FTB情熱のアンダルシアツアー第2弾コルドバ、セビーリャ withジブラルタル

除夜の鐘がゴーンとなる頃、日産をしゃぶりつくしたカルロスが風と共に去り、日本の司法制度に軽いロスを与えている今日この頃であるが、FTBでは招き猫としての職務を忠実に果たし、唯一供与されるべき利益がカンヅメであるはずのボンに見送られ2年越しのアンダルシアツアーに繰り出すため、合法的に日本を出国することとなったのだ。

2019年12月26日(木)
午前中に収入源となっている裏の仕事の業務を放り出し、一躍羽田空港に向かうと表の仕事であるFTBツアーに着手するためにANAの国際線カウンターに向かった。年末繁忙期の飛行機代を半額に抑えるために羽田から北京を経てトルコ航空のイスタンブール経由でスペインのマラガに移動する旅程を開発していたので、荷物を羽田で預けてマラガで受け取る段取りを付けていただいていたのだった。17:25発NH963便に乗り込み、約4時間のフライトで北京首都空港に到着するとペキンダックの誘惑に屈することなく、Air Chinaのラウンジで牛肉麺をすすりながら時間をやり過ごしていた。

12月27日(金)
日付の変わった00:50発TK21便に乗り込むと約10時間のフライトで♪飛んでイスタンブール♪に早朝6時過ぎに到着した。2018年10月29日に開港した新イスタンブール空港はアジアとヨーロッパの架け橋にふさわしく、庄野真代でも迷ってしまいそうな巨大なターミナルの一角でチョコレートをふんだんにあしらったよくわからない架空動物像に出迎えられた。スターアライアンスのラウンジは吹き抜けの上階に設えられており、エスニックなトルコ料理やチャイ等の飲食物が無制限に提供されている。

09:25発TK1305に搭乗する際に羽田のANAのチェックインカウンターで指示されたとおりに荷物がちゃんと搭載されているか確認した際に係員から「オンボード」という回答をもらっていたので安心して機上の人となった。

スペインアンダルシア第二の都市マラガ国際空港に定刻12:10に到着し、早速Baggage Claimに向かったのだが、いくら待てども預けた荷物が出てこなかった。複数の被害者とともにイベリア航空のLost Baggageに駆け込むと何かの手違いでこれから出てくるはずだとターンテーブルへの帰還を促されたのだが、やはり荷物は現れることはなかった。

再びLost Baggageの担当者と対峙することになり、今日はもう荷物なしで過ごさなければならないと腹をくくり連絡先を交換した後、被害者用のキット(パジャマ用のTシャツ、短パン、洗面用具入り)を受け取り空港からの撤退を決め込んだのだ。

Lost Baggageの精神的ダメージを引きずりながらマラガ空港駅から近郊列車に乗り、マラガの中央駅であるマリア・サンブラーノ駅に移動し、スペイン国鉄Renfeの高速列車で1時間かけてコルドバ駅に到着した時間はすでに午後5時近くになっていただろうか?

Hotels.comに予約させておいた駅近の☆☆☆トリップコルドバホテルにチェックインすると今回のツアー中に荷物と再会出来ない可能性を考慮し、スペイン最大のデパートチェーンであるエル・コルテ・イングレスに駆け込み、物品と晩餐用の食材を買いあさりながらアンダルシアの1日目はあわただしく過ぎていった。

12月28日(土)
セビーリャ、マラガに次ぐ、アンダルシア第3の都市コルドバ(世界遺産)は、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの首都として、かの有名な皇帝ネロの家庭教師を務めた哲学者セネガをはじめ、多くの学者や詩人を輩出し、ローマ文化の中心地として栄えた。その後アル・アンダルスと呼ばれたイスラム教徒に占領された土地の首都になり、ウマイヤ朝の首都になった756年には♪甘いな いやいや♪、♪ウマイヤ イヤイヤ♪と歌ったはずの髭男爵も存在したことであろう。

1236年になるとキリスト教徒はイスラム教徒に♪グッバイ♪と言ってコルドバを奪回したのだが、♪でも離れがたいのさ♪と言わんばかりにイスラム文化をすべて拭い去ることは出来ずに現在に至っている。

駅前のトリップコルドバホテルをチェックアウトすると抜けるような青空の元でたわわに実っているオレンジの木々を横目に白壁の家々が続く旧ユダヤ人街に向かった。キリスト教徒がイスラム教徒を排除する運動であるレコンキスタ終了後の1492年に布告されたユダヤ人追放令によってこの町から姿を消したユダヤ人であるが、♪もっと違う設定で もっと違う関係で♪出会えていればよかったのだが、たったひとつ確かなことがあるのならば、この場所は♪とても綺麗だ♪と言えよう。

ユダヤ人街を抜け、グアダルキビル川に架かるローマ橋を渡り、ローマ橋を守るために築かれた要塞であるカラオーラの塔の近辺からしばし旧市街を見渡した。橋の上では、NHKのど自慢大会の伴奏でも通用しそうな腕前のアコーディオン弾きが、ローカルなメロディを奏で、小銭の収集に勤しんでいた。

