シン・FTBヒューストン経由コスメル島天国と地獄インターコンチネンタルツアー

メキシコ最強の観光地、ユカタン半島の東端に位置するカンクンを拠点にいくつかのマヤ遺跡を散策したのは今から19年前の2005年2月のことであった。

当時心残りであったのはバスで立ち寄ったプラヤ・デル・カルメンという町からフェリーに乗って世界で一番透明度の高い海を持つコスメル島に上陸出来なかったことに他ならず、再訪を期してユカタン半島を後にしたのだった。その後ユカタン半島に戻るどころかスカタンな人生を過ごしてきたわけだが、ドロンジョ様のスカポンタンにも背中を押され、ついにコスメル島を目指すツアーが遂行されることとなったのだ。

2024年5月1日(水)
成田空港17:00発NH6便は定刻通りに出発すると日付変更線を越えて同日の午前11時前にはロサンゼルス空港に到着となった。すでに米国入国の定連となっているためあらためて指紋を採取されることもなく入国審査を顔パスで切り抜けるとUnited Clubラウンジで乗り継ぎまでの時間をさしておいしくないケータリングの飲食物を口にしながらやり過ごしていた。

16:22発UA1497便は定刻通りに出発し、2時間の時差を超えて22時前にはヒューストン・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着した。広い空港内にはSky TrainやSubwayが行き来しているのだが、早速Subwayに乗り込んで本日の宿泊先で空港内蔵ホテルのヒューストン・エアポート・マリオット・アット・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタルにつつがなく到着したのだった。

5月2日(木)
午前10時過ぎのフライトに備えて8時前にはホテルをチェックアウトしたのだが、外気はむっとするような湿気を含んでおり、暗雲漂う中Subwayでターミナルへと向かった。すでに常ラウンジと化しているUnited Clubで朝食を済ますと搭乗時刻前には所定のゲートに到着したのだが、ゲート前の行き先を告げる画面にはすでに混乱の兆候が見え始めていた。

早朝よりUnitedから本日搭乗予定の便はOn timeとのメールによる通知を受けていたのだが、目の前の状況が刻々と悪化している様子が見て取れた。窓越しに駐機している飛行機の背後に広がる空の様子を眺めると、分厚い雷雲を引き裂くように雷鳴が鳴り響き、あたかも夜のとばりが下りて来てしまったかのような暗さであった。

ゲートのアナウンスに耳を傾けると搭乗予定の便は燃える闘魂サン・アントニオから来る予定なのだが、悪天候のため離陸が出来ず、そもそも前の便が出発出来ずにゲートにとどまっているため、必然的な卍固め状態となってしまっていたのだ。この時あたりからUnitedからのメールの本数が一気に増え始め、真綿でスリーパーホールドを決められたような遅延地獄に陥ってしまったため、やむなくFTBの対策本部に格上げされたUnited Clubに引き上げることとなった。

今日の午後にはコスメル島に到着出来るというヒュ〜という盛り上がりの気持ちがいきなりストンを落とされたのはマサにヒューストンのラウンジにいる時であった!

直近のメールによるとUA1919便は16:31までさらなる遅延のアナウンスがあったものの19時前には何とかコスメルに到着する算段であったのだが、14時過ぎに届いた立て続けのメールには何とフライトがキャンセルされ、新たに明日の便が予約されたとのショッキングな知らせであり、いくら暴風雨の嵐のためとはいえ、長期休養したリーダーの大野君が復帰する時にはすでにジャニーズ事務所が無くなっているくらいの衝撃を受けてしまった。

通常であれば膝から愕然と崩れ落ちるところであるが、約10分で正気を取り戻すと早速本日から宿泊する予定であったPRESIDENTE INTERCONTINENTAL COZUMEL RESORT & SPAにメールを投げ込み到着が1日遅延する旨を伝えると即座に了解したとの返事をいただいた。立て続けにMarriottのウエブサイトにアクセスすると今朝チェックアウトしたばかりの同じホテルを予約し、何とか本日の宿を確保出来たかのように思われた。

United Club内のカウンターには長蛇の列が出来ていたのだが、チェックイン済みの荷物を取り戻す必要があったので担当者にその旨を伝えると1〜2時間くらいで荷物の引き取りは可能だろうとの返答をいただいた。

空港内の土産物屋の多数の招き猫に見送られ、彼らが招いたのは嵐であり、♪体中に風を集めて 巻き起こせ A・RA・SHI A・RA・SHI♪のメロディーとともにやけ気味にBaggage Claimへと重い足を運んで行った。

Baggage Serviceのカウンターを先頭に見たこともないような長蛇の列が形成されていたのだが、ひるまずに列の最後尾に並ぶと1時間以上は経ったであろう時間にやっとFTBの順番が巡ってきた。すでに多数のクレームを受けて正常な判断機能が麻痺しているであろう担当者から告げられた言葉は、明日の便に振り替え予約されているのであれば荷物を引き戻す必要はなく、どうしても今日荷物が欲しければ6時間以上待てという非情な物質(ものじち)との引き換え系の暴言であった。

一旦は引き下がったものの再考の上、身代金を払ってでも荷物を救出しなければならないとの決断に至ったのでさらに長くなった列の最後尾に再び並び直すことにした。気の遠くなるような時間を立ち尽くしたまま過ごし、何とかBaggage Serviceのカウンターが視界に入ったころ、「Mr. FUKUDA!」と呼ぶ天の声的アナウンスが場内に響き渡った。指定された場所に足早に向かうと何とかそこで危害を加えられていない荷物との再会を無事に果たすことが出来たのであった。

数時間前に依頼したUnited Clubの差し金とはいえ、何とか荷物を奪還したものの試練はそれだけにとどまらなかった。なんと先程Marriottのウエブサイトで予約したホテルのチェックインの日付が明日になっていることが判明し、泣く泣く高額のキャンセル料を支払ってキャンセルし、あらためて今晩の宿を探さなければならなくなっていたのであった。

なすすべもなく向かった先はいわくつきとなったエアポート・マリオット・アット・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタルであったが、当然当日予約の部屋は空いているはずもなく、近隣のホテルのリストを渡され、一軒一軒自力で探すほかない状況であった。

携帯の電波の状態が良くなかったのでホテルロビー出口の外気の当たるところで電話をかけようとしているといかにも白タク系の雰囲気を装っているが紳士の心根を持つはずのナイスガイが車で近隣のホテルを当たってあげると申し出てくれたので藁にもすがる思いで彼の車にかけることにした。Hampton Innをはじめ数件のホテルで満室Sold outの洗礼を受け、次に向かった先はSheratonであったのだが、ここでもSold outを告げられ空振り三振で空港に戻るべきかと思った瞬間にマネージャー面した男性が女性クラークを制し、実は部屋は空いているという助け舟を出してくれた。嬉々として白タク系の紳士の元へ戻り、感謝を込めて彼の言い値より高い$60を握らせ、「いいね!」のポーズで別れを告げると遅れてきたMarriott Bonvoy会員のゴールドメンバーの威光とともに何とかチェックインを果たしたのであった。

5月3日(金)
ゴールドメンバーの特典である朝食をさくっと済ますと空港までの無料送迎シャトルに乗り込み、憂鬱な空の色を眺めながら粛々と昨日と同様の手順を踏んでいた。午前中の強雨は昨日よりもましであったものの10:03出発予定であったUA1919便はまたもや遅れを出し、それでも11時前には晴れてヒューストンを離れることが出来たのであった。

離陸しさえすればこっちのもので、約2時間ちょっとのフライトで念願のコスメルに到着すると抜けるような青空に迎えられた。つつがなくメキシコへの入国を果たすと一人当たり$14の支払で乗り合いバンに乗り込み、コスメルでの宿泊先に向かうこととなった。

20分程度のドライブでPRESIDENTE INTERCONTINENTAL COZUMEL RESORT & SPAに到着し、チェックインデスクでウエルカムドリンクを飲みながら、やっとの思いでヒューストンのインターコンチネンタルからコスメルのINTERCONTINENTALへの引継ぎを完了させることが出来たことを実感した。

IHGダイヤモンド兼アンバサダー会員の威光により2段階アップグレードされたオーシャンビューの部屋に案内されると窓越しに広がる雄大な景色はいかなる高級コスメティックスにも劣らないはずの透明感あふえるコスメルの海であった!

昼飯を食いそびれていたのでホテル内の散策がてらLe Cap Beach Clubという地中海系料理を供するレストランに突入し、シーフードや牛肉タコスを肴に吸い込まれそうな透明な海をひたすら眺めながら、ヒューストンでの悪夢を消し去るのに躍起になっていた。

思いのほかの疲労とマルガリータのテキーラが体の節々に行き渡った影響からか部屋に戻ると不覚にも意識を失ってしまい、気が付くとサンセットの時間を迎えていた。

太陽が完全に水平線に吸い込まれた後のマジックアワーは想像以上の長続きで漆黒の闇が訪れるまで身動き出来ないままでいたのだった。

広々とした高級ルームであったが、バスタブの設置までは気が回ってなかったので代わりにインフィニティプール後方のジャグジーの泡に揉まれながら体内に残留しているアルコールをバブルとともに排出し、明日への鋭気を養うべき長時間のリセットモードを満喫させていただいた。

5月4日(土)
想像だにしなかったアクシデントにより3泊の予定が2泊になってしまったため、島内観光は断念し、ひたすらホテルの敷地内での籠城を決め込むことにした。

毎日コスメルに入港するクルーズ船の雄姿を横目に海辺の朝食会場となっているCarbeno Restaurantに入場した。建物を吹き抜ける爽やかなそよ風とともに野鳥が館内を縦横無尽に飛び交い、ちょっとしたバードウォッチング気分が味わえるのかと思ったのも束の間、野鳥の目的は人類の隙をついて食べ物を略取することであり、マサに仁義なき共生の光景が展開されているのだった。

マサと言えば、前回のユカタン半島ツアーでとうもろこしの粉に水を加えて生地にしたものがマサであること(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5)を
解明していた。マヤの聖地を巡りながらほんまやと納得しながらありがたく食すようになったのだが、このホテル内のレストランの主食もタコスやナチョスになっているようで外資の入ったリゾートホテルとはいえ、メキシコのアミーゴプライドは決して損なわれてはいないのだ。

世界一の透明度の海に囲まれたコスメルは言うまでもなくダイビングの聖地であり、早朝よりホテル内の桟橋から多数のダイビングボートが出航する。ダイビングをしない輩はその光景をぼ〜と眺めるだけであるが、ホテル敷地内でもその透明度は十分に堪能可能である。

レストラン裏のScuba Du Dive Centerでスノーケリングセットを借りて安全な場所で波に体をゆだねるのも良いのだが、それがなくても砂地に足が付いた場所で魚ウォッチングが可能なほど豊かな水産資源が身近に迫っているのだ。

この地の陸の王者であるはずのイグアナを横目にホテル敷地内を隈なく散策し、途中シーフードのランチで一休みして十分にコスメルでの休日を堪能させていただいた。

日が傾きかけてきた頃合いを見計らってインフィニティプールに繰り出し、ジャグジーでの温浴効果を高めていると早くもサンセットの時間を迎えてしまった。

水際から真っ赤に燃える西の空を見上げながら、永遠に続いて欲しい瞬間とはマサにこのことであろうと考えながら自らも水の中に体を沈めていくのであった。

5月5日(日)
今朝は昨日よりも少し早い時間に朝食会場に繰り出した。相変わらずダイビングボートはせわしなく出航の準備に取り掛かっていた。

まだお客さんの数も少なく、料理の食べ残しがテーブルに散在していなかったのでバードウォッチをするほどの野鳥の飛来も見られなかったのであろう。しかし野鳥の少ない原因はそれだけではなく、今朝は手乗り猛禽を操っている鷹匠が威嚇兼パトロールの任に着いており、野鳥のさえずりも心なしか警戒モードの調べを含んでいた。

チェックアウトまでのしばしの時間であったが、名残を惜しむように徘徊し、コスメルの絶景を目に焼き付けるのに余念がなかった。

気が付くとメールボックスには見慣れたUnitedの文字が躍っており、ヒューストンへのフライトが遅れるとの再度の嵐を予見させる通知であった!

予定していたチェックアウト時間を1時間程遅らせて正午過ぎにタクシーを呼んでもらい、来る時よりもかなり割安の$20の支払いでコスメル空港に帰ってきた。元々のフライトの予定時間は13:27で、それが13:50になるとの通知はまだ序の口で空港に着いてからもUnitedからのスパムメールは止まらずに出発時間が14:30, 15:20, 16:00, 16:20と小刻みに後ろ倒しになって行った。United航空のハブ空港であるヒューストンであれば、即座に一人当たり$15のMeal Couponが発行されて搭乗予定客の溜飲を下げるのに一役買っていたのだが、ここコスメル空港ではUnitedの威光は届かない様子で「許しテキーラ!」というお詫びの一言もなかったのだ!

搭乗することになっているヒューストンからの飛行機が到着した時間はすでに16時を回っており、結局UA1867便ヒューストン行きが出発出来たのは16:50であった。

約2時間のフライトでヒューストンまで帰ってこれたのだが、さらなる難題はロサンゼルスまでの乗り継ぎ便には間に合わないという事実である。幸い米国入国審査がすいていたのでそそくさと荷物をピックアップしてUnitedの乗り継ぎカウンターに向かい、首尾よくロスへの最終便にねじ込んでもらったのだが、その便自体もすでに遅れの兆候を示していた。

常ラウンジのUnited Clubの飲食物で胃袋の容積を満たすと22時前には搭乗ゲートに向かい、遅ればせながら出発出来ると高をくくっていた。ところが待てど暮らせど出発する気配がないのでついには腹をくくらなければならない状況になっていた。機長のアナウンスによると遅れの理由はワシントンDCからのケータリングを待っているとのことで狭い機内に閉じ込められた乗客を希望者のみ一旦降機させるとの措置さえ取られていた。

トイレ近くの機内後方に陣取っていたFTB一行であったが、かわるがわる用を足しに来る乗客の中でひときわ長い時間トイレに籠城している輩がいるようであった。すると突然うめくような嘔吐サウンドがトイレ周辺にこだまし、付近の乗客が眉をひそめている様子が見て取れた。しばらくして出てきたのは小太りの黒人女性であり、当然のことながらそのトイレは使用禁止の烙印が押されてしまった。

それだけならまだしも汚染されたトイレを除染しなければ出発出来ないという安全規定により、吸引機を持った防護服姿の整備士が乗り込んでくる事態となり、機長の甘い作業時間の見通しもあいまって乗客の苛立ちはピークを迎えつつあった。一方、汚染の張本人は悪びれることなく機内を徘徊し、解説者のような振る舞いで遅れの原因説明に勤しんでいたのだった。

5月6日(月)
結局UA2000便が出発出来たのは日付の変わった0:20でロサンゼルスに着いたのは午前2時くらいの時間であったろう。幸いなことにホテルへのシャトルバスは24時間運行なのでホテルまでの足は確保されていたのだが、予約していたウェスティン・ロサンゼルスエアポートに到着した時間の記憶はすでに飛んでいた。ホテルの従業員は深夜シフト体制に入っていたためか、ここでもチェックインまで長時間を要してしまい、結局ベッドに体を横たえることが出来たのは4時を回った時間になっていたであろうか?

幸い日本へのフライト時間が午後であったので多少睡眠時間は確保出来たのだが、それでも午前10時過ぎにはチェックアウトしてそそくさと空港へ向かって行った。United航空の束縛を逃れて搭乗したNH5便は定刻通りに出発し、定刻のありがたさを噛みしめつつ、機内映画のゴジラ-1.0の主役である着ぐるみに破壊的衝動の発散を肩代わりしていただいた。

5月7日(火)
午後4時半頃成田空港に到着し、ヒューストン経由で旅行するときにはホイットニーを警護したケビン・コスナー扮するボディーガードのような強いメンタルが必要であることを肝に銘じつつ流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥135,350 / passenger、United Airlines = ¥86,530 / passenger
総宿泊費 $1,440.25
総宿泊キャンセル料 $221.13
総タクシー代 $108

協力 ANA、United Airlines、IHG、Marriott Bonvoy

シン・FTB Los x ロス = 二刀流Show Timeツアー

コロナ自粛中のGWはまるで猫が寝込んだようにおとなしく過ごさざるを得なかったのだが、待望のコロナ明けを迎えても円安に苦しむ日本人旅行者はコスト面で自主規制を余儀なくされている今日この頃である。

このたび運よくANAよりSuper Valueという破格の運賃による航空券をゲット出来たので、過去数年分の旅行ロスを取り戻すべくLos方面へのツアーが敢行されることとなったのだ。

2023年5月1日(月)、5月2日(火)
連休のはざまとなっている5月1日(月)の裏の仕事をさくっとこなした後、日の暮れるのを待って羽田空港第3ターミナルへとJR横浜線、京急羽田空港線を走らせた。おなじみのANAのSuite Loungeで夕食とアルコール入り飲料で体の調子を整えると日付の変わった0:30発NH106便に乗り込み、フライト時間の大半を無意識状態で過ごせるように狭いエコノミー席での体勢の調整に余念がなかった。

5月1日(月)
太平洋上の日付変更線を超えたことに気づかないまま、飛行機は前日の5月1日(月)午後5時頃ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着した。米国入国の際にそれなりの時間がかかることは想定済みだったのでストレスなくイミグレーションとカスタムを通過すると上階に上がり空港周辺を巡回するHotel Shuttle Busに乗り込み、Holiday Inn Los Angeles – LAX Airportにしけこんだ。

これまでの裏の仕事のハードな出張による副産物としてIHGリワーズクラブのポイントをためこんでおり、宿泊料は無料の恩恵を受けたので、代わりにホテルのレストランに金を落とさなければならない義務感でビールとメキシカン料理で脂肪で覆われた小腹の隙間を埋めさせていただいた。

5月2日(火)
IHGダイヤモンド会員に無料で供される朝食の施しを断り、早朝6時にホテルを出発するShuttle Busに乗りこんだまでは良かったもののバスの運転手や同乗客から下車するべくターミナルを惑わされたため、目的のTerminal 7に辿り着くまでに余計な時間を要してしまっていた。

何とかUnited Clubで朝食を取れる時間が確保出来たのでアメリカンブレックファストで栄養補給を行うと8:26発UA1185便でメキシコのLos Cabosに向かった。ところで何故今回のツアーでLos Cabosが目的地に選定されたのかであるが、第一の理由は単純に行ったことがなかったからなのだが、第二の理由は私が昔勤めていた米国の故シマンテックという会社がITバブル華やかなりし頃、グローバルの多数の営業を引き連れてAchiver’s Tripという名目でLos Cabosで豪遊しやがったという行けなかった者からすると忌まわしい過去の怨念を払拭するためである。ちなみに私は営業ではなくマーケティングだったので最初からAchiverの土俵には乗っていなかったのだが・・・

いずれにしても2時間超のフライトで砂漠の大地を縦切り、バハカリフォルニア半島の最南端に位置するLos Cabos国際空港に到着する運びとなった。多くのアメリカ人バカンス客と一緒にメキシコへの入国を果たすと割高だが明朗会計の前払いとなっているエアーポートタクシーに乗り込み、まずは本日の宿泊予定地に向かった。車窓からはバハカリフォルニア半島の乾いた大地を賑わせているサボテンの姿が見受けられたのだが、前述のAchiver’s Tripの旅行者へのはなむけの言葉はマサに「サボってんじゃ~ね~!」がふさわしかったのではなかろうか?

ちなみにロス・カボスはメキシコの基礎自治体で半島南端のカボ・サンルーカスと東側のサンホセ・デル・カボの二つの主要都市のほか、いくつかの村を含んでいるという。二つの都市を結んでいるのは幹線道路の国道一号線でこの道路上に各種ホテルが軒を構えているのだが、今日はカジュアルなビジネスホテル系のHOLIDAY INN EXPRESS CABO SAN LUCASにIHGの24,000ポイントの支払いで宿泊することとなっている。

チェックイン後、とくにすることもなかったので小さなプールのあるホテルの敷地を散策し、停泊しているクルーズ船を眺めながら感染拡大の温床となったことはもはや過去の遺物だと言い聞かせていた。

国道一号線の主要都市間は市バスが頻繁に往来しているので紫外線が弱まってきた時間を見計らってバスでサンルーカス方面に向かった。初めての土地ゆえ、下車するべくバス停を無意識に通り越し、バスはどんどんダウンタウンの奥地に向かって行ったので適当なところで降りてスーパーマーケットでトイレ休憩をさせていただいた。生鮮食品売り場を見渡すと、さすがに海沿いの都市だけに提供される魚の種類は豊富であったのだが、とりあえず闇営業の仲介で吉本を首になったカラテカ入江をしのぶことが出来るはずのスナック菓子は購入しておいた。

慣れないスペイン語とメキシコペソ(M$)の現金払いの市バスの乗車に苦労を重ねながら、何とかサンルーカスの見どころが集まるマリーナ周辺まで漕ぎ付くことに成功した。

サンルーカスは観光用に整備された人工的な都市の印象は否めないが、街自体の装飾や演出が優れているので歩いているだけでリゾートの気分は自然に盛り上がっていくのである。

マリーナに係留されているおびただしい数のクルーザーを見てもわかる通り、ここでの主なアクティビティは加山雄三的な舟遊びであるのだが、今回は日程の都合で老人と海のように大海に乗り出すようなことはなかったのだが、天空を突き刺すカジキと地面から生えているサーフボードのオブジェだけで疑似マリンスポーツ体験を賄うことが出来たのであった。

夕食は多くの飲食店の中から雰囲気の良い音楽が流れているシーフードメキシカン系のレストランで取ることにした。メキシコでは乾杯の音頭はコロナビールで取るはずなのでそのしきたりには従うことにしたのだが、ビールのお供の柑橘類がライムであることに多少の不安を覚えざるを得なかった。その心は北部九州出身である私のような輩はこのような状況では大分県名産のかぼすを絞ると相場が決まっているのだが、ロス・カボス滞在中の間は「かぼすロス」に苛まれ続けることが確定したからである。

5月3日(水)
午前10時過ぎにはHOLIDAY INN EXPRESSをチェックアウトし、ホテルで手配したタクシーに乗り込むとリゾート気分による胸の高まりを抑えつつ、今日から泊まることになっているHilton Grand Vacations Club La Pacifica Los Cabosに向かった。完全プライベートリゾートであるがゆえにゲートで宿泊予定者名簿と名前を照らし合わせた後、晴れて敷地内への入場が許されたのでフロントでチェックインする運びとなった。

ウエルカムドリンクは、日本では高校球児の主要なヘアースタイルを模しているはずの丸刈り~タとレモネードが選べるのであるが、少しでも早くリゾート環境に適応するためにマルガリータを一気飲みしてフロントデスクで宿泊手続きを行った。デスクではサボテン並みのとげとげしい対応ではないもののチェックイン時間の午後3時までは部屋に入れないとのことだったのだが、ホテル内の施設は自由に使えるとのことだったので早速リゾート内の散策と洒落こんだ。

あいにくの曇り空ではあったもののプールやビーチを眺める限りではここロス・カボスがユカタン半島のカンクンとともにメキシコ最強クラスのリゾート地であることは疑いの余地はなく、松任谷由実が推薦するはずのアカプルコさえ霞んでしまうほどの絢爛ぶりが窺えた。

ビーチまで下りてみると今は亡き日通のペリカン便を偲んでいるかのような怪鳥が岩の上で魚待ちをしている姿を見てこの海の生態系の豊かさを感じ取った。

ビーチのアクティビティとして水上バイク、乗馬、小舟等があるようであったが、リゾート客はあまり関心を示していないようであった。

待望のチェックインを済ませると早速水着を着こんでプールバー方面に向かった。とはいえビリヤードの設備があるはずもないので皆アルコールを飲みながらそれぞれのスタイルで水平線に向かってくつろいでいたのだった。

夜のとばりがおりてもリゾート内は落ち着いた雰囲気をとどめており、浴びるほどの酒を飲みすぎて「許しテキーラ」と温情にすがろうとする者も♪シエリト・リンド♪を合唱するホセやサンチアゴのアミーゴ達も参上することはなかったのだ。

