目に飛行機は太平洋の上空に差し掛かった。これより3700kmもの航路を5時間以上かけての長旅となるため乗客はそれぞれビールやチリワイン等を痛飲しながら狭い機内で英気を養うことと成る。

酔いも一回りして目が覚めた頃には眼下に真っ青な海に囲まれた緑の大地が広がっており、2時間時計の針を戻すと正午過ぎにイスラ・デ・パスクアのマタベリ空港に到着した。イスラ・デ・パスクアは、1888年にチリ領になったときに付けられたスペイン語の名前で、英語でイースター島と呼ばれる。1722年のイースター(復活祭)にこの島にたどり着いたオランダ人が付けやがった名前だそうだ。

空港のロビーに出ると花輪を手にした数多くの出迎え人が手ぐすねを引いて宿泊客を待っていたのだが、私はまだ宿を決めていなかったので人口4000人のハンガ・ロア村を目指して1kmの道を歩くことにした。空港の敷地を出るといきなり居酒屋甲太郎という日本食屋に直面し、ここは単なる日本の離島ではないのかという不安に駆られたものの、気を取り直して村の中心に踏みいった。

村内にはそれなりの数のホテルや民宿が営業しているのだが、秘境を髣髴とさせる造りが目に付いたホテル・マナバイに飛び込むとローシーズンで部屋がたくさん空いているようだったので首尾よくチェックインを果たすことに成功した。

まだ時間もお昼過ぎだったので、早速島の雰囲気に慣れるために軽く村内を練り歩いてみることにした。村にはお土産物屋だけでなく、スーパーマーケットやレストラン、教会、学校等の生活に必要なファシリティは揃っているのを確認出来たので、イースター島の代名詞となっているモアイを求めて沿岸部を散策することにした。

周囲わずか58kmのイースター島は火山島で沿岸部は溶岩が流れて固まったゴツゴツした岩で覆われている。世界自然遺産に登録されているこの小さな島に年代も大きさもまちまちの900体以上のモアイが存在しているのだが、最初に私の前に姿を現したのはアフ・リアタ遺跡に鎮座するドカベン系のモアイであった。ちなみにアフとはモアイが立っている台座(祭壇)のことでモアイ以上に神聖なものとされているのだ。

さらに村に程近い沿岸部を歩いていると裸で釣りをしている原住民や東映の三角マークがドッ・ドッ・ドッと押し寄せてくるような荒波に挑戦するサーファーの姿を数多く見かけた。また、神聖なモアイの麓でバーベキューをしている不埒な輩も見受けられた。

点在するモアイの中で弱い者は倒されたままになっており、明らかに近年の技術によって作られた最新版が金属製の台座の上で目を剥いて立ちはだかっている姿も確認することが出来た。尚、最新版とはいえ、渋谷のモヤイ像のような端正な顔立ちではないのでモヤモヤする感覚は否めないのは確かであろう。

墓場を抜けるとイースター島の見所のひとつであるタハイ遺跡に到着した。ここは1968~1970年代にかけて、アメリカの考古学者ウイリアム・ムロイ博士によって復元された儀式村の跡であり、5対のモアイが並ぶアフ・バイウリ、独身のモアイが立つアフ・タハイ、唯一イミテーションの眼がインストールされたモアイの立つアフ・コテリクと3つの祭壇があるのだ。

タハイ遺跡はイースター島で最高の夕日の名所となっており、三々五々集まってきた観光客は沈み行く太陽に照らされるモアイ達を眺めながら遥かなる郷愁に想いを馳せているかのようであった。

6月13日(月)

冬のイースター島では午前8時を過ぎてようやく明るくなり、8時半からホテルで供される朝食を済ませた後、タハイ遺跡まで軽く散歩することにした。昨夕の逆光とは異なり、朝日を受けたモアイ像はその2頭身半の巨体の輪郭をくっきりと現していた。

イースター島2日目の今日は島の全容を解明するための足が必要だったのでマウンテンバイク、スクーター、レンタカー、四輪バギーの中からヤマハのスクーターをチョイスし、$32 / 8時間でレンタルすることにした。ハンガ・ロア村を出て内陸部に向かうと道は舗装されていない悪路になったのだが、荒涼とした大牧草地帯の真ん中に突如として海を見つめて立つモアイの集団が姿を現したのだった。

1960年、ウィリアム・ムロイ、ゴンザロ・フィゲロ両氏によって復元されたアフ・アキビに立つ7体のモアイはヒバの国の7つの部落の7人の像といわれている。また、モアイ像の後ろからは石組みと人骨も発見され、墓として利用されていたことを思わせる動かぬ証拠も抑えられているのだ。

ヤマハのスクーターでごろごろした石が転がる悪路の滑りやすい斜面を下っていると急にバランスを失い、転倒を避けるために右足で地面を支えた際に、肉離れを起こしたときに聞きなれている「ブチッ!」とした快音を発生させてしまった。このトラブルにより、モアイの謎の解明も志半ばで断念せざるを得ないのか!?という覚悟も一瞬よぎったが、歩く速度を4分の一に落とせば何とか右大腿部裏筋も機能するようだったので調査を強行することにした。

火山島であるイースター島には無数の洞窟や穴があるのだが、あるものは宗教的な儀式に使われ、あるものには穴にたまった土で食用になる植物を育てた痕跡が残っている。最大の規模を誇るアナ・デ・パフは長さ910mを誇っており、今でもアボガド、バナナ、タロイモなどの植物が茂っている。

1300年代からモアイの頭にはプカオという赤色凝灰岩で作られた帽子や髪飾りのようなものが盛られるようになったのだが、プカオはプナ・パウという遺跡で切り出されて運ばれたと言われている。ここの高台は島全体を見渡すビューポイントにもなっており、多くの観光客が牧歌的な風景を堪能していたのだが、切り出し中のプカオはその辺にも転がっており、それぞれシリアル番号で管理されていたのだった。

プナ・パウから下山すると島を縦断する状態の良い舗装道路に出たので一気に島の北岸のアナケナビーチまでやってきた。ビーチには1961年にタヒチから運ばれたココヤシが生い茂っており、温暖な気候から海水浴にも絶好のスポットとなっている。入り江を望む丘の上には先ほど現場を確認したばかりのプカオを載せた7体のモアイが立ふさがっていたのだが、足が痛かったのでとりあえず遠巻きに眺めておくにとどめてしまった。

舗装道路を全速力でハンガ・ロア村まで取って返し、空港近くの唯一のガソリンスタンドで満タンにしたスクーターを返却した後、傷めた足を引きずりながらもアフ・タハイまで引き寄せられて行った。サンセットの景色は昨日にも増して輝いており、愛想の良い野良犬たちも人類の気を引こうと寄り添いながらもモアイの背景に沈む夕日に見入っていた。

夕食時には島でも高級カフェ・レストランの部類に入るであろう店に入って意味のわからないスペイン語のメニューの中から手頃な価格の物を指差し発注すると高級そうなシーフードが目の前に現れた。皿の中央に鎮座する魚はミディアムレアに焼かれており、それを取り巻くソースはこの上なく美味だったのだ。

6月14日(火)

昨日傷めた足が5%程度の回復を示していたので再びスクーターに足をそろえて一気に島を縦断することにした。

アナケナビーチにはホツマツアの像といわれる顔の短いモアイが立っているのだが、これは島で最も早く1956年にヘイエルダールと原住民が立て直した者である。しかも、モアイをどのように立てたかを試したものということで、12人がかりで18日もかかったそうだ。

1978年に復元されたアフ・ナウナウに有るプカオを載せた7体のモアイは砂に埋もれていたため保存状態が良好で背中に彫られた模様やふんどしもほんのりと残っているのだ。

アナケナビーチを後にして海岸沿いを走っていると放牧された集団の馬がランダムに草を食んでいるので減速を余儀なくさせられるのだが、その向こうには今まで目にしたことがないようなモアイの集団が海風を背に受けて立ちはだかっていた。

島最大の15体のモアイが立つアフ・トンガリキの再建は1993年~1995年にかけて日本企業の援助によって行われており、その偉業を称えるクラックの入ったプレートが高性能クレーンの写真と共に誇らしげに掲げられていた。

ちなみに再建を請け負った会社は四国の高松に本社を構えるタダノという大手クレーン会社で再建に際して「特命係長 只野仁」に匹敵するプロジェクトが組まれ、その模様は同社のHPで詳細に紹介されているのだ。http://www.tadano.co.jp/tadanocafe/moai/about/moai/index.html

尚、タダノが負担した再建に関わる費用は1億8千万円と言われているが、タダノはただのボランティアという立場に甘んじていたため、彼らには一銭の見返りも与えられていないのだった。

アフ・トンガリキから離れた場所でポツンと独身で立っている1体のモアイはいったい何だろうと思っていたのだが、これは1982年に日本に出張し、東京と大阪で展示された由緒正しい像であった。また、アフ・トンガリキの敷地に転がっている石にはマケマケ神や魚等の岩絵が描かれているのだった。

マサよ、君はモアイの量産工場がISO9001の認証が受けられるはるか以前に稼動していたのだが、今では箱根彫刻の森美術館のようにモアイが山間に点在する廃墟に成り下がっている光景を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、イースター島ツアーのハイライトとも言えるモアイの切り出し場ラノ・ララクがアフ・トンガリキを見下ろす場所にそびえているので謹んでモアイの要塞に足を踏み入れさせていただくことにした。エントランスでラパ・ヌイ国立公園の入場料$60を支払う際に日本語を一生懸命学習しようとしているイースター原住ギャルから中途半端な日本語での注意事項と説明を受けた後、山に残る遺跡を散策することとなった。

ラノ・ララクのトレイルは火山の火口の周囲とモアイいっぱい地帯の二つに分かれているのでまずは火口の周囲を巡って見ることにした。水を湛えた火口を取り巻く斜面に、完成して斜面から切り離され、出荷直前の状態になっているモアイが工場の操業停止によりキャンセルの憂き目に遭い、むなしく前を見つめている姿はマサに哀愁を感じさせるものがあった。

モアイいっぱい地帯にはマサに凝灰石から切り出されようとしている製造途中のモアイが多数横たわっており、島最大のエル・ヒガンテと呼ばれるモアイは21.6m、160トンに達するとも言われている。

ここにあるモアイはモアイ製作時代の後期に作られていた代物なのでサイズが大きいのが特徴であるが、一体のみ正座した珍しいモアイ・トゥクトゥリがあごひげをたくわえて礼儀正しく大空を見上げていた。

ラノ・ララクの監査を無事終了すると島の西南まで一気に突っ走り、オロンゴと呼ばれる聖域に辿り着いた。モアイ倒しが始まった17世紀以降、モアイ信仰に代わって登場したのが「マケマケ信仰」「鳥人儀礼」であり、その鳥人儀礼がここオロンゴで行われていたのだ。