コルドバのシンボルであるメスキータ(EURO10)はマサにイスラム教とキリスト教が共存するファシリティで、一歩中に入ると約850本からなる「円柱の森」に圧倒されることになる。

後ウマイヤ朝を開いたアブド・アッラフマーン1世により、新首都にふさわしいモスクを造ろうと、785年に着工したメスキータはコルドバの発展と歩調を合わせるように3回にわたって増築され、最終的には2万5000人を収容する大モスクへと発展していったのだ。

内部は、大理石とくさび形の赤レンガを交互に組み合わせたアーチが限りなく広がっているのだが、年代的に古いアーチと新しいアーチが混在しているように見受けられた。

848年にアブド・アッラフマーン2世によって拡張された部分は、レコンキスタの後ゴーンではないはずのカルロス5世によってカテドラルにコンバージョンされてしまったところが多く、今となっては元の姿を知る由はないのである。

メスキータを見学中にi-Phoneのけたたましい呼び出し音で現実世界に引き戻されたのだが、紛失した荷物がついに見つかったという連絡だったので今日中にマラガ空港に荷物を迎えに行くと言い残して電話を切った。

イスラム勢力であるはずのトルコ航空により、メスキータ見学の切り上げを余儀なくされ、近世スペインの作家セルバンテス(ドン・キホーテの著者として有名)ゆかりのポトロ(コルドバ市の紋章である子馬)広場に軽く立ち寄って駅に戻り、コルドバを後にして一路マラガ空港へと引き返した。

マラガ空港到着ロビー近辺のイベリア航空Lost Baggageカウンターで荷物との再会を果たしたのはよかったのだが、イスタンブール空港のトルコ航空搭乗カウンターで確かに耳にした「オンボード」とは裏腹にオンボロになったスーツケースを目にして言葉を失ってしまった。荷物を引き渡す際に♪感情のないアイムソーリー♪さえもなかったので、イスタンブールの印象が♪飛んでイスタンブール♪から「とんでもないイスタンブール」に変わってしまったのは♪辛いけど否めない♪と思われたのだった。

結局往復で3時間以上も荷物の一件で無駄にすることとなり、次の目的地であるセビーリャに着くのが午後10時過ぎになることが見込まれたため、マラガ・マリア・サンブラーノ駅のフードコートで小腹を満たすことにした。これと言って入りたいと思うレストランもなかったので消去法で選んだSUSHI ARTISTで名前負けしている握り寿司セットを食ってお茶を濁していた。

マラガからRenfeで2時間かけてセビーリャまで足を延ばし、Hotels.comに予約させていた☆☆☆☆アイルホテルに到着したのは予想通りの10時過ぎだったのだが、荷物があるという安心感に抱かれて今夜はゆっくりと休むことが出来たのだった。

12月29日(日)
セビーリャ駅前という好立地のアイルホテルの目の前は市バスのバス停になっていたので32番の市バスに乗って終点のドゥケ・デ・ラ・ビクトリア広場で下車した。途中ハチの巣をつついたような奇抜な建造物が気になったので近寄って見たのだが、それはスペイン最大級の近代木造モニュメントであるメトロポリタン・パラソルという複合施設となっている。


EURO3を支払い、28mの高さの展望台に上るとセビーリャ市街地の全体像が見渡せたので、最初に訪れる観光スポットとしてはもってこいの場所である。

近隣のカフェでカフェインを吸収する名目でトイレを借り、大腸の流出物を下水に流し込むと軽くなった足取りで旧市街の中心部に向かった。道は細く、多少迷路のようになっているのだが、カテドラルに隣接したヒラルダの塔を目印に進むと容易にセビーリャの心臓部にたどり着いた。


ビゼーのオペラ「カルメン」や「セビリアの理髪師」の舞台として知られるセビーリャは、ローマ時代には属州ヒスパニア・パエティカの主要都市として栄え、西ゴート王国の首都がおかれたこともあるのだが、ジブラルタル海峡を渡ってきたモーロ人に712年に征服され、以降500年以上にわたり、イスラム文化が繁栄したようで市街にはその当時のおもかげが色濃く反映されているようである。

巨大なカテドラルの隣に貴重な公文書を所蔵するインディアス古文書館(世界遺産)がつつましく建っていたので長い入場待ち行列の最後尾に並んだのだが、目の前で入場制限が敷かれてしまい、コロンブス、マゼラン等の自筆文書を見ることはかなわなかった。


どうやら観光地としてのセビーリャの実力を甘く見ていたようで、この地の最強の観光コンテンツであるアルカサル(世界遺産)の前には数100mもの入場待ちの行列が出来ていた。何時間かかるか想像もつかなったが、とりあえず行列の最後尾に陣取り、しばらく成り行きを見守ることにした。

予約している個人や団体客を優先させるため、フリーの客が並んでいる列は遅々として進まず、それでも3時間程待ったかいがあって黄昏時についにアルカサル(EURO10)への入場が許されることとなった。