5月4日(木)
昨日の曇天とは打って変わって早朝より青空が広がり、いよいよリゾートがその実力を遺憾なく発揮出来る環境が整った。

リゾートのメインレストランであるTalaveraで高値で供されるビュッフェ朝食を軽快な流しのギターのメロディーとともにゆっくりと楽しんだ後、水着に着替えるとプール沿いの至る所に設置されている大判のタオルをわしづかみにするとコロナビールと一緒にデッキチェアに身を委ね、リゾート活動の定番となっているはずのプールサイド読書に勤しむことにした。

ハズキルーペを介した読書で目に疲労がたまってきた頃を見計らってプールにどぼんしてビーチで展開される人間模様にしばし目をなじませてピント調整を行った。

ビーチもプールも野性味に欠ける感は否めないのだが、突如姿を現したイグアナ越しに眺める海の青さは圧巻であり、これぞマサにメキシカンリゾートの神髄であると思い知らされた。

喉の渇きを覚えるとそのままカウンターでマルガリータを発注し、イグアナに乾杯したのだが、つまみのピザであるはずのマルゲリータがないのが唯一の難点といえよう。

結局日が西に傾きかける時間まで至福の時間を堪能したのだが、リゾート客が去った後のプールは鏡のように周囲のヤシの木を写し取っていた。

今回FTBが泊っている部屋はコスト面を配慮してプールフロント1階のパーシャルオーシャンビューであったのだが、後々ハウス猫のコンシュルジュ付きであることが判明した。奴はしなやかな肢体とともに突然姿を現し、心理的癒しのサービスを提供すると名作映画のように風と共に去って行ったのだった。

今日のディナーは予約が必要だと言われていたが、実際には予約しなくても入れたVelaというイタリアンレストランで取ることにした。

女性の妖怪人間系の名前を冠したはずのベラでは主にシーフード系の料理を召し上がったのだが、地元の食材を伝統的イタリアンにマッチさせた手法により、リゾート暮らしで脳みそを溶かし、人間性を失ってしまった観光客も思わず「早く人間になりた~い」とうなってしまうほど美味にアレンジされていた。

5月5日(金)
わずか二泊三日のリゾート滞在の最終日を迎えた。昨夜のディナータイムの静けさとは打って変わって朝食レストランのTalaveraは活況を呈しており、昨日着席したオープンテラスが満席だったので屋内のテーブルに席を取ったのだが、内と外では違う価格設定がされているようで、開放感に劣るが食べ物への距離が近い屋内は価格的にやや有利であり、ライブオムレツやサボテンをもすりつぶすことが出来るはずの強力ミキサーを要するスムージーバーにもスムーズにアクセス出来たのだった。

チェックアウト迄の貴重な時間はビーチで過ごし、海辺で繰り広げられる人間模様をボ~と眺めていた。

すでに日よけ用の帽子やアクセサリーを売りさばく商人たちも虎視眈々と商機をうかがっていたものの、決してリゾート客のプライベートスペースに土足で踏み込むような押し売り営業はしないので商品に興味のない客にとって彼らは単にビーチを彩る景色の一部でしかなかったのだ。

午前10時にホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。カラフルなロス・カボス国際空港はメキシコ国内や米国主要都市からの様々な航空会社のフライトで賑わっており、そのアクセスの便利さからリピーターもかなり多いはずだとあらためて認識させられた。

12:25発UA547便は30分程遅れて出発し、ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着したのは午後3時半を回った時間であった。さらに長い列の入国審査を突破するのもかなりの時間を要してしまった。何とか米国への再入国を果たすとHearz Rental Carのシャトルバスに乗り、Hertzの営業所に着いたのだが、ここでも長蛇の列の洗礼を受けてしまった。何とかTeslaのModel 3を入手して目的地に向かおうとしたが、モータリゼーションの申し子であるロサンゼルス名物の渋滞にはまってしまったのだ。

1998年の夏以来、25年ぶりに訪れたエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムであったが、$20の支払いで駐車場に滑り込んだ時にはすでに試合開始となっていた。巨大なエンゼル帽をあしらった球場正門の装飾は当時と変わらなかったのだが、そこに君臨するエンゼルスの主である二刀流使いにより新たな時代の息吹が感じられた。

ア・リーグ西地区首位を快走するテキサス・レンジャーズを迎え撃つエンゼルスは大谷を3番指名打者に据えて立ち向かったものの、序盤はレンジャーズに3点のリードを許し、大谷のバットからの快音も聞こえないまま試合は淡々と進んだ。

日本では「こどもの日」ということもあり、折り紙兜を被った日本人ファンの姿も見受けられたのだが、今日はエンゼルスの選手にホームランは出ず、ホームラン・セレブレーションで鹿児島の甲冑工房丸武産業製の兜を「パイルダー・オン」する兜甲児的なパフォーマンスは見ることが出来なかった。

今日のShow Timeは残念ながら野球のパフォーマンスではなく、巨大スクリーンに映し出されるコーセーによってあ~せい、こ~せ~と演技指導された姿のみであったのだが、通常は♪飛ばせ 鉄拳 ロケットパンチ♪によって放たれる外野センター奥の巨大な人工岩と滝まで架けられるアーチの軌道が期待されている。ちなみにその装飾はかつて親会社であったウォルト・ディズニー・カンパニーの時に大幅な改修に着手して出来たものの名残であり、エンゼルスの選手がホームランを打つと、約27メートルの高さまで火が勢いよく噴き、花火も打ち上がるアトラクションが提供されている。

メキシコでの思い出を胸に売店でタコスとブリトーを買って景気づけをすると逆転猿と和訳される「ラリー・モンキー」のラリッた姿に後押しされ、9回裏ツーアウトの土壇場からエンゼルスが同点に追いついてしまった。

試合は延長戦に突入し、ノーアウト2塁から始まるタイブレークの10回表のレンジャーズのスコアボードに首尾よくゼロが記された。10回裏のエンゼルスの攻撃は主砲トラウトからであったが、最近の試合で虹ますのようなアーチをかけずとも申告敬遠の憂き目に会い、切り身にされるような断腸の思いで一塁に向かって行った。

ノーアウト1塁、2塁のサヨナラの好機にShow Timeがお膳立てされたものの、大谷はセカンドゴロに倒れ一死1・3塁で大谷が一塁ベースコーチに反省の弁を述べたのも束の間、次打者アンソニー・レンドンへの初球はワイルドピッチとなり、期せずしてエンゼルスがサヨナラ勝ちを収め、球場内は歓喜の嵐に包まれたのであった。

5月6日(土)
IHGリワーズクラブのポイントがさらに余っていたので25000ポイントの支払いで宿泊したCandlewood Suites Anaheim – Resort Areaをチェックアウトするとディズニーランドの城下町であるアナハイム市内をModel 3で軽く流し、空港近くのサンタモニカまで足を延ばしたのだが、桜田淳子の♪来て 来て 来て 来て サンタモニカ♪という歌声に統一教会の幻影を感じたので車から降りることなくそのままHeartzの営業所に帰って行った。

17:15発NH125便は定刻通りロサンゼルス国際空港を出発し、機内映画の「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」を見ながら次のメキシコツアーの折にはヒューストン空港を経由することになるだろうと考えていた。

5月7日(日)
飛行機が日本に近づくにつれ、Losでの楽しい生活が走馬灯のように脳内を駆け巡りLosロスの感情が押し寄せてきた。マサにそれはロス・インディオスとシルビアが歌う♪別れても好きな人♪に通ずるものがあったのだが、その歌がヒットしている当時の六本木のスナックで歌われていた♪別れたら~ 次の人♪のように未来志向が重要ではないかと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥134,540 / passenger、United航空 = ¥32,350 / passenger
総宿泊費 US$1,065.68
総レンタカー代 US$114.23
総タクシー代 US$115、M$1,000(M$1 = ¥7.8)
総バス代 M$104

協力 ANA、United航空、IHG、HILTONHHNORS, Heartz Rental Car

カリブ海の宝石グレート・ブルーホール魅惑のベリーズツアー

日本人のリゾートの定番は沖縄や八重山諸島であるが、アメリカ人やカナダ人にとっての沖縄的リゾートとして美しい海と珊瑚礁に恵まれ、「カリブ海の宝石」との異名を取るベリーズという中南米の小国が君臨している。四国ほどしかない英連邦王国は美しい海と世界屈指の珊瑚礁資源に恵まれているものの、日本人にとってはマイナーなリゾート地くらいの感覚であろうが、カリブ海にぽっかりと空いた魅惑のブルーホールは世界中から観光客を吸い寄せているのである。

2016年12月29日(木)
10時50分発NH174便は定刻通りに成田を出発し、約12時間のフライトでヒューストン・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に午前7時頃到着した。United Clubのラウンジで数時間をやり過ごすと11時35分発UA1569に乗り換え、約2時間半のフライトで午後2時頃にベリーズシティに到着する運びとなった。

早速空港で客待ちしているタクシーに乗り、ベリーズ・シティに向かったのだが、市内自体は大した見どころもないのでリゾート地へのフェリーが発着するWater Taxi Terminalで下車することにした。何とか3時発サンペドロ行きの便にぎりぎり間に合ったので慌ただしく荷物を預け、チケット売り場で往復チケット(US$35)を購入するとBeliez Expressが運行する小型のボートに乗り込んだ。

さすがにホリデーシーズンだけあって、Water Taxi内は満席で皆方を寄せ合うようにして猛スピードで疾走するボートの振動に耐えていた。約1時間程で最初の寄港地であるキーカーカーに到着し、そこで多くのバックパッカーを降ろすとサンペドロへ向かう乗客は何故か別のボートに乗り換えさせられ、さらに30分疾走して午後4時半頃に今回のツアーの拠点となるサンペドロに到着した。

ベリーズ・シティで慌ただしく乗船したのが祟ったのか、チェックインしたスーツケースが到着していないというトラブルに見舞われたため、港近くのビーチバーでナッチョスと美しい海を肴に地元のBELIKINビールを飲みながら1時間程時間潰しをさせていただいた。

次の便が到着した5時半には日が西に傾きかけており、荷物を受け取るとそそくさとタクシーを探して今回の宿泊先であるRoyal Caribbean Resortへと急いだ。道中饒舌なタクシーの運ちゃんがサンペドロの町に関する様々なことをしゃべり倒してくれたので約20分かそこらでここで生活するのに困らない情報を手にしていたのであった。

Royal Caribbean Resortはさほど高級ではないもののしっかりとハイシーズン価格が設定されており、Reception棟に到着するとマヤ人の風貌を持つ受付ギャルにビーチに程近いコテージに案内していただいた。日もとっぷり暮れ、ウエルカムドリンクであるラム酒のカクテルのチケットをもらっていたのでビーチサイドのバーで南国の風に吹かれ、小エビをつまみに長旅の疲れを癒していた。

12月30日(金)
朝食を取るためにしばし隣のリゾートの広大な敷地をさまよい、コーヒーショップのお姉ちゃんと雑談に興じた後、Royal Caribean Resortに戻るとプールではダイビングの講習が執り行なわれていた。敷地内のやしの木にたわわに実っているココナッツは手の届く範囲にあり、海に突き出ている桟橋を歩くと透明度の高いカリブ海の眺望がどこまでも続いていた。

ベリーズの中では高級リゾート地としての地位を確立しているサンペドロの主要交通手段は島内に4,000台以上は登録されているというガソリンで動くゴルフカート($60/日)ということなので早速Resortでレンタルするとドライバーでティーショットを打つ勢いで颯爽とサンペドロの散策に繰り出すことにした。

ベリーズにはキーと呼ばれる砂とサンゴ礁の小島がたくさんあり、キーのなかで最も大きなアンバーグリス・キーの中心となっている町がサン・ペドロである。町の中心部の道路は狭く、舗装されているのだが、ゴルフカートのアクセルをべた踏みしても速度は15km/時くらいしか出ないようなので、いかに多くのカートがひしめいていても交通事故は起こりえないような交通事情だと思われた。

Water Taxiが発着する桟橋が町の中心になっており、そこから北へ続くビーチは散策するには格好の景色とさわやかさを提供している。やしの木の陰では家族がピクニックを楽しんでおり、子供たちは透明度の高い浅瀬ではしゃぎまわっていた。

ボートが行き来する浅瀬に架かる橋を超え、北部のリゾート地帯に侵入すると木造4階建ての建物が目についた。ハリケーン直撃地帯での建造物なので高い強度とエコな概観がうまく両立されているように思われた。ホテル等でレンタルするカートは性能が制限されている様子で町外れに来ると地元民が転がす高性能カートに次々と抜かれることになる。舗装していないぬかるみ道路に突入すると私のカートはスタックし、後輪はむなしく空回りを繰り返すだけであった。そこに現れた屈強なリゾート従業員がその人並みはずれた腕力でカートの後方を抱え上げ、アクセルを全開させると何とかぬかるみから脱出することがかなったのだった。

たそがれ時に町中に戻ると浮遊するニコニコマークのふもとに海上に浮かぶレストランがにぎわっていたので夕食はここで取ることにした。キンキンに冷えたBELKINビールとナッチョスで乾杯し、シーフードを食らっていると海辺の景色は夕暮れから夕闇へとしっとりと変貌していった。

宿泊地に帰る道すがらに飲料水を仕入れるべく、サンペドロでは最大手だと思われるスーパーに立ち寄った。ここで売られているスナック類はせいぜいポテチかナッチョスの類のみだと高をくくっていたのだが、お菓子の陳列棚を賑わしていたのはおびただしい種類の日本製駄菓子の集団だったのだ。

12月31日(土)
ベリーズに来てブルーホールを見なければ帰国した後にブルーな気分に苛まれることは必至だと考えたので昨日ブルーホール・スノーケリングツアー($259.38、入園料込み)への申し込みを済ませておいた。Royal Caribbean Resortの桟橋に午前5時半に迎えに来る手はずになっていたので暗がりの中で待っていると20分ほど遅れてやってきたボートに乗り込んだ。いくつかのResortで何組かをピックアップし、マリンアクティビティのメニューが豊富であるはずのRamons Villageという高級Resortで下船し、そそくさと手続きを行った。少し大きめのクルーザーに乗り込むとスコールの洗礼を浴びたおかげで夜が明ける頃には見事な虹がカリブ海をまたいでいた。

6時前に出港となったクルーザーは外洋に出ると荒波の中、船体をバウンドさせ、参加者の臀部にダメージを与えながら2時間半程の航海で念願のブルーホールに到着した。世界遺産に指定されているベリーズ珊瑚礁保護区はオーストラリアのグレートバリアリーフに次ぐ2番目の規模を誇る環礁地帯で、その中心となるブルーホールは深さ125m、直径300mを誇り、空から見ると海の中に開いた青い穴がすべてを吸い込んでいくように見えるという。

あわただしく準備を始めた参加者たちはダイビング組とスノーケリング組に別れ、船上でのオリエンテーションの後、それぞれ海へと吸い込まれていった。

海中の透明度は非常に高く、ガイドの誘導に従ってサンゴ礁への接触を避けながら環礁地帯を揺ら揺ら漂っているとカラフルなサンゴとその周辺を遊泳する白身魚系の魚がマサに手の届きそうな範囲でうごめいていたのだった。

30分ほどで船に引き上げられ、上部のデッキからあらためてブルーホールを見るとその海の色の違いははっきりと確認出来たのだが、全体像を見るにはやはり高値の遊覧飛行か、さらに高値のブルーホールへのスカイダイビングに参加すべきではなかったかと思われた。

ブルーホールを後にしたクルーザーは同じく珊瑚礁保護区で世界遺産のハーフムーン島へと舵を切った。天国に何番目かに近い島であるはずのハーフムーン島周辺の海はこれまた抜群の透明度を誇っており、島に上陸するや否やいきなりスノーケリングスポットへの移動と相成った。

海の中はサンゴと魚の博物館の様相を呈しており、魚群がひしめいている方向へ向かってFinを蹴ると魚の隊列は日体大が誇る「集団行動」を凌駕する規則正しさで一斉に方向転換し、人類の接近をたくみにかわしていたのだった。

スノーケリングを終え、ダイビングチームが合流するとお待ちかねのランチタイムとなった。ナッチョスはなかったものの赤飯系のライスやカリブ海風の味付けで煮込まれたチキンは美味であり、昼食後は海亀産卵のために保護された白砂のビーチの上でしばしくつろぎの時間を過ごさせていただいた。

青と白のコントラストがまぶしいハーフムーン島を後にするとクルーザーは最後のアクティビティスポットであるロングキーに停泊した。ここでは潜水しているダイビングチームのほぼ真上でスノーケリングが行われ、船上から餌付けされた魚と戯れながらダイバーの奮闘を高みから見下ろすことが出来たのであった。

ということで、すべてのアクティビティが終了すると参加者は猛スピードで疾走するクルーザーの上で疲れ果てて寝込んでしまっていた。午後5時過ぎにRamons Villageに帰還し、支払いを済ませると送迎ボートでRoyal Caribbean Resortへの帰路についたのだった。

部屋のシャワーで海水を洗い流し、ブルーな気分で余韻に浸っていると思いのほか腹が減っていることに気づいたので飯を食うために外に出ることにした。町中に向かうメインストリート沿いにはResortが軒を連ねているのだが、その中でも一際豪華そうな看板のレストランに引き寄せられていった。グラスシャンパン付きのディナーコースがおすすめということでメニューの説明を聞くのもほどほどにまずは発注することにした。豪華ディナーは前菜のロブスターと野菜のクレープ風トルティーヤ巻きからはじまり、メインのビフテキは軽く1ポンドを超えているかのような重量感を誇り、デザートは日本のレストランで供される物の数倍のボリュームに感じられ、スイミングですり減らせた脂肪分が見事にオフセットされたのであった。

2017年1月1日(日)
真っ赤に日焼けした柔肌のヒリヒリ感を土産に定刻午前11時にRoyal Carribean Resortをチェックアウトすると自動車のタクシーでWater Taxi乗り場に移動し、11時30分発のキーカーカー経由ベリーズシティ便に乗り込んだ。今日も船内は満席で最後尾のオープンスペースに席を取ったカナダ人のおね~ちゃんは水着姿で激しい波しぶきを浴びながら1時間半の航海に耐えていた。

Water Taxiがベリーズシティの桟橋に到着するとリゾート仕様の大荷物を待っている観光客は船からの荷物降ろしと移動、さらに観光客が手出し出来ない囲いの中に荷物の台車が放置されている間は指を加えて待たされる仕組みになっている。何とか半券と引き換えに荷物を取り戻すと速攻でタクシーを捕まえ空港への帰路についた。

ベリーズシティ空港のターミナルは発着便数が少ないせいか非常に狭く飯を食うのもままならなかったのでとりあえずBELKINビールを2本ほど空けて出発までの時間潰しに興じていた。17時発UA1406便は定刻どおりに出発し、定刻19時半過ぎにヒューストンに到着した。空港からホテルのシャトルバスでHoliday Inn Houston InternationalAirportに移動すると隣のレストランは正月時間のため午後9時で閉まってしまったため、道路向こうの24時間レストランで夕食を取る運びとなった。中米旅行の余韻を引きずるようにTacoサラダとシーフードプレートを発注した。シーフードは新鮮な魚介類の盛り合わせを期待していたのだが、出てきた料理は白身魚のフライ、魚のすり身団子のフライ、エビフライ等油物のてんこ盛りだったので、♪カナブンboonでもエビinビン♪と唱えて萎えた気持ちに応えるしかなかったのだ。

1月2日(月)
早朝蒸し暑さを感じながら空港へのシャトルバスに乗り込み、搭乗手続き後United Clubラウンジの窓から雷の閃光を眺めていた。搭乗ゲートに移動すると雷を伴った荒天のため、搭乗時間が1時間ほど遅れるというアナウンスがむなしく流れていた。10時15分発予定だったNH173便は1時間ほど遅れてヒューストンを出発し、ホイットニーの怒りが静まった頃、安定飛行へと移行したのであった。

1月3日(火)
定刻より1時間遅れの午後4時過ぎに成田に到着し、ブルーな気分を引きずらないように職場復帰しなければならないと肝に銘じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥238,690
総宿泊費 ¥79,575、$98.99
総タクシー代 $75
総Water Taxi代 $35
総ゴルフカート代 $60
総ブルーホールスノーケリングツアー代 $259.38

協力 ANA、ユナイテッド航空、Booking.com、IHG、Ramons Village

IchiRoad to 3000 in マイアミ with ドミニカ共和国

FTBはイチローの2001年のMLBデビュー以来、MLBの様々な球場でイチローの雄姿を見守ってきた。
http://www.geocities.jp/takeofukuda/2001mlb3.html
http://www.geocities.jp/takeofukuda/mlb.html

3000本安打という金字塔が達成間近になり、にわかにカウントダウンが熱を帯びてきたこの時期に飛行機を飛ばしてわざわざアメリカの端っこまで足を伸ばすことはMLB評論家を自任するFTBとしては当然の義務なのだが、果たしてイチメーターは進んだのであろうか!?