南太平洋の風が吹きすさぶラノ・カウという火山の目の前にモトゥ・ヌイというグンカン鳥が営巣する島があるのだが、そこまで泳いでグンカン鳥の卵を最初に持ち帰った上官が「鳥人」と呼ばれ、以後1年間全島を治める権利を有することになるのだが、あくまでも笑い飯の漫才のネタにある顔が鳥で体が人間になっている「とりじん」とは異なり、「人と鳥の境目をみせてあげよう!」という脅し文句は使えないのである。

オロンゴ岬の先端の岩には鳥人のレリーフが数多く刻まれ、鳥人儀礼の際に使われたとされる53の石室も復元されている。また、ラノ・カウ火山の火口湖は直径1600m、水深11mを誇り、島の貴重な水源にもなっているのである。

オロンゴ遺跡の麓の沿岸部にアナ・カイ・タンガタと呼ばれる海に面して口を開いた20畳ほどの広さの食人洞窟がある。天井には鳥の絵が描かれており、この場所で晴れて鳥人になった上官が戦って敗れた部族を儀式として食人したと伝えられているのだ。

マタベリ空港に程近い南海岸にアフ・タヒラという遺跡がある。ここには顔を下にして地面に倒れたモアイが数体あるのだが、アフをよく見るとその石組みはインカの石組みのように全く隙間がないのに驚かされる。そのため、イースター島文明とインカ文明との関連性さえ取り沙汰されているのだった。

スクーターのガソリンが余っていたので、アフ・タヒラから南海岸に沿って一気に東海岸に舞い戻り、15体のモアイでお馴染みと成ったアフ・トンガリキを通り過ぎてテ・ピト・クラというパワースポットに到着した。ここの海岸に、まるでやすりでもかけたようにツルツルの表面が眩しい丸い石が鎮座している。これがテ・ピト・クラと呼ばれる石で直径98cm、重さ82トンを誇っている。この石には磁場があり、不思議なパワーを秘めているので観光客がこぞってそのパワーにあやかるべく、しきりに石を撫で撫でしているのだ。

今日の夕食は空港近くのモアイに守られたカジュアルレストランで適当に指差し発注すると白身魚の輪切りをソテーにした焼き魚がフライドポテトと共に出てきたので、この島には豊富な魚料理のメニューがあり、決して侮ってはいけないと肝に銘じたのだった。

6月15日(水)

イースター島滞在最後のこの日は、通り雨のおかげで発生した虹をバックにしたタハイ遺跡のモアイ達を眺めながら、その近くのイースター島博物館に向かった。

たまたま社会見学に来ていた学童で賑わっているイースター島博物館(CLP1,000)ではモアイ像がどのように作られ、どのように運ばれたのかなどを学ぶことが出来る。特にモアイの運搬に関しては、これまで宇宙人説や自立歩行説といったモアイ自体がも~あいそをつかしてしまうほどの愚説を唱える輩が多かったが、ここでは科学的根拠に基づいた方法が詳しく説明されているのだ。

博物館での最大の目玉はそれをはめ込むことでマナ=霊力が宿ったとされるモアイの眼である。量産出荷された当時のモアイにはすべて眼が入っていたのだが、モアイを怖いと思った侵略者は、その霊力の影響を避けるためにモアイを倒したり、眼を取り去ってしまったと言われている。

ホテル・マナバイをチェックアウトする際にホテルのオーナーからモアイのちゃちなネックレスを記念にいただいた。午後1時発のLA842便は30分程遅れて到着し、そのまま折り返しでサンティアゴに向かって離陸となった。遠ざかるイースター島を眼下に、モアイにはも~会いに来ることはないだろうと思いながら、機内で紅白のチリ・ワインをいただいて顔色を変化させているとサンティアゴに着いた時間は午後9時前になっていた。バスと徒歩で楽天トラベルに予約させておいた機能的なCESAR BUSINESSホテルにチェックインすると2軍のイースタン・リーグに落とされたような一抹の寂しさを感じながら夜を過ごしていた。

6月16日(木)

サンティアゴ旧市街のはずれにあるCESAR BUSINESSをチェックアウトし、新市街を目指して東に向かって歩いているとおびただしい数の学生集団が何らかのデモで街中を練り歩いていた。

新市街にはこれといった見所がなかったので、セントロの北東にそびえる丘陵地帯を公園にしたメトロポリタノ自然公園に足を引き摺りながら這い上がっていくことにした。標高が上がり、時間が経つにつれてサンティアゴ盆地を覆っていたスモッグが晴れ、雄大なアンデス山脈が姿を見せ始めた。

メトロポリタノ自然公園の中心は、丘の上に立つマリア像なのでひたすらそれを目指して歩いていた。標高880m(市街地との標高差は288m)の頂点に「アンデスとは何ですか?」とでも言っているかのように両手を広げて立つマリア像は、高さ14m、総重量は36.6トンに及ぶ巨大なオブジェで1908年に完成している。

像のすぐ下には展望広場のみならず、何らかのコンサートも出来る会場や教会まであるので観光客や信者にとっての格好の憩いの場となっているのだ。

負傷したにもかかわらず酷使に耐えた足をいたわるためにケーブルカーで下界に下り、国立美術館の前に立ち塞がっている体の半分が足から成る馬に目を奪われながら旧市街に戻ってきた。

日本に匹敵する漁業大国チリの醍醐味を味わうために中央市場で魚介類の見学をさせていただくことにした。市場内には食堂も多く、魚を物色していると日本語で「ウニ、ウニ!」と言いながらメニューを持って擦り寄って来る客引きに対して最初はトゲのある対応しか出来なかったのだが、意を決して一軒の食堂に入ってみることにした。当然のことながら、何を発注していいのかわからないのでおっさんの薦めで豊富な魚介類が煮込まれていい出汁が出ているスープを食って溜飲を下げておいた。

チリから撤収しなければならない時間が迫ってきたので街中でダンスを楽しむチリアンを尻目に旧市街を抜け出してバスで空港に帰って行った。午後8時50分発AA940便は定刻通り出発し、三国志をハイペースで読みながら、10時間もの時間を機内で過ごすこととなる。

6月17日(金)

午前6時前にダラス・フォートワース空港に到着し、AA2407便に乗り換えて3時間のフライトで9時前にロサンゼルスに辿り着き、さらに午後12時55分発NH005便に乗り換えて帰国の途に着いた。機内でALI(アリ)というモハメド・アリの波乱万丈の人生を描いた157分の長編映画を見て時間を潰すことにした。当然アントニオ猪木との異種格闘技を中心としたストーリーになっていることを期待したのだが、この映画はハリー・フォアマンとザイールのキンサシャで対戦し、ヘビー級王座を奪回したところで終わってしまったので、思わず「そんなのアリえね~」と叫びそうになってしまった。尚、猪木のテーマソングであるボンバイエが元々はキンサシャで「アリ、ボマイエ!」と声援されていたことが起源になっていたことを思い知る羽目となったのだった。

6月18日(土)

午後4時半に成田空港に到着し、渋谷のモヤイ像前で待ち合わせて帰朝報告をするまでもなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥47,250, AA = ¥118,030, LAN = $882.04

総宿泊費 ¥10,900、CLP162,000(朝食付き)

総空港バス代 CLP5,600 (CLP1 = \0.17)

総タクシー代 CLP2,000

総ケーブルカー代 CLP1,000

協力 ANA、アメリカン航空、LAN航空、楽天トラベル

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in パラオ

元気ですかぁ~ マサよ! 元気があればっ、なんでもできる!!

というわけで、586の島々からなるパラオにアントニオ猪木がオーナーになっている島があり、新日本プロレスのトレーニングをその島で行った際に猪木が押し寄せる波に向かって延髄斬りをかましている光景が今も心に焼き付いている。このパフォーマンスに触発され、いつかはパラオに上陸しなければならないと考えていたのだが、今回ついにボンバイエの魂と燃える闘魂を注入するためにその計画が実行に移されることとなったのだ。

2010年7月17日(土)

上野・成田空港間をわずか30分で結ぶ新スカイライナーが本日開通とあって、同じ路線上の単なる空港行き特急である成田スカイアクセス特急でさえ、その勇姿をカメラに収めようと先頭車両でベストポジション争いをしている鉄っちゃんで大変混雑していた。

午前11時5分発コンチネンタル航空CO962便グアム行きに乗り込むと1時間の時差を超えて午後3時半過ぎにグアムに到着し、ラウンジで回線品質の悪いComplimentary WiFiと格闘しながら時間をやり過ごしていた。乗り継ぎ便となる午後7時35分発パラオ行きCO953便は定刻通りに出発し、途中Yap島を経由して午後10時過ぎにパラオ国際空港に到着した頃には日本との時差は解消されてしまっていた。

空港では本日宿泊するホテルの有料送迎サービスのバンが迎えに来ていたので早速乗り込むと25分程度でパラオの中心地であるコロール・ダウンタウンにあるパレイシア・ホテルに到着した。ホテルに常駐する日本人スタッフによりつつがなくチェックインを果たし、最上階である6階の部屋に入ると湿気の多い南国リゾート特有のほのかなカビの香りに包まれて一夜を過ごすこととなったのだった。

7月18日(日)

パラオを代表するモダンな大型リゾートホテルであるパレイシア・ホテルのレストランで中国人団体客の圧力と闘いながら朝食をすますと照りつける太陽の下、コロール・ダウンタウンの散策に繰り出すことにした。コロール島は小さな村々から構成されていて、パラオの総人口約2万人のうち約7割が居住している共和国の中心であり、メインストリートには学校、ホテル、デパート、土産物屋やレストランが軒を並べている。

早速パラオの歴史を学習するためにミクロネシアで最も古い博物館であるベラウ・ナショナル・ミュージアムに向かった。しかし、日曜日は休館日となっているらしく、侵入を拒否されたので外部に展示されている古来より伝わるパラオの集会所のバイと野ざらしになっている日本統治時代の遺物を見物するにとどまってしまった。三角屋根が尖っているバイの内部を見学しようとしていると気の弱そうな犬が遠吠えで仲間を呼び寄せて不法侵入の嫌疑をかけられた私に対してプレッシャーを与えて来やがったので奴らの番犬としての働きに敬意を表して撤退してやることにした。

パラオ水族館として慣らしているパラオ国際サンゴ礁センター($8)が日本、アメリカ、パラオ各政府の協力によりサンゴと海洋生物を研究するファシリティとして君臨しているという話を聞いていたので実際に海に出る前の予習として見学させていただくことにした。ここは美ら海水族館のような大手ではないものの、多くの展示水槽が屋外に設置されており、マサにパラオの海の環境が凝縮されている様子が見て取れた。特に世界でも例の少ない生きているサンゴの飼育に成功したり、通常150m~200mという水深に生息しているため、なかなか目にすることが出来ないオウムガイ等のレア物も間近でマジマジと観察することが出来るのだ。