荘厳なイスラム風の宮殿アルカサルは例えて言うならセビーリャに存在するグラナダのアルハンブラ宮殿である。

9世紀から11世紀にかけて使われていたイスラム時代の城を、レコンキスタ後にキリスト教徒の王たちが改装した建築物だが、なかでも1350年に即位したペドロ1世は、スペイン各地からイスラム建築の職人を呼び寄せ、アルハンブラ宮殿を彷彿させるような建物を建造した。


何故かイスラム文化に心酔していたペドロ1世は、イスラムの服装をまとい、宮廷内ではアラビア語を使えという無茶ぶりまでしていたそうである。

アルカサル最大の見どころはペドロ1世宮殿の内部装飾であるが、豪華なムデハル様式の装飾や、彩色タイルの内壁、ヒマラヤ杉の格子細工による円柱天井等は見るものを虜にし、3時間以上並ばされた肉体のダメージが一瞬にして消え去っていくようであった。

さらにこの宮殿中央部に君臨する「乙女の中庭」には泉があり、漆喰細工の美しいムデハル様式の列柱に囲まれているのだが、ここが最も記念撮影渋滞が起こるスポットであった。

アルカサル裏側の庭園まで足を運ぶと庭師によって整然と整えられた樹木はあたかもジパンシーの宣伝に一役買っているのではないかと錯覚させられた。

アルカサルを後にして、翌日乗るバスのチケット買うためにバスターミナルに寄ったりしているといつのまにか日もとっぷりと暮れ、ライトアップされたカテドラルが漆黒の闇に浮き上がった。

年末の日曜日の目抜き通りは何故か立錐の余地がないほど人があふれ、いつの間にか海洋生物を模したちょうちん行列の波に巻き込まれてしまい、その流れに逆流しながらも、地元民が集まる食堂で飯を食い、タクシーでホテルに帰って行った。

12月30日(月)
アイルホテルをチェックアウトし、昨日と同様に32番バスでセビーリャの市街地に向かった。旧市街地の中心であるヌエバ広場の市庁舎前の街路樹が角刈りにされているのに軽い動揺を覚えたが、気を取り直してカテドラル方面に向かった。

インディアス古文書館は残念ながら休館ということだったので、前足で巧みにボールをキープしているライオン像を尻目にセビーリャを象徴する建造物であるカテドラル(世界遺産、EURO10)の入場待ちの列に陣取ることにした。

スペイン最大、またヨーロッパの聖堂としてはローマのサン・ピエトロ寺院、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ規模を誇る、奥行き116m、幅76mの箱物の内部に開門時間の午前11時過ぎに入場を果たすと、「後世の人々がわれわれを正気の沙汰ではないと思うほどの巨大な聖堂を建てよう」という1401年に開かれた教会参事会の決定当時の意気込みがひしひしと伝わってきた。

聖堂内部は数えきれないほどの見どころがあるのだが、観光客が最も足を止めるポイントは4人の国王に棺を担がれたコロンブスの墓である。さすがにスペイン随一の有名人の墓は内部で一番人目に触れやすい入口近くの一等地に設置されており、果たした役割の大きさが自ずと参拝者に伝わってくるような仕掛けになっている。

カテドラル内部の北東の角部屋を占める高さ97mのヒラルダの塔が観光客に開放されているので遠慮なく登らせていただくことにした。狭い階段を何度も何度も折り返して登ったその先には巨大な鐘楼が君臨し、展望台からはセビーリャの町中を360度の角度で見渡すことが出来たのだった。

数あるセビーリャの観光地の中で、世界遺産に指定されてはいないものの、その威厳ある独特の景観から観光案内の一面を飾るスペイン広場が市民の憩いの場を提供しているので癒されに行ってきた。

半円形状に建物が囲むスペイン広場は、、1929年にイベロ・アメリカ博覧会の会場として造られたもので、日本で言えば大阪の万博記念公園に相当するファシリティだと言えなくもないが、太陽の塔のような芸術の爆発物の代わりにスペイン各県の特徴や歴史的場面をタイルで描いた58のベンチが置かれている。

情熱的なギターの音色に釣られて人だかりに近づいてみると真っ赤なドレスに身を包んだフラメンコダンサーが切れ味鋭いステップを踏んでおり、そのリズムの余韻を胸にセビーリャに別れを告げることとなった。

タクシーでアイルホテルに戻り、荷物をピックアップして同じ車でプラド・デ。サン・セバスティアン・バスターミナルに移動した。アンダルシア最南端のアルへシラス行きのバスは定刻通りの15:30に出発し、2時間以上かけてアフリカ大陸モロッコへの船が出航する港に到着した。下車したところが次の町へ行くべきバスターミナルではないことに気づかされたので徒歩でしばらく歩いていると道端にいるおじさんが頼んでもないのでジェスチャーで行くべき方向を示してくれた。

アルへシラスからラ・リネア行きの市バスに乗り込むとすっかり暗くなった海岸線沿いをバスは走り、約30分でラ・リネアに到着した。早速国境へと足を運び、スペイン出国のスタンプはもらったものの、イギリス領ジブラルタルへの入国の証はパスポートに刻まれないまま、国境沿いのジブラルタル空港を抜け、予約していたHoliday Inn Express Gibraltarへたどり着いたのだった。