2016年7月8日(金)
17:10発ANA114便シカゴ行は定刻通りに出発し、機内で東芝日曜劇場「天皇の料理番」を見ながらエコノミークラスの機内食の不十分さを心理的に補っているうちにシカゴオヘア空港に午後3時前に到着した。ユナイテッド航空が運航する19:21発NH7800便に乗り換えると約3時間弱のフライトでマイアミ空港に着いたのは午後11時半を回った時間であった。Holiday Innホテルのシャトルバスが中々来ないことに苛立ちを隠せないどこぞの航空会社の乗務員のクレーム電話に耳を傾けながらバスを待っていると30分待ちでやってきたバスに乗りホテルに着いた頃には日付が変わってしまっていたのだった。

7月9日(土)
空港から1.6マイルしか離れていないHoliday Inn Miami International Airportからシャトルバスで再び空港に戻るとMetororailという公共交通機関でマイアミダウンタウンまで移動し、さらにダウンタウン内を無料で移動出来るMetromoverに乗り換えてBayfront Parkという駅で下車する運びとなった。今回は「I」のロゴを持つホテルに宿泊するこだわりを見せていたのでシーズンオフで安値で宿泊出来るIntercontinental Miamiにチェックインするとしばし窓辺からカリブ海クルーズの出航地となっているマイアミ港の景色を眺めていた。

アシックスをお払い箱にして2015年のシーズンよりイチローが採用したビモロシューズの紐を締めなおして再びMetromover、Metrorailを乗り継ぎ、Culmerという駅からMarlins Park行きのシャトルバスに乗ると午後3時前には全天候型スライド開閉式屋根付きエアコン完備球場であるマイアミ・マーリンズの本拠地に到着した。

手始めに球場の全容を解明すべくスタンド周りを一周して見たのだが、Team Shopではイチローユニフォームが日本語版、英語版共販売されており、イチローの3000本安打達成を前祝いするかのようにイチローグッズの専門店まで開業していたのだった。さらにライトスタンド後方には電光式Ichimeterが現在の通算安打数である2990を誇らしげに灯していた。

イチロー率いるマイアミ・マーリンズ対シンシナチ・レッズの試合は4時10分にプレーボールとなったのであるが、チーム事情から主役のイチローは序盤はベンチを温めて、3塁側スタンド前列に席を取ったFTB一行に対してその形の良い後頭部を披露するにとどまっていた。試合の方はレッズの左投手のLambが羊肉のように臭いコースを突いてマーリンズ打線も湿りがちだったためか、762本のMLB本塁打記録を持つバリー・ボンズ打撃コーチもその坊主頭を抱えていたのだった。

冬場のバカンスシーズンではないため、千葉ロッテ・マリーンズ程度の観客数しか入っていない球場が盛り上がりを見せ始めたのは、当然のことながら主役のイチローがネクストバッターズサークルに姿を現した8回の裏2死1,2塁の場面であった。

場内に「Ichiro Suzuki」の名前がコールされると観客は総立ちとなり、事前に配られていた「ROAD TO 3000」のパネルや多くのファンが手にしているイチローの人面ウチワをが打ち振られ、皆ライトスタンドのIchimeterが2991に代わることを疑っていなかったのだが、無念にもこの日のイチローはピッチャーゴロに倒れてしまったのだ。

結局試合の方は地元のマーリンズが4対2で勝利を収め、イチローも勝利のハイタッチに参加してその見事なチームワークスピリットを観客に示してくれていたのだった。

試合終了後、晩飯の頃合いになっていたのでシャトルバスと公共交通機関で一路ホテルに帰還し、ダウンタウンに「スシロー」等の高級日本食屋が開業していれば、一番高いネタの皿を天高く積み上げて溜飲を下げようと思ったのだが、和食探しが徒労に終わったため、ホテルの肉食レストランである「Toro Toro」でおすすめの「Nikkei」と名乗る宮崎ブランド牛を断ってToro Toroという南米肉セットを食らってIchiroのリベンジを祈願しておいた。

7月10日(日)
今日はMLBオールスター前の前半戦最終戦ということで、前日と同じカードのマーリンズ対レッズ戦は午後1時10分からの開始となったのだが、昨日と同様にイチローはスターティングメンバ―に名を連ねていなかった。試合の方はバリー・ボンズ打撃コーチの適切なアドバイスが功を奏したはずの主砲ジャンカルロ・スタントンのホームランがレフトスタンド上段に突き刺さり、マーリンズ有利の展開で進んでいった。

スタントンのホームランの喧騒を凌駕するイチローコールが場内にこだましたのは7回裏無死1塁のチャンスに代打イチローが起用された場面であった。

しかし、相手投手のスライダーがイチローの足を直撃するとイチローコールは一瞬にしてブーイングの嵐となり、手当に向かったトレーナーを制するようにイチローは軽やかな足取りで一塁に向かっていった。

試合の方は7対3でマーリンズが勝利を収め、プレーオフ進出を期待する地元ファンは喜んでいたものの、日本からはるばるイチローのヒットを期待して見に来たファンはイチローの出場機会が制限されていることにフラストレーションを抱えているようだった。しかし、イチローの調子自体は全盛期を彷彿とさせるほどのヒットメーカーに復活しており、7月中には3000本安打を打つことは確実視されているのだが、あとはマーリンズサイドのマーケティングとの兼ね合いになるかも知れない。

7月11日(月)
午前11時頃インターコンチネンタルホテルをチェックアウトしてホテルに内蔵されているAlamoレンタカーでヒュンダイ小型車をレンタルするとダウンタウンから少し離れたリゾートエリアであるマイアミビーチを軽く流していた。細長いビーチのパーキングメーター式駐車場はどこも満車状態で何とか見つけた駐車場に車を止めてビーチに足を踏み入れてみるとそこはマサに大西洋のセレブビーチの様相を呈していたのだった。

今回はマイアミビーチでのアクティビティは予定に入れていなかったので、速やかに車に戻ると世界遺産の湿地帯として君臨しているエバーグレーズ国立公園($20/車1台)に向かうことにした。同公園にはいくつかの観光ポイントやビジターセンターがあるのだが、一番簡単にアクセス出来る淡水地帯のシャークバレービジターセンターを訪問させていただいた。

通常ここでのアクティビティは24km先の展望台までトラムか貸自転車でアリゲーター等を見物しながら到達して戻ってくることであるのだが、今日は時間がなかったのでとりあえず午後3時からのパークレンジャーのプレゼンテーションを拝聴することにした。現在エバーグレーズで大きな問題の一つになっているのは外来種の脅威であり、元々ペットとして飼われていたビルマニシキヘビが公園に放流され、そいつらが繁殖し、ワニと仁義なき戦いと繰り広げているので駆除しなければならないと申していた。

公園には野生のボブキャットが生息しており、ボブキャット・トレイルを抜けてシャーク川に辿り着くそこにはアリゲーターが水面をなめらかに移動し、正直そうに見える白い鳥のサギが正攻法で魚を取っている光景を目にすることが出来た。

午後5時にはマイアミ国際空港でヒュンダイ車を返却し、アメリカン航空AA1337便が1時間の遅れを出したものの午後7時半にマイアミを飛び立ち、約2時間のフライトでドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴのラス・アメリカス国際空港に午後9時半頃到着した。早速空港のATMで現地通貨を2000ペソ程引き出すとタクシーで今回の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルのCatalonia Santo Domingoに移動し、2013年に行われた第3回ワールドベースボールクラシック(WBC)での同国の優勝を讃えながら眠りにつかせていただいた。

7月12日(火)
ドミニカ共和国は、カリブ海でキューバに次いで2番目に大きなイスパニョーラ島の東半分を占めており、国全体の面積は九州に高知県を足したくらいの大きさである。コロンブスが第1回航海の時に足を踏み入れたドミニカ共和国は、当初スペインによって新大陸で最初の町が造られ繁栄したのだが、その栄華を伝える歴史遺産が旧市街に残っているので早速訪問することにした。

ソーナ・コロニアル(旧市街)という一角は世界遺産にも指定されており、歴史的建造物が数多く残っている。まずは旧市街のランドマークになっているコロンブス広場でクラーク博士ばりに指をさしているコロンブスの像にイチローの3000本安打の早期達成を祈っておいた。

1492年~1821年まで、歴代の総督が住んでいた官邸がラス・カサス・レアル(王宮)博物館(RD$60、オーディオガイド付き)として開業していたので見学させていただくことにした。展示物は多岐にわたり、サンタ・マリア号など、航海に使われた帆船のミニチュア模型や、何故か桃山時代から江戸時代にかけての日本の甲冑や刀まであり、サムライ・ジャパン魂もここまで届いていたのかと驚かされもした。

博物館の目の前には石碑のような日時計が鎮座しているのだが、これは1753年に造られた新大陸で最も古い日時計で長きに渡ってこの町の波乱万丈を見守ってきた威厳を湛えていた。

ホテルが海に面していることもあり、レストランでシーフード三昧を楽しむことにした。ロブスターのサラダ、タコのソテー、プリプリ白身魚の焼き物やパエリア風シーフードライスを召し上がったのだが、どれも日本人の味覚にマッチしており、広島カープアカデミーオブベースボール(http://www.carp.co.jp/facilities16/dominica.html)の日本人スタッフもきっと満足したであろうと思われた。

7月13日(水)
ホテルの目の前はカリブ海の絶景とはいえ、バカンス用のビーチではなかったのだが、地元住民が何人か泳いでいたので軽く水浴びをすることにした。何気ない住民の憩いの場に見えるビーチだが、砂浜はウミガメの産卵地にもなっているようで海の生態系の重要な役割さえも担っていることが確認出来たのだ。

再び旧市街に繰り出し、マイケル・ジャクソンに扮装した大道芸人のチップ缶にコインで音を鳴らして景気づけをした後、昨日は見ることが出来なかった重要ファシリティのいくつかを見学することにした。昨日訪れたコロンブス公園の背後にどっしりとした大聖堂(RD$100、オーディオガイド付き)が多くの観光客を集めていたので入ってみることにした。1510年にスペイン王朝の依頼を受けて新大陸初の教会建設に着工したのが建築家のアロンソ・ロドリゲスというゲス野郎だったのだが、労働者たちが富を求めてさらに先へと航海に出たので工事は中断となり、建築再開は1519年で完成をみたのは1540年だということだが、何とか新大陸で一番最初の大聖堂の誕生という栄誉だけは守られたのだった。

サントドミンゴ大聖堂ともいわれるこの建築物は、ルネッサンス様式とゴシック様式の混合で、白い珊瑚礁の高い天井が印象的である。内部の祭壇のわきには14ものチャペルがあり、1506年にこの世を去ったコロンブスの遺体も遺言通りにスペインから運ばれてここに安置されていたという(現在はコロンブス記念灯台に移されている)。

サント・ドミンゴの旧市街は要塞に囲まれているが、その中心となる要塞がオサマ砦(RD$70)である。ここは1505年~1507年の間に造営されたサント・ドミンゴをカリブの海賊から守るための防衛の拠点となっている。高さは18.5mで、当時は市内で一番高い建物であり、新大陸時代最初の軍事建築物でもある。

昨日は押し売り観光ガイドの心理的ブロックにより入るのをためらったパンテオンにスペイン語、英語がわからないふりをして突入することにした。1714年にイエズス会の教会として建てられたパンテオンは、その後タバコ倉庫、国立劇場に変貌を遂げ、1955年にドミニカ共和国の歴代の総督や国民的英雄が眠る霊廟となり、常に衛兵に警護されているのだ。

ラス・カサス・レアル博物館からオサマ川沿いの防護壁沿いを練り歩き、中世ヨーロッパに匹敵する雰囲気を楽しんだ後、番猫により警護されているサンフランシスコ教会の廃墟を鉄格子越しに眺めた。勤勉な番猫は観光客に頭を擦り付けたり、膝に乗ったりと執拗なマークを緩めることはなかったのであった。

7月14日(木)
早朝ホテルをチェックアウトするとタクシーでラス・アメリカス空港に移動し、定刻9:00に出発したAA1026便でマイアミに帰って来たのは正午前であった。空港のAlamoレンタカーで再びヒュンダイ小型車をレンタルするとフロリダ半島の南端部に向かってひたすら車を走らせた。エバーグレーズ国立公園のゲートを抜け、フロリダ湾に面したFlamingo Visitor Centerに午後4時前に到着した。11月~4月が観光シーズンということもあり、真夏のこの時期は観光客も少なく閑散としているのだが、虫刺されに対する注意を促すFlamingo Mosquite MeterがIchimeter並みの存在感を示していた。

Flamingo Visitor Centerではフロリダ湾周遊コースもしくは湿地帯内部に分け入るコースの2種類のボートツアー(それぞれ$35/1.5HR)が定時開催されているのだが、丁度4時からBlack Waterという湿地帯ツアーがスタート目前となっていたので参加することにした。

ツアーガイド兼運転手のALEXの早口での説明によると今から通過する運河は人為的に作られたもので、この運河により湿地帯の環境に多大なる影響がおよぼされたという。淡水と海水が混じった汽水域であるこのあたりに生えているマングローブは4種類で、ワニは汽水域や海洋に住むクロコダイルと淡水域に住むアリゲーターの2種類が生息しているという。出航後早速岸辺で口を開けて休んでいるクロコダイルを発見したのだが、今回のツアーでワニをまともに見れたのはこの時だけで、期待していた多くのワニに囲まれてV6の♪ワニなって踊ろう♪を歌い踊るという状況には決してならなかったのだ。

エバーグレーズ一帯は哺乳綱海牛目に属するマナティーの生息地で、ツアー中にマナティーも姿を現し、観光客も思わず席を立って前のめりになったのだが、水の黒さに阻まれてその人魚のような雄姿を拝むことは叶わなかったのだ。いずれにしても動物がアクティブに行動するのは冬場ということで、ALEXの言う外来種の蛇との遭遇も不発に終わり、ツアーのほとんどの時間はマングローブを育てる黒い水面をむなしく眺めるにとどまってしまったのでALEXのチップの売り上げもほとんどゼロだったのだ。

アブのふくらはぎチクチク攻撃をかわしつつ、ボートツアーは5時半に終了となり、北米に生息するマウンテンライオンの亜種であるフロリダパンサーの幻影を追いながらエバーグレーズを後にして今日の宿泊先であるHoliday Inn Miami International Airportへとひた走った。

7月15日(金)
松田聖子よろしく♪マイアミの午前5時♪前に目を覚まし、5時半にホテルを出て空港のレンタカーセンターでヒュンダイ社を返却すると7:28発のUA便でシカゴまで飛んで行った。さらに11:00発ANA11便に乗り込むと12話を機内ビデオで一気に公開している「天皇の料理番」を完結して眠りにつくこととなった。

7月15日(土)
イチローの3000本安打達成を後押しするかのような追い風に乗ったおかげで定刻より1時間以上前の12時半過ぎに成田空港に到着し、イチロ自宅への帰路につく。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \144,000、AA = \44,180
総宿泊費 $867.76
総タクシー代 $80
総バス代 $9
総メトロ代 $11.25
総レンタカー代 $151.04
総ガソリン代 $35.29

協力 ANA、ユナイテッド航空、アメリカン航空、Priceline.com、Alamoレンタカー、楽天トラベル、Booking.com、IHG

FTBコスタリカの緑の魔境に幻の火の鳥は実在した!

オールスターとは程遠いMLB選抜チームを招待して行われた日米野球はサムライジャパンの勝利で幕を閉じたのであるが、未だにMLB公式球と日本の統一球の仕様の違いは解消されないという点で十分な国際化には至っていない現状である。ところで、米国の一流スポーツメーカーのローリングス社が独占提供するMLB公式球は中米のコスタリカで製造されている事実を知っている輩は少ないはずである。

中米の中でも情勢が安定しているコスタリカには多くの海外企業が進出している一方で、自然という観光資源を活かしたエコツーリズムなる手法で多くの観光客を集めている。今回はそのエコツーリズムの象徴とも言える幻の火の鳥を探しに緑深い湿ったジャングルに足を取られながらも練り歩くツアーが開催されることとなったのだ。

2014年11月26日(水)
羽田空港国際線のANA SUITEラウンジで豪華ディナーを楽しみ、そのまま深夜便で寝ながら海外に飛び立つ旅のスタイルを確立させた24:05発NH1006便に乗り込むと10時間程度のフライトでロサンゼルスに到着したのは夕暮れ迫る午後5時くらいであったろう。そのまま空港のシャトルバスでHoliday Inn LOS ANGELS-INTL AIRPORTに移動すると明日の早朝フライトに備えてとっとと休ませていただくことにした。

11月27日(木)
中米の優等国であり、世界の架け橋として君臨するパナマの航空会社であるCopa Airlinesが運行する5:20発CM361便に搭乗し、約6時間半でパナマの首都パナマシティに午後3時前に到着すると、引き続き午後4時発のCM164便に乗り換えて1時間程でコスタリカの首都サン・ホセのホアン・サンタマリア国際空港に4時20分頃到着した。

無事に入国審査、、税関をクリアして入国を果たし、手持ちのメキシコペソをいくばくかの現地通貨コスタリカ・コロンに両替するとタクシーの客引きをスルーして安い路線バスに乗り込んだ。バスがサン・ホセの中心部に入った頃にはラッシュアワーの渋滞に巻き込まれ、満員の乗客と一緒に終点のAvendia2という大通りのバスターミナルで吐き出された。サン・ホセ市街地は碁盤の目のような街づくりがされているものの一方通行の道は多くの市民と車で溢れており、狭い歩道をスーツケースを転がしてホテルに辿り着くまでにはかなりの時間を要してしまった。

当地では☆☆☆☆☆ホテルとしての地位を確立しているHoliday Inn SAN JOSE AUROLARAにチェックイン出来たのは午後7時近くになっていたのだが、観光情報を入手するためにあえて喧騒の街中に繰り出すことにした。地方への長距離バスが発着するバスターミナルがコカコーラ地区にあると聞いていたので向かってみたのだが、そのあたりはスカッとさわやかとは程遠い怪しい雰囲気が漂っていた。さらに明日の目的地であるマヌエル・アントニオ行きのバスがここではなく、他のバスターミナルだという貴重な情報を地域を警備するPoliceから入手出来たので,その足でホテルまで戻り、Thanks Giving Dinnerのターキーに舌鼓を打ちながら明日からのアドベンチャーに思いを馳せていた。

11月28日(金)
早朝ホテルをチェックアウトし、タクシーを調達してくれたベルボーイからバスターミナルでの荷物の管理の仕方を習うとTORACOPA社のバスが発着するバスターミナルに向かった。特にこれと言った不安もなく窓口でチケットを購入し、午前9時発のバスに乗り込むと車窓からまぶしい光を浴びながら、4時間弱でコスタリカで最も人気のある国立公園のひとつであるマヌエル・アントニオに到着した。

agodaに予約させておいた☆☆☆リゾートホテルのHOTEL VILLABOSQUEは公共ビーチや国立公園の入り口にも近い抜群のロケーションを誇っていたので、チェックイン後に早速ビーチを散策することにした。海岸を歩いているイグアナを追い越して波打ち際に向かうと、そこにはスペイン語でコスタリカを表すマサに「豊かな(Rica)海岸(Costa)」が広がっていたのだ。

昼飯時も過ぎていたのでビーチ沿いのカフェで牛肉入りNachosを地元のビール「Imperial」で流し込むと再び周囲を散策し、ノドジロオマキザルの観察に精を出していた。また、近辺では至る所で円球石が目につくのだが、コスタリカの石球は考古学上その成立や製造法などが不明とされたり、当時の文明の加工技術や知見では製造が困難あるいは不可能と考えられたりするオーパーツに数えられている。その真球度は誤差数ミリと言われており、現代における野球ボールの生産大国にふさわしい技術を古代から持っていたことがうかがい知れるのである。

夕暮れ時に雨模様になったにもかかわらず、帰りのバスチケットと物品の購入のためにローカルバスに乗って近隣の町ケポスまで足を伸ばすことにした。さすがにコスタリカ有数のリゾート地ということもあり、バスの乗客の上半身裸率が非常に高いという現実がまぶたに刻まれたのだった。

ホテルに仁義を切るために夕食はホテルのレストランでいただくことにしたのだが、シーフードのスープにはかにみそを撤去された蟹が浮かんでおり、肉、魚等をマイルドに焼き上げたメインディッシュも見事な装飾が施されており、非常にコストパフォーマンスの高いディナーを楽しむことが出来たのだ。

11月29日(土)
マヌエル・アントニオ国立公園は朝7時に開園して午後4時には閉まるので、ホテルでの朝食をそそくさと済ませるとガイドなしでは動物を見るのもままならないとうそぶくネイチャーガイドの勧誘を振り切り、入り口で入園料$16を支払って突入することにした。公園内はトレイルが整備されているので鬱蒼とした熱帯雨林のジャングルであっても気軽に森林浴を楽しむことが出来るのだが、早速大きなねずみのようなアグーチという哺乳類が動物観察の扉をこじ開けてくれた。

熱帯雨林を抜けると美しいビーチが出現し、公共ビーチとは打って変わった静かな環境下ですでに多くの観光客が海水浴や日光浴に勤しんでいた。人間が集まるビーチとは反対側の海辺は水鳥の楽園となっており、ペリカンやサギ系の鳥達が集団で漁に精を出し、樹上のサンショクキムネオオハシがその様子を静かに見守っていた。

ビーチのそばの半島を一周するトレイルはセンデロ・プンタ・カテドラルという起伏のあるジャングルトレイルとなっており、時折ジャングルの隙間から顔を出す青い海の光景は絶景以外の何物でもないのである。

再びビーチに戻る頃には人影も増えると同時にその周辺で多くのキュートな縞模様のしっぽがうごめいていた。恐れも遠慮も知らぬアライグマの集団は海水浴客が置いているバッグを漁り、首尾よくバナナやスナックを引き出すことに成功すると戦利品を囲んでファミリーでにわか宴会に興じていたのだった。

ビーチの休憩所の大木はナマケモノのテリトリーだと聞いていたのだが、今日は出張に出ている様子だったので、違うトレイルの散策をしながらさらなる動物探しに励んでいた。樹上のざわめきとともにノドジロオマキザルの集団も活動を開始しており、多くの観光客がサルと一緒に写真に納まろうと躍起になっていた。

ビーチリゾートと国立公園のハイブリッドの実力を十分に堪能できたので午後2時半発のバスでサン・ホセへの帰路に着いた。昨日と今日のアクティビティで自然豊かなコスタリカのオリエンテーションも終了したので明日からは現地ツアーを利用した本格的なエコツーリズムへの参戦が待っているのである。

11月30日(日)
コスタリカで1997年に開業し、多くの日本人観光客をおびき寄せている「さくらツーリスト」にモンテベルデ・アレナル火山の2泊3日ツアーを発注しておいたのだが、午前8時の出発まで時間に余裕があったのでしばしサン・ホセ市内を散策することにした。コーヒー農園や火山などの山々に囲まれた標高1,150mの高原都市サン・ホセの中心部では多くのコロニアル調の建物やユニークな銅像が目に付いた。

すでにサン・ホセでの定宿となっているHoliday Inn SAN JOSE AUROLARAに戻ると各種ツアー客を混載するバンが迎えに来ていたので早速乗り込み、エコツアーの火蓋が切って落とされた。バンはサン・ホセの市街を抜けるといつしか道は山間を縫うように走る悪路になっていた。途中休憩を取った展望台から周囲を見渡すと様々な緑が交錯する深いジャングルの遠景が長距離ドライブの疲れを癒してくれた。

出発から約4時間後にモンテベルデのゲートタウンとなっているサンタ・エレーナという小さな町に差し掛かった。バンはいくつかのホテルを回って乗客を降ろし、最後に私が投宿するHotel EL Bosqueに到着する頃には午後1時前になっていた。そそくさとチェックインをすませて隣接する本格的なイタリアンレストランでスパゲッティをすすった後、定刻午後1時45分に迎えに来たマイクロバスに乗り込み、サンタ・エレーナ自然保護区に向かった。

ツアーのメニューの一環としてこの地域で最も人気のあるアトラクションであるスカイウォークもしくはスカイトレックというキャノピーツアーを選択出来るのだが、遊園地のアトラクション系のキャノピーよりも今回はじっくりと生態系の観察を行うためあらかじめスカイウォークをオーダーしておいた。スペイン語なまりの英語を操るエドワルドと名乗るガイドが待ち構えていたので彼を従えて深いジャングルへと誘われて行った。

エドワルド曰く、ここでの期待値は動物観察というよりも植物園のような感覚でこの森特有の植生に注目するようにとの指示があったので、そのことを念頭に置いてトレッキングをスタートさせた。最初に「Epiphy」というキーワードが提示されたのだが、これは着生植物のことで他の植物の地上部の表面に生育して独立栄養を営む植物(ヤドリギのように他の植物の組織の内部にまで侵入してそれから養分を摂取するものは寄生植物であり着生植物とは呼ばない)のことである。鬱蒼とした森では太陽光線を求める競争が激しく、必然的に高く成長する木に着生した方がより効率的に太陽光の恩恵を受けることが出来るのである。

ところで、スカイウォークは森の中に掛けられた8つの吊り橋からなっており、高いものは地上50mの高さを誇っている。樹上や樹幹の植生を観察するのに最適なファシリティで高所恐怖症さえ克服すれば、遠く頭上を見上げる必要がないのでムチ打ちを患っている人でも安心して植物観察に励むことが出来るのだ。

森の中では動物はめったに姿を見せないものの時折モンキーが通り過ぎるというので頭上を見るとワイヤーに宙吊りになった人類が手を振りながらすべって行ったのだった。地上に目を転じると枯れ木に擬態したキリギリスやキュートなムカデが見受けられたのだが、タランチュラの巣穴に木の枝を突っ込んでこねくり回してもそのおぞましい姿を目にすることは出来なかったのである。

12月1日(月)
マサよ、君は幻の火の鳥ケツァールに遭遇してケツを蹴り上げられたような衝撃を覚えたことがあるか!?