パラオの中心コロール島と日本のODAで造られた橋で繋がっているアラカベサン島は、かつて日本軍の軍事基盤であった激動の島なのだが、今ではすっかりリゾート・アイランドとしての地位を確立している。その中でパラオの誇る最高級ホテルであるパラオ・パシフィック・リゾートが多くのリゾーターで繁盛している実態を目の当たりにするために徒歩で4km程の道のりをトボトボとやって来た。プライベートビーチが広がる砂浜の美しさもさることながら、ホテルの遊歩道の南に位置する、太平洋戦争中の日本軍の水上飛行機用だったランプの先のサンセット・ビュー・ハットと名付けられた小高い丘の上の展望台からの眺めは時間の経過も忘れさせてしまうほど美しいものであった。

公共交通機関のないパラオで観光客の足になっているBBIというシャトルバス($7/7日間有効)が夕暮れ時から運行を開始し、各主要ホテルやレストラン、土産物屋を回っているので早速チケットを買って乗車し、DFSギャラリアも併設しているパレイシア・ホテルで下車し、本日の宿泊先となっているウエスト・プラザ・ホテル・バイ・ザ・シーに向かった。ホテルのすぐ北側にTドックというTの字に海に突き出た埠頭があり、そこで原住少年団が釣りをしたり、原住母子がナマコを採ったりしている様子を眺めながらゆったりとした黄昏時を過ごしていたのだった。

7月19日(月)

昨日はパラオの実態の解明と予習に時間を費やしてしまったのだが、今日は満を持してパラオが誇る観光資源に踏み込むことにした。パラオの色々な遊び方を満載した豊富なツアーメニューを持っているインパック・ツアーズのパンフレットをホテルでたまたま入手していたのでまずはカヤック&ジェリーフィッシュレイクツアー($100 + ジェリーフィッシュレイク許可証$35)に参加することにした。

午前8時40分にホテルにピックアップに来たバンに乗り込み、ツアー会社のオフィスで料金を払った後、スノーケリングセットやライフジャケット等のレンタル品を受け取ると桟橋からモーターボートに乗り込み、いよいよ全行程7.5時間にもわたるツアーがスタートとなった。このツアー会社は日本人スタッフが多く、今回担当するガイドもチエと名乗るジャリンコ系の小麦色のマーメイドであった。

ボートはツアー客がボ~とする間もなく、パラオが世界に誇る観光資源であるロック・アイランドの島々を抜け、刻々と色の変わる海上を疾走し、30分程で最初のアクティビティ・ポイントであるミルキー・ウェイに到着した。通称「ミルキー・ウェイ」と呼ばれるロック・アイランドのなかにあるマリン・レイクの色は入浴剤を溶かしたような独特の色をしており、その色の正体は海底に沈殿している石灰の泥である。ここで取れる泥は「パラオホワイトクレイ」として各種の化粧品に加工されており、絶大な美白・保湿効果があると言われているのだが、毎日来ているはずのガイドのジャリンコ・チエはその効果の恩恵に与かっていないようだった。

しかし、ジャリンコはその潜水技術を如何なく発揮し、見通しの利かない3mの海底を数往復して泥を集めてくるという離れ業を演じ、ツアー客を泥だらけにするのに大きな役割を果たしてくれたのだ。また、イッコーがパラオを訪れた際にもツアーに参加したのだが、奴は1日中ミルキーウェイにいて泥パックに明け暮れるという無駄な努力を繰り返していたそうだ。泥が乾くと皆海に飛び込み体中と髪の毛になすりつけた白い物体を洗い流したのだが、ミルキーはママの味というよりはむしろ塩の味とほのかな硫黄臭が支配的であることが体感された。

十分に肌のお手入れも出来たところでボートはマングローブの入り口で停泊し、そこからシー・カヤックに乗り換えて約1時間半もの過酷なボート漕ぎが始まった。ツアーの一行はそれぞれにチャーターされたカヤックで欝蒼と茂るマングローブへ突き進んで行った。流れがほとんどないので思ったよりも体力を消耗しないのだが、途中マングローブの根っこに乗り上げて座礁するという危機を乗り越えながら、のんびりと鳥のさえずりを聞き、食虫植物のウツボカズラ等の熱帯植物を見上げながらオールを漕いでいるといつの間にか出発地点に戻って来てしまっていた。

マサよ、君は猪木の名を冠した無人島が三本ロープの四角いジャングルではなく、本当のジャングルになっていることを知っているか!?

ということで、適度の運動で腹も減ったのでボートは近くの無人島へと移動する段取りになった。ボートが島に近づくにつれ、ボンバイエのリズムと延髄に衝撃が走ったような感覚が強くなってきた。なるほど、ここはアントニオ猪木を名誉オーナーとする無人島で日本人観光客が珍しかった時代からパラオに侵略しに来ていた猪木に敬意を表し、パラオ人所有者が友好の印としてプライベート使用を許可しているという形になっているそうだ。

このイノキ・アイランドにはアントニオ猪木をはじめ、坂口征二やアントキの猪木くらいしか上陸を許可されないのかと思っていたのだが、意外にもほとんどのツアーの昼食休憩所としていくつかのベンチやバーベキュー施設が設置されており、猪木も「なんだこのやろう!ダ~!!」と言いながら気張っていたはずの汚いトイレで用をたすことも出来るのだ。

イノキ・アイランドでの闘魂注入で満足したので泳いで帰ろうかと思ったのだが、ついでに続きの見どころも押さえておくことにした。ロック・アイランドのひとつ、広大なマカラカル島の内陸に世界的に有名なジェリーフィッシュ・レイクが佇んでおり、パラオの一大観光名所として連日おびただしい数のツアー客がクラゲと一緒に浮かんでいるという実態が報告されていたので実際に体験させていただくことにした。ボートが船着場に着くと、そこから山道を上下するトレッキングを15分程こなすとついに緑に囲まれた広大な湖が目の前に姿を現した。

早速スノーケリングの準備をして湖に飛び込むといきなりおびただしい数のクラゲに囲まれてしまった。この湖には水面下に海と繋がっている箇所があるため、隔絶されていながら海水と淡水が混ざった汽水湖となっており、タコクラゲ、ミズクラゲなど無数のクラゲが生息する軟体動物ワールドになっているのだ。

クラゲは光合成を行うため、太陽の位置に合わせて団体で湖内を移動し、太陽が雲に隠れると一斉に水面近くに上がってきやがった。尚、クラゲの毒性は強くないので水着で湖に入っても、触って足の数を数えても何の危害も加えないので観光客は安心して直にクラゲの感触を楽しむことが出来るのだ。

ジェリーフィッシュ・レイクでこの世のものとは思えない異空間での水中遊泳を堪能した後、ツアーの最後のアクティビティとなるパラダイスというスノーケルポイントに向かった。サンゴの海が最大の遊び場であるパラオには無数のスノーケリングポイントが存在するのだが、1998年のエルニーニョ現象による水温の異常上昇でパラオのサンゴも壊滅的な打撃を受けた痕跡として白化したサンゴが今なお残っている。

しかしながら、透明な海水に育まれた多様な生態系は目を見張るものがあり、色とりどりのサンゴの間を回遊するカラフルな熱帯魚を見るとマサにパラダイスに紛れ込んだような夢心地を味わえるのである。

30分程のスノーケリングを終え、体もいい具合にふやけてきたのでツアー客はボートに回収されると桟橋への帰路に着いた。途中ナチュラル・アーチという隆起サンゴ礁の中心が波の浸食によりくり抜かれた造形美を軽く堪能し、さらに日本軍が残した銃砲に脅威を覚えていたのだが、パラオでは戦争の遺物を動かしてはいけないという法律があるため、このように戦跡が生々しく残されているのだ。

ツアー終了後、ペットのカニクイザルに別れを告げ、本日の宿泊先になっている♪思い出のっ クリフサイド ホテルぅ♪に引き払い、中村雅(マサ!)俊のメロディーとともに高台からの景色を堪能しながらツアーの余韻に浸っていた。

7月20日(火)

昨日参加したカヤック&ジェリーフィッシュレイクツアーに大きな感銘を覚えたので今日はさらなるパラオの魅力を探るためにガラツマオの滝トレッキングツアー($90)に参加させていただくことにした。このツアーはグァム島に次いでミクロネシアでは2番目に大きいバベルダオブ島ガラツマオ州にあるパラオ最大の滝を訪れるネイチャー・アドベンチャーである。

ツアー会社のオフィスを出発したバンは、コロール島からパラオ最大の橋であるニューKBブリッジを渡り、最初の目的地である熱帯果樹園を目指した。台湾資本により経営される果樹園にはグアバ、パパイア、ドラゴン・フルーツ等が試験栽培されており、フルーツの試食コーナーでは苦いノニジュースで乾杯させられるという貴重な体験までついてくるのである。

ノニジュースで健康に対する自信を深めたところでバンは近年舗装された道路をさらに北上し、ガラツマオの滝の入り口兼休憩所に到着した。滝へのトレッキング道は往路は下りになっており、途中アルミの原料であるボーキサイトを運ぶトロッコのレールに遭遇し、切り立った尾根や草原を通り抜けて清らかな川が流れる水郷地帯まで到達した。

ところどころに存在する水溜りの中には多くの岩魚が泳ぎ、脱皮したばかりの川エビも颯爽と水の中をバックで進んでいた。いつしかトレッキング道は川の流れに飲み込まれ、腰まで冷たい水に浸かりながらもついにマイナスイオン弾ける滝壺に到着し、巨大な水のカーテンが目の前に迫る光景に圧倒されてしまった。

ガイドが防水バックパックで運んできた弁当を食っていると野生化したはずのチャボの親子が弁当のおこぼれを虎視眈々と狙いながら周囲を徘徊していた。また、林の中には毒のない切れ長のヘビがしなやかに蠢いており、パラオの自然の多様性を誇示していた。腹も膨らんだところで滝壺に降りてお約束の滝に打たれ、心身を清めると共に煩悩を振り払い、とりあえず坂口征二相談役を中心とした新日本プロレスの復権を祈っておいた。

急に振り出した激しいスコールと滝による真水で適当に全身を清められた勢いを駆って復路の上り坂を難なく登りきると休憩所で用意していただいたココナッツの実にストロー突き刺しジュースを一気飲みし、バンでコロール島に帰って行った。とりあえず、コロール島と橋で繋がっているマラカル島に君臨するニッコー・ホテルズ・インターナショナルグループが経営するパラオ・ロイヤル・リゾートまで送ってもらったので恒例のファシリティチェックを行うことにした。敷地内に海水を引き入れたラグーンがあり、午後5時から拉致している生物に対する餌付けが開始された。マグロの切り身やパン粉に引き寄せられるようにウミガメや熱帯魚が集まって来たのだが、海底を這うように泳いでいるエイは永遠に浮上してくることはなかったのだ。

夕飯時になったのでインパック・ツアーズのオフィスに隣接するJIVEというシーサイドレストランで眼下の透明な海とサンゴを見下ろしながら取れたての魚の刺身とバナナの皮に包まれて蒸し焼きにされた巨大白身系魚をカクテルと共に流し込んでさわやかな宵の時を過ごしていた。