12月31日(火)
昨晩の暗がりの中では分からなかったが、ホテルは岩山の麓に位置しており、得もいえぬ威圧感を感じながらアメリカ流のブレックファストで腹を満たすと大英帝国繁栄の余韻が残っているはずであろう街中を散策することにした。

大西洋と地中海をつなくジブラルタル海峡に突き出た岩の塊からなる岬がジブラルタルであるが、ここはスペインの王位継承戦争の間イギリス軍に占領され、1713年のユトレヒト条約によって晴れてイギリスに統治権が与えられたそうだ。

500mにもわたるメインストリートを抜け、ひたすらロープウエイ乗り場を目指してひた歩いた。ジブラルタルを象徴する岩山であるターリクの山「The Rock」に上らなければ、この地を訪れた意味をなくしてしまうので高い運賃を払って標高426mの山頂にある展望台に到着した。

雲が多く、アフリカ大陸までは見渡すことが出来なかったが、岩山のエッジの効いた先端部の形状はすばらしく、これからも丸くなり過ぎず、尖った部分を残して今後の人生を歩んで行くべきだと励まされているようだった。

展望台からの眺望にしばし気を取られていると毛深い生き物が、観光客の背中にあるが視線の届かないリュックサックを目指して一直線に突進して行った。敵もサルもので、やつは巧みにファスナーを開けると一瞬にして食べ物を取り出し、立ちサルでもなく、ふてぶてしくその場に座り込んで完食してしまったのだ。

猿は9世紀にアラブ人が持ち込んで野生化し、観光客を楽しませるとともに脅威となっている。「岩山に猿がいるかぎりイギリスの統治が続く」という古い言い伝えがあるそうだが、ここはイギリス領というよりは単なる猿の惑星にしか見えなかったのだ。

猿山から下山し、イタリアンカフェで免税ではあるが、物価の高いパスタを食した後、再びスペインに帰国すべく、国境へ向かって歩いていた。赤信号の遮断機で立ち止まったその先はジブラルタル空港の滑走路となっており、小型の飛行機がイギリスの本土目指して離陸して行った。私の入っている生命保険も満期と更新の時期を迎えており、ここで得た体験次第ではジブラルタ生命に乗り換える可能性も検討したのだが、そこまでする必要はないであろうと思いとどまったのだった。

スペイン国旗を仰ぎ見ながらラ・リネアに戻り、市バスでアルへシラスに移動、その後長距離バスでマラガに向かい、着いた時間は夜だったので地下鉄のとある駅で下車して予約していたHilton Garden Inn Malagaに投宿した。

Hiltonhhonorsのポイントが余っていたので宿泊代が無料であったのが忍びなくホテルのレストランでシーフードを奮発して帳尻を合わせておいた。

2020年1月1日(水)
ハッピーニュー ボンよ、

ということで、国際的なリゾート地として有名なコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の玄関口として賑わうマラガでアンダルシアの最終日を迎えたわけだが、かの有名な変画家であるピカソが1881年にマラガでおぎゃ~と生まれてから10歳までの幼少期をこの地で過ごした生家があるということなので立ち寄ってみたのだが、元日のため休館となっていた。

近隣のピカソ美術館も門戸を開いてくれなかったのだが、唯一歓迎してくれたのはピカソの遊び場だったメルセー広場に佇むピカソのベンチだけだったのだ。

髪のないピカソの生涯の解明がかなわず、後ろ髪を引かれるように乾燥したマラガを後にすると17:25発TK1304便でとんでもないイスタンブールへ飛んで行った。

1月2日(木)
イスタンブール空港で荷物が迷子になった憂さ晴らしをすることも考えたのだが、ここでは♪恨まないのがルール♪となっているので1:45発TK26便に乗り、おとなしく上海へと旅立った。約10時間半のフライトで上海浦東国際空港に17:15に到着したのだが、今回はきっちり入国後に荷物をピックアップして再発防止策を実践することにしたのだった。

1月3日(金)
約6~7時間もの時間をラウンジでやり過ごし、1:45発NH968便に搭乗し、羽田に着いたのは夜もまだ明けぬ5時半くらいであった。いくつか問題はあったものの♪Yesterday♪から始まる♪Traveler♪魂を胸に、次回は「ルネッサ~ンス!」の音頭とともにワイングラスをカチンと鳴らすイタリアツアーが発生するだろうかと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥75,710 (ANA)、¥101,918(トルコ航空)
総宿泊費 EURO405.65、GBP108.3
総Renfe代 EURO111.8
総バス代 EURO39.74
総メトロ代 EURO4.4
総タクシー代 EURO14
総ロープウエイ代 GBP14
協力 ANA、トルコ航空、IHG、Hiltonhhonors、Hotels.com