ということで、すでにどこぞのホテルで日本人女性観光客2人をピックアップしたバンが定刻7時15分に迎えに来たので乗り込むと15分程のドライブでモンテベルデ自然保護区の入り口に到着した。コスタリカに来た観光客は必ず訪れるというモンテベルデ自然保護区は、ガイドの説明によると標高1,500~1,600mの高地に広がる熱帯雲霧林という独特の生態系を持ったジャングルである。大陸分嶺といわれる太平洋と大西洋両側からの上昇気流に乗った湿った空気がぶつかり、年中濃い霧や雲に覆われているため、平均気温は15~17℃程度、湿度はほぼ100%という特異な環境を形成しているのだ。

エコツアーでガイドを雇う最大のメリットは彼らが抱えている高性能望遠鏡で遠く離れた動物や昆虫の詳細まで見極めることが出来ることであるのだが、早速その望遠鏡がが穴の奥深くにたてこもっているオレンジ足のタランチュラを捕らえた。尚、当地にいるタランチュラの毒はそんなに強くないとのことで、めったに噛まないが、たとえ噛まれたとしても少々痺れる程度だということであった。

モンテベルデの植生は昨日学習したEpiphy(着生植物)が主体となっており、着生植物の重みに耐え切れず倒壊した大木が何本も見受けられた。倒壊したスペースに太陽光が差し込むとそこに新たな命の芽が生まれるため、自然のエコサイクルが永遠と続いていくのである。

定員10名の赤い吊り橋を渡ったりしながら観察を続けたにもかかわらず、なかなか幻の火の鳥の姿を捉えることは出来なかったのだが、緑の魔境に溶け込むように佇んでいるキバシミドリチュウハシがその美しいフォルムとともに絶好の被写体になってくれた。

ツアーも終盤に差し掛かった頃、にわかに森中のパパラッチがざわめき始め、多くの望遠鏡がある一点の樹上を目がけてセットされた。ロックオンされたその先に写ったものは光を反射してキラキラと輝く青と赤のコントラストがまぶしい幻のケツァールだったのだ。手塚治虫の「火の鳥」のモデルとなったと言われているケツァールは熱帯雲霧林の野生のアボガドを主食としており、丸ごと飲み込むと消化に15分程かかるため、その間は樹上にとどまってくれるのだ。ちなみにアボガドの種はケツから排出するのではなく、口から戻すということであった。尚、モンテベルデには300~500羽のケツァールが生息しているそうで繁殖期の3月くらいに訪れると高確率でその雄姿を拝むことが出来るのだ。

ケツァールの出現によりガイドに支払うチップの金額が跳ね上がった感覚を抱きながら、自然保護区のカフェに併設されている野鳥ギャラリーに向かった。宙吊りにされた甘い蜜の容器の周りではハチドリや小型の野鳥が華やかな舞を繰り広げており、日本野鳥の会員垂涎の至近距離撮影環境を提供していたのだった。

ホテルに戻り、餌付けされたノドジロオマキザルと一緒にバナナを食べながら時間をやり過ごすと定刻午後1時45分に迎えに来たマイクロバスに乗り込み、次の目的地に向かった。いかにもエコしてますとアピールしている風力発電のファシリティを横目に風光明媚な農村地帯を抜け、とある水辺に到着すると渡し舟系のボートに乗り込んだ。コスタリカで最も大きな人造湖であるアレナル湖を縦断しながら標高1,633mのアレナル火山を仰ぎ見るというアクティビティは厚い雲に遮られて実現出来なかったのだが、船は無事に対岸へと到着した。迎えのバンで今日の宿泊先であるラバス・タコタル・ロッジに移動後、ほどなくして次の迎えのバンに乗り込むと次の行き先は驚きの温泉リゾートだったのだ。

雄大なアレナル火山を源泉とする高級温泉タバコン・リゾートは源泉掛け流しでしか実現出来ないようなふんだんな湯を広大な敷地に惜しげもなく流している。段差を利用した滝や打たせ湯は独特の風情さえ醸し出しており、温泉好きの日本人も十分満足する癒し効果を与えてくれるのだ。また、温水プールにはバーもあり、食事はリゾート内のビュッフェで提供されるので一日がかりで楽しむことが可能で、天気の良い日には湯煙の向こうにタバコのようにモクモクと噴煙を上げるアレナル火山の雄姿が拝めるのだ。

12月2日(火)
早朝から降り始めた雨音で目が覚め、テラス越しに雨宿りする紅白の牛を眺めていた。残念ながら今日もアレナル火山は厚い雲の向こう側に鎮座していたので、イメージだけを思い浮かべながら定刻7時30分に迎えに来たバンに乗り込み最終日のツアーをスタートさせた。通常通り、いくつかのホテルを回って観光客をピックアップすると程なくしてイグアナ・レストランに到着した。イグアナ・レストランとは言え、イグアナ料理を提供しているわけではなく、隣接する橋から見下ろす樹木に多くのイグアナが住み着いていること自体が売りとなっているのである。

午前9時頃に隣国ニカラグアとの国境の町ロス・チレスに差し掛かった。フリオ川の沿岸に到着するとツアーボートに乗り換え、ウォーター・ホースと呼ばれる水馬に見送られながら水鳥の楽園であるカーニョ・ネグロ国立野生保護区のクルーズが静かに始まった。

ボートがカーニョ・ネグロ湖の方向に進んで行くとぼ~としている暇もなく、多くの動物が次から次へと姿を現した。シラサギやヘビウといった大型の水鳥はここかしこで漁を行い、世界で最も美しいトカゲといわれているグリーンバシリスクは木の上で静かに固まっていた。尚、このグリーンバシリスクはリスクを感じると木の上から水へとジャンプし、上体を起こして秒速約1mの速さで水面を走るそうだ。

獰猛なワニであるはずのケイマンは木の上で剥製のようなポーズを決めて油断させ、別の個体は水面から目を光らせて獲物が来るのを待ち構えていた。木の幹に隊列を組んでへばりついているのは夜中に蚊を捕食するこうもりで一見すると単なる模様にしか見えないのである。

カーニョ・ネグロの最大のスター動物はやはりナマケモノということでフリオ川を航行するどのツアーボートのガイドも勤勉にナマケモノを探し回っていた。大木の高い枝で怠けているナマケモノをかろうじて見つけることが出来たものの、双眼鏡で捕らえることが出来たのはふさふさの毛皮のみでついに写真撮影には応じていただけなかったのだ。

3時間にもおよぶクルーズが終了し、陸に上がってデザートを召し上がっている鳥を見ながら昼食をいただき、今しがた全旅程終了となったエコツアーの余韻に浸っていた。国を挙げて観光業に力を入れているコスタリカのツアーは非常に効率的でツアー会社間の連携も良く取れており、スケジュールの遅れもなく進行したことにこの国の本気度を見て取ることが出来たのだ。

夕方6時にサン・ホセのHoliday Inn SAN JOSE AUROLARAへ帰着すると見張り台で警備している警察に見守られ、100年以上営業している老舗レストランであるチェジェスでコスタリカ料理を堪能しながらコスタリカーツアーの締めくくりとさせていただいた。

12月3日(水)
早朝ホテルからタクシーで空港まで移動し、Copa Airlinesの乗り継ぎで夕方5時過ぎにロサンゼルスに到着。空港近くのクラウンプラザホテルの高い和食屋で軽夕食を取りながらフライトのチェックインまで時間を潰していた。

12月4日(木)
寝台フライトであるはずの0:05発NH1005便のエコノミー席で意識を失うように努力しながら約12時間のフライトをやり過ごす。

12月5日(金)
機材到着遅れの影響で定刻より1時間遅れた午前6時過ぎに羽田空港に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥124,910, Copa Airlines = $623.43
総宿泊費 $507.2
総バス代 10,937コロン(1コロン = ¥0.22)
総タクシー代 7,000コロン、$30
総コスタリカ出国税 $29
総さくらツーリスト旅行代 $650

協力 ANA、Copa Airlines、Priority Club、adoda、さくらツーリスト(http://www.sakuracostarica.com/)

イチロ、ボルトを締め直してカリビアンツアー in NY、ジャマイカ、バハマ

グレたイチローがシアトルをバックれてヤンキーになった!?

衝撃のニュースが日米を駆け巡ったのは7月23日のことであった。思えばイチローが渡米し、全米にセンセーションを巻き起こした2001年からFTBのMLBツアーが加速し、同時多発テロを乗り越えてイチローは伝説の域に達してしまった。しかし、野球人生の集大成とも言うべきワールドチャンピオンのリングだけは強豪チームにいない限りは決して手にすることは出来ないのも事実である。

今回は大都市で覚醒したイチローのさらなる飛躍ぶりをこの目で確かめるためにニューヨークに飛び、さらに緩んだボルトを締めなおすためにジャマイカ、北ウイングの足跡を追ってナッソーを訪問するツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月2日(火)

ANAのプレミアムポイントが余っていたのでビジネスクラスにアップグレードして乗り込んだ11:00発NH010便は定刻通りに出発し、約12時間のフライトで午前10時過ぎに曇り空のニューヨークJFK国際空港に到着した。早速AirTrainと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに向かったのだが、地下鉄を降りて外界に出ると今日の野球の試合の開催が危ぶまれるように雨がしとしと しとピッチャーだった。

再び1乗車に付き$2.25に値上げされている地下鉄に乗り、柄の悪いことで有名なブロンクスのW Farms Sq Tremont Avで下車するとhotels.comに予約させておいたHoward Johnson Bronxにチェックインしてしばし雨の行く末を見守っていた。夕方の5時近くになると霧雨を切り裂くように外に出て地下鉄を乗り継いでイチロ、ヤンキースタジアムに向かった。161 St Yankee Stadiumで下車すると2009年にオープンした新ヤンキースタジアムが目の前に迫っていた。尚、老朽化のために取り壊された旧ヤンキースタジアムは跡形も残っていなかったのだ。

スタジアムの回りを一周し、その建築様式を確認するとTicketmasterでオンライン高値購入しておいたチケットを入手するためにチケット売り場のWill Callの窓口に向かった。チケットを手にヤンキースタジアムへの入場を果たすと各土産物屋ではイチロー祭りが開催されているかのように多くのイチローグッズが並んでいた。さらに食い物屋に目を向けると伝統的なホットドッグやピザを横目に日本食屋の開店も見られたのだが、メニューの目玉はイチローを転がしたようなSUZUKI ROLLだったのだ。

試合開始まで時間があり、雨よけのシートのかかったグランドでは練習も行われていなかったので球場内を隈なく散策することにした。伝統あるヤンキースは永久欠番を量産しており、欠番に値する野球の神様達を奉るためにバックスクリーンの直下にMemorial Parkなるものを開設している。神様達は銅版のプレートとなってその活躍を讃えられているのだが、何故か前オーナーのジョージ・スタインブレナーIIIの巨大なプレートが神様達を束ねているかのように中央に飾られていやがった。

続いて球場内2階にあるヤンキース博物館にも足を運び、ワールドチャンピオン27回の栄光の歴史をまざまざと見せつけられたのだが、直近の世界一である2009年にワールドシリーズのMVPを獲得したマツイの痕跡がスタジアムのどこにも見られなかったのでそれはマヅイだろうと思いながら場内を彷徨っていた。

霧雨の降り続く中ではあるがヤンキースとレッドソックスの伝統の一戦は定刻7:05にプレーボールとなり、相手が左ピッチャーのために9番という下位打線に甘んじているイチローが私が座っているレフトスタンド前のフィールドに定着した。

この日のイチローは3打席目にSUZUKI ROLLを彷彿とさせるような球を3塁線に転がし、見事なバントヒットとしたのだが、見せ場はこの打席だけで結局5打数1安打とファンにとっては物足りない結果となってしまった。

試合の方は9回裏に2点をリードされたヤンキースが代打ラウル・イバネスの起死回生の同点2点ホームランにより延長戦に突入し、12回の裏のチャンスに再び打席が回ってきたイバネスのサヨナラヒットによってヤンキースが勝利し、フィールド内とスタンドは歓喜の渦が巻き起こり、締めの定番ソングであるフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪がかき消されそうな喧騒であった。

試合が終わったのが11時半頃で満員の地下鉄に乗り、深夜にブロンクスのホテルに帰り着いたのだが、ニューヨークでの入浴は翌朝に回して時差でボケている今夜はとっとと寝静まることにした。

10月3日(水)

今日の天気予報も雨であったのだが、何とか曇り空が涙を流さずに持ちこたえていたので午前中にロウアーマンハッタンに繰り出すことにした。地下鉄フルトン駅で下車して9.11 Memorial方面に向かうとグランドゼロにはワールドトレードセンターに変わる高層ビルが再び天空を目指すかのように建設中であった。

タイムズスクエアで大道芸人が芸のクライマックスを警察に制止されて見物人からブーイングをくらうNYPDを横目に街頭でOREOとHOLDSの新商品のサンプルを受け取ってミッドタウンをしばし徘徊した。

午後6時頃にヤンキースタジアムに入場すると今日は雨が降らなかったために通常通りの試合前の打撃練習が行われ、外野席ではグローブを手にしたファンがホームランボールを追って右往左往していた。今日はレギュラーシーズンの最終戦でヤンキースが勝つか2位のボルチモア・オリオールズが負けるとヤンキースのアメリカンリーグ東地区の優勝が決まるという大一番であり、場内は異様な熱気に包まれていた。

その熱気の主役となるのが、ヤンキースのエース黒田とレッドソックスの崖っぷちエース松坂の先発ピッチャーの投げ合いであり、マサに日本人のために用意された舞台が幕を開けようとしていたのだ。試合開始前30分頃からウォーミングアップを開始した両エースであったが、右肘の手術から復帰して今だに調子の出ない松坂は重そうな体を引きずりながらランニング、キャッチボール、ブルペンでのピッチングへと入っていった。ブルペンでの投球はあまり球が走っていないように見受けられ、捕手の構えたミットになかなかコントロールされていなかったのだ。

試合は定刻7:05に開始となり、1回の表に黒田はいきなり1点を先行された。その裏の松坂は2番のイチローをポップフライに打ち取り、三者凡退で順調なスタートを切ったかに見えたのだが、2回にスリーランホームラン、3回にツーランと2本のホームランで5点を失い、早々と交代を告げられて日本に強制送還されるかのようにマウンドを降りていった。

試合はヤンキースの一方的な展開で7回裏にはこれまで4打席ヒットがないにもかかわらず大歓声でファンに迎えられていたイチローに5打席目が回ってきた。千両役者のイチローは右中間に2塁打を放ち、2点を追加したのだが、その時追加点の場面とは関係のないところで大歓声が上がった。電光モニターには2位のオリオールズが敗れ、ヤンキースの優勝が決定したことを告げる表示が大きく示されると観客はスタンディングオベーションで優勝を祝い、セカンドベース上のイチローもようやくその事実を理解した様子であった。

黒田は7回を7安打2失点の好投でマウンドを降り、今季16勝目を上げてヤンキースの優勝に多大な貢献を果たしたのだった。ヤンキースは14対2で宿敵レッドソックスを打ち破るとロッカールームではお約束のシャンペンファイトが繰り広げられ、その様子は電光モニターに鮮やかに写し出されていた。

優勝の余韻に浸っているヤンキースファンとともにスタジアムを後にする際に1人のファンが着ているユニフォームの背中に背番号55とともにMATSUIの文字が浮かび上がっていた。チーム公認の球場内展示物には松井の痕跡はなかったのだが、ファンの心にはマツイの幻影がしっかりと刻み込まれているのであった。

10月4日(木)

ニューヨークでヤンキース優勝の瞬間を目に焼き付け、イチローがイチロー足りうる価値を維持していることが確認出来たので次の目的地に向かうべく地下鉄でJFK空港に向かった。カリビアン航空が運行する13:25発BW014便に乗り込むと約3時間50分のフライトでジャマイカの首都キングストンのノーマン・マンレイ国際空港に時計の針を1時間戻した午後4時15分頃到着した。

入国の際に審査官のおばちゃんからあれこれ質問されてあまり歓迎されていない印象を受けたものの何とか入国を果たすと両替所で手持ちのUS$60を差し出すとあまり良くないレートで両替していただき、4,549ものジャマイカドル(JMD)の大金を手にした。空港のArrivalの出口の近くにJUTAという会社のタクシーカウンターがあったのでそこで市内までの料金がUS$28であることを確認すると安心してタクシーを発注したのだが、何故か乗り込んだ車は誰も乗っていないマイクロバスであった。

何はともあれ、hotels.comに予約させておいた治安の良いニューキングストン地区にある高級ホテルWyndham Kingston Jamaicaに約30分で到着するとフロントでチェックインを行う運びとなった。フロントのおね~ちゃんに周辺の地図をくれないかと要求したのだが、無いとの返事だったのでキングストンは観光客向けの町ではないことを即座に認識することとなった。

日本の秋田県とほぼ同じ大きさを誇るジャマイカでは北部のモンテゴ・ベイというカリブ有数のビーチリゾートエリアがあり、観光客のほとんどはそこで休暇を楽しむのだが、海外から来るビジネス客の多くは首都キングストンに滞在し、ここでは国際的な会議もたびたび行われているという。この日のWyndhamホテルではイギリスからの独立50周年を祝うイベントが行われており、多くのパーティドレスで着飾った貴婦人が入口で記念写真を撮られながら会場に吸い込まれて行った。

パーティのためにホテル内の食事処が閉鎖されていたため、「ひとり歩きは絶対にやめよう」という物の本に書かれている警告にもかかわらず夜になって外に出てみることにした。なるほど、ホテル周辺にはホームレス系を中心とした怪しい輩がたむろしており、施しを受けるために宿泊客の出待ちを行っていた。ホテルの近辺にケンタッキーがあったのでそこに入ってチキンバーガーを発注している際にも怪しい野郎が店の中を覗き込んでおり、店員が追い払った隙に店を抜け出し、何とか無事にホテルに帰還出来たのだった。

10月5日(金)

キングストンの背景に高級コーヒー豆で有名な標高2000mのブルーマウンテンがそびえているのだが、ホテル内の喫茶店や土産物屋で売られているコーヒーもすべてブルーマウンテンである。朝食として香り高いコーヒーとマフィンをいただくと意を決してキングトンの観光に出ることにした。

キングストンはレゲエ・ミュージックのふるさととして有名でキング・オブ・レゲエとして君臨しているのが、かのボブ・マーリーである。キングストンの唯一の見所でここに来なければキングストンに来たことにはならないと言われているボブ・マーリー博物館(US$20)がニュー・キングストン地区で開館しているので見学に行くことにした。

多くの来館者はモンテゴベイから1日かけてツアーでやって来ており、博物館自体はガイドによる案内で館内は写真撮影禁止となっている。この建物はアイランド・レコード社の社長の家でボブが亡くなるまでの6年間を妻と子供たちと生活した場所であるので寝室、キッチン、狙撃されたときの銃弾の跡などボブの生活が染み付いているのである。

ところで、レゲエとは1960年代にジャマイカで誕生した新しいジャンルの音楽でもともとあったアメリカのリズム&ブルースにアフリカ的なリズムを加えたアップテンポの「スカ」からちょっとスローダウンした「ロック・ステディ」を経てキングストンのスラム街であるトレンチ・タウンのルードボーイ(不良少年)によって完成されたものである。ボブも父を亡くした12歳でトレンチ・タウンに移り住み、そこで彼の音楽的な基礎が作られたようである。

尚、1時間のガイドツアーの内の最後の20分は視聴覚室でボブのDVDをじっくりと見せてくれるので、気に入れば隣のショップでCDやDVDを買って帰ることも出来るのである。

ボブ・マーリー博物館でレゲエの真髄に触れることが出来たので炎天下の中をホテルに戻り、プールのある中庭でしばしくつろぐことにした。何でも昨今のジャマイカでは小島よしおのリズムがレゲエに取り入れられているという噂を耳にしており、危険なダウンタウンやトレンチタウンに行けばその真相を解明できる可能性があるのだが、そんなの関係ね~と思っていたので終始安全なホテルでくつろぐことにしたのだ。

10月6日(土)

ジャマイカはスペインに支配された周辺のカリブ海諸国と異なり、英国連邦に加盟しているので公用語は英語であり、車は日本やイギリスと同じ右ハンドル、左側通行なので道行く車の多くは日本車である。治安が良くギャングの抗争に伴う銃撃戦に遭うリスクが少なければダウンタウンのスラム街に侵入し、ミヤネ屋が伝える上半身裸率の高い庶民の生活も垣間見ることが出来るのだが、今回はアップタウン周辺の散策にとどめることにした。

ジャマイカの民族構成の内90%以上はアフリカ系であるのだが、彼らは英国の統治時代にアフリカから連れてこられた奴隷の子孫である。よってその類まれなる身体能力はオリンピック100m、200mの金メダリストのウサイン・ボルトを頂点としたアスリートに引き継がれているのだ。そのボルトがネジ業界ではナットに相当するはずの共同経営者と開店しているレストランがキングストンにあると伺っていたのでネットで場所を調べて突撃することにした。

ボルト・ポーズをデザインに取り入れたTRACKS & RECORDS(http://www.tracksandrecords.com/)というレストランは幸いホテルから2km程しか離れていなかったのだが、夕食の時間帯に移動するのはリスクを伴うのでランチの時間を狙って来店することにした。店に入るとすぐボルトの叩き出した世界新記録のタイムが誇らしげに掲げられており、店内はスポーツバー風の装いであった。

この店はジャマイカ料理のレストランなのでローカルな食物であるザリガニの出汁をベースにしたジャンガスープとタラをすり身にしたフリッターを発注させていただいた。出汁が利いているジャンガスープは非常に美味だったのだが、フリッターは味が薄くマヨネーズをなすり付けて食うよりも醤油の方が相性がいいはずだと思ったのだが、何とか完食してボルトに仁義を切っておいたのだった。

昼過ぎにホテルに戻った途端に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨が降り始めた。何ボルトに相当するのか想像はつかないが高電圧の雷がそこら中に轟音を立てて落ちている様で必然的に午後からの活動は制限されることになってしまったのだ。

10月7日(日)

正午前にWyndhamホテルをチェックアウトしてホテルの敷地で待機しているJUTAタクシーに乗り、キングストン国際空港へとひた走っていた。空港で出国審査を受ける際の審査官は偶然にも入国の際に遭遇したおばちゃんで「楽しめたか?」と聞かれたので大して出歩くことは出来なかったものの「楽しんできたぜ!」と見栄だけは張っておいた。

朝飯を食って来なかったので空港のコーヒーショップでブルーマウンテンコーヒーを軽飲し、ついでに粗挽きされたコーヒー豆も買っておいた。免税品かつ原産国でありながら、ブルーマウンテンコーヒーの価格は高く、227g入りの真空パックでJMD1995(日本円で約\1700)もしやがった。尚、日本が誇るUCCコーヒーはブルーマウンテンに自前のコーヒー農園を持っており、以前はガイドツアーも行われていたそうだが、現在は高値でコーヒー豆を日本に輸出することに専念しているようであった。

♪Love is the My~stery~ 私をよ~ぶのぉ~ 愛はミ~ステリ~ 不思議なち~からでぇ~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、14:30発BW063便は定刻通りに出発し、途中モンテゴベイを経由して3時間弱のフライトで1時間時計の進んだ午後6時過ぎにバハマ連邦の首都ナッソーに到着した。

ところで何故ナッソーくんだりまで来なければならなかった理由であるが、1984年5月1日にリリースされた名曲「北ウイング」を収録した中森明菜の6枚目のアルバムのタイトルが「ANNIVERSARY FROM NEW YORK AND NASSAU AKINA NAKAMORI 6TH ALBUM」となっており、ニューヨークはわかるが、当時の私にとってナッソーは謎であり、将来ナッソーに行くのはめっそ~もないと思っていたのだが、北ウイングを飛び立った中森明菜がやって来たのはニューヨークを経由してナッソーだったという定説が強まったため、私もナッソーに来なければならなくなったのだ。

何はともあれ、フロリダ半島の東数百km沖にあるバハマ諸島の中心ニュープロビデンス島のナッソー国際空港に降り立つとナッソーダウンタウンまで9kmと距離も手頃だったので徒歩で予約しておいたホテルに向かうことにした。歩いてみると思ったより距離感が感じられ、2時間経ってもダウンタウンにたどり着かず、挙げ句の果てに雷雨に見舞われ濡れ鼠になりながらagodaに予約させておいたNassau Junkanoo Resortにチェックインを果たしたのは午後10時近くになってしまったのだ。

10月8日(月)

早朝差し込んでくる光で目を覚まし、最上階である6階の部屋の窓越しから巨大なクルーズ船がゆっくりと入港する光景が目に入った。ナッソーはカリブ海クルーズの寄港地になっており、前夜マイアミを出た船が翌朝ナッソーに着くことになっているので毎日何らかの豪華客船の入港、出航の様子が見られるのだ。

ダウンタウンの目の前に広がるJunkanooビーチは白砂のビーチにエメラルドブルーの海の景色が美しく波も穏やかなので早朝から夕暮れ時まで海水浴を楽しむことが出来るカリブ海の天国と言えよう。

ダウンタウンのちょっとした高台を目指していると階段脇を流れる水が涼しげでコケに覆われたクイーンズ・ステアケイスに遭遇した。階段を上りきったところはフィンキャッスル砦($2)になっており、船の舳先のような形が印象的であった。この砦は1793年に造られたもので3つの大砲が海の彼方を狙ったまま残されている。