ダウンタウンまで歩いて戻っているとアサヒ・フィールドで野球のナイターが行われていたので思わず引き寄せられてしまった。硬球、木製バットという本格的な野球のために打低投低の感は免れず、私も代打に出る準備をしていたのだが、ついに声がかかることがなかったのでタクシーでパラオ国際空港に撤収することにした。空港では通常徴収される出国税$20に加えて2009年の後半から設定されたGREEN FEEを$15巻き上げられたのだが、パラオが猪木とともに自然環境を守ろうとする強い姿勢が見て取れたのだった。

7月21日(水)

午前1時10分のCO954便に乗り込むと乗客は何故か行きのメンバーと似たような顔ぶれだったのでこれがパラオツアーの典型的な旅行日程であることが確認された。しかし、行きの飛行機では色白だったヤングギャルたちは周囲の物体との接触を拒むかのように真っ赤に着色されて帰って来たので強い日差しに対する油断の恐ろしさを再認識させられたのだった。

飛行機は帰りもYap島を経由しやがり午前5時過ぎにグァム国際空港に到着した。空港のラウンジで回線品質の改善されたComplimentary WiFiで7時から裏の仕事のWebEXミーティングをこなした後、買う気もないのに免税品店で時間を潰し、11時55分発のCO6便の機内では出来るだけ意識をなくすように努めていた。午後2時45分に成田に到着し、機外に出るとパラオより強烈な酷暑に辟易しながら流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥119,260

総宿泊費 $353.3

総現地ツアー代 $190

総空港送迎代 $15

総シャトルバス代 $7

総タクシー代 $25

総出国税 $20

総Green Fee $15

協力

コンチネンタル航空、楽天トラベル、インパック・ツアーズ(http://www.palau-impac.com/

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 青い楽園フィジー

マサよ、君は南太平洋に浮かぶ楽園のゆったりとした時の流れに身をまかせ、非日常的感覚から社会復帰出来なくなりそうな脅威を覚えたことがあるか!

というわけで、昨年の年末年始はキリマンジャロ登山サバイバルツアーを敢行し、空気の薄い環境の中で天国という楽園との境界を彷徨ったわけであるが、今回は文字通りの楽園というものがいかなるものかを体験するために赤道を越えて南太平洋の十字路に繰り出すこととなった。

12月28日(月)

コンチネンタル航空がスターアライアンスの会員になったおかげで出発までのひと時をおなじみのANAのFIRST LOUNGEで快適に過ごすことに成功すると午後5時15分発のCO07便グアム行き、B737-800機に乗り込み、約3時間半のフライトで太平洋のハブ空港となっているグアム国際空港に1時間の時差を越えて午後10時頃到着した。乗り継ぎのためグアムには上陸しないことになっているのだが、入国審査を受けさせられて無理やり入国の憂き目に遭った腹いせに普天間基地の全面移転を鳩山総理に成り代わって話しをつけようと思ったのだが、元自民党総裁と同じ名前を持つ私の出る幕ではないと考え、差し控えることにした。

2009年12月18日に開設したばかりのグアムとフィジーのナンディ国際空港を結ぶ新路線をひょんなことから発見していたので午後10時55分発CO948便、B737-800機に搭乗するとガラすきの3列席を占拠しながら快適な空へと旅立ったのだ。

12月29日(火)

離陸後約6時間のフライトでフィジー沖に差し掛かり、窓のシェードを開けると眼下には青い楽園にふさわしい珊瑚礁の海が朝日に照らされていた。

午前8時30分にフィジーだけでなく、南太平洋のハブ空港として君臨しているナンディ国際空港に到着し、軽い入国審査を経て到着ターミナルへ入場するといきなり生バンドのトリオの南国演奏で歓迎され、いやがおうでもリゾート気分が高まってくるのであった。

空港を出た大通りにバス停があったのでローカルバスに乗り込みフィジアンスマイルを湛えた原住民と共にナンディのダウンタウンに向かった。尚、フィジー諸島共和国は330もの島々から成り、陸地面積は四国とほぼ同じ小さな国である。今回はその島々の中から最大のビチレブ島に的を絞り調査を決行することになったのだが、町を歩いているとあちこちで「ブラ!」という声を浴びせかけられ、思わずワコール、トリンプはたまたピーチジョンの世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えさせられた。

フィジーはかつて英国領であったため、英語が公用語のひとつになっているのだが、「BULA !」という挨拶は現地語として使い続けられており、町をブラブラ歩いているとひっきりなしに「BULA」のシャワーを浴びることになり、その度に脇や背中の肉が胸に集められ、ワイヤーで寄せて上げられるような脅迫感に苛まれてしまうのだ。

ビチレブ島西部のナンディは文字通りフィジーの玄関口になっているのだが、ダウンタウン自体は以外に小さく約1kmのメインストリートに各ショップがひしめき合っているのだ。とはいうもののフィジーの国花であるタンギモウジアは至る所で真っ赤に咲き乱れ、市民の台所となっているマーケットでは収穫されたばかりの野菜やイモ類が山積みになっている有様はマサに南国模様そのものである。

手作り民芸品を売っているハンディクラフトマーケットに軽く足を踏み入れたのだが、ブラと言わせたからには手ブラで帰すわけにはいかねえぜといった燃える商魂が漂っている気配もなく、観光客は落ち着いて物品の物色が出来る体制になっていることが確認出来た。

フィジーくんだりまで来てセレブなリゾートホテルに宿泊しなければフィジーに来た意味が無いと言われているので世界的にも有数の大規模リゾート開発地区であり、ビチレブ島西側ナンディタウン郊外に位置するデナラウ・アイランドに徒歩で上陸することにした。デナラウは小さな島で本島とは狭い水路で隔てられているだけで通常は車に乗ったまま橋を渡って行き来することが出来るのだが、島の入り口には24時間警備員が守るゲートがあり、完全に外界とは隔離された桃源郷となっている。

デナラウ地区にはビーチ沿いに7つのホテルが仲良く軒を連ねており、初日はその中でも最高峰であるはずのフィジー・ビーチ・リゾート&スパ・マネージド・バイ・ヒルトンに意気揚々と乗り込んだ。チェックインするには少し時間が早く、日本人スタッフのYukoも中々捕まらなかったのでとりあえずホテルの散策を先にこなすことにした。青く輝くプール脇のビーチに面して建つ「ヌク・レストラン」でフィジーの地ビールである「Fiji Gold」とシーザーサラダを飲み食いしてさわやかな海風にあたり、胃腸の調子を整えていた。

ビーチのパラソルの下のクッションで寝不足を補った後、Yukoの案内でビーチフロントの部屋へと向かった。パティオから太陽の光が燦燦と差し込む広々とした部屋は吹き抜けのバスルームからベッド越しに海を眺められる構造になっていると同時に外を歩いている人からもバスルームを覗かれるスリルも提供されているのだ。

夕暮れ時に意識を取り戻すとビーチ沿いの散歩と洒落込んだ。いつの間にか隣のソフィテルの縄張りを通り越してウエスティンのビーチに迷い込んでいる内にサンセットを迎えてしまった。オレンジ色に染まる西の空とぽっかり浮かぶ船、そよ風に揺れるヤシの木のコントラストはマサにこの世の楽園にふさわしい幻想的な風景であった。

12月30日(水)

早朝より日課となっているビーチの散策がスタートした。そもそもデナラウはマングローブが生い茂る湿地帯を埋め立てて形成され、またナンディ川が土砂を運ぶ河口に位置するため海の透明度はそんなに高くないのだが、砂浜はよく手入れが行き届いており、またビーチでスパのトリートメントを受けるためのファシリティもセットされている。海に入って静かに打ち寄せる波と戯れていると足の裏に執拗に攻撃を仕掛けてくる未確認生物のハサミのような感触を覚えたのだが、海水が濁っているのでその実態を解明するには至らなかった。

ヒルトンをチェックアウトするとデナラウ地区を巡回するデナラウ・シャトルで天井に草が生えている通称ブラバス(F$6/day)に乗り込み数多くのリゾート・フェリーが発着するポートデナラウに向かった。マリーナには数多くのクルーザーが停泊しており、ここから珊瑚礁に囲まれた白砂の離島に行って満足して帰ってくることが出来る体制が整っているのだ。

ブラバスでデナラウの中心部を形成するデナラウ・ゴルフ&ラケットクラブをスルーして、今日の宿泊先であるザ・ウエスティン・デナラウアイランド・リゾート&スパ、フィジーにしけ込んだ。このリゾートは全体的にフィジーの伝統建築の流れを組み込み、重厚かつ南国ムードあふれる雰囲気を醸しだしている。

さらにスターウッド・ホテル&リゾーツというグループを形成する他の2つのシェラトン系のホテルとは隣接する立地条件になっており、シェラトン所有の無料のブラバスで各ホテルの玄関も結ばれ、いちどの滞在で3倍のリゾートを体験出来るマサにリゾートのコンビナート状態が提供されているのだ。

夕飯時に再びポートデナラウに繰り出すことにした。ここはマリーナだけでなく、いくつかのショップやハードロック・カフェをはじめとするレストランの出店も見られ、リゾートホテルのレストランよりもお得な価格帯で食事を楽しむことが出来るために連泊のリゾーターは少なくとも1回はここで飯を食っているのではないかと思われた。

日没後のシェラトンのショッピングアーケードは相変わらず多くの人出で賑わっており、予約が必須なはずの高級レストランfeastは赤を基調とした異様なまでの存在感で観光客の散財スピリットに火を付けているかのようであった。

12月31日(木)

ビチレブ島の中でも隔離された感のあるデナラウ地区を後にすると本場のフィジーを求めて炎天下の中、徒歩で1時間かけてナンディバスターミナルまでやってきた。正午発のバスに乗ると幹線道路であるクイーンズロードを南下して行った。ビチレブ島の南の海岸線はコーラル・コーストと呼ばれ、文字通り珊瑚の海が広がっており、フィジーでも早い時期からリゾート開発が行われてきた地域である。

コーラル・コーストを代表し、フィジーらしさを全面に打ち出したアウトリガー・オン・ザ・ラグーン・フィジーは高台のロビーからリゾートの全景と透明な海を見下ろすことが出来る構造になっており、緑豊かなガーデンの中にはフィジーの伝統的家屋を模したブレが点在し、しかも各ブレには2種類のハンモックがインストールされている実態が確認された。

ビーチ沿いを歩いているとリゾートの敷地外に出てしまったのだが、馬がうまそうに草を食っていたのでそのまましばらくあたりをさまようことにした。リゾートに戻ると原住従業員が伝統的打楽器とホラ貝でゆく年くる年の雰囲気を高めようと躍起になっていた。

すっかりおなじみとなったフィジーの息を呑むほど美しい黄昏の光景をバックに戯れていた少女AとBが♪じれぇた~い じれったい♪と言わんばかりに新しい年を待ちわびているかのようであった。またプール脇ではフィジーの伝統的儀式であるカバの儀式がおごそかに執り行なわれていた。カバとは南太平洋一帯に生える胡椒化の木のことで、カバの儀式ではこの木の根を乾燥させ、パウダーになるまで付き砕き、それを水で濡らして絞り出した汁を回し飲みして親交を図ることが目的であるのだが、同じブラ繋がりであってもタニマチとして押尾被告にドラッグ部屋を貸し与えていたピーチジョンの野口美佳社長のような胡散臭さのない神聖な儀式であることは疑いようもなかった。

午後11時45分にプールサイドの芝生の近くに人だかりが出来ると「BULA!」の掛け声も高らかに片側に火の付いたバトンを手にしたポリネシアン・ダンサー群がガソリンの残り香とともに登場した。彼らは驚いたことに素手で炎に触り、バトンの片側にも点火するとお約束の火の玉バトントワリングの開始となった。ダンサーはものすごいスピードでバトンを回したり、バトンを回転させながら高く放り上げてキャッチに成功したり、失敗したりしながら観光客に「BULA!」の声援を強要させていた。

ポリネシアンダンシングの興奮も覚めやらぬまま、観光客は芝生広場に参集し、ついにカウントダウンを迎える時間の到来となった。

1月1日(金)

ハッピー ニュー マサよ! ブラ!!