♪教えておじいさん♪第二回スイスアルプスツアー with マッターホルン

♪くちぶえはなっぜ~♪
中略
♪おしぃえて おじいさん♪

ということで、前回2002年の1月に敢行されたスイスアルプスツアーではおじいさんならぬ過去の歴史から多くのことを学んだが、いかんせん真冬のツアーということで行動範囲が大きく制限されてしまっていた。スイス人の誇りとするアルプの森の真髄を極めるためには盛夏に山中を行幸しなければならないため、航空運賃が最高騰するお盆の時期に待ったなしでマッターホルン地域に足を踏み入れるツアーが開催されたのだ。

2019年8月10日(土)
FTBにおきましては時間はかかるがハイシーズンにヨーロッパに安値で到達可能な方法を開発したので早速実践に移すことにした。日本からの直行便は回避し、キャセイパシフィック航空が運行する14:45成田発香港行きCX527便に搭乗すると3時間強のフライトで19:00前には世界のハブとして名高い香港国際空港に到着した。つつがなく入国手続きを終え、税関を通過し、香港への門戸が開かれると眼前には毒蛇に出会ったような衝撃的な光景が広がっていた。

黒装束を身にまとった多数のデモ集団がライブで香港への入境客を歓迎し、観光客のSNS映えに貢献するようなプラカードを掲げながら様々な種類、言語のビラを配り歩いていた。

デモの喧騒を横目に耐え切れぬ空腹につられて飲茶レストランに入り、かろうじてワンタンメンをすすり上げた後、香港から出境し、タイ国際航空のラウンジでトムヤムスープのマイルドな辛さとともにデモ集団の要求する香港の自由が守られるよう、陰ながら祈っていた。

ルフトハンザ航空が運航する23:15発LH797便は定刻どおりに出発したものの、たくさんの巨体ドイツ人が搭乗する割にはエコノミークラスの前後のピッチが異様に狭いシート配置のため膝がピチピチになるのをこらえながら意識を飛ばすことに集中していた。

8月11日(日)
約11時間のフライトでフランクフルト国際空港に到着したのは夜明け前の5:30くらいで約1時間の乗り継ぎ時間を経てLH1182便にてチューリッヒへと転送させられた。定刻7:35にスイスの空の玄関チューリッヒ空港に到着すると空港駅のスイス鉄道(SBB)のカウンターで有効期間1ヶ月のスイスハーフフェアカードを120スイスフラン(CHF)で購入し、同時にツェルマットまでのチケットも定価の半額で入手することに成功した。

スイスウォッチのような正確な時間管理で運行するSBBの進行方向2階席を確保すると約1時間後には首都ベルンを過ぎ、さらに1時間後にフィスプという駅に到着した。ここでMGB (Matterhorn Gotthard Bahn)という登山鉄道に乗り換えると広々とした窓越しにアルプスの絶景が広がった。

合計約3時間半をかけて念願のツェルマットに到着したのは正午過ぎであった。晴れ渡ったツェルマットに一歩足を踏み出すとさわやかな空気に包まれた感覚を覚えたのだが、ここでは厳格な排ガス規制が敷かれ、町行くタクシーや送迎車はすべて四角い電気自動車であった。

標高1605m、狭いマッター谷のどんづまりにあるツェルマットのメインストリートであるバーンホフ通りを颯爽と通り抜け、Hotels.comに予約させておいた当地での宿泊先である☆☆☆☆ホテルのモンテ・ローザにチェックインする運びとなった。由緒あるこのホテルの壁にはマッターホルン初登頂を果たしたウィンバーのレリーフがはめ込まれており、彼の定宿として長い歴史を歩んできた伝統と格式が刻まれている。一見様のFTBには最上階である6階の上部屋ではあるもののマッターホルンビューではない部屋があてがわれたのだが、木の息吹を感じさせる上質な作りと季節の花をあしらったベランダからの絶景はツェルマットでの滞在をワンランク上げてくれるものとなっている。

チェックインの際にコンシェルジュ・レディーから今日はFolklore Festivalというお祭りの日でホテルの前がパレードの通り道になっているということだったので時差ぼけの眠気を押さえ込んでパレードフロントの道端に陣取った。

Festivalを彩る各パレードチームの扮装はマサにスイスアルプスの文化、歴史、暮らしそのものであり、幼い子供たちから草刈正男の雰囲気を持つおしえておじいさんまで一様に笑顔で目抜き通りを練り歩いていた。

パレードの終焉を見届け、狭いツェルマットの町を一通り歩き回っている際に黄色い表紙のガイドブックを携えた多くのアジア人に遭遇したのだが、その多くは日本語をしゃべっていた。夕食には地元で醸造されているツェルマットビールとお約束のチーズフォンデュを発注した。チーズの臭いにつられて飛び回るハエを振り払いながら中鍋になみなみと溶かされたホットチーズに一口大のパンを絡めてひたすら口に運ぶ作業を繰り返したのだが、単調さに耐え切れず完食には至らなかった。どの観光客もおそらくスイス滞在時の最初で最後のチーズフォンデュになるはずであろうが、食べ残されたチーズの行く末を案じながらスイス初日の夜は更けていった。