砦のとなりには水道塔がそびえており、以前はエレベーターで塔の頂上まで上がり、ナッソーの街全体を見渡すことが出来たのだが、残念ながら今は立ち入り禁止となっていた。

ナッソーの北にパラダイス・アイランドという細長い島が浮いており、リゾートの架け橋を渡って到達することができるので、その楽園ぶりがいかほどのものかこの目で確かめに行くことにした。

ナッソーのダウンタウンには大型のホテルが少ないこともあり、観光客のリゾートの拠点は主にパラダイス・アイランドか西に4km程離れたケーブル・ビーチとなっている。パラダイス・アイランドに立ち並ぶホテルは皆リッチでゴージャスなのだが、その最高峰に君臨するのがアトランティスというテーマパーク型リゾートホテルである。

アトランティスホテルの中庭にあるプールや魅惑のアトラクションは主に宿泊客専用となっているのだが、観光客から金を巻き上げるカジノはアクセスフリーになっているのでリゾート客の散財ぶりを冷やかしにカジノを通過してみたのだが、昼の時間帯だったためディーラーも暇を持て余していた。

さらにアトランティスの目の前には豪華クルーザーが停泊するハーバーがあり、その周辺はショッピングセンターになっていたのでこのホテルに宿泊していなくても充分リゾートのおこぼれに預かることが出来るのだ。

10月9日(火)

早朝目を覚ますと港にはすでに昨日とは違うクジラの尻尾が突き刺さったようなクルーズ船が停泊していた。クルーズ船の乗客は下船するとローソン・スクエアというコンビニはない小さな広場を通過しておのおの街に繰り出す日常となっている。

ローソン・スクエアの近くにストロー・マーケットという土産物屋のたまり場があり、観光客はここでストロー(やしの木の葉を裂いてよったもの)製品や木彫りの置物を物色したり、バハマ・ママたちと仁義なき値段交渉をして交渉力を鍛えようとしていた。

政府庁舎を有するパーリアメント・スクエアにはコロニアル風のピンクの建物が立ち並んでいるのだが、バハマにピンク色の建物が多いのはフラミンゴを国鳥とし、シンボルカラーとしてフラミンゴ色を採用しているからだ。

ダウンタウンの路地には個性的な土産物屋や飲食店も多く、海賊をモチーフにした人形がそこかしこで観光客の目を楽しませてくれるのだ。

カリブ海というと海賊を連想してしまうのだが、カリブ海に海賊がいたのは実話で1700年代前半にはナッソーに2000~3000人もの海賊が住んでいたという。海賊に関する知識についてはパイレーツ・オブ・ナッソーという博物館($12)で学習することが出来るので早速入場してみたのだが、館内には臨場感たっぷりの人形や模型がマサにディズニーランドのカリブの海賊のように配置されているのだ。

途中で地元の小学生ツアーに合流し、彼らは海賊に扮した荒くれ男の説明を要所要所の生返事を加えながら律儀に聞き入っていた。一通り説明が終わって中庭に出ると記念写真撮影タイムとなり、青少年少女たちは代わる代わる海賊のオブジェを背にしてポーズを取っていた。

フラミンゴ色の建造物はすでに充分堪能したので今度は本物のフラミンゴを見るためにオーダストラ・ガーデン&動物園($16)に入園することにした。園内はそんなに広くはないのだが、飼育されている動物は鳥類、爬虫類、哺乳類と非常にバラエティに富んでおり、観光客は手を消毒してインコに餌をあげることも出来るのだ。

ネコ科の動物もSERVAL、OCELOT、JAGUARと取り揃えられており、それらが狭い檻の中をアクティブにのし歩く様子も間近にすることが出来たのだった。

ここでの最大のイベントは1日3回行われるフラミンゴのショーでフラミンゴ・アリーナに訓練されたカリビアン・フラミンゴを寄せ集め、アリーナ内を行進させるのと観光客に一本足のポーズを取らせてフラミンゴと記念写真を撮ることであった。

午後4時過ぎから海に入って波に揺られていたのだが、常夏と思われるバハマ諸島でも12月~3月の冬季には気温が下がるため、ビーチでくつろげるのは11月くらいまでかも知れないのだ。

10月10日(水)

Energy Surchargeと称してagodaに事前に支払っている宿泊料とは別に3泊分で$46.5を払わされたNassau Junkanoo Resortをチェックアウトすると沿岸部を走るバスに乗って空港まで2km程の距離のオレンジヒルビーチに移動し、そこから徒歩で空港まで向かった。歩いている途中で何故中森明菜がアルバムのレコーディングの地としてナッソーを選んだのか考えていたのだが、それは単に来たかっただけだろうという結論に至った。

ナッソー国際空港の米国行きのターミナルは他の国行きとは離れており、アメリカへの入国手続きもナッソー国際空港で行われるという離れ業が演じられていた。バハマ連邦はジャマイカと同じく英連邦加盟の国であるのだが、これではまるでアメリカの植民地ではないかと思われたのだった。何はともあれ12:40発のUA1462便に乗り込むと約3時間でニューアーク・リバティ空港に到着した。空港から列車と地下鉄を乗り継いでニューヨークでの定宿となってしまったHoward Johnson Bronxの最寄駅まで移動し、チェックイン後すぐにヤンキースタジアムに向かった。

マサよ、君はMLBのポストシーズンの試合を現場で見てサヨナラ勝ちの瞬間に見知らぬヤンキースファンとハイタッチを交わしたことがあるか!?

というわけで、アメリカン・リーグのディビジョン・シリーズであるボルチモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの戦いはすでにオリオールズの本拠地で1勝1敗となっており、第3戦はヤンキー・スタジアムでの初戦であったので試合前に選手紹介等のセレモニーが賑々しく行われていた。

試合はエース黒田の好投にもかかわらず、2対1とヤンキースがリードされて9回の裏を迎えた。4打席目のイチローがレフトライナーに倒れた後、度重なるチャンスに凡退を繰り返し、ヤンキースファンから辛辣なブーイングを浴びていた3番アレックス・ロドリゲスについに代打が出され、「Rauuuuu~L」の声援とともに勝負強いラウル・イバネスが打席に立った。イバネスが振り抜いた打球はライナーとなって右中間スタンドに突き刺さり、ついにヤンキースはスコアを振り出しに戻したのだった。

試合の方は延長戦に突入し、大歓声とともに12回の裏に先頭打者として打席に立ったイバネスが振り切った打球は大きな弧を描いてライトスタンドに舞い降りた。その瞬間にヤンキースタジアム全体に驚喜の嵐が吹き荒れ、観客は誰彼構わず隣近所同士でハイタッチを繰り返し、勝利の喜びを分かち合っていた。

10月11日(木)

昨日のヤンキースタジアムでの喧騒をひきずりながら入浴して身を清め、Howard Johnson Bronxをチェックアウトすると地下鉄でのんびりとJFK国際空港に向かっていた。12:30発NH009便は20分程の遅れを出したものの、眠れない機内で映画を3本ほど鑑賞しながら14時間近くのフライト時間をやり過ごしていた。

10月12日(金)

午後3時過ぎに成田空港に到着すると、実は間違って翌日の試合のチケットも購入していたため、ヤンキースタジアムに魂は残してきたと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \127,140、Caribbean Airlines = $370.91、ユナイテッド航空 = \15,870

総宿泊費 \75,500

総ナッソーホテルEnergy Surcharge $46.5

総ニューヨークAirTrain、地下鉄代 $55

総ジャマイカタクシー代 $56

総ナッソーバス代 $1.5

協力

ANA、Caribbean Airlines、ユナイテッド航空、hotels.com、agoda、Ticketmaster.com

中南米の架け橋コロンビアと世界の十字路ツアー

1998年夏、某米系一流企業の日本法人よりUC Berkley Extentionという学校にトレーニングに出され、そこで大蔵省(当時)から税金を使って来やがっていたマサを拉致した私であったが、同学校の同じ英語のクラスにリカルドというコロンビアから来ていた好青年と巡り会った。同学校ではルシアナ、アドリアーナ、カトリーナ、マリナ等、口から先に生まれてきたかのようなブラジル人ギャルが幅を利かせていたのだが、その中にあってコロンビアは麻薬大国ではなく、本当はいい国だと主張するリカルドの爽やかさは群を抜いていたのが印象的だった。

リカルドの言葉を信じていつかコロンビアを訪れなければならないと思いつつ、ついつい足が遠のいてしまっていたのだが、この度ついにコロンビアの首都ボゴタに足を踏み入れる勇断が下されたのだ。

2012年3月20日(火)

17:05発NH6便は定刻通りに成田空港を出発すると同日の午前11時前には予定通りにロサンゼルス国際空港に到着した。引き続き、17:15発UA1673便に乗り換え、しばし先般逝去されたホイットニーの冥福を祈っていると夜10時過ぎにヒューストンに到着した。さらに23:59発UA1009便に搭乗すると5時間余りの時間を狭い機内でやり過ごしながら、ヒューストン空港の名称は現在のジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル・ヒューストン空港ではなく、ホイットニー・ボディガード・ヒューストン空港であるべきだと考えていた。

3月21日(水)

コロンビアの首都ボゴタのエル・ドラード国際空港に午前5時前に到着すると愛想のいい入国審査官に笑顔で迎えられたのでリカルドの言うようにボディガードを雇うまでも無く安心して観光できることが確信出来たのだった。

空港内で手持ちのUSドルをコロンビア・ペソ(略号は$)に両替し、コロンビア・コーヒーを飲みながら時間つぶしをしていると頃合も良くなってきたのでバスでボゴタのセントロを目指すことにした。Carrera 10という大通りでバスを降り、標高2600mの高地に順応すべく町を練り歩いていると石造りの要塞のような堅牢な外観を持つ国立博物館の前で入場待ちの人々が短い列を作っていたのでそれに加わることにした。

チケット売り場で何故か無料チケットを入手することが出来たので、かつて刑務所として使用されていた名残のある館内をくまなく見て回ることにした。国立博物館の展示品は先住民族の文化や遺物、コロンビア独立の歴史、近代から現代までの美術品と多岐に渡っているのだが、私の心を引きつけてやまなかったものは様々な種類のプレインカ時代のユニークな人物像達であった。

また、特設展としてコロンビアのナショナルサッカーチームにまつわる展示があったのだが、1994年のアメリカワールドカップでオウンゴールを決めて敗退し、帰国後にファンに射殺された選手の不幸には一切触れられていなかったのだ。

お昼過ぎにagodaに予約させておいたサンフランシスコホテルボゴタに早々とチェックインしてしばし英気を養うとボゴタのセントロでにぎやかな地域に足を踏み入れることにした。ところで、コロンビアの歴史を語る上で最も重要なものは黄金郷(エル・ドラード)伝説であるのだが、それをダイジェストで理解するのに最適なファシリティとして黄金博物館($3000)が開館していたので黄金に目を眩ませてみることにした。

ヨーロッパ人が現在のコロンビアに初めて来やがったのは1500年頃で、当時この地のインディヘナの中で最大勢力を誇っていたのがチブチャ族であった。彼らはインカやマヤ文明に匹敵する高度な文明を持っていたとされ、特に金の細工技術に長じていたという。黄金博物館には彼らの技術によって製作された工芸品がギンギラギンにさりげなく展示され、♪そいつがお~れのやり方♪と言わんばかりの特殊な技法の解説まで加えられているのだ。

黄金博物館で錬金術を習得出来たので旧市街の中心であるボリーバル広場まで出ることにした。広大な石畳の広場はカテドラル、国会議事堂、大統領官邸等に囲まれていつもは賑わいを見せているのだが、今日は小雨模様だったため、中央のシモン・ボリーバル像がポツンとさびしく立っているだけであった。

ボゴタくんだりまでやって来てもオセロの中島を食い物にした霊能者や稀代の婚活詐欺師である木嶋佳苗被告の裁判の動向が気になっていたためか、気が付くとボテロ博物館の入口まで引き寄せられていた。フェルナンド・ボテロはコロンビア出身の世界的に有名なデブ専画家でボテッとした人物画を描くことを生業としている。

館内に一歩足を踏み入れると練炭によって引き起こされる一酸化炭素中毒のような息苦しさを覚えるのかと思っていたが、柳原可奈子風のモナリザ等の名画の数々を見ていると柔肉が醸し出す安心感により思わず大金を貢いでしまいそうな衝動に駆られてしまうのであった。尚、ボテロは自らの作品やコレクションを国家に寄贈し、この博物館でさえ入場無料で運営しているほどの貢ぎ人の頂点として君臨している篤志家なのであった。

ボテロ博物館を出る頃には日もとっぷり暮れており、カテドラルも妖艶にライトアップされていた。ボゴタの繁華街では雨にもかかわらずビニールシートを着て寝込んでいるホームレスも多く見受けられるのだが、一方で長尺の銃を携えた警官が至る所に配備されているので人通りの多いところであれば安心して歩けることが確認された。

3月22日(木)

雨季のせいであろうか、今日も朝から雨が降っていたので外出するのがおっくうだったのだが、意を決して再びボゴタのセントロを散策してみることにした。

ボリーバル広場の一角に17世紀前半に建てられたサンタ・クララ教会が博物館($2000)として観光客の入場を待ち構えていたので入ってみることにした。歴史を感じさせる教会の外観もさることながら、小ぶりな建物の内部にはきらびやかな内装とともに数多くの宗教画が展示されており、博物館としての価値を十分感じさせるものであった。

ボリーバル広場を通り過ぎて山のほうへ登っていくと色白の胸像の奥に門構えのしっかりした屋敷を発見した。これは1820年、グラン・コロンビア共和国独立の功績に対し、「解放者」シモン・ボリーバルに贈られたボリーバル邸($3000)である。広々とした敷地内には傾斜を利用した美しい庭園も広がっており、戦いに明け暮れた英雄が束の間の休息を取るためには最適の地であったと思われた。

ボリーバル邸の背後に鬱蒼とした緑を湛えた山が迫っており、近代技術を駆使して頂上までアクセス出来ることが遠巻きに眺められたので早速登ってみることにした。市内との標高500m差を誇るモンセラーテの丘に這い上がるためには徒歩以外にケーブルカーとロープウエイという手段があるのだが、ケーブルカーは運休となっていたので往復$14400の高値を支払ってロープウエイに搭乗させていただくことにした。

ロープウエイが高度を上げるにつれ、眼下にボゴタの町の眺望が広がり、南米5大都市のひとつであることを象徴する新市街の摩天楼群や旧市街地の茶色い屋根瓦を見比べることが出来た。

標高3000mを超える丘の頂上には白亜のカトリック教会やレストラン、土産物屋街もあり、単なる観光地としてではなく、ひとつの町としての機能も見て取れたのだった。

高台から標高2600mの平地に降りて呼吸を整えながら、今しがた鳥瞰した旧市街の中を歩いていると縞模様が鮮やかな教会や眩しい黄色に彩られた教会が散見された。コロンビアではかつてカトリックが国教であったこともあり、信仰の自由が認められた現在でも国民の95%がカトリックを信仰しているため、歴史的な古い教会とカラフルな教会が絶妙のバランスで町中に配置されているのだ。

3月23日(金)

今回のコロンビアへの歴訪によりリカルドに仁義を切ることが出来たので今日は隣国のパナマ共和国へとエスケープする予定になっている。コロンビアとパナマとは陸続きになっているので通常であれば安価な陸路での移動を検討すべきであるが、ドロンズが南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイクを敢行した際にギブアップの危機に瀕した程、コロンビア・パナマの国境地帯は治安が悪いのだ。

ドロンズは幸いにも船をヒッチハイクしてパナマに渡ることが出来たのだが、私は割高の飛行機で移動することとなった。空港のコーヒー専門店でコロンビア・コーヒーを試飲して500gのコーヒー豆をスターバックスの約半値で購入すると、パナマシティをハブ空港として中南米に多くの路線を持つコパ航空が運航する12:26発CM196便に乗り込んだ。

湾岸沿いに並び立つ高層ビルを横目に飛行機はパナマの首都パナマ・シティのトクメン国際空港に午後2時過ぎに到着した。入国後に空港外のバス停まで移動し、METRO BUSという最新型のバスに乗り込もうとしたところ、ICチップを内蔵したMETRO BUSカードがないと乗れないということが判明したため、1台目のバスに乗ることが出来なかった。次に来たバスの運転手は機転を利かせて最前列に座っていた原住乗客にカードを貸してやれと指示してくれたおかげで何とかバスに乗ることが出来た次第であった。

新市街の適当な所でMETRO BUSを下車すると高層ビルや教会が立ち並ぶ町並みを見上げながらagodaに予約させておいたグランホテルソロイ&カジノに辿り着いた。すでに午後4時を回っていたのだが、パナマ・シティの治安状況を早めに体感するために旧市街方面に向かって歩いてみることにした。

物の本によると治安が不安視されるパナマ・シティにあってもセントラル大通り沿いを歩いていれば問題ないと書かれていたのでガンジー像に見守られながら、途中から歩行者天国に変貌した大通りを南下して行った。

歴史的地区であるカスコ・ビエコ(世界遺産)に差し掛かると町の雰囲気がコロニアル調になり、観光警察も監視の目を光らせていたので獰猛な動物の脅威を物ともせずに周囲を散策することにした。

夕暮れ時に差し掛かり、観光客も少なくなっていたので独立広場で土産物を売っているクナ族も撤収の準備に余念がなかったのだが、この地域では今にも崩れ落ちそうな古い建物やゴミ収集ドラム缶に描かれたアートが異彩を放っていた。

パナマ・シティの旧市街では午後6時半を過ぎるとほとんどの店が閉まり治安が怪しくなるそうなのでそそくさと退散することにしたのだが、大通りでは大道芸人が芸の披露に励んでおり、原住民はこれぞパナマを思わせるボンネットバスに乗り込んで帰路についていた。

3月24日(土)

マサよ、君は南北アメリカ大陸を分断し、大西洋と太平洋を繋ぐ世界の十字路での船舶航行のダイナミズムを見届けたことがあるか!?

私は・・・見届けてしまった!!!

というわけで、近年治安を改善し、観光業に力を入れているパナマ最大の見所であるパナマ運河を目指すべく暗いカジノには見向きもせずに炎天下に飛び出すことにした。新市街からパナマ運河へのアクセスは通常であればタクシーやバスなのだが、距離がわずか6kmということなので私は徒歩で向かうことにした。スラムの香りがする怪しい地区を抜けると国内線の飛行機が飛来するアルブロック空港のはずれのバルボア駅舎跡に到着した。

現在はマクドナルドに支配されているバルボア駅舎であるが、かつてはパナマ運河に沿って運行されていた鉄道の駅舎であり、その名残として蒸気式の大型クレーン車が雑然と展示されている。駅舎跡の高台には運河を管理するために米国によって建てられたパナマ運河管理局の施設が鎮座し、その前には平凡な形のメモリアルが控えめにそびえていた。

バルボア駅舎はもはや機能していないのだが、Panama Canal Railway Companyは今なお現役で貨物の輸送のみならず、一部は旅客列車として営業しており、パナマ・シティとコロン間を往復する便は展望車として大変な人気を博しているようだった。

道に迷った時間も含めて3時間程歩いたであろうか?ついに線路の向こうに何がしかのファシリティがぼんやりと姿を見せ始めた。さらにパナマ運河のミラフローレス水門へ案内する看板が増え始め、汗を噴出しながらその案内を粛々と辿って行った。

パナマ運河の敷地に入ると熱帯地方パナマの豊富な生態系を誇示するかのように在来クロコダイルの看板がそこかしこに掲げられており、観光客が食われないように注意を促していた。橋の上から見たダムに続く川は干上がっており、白い水鳥がよちよちと歩いていた。

正午過ぎについにパナマ運河のミラフローレス水門($8)に到着した。尚、全長80kmのパナマ運河にはパナマシティに近いミラフローレス水門、ペドロ・ミゲル水門、大西洋側のコロンに近いガトゥン水門がある。その中でもミラフローレスは最も見学しやすい水門として常に多くの観光客で賑わっているのだ。

午後の船が水門を通過するのが2時間後くらいということで、その間にビジターセンター内でスライドを見たり博物館を見学したりして時間をやり過ごしていた。関連資料によると人類最大の土木工事と言われるパナマ運河建設には1億5290立方メートル以上の土石が採掘され、もしもその土石を貨物列車に積み込めば、列車の長さが地球を4周するほどのとてつもないものであったそうだ。運河は1914年に開通したのだが、運河建設条約により長い間米国の支配下におかれ、1999年になってやっとパナマに返還されたのである。

博物館の2階ではパナマの生態系が展示されており、熱帯地方特有の巨大な昆虫類の標本や水槽に拉致された生きた川魚をむなしく泳がせながら、スループット改善のために運河拡張を目論むパナマが自然環境にも配慮していることをしきりにアピールしていた。

午後2時を過ぎるとようやく船の通過が始まり、観光客が続々と水門を見下ろすスタンド席に押し寄せてきた。船舶が運河を通過する仕組みであるが、パナマ地峡にはガトゥン湖という海抜26mの湖があり、その湖が運河の大半を成しているため船を海抜0mから26mまで段階的に上げたり下げたりして航行させる必要がある。そこで登場するのが閘門(こうもん)システムという水門の開閉により水位を調節する水のエレベーターである。ミラフローレス水門では閘門システムにより巨大な船が上下する様子をマサに目の前で見ることが出来るのだ。

最初に入ってきた船は毎週土曜日に観光客向けに高値で運行されるパナマ運河クルーズの遊覧船であった。パナマ運河では現在の仕様で最大長さ294.1m、幅32.3mの船を通すことが出来るのだが、小さい船は数隻まとめてバッチ処理されるため、遊覧船は次の小船が入ってくるまでプールでの待機を余儀なくされていたのだ。一方、となりのレーンでは香港籍の大型貨物船が異様な迫力で静かに水門に近づいていた。

船が閘門に入ってくると1隻ごとにこれまでの長い航海をねぎらい、これからの長旅の安全を祈願するかのようにMCによる船の紹介がなされていた。スペイン語と英語で忙しく喋るMCによるとパナマ政府が運河の通行料によりせしめる金額は毎日6~8百万ドルにものぼっているとのことでパナマ・シティの高層ビルは明らかにここでの水揚げにより建てられたものであろう。

おびただしい数のコンテナを満載した大型貨物船が水門を通る際の左右のマージンはわずか数10cmなので通行には細心の注意を要する訳だが、三菱・川崎に2百万ドル払って手配したというElectric Locomotiveが数台がかりで巨大船を牽引するという重要な役目を担っている。特に船体の中盤と後方を担当するLocomotiveは左右の張力を慎重に調整して船が側壁に接触しないように微妙なバランスを保っていたのだった。

パナマ運河は照明設備の普及により24時間体制で運営されているのだが、ミラフローレス水門のビジターセンターは午後5時で営業終了となるため、MCは終了時間が近づくとしきりに「No bed, No breakfast」をアピールして早めの観光客の撤収を促していやがった。世界の十字路の醍醐味を十分に堪能し、帰途に着くとクロコダイルを養っている川には轟々と水が流れており、運河の運営には大量の水を必要とすることをあらためて思い知らされたのだった。

パナマ運河の敷地から幹線道路に出るとバス停があったのでそこからバスに乗り市街地を目指した。バスはショッピングセンターも併設する巨大な国営バスターミナルに到着したのでここで念願のMETRO BUSカードを入手して意気揚々と新市街に帰って行った。

3月25日(日)

パナマ地峡は南北アメリカ大陸をつなぐ陸地が最も狭まった所であり、太平洋側のパナマ・シティから大西洋側にも短時間で出ることが出来るので、今日は国営バスターミナルからバスに乗って対岸を目指すことにした。

パナマ運河のカリブ海(大西洋)側の玄関でパナマ第二の都市として君臨しているコロンという街がある。パナマ・シティのバスターミナルから急行バスに乗ると1時間半程でコロンのバスターミナルに到着したのだが、中米で最も治安の悪い街として悪名高いコロンは重苦しい雰囲気を漂わせているように感じたのでバスを乗り継いでポルトベーロという町にエスケープすることにした。

パナマ・シティから約100km北東にある大西洋岸の小さな港町であるポルトベーロ(世界遺産)はイタリア語で美しい港という意味で、コロンブスが第4回目の航海の途中でここに停泊した際に命名されたという。地理的にも恵まれたポルトベーロはスペイン人がペルー等で略奪しやがった金や財宝がパナマ・シティを経由してこの地に集められ、ここからガレオン船に積み替えられて大西洋を横断してスペイン本国に送られていったのだ。