ということで、間延びするほど長かった1分前からのカウントダウンもついに5秒前になり、ついに2010年の新年が時と告げると「BULA」の新年ボードに明かりが灯され、皆一様にブラと叫びながら、あたりに散らばらせた風船を踏み割って破裂音を発生させていた。30分ほどの新年を祝う喧騒を経た後、会場スタッフが機材の撤収作業を始めやがったので新年の饗宴は流れ解散的にお開きとなったのだ。

昨年はキリマンジャロ山頂で初日の出を拝み、それはむこう30年くらいの効力があると信じて疑っていないので今年は太陽の昇りきった時間に余裕をこいて起きだすことにした。アウトリガーの近辺にもいくつかのリゾート施設が展開されているので海岸沿いをブラブラしながらそれらを遠巻きに眺めていた。昨日出会った馬は今朝は鞍を付けられて乗馬観光客を迎えるべく待機させられていた。

記念すべき2010年のスタートを切ったアウトリガーをチェックアウトするとローカルバスに乗り込みビチレブ島南岸を東に向かってひた走った。3時間以上かけてバスはついにフィジーの首都であるスバのバスターミナルに滑り込んだ。

スバは南太平洋随一の大都市と呼ばれるフィジーの首都でリゾーターはほとんどこの町を訪れることはないのだが、フィジーの実態を知る上でFTBの旅程に組み込んでおいたのだ。町の雰囲気は南の島にしては大都市の様相で多くの船が停泊している埠頭や近代的な行政府のビル、カトリック・カテドラル、ショッピング・センターのビル群等が林立しているのだ。

このような都会的光景を目にするとスバはスバらしい所だと思えるかも知れないが実態は外務省も「十分注意して下さい」の警告を出しているほど強盗等の犯罪が多発している地域だそうだ。スバではブラという挨拶の割合が少なくなったものの、町をブラブラ歩いていると、とある煙草を1本手にした謎の男が近藤真彦でもない私に対して「マッチ、マッチ」と近寄って来た。♪そいつが お~れの やりかた♪である♪ギンギラギンにさりげなくぅ♪やり過ごすとそいつは♪愚か者♪に変貌することなく私の前を過ぎさって行ったのだった。

1月2日(土)

熱帯地方特有の降水量の多さで部屋にカビのフレグランスが漂っているHoliday Inn SUVAをチェックアウトするとフィジーの歴史を学習するために熱帯地方の植物が生い茂るサーストン・ガーデンを抜けフィジー博物館(F$7)を訪問させていただくことにした。

館内には各種古典ボート類やフィジアンの文化・習慣などを伝える生活用品や武器等が展示されているのだが、中でも私の関心を引いたのはフィジー人とインド人の関係の歴史であった。フィジーの民族構成はフィジー系が57%、インド系が38%となっている通り、この国にはおびただしい数のインド人が暮らしている。フィジーに最初にインド人が来島したのは1879年で当時はフィジーもインドもイギリスの植民地下にあった。イギリスはフィジーにサトウキビプランテーションを開き、その労働力として勤勉なインド人を移住させたのだが、その後移住者は増え、プランテーションの契約が切れた後もフィジーの環境を気に入ったインド人が居座り続け、今日に至っているのだ。のんびり屋でマイペースなフィジー人とは水と油のような関係であったインド人に引導を渡そうとした時期もあったそうだが、独立後インド人による産業基盤の確立が大きな役割を果たしたという実績から今ではすっかり市民権を得たインド人もフィジーに根付いてしまっているのだ。

フィジー博物館を後にし、日本から払い下げられているタクシーを横目に埠頭沖の鮮魚マーケットにおびき寄せられた。そこには水揚げされたばかりの大小さまざまなカラフルな魚やマングローブを棲家とする蟹が拉致されており、一山いくらの感覚で原住民同士の取引が展開されていた。

大都市スバの胃袋となっているマーケットは2階建てになっており、生鮮食品売り場の1階と比較して2階ではカバの儀式に使う植物の根やインド人のために色とりどりのスパイスが袋詰めで販売されていた。マーケットの外で鼓笛隊の演奏サウンドが響いていたので様子を見にいってみると何らかの新年系のパレードが展開されており、スバの年始の光景を彩っていた。また埠頭沿いではピクニックをしている家族連れも多く、何故かスカートを穿いている男性を数多く目にしたのだった。

思いがけずスバのすばらしさを実感することが出来たのでローカルバスでナンディに帰る道すがら、途中立ち寄るバスターミナルでトレイに盛り付けられラップにくるまれた軽食を購入し、車内で食った後にそのパックを窓から投げ捨てているフィジー原住民のファジーな感覚に慣れてきた頃、空港に到着した。

今日で最後となるフィジーの夕焼けを空港で眺めながら、社会復帰にいったいどれくらいの月日が必要となるのか不安に駆られながら次は離島に行かなければならないという決意を固めていた。

1月3日(日)

深夜1時40分発CO949便にてグアムに戻ってきた。早朝のグアム国際空港は年末年始をお手軽な海外で過ごしてきたエコノミー観光客で大変混雑していたのでその間隙を縫うようにしてCO961便に乗り込み午前10時前には成田空港に到着し、そのまま流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー

総飛行機代 \142,710

総宿泊費 F$1,560.46 (F$1 = \50)

総バス代 F$41.10

協力

コンチネンタル航空、HILTONHHONORS、STARWOOD、INTERCONTINENTAL HOTELS GROUP

第4回カンガルーと一緒に地球環境問題をカンガェル~ツアー in オーストラリア(ゴールドコースト)

グッダイ マサよ!

というわけで、親方日の丸経営が祟り、破綻の危機に瀕している日本航空と手堅い経営の全日空との大きな差はマサに私が上級会員になっているかどうかの違いに他ならないのであるが、今回義侠心にかられたFTBは沈まぬ太陽と称されるJALの復活に貢献してやるため、わざわざ高い金を払ってオーストラリアに弾丸で繰り出すことになったのだ。

2009年11月20日(金)

午後9時45分発JL761便、B767機はほぼ満席の乗客を乗せて定刻どおりに出発となった。シートテレビで放映されている邦画「蟹工船」を見ながらプロレタリアートの気分を満喫し、かつて居酒屋の調理場で揚場を受け持ち、めったに注文の来ない蟹の甲羅揚げを揚げていた古き良き時代に思いを馳せているうちに浅い眠りに落ちてしまっていた。

11月21日(土)

午前7時15分にブリズベン国際空港に到着すると入国審査をクリアし、意気揚々と税関審査に向かった。X線スキャンにSYMANTECのロゴの入ったバックパックを通過させると思いもよらず、厳しい取締りを受けるはめになってしまった。SYMANTECバックパックはウイルスは検出されなかったものの何らかのドラッグの反応があったとイチャモンを付けられ、バックの中身をすべて取り出して持ち物の一点一点を隅々まで検査されることとなった。屈強な検査官はいつの間にかドラッグ談義に私を引き込もうとしたものの、私は「オシオ」「タカソウ」「ノリピー」「白いうさぎ」くらいしかドラッグ用語を理解しなかったので検査官の方から「スピード」というドラッグの説明がなされたのだ。その後ボディチェックをパスしなければお前をオーストラリアに入国させられね~ぜ状況になったので上原多香子のようなソフトタッチの代わりに♪Body&Soul♪のリズムと強い握力のオージー若人により体を絞り込まれるような精査の屈辱を味わった。

30分以上とも思われる長い検査を経て、何とか入国審査に合格した記念にマツモトキヨシでドラッグでも買おうかと思ったのだが、出店していなかったのでバスでゴールドコーストに向かうことにした。ブリズベン国際空港から約1時間のドライブでゴールドコーストの中心地に到着し、楽天トラベルに予約させておいたマリオットリゾートホテルにアーリーチェックインを決め込むと早速オーストラリアを代表するリゾート地であるゴールドコーストの散策に繰り出すことにした。

ブリズベンの南約75kmのところに30kmにもわたって続く黄金の砂浜ゴールドコーストは年間300日以上が晴天と言われ、観光客はやわらかな日差しの下でのんびりと日光浴を満喫していた。南太平洋の荒波には多くのサーファーが立ち向かい、華麗なライディングを決めようと躍起になっていた。

マサよ、君はサーファーズ・パラダイスでパラダイス気分を味わったことがあるか!?