8月12日(月)
マッターホルンに憧れてツェルマットにやってきた観光客の大敵は天候である。今日は早朝から雨と霧の洗礼を受け、マッターホルンロスの中での観光のモデルケースの確立を迫られたのだが、座して天候の回復を待つのが常套手段であろう。

当地に日本人が多い理由のひとつにツェルマットと京都、富士河口湖、妙高高原との姉妹都市の締結があげられよう。町中には友好を示すレリーフが飾られており、妙高という日本食屋が通りの一等地に巨大な店を構えていた。

教会で雨宿りをしながらマッターホルン博物館(CHF10)がオープンする午前11時を猫と一緒に待っていた。マッターホルンの形状をかたどった透明な入り口から館内に入ると地下の展示場に続く階段をこの地方独特の家屋の表情を見ながら下って行った。展示物はマッターホルンが初登頂された時代の苦難と栄光、暮らしぶりを如実にあらわしており、ここに鎮座する人物が生き生きと当時の模様を物語ってくれた。

古き良きツェルマットの特徴がよく残っている路地にネズミ返しのある古い穀倉倉庫が並んでいる。いくつかの倉庫はいまだ現役らしく入り口は季節の花で彩られている。

行動が制限される雨の日は食事で気を紛らわすしかないのだが、昼食にはスイスのソウルフードであるはずのとろける熱々チーズのラクレット、夕食時には肉食獣に成り代わり、ソーセージと噛みごたえのある牛肉で来たるべくハイキングに備えて歯を食いしばっていた。

8月13日(火)
起き抜けにテラスに出て天候を確認すると雨は上がっているものの上空は微妙な曇り空であった。ツェルマットでは余裕のある滞在期間を取っていたのだが、これ以上足止めを食うわけにはいかないので天空の視界がどうなっていようと登山鉄道でスイス随一の展望台を目指すことにした。

ツェルマット駅の斜め前に位置するゴルナーグラート鉄道はアルプス登山ブーム全盛時の1898年に開通したアプト式登山鉄道である。トップシーズンのこの時期は約24分おきの運行となっているのだが、始発の7:00からほぼ満席状態で観光客を空気の薄い世界へと運んでいる。

いくつかの駅で停車しながら、約33分で標高3090mの終点ゴルナーグラートに到着した。雲の流れにさえぎられマッターホルンへの謁見は許されなかったが、展望台からはアルプス山脈第2の高峰モンテ・ローザ(4634m)や山脈を長い時間かけて切り裂いている氷河の迫力を存分に味わうことが出来た。

ゴルナーグラートには高級山岳ホテルであるクルムホテルが君臨し、展望台で冷え切った観光客は大挙してレストランに乱入し、ホットドリンクを口にして一様にほっとした表情を浮かべていた。

モンテ・ローザを源とするゴルナー氷河に別れを告げるとその足でスイスを代表するハイキングコースへ踏み出すこととなった。行程は当然のことながら全コース下りで雲に邪魔されているとはいえ、絶景を見ながらの進行となる。

逆さマッターホルンで有名なリッフェルゼーで足を止めたのだが、鏡の役割を果たす泉は無地のキャンバスに成り下がっていた。しばらく近辺に佇み、祈るように雲の流れを見つめていたのだが、マッターホルンはかろうじてその先端のマウスピース相当部を公開してくれたに過ぎなかったのだ。

標高が下がってくると大地はガレ場からアルプに変貌し、ウールで着膨れした羊が整然と草を食んでいる様子も風景の一部となった。リッフェルベルク駅(2583m)の隣のホテル・リッフェルベルクでビュッフェ形式の昼食を取ってパワーアップすると頻繁に行き来するゴンドラを横目に片側が崖になっている急な下り斜面を慎重に下って行った。

短角牛が草を食む牧場を過ぎると森林地帯に突入し、いくつかの山小屋食堂の奇抜な装飾に恐れおののきながらも長い道のりを淡々と下って行った。

さらに郷ひろみのデビュー曲の合いの手のように♪ゴーゴー♪とアルプスの雪解け水が流れる峡谷でマイナスイオンをチャージし、ひざがガクガクになりながらも何とか総延長約11kmのコースを完走した。

ツェルマットの町中に戻ってくるとアルプスの少年が先導するヤギの集団に遭遇したのだが、カランコロン系の鈴と一緒に首輪に管理用のシリアルナンバーが記されたタグが取り付けられていた。

ホテルに戻って一息ついた後、教会近くのベンチに佇み、緞帳のようにマッターホルンを覆い隠す雲の流れを見つめていた。日没も迫ってきたので一緒に空を見上げていたアジア人観光客は私に「Good luck」と言い残して撤収していったのだが、マッターホルン博物館前でアルプホルンの演奏が始まるとその音色に乗って雲の流れが速くなり、ついにこの地で見るべき景色とのご対面となったのだった。

8月14日(水)
ツェルマット滞在最終日の朝をむかえ、夜明けとともに目を覚ますとテラス越しに見上げた空が西条秀樹をほうふつとさせる最上のブルースカイブルーだったので取るものもとりあえず教会前のマッターホルンビューポイントへ走っていった。まぶしすぎた空を背景に朝日を浴びたマッターホルンは薄化粧の雪と岩肌の筋をあらわにして黄金色に輝いていたのだった。