16世紀末にはこれらの財宝を狙ったカリブの海賊の攻撃に備えて強固な要塞と財宝を一時保管するための倉庫と税関が築かれたのだが、その遺構が今なお残されているのだ。サン・ヘロニモ砦の中には城壁と湾を守る18門の大砲が残っており、カリブ海に向けて錆びた銃口を向けていた。

税関博物館($5)の中には当時の繁栄を示す各種資料や武器等が展示されており、近くには古びているが威厳のある教会が静かに佇んでいた。湾内には多くのヨットも繋留されており、リゾート地の側面をアピールするかのようにカリブ海の美しい景色を彩っていた。

サン・ヘロニモ砦から少し離れたところにサンティアゴ砦が廃れていたので軽く見学していたのだが、目の前の海岸では原住民がピクニックにいそしんでおり、常夏の海で海水に浸かって世間話に花を咲かせているおばちゃんの姿も見受けられた。

大都会パナマ・シティの喧騒とは趣を異にするのんびりしたポルトベーロを後にすべくローカルバスに乗り込んだのはいいのだが、重低音の効いた南国音楽を大音響で流して騒いでいる連中が後方座席を占拠していたため、一種興ざめしながら帰路につくこととなった。コロンの手前のバス停でローカルバスを降り、満席の急行バスに乗り換えて立ったままパナマ・シティに向かった。バスターミナルには夕食の頃合に到着したので隣のアルブロック・ショッピングセンターの巨大なフードコートに陣取り、中華とアイスクリームを食って空腹を満たしておいた。

3月26日(月)

パナマ初日に訪れた歴史的地区カスコ・ビエコをくまなく見届けるために早朝より散歩に出ることにした。対岸にそびえる高層ビル群と国立劇場、サンフランシスコ教会等のコロニアルな造りの建造物の景色の中でパナマ帽を売る土産物屋は開店の準備に余念がないようであった。

旧市街には不思議なアートを感じさせるビルの落書きがあるかと思うと落書きを寄せ付けない古い遺跡もあり、カスコ・ビエホは非常にバラエティに富んだ見所に溢れている。

カスコ・ビエホの南東にフランス広場という記念広場がある。パナマ運河は元々はフランスによって手がけられたのだが、黄熱病やマラリア等の疫病の蔓延によりフランスがばっくれたためにアメリカの手に落ちたわけであるが、ここには運河ゆかりの胸像や記念碑が建てられており、未だにフランスの威光が残っているのだ。

フランス広場から遠く海を見渡すと運河の通過待ちの船舶も見受けられ、クナ族のおばちゃんはカラフルなモラという布を整然と陳列して観光客が販促の網に掛かるのを虎視眈々と待ち構えていた。

地味な外見とは対照的に黄金の祭壇が輝いているサン・ホセ教会は、カスコ・ビエホが海賊の被害を受けて金銀財宝が持ち去られてしまった時にあって漆喰を塗って祭壇を隠しておいたために、今なおそのきらびやかな装いを目の当たりにすることが出来る貴重な遺産である。

カスコ・ビエホの見所を一通り押さえることが出来た満足感を胸にグランホテルソロイ&カジノをチェックアウトすると得意満面でトクメン国際空港に帰り、13:50発UA1033便でヒューストン行きの機上の人となった。さらに21:10発UA1687便に乗り継ぐと午後11時過ぎにロサンゼルスに到着し、そそくさとTravelodge at LAXに引き篭もって念願の就寝時間となった。

3月27日(火)

チェックイン時にアップグレードしていただいた12:35発NH5便は定刻通り出発し、新型B777-300ER機ビジネスクラスの全席通路側アクセスと完全フルフラットへと変貌する座席の快適さを堪能し、さらに機内軽食メニューのロブスター・カレーを貪り食いながら機上でダラダラ過ごしていた。

3月28日(水)

定刻より早めの午後3時半に成田空港に到着し、運河でせき止めた水が堰を切るように流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥68,590、ユナイテッド航空 = ¥71,950、コパ航空 = $349

総宿泊費 $573.16

総コロンビアバス代 $4,650($1 = ¥0.0463)

総パナマバス代 $14

総パナマ空港税 $1.25

協力 ANA、ユナイテッド航空、コパ航空、agoda

アンデスの魔鏡ウユニ塩湖ツアー in ボリビア

ボリビアの南部、アンデス山脈の中腹に世界最大の塩湖が存在し、雨季になるとうっすらと湛えた水が魔鏡のように周囲の景色を映し出し、あたかも天地が逆転したかのような幻想に陥ってしまうという。最近メディアの露出も多くなってきたウユニ塩湖であるが、今回はその光景を実際に目に焼き付けるためにボリビアくんだりまでやって来なければならなかったのだ。

2012年2月18日(土)

17:05発NH6便は成田空港を予定通りに出発し、同日の午前9時半過ぎにロサンゼルス国際空港に到着した。早速Holiday Inn LAX Airportまでの送迎を担当するシャトルバスに乗り込むと、Holiday Innには投宿せずにあらかじめ予約しておいた近くのMotel 6にしけこんで、今日は時差調整のつもりでゆっくりさせていただいた。

2月19日(日)

11:00発American Airline AA1520便に乗り込むと3時間の時差をこえて午後7時前に中南米とのゲートシティになっているマイアミ国際空港に到着した。巨大な空港内で時間をやり過ごした後、乗り継ぎ便の22:30発AA922便に搭乗すると機内で中途半端な長さの時間を過ごすこととなった。

2月20日(月)

AA922便は6時間半程度のフライト時間でボリビアの首都ラ・パスのエル・アルト空港に午前6時過ぎに到着した。尚、ボリビアの憲法上の首都はスクレとされているのだが、実際上の首都はラ・パスになっている。さらにラ・パスは南北アメリカ大陸横断ヒッチハイクの旅でスペイン語を習得したドロンズ石本が別の番組でラ・パス市内に焼き鳥屋を開業し、商売が軌道に乗り始めたときにボリビアの情勢変化のためにやむなくドロンしたことでも有名である。

とりあえず、つつがなく入国審査を通過し、小雨そぼ降る中を空港の到着口で待機しているワンボックスのミニバスに乗り込むと標高4082mの世界一高い国際空港を後にした。ミニバスはエル・アルト地区という貧しい人々が住む地区を抜けて長い下り坂に差し掛かると30分程で標高3650mで世界一高い首都であるラ・パスの中心部に到着した。私が下りた所は旧市街にあたる場所で周囲にはコロニアル調の古い建造物が多く、中でも1549年に建てられたバロック様式のサン・フランシスコ寺院が一際存在感を際立たせていた。

サン・フランシスコ寺院の北東にはラ・パスの中心となるムリリョ広場が広がっており、その中央にはボリビア独立戦争で活躍したムリリョの像が周囲の大統領官邸、カテドラル、国会議事堂を見下ろしていた。

この美しいムリリョ広場は庶民の憩いの場所にもなっており、あちこちで鳩用の餌の売り子が闊歩し、豆鉄砲を食らう危険がない鳩はすべて手乗り鳩と化して人類に襲い掛かってくるのであった。

午後近くになると町の様相に変化が見え始め、メイン通りの交通規制とともに何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物の準備があわただしく行われていた。通りには派手な衣装に身を包んだダンサーと鼓笛隊が参集し、物々しい雰囲気を醸し出し始めたのでとりあえず近くのバスターミナルにエスケープさせていただいた。

ボリビア交通の大動脈となっている巨大なバスターミナルは屋根付きであるが周囲が吹き抜けになっており、皆白い息を吐きながらおとなしくベンチに腰掛けていた。早速今晩のウユニ行きバスのチケットを物色したのだが、あいにくすべて満席となっていたので、仕方なくポトシという町へ行くチケットを購入せざるを得なかった。

あいかわらず外は雨模様だったため、長時間バスターミナルで待機を余儀なくさせられたのだが、カルナバルを祝う無数の爆竹と鼓笛隊が奏でるリズムに引き寄せられるようにいつしかメインストリートまで出て来てしまっていた。カルナバルは水かけ祭りとも言われているようで巨大な水鉄砲を手にした青少年少女が路上でコンバットを展開し、ダンサーには容赦なく水の入った風船が投げつけられていた。

日本で言えば富士山に匹敵する標高の町で踊り狂うダンサーを横目に坂道で息を切らしてしまった私は何とかバスターミナルまで帰り着くと夕飯も食わずに21:30発のポトシ行きSemi CAMAバスに乗り込んだ。尚、長距離バスはNormal、Semi CAMA、CAMAと3種類あるようでCAMAとはスペイン語でベッドを表す言葉なのでそれなりに快適なバスの旅が期待されたのであった。

2月21日(火)

VOLVO製の巨大な2階建てSemi CAMAバスはリクライニングの快適性はまずまずだったものの車内はエアコンがつけられていないせいか凍えるような寒さであった。手馴れた原住民はMY毛布を持参して乗車しているため、寝つきが良かったようであるが、寝具のない私は冷気に肉体をさらしながら、眠い、寒い、高い(標高が・・・)の三重苦と10数時間格闘しなければならなかったのだ。

さらにボリビアのバスは事故や故障で悪名高いのだが、私が乗っていた車両も例外なく夜が明けた6時半頃におもむろに路肩に停車してしまった。1階最後部のエンジン近くの私の席にはもやもやした煙と共に異臭が漂い始め、このバスはもはや自走出来ないことを覚悟させられることとなった。それでも運転手は1時間程、自力で修理を試みたのだが、幸いポトシ近くまで来ていたため代車を手配して何とか8時過ぎにはポトシに到着する運びとなった。

バスを降りると丁度ウユニ行きのバスのチケットの販売が行われていたので早速購入させていただいた。出発時間が12時30分ということなのでそれまで世界遺産であり、標高4070mで世界最高所にある町ポトシを最後の力を振り絞って見学することにした。バスを降りた場所からポトシの町の中心部まで急な坂を登っていくと町の背後にそびえる赤茶けたポトシ山の雄姿が目に飛び込んできた。この山はかつて「富の山」と呼ばれ、南米最大の銀山として町に繁栄をもたらしたシンボルである。

南米の中で、植民地時代の面影を最も色濃く残す町のひとつであるポトシは石畳の狭い通りやコロニアルな建物が印象的であるのだが、カルナバルの影響で主な見所である旧国立造幣局やカテドラル、教会・修道院等はすべて閉鎖となっていた。仕方なくポトポトと雨の降るポトシの町並みを眺めながらあてどもなく彷徨っていた。

不意に昨日の昼から何も食べていないことを思い出したので、町中で唯一営業していたネットカフェに入り、コンチネンタル・ブレックファストを食していると、関西系の日本人のおばちゃんが相席を求めてきた。気の毒なおばちゃんは町はずれの展望台近くで野良犬に噛まれ、ポトシの病院で何度か注射を受けるはめになり、1週間程ここで足止めを食らうのだと元気にのたまっていた。

おばちゃんを置き去りにしてネットカフェから撤収し、バス乗り場に戻るとそこにはウユニ行きを所望する多くの人々で溢れかえっていた。乗客を満載したバスはほぼ定刻通りに出発し、風光明媚な山岳風景や放牧されているリャマを横目に順調に運行して行った。途中の悪路も難なくクリアして5時半には念願のウユニの町に到着する運びとなった。

ウユニ到着後の最重要アクションは宿を取ることであったのだが、幸い駅前のHOTEL AVENIDAに空きがあり、しかも宿泊費が1泊Bs30(日本円で\360)ということだったので取りも直さずチェックインさせていただくことにした。共同シャワーで長旅の汚れを落とした後、おびただしい数の日本人観光客を横目にHOTEL AVENIDAの隣で営業しているツアー会社であるBrisa Toursに飛び込んだ。

当初の目論見では今朝早くウユニに到着し、その場で2泊3日のツアーに参加するつもりであったのだが、ウユニのツアーは2泊3日どころか1泊2日のツアーもすべて満席だということで、あらためて当地の人気の高さを思い知らされた。他のツアー会社を巡って問い合わせをしても同様であり、ツアーの空きは宿泊設備のキャパの制限によるものなのでどうしようもなかったのだ。

カルナバルの喧騒が残る町中を歩きながら思いを巡らし、結局日本人御用達のBrisa Toursの隣のTunupa Toursで明日の1 DAY TOUR(Bs180)を申し込み、屋台でチープなバーガー系のパンを食って夕食とすると早々ときしむベッドに横たわり、英気を養うことにした。

2月22日(水)

ウユニ塩湖へのツアーはどのタイプであろうと午前10時半にツアー会社の前に集合し、11時頃に出発することになっているのでTunupa Toursのオフィスの前で乗るべき4WD車が到着するのを今か今かと待ち構えていた。

11時過ぎにLEXUSというブランド名のランドクルーザーに乗り込むとウユニの町を後にしてツアーの最初の目的地であるTrain Cemetaryに向かって行った。列車の墓場にはマサにJR東日本の職員であれば目を覆いたくなるほどの多くの機関車が無造作に放置され、観光客は屋根まで這い登ったり、ぶら下がったりとやりたい放題に退役した汽車をもてあそんでいた。

列車の墓場への参拝を終了させるとコルチャニ・タウンという製塩所に立ち寄ることとなった。ここにはミュージアムと土産物屋が併設されており、塩のブロックで建造されたミュージアムの中には不細工なリャマをかたちどった塩のオブジェ等がしおらしく展示されていた。また、土産物の多くも塩で作られたものでお手頃な小物入れや灰皿等が観光客の人気を博していた。

マサよ、君は標高3760mに広がる塩水の平原で天と地が釣り合った光景を見て言葉を失ったことがあるか!?

というわけで、製塩所での滞在が潮時を迎えた頃に再びLEXUSに乗り込み、今回のツアーのハイライト且つ、ここに来なければボリビアくんだりまで来た意味が全くなくなってしまうウユニ塩湖まで疾走することとなった。車が雨季のために冠水した塩湖に差し掛かると時速を10km程度まで減速し、おだやかな水しぶきを上げながら塩湖の中心に位置する目的地をゆっくりと目指していた。

世界一大きな塩の湖ウユニ塩湖の鏡面は非常になめらかで風もなく好天に恵まれた雲や遠くに見える島の形をはっきりと映し出し、マサに天地を錯覚させるかのような幻想にしばし浸ることとなった。

1 DAY TOURの最終目的地である塩のホテル、プラヤ・ブランカにはすでに多くのツアー客が到着し、そこはあたかもランド・クルーザーのモーターショーの様相を呈していたので豊田章男社長もここに来れば別の意味で満足することが約束されていると思われた。

プラヤ・ブランカの隣の塩の小島には各国の国旗がつき立てられており、皆それぞれの国旗を抜き取って記念写真のおかずに出来る体制が整っていた。また、お調子者の日本人観光客はすでににわかパフォーマンスに興じており、盛塩の上で何の変哲もないポーズを決めて悦に入っていた。

日本人の宿泊客が圧倒的に多いプラヤ・ブランカの内部にはミュージアムもあるのだが、「展示物を見たいビジターは何か買いやがれ!」との注意書きを無視して中に入ってみることにした。飾ってある代物は塩で出来ている以外は特筆すべきことがない物ばかりであるのだが、むしろTOTO社員が体験すると腰を抜かすほどの強烈な塩ホテルの便所が気になってしようがなかったのだ。

ツアーではランドクルーザーのテールゲートを簡易テーブルとしてランチが提供されることが定番となっているのでパサパサの米とゆで、生野菜、巨大な鶏肉の塊をいただくことにした。当然のことながら、足りない塩っ気は地面から無限に供給されるのだが、全面鏡張りの中で食べる食物はこの上なく美味なものであったのだった。

1泊2日のツアーでプラヤ・ブランカに宿泊する観光客はこのまま明日のランチの時間まではここで放置プレーとなる一方で、1 DAY TOURの参加者は午後3時~4時くらいにこの場所から撤収することになっている。帰りも来た道と同じルートを通ったのだが、塩湖の入口の塩山ポイントでは原住民家族がのんきにビーチ遊びに興じていた。

午後4時過ぎにウユニの町に帰り着くと、交通事情等を考慮して早めにウユニを脱出すべくバスターミナルでポトシやスクレ行きの深夜バスを物色したのだが、いずれも満席ということだったので、とりあえず翌日のラパス行きの深夜バスのチケットを確保しておいた。引き続き今夜の宿を確保すべくHOTEL AVENIDAに問い合わせをしたのだが、すでに満室になってしまっていた。隣のホテルも満室の札がかかっていたのだが、3件目のPALACE HOTELに空きがあったのでBs35を支払って何とかしけこむことに成功した次第であった。

2月23日(木)

押し寄せる観光客の数に対してホテルの部屋数が不足しているためか、バックパッカーの中にはウユニ駅の敷地や寒空の下で野宿を楽しんでいる輩も見受けられた。いずれにせよ、ウユニ塩湖の絶景はそのような苦労をしてまで見る価値があることは疑いようの無い事実であった。

早朝ウユニの町を散策していると駅からはずれた場所にTrain Cemetaryにうち捨てられる難を免れた機関車が展示保存されている光景を目にした。ウユニではチリとの貿易を担う鉄道員も数多く働いているようでその繁栄の様子を示す壁画も目に留まった。

結局この日もウユニに滞在しているという最大限のアドバンテージを活かすために塩湖への1 DAY TOURに参加することにした。今日利用したツアー会社はバスターミナルの前にオフィスを構えているSANDRA TRAVELSであったが、どこの会社もツアー内容も価格も同じらしく、最初の訪問地はTrain Cemetaryであった。JR西日本の職員であれば思わず手をあわせてしまいそうな光景を再び目にしたのだが、列車の墓場という割には煙突に線香さえ手向けられていなかった。

コルチャニ・タウンの土産物屋で一番小さい塩製の小物入れを購入して売り上げに貢献すると塩湖の入口でランドクルーザーの屋根に登り、今日は車窓からでなく屋根の上から高みの見物をさせていただくことにした。

塩湖に突入して塩を満載したトラックとすれ違ったのだが、この約120km x 約100kmにも渡る広大な塩の大地には約20億トンという東京ドーム何杯分という単位では計ることも出来ない量の塩が眠っているのだ。

2日続けて好天に恵まれたおかげで強い日差しの照り返しにより顔の下半分がこんがりと焼けてしまっていた。しかし、曇っていたり、雨が降っていたりすると天空の鏡もその威力を存分に発揮出来ないので絶景を見れるかどうかはマサに運次第という側面が強いと思われた。

雨季の塩湖は足首くらいまで水が張っているので皆長靴、ビーチサンダル、裸足といった足回りでそれぞれの活動に興じている。日が照っていると水温が上がるのでビーサンで歩き回っている分には快適であるのだが、乾くとスネ毛にまで大量の塩がまとわり付いてしまうのだ。

今回は1 DAY TOURしか取れなかったため、2泊3日ツアーの参加者のみ訪れることが出来る赤い色をした湖ラグーナ・コロラダを目にすることは出来ないのだが、そこを居住地にしているはずのチリフラミンゴがいくつかの群れを形成してはるか湖の彼方を飛んでいるのをかすかに眺めることに成功した。

2日に渡るウユニ塩湖のツアーが終了し、夕方ウユニの町に戻ると大通りにインディヘナ(先住民)の市が立っていた。とりあえずその辺のベンチで塩にまみれた足を清掃してボディに十分な防寒対策を施すと午後7時に出発予定のラ・パス行きの夜行バスに乗り込んだ。今回もSemi CAMAのバスであったのだが、運行会社の違いのせいか、各シートには毛布があり、ラ・パスに戻る道中もそんなに冷えなかったので割と快適な移動手段兼宿泊所と成り得たのであった。

2月24日(金)

バスが順調にラ・パスのバスターミナルに到着したのは午前8時前であったろうか?とりあえずターミナル内の日本語が読めるインターネット屋で時間を潰すとラ・パス市の中心部に向かって歩を進めることにした。

今週月曜日にラ・パスに来た時には冷たい雨に悩まされたのだが、今日は天気も良かったのでラ・パス市街を一望出来るライ・カコタの丘(Bs3.5)に登ってみることにした。丘の上の公園は高層ビルが並び立つ市の中心や低級住宅がへばりつくように建っているすり鉢を見渡すのに絶好のポイントで、眼下にはバラック風の屋根が並び立つカマチョ市場の様子も見受けられた。

昼過ぎに目抜き通りに面したビジネスホテル風のエル・ドラードに飛び込みでチェックインを果たすとラ・パス市内を効率良く回ることが出来る市内観光バス(Bs50)に乗ってみることにした。この観光バスによるヘッドホン解説は日本語にも対応しているのだが、日本語の「語」のへんとつくりがそれぞれ別の字であるかのような印象を受けてしまった。

バスが市内の見所を回る際にボリビアという国に関する様々な解説がなされたのだが、平均寿命は男60歳、女65歳とマサにボリビアのおばちゃんの体型のように太く短い人生にもかかわらず、定年が65歳になっているので日本のように年金財源が底を付くというような懸念は一切無いことが確認出来た。また、総人口に占めるインディヘナ(先住民)の比率が50%を超えており、南米の中で最もインディヘナ人口の多い国となっているため、多くの観光客がボリビアに引き付けられるのだと思われた。

市内観光バスは急な坂を登り、町の北にあるミラドール・キリキリという展望台のような高台に到着した。ここから見える景色は、思わず「おさむちゃん で~す!!」と勢いをつけて叫んでしまいそうな見事な「ザ・ぼんち」の眺望であり、すり鉢の底には5万人もの観客を収容出来るスタジアムも横たわっていた。とりあえず、市内観光バスの案内でラ・パス市内の全貌を理解出来たので、A地点からB地点に向かう途中のC地点でたばこを買ったりするような動きをする場合は急な坂を上り下りする覚悟が必要だとの認識をあらたにした。

サンフランシスコ寺院の裏の坂を登っていくとメルカド・ネグロという市場に辿り着いた。ここには地元の人向けの食料や日用品が取り揃えられており、アンデス山中にもかかわらず新鮮な魚さえ取引されていたのだった。

2月25日(土)

早朝ホテル・エル・ドラードの前からミニバスに乗り、セメンテリオという墓地で下車すると近くにティワナク行きのミニバス乗り場があったので約2時間かけてラ・パスから72km西のティワナク遺跡(世界遺産)を目指すことにした。遺跡に到着すると入場料Bs80を支払い、まずはMUSEO CERAMICOという遺跡から発掘された土器等を展示している博物館をチラ見しながら遺跡に対面する心の準備をさせていただいた。

ティワナク遺跡に入場すると高さ15m、底辺210m四方の赤茶けたアカパナのピラミッド跡に遭遇した。その隣には遺跡の中心だったと思われるカラササーヤという長方形の巨石と角石を組み合わせた壁に囲まれた神殿があり、そのモザイクを思わせる石組みは、インカ末期の石組み技術と比べてもひけをとらない見事さであった。

カラササーヤにはモノリートと呼ばれる一枚岩から切り出された石像が2体立っているのだが、高さ7m30cmの「ベネット」という固体は風雨による傷みが進行するのをおそれてすでに屋内博物館に移設されているのだ。また、カラササーヤの隅には高さ3m、幅3.75mを誇る太陽の門という巨石で作られた門が立ちふさがっている。門の上部にはビラコチャの神と神を囲んで飛ぶ48人の鳥人が刻まれている。

カラササーヤの背後にある半地下神殿の中央にはコンティキの神の立像が君臨し、周囲の壁には180個もの石の顔が訪問者に睨みを利かせている。

ティワナク遺跡は4km四方にも及ぶ広大なものなので、その発掘が進んでいるのは30%に過ぎないと言われている。また、スペインからの征服者がティワナクに町を造ろうとしたときに教会に最適な石を探したのだが、ティワナク遺跡の石も数多く教会や家々の土台として流用された形跡が残っている。

ティワナク遺跡の神殿から500mほど離れた場所にプーマプンクの宮殿跡がある。ここはかつて巨石の宮殿だったらしく、足元には最大で縦8m、幅4.2m、厚さ2m、重さ10トン超のとてつもなく大きな石が転がっている。また、巨石と巨石は銅をかすがいにしてつながれたらしくその痕跡の溝も生々しく残されているのだ。