ということで、自称プロサーファーの高相被告もノリピーを伴って来たことがあるかも知れないゴールドコーストで最も賑わいを見せるサーファーズ・パラダイスに侵入した。ビーチではSURF RESCUEの監視の下、波に無邪気に戯れている素人ボディーボーダーを初め、サーフィン教室への入門者や自称プロサーファーがひしめきあっており、彼らを見下ろすように巨大な高層ビル群がビーチに迫るように林立されている様子はマサにパラダイスにふさわしい観光地の様相を呈していた。

サーファーズ・パラダイスの中心街であるカビル・モールではリゾート気分を満喫している観光客が気軽に水着で闊歩しており、カフェやレストランに立ち寄って空腹を満たした後、再びビーチにしけこむことが出来るような体制が整備されていた。また、おびただしい数の素人日本人観光客が路頭に迷わないように至る所で日本語の看板が設置されているのだ。

水陸両用バスでゴールド・コーストを一回りすることが出来るアクアダック(A$35)が観光客の人気を集めていたので乗車(船)させていただくことにした。午後1時45分にセントロ・サーファーズ・パラダイスを出航すると水陸両用のための強力なサスペンションを持つバスは大きな上下動を繰り返しながら海岸通りを北上し、ザ・スピットという砂州に向かった。そこからついに内海のブロードウォーターに突っ込み、内海からネラング川へのクルーズに突入する運びとなった。

アクアダックの中では♪バスとアヒルがちからをあわせて みんなのしあわせを~~♪と歌う代わりに宮崎あおいとはタイプの違うガイドのキューティギャルがオージーイングリッシュで車窓を流れる景色の説明にいそしんでいた。波の荒い外洋と比較して穏やかな内海ではクルーズ船が優雅に巡回し、その脇を水上バイクがうなりを上げて疾走していやがった。

土曜の夜のサーファーズ・パラダイスは昼間以上の賑わいを見せ、おびただしい数の若者が奇声を発しながら町中を闊歩し、容易にドラッグの誘惑に駆られてしまうような危険な香りをプンプンと漂わせていた。また、町行く男子は押尾被告や高相被告のようなイケ面も多いのだが、中には合法ドラッグスピードですでに最高速度に達していると思われる輩さえ散見されたのだった。

このような環境で気が大きくなっている観光客から暴利を貪るために開店されているはずのOKギフトショップに恒例の買う気もないのに入ってみることにした。当店のオーナーの大橋巨泉は不在だったのだが、等身大の看板が代わりに店番を務めているかのように装われていやがった。

11月22日(日)

早朝より裸足でビーチを散策し、足裏できめ細かい砂の感覚を味わい、押尾被告のように高飛車に押し寄せる波で砂を洗い流した後、マリオットホテルをチェックアウトし、海岸通りを南下して今日の宿泊地であるコンラッド・ジュピターホテルを目指した。当ホテルはジュピター・カジノで名を馳せているのだが、今回はギャンブル運を感じなかったのでカジノには見向きもせずに市バスでフレイズ・ワイルドライフ・パーク(A$17.10)に足を運ぶことにした。

入園するとほどなくして園内のシアターで蛇に関するプレゼンテーションが開始されたので少ない聴衆の中、義理で参加してやることにした。プレゼンの最後でお約束となっているはずの蛇と触れ合う時間が取られたのだが、プレゼンターのおばちゃんはヘビー級であるにもかかわらず主役のヘビは小ぶりのおとなしい奴だった。

フレイズ・ワイルドライフ・パークはユーカリ林、湿地帯、熱帯雨林、マングローブ林の4つの代表的なオーストラリアの自然環境が再現されており、その中でワラビー、クロコダイル、木登りカンガルー、各種鳥類等が細々と暮らしているのだ。その中でひときわ目を引いた珍獣は日本航空のように絶滅の危機に瀕している世界で3番目に大きな飛べない鳥であるカンワリであった。奴は金網ごしではあるが私に対してストーカー行為を行い、くちばしの一撃を食らわすべき常に隙を窺っているかのようだった。

市バスでゴールドコースト最大の巨大ショッピング・コンプレックスであるPacific Fairを経由してコンラッドホテルに戻り、ホテルに付属しているモノレール(A$2)に乗り、高級ショッピングセンターのThe Oasisで下車した。日曜日で多くの店が閉店しているThe Oasisを抜けるとビーチに出たのでしばし潮風に吹かれながらすっかり涼しくなったビーチサイドに佇みながら優雅な時を過ごしたのだった。

11月23日(月)

コンラッドホテルをチェックアウトし、ゴールドコーストを後にすると市バスと列車を乗り継いでブリズベンに戻ってきた。リゾート地であるゴールドコーストの趣とは異なり、ブリズベンはマサにオーストラリアを代表する大都市の様相を呈していた。ブリズベンのランドマークとして君臨しているシティ・ホールの近くの公共交通インフォメーション・センターで乗るべきバスとバス停の位置を確認し、ローン・パインに向かうことにした。

ブリズベン市内から南西に11km離れたフィグ・ツリー・ポケットにあるローン・パイン・コアラ・サンクチュアリー(A$28)は1927年開園という、世界最大・最古のコアラ園である。入園すると早速野生のレインボーロリキートというカラフルなインコの餌付けが始まったのでしばし鳥のさえずりの喧騒の中にピーチク・パーチクと佇むことにした。

このサンクチュアリの最大の見所であるコアラに関しては、こぁら~すごいと思わず唸ってしまうほどのおびただしい数のコアラが年齢や性別などによって飼育場所が分けられて居住している。ユーカリが発するミントの香りとコアラの糞尿によるアンモニア臭の入り混じった数多くのコアラ舎では木にひっしとしがみついて惰眠を貪っているものやアクティブに葉っぱを貪り食っているもの等さまざまなコアラの生態を間近で観察することが出来るのだが、お決まりのコアラを抱いての記念写真コーナーでは高値にもかかららず多くの観光客が列をなしていた。

3時半より牧羊犬のショーが始まったので軽く見学することにした。アンソニー・ホプキンスのように容易に羊たちを沈黙させ、決められた場所に誘導させることが出来る賢い犬は非常に訓練が行き届いており、ショーの最後には観光客の記念写真にも応じるというサービスの徹底ぶりであった。

キオスクでA$1を支払って餌を購入すると今回のツアーのハイライトであるカンガルーとの交流を図ることにした。思い思いの格好でくつろいでいるカンガルーと一緒にバラク・オバマ大統領の推進するグリーン・ニューディール政策への貢献方法を考えていると怪鳥エミューが餌のおこぼれに預かりに来やがったので、日本企業も何とかアメリカの政策のおこぼれをすくうべく、財務省主導での準備をしなければならないのではないかと思われた。

サンクチュアリにはコアラやカンガルー以外にもウォンバットや普通のバット(こうもり)、タスマニアン・デビルやワライカワセミ等も拉致されており、また午前10時~午後3時半まで30分おきのアクティビティの開催により、一日中いても観光客を飽きさせないようなすばらしい配慮がなされていることが確認された。

黄昏時にブリズベンのダウンタウンに戻ってくると蛇行して流れるブリズベン河畔を緑に彩るボタニック・ガーデンを散策し、日もとっぷり暮れてしまうと川にかかる歩道橋が見事にライトアップされている様子を見てこの電力も何とか太陽電池でまかなうことが出来ないものかと考えていた。尚、日本で始めて太陽電池が実用活用されたのはキカイダー01(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC01)であることは疑う余地のないところであろう。また、当時はイチローといえばキカイダー01であり、誰もその後のシアトル・マリナーズでの活躍は予期出来なかったであろう。

11月24日(火)

午前8時50分発JL762便にて午後5時前に成田に到着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \88,450

総宿泊費 A$585

総バス代 A$52.6

総鉄道代 A$24.3

協力 JAL、楽天トラベル、HILTONHHONORS、Priority One

第3回カンガルーと一緒に地球環境問題をカンガェルーツアー in オーストラリア

グッダイ! マサよ!!

ということで、台風一過がもたらした猛暑のため意識が朦朧となっている勤労者が盆休み前のラストスパートの残業をこなしている頃、この台風が昨今の地球温暖化により加速されている現状を肌で感じ取っている私は、とりあえずこのモ~モ~とした暑さから抜け出すべく赤道を越えて北半球とは反対の季節感を堪能すべく、3回目のオーストラリア大陸への上陸を試みることにした。

8月11日(金)

ロンドンヒースロー空港での航空機爆破のテロ未遂事件が大々的に報道されているにもかかわらず成田空港第一ターミナル南ウイングの手荷物検査場は以外に少ない旅行客のせいもあってか通常通り無愛想に淡々と業務がこなされていた。

午後7時10分発予定のシンガポール航空SQ11便シンガポール行きは手荷物検査が厳しかったであろうロサンゼルスから到着する機材の遅れにより定刻より20分程度遅れて出発したものの、深夜の1時にシンガポールチャンギ国際空港に滞りなく到着することが出来た。

8月12日(土)

シンガポールに入国することなく、一夜を明かすことが出来るファシリティである空港ターミナル内のTransit Hotelを午前7時半にチェックアウトし、そのまま午前9時35分発のSQ223便でオーストラリア西海岸の最大都市であるパースを目指した。パースはオーストラリア全土の約3分の1を占める広大な西オーストラリア州の州都であり、世界で最も住みやすい都市としての地位を確立しているのだ。

定刻午後2時45分頃パース国際空港に到着すると空港バス(A$15)に乗りパースの都心部に侵入し、予約しておいたホテルイビスにそそくさとチェックインすると早速パース市内の散策に乗り出すことにした。パースの中心をぶち抜くように流れているスワン川のほとりには見たこともないような広さの芝生の広場が広がり川べりにはジョギングで汗を流すランナーやサイクリングロードを駆け抜けるチャリンコ野郎やローラーブレーダーが気温20℃以下のさわやかな気候に身を委ねていた。

高層ビルの林立する都心部に足を運んでみるとバーの軒先でビールを飲みながら週末のトワイライトを楽しんでいる陽気なオージーの面々に遭遇し、ふと地球に迫っている環境問題をカンガェル~ことを忘れさせてくれるのんきな雰囲気を漂わせている。また、街中には日本語の案内や看板も見られ、通常の日本食屋どころか回転寿司さえ君臨し、しかも客の回転も良さそうな様子が見て取れた。

8月13日(日)

早朝より雨のそぼ降る中、ダウンタウンのエイビスレンタカーで5速マニュアルのトヨタカローラをレンタルするとパースの約250km北にあるナンバン国立公園を目指した。一気に都心部を抜けると道は片側一車線対面交通でありながら110kmのスピードが出せる1号線へと移り変わった。カンガルーやワラビー等の野生動物の棲んでいるブッシュを駆け抜けていると路肩には車にはねられたカンガルーの遺体が痛々しく転がっている光景が目に飛び込んでくる。不幸にも事故死してしまったカンガルーのはかない人生をカンガェル~暇もなく、西オーストラリアを代表する景勝地であるザ・ピナクルスへ到着した。

日本のCMやドラマの撮影で有名になった「石化した原生林」ザ・ピナクルス(A$10)は太古の昔、海辺だった一角に貝が堆積し石灰岩質の土台を作り上げた。そこに深く根を張った原生林が枯れた後、大地が風化されていき、根の間に残った石灰岩層が塔のように残って出来た奇景である。「荒野の墓標」という異名がぴったりなほどあちこちに人間の背丈ほどもある化石が林立する様はマサにこの世の終わりを感じさせる諸行無常系の観光ポイントである。

マサよ、君は35億年前から存在している世界最古の生物の存在を知っているか!?

ということで、ナンバン国立公園の塩湖にストロマトライトという先カンブリア代にすでに地球上に棲息していたといわれる生物の観察を実行することにした。ストロマトライトとは藍藻類という繊維状の微生物の間に海水中の石灰砂や細かな沈殿物が入り込んだり、堆積したりしながら成長したものであるが一見すると何の変哲もない岩にしか見えないので塩湖の近くには説明用の看板が欠かせないのである。

マサよ、君はオーストラリアくんだりまでのこのこやって来てツチノコに遭遇したことがあるか!?