散々じらされた挙句の真打登場により、感動もひとしおとなったのだが、4478mの巨体で村に覆いかぶさるその勇姿はマサにスイスの巨人そのものであった。

貴重な好天が約束された本日のアクティビティは非常に忙しく、午前中はロープウエイを乗り継いでヨーロッパ最高地点の展望台を目指すことにした。

アルプスの王者スイス、世界でトップクラスの山岳観光の醍醐味を提供するために最新の技術を駆使して至る所にロープウエイを張り巡らせている。ツェルマットの村の南端の乗り場に到着すると次から次にやってくるゴンドラはグループ毎の貸切状態での運行となり、他の観光客に気兼ねすることなく空中遊泳を楽しむことが出来るのだ。

マッターホルンは常に視界にあるのだが、見る角度によって異なった趣を示し、♪さわるものみな傷つけた♪ギザギザハートのとがった少年やうつむきがちの考える人、そのまんまピラミッド等、見るものを決して飽きさせず、常に観光客の視線をひとりじめしているようである。

いくつかの駅でロープウエイを乗り継いだもののわずか40分程度で標高3817mのマッターホルン・グレイシャー・パラダイスに到着した。ちょっと長めのトンネルを歩くと視界が開け、そこは夏なのにスキーに興じるウィンタースポーツフリークで賑わっていた。低酸素と低体温状態になる準備をするためにショップ兼レストランの建物でカフェインを吸収すると満を持してヨーロッパ最高地点の展望台を目指すことにした。

トンネル道を戻り、エレベーターに乗り、最後の力を振り絞って階段を上って到達した展望台で見た絵のような天空世界の光景は凍りつくようにクールであった。展望台の標高は3883mでシャモニ・モンブランのエギーユ・ミディより41m、ユングフラウヨッホのスフィンクス・テラスより311m高くなっている。

キリスト十字架の向こうにあぐらをかいているよう鎮座しているマッターホルンの姿は崩れ正三角形のピラミッドでツェルマット村から見上げたものとは似ても似つかない形状である。高い運賃を支払い、寒さに震えながらでも見に来る価値は十分あり、晴れていればおつりがくるほどの迫力で迫ってくるのだ。

次から次に上ってくる観光客の数と展望台およびその他施設の収容能力のバランスを考慮してマッターホルン・グレイシャー・パラダイスを後にすることにした。帰りは乗り継ぎ駅のトロッケナー・シュテーク駅の展望台での景色を楽しんだが、その後は素直にロープウエイに戻り、ツェルマットへと帰還した。

昨日のハイキングで多少すねが痛んでいたのだが、さらなるハイキングコースを求めて村から3分で到着出来る展望台であるスネガに行くことにした。2013年にリニューアルされたばかりの地下ケーブルカーに乗り込み、標高差683mという急勾配のトンネルで一気に標高2288mに到達すると稜線までくっきり見える貴婦人のようなマッターホルンに出迎えられた。

丁度昼食時でもあり、ビュッフェレストランで軽食とビールを調達し、マッターホルンに向かって杯を上げた。食べ物のクオリティはさておき、マッターホルンに見守られた青空ビアガーデンでのひと時は至福以外の何ものでもないのである。

スネガ→ツェルマットのハイキングコースは初級コースで常にマッターホルンを正面にしてゆるやかな坂を下って行った。途中トイレ休憩で立ち寄った山小屋ホテルからの景色と雰囲気も非常によく、次回この地に戻ってくる機会があれば是非このスタイルのホテルで静かに過ごしてみたいと思いながらツェルマットへ帰っていった。

終日マッターホルン三昧のアクティビティを満喫し、疲れた足を引きずって列車に乗り込み鉄路をベルンへと引き返して行った。ベルン駅でタクシーを捕まえ、ポイントを使ってただで泊ることが出来るHoliday Inn Bern Westsideにチェックインするとひたすら体を休めることに専念した。

8月15日(木)
スイス連邦の首府ベルンは世界遺産に登録されている「中世の町並み」で有名である。アルプスから離れ、今日は旧市街を存分に散策する予定であったが、疲労の抜けが悪かったため、観光は断念し、駅地下で存在感を出している当地にゆかりのある偉人アインシュタインの二頭身像に「アイ~~ン」を決めてベルンから撤収となった。

ベルンから列車に乗り、約1時間でチューリッヒ中央駅に到着後タクシーでポイントを使ってただで泊ることが出来るCrowne Plaza Zurichに移動した。今夜はホテルに新設されたイタリアンレストランでビフテキを貪り食って体調の維持回復に努めることにした。

8月16日(金)
ホテル近くの市電の停留所で24時間有効のチケット(CHF8.8)を購入し、チューリッヒ中央駅へ移動した。駅の切符売り場の自動販売機で係りの女性の援助でサルガンス行きのチケットを入手すると列車に乗り込み車窓を流れる牧歌的な景色を眺めながら1時間程の鉄道の旅を楽しんだ。