ティワナク遺跡でプレインカ文明の技術の高さに圧倒されたのでミニバスでラ・パスに戻り、市の南地区にある月の谷(Bs15)を見物することにした。人口170万人を誇る大都市ラ・パスにあって月の谷を要するマリャサ地区には四輪バギーも乗り回せる自然の大地が残っており、奇岩が広がるその景観はまるで月面のようであった。

月の谷にはアンデスでは滅多に見られない猫が見守る遊歩道も整備されており、脆い砂岩に刻まれた岩の芸術を間近に見ることが出来るのだ。

「パタゴニアの蒼き河と天空の鏡ウユニ塩湖」ツアーを催行する西遊旅行の一行と入れ替わるように月の谷を後にするとミクロというボンネットタイプの古バスでセントロに戻り、魔女通りとの異名を取るリナレス通りを散策することにした。魔女通りの所以は呪術に使われる小道具がおみやげに混ざって展示販売されているからなのであるが、どの店先もキュートなリャマの胎児のミイラがこれ見よがしに供えられていた。

大都会のラ・パスに帰還後、何とか食生活を改善することが出来、昨日はCorea Townという韓国レストランで韓国料理を召し上がった。今日はボリビアの最後を飾る晩餐なのでわがままを聞いてもらうべく「Wagamama」という日本食屋の暖簾をくぐることにした。食費の安いボリビアでは高値であるはずのBs8.3で供されるWagamama Teishokuはティティカカ湖で採れるはずのトゥルチャ(マス)の刺身をはじめ、日本食通のわがままを十分に聞き入れた結果を反映したメニューであると思われた。また、高地では沸点が低くなるため、米を炊くのが難しいはずであるが、Wagamamaが供するご飯は日本食堂に匹敵するほどの出来であったのだ。

2月26日(日)

早朝4時半にホテル・エル・ドラードをチェックアウトするとホテルの人にラジオ・タクシーを捕まえてもらって一路エル・アルト空港に登っていった。

7:15発AA922便は定刻通りに出発し、ボリビア第2の都市サンタ・クルスを経由して午後4時前にはマイアミ国際空港に到着した。マイアミからAA231便に乗り換え、ロサンゼルスに着いたのは午後9時前であった。

2月27日(月)

0:10発NH1005便, B777-200機に搭乗する直前にビジネスクラスへのアップグレードを果たし、機内エンターテイメントプログラムによる「ステキな金縛り」に遭いながらも邦画を3本見ることに成功した。

2月28日(火)

定刻5:15前に羽田空港に到着し、ヘモグロビンの血中濃度が高くなっていることを実感しながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥47,530、AA = ¥80,120

総宿泊費 $75.26 、Bs577 (Bs1 = ¥12)

総バス、ミニバス、ミクロ代 Bs260.5

総タクシー代 Bs60

総ウユニ塩湖ツアー代 Bs360

総空港使用料 $25

協力 ANA、アメリカン航空、Motel6

モアイとの出会いを求めるイースター島ツアー

チリも積もれば山となるというが、最近チリで大爆発を起こした火山から吹き出た塵はアンデス山脈に降り積もり、さらなる大きな山を形成していくことであろうが、震災からの復興も一握の塵程度の努力の積み重ねが大切に思える今日この頃である。ところで、昨今の情勢を省みると政局は混迷し、神がかり的な活躍を期待されたスポーツチームや選手は低迷し、日本を勇気付けて一つにするどころか被災地にストレスだけを与えている低たらくである。このような閉塞感を打開すべく、ハチ公と並んで渋谷の待ち合わせの聖地となっているモヤイ像にモヤモヤをぶつけにいっている輩も多いと思うが、FTBはそのパクられ元のモアイ像との出会いを求めてはるか太平洋の孤島まで遠征に出ることを決意したのだ。

2011年6月10日(金)

内閣不信任案の否決を尻目にAKB48の総選挙も無事終了し、日本の伝統文化である「オタク」を復興の起爆剤にすべく秋元康に福島県双葉町でFTB48の立ち上げを嘆願しようと考えているのだが、フラガールを生み出した福島県という土地柄だけに、東京電力の婦子女を募集すればこの計画もなまじ実現性の薄いものではないものと思われる。

それはそれとして、午後5時10分成田発ロサンゼルス行きNH006便は久々にエコノミークラスが満席になったというこじ付けでビジネスクラスへのアップグレードを果たした私を乗せて定刻通りに出発し、約10時間のフライトで午前11時過ぎに現地に到着した。その後2時40分発のAA2450便に乗り換え、午後8時前にアメリカン航空の本拠地であるダラス・フォートワース空港に到着すると、さらにAA940便に乗り換えて10時間以上を空の上で過ごすことと成った。

6月11日(土)

初夏のアメリカから赤道を超えて初冬のチリの上空に来たせいか午前7時を過ぎても窓の外は暗いままだった。定刻より少し早い午前8時前にようやくチリの首都サンティアゴのアルトゥロ・メリノ・ベニテス国際空港に到着すると何故か手元に残っていたブラジルの通貨であるレアルをチリ・ペソに両替し、空港バスに乗ってセントロ方面に向かった。

旧市街へと差し掛かる大通り沿いがバスの終点となっていたので、そこで下車すると左右に立ち並ぶ高層ビルや広場を眺めながらホテルに向かって歩いていた。楽天トラベルに予約させておいたホテル・リベルタドールには午前10時半くらいに到着し、1泊\3,300という安値ながらすぐにチェックインさせていただけたので部屋に引き篭もって横になっているといつのまにか意識を失っていた。

気がつくと夕闇迫る午後5時になってしまっていたので疲れた肉体に鞭打って街に繰り出して見ることにした。セントロの東にこんもりとした緑濃い丘が膨らんでいたので門番の指示で名前を登録させられた後、高台に登ることとなった。サンタ・ルシアの丘と呼ばれるこの場所はサンティアゴの基礎を築いたスペイン人征服者バルディビアが、抵抗する先住民に備えるために要塞を設けたのが始まりであるが、トワイライトのこの時間はアンデスの恋人たちの格好のたまり場となっているのだ。

わずか80km程しか離れていない6000m級のアンデスの峰々が夕日に赤く染まるとほどなくしてサンティアゴの町にイルミネーションが輝き出した。しかし、サンタ・ルシアの丘は治安維持のため冬季は午後7時までに撤収しなければならないので夜景を満喫出来る時間はわずか30分程度に限られているのであった。

サンタ・ルシアの丘を駆け下り、旧市街の中心に舞い戻るとにぎやかな通りに囲まれながらも市民の憩いの場所となっているアルマス広場に週末の喧騒を味わいに立ち寄ることにした。広場のステージではバンドが演奏し、陽気なチリアンがリズムに合わせて歌い踊っていたのだが、広場に面したサンティアゴ大聖堂の内部では厳かなミサが行われており、神父の説教の声と整然とした聖歌のしらべが満ち溢れていた。

6月12日(日)

まだ闇も深い早朝5時過ぎにホテルをチェックアウトすると防寒着を来た暴漢に襲われないように辺りに注意を払いながら空港行きのバス乗り場に向かった。6時のバスに乗り込み、空港に到着すると8時近くになってやっと東の空から太陽が昇ってきた。

午前8時20分発LAN航空が運航するLA841便に乗り込み、サンティアゴを離陸するとアンデスの絶景を尻目に飛行機は太平洋の上空に差し掛かった。これより3700kmもの航路を5時間以上かけての長旅となるため乗客はそれぞれビールやチリワイン等を痛飲しながら狭い機内で英気を養うことと成る。

酔いも一回りして目が覚めた頃には眼下に真っ青な海に囲まれた緑の大地が広がっており、2時間時計の針を戻すと正午過ぎにイスラ・デ・パスクアのマタベリ空港に到着した。イスラ・デ・パスクアは、1888年にチリ領になったときに付けられたスペイン語の名前で、英語でイースター島と呼ばれる。1722年のイースター(復活祭)にこの島にたどり着いたオランダ人が付けやがった名前だそうだ。

空港のロビーに出ると花輪を手にした数多くの出迎え人が手ぐすねを引いて宿泊客を待っていたのだが、私はまだ宿を決めていなかったので人口4000人のハンガ・ロア村を目指して1kmの道を歩くことにした。空港の敷地を出るといきなり居酒屋甲太郎という日本食屋に直面し、ここは単なる日本の離島ではないのかという不安に駆られたものの、気を取り直して村の中心に踏みいった。

村内にはそれなりの数のホテルや民宿が営業しているのだが、秘境を髣髴とさせる造りが目に付いたホテル・マナバイに飛び込むとローシーズンで部屋がたくさん空いているようだったので首尾よくチェックインを果たすことに成功した。

まだ時間もお昼過ぎだったので、早速島の雰囲気に慣れるために軽く村内を練り歩いてみることにした。村にはお土産物屋だけでなく、スーパーマーケットやレストラン、教会、学校等の生活に必要なファシリティは揃っているのを確認出来たので、イースター島の代名詞となっているモアイを求めて沿岸部を散策することにした。

周囲わずか58kmのイースター島は火山島で沿岸部は溶岩が流れて固まったゴツゴツした岩で覆われている。世界自然遺産に登録されているこの小さな島に年代も大きさもまちまちの900体以上のモアイが存在しているのだが、最初に私の前に姿を現したのはアフ・リアタ遺跡に鎮座するドカベン系のモアイであった。ちなみにアフとはモアイが立っている台座(祭壇)のことでモアイ以上に神聖なものとされているのだ。

さらに村に程近い沿岸部を歩いていると裸で釣りをしている原住民や東映の三角マークがドッ・ドッ・ドッと押し寄せてくるような荒波に挑戦するサーファーの姿を数多く見かけた。また、神聖なモアイの麓でバーベキューをしている不埒な輩も見受けられた。

点在するモアイの中で弱い者は倒されたままになっており、明らかに近年の技術によって作られた最新版が金属製の台座の上で目を剥いて立ちはだかっている姿も確認することが出来た。尚、最新版とはいえ、渋谷のモヤイ像のような端正な顔立ちではないのでモヤモヤする感覚は否めないのは確かであろう。

墓場を抜けるとイースター島の見所のひとつであるタハイ遺跡に到着した。ここは1968~1970年代にかけて、アメリカの考古学者ウイリアム・ムロイ博士によって復元された儀式村の跡であり、5対のモアイが並ぶアフ・バイウリ、独身のモアイが立つアフ・タハイ、唯一イミテーションの眼がインストールされたモアイの立つアフ・コテリクと3つの祭壇があるのだ。

タハイ遺跡はイースター島で最高の夕日の名所となっており、三々五々集まってきた観光客は沈み行く太陽に照らされるモアイ達を眺めながら遥かなる郷愁に想いを馳せているかのようであった。

6月13日(月)

冬のイースター島では午前8時を過ぎてようやく明るくなり、8時半からホテルで供される朝食を済ませた後、タハイ遺跡まで軽く散歩することにした。昨夕の逆光とは異なり、朝日を受けたモアイ像はその2頭身半の巨体の輪郭をくっきりと現していた。

イースター島2日目の今日は島の全容を解明するための足が必要だったのでマウンテンバイク、スクーター、レンタカー、四輪バギーの中からヤマハのスクーターをチョイスし、$32 / 8時間でレンタルすることにした。ハンガ・ロア村を出て内陸部に向かうと道は舗装されていない悪路になったのだが、荒涼とした大牧草地帯の真ん中に突如として海を見つめて立つモアイの集団が姿を現したのだった。

1960年、ウィリアム・ムロイ、ゴンザロ・フィゲロ両氏によって復元されたアフ・アキビに立つ7体のモアイはヒバの国の7つの部落の7人の像といわれている。また、モアイ像の後ろからは石組みと人骨も発見され、墓として利用されていたことを思わせる動かぬ証拠も抑えられているのだ。

ヤマハのスクーターでごろごろした石が転がる悪路の滑りやすい斜面を下っていると急にバランスを失い、転倒を避けるために右足で地面を支えた際に、肉離れを起こしたときに聞きなれている「ブチッ!」とした快音を発生させてしまった。このトラブルにより、モアイの謎の解明も志半ばで断念せざるを得ないのか!?という覚悟も一瞬よぎったが、歩く速度を4分の一に落とせば何とか右大腿部裏筋も機能するようだったので調査を強行することにした。

火山島であるイースター島には無数の洞窟や穴があるのだが、あるものは宗教的な儀式に使われ、あるものには穴にたまった土で食用になる植物を育てた痕跡が残っている。最大の規模を誇るアナ・デ・パフは長さ910mを誇っており、今でもアボガド、バナナ、タロイモなどの植物が茂っている。

1300年代からモアイの頭にはプカオという赤色凝灰岩で作られた帽子や髪飾りのようなものが盛られるようになったのだが、プカオはプナ・パウという遺跡で切り出されて運ばれたと言われている。ここの高台は島全体を見渡すビューポイントにもなっており、多くの観光客が牧歌的な風景を堪能していたのだが、切り出し中のプカオはその辺にも転がっており、それぞれシリアル番号で管理されていたのだった。

プナ・パウから下山すると島を縦断する状態の良い舗装道路に出たので一気に島の北岸のアナケナビーチまでやってきた。ビーチには1961年にタヒチから運ばれたココヤシが生い茂っており、温暖な気候から海水浴にも絶好のスポットとなっている。入り江を望む丘の上には先ほど現場を確認したばかりのプカオを載せた7体のモアイが立ふさがっていたのだが、足が痛かったのでとりあえず遠巻きに眺めておくにとどめてしまった。

舗装道路を全速力でハンガ・ロア村まで取って返し、空港近くの唯一のガソリンスタンドで満タンにしたスクーターを返却した後、傷めた足を引きずりながらもアフ・タハイまで引き寄せられて行った。サンセットの景色は昨日にも増して輝いており、愛想の良い野良犬たちも人類の気を引こうと寄り添いながらもモアイの背景に沈む夕日に見入っていた。

夕食時には島でも高級カフェ・レストランの部類に入るであろう店に入って意味のわからないスペイン語のメニューの中から手頃な価格の物を指差し発注すると高級そうなシーフードが目の前に現れた。皿の中央に鎮座する魚はミディアムレアに焼かれており、それを取り巻くソースはこの上なく美味だったのだ。

6月14日(火)

昨日傷めた足が5%程度の回復を示していたので再びスクーターに足をそろえて一気に島を縦断することにした。

アナケナビーチにはホツマツアの像といわれる顔の短いモアイが立っているのだが、これは島で最も早く1956年にヘイエルダールと原住民が立て直した者である。しかも、モアイをどのように立てたかを試したものということで、12人がかりで18日もかかったそうだ。

1978年に復元されたアフ・ナウナウに有るプカオを載せた7体のモアイは砂に埋もれていたため保存状態が良好で背中に彫られた模様やふんどしもほんのりと残っているのだ。

アナケナビーチを後にして海岸沿いを走っていると放牧された集団の馬がランダムに草を食んでいるので減速を余儀なくさせられるのだが、その向こうには今まで目にしたことがないようなモアイの集団が海風を背に受けて立ちはだかっていた。

島最大の15体のモアイが立つアフ・トンガリキの再建は1993年~1995年にかけて日本企業の援助によって行われており、その偉業を称えるクラックの入ったプレートが高性能クレーンの写真と共に誇らしげに掲げられていた。

ちなみに再建を請け負った会社は四国の高松に本社を構えるタダノという大手クレーン会社で再建に際して「特命係長 只野仁」に匹敵するプロジェクトが組まれ、その模様は同社のHPで詳細に紹介されているのだ。http://www.tadano.co.jp/tadanocafe/moai/about/moai/index.html

尚、タダノが負担した再建に関わる費用は1億8千万円と言われているが、タダノはただのボランティアという立場に甘んじていたため、彼らには一銭の見返りも与えられていないのだった。

アフ・トンガリキから離れた場所でポツンと独身で立っている1体のモアイはいったい何だろうと思っていたのだが、これは1982年に日本に出張し、東京と大阪で展示された由緒正しい像であった。また、アフ・トンガリキの敷地に転がっている石にはマケマケ神や魚等の岩絵が描かれているのだった。

マサよ、君はモアイの量産工場がISO9001の認証が受けられるはるか以前に稼動していたのだが、今では箱根彫刻の森美術館のようにモアイが山間に点在する廃墟に成り下がっている光景を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、イースター島ツアーのハイライトとも言えるモアイの切り出し場ラノ・ララクがアフ・トンガリキを見下ろす場所にそびえているので謹んでモアイの要塞に足を踏み入れさせていただくことにした。エントランスでラパ・ヌイ国立公園の入場料$60を支払う際に日本語を一生懸命学習しようとしているイースター原住ギャルから中途半端な日本語での注意事項と説明を受けた後、山に残る遺跡を散策することとなった。

ラノ・ララクのトレイルは火山の火口の周囲とモアイいっぱい地帯の二つに分かれているのでまずは火口の周囲を巡って見ることにした。水を湛えた火口を取り巻く斜面に、完成して斜面から切り離され、出荷直前の状態になっているモアイが工場の操業停止によりキャンセルの憂き目に遭い、むなしく前を見つめている姿はマサに哀愁を感じさせるものがあった。

モアイいっぱい地帯にはマサに凝灰石から切り出されようとしている製造途中のモアイが多数横たわっており、島最大のエル・ヒガンテと呼ばれるモアイは21.6m、160トンに達するとも言われている。

ここにあるモアイはモアイ製作時代の後期に作られていた代物なのでサイズが大きいのが特徴であるが、一体のみ正座した珍しいモアイ・トゥクトゥリがあごひげをたくわえて礼儀正しく大空を見上げていた。

ラノ・ララクの監査を無事終了すると島の西南まで一気に突っ走り、オロンゴと呼ばれる聖域に辿り着いた。モアイ倒しが始まった17世紀以降、モアイ信仰に代わって登場したのが「マケマケ信仰」「鳥人儀礼」であり、その鳥人儀礼がここオロンゴで行われていたのだ。

南太平洋の風が吹きすさぶラノ・カウという火山の目の前にモトゥ・ヌイというグンカン鳥が営巣する島があるのだが、そこまで泳いでグンカン鳥の卵を最初に持ち帰った上官が「鳥人」と呼ばれ、以後1年間全島を治める権利を有することになるのだが、あくまでも笑い飯の漫才のネタにある顔が鳥で体が人間になっている「とりじん」とは異なり、「人と鳥の境目をみせてあげよう!」という脅し文句は使えないのである。

オロンゴ岬の先端の岩には鳥人のレリーフが数多く刻まれ、鳥人儀礼の際に使われたとされる53の石室も復元されている。また、ラノ・カウ火山の火口湖は直径1600m、水深11mを誇り、島の貴重な水源にもなっているのである。

オロンゴ遺跡の麓の沿岸部にアナ・カイ・タンガタと呼ばれる海に面して口を開いた20畳ほどの広さの食人洞窟がある。天井には鳥の絵が描かれており、この場所で晴れて鳥人になった上官が戦って敗れた部族を儀式として食人したと伝えられているのだ。

マタベリ空港に程近い南海岸にアフ・タヒラという遺跡がある。ここには顔を下にして地面に倒れたモアイが数体あるのだが、アフをよく見るとその石組みはインカの石組みのように全く隙間がないのに驚かされる。そのため、イースター島文明とインカ文明との関連性さえ取り沙汰されているのだった。

スクーターのガソリンが余っていたので、アフ・タヒラから南海岸に沿って一気に東海岸に舞い戻り、15体のモアイでお馴染みと成ったアフ・トンガリキを通り過ぎてテ・ピト・クラというパワースポットに到着した。ここの海岸に、まるでやすりでもかけたようにツルツルの表面が眩しい丸い石が鎮座している。これがテ・ピト・クラと呼ばれる石で直径98cm、重さ82トンを誇っている。この石には磁場があり、不思議なパワーを秘めているので観光客がこぞってそのパワーにあやかるべく、しきりに石を撫で撫でしているのだ。

今日の夕食は空港近くのモアイに守られたカジュアルレストランで適当に指差し発注すると白身魚の輪切りをソテーにした焼き魚がフライドポテトと共に出てきたので、この島には豊富な魚料理のメニューがあり、決して侮ってはいけないと肝に銘じたのだった。

6月15日(水)

イースター島滞在最後のこの日は、通り雨のおかげで発生した虹をバックにしたタハイ遺跡のモアイ達を眺めながら、その近くのイースター島博物館に向かった。

たまたま社会見学に来ていた学童で賑わっているイースター島博物館(CLP1,000)ではモアイ像がどのように作られ、どのように運ばれたのかなどを学ぶことが出来る。特にモアイの運搬に関しては、これまで宇宙人説や自立歩行説といったモアイ自体がも~あいそをつかしてしまうほどの愚説を唱える輩が多かったが、ここでは科学的根拠に基づいた方法が詳しく説明されているのだ。

博物館での最大の目玉はそれをはめ込むことでマナ=霊力が宿ったとされるモアイの眼である。量産出荷された当時のモアイにはすべて眼が入っていたのだが、モアイを怖いと思った侵略者は、その霊力の影響を避けるためにモアイを倒したり、眼を取り去ってしまったと言われている。

ホテル・マナバイをチェックアウトする際にホテルのオーナーからモアイのちゃちなネックレスを記念にいただいた。午後1時発のLA842便は30分程遅れて到着し、そのまま折り返しでサンティアゴに向かって離陸となった。遠ざかるイースター島を眼下に、モアイにはも~会いに来ることはないだろうと思いながら、機内で紅白のチリ・ワインをいただいて顔色を変化させているとサンティアゴに着いた時間は午後9時前になっていた。バスと徒歩で楽天トラベルに予約させておいた機能的なCESAR BUSINESSホテルにチェックインすると2軍のイースタン・リーグに落とされたような一抹の寂しさを感じながら夜を過ごしていた。

6月16日(木)

サンティアゴ旧市街のはずれにあるCESAR BUSINESSをチェックアウトし、新市街を目指して東に向かって歩いているとおびただしい数の学生集団が何らかのデモで街中を練り歩いていた。

新市街にはこれといった見所がなかったので、セントロの北東にそびえる丘陵地帯を公園にしたメトロポリタノ自然公園に足を引き摺りながら這い上がっていくことにした。標高が上がり、時間が経つにつれてサンティアゴ盆地を覆っていたスモッグが晴れ、雄大なアンデス山脈が姿を見せ始めた。

メトロポリタノ自然公園の中心は、丘の上に立つマリア像なのでひたすらそれを目指して歩いていた。標高880m(市街地との標高差は288m)の頂点に「アンデスとは何ですか?」とでも言っているかのように両手を広げて立つマリア像は、高さ14m、総重量は36.6トンに及ぶ巨大なオブジェで1908年に完成している。

像のすぐ下には展望広場のみならず、何らかのコンサートも出来る会場や教会まであるので観光客や信者にとっての格好の憩いの場となっているのだ。

負傷したにもかかわらず酷使に耐えた足をいたわるためにケーブルカーで下界に下り、国立美術館の前に立ち塞がっている体の半分が足から成る馬に目を奪われながら旧市街に戻ってきた。

日本に匹敵する漁業大国チリの醍醐味を味わうために中央市場で魚介類の見学をさせていただくことにした。市場内には食堂も多く、魚を物色していると日本語で「ウニ、ウニ!」と言いながらメニューを持って擦り寄って来る客引きに対して最初はトゲのある対応しか出来なかったのだが、意を決して一軒の食堂に入ってみることにした。当然のことながら、何を発注していいのかわからないのでおっさんの薦めで豊富な魚介類が煮込まれていい出汁が出ているスープを食って溜飲を下げておいた。

チリから撤収しなければならない時間が迫ってきたので街中でダンスを楽しむチリアンを尻目に旧市街を抜け出してバスで空港に帰って行った。午後8時50分発AA940便は定刻通り出発し、三国志をハイペースで読みながら、10時間もの時間を機内で過ごすこととなる。

6月17日(金)