というわけで、ナンバン国立公園内の黄砂の大地で車を転がしていると太い胴体をノコノコと揺らしながら道路を横切っていくツチノコ系の爬虫類をあやうく轢き殺しそうになり動揺してしまった。車から降りてその生物をマジマジと観察させていただくと外見はツチノコ状であるものの胴体には短い足がインストールされており、また、接近して脅かすと口を開けて反撃をするポーズを取るほどの闘争心を持ちながら逃げ足が遅いという生態が観察された。その生物はbobtail skinkというトカゲの一種でこの地に広く分布していることがナンバン国立公園のパンフレットで確認されたのだ!

8月14日(月)

パースの東100kmほどのところにヨークという英国風田園風景を演出する魅力的な小さな町があったのでよ~く観察するために古い建物が数多く残るダウンタウンに侵入し、ヨーク自動車博物館(A$8)を見学した。ここにはビンテージからレーシングカーまで数多くの珍しい車が展示されており、日本が誇るポンコツ豆ぐるまであるスバル360やホンダS800の勇士も見られたのだ。

ザ・ピナクルスと並ぶ西オーストラリアの自然が造り出したオブジェであるウエーブ・ロックを見物するためにヨークから赤茶けた大地の上をさらに4時間程度カローラを転がすことと相成った。ウエーブ・ロックを要するマイルドなリゾート地の様相を呈したキャンプサイトに午後2時過ぎに到着すると先着の中国人観光客グループの後を追う形でウエーブ・ロックの見物に向かった。稲村ジェーンを髣髴とさせる高さ15mもの巨大な波があたかも一瞬にして固まってしまったかのように見えるこの奇岩は花崗岩から出来ており、長年の侵食によって波のような模様が形成されたのであるが、観光客はお決まりの波乗りのポーズで不安定な足場の上で記念写真を撮っていた。また、ウエーブロックの上に登るとそこは岩場状の大きな広場が形成されており、ごろごろと転がっている丸い岩をはじめ広大な景色を見渡して壮大な気分を満喫することが出来るのだった。

ウエーブロックを後にしてパースへの帰路を急いでいるとあたりは既に暗くなっていた。いたるところにカンガルーマークの動物飛び出し注意の看板が掲げられているのだが、案の定路肩のブッシュからワラビーがビヨンビヨンと飛び出してきやがり、あやうく轢きそうになるところだった。ところでカンガルーのような有袋類を車ではねた時の対処法であるが、犯人は決してひき逃げをすることなく、まずは有袋類の袋の中を調べなければならない。これは金品や優待券のような貴重品を奪うのではなく袋の中に子供が入っていればすみやかに当局に通報してレスキューを要請する義務をまっとうするための当然の行為なのである。

8月15日(火)

早朝より降りしきる冬の雨の中、パースから1時間ほど海沿いを南下してマンジュラというリゾート地に到着した。ここにはマンジュラ河口というイルカたちが生息している内海があり、夏場にはドルフィンスイミングが可能で誰でも気軽に元祖♪イルカに乗った少年♪である城みちるの気分を味わうことが出来るのであるが、今日は風も強く天候の移り変わりが激しかったため、おびただしい量のポテトが付属しているフィッシュアンドチップスを食して退散するしかなかった。

パースに戻る道すがらスワン川がインド洋に注ぐその河口に存在する古風な町であるフリーマントルに立ち寄った。残念ながら開館時間の都合でフリーマントルの見所である、昔アボリジニを拉致していた旧フリーマントル刑務所や博物館に侵入することが出来なかったので海沿いの灯台の下でポテトを投げてカモメに餌付けをしてお茶を濁すしかなかった。

日もとっぷり暮れてしまったのでパース随一の夜景スポットであるキングス・パークの展望地、州議事堂の噴水前からきらめく高層ビル群のライトアップを眺めてロマンチックな雰囲気に浸った後、夜の繁華街ノースブリッジで最後の晩餐をこなした後、パース国際空港に帰って行った。

8月16日(水)

シンガポール航空が間借りしているカンタス航空のラウンジでビールとワインで酔いをまわした後、午前1時5分発のSQ216便でシンガポールまでひとっ飛びし、さらに9時45分発SQ12便東京行きに乗り換えて夕方6時前には成田に到着し、そのまま流れ解散となる。

FTBサマリー

総飛行機代 \185,006

総宿泊費 S$57.75, A$281.85(A$1 = \90)

総空港バス代  A$15

総レンタカー代  A$321.99

総ガソリン代 A$178.57

総走行距離 1,875km

総目撃した車にはねられたカンガルー数 5頭

第2回カンガルーといっしょに地球環境問題をカンガェルーツアー in オーストラリア

アテネオリンピックで金メダル確実と言われた長嶋ジャパンがオーストラリアに連敗し、銅メダルに甘んじてしまった!球界再編に揺れる日本プロ野球はこの事実を最大の教訓とし、今後の野球界発展のための糧としていかなければならない今日この頃であるが、それに先んじてFTBがまずオーストラリアの軍門に下り、地球環境問題をカンガェルーと同時にオーストラリアのスポーツ躍進の秘密を解明すべく赤道を越えることにした。

9月5日(日)

9月3日(金)発の飛行機に搭乗するつもりであったのだが、何とFTB史上初となるチケットの買い間違いにより日曜日発を余儀なくされたJAL5143便はカンタス航空とのコードシェア便だったため、真紅の垂直尾翼に白抜きのカンガルーのシルエットをあしらったカンタス航空機についに搭乗することに成功した。B767-338機メルボルン行きは定刻20時15分に離陸すると適度に空いている機内で快適な空の旅の旅が提供されることとなったのだ。

9月6日(月)

メルボルン空港が霧に覆われていたため定刻よりやや遅れたものの午前8時前には到着し、スムーズに入国手続きを済ませると空港バス(A$13)で早速今日の宿泊場所であるHilton on the Park Melbourneに向かった。ホテルに荷物を預けると早速目の前に広がるオリンピックパークを散策することにした。1956年に南半球で最初に開催されたオリンピックの会場は今ではすっかり緑多き公園へと生まれ変わっており、10万人を収容するメインスタジアムは野球の祖先と言われているクリケット場へと変貌を遂げていた。また、周囲にはラグビー場やテニスの全豪オープンが開かれるロッド・ラバー・アリーナ・アット・メルボルン・パークが異様な存在感を示しており、アテネオリンピックで惨敗した杉山愛選手もこの雰囲気に飲まれないだろうかを心配になるほどであった。

オリンピックパークからやや北上すると「公園の都」メルボルンを代表するフィッツロイ・ガーデンに迷い込んだ。芝生グリーンの眩しいこの公園にキャプテンクックの小屋(A$4.0)なるものが建っていたので侵入してみることにした。メルボルン市100周年を記念し、1934年に買われ、イギリスのヨークシャーから運ばれ、この地に復元されたこの小屋の前には家主のキャプテンクックの銅像がお約束の♪ようこそここへクッククック♪といういでたちで望遠鏡片手に観光客を迎えているのだった。

フィッツロイ・ガーデンの西に堂々たるゴシック建築のセント・パトリックス大聖堂が105.8mの尖塔を天に突き刺すようにそびえさせており、そのさらに西側にオーストラリア2番目の大都会であるメルボルンのダウンタウンが広がっている。英国風の街づくりが白豪主義でならしているオーストラリアの人々が闊歩する光景にマッチしており、非常に優雅な雰囲気を醸し出しているのだが、一方では街のいたるところに公衆便所が設置されており、尿意や便意の近い人であっても安心して買い食いしながら街歩きが出来る優しい都会であることが確認出来た。

9月7日(火)

ダウンタウンのハーツでニッサンパルサー5速マニュアル車をレンタルするとメルボルンの南東137kmに位置するフィリップ島を目指すことにした。自然の宝庫といわれるフィリップ島では数多くの野生動物を目にすることが出来るのだが、それらをより確実に目にするためにまずコアラ保護センター(A$8)を訪問した。センター内はおおよそ3つのエリアに区切られており、最初に入ったエリアは遊歩道に沿って生えているユーカリの巨木の手が届きそうな場所にふんだんに葉っぱのついたユーカリの枝が移植されており、観光客が間近にコアラを見物出来る配慮がなされていた。そこには4頭ほどのコアラが住んでおり、通常動物園で見るような動かないぬいぐるみ状ではなく、アクティブに枝から枝へとジャンプしたり、ユーカリの葉っぱを貪り食うコアラの姿を見ることが出来る。3番めに侵入したエリアはマサにユーカリの自然林になっており、数10mの高さのユーカリの木のてっぺんにコアラがひっしとしがみついている姿を遠巻きに眺められるようになっていた。

コアラセンターのすぐ近くにワイルドライフ・パーク(A$11)が開園されており、カンガルーに引き寄せられるようについつい入園してしまった。入場料を支払うと同時に動物用の餌が入った小袋を渡されると早速園内を巡回してみることにした。まず最初に目についたのはディンゴという古代犬の群れであった。今から8,000年ほど前にアボリジニがオーストラリアに渡ってくるときに連れてきた犬が野生化したものだそうなのだが、どう見てもその辺を散歩している普通の犬にしか見えなかった。園内にはウォンバッドやワラビー、タスマニアン・デビル、コアラ、各種鳥類が飼育されており、中でも放し飼いにされているカンガルーは餌を見せるとピョンピョンと飛び跳ねながらやって来て隙あらば観光客の餌を奪うことに余念がない様子であった。ちなみにカンガルーという名の由来だが、白人入植者がアボリジニに初めてカンガルーを見たときに「あの動物は何?」と訪ね、アボリジニはそいつの言っていることが理解出来ずに「カンガルー(何言ってるんかわからん!)」と言ってしまい、白人入植者のカンガェルー暇もなくその名前になってしまったという間抜けな話が残っているそうだ。

マサよ、君はペンギンパレードに参加したことがあるか!?

ということでフィリップ島、いやメルボルン観光のハイライトとなっているペンギンパレードが夜な夜な開催されるサマーランド・ビーチにやって来た。コアラ保護センターのおっさんに売りつけられたペンギンプラス(A$25)といういい席でペンギンが見られるチケットを片手にまずビジターセンターでペンギンの生態を学習した後、日没近くの午後6時ころにペンギンが漁を終えて上がってくるであろうビーチで待機することにした。しとしとと降りしきる雨の中を防寒対策を万全に施した観光客たちは辛抱強く暗い海を眺めながら今か今かとペンギンパレードが始まるのを待ちわびていた。ビーチにカモメの群れが集まりだした6時40分ころについに1羽目のペンギンが姿を現した。その後、次から次に海から姿をあらわしたペンギンは5~6羽ほどの隊列を組みながら、観光客の見守るスタンドの前をいそいそと行進していった。この場所でコロニーを形成しているペンギンはフェアリー・ペンギンといって体調30cmほどの世界で最も小さいコビトペンギンとも言われる種類のものであるのだが、海から内陸の潅木地帯まで1km近くの道のりを時間をかけて行進していく様は、ディズニーランドのパレードよりも何百倍も見る価値があることは間違いないであろう。尚、巣の近くまで戻ったペンギンは何故か異様な泣き声を放っていた。

9月8日(水)

フィリップ島のBest Western Motelでペンギンを数えながら眠りに落ちた後、今日は早朝からメルボルン市内まで戻り、さらにビクトリア州西部のグレート・オーシャン・ロードを目指すことにした。オーストラリアが誇るベストドライビングルートであるグレート・オーシャン・ロードはサーフィンの町トーケーを基点とする。さらに海岸に沿って走るとローンという借金をしている人々には聞き苦しい名前のリゾートタウンを通過する。この町の山岳部にレインフォレストが開けており、アースキン・フォールという滝で軽くマイナスイオンを浴びた後、さらに沿岸部をひた走りアポロ・ベイという町のパン屋で店員のおね~ちゃんがおすすめだというカレー風味のポテトビーフパイで昼食を取ることにした。

ここまでの沿岸部の道のりは普通のオホーツク街道と大差ない通常の海沿い道のように思われた。しかしながら、グレート・オーシャン・ロードが佳境を迎えるポート・キャンベル国立公園に差し掛かったあたりから状況が一変してしまった。

マサよ、君は「12人の使徒」という神様がこの世に使わせた奇跡に近い絶景を見たことがあるか!?財務省が使い込んでいるであろう「12億の使途不明金」とはマサにレベルの違う代物なのだ!!!

というわけで、ビクトリア政観のポスターでもお馴染みの「12人の使途」を何故かさらっとスルーしてその先のロック・アード・ゴージに向かった。このあたりの海岸線は波と風の浸食により複雑に入り組んだ絶壁が形成されており、そのせいで昔ロック・アード号というロンドンからメルボルンへ向かっていた移民船がこのあたりで難破してしまったそうだ。ここにはその船で亡くなった人たちのメモリアルがあると同時に数多くの自然が作る湾岸芸術作品を間近に見物することが出来るようにトレイルが作られてある。さらに10数キロほど進むとロンドン・ブリッジという波の侵食によって形成されたかつてのダブルアーチが君臨していたのだが、10年ほど前にさらなる侵食により橋の真ん中が落ちてしまったという洒落にならなくもない奇岩が多くの観光客の興味を引いていた。

薄曇の中サンセットの時間を迎えることになった。気がつくと再び「12人の使途」を見渡せる展望台で強い海風に打たれながらたたずんでいた。このあたりには絶壁沿いに遊歩道が形成されており、「12人の使途」の色々な側面が見られるようになっていた。夕日を浴びて浮かび上がるひとつひとつの奇岩は垂直に切り立った数10mの高さの絶壁と絶妙のコントラストを奏でており、数多くの観光客が太陽が完全に沈んでしまうまでその場を離れられないでいたのであった。

ということで、オーストラリアを代表する景観を提供するグレート・オーシャン・ロードを心ゆくまで堪能した後、杉山清隆よろしく♪さよならオーシャン♪を口ずさみながらメルボルンへの長く、暗い帰路についたのであった。

FTBスペシャルレポート 怪鳥エミューとの仁義なき戦い

フィリップ島を代表する自然公園であるワイルドライフ・パークには数多くの動物が放し飼いにされている。持っていた餌のせいでカンガルーから絶大な人気を誇っていた私の前に巨大な影が長い首を前後上下にゆっくりと振りながらひたひたと忍び寄ってきた。バビル2世のしもべである怪鳥ロプロスの3分の1はあろうかと思われるその巨体の持ち主はケンタッキーフライドチキンを1店舗分ほどまかなうことが出来るほどの肉量を誇る怪鳥エミューであった。私が手にしていた餌に目をつけた怪鳥は全体像をカメラに収めることが出来ないほどの至近距離を保ちながらもカメラ目線で近づいてくるように思われた瞬間、防御が手薄になっていた左手の餌袋がくちばしの一撃によってたたき落とされてしまった!あわれな餌袋は怪鳥のなすがままに食い荒らされるのを余儀なくされると思ったそのとき、FTBが開発した地球に最も優しい武器である「肩掛け背中に回したカバン前屈み重力爆弾(右回り)」の安全装置が解除された。怪鳥の動揺を見て取った私はすばやく餌袋をガードし、カンガルー達の喝采のジャンプを背中に感じながら何とか餌を守り通すことに成功したのであった。

バビル2世の住居であるバビルの塔は♪コンピューターに守られた♪と歌われているが、私のカバンが、常に携帯されているThinkPad X31で守られていたとしたら、エミューもひとたまりもなかったであろうと思われた。

9月9日(木)

オーストラリア南東部、北半球で言うと北海道に相当する緯度にあるタスマニア島は面積は北海道より一回り小さいものの自然環境という点ではオーストラリア大陸とは一線を画す多様性を提供しているのでその実態の解明のためにわざわざメルボルンからカンタス機を飛ばしてタスマニア州の州都であるホバートに着陸することにした。午前10時頃、ホバート空港のハーツで後に坂道を登るパワーの無さに苦労することになるヒュンダイ小型5速マニュアル車をレンタルすると早速200kmほど北に位置するタスマニアのもうひとつの主要都市であるロンセストンに向かった。

タマー川が入り組んでいるロンセストンから海岸部に向かう地域はタマー・バレーと言われているエリアで数多くの種類のフルーツやタスマニア・ワインの産地として名高い場所である。タマー川の入り口にあたるジョージタウンからさらに海側に向かうとロウ・ヘッド・ペンギン観測所というフェアリー・ペンギンがビーチから上がってくる浜があるのだが、ここでもA$14を観光客からふんだくって毎夜ペンギンツアーが行われている実態が確認出来た。昼間の時間帯だったため、浜に下りることが出来たのだが、砂地には無数のペンギンの足跡が残されていた。

ロンセストン観光のハイライトとして名高いカタラクト渓谷がダウンタウンからほんの徒歩10数分のところに開けている。タマー川の侵食によって形成された切立った岩や崖の周囲にはメイン・ウォークと対岸のジグ・ザグ・トラックという遊歩道により地元のジョギングランナーや観光客ハイカーのための絶好のロケーションとなっている。渓谷の奥には美しい公園が開けており、数羽の孔雀がジュディ・オングよろしく羽を広げながら観光客を魅了している様子も楽しむ事が出来る癒し系のファシリティであった。

タスマニアくんだりまできてタスマニア・ビーフを食わなければ狂牛病について語る資格がないと言われているので宿泊先モーテルでいただいた10%割引券を握り締めてJailhouse Grillというステーキハウスでディナーを楽しむことにした。さすがに流刑地の島の食い物屋だけあり、Jailhouseの名に違わず、手錠や鎖、かんぬき等の数多くの牢屋グッズに囲まれながら味わったステーキは配合飼料を一切使用せず、牧草のみで育った健康な牛の風味を漂わせていた。

9月10日(金)

タスマニア北海岸に少し出っぱった半島があり、そこにスタンレイという港町がゴールド・ラッシュ時の伝統的な面影を残しているので訪問してみることにした。スタンレイのシンボルとしてザ・ナットという海から突き出ている台形の山のような大地が君臨しているのだが、この岩山は”Tasmania’s Answer to Ayers Rock”と言われている代物である。ザ・ナットの頂上までは徒歩20分、リフトで10分かかるのだが、タスマニア北岸のきれいな海を見ながら徒歩で頂上まで登り、ザ・ナットの周囲に沿って一周してみたのだが、決してスパナやモンキーレンチで締め付けることが出来るような6角形をしていないことだけは確認出来た。

ザ・ナットの景観にナットくして北海岸を後にするとヒュンダイ車は島内部の山岳部に向かった。タスマニア西部はクレイドル山を中心に自然の宝庫となっており、1800年代の後半に絶滅したと言われているタスマニア・タイガーが今にも襲って来そうな林を抜けてクレイドル山/セント・クレア湖国立公園に入って行った。ここは数あるタスマニアの国立公園の中でも随一の景勝を誇っており、また野生動物が最も多い地域でもある。小雨がぱらついていたため、ブッシュ・ウォーキングは出来なかったが、神秘的なセント・クレア湖がぼんやりと霧の中に浮かび上がっている姿を何とか眺めることが出来た。ちなみにウォンバッドはそこかしこでマイペースで歩いており、人が近づいても関心なしといった達観した雰囲気を漂わせていたと同時にこのあたりの動物注意の黄色の看板のモデルにもなっており、実際に車に轢かれて成仏している個体もかなり多いのは確かであった。

9月11日(土)

島北部の町ロンセストンから一気に南下してホバート近郊のポート・アーサーに向かった。そもそもオーストラリアは流刑地としての歴史を持っているのだが、タスマニア島は流刑地オーストラリアでさらに罪を犯した札付きの罪人が送られてくる獄門島という負の歴史を持った島で横溝正史も小説に書ききれず、金田一耕助も決して解決出来ないような難事件を犯した罪人たちが余生を過ごした場所なのである。

ポートアーサー流刑場跡がちょっとしたテーマパークのいでたちで観光客を集めているので将来収賄罪で臭い飯を食う可能性があるマサに先んじて罪人気分を味わうために入って見ることにした。A$24で観光パッケージになったチケットを購入すると12時半から始まるウォーキングツアーに参加することと相成った。この場所は1830年から1877年まで「監獄のなかの監獄」として恐れられており、中年女性説明員によると特にセキュリティシステムが優れているとのことでカンガルーに変装して脱走を図った囚人も警備員にまんまと見破られ銃を突きつけられて御用となったというエピソードを披露して観光客の失笑を買っていた。また、日もとっぷりと暮れた夜の時間帯にはゴースト・ツアーも開催されるそうで暗く冷たい監獄の雰囲気とあいまって観光客を恐怖のどん底に突き落としてくれるのだそうだ。

尚、A$24のチケットにはフェリーによるお得なクルーズも含まれており、時間のある人は湾内近郊のDead Islandという墓場の小島を散策出来るように取り図られているのだ。

午後5時30分発のカンタス機でメルボルン航空に戻り、マサであればA$250かかるところをHiltonHHnorsの特典により私はただで宿泊することの出来る空港内のヒルトンホテルにチェックインしたところ、Gold VIP会員の私に用意されていた部屋は角部屋の非常に広い部屋でゴジラとイチローが同時に素振りをしてもかろうじて互いのバットが干渉しないほどの無駄な面積を誇っていた。また、無償のフルーツセットがテーブルの上に置いてあったのでそれを貪り食いながら空港からの夜景を楽しんでメルボルン最後の夜を満喫することとなった。

9月12日(日)

早朝の飛行機でメルボルンを発ち、シドニーを経由して午後7時半に成田着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \94,980 + A$207.34 (A$1=\80)

総宿泊費  A$575

総レンタカー代  A$364.8

総ガソリン代  A$161.94

総バス代  A$13

総エンスト回数 1回(5速からいきなりオートマ車の要領でクラッチを踏まずに停止してしまったため)

協力 日本航空、カンタス航空、ハーツレンタカー、HiltonHHnors

次回はマサが訪問したにもかかわらず私が行ったことがないホーチミンでべトコン三昧が予定されております。