午前6時前にダラス・フォートワース空港に到着し、AA2407便に乗り換えて3時間のフライトで9時前にロサンゼルスに辿り着き、さらに午後12時55分発NH005便に乗り換えて帰国の途に着いた。機内でALI(アリ)というモハメド・アリの波乱万丈の人生を描いた157分の長編映画を見て時間を潰すことにした。当然アントニオ猪木との異種格闘技を中心としたストーリーになっていることを期待したのだが、この映画はハリー・フォアマンとザイールのキンサシャで対戦し、ヘビー級王座を奪回したところで終わってしまったので、思わず「そんなのアリえね~」と叫びそうになってしまった。尚、猪木のテーマソングであるボンバイエが元々はキンサシャで「アリ、ボマイエ!」と声援されていたことが起源になっていたことを思い知る羽目となったのだった。

6月18日(土)

午後4時半に成田空港に到着し、渋谷のモヤイ像前で待ち合わせて帰朝報告をするまでもなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥47,250, AA = ¥118,030, LAN = $882.04

総宿泊費 ¥10,900、CLP162,000(朝食付き)

総空港バス代 CLP5,600 (CLP1 = \0.17)

総タクシー代 CLP2,000

総ケーブルカー代 CLP1,000

協力 ANA、アメリカン航空、LAN航空、楽天トラベル

ダーウィンと一緒に考えるガラパゴス進化論ツアー

現職を退職すると同時に会社から貸与されていたブラックベリーを奉還しなければならなくなり、私の手元には国際電信電話株式会社のルーツを持つ割にはグローバル対応が出来ていないAUのWINという携帯電話しか残されていない状況に陥ってしまった。この機会に今はやりのスマートフォンでも導入しようと思い、ソフトバンクショップで最新機種であるガラパゴスの値段を聞くと、とても無職人の手の出る価格帯ではなかったので無難にAUのBRAVIAフォンに機種変更して矢沢永吉に仁義を切っておいた。

一方で、今回のツアーでは脱藩後の人生設計を確立するために「竜馬がゆく」5~8巻と多くの雑誌を携えて出立したのだが、はやりの電子書籍なるものを導入すれば荷物も軽くなったはずであろう。最近シャープ固有種の電子書籍であるガラパゴスが発売された割にはiPad程のセンセーションが沸き起こっていないのでとりあえずガラパゴスまで足を伸ばし、シャープのガラパゴスが独自の進化を遂げる過程をダーウィンと一緒に思い描かなければならくなったのだ。

2011年2月8日(火)

昨年10月にオープンした羽田空港の新国際線ターミナルに遅ればせながら初登場することとなった。新東京国際空港という名称から東京の看板をはずされて成田国際空港に格下げになっている成田空港を差し置いてアジアのハブ空港になる野望を持つ羽田空港国際線ターミナルに江戸小町という飲食店商店街が開業し、下総にあるために江戸とは名乗れない成田空港との決定的な差別化を目の当たりにすることとなった。

NH1006便ロサンゼルス行きに搭乗すべくANAのカウンターでチェックインしているとエドはるみのような丁寧な受け答えが身上のカウンター嬢からエコノミークラスが満席なのでビジネスクラスにアップグレードされた事実が告げられた。律儀なマサであれば「てやんでぇ~ 満席になった証拠を見せやがれ!」と手鼻をかみながら啖呵を切るところであったろうが、私はとりあえず「グー ググー ググー コォ~~!!」と心の中で叫んでおいた。

出国審査を抜け、免税品店街を遠巻きに眺めた後、ANA運行便をファーストクラスでご利用のお客様とダイヤモンドサービスメンバーしか入場を許されていないANA SUITE LOUNGEで生活することにした。羽田からの深夜便を利用する乗客はラウンジで散々飲み食いした後、搭乗後は速攻で寝るというライフスタイルが確立されているため、ラウンジにはフルコースの食事メニューが揃っていた。

2月9日(水)

NH1006便ロサンゼルス行きは日付の変わった午前0時過ぎに出発となり、さらなるシャンペンを流し込んで意識を無くすことに集中した。

2月8日(火)

午後5時近くにロサンゼルス国際空港に到着したのだが、驚いたことに日付が水曜日から火曜日に逆戻りしていた。これはマサにタイムボカンでも実現出来なかった新種のタイムマシンかと思い、頭をボカンと殴られた上に「おとといきやがれ」と罵られたようなショックを受け、HiltonHHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば$100くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHampton Inn Los Angels International Airportにチェックインし、ワルサーではなく、グロッキー状態となってダウンしてしまった。

2月9日(水)

折角のタイムスリップの機会を生かし、ダイナモンド探しに相当する貴重な経験をするために午前9時45分発のコンチネンタル航空CO1594便に乗り込むとヒュ~とひとっ飛びしてストンと下りたところはヒューストン・ジョージブッシュ・インターコンチネンタル空港であった。さらにCO653便に乗り継ぎ、南米エクアドルの首都であるキトに到着したのは午後10時20分頃であった。

今回のツアーはH.I.S. Internationalを通じてメトロポリタンツーリングというラテン系の旅行者に丸投げしておいたのでキトのマリスカル・スクレ国際空港に迎えに来ていたバンに乗り込み、深夜近くに☆☆☆☆☆ホテルであるメルキュールにチェックインを果たした。尚、キトは赤道直下の町とは言え、アンデス山脈の流れを汲む標高2850mの高地であり、しかも雨季なので気温は低く日本の冬に相当するいでたちで活動しなければならないのだ。

2月10日(木)

今日の午前中はキト市内の観光になっていたのでツアーガイドのエジソンとともに迎えに来たバンに乗り込み、他のホテルで数人の観光客をピックアップした後、キト旧市街に向かった。1978年にユネスコの世界文化遺産第一号に認定されたキトの旧市街は400年前の植民地時代の雰囲気を色濃く残している。街の中心は1809年8月10日の独立を記念した碑が建っている独立広場であり、碑の下にいるライオンに矢が刺さっているのは、スペイン(ライオン)の支配が終わった事を意味している。また、西側には衛兵に護衛された大統領府の白い建物が曇り空の下で光っている。

アルミ製の巨大なマリア像が見守るパネージョの丘を見上げながら歩いているとキトのランドマークとなっているラ・コンパニーア教会に到着した。この教会は1605年から163年もかけて建立されたのだが、教会全体の彫刻のすばらしさもさることながら写真撮影禁止の内部には約7トンの金を使って装飾した内装がきらびやかに輝いているのだ。

南米一古い歴史を持つサン・フランシスコ教会・修道院はスペインによる征服後まもなく(1535年)建立された頑丈な教会だったのだが、1987年の大地震であちこちが傷んでおり、内部は未だに修復中となっていた。教会前の石畳の広いサン・フランシスコ広場は市民の憩いの場所となっており、アンデスの民が華やかな色の布きれを売りさばこうと観光客の団体をマークしていた。

ツアー料金に含まれているということで近くの茶店に入り、コカコーラの代わりにコカ茶を発注した。コカ茶はコカインの原料であるコカの葉から作られており、高地が多い南米各地で一般的に飲まれているお茶で高山病に効果があると言われているのだ。尚、初期のコカ・コーラにもコカの成分が含まれていやがったそうだ。

キトから北へ20km、車で30分のところに赤道を記念して高さ30mにも及ぶ赤道記念碑が立てられているのでお約束通りに訪問しなければならなかった。なぜならエクアドルはスペイン語で赤道を意味し、ここに来なければエクアドルに来た意味がなくなってしまうからだ。ところで、南北の線を股にかけて満足したのは2008年8月のウガンダツアー(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2008uganda.html)以来だったのだが、線の色が赤ではなくオレンジだったのがこの国の詰めの甘さだと思われた。記念碑は展望台も兼ね、内部はエクアドルの民族博物館になっているのだが、貴重な民族関係の資料を写真撮影させていただくことは憚られているのだった。

2月11日(金)

午前7時過ぎにメトロポリタンツーリングの担当者がピックアップに来たのでバンに乗り込み、キト空港に向かった。空港からタメ航空195便に乗り、グアヤキルを経由してガラパゴスのサンクリストバル空港に向かって高度を下ろしていると美しい青い海と緑の大地のコントラストが眼下に広がった。

1978年に世界自然遺産第一号として登録されたガラパゴス諸島は南米大陸エクアドルの沖960kmの海上に浮かぶ島々でエクアドル本土とは1時間の時差がある。正午過ぎに空港に到着すると厳格な入島審査の最中に観光客は入島税としてUS$100を奉納し、晴れてガラパゴスへの侵入が許されることになる。

ガラパゴスエコツアーの先駆けとして名高いメトロポリタンツーリングが催行するクルーズは3泊4日、4泊5日、7泊8日と3種類あるのだが、今回は手ごろな3泊4日クルーズに申し込んでいたので、そのクルーズ船であるサンタクルス号が停泊してある港までバスで向かった。眩しいほどに青い洋上には数多くのクルーズ船や漁船が浮かんでおり、桟橋には怠惰なアシカたちがのん気に昼寝をこいていたのだった。

ツアー客はパンガ(別名ゾディアック)と呼ばれるゴムボートに次々と乗り込み、沖合いのサンタクルス号に向かったのだが、その途中でアシカに占拠された漁船やそれを冷ややかに見守るペリカンの姿に遭遇した。

サンタクルス号のスペックは全長72.35m、幅11.85m、収容乗客数90名というガラパゴスクルーズ船の中では大きいほうで、屋上にはサンデッキ、バーやジャグジーまで付いている豪華船である。早速メインデッキのバー・ラウンジで登録を済ませ、アッパーデッキにある窓から海を見下ろす客室に荷物を放り込むとダイニングルームで昼食を取らせていただくことと成った。

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昼食後に簡単なブリーフィングが行われ、ガラパゴスには人間の生命に危険を及ぼすようなエキサイティングな生物はいないが爬虫類を中心にユニークな固有種が多いことが確認された。引き続きサンデッキでスノーケルギアを選んでいるとまもなく最初のランディングポイントであるサンクリストバル島のセロブルーホに到着した。

パンガに乗りビーチにウェットランディングで上陸するといきなり二日酔いのオヤジがゲロを吐いてのた打ち回っているようなアシカの鳴き声に迎えられた。さらに砂浜には色黒のウミイグアナが徘徊し、岩場には茹でてもいないのに真っ赤なカニが這い回っていた。

観光客はおのおのビーチの散策や海水浴やスノーケルにいそしんでいたのだが、その間にもガラパゴスミヤコドリは潮間帯に生きる小さなカニや貝を捕捉しようと歩き回り、カツオドリはピンポイントで魚を捕らえようとダイビングを繰り返していた。

乳飲み子を抱えたガラパゴスアシカはしきりに胸ビレでまとわり付くハエを追い払っていたのだが、周りを取り巻く人類には無関心で自ら絶好の被写体となり、図らずも観光客を喜ばせていた。

船に戻ると程なくしてウェルカムパーティーが開始され、船員やガイドやスタッフ等の紹介や挨拶が行われた。今回のクルーズでは世界11ヶ国から参加者が集まっているのだが、アジア人は私しかいなかったのでツアー中はガラパゴスの動物並みの希少人種としての振る舞いを余儀なくされることになったのだった。

2月12日(土)

午前6時のモーニングコールで覚醒し、あわただしくビュッフェの朝食を食した後、7時にはエスパニョーラ島のプンタスアレスにドライランディングする運びとなった。

この島はガラパゴス諸島内で最も古く400万年前に形成されたといわれている。また、ここでは他の地域では見られない赤いウミイグアナを間近にすることが出来、そのあまりの美しさに親戚であるはずのヨウガントカゲも顔を真っ赤にして照れているのである。

ビーチでしきりにイナバウアーを繰り返しているアシカに高い芸術点を与えることもなく、川辺の石を思わせる枕上溶岩の上を歩く3時間にも及ぶ過酷なトレッキングが開始された。

岩場の高台にガラパゴス食物連鎖の頂点に君臨するタカ派のガラパゴスノスリがその鋭いくちばしとカギ爪を隠そうともせず周囲を見渡していた。その下の岩が突き出た大地は羽を広げると2m以上に達するガラパゴスアホウドリの繁殖地になっているのだが、群れはすでにペルーの沖合いに飛び立っており、廃墟のようになっていた。

アホウドリはすでに巣立っていたのだが、ガラパゴスマスクカツオドリはいまだに繁殖と子育ての最中であった。尚、磯野家との関係が取りざたされるはずのカツオドリは英名でブービーと呼ばれているのでやつらが巣立つ順番はビリから2番目ではないかと思われた。

真っ青な足が眩しいガラパゴスアオアシカツオドリが人類の接近も恐れずに岩の上に佇んでいた。尚、ガラパゴスにはアカアシカツオドリも生息しているのだが個体数が少ないため、めったにお目にかかることはないのだが、その代わりに結膜炎を患ったような赤い目を持つアカメカモメが私の前を横切っていったのだった。

きれいな海と鮮やかな色の動物達が印象に残ったエスパニョーラ島を後にすると船は次の目的地であるフロレアーナ島を目指していた。船が順調に航行していたその時、突然バンドウイルカの群れが姿を現し、船と伴走したり、船の前を先導するように泳ぎ始めた。そのため船上からは城みちるもアイドル時代に乗ったことがあるはずのイルカの背中を長時間観察することが出来たのであった。

フロレアーナ島でのアクティビティはディープウォータースノーケリングとグラスボトムボートの2組に分けられたので私は果敢にもスノーケリングに参加して潮の流れに逆らってみることにした。ガラパゴスは赤道直下に位置しているとはいえ、南極からの冷たい海流の影響で比較的寒冷な気候となっており、実際に海の中では冷たい流れと暖かい流れが交わっているポイントがあったのだった。

スノーケリングが終了すると島を散策する機会が与えられたので緑濃いトレイルを歩いてみることにした。マングローブに囲まれた大きな沼はフラミンゴの生息地であるのだが、一羽も居住していなかったので対岸のビーチまで歩を進めて海ガメの産卵地の夢の跡を見物してお茶を濁しておいた。

雨季にもかかわらず晴れ渡ったガラパゴスにサンセットが訪れ、西の空が茜色に染まり始めた。ガラパゴスのアクティビティは日中の酷暑を避けるため、早朝と午後3時以降に集中して行われるため、サンライズとサンセットの絶景はクルーズの定番となっているのだ。

2月13日(日)

午前8時よりガラパゴス諸島で一番新しいと言われているフェルナンディーナ島のプンタエスピノーサというポイントに上陸することとなった。ガラパゴス諸島はハワイ諸島と同様に海底火山の隆起により形成されているのだが、この島は過去200年の間に24回も噴火した実績を持つ非常にアクティブな島なのである。

マングローブが生い茂る上陸ポイントにドライランディングするといきなりウミイグアナの絨毯に遭遇し、観光客はそのおぞましさから足のすくむ思いをさせられることになる。

いかにも最近溶岩が流れましたという毒々しい黒い大地を歩いているとクジラの骨がわざとらしく陳列されており、ガイドのニコラスによる説明が加えられたのでそれをおとなしく聞いてやらなければならなかった。

クレバスが縦横無尽に走る黒い大地の所々には溶岩サボテンがニョキニョキと生えており、淡水と海水が混ざる汽水地帯はアカウミガメの格好の保養所となっているようだった。

ビーチはウミイグアナの繁殖地となっており、土木工事担当のメスのイグアナがしきりに穴を掘っていやがった。近くには過酷な労働のために殉職したはずのイグアナの遺体も遺棄されているのだが、それらはカニやトカゲのデザートとして重要な栄養源になっていることが確認できた。

腕立て伏せの得意なヨウガントカゲが外的を威嚇するように筋力トレーニングを行っている脇をすり抜け、不貞寝アシカを起こさないように注意しながら船に戻るとほどなく昼食の時間となった。

クルーズ船サンタクルスで供される食事はおおむね豪華で今日の昼食はおおぶりのエビのカクテルのオードブルで始まるエクアドルをフィーチャーしたメニューであった。中でもローストされて恨めしそうなブタの目とラテン系ではじけるようなシェフの笑顔が対照的であったのだった。

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マサよ、君は赤道直下の暖かい海で小さなペンギンの鋭い攻撃を紙一重でかわしたことがあるか!?

ということで、タツノオトシゴをほうふつとさせるガラパゴス諸島最大の島であるイサベラ島プンタ・ビセンテ・ロカというポイントに船は錨を降ろした。目の前は見上げる程の断崖絶壁がそびえているのでここでの上陸は出来ないため、おのずとパンガを使ったアクティビティになる。

グループは再び2つに分けられ一組はパンガでのクルージングに専念する代わりにもう一組はディープウォータースノーケリングで最後の力を振り絞ることになる。海に飛び込む前にパンガで近辺を徘徊しながらこのあたりの生態系の説明が行われた。岩場に張り付いている動物はアシカよりも一回り小さい割には毛深いオットセイであり、かつてはその毛皮目当てに乱獲され、生息数が著しく減少した時期もあったそうだ。

世界で3番目に小さいガラパゴスペンギンはフンボルト海流に乗ってマゼランペンギンが漂流して来やがったと言われているが、近年ではエルニーニョ現象の影響で生息数が激減し、希少価値が増しているのである。

波のおだやかな海の中は珊瑚はないもののカラフルな地形となっており、巨大なブダイの格好の棲家となっていた。海底には多くのガラパゴスアオウミガメがへばり付いており、容易に引き剥がせないような頑固さを誇っていた。

ガラパゴスに居住している動物は何故か人類を恐れないどころか自ら近づいてくるような好奇心の強さを示しているのだが、海中でも例外でなく、アシカ等があしからずとまとわりついてくるのだった。ふと高速で飛行するような黒いシルエットが目の前を横切ったかと思うと急速方向転換して陸の王者であるはずの私にマイルドな攻撃を加えてきた。防水機能付きのコンパクトデジカメであっても一眼レフのように使いこなす技量を持つ私はすぐに体制を入れ替えるとかろうじて水中を飛ぶガラパゴスペンギンの勇姿をフラッシュメモリーに刻みつけることが出来たのであった。

2月14日(月)

昨晩のうちに船はガラパゴス諸島の中心に位置するサンタクルス島北部沖合いに錨を降ろしていたので、クルーズ最終日は早朝7時に早々とチェックアウトし、下船の運びとなった。

港に迎えに来ていたバスに乗り込むと一行はサンタクルス島を北から南に縦断し、プエルト・アヨラというガラパゴス最大の町を抜けてチャールズ・ダーウィン研究所に到着した。

ガラパゴとはスペイン語でゾウガメを意味するところからゾウガメがガラパゴスという名の由来になっているのだが、1964年に設立されたチャールズ・ダーウィン研究所では特にゾウガメの飼育観察を盛んに行い、乱獲により激減した個体数の回復を図っている。子ガメは生まれると各年次毎に卵から帰った順番を表す背番号で管理され、2010年物はなかなかの出来であることが確認出来た。

成長して大きくなったビンテージ亀には広くて快適な生活空間が与えられ、ガラパゴス諸島各島に生息する固有種ごとに管理されているのだが、甲羅の形状を見るだけで明らかに違いがあることがわかるのである。

チャールズ・ダーウィン研究所のスター的存在として君臨しているロンサム・ジョージというピンタ島に生き残った最後の1頭のゾウガメがひとり旅でこの場所に連れて来られていた。。日本名で山本と名乗るかどうかは確認出来なかったのだが、♪ここでぇ いっしょにぃ死ねたらいいとぉ♪思えるような伴侶を首を長くして待っているという。結婚相談所も兼ねているはずのダーウィン研究者は総力を上げてピンタ島固有種に遺伝子レベルの近いメスガメを紹介してあげたのだが、ジョージは面食いだったようで興味を示していないのだ。

今回のツアーで海草好きなウミイグアナは嫌と言うほど見ることが出来たのだが、陸上で独自の進化を遂げたガラパゴスリクイグアナには出会うことが出来なかった。リクイグアナはウミイグアナと比べて肉や皮が珍重されたために乱獲された過去を持ち、さらに人間が持ち込んだヤギやブタがリクイグアナの大好物であるサボテンを食い荒らしたために生息数が激減していたのだ。そこでダーウィン研究所では色鮮やかなリクイグアナの保護、育成も重要なミッションとなっているのだ。

キオスクでお土産を買うこともなくダーウィン研究所を後にすると再びバスに乗り込み島北部の港に帰って行った。港から連絡船に乗り、ガラパゴスペリカンに見送られながらバルトラ島に向かった。

過去米軍に接収されていたバルトラ島の空港はガラパゴスのもうひとつの空の玄関口となっており、キトやグアヤキルから頻繁にフライトが出ているのである。正午過ぎに離陸したタメ航空192便に乗り込むと眼下の景色を眺めながらガラパゴスとの別れを惜しむと同時に官僚機構という暖流で独自の進化を遂げているはずのマサもここで進化論を会得しなければならないと考えていた。

人口300万人を誇るエクアドル最大の都市であるグアヤキルのシモン・ボリーバル国際空港に到着したのは午後3時を回った頃だった。迎えのバンでセントロの☆☆☆☆☆ホテルであるユニパークまで移動し、速攻でチェックインして街の散策に繰り出すことにした。ホテルの目の前に巨大なゴシック様式のカテドラルがあり、そのふもとにセミナリオ公園がグアヤキルの中心的公園としてその地位を確立しているので気軽に入ってみることにした。

ガラパゴス諸島を後にする際にイグアナとはすっぱり縁を切ったはずなのに、なんとこの公園には緑色が眩しいリクイグアナがぞろぞろとうごめき、子供たちの絶好の遊び相手となっていた。通称イグアナ公園と呼ばれているこの公園にはカメや魚も飼われており、大都市における市民の憩いの場となっているのだった。

グアヤキルはグアヤス川に沿って発展してきた港町で、約2.4kmにわたる遊歩道は「マレコン2000」と呼ばれる市内最大のエンターテインメント・スポットになっている。少子化が叫ばれる日本と違って、この場所にはおびただしい数の子供の歓声が上がっており、この国の将来はイグアナと共に安泰であることを確信させられるのである。

グアヤキルで最も古いサンタ・アナの丘周辺はスペイン統治時代の面影が残る一画である。丘へ上る石畳の階段には、ご丁寧に一段一段、段数が刻まれており、444段で頂上にたどり着くことが出来るのだ。階段の両脇にはカラフルな建物に入居したレストランやバーがひしめきあっており、頂上には海賊船のオブジェや教会があり、、さらに灯台型の展望台からグアヤキルの町並みを一望出来るようになっているのだ。

2月15日(火)

午前4時半という早朝にもかかわらず、メトロポリタンツーリングは律儀にもツアーガイドと運転手の2人体制で迎えに来たのでバンに乗り込み、グアヤキル空港に向かった。午前6時23分発コパ航空CM300便に乗り込むと2時間程度でパナマシティに到着した。さらにコンチネンタル航空CO873便に乗り換え、4時間以上のフライトでヒューストンに到着後、米国入国を果たした時間は次の便の出発間近になってしまったため、広い空港でマラソンをさせられながらもCO137便に乗り継ぎ、ロサンゼルスに到着したのは午後5時くらいであった。

2月16日(水)

日付の変わった夜中の12時10分にNH1005便は離陸したのだが、16日という日は空の上で霧のように消え去ってしまった。ところで、CDMA方式というマイナーな技術を採用してしまったAUの携帯こそマサにメジャーな3Gという環境から隔絶され、独自の進化を遂げたガラパゴスそのものなので今更ソフトバンクショップに頭を下げさせてシャープのガラパゴスを買う必要はないとの結論はとうに下されていたのだった。

2月17日(木)

早朝5時半過ぎに羽田空港に到着し、無職人であるにもかかわらず、そのまま何食わぬ顔で会社に行って業務が出来るかどうかのシミュレーションをするためにANAのArrival Loungeに入ってみることにした。さすがに旅行者から仕事人への変貌をサポートするためにラウンジ内には多くのシャワー室が設置されているのだが、もはやビールやワイン等の酒類はここでは供されることはないのである。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥32,740 、コンチネンタル航空 = ¥81,710

総宿泊費 ただ

総ガラパゴス島入島税 $100

総グアヤキル空港出国税 $29.78 

総ガラパゴスクルーズ代 $3,790

協力 ANA、コンチネンタル航空、HiltonHHonors、メトロポリタンツーリング(http://www.metropolitan-touring.com/)、H.I.S. International Tours