思えば失業手当で生計を立てていた8年前にHILTIというリヒテンシュタインの会社の面接を受け、見事不採用となった苦い経験からいつかはリヒテンシュタインに行かなければならないとの思いを胸にいだき続けていたのだが、今日ついにその日が訪れることとなった。

サルガンス駅を出て隣接するバス乗り場に向かい、リヒテンシュタインバス11番の2階席に乗り込むといつのまにか国境を越え、約30分でリヒテンシュタインの首都ファドゥーツの郵便局前に到着した。スイスとオーストリアに挟まれたヨーロッパ第4の小国であるリヒテンシュタイン入国の証を立てるためにまずは観光案内所に立ち寄ることにした。普通の国に入国する場合にはパスポートにただでスタンプを押していただけるのだが、リヒテンシュタインでは記念スタンプというプレミアム感をだしにして観光客からCHF3を巻き上げて希望者のパスポートに押印するシステムになっているのでこの機をとらえてパスポートの差し支えのないページに何の変哲もないスタンプを押していただいた。

リヒテンシュタインは切手とは切っても切れない関係にあるようで切手製作の長い歴史とかつての栄光の時代を今に伝える入場料無料の切手博物館に入場することにした。館内に展示されている切手は普通の郵便切手とは一線を画し、どれも芸術性の高いデザインを誇っている。数ある記念切手の中でも♪カ~モン ベーベー♪アメリカのアポロ計画との関連性は深いようで展示スペースーの主要な一角はアポロ一色となっていた。また館内で記念切手の販売も行っており、多くの中国語スピーカーが爆買体制に入っていた。

ファドゥーツの中心地はいくつかの博物館とたくさんのオブジェで彩られているのだが、先述のHILTIも美術に対する造詣も深く、Art Foundationで会社の利益を還元しているようだったので8年前の不採用の一件は水に流すのが筋だろうと考えることにした。

ファドゥーツ市街地を見下ろす高台にファドゥーツ城がそびえているので上ってみることにした。城のデザイン性には特に印象的なものはなく、入場も出来ないので高台からの景色を軽く眺めてリヒテンシュタインから出国した。

チューリッヒに戻り、フライトまでしばらく時間があったので軽く町歩きと洒落込んだ。中央駅の南側チューリッヒ湖に続くリマト川の川岸には鋭く尖った教会が立ち並んでおり、また旧市街はチューリッヒの歴史が凝縮されたスポットになっているのだが、金融センターはマネーロンダリングの温床になっているのではないかという疑問を拭うことは出来なかった。

散歩の途中で公園の便所を使用させていただいたのだが、個室には使用済み注射器を破棄するための穴があり、薬物問題は犯罪行為ではなく、健康や公衆衛生の問題と捉えているスイス独自の考え方の一旦を垣間見ることが出来た。

帰りのフライトはチューリッヒからスイス航空が運航する22:40発LX138便に乗り、香港への帰路に着いた。

8月17日(土)
午後4時過ぎに香港国際空港に到着。スイス滞在中に見たニュースで香港空港でのデモが原因で多数の便が欠航になったことを知らされていたが、香港に入境するとすでにデモ隊は解散させられている様子で逆にいつもより静かな空港模様となっていた。

8月18日(日)
0:55発CX524便成田行きは乗り継ぎ便の乗客待ちで1時間程度の遅れを出したものの、香港国際空港のハブ機能が正常に回り始めた結果であると捉え、心のバランスを取っていた。成田空港には早朝7時くらいに到着したのだが、その時間はスカイライナーの運行もなく、モーニングライナーも丁度良い時間帯のものがなかったので接続の悪い特急でのんびりと東京の西のはずれに帰っていった。

FTBサマリー
総飛行機代 キャセイパシフィック= ¥62,230, ルフトハンザ = HKD9,277
総宿泊費 CHF903
総スイスハーフフェアカード代 CHF120
総鉄道代 CHF315.5
総バス代 CHF16
総タクシー代 CHF77.8

協力 キャセイパシフィック航空、ルフトハンザドイツ航空、スイス航空、Hotels.com、IHG、SBB

FTB Last Hay Say魅惑のスペイン・アンダルシア・ツアー

「平成最後の」という枕詞に踊らされること無く、努めて平静を装っている今日この頃であるが、情熱の国スペインへの憧憬はいかんとも抑えがたく、かつて近藤真彦も憧れたアンダルシアに足跡を残すツアーが開催される運びとなったのだ。



2018年12月25日(火)
クリスマスたけなわの雰囲気とは程遠い羽田空港に前日のイブにチェックインし、ANAスイートラウンジで通常メニューのディナーを召し上がると深夜0時55分発フランクフルト行きNH203便に颯爽と乗り込んだ。深夜フライトの特性を最大限に活かすために機内で意識を無くすことに集中したのだが、早めに目が覚めたので機内プログラムの邦画で「万引き家族」を鑑賞しながら万引きから「まんぷく」への見事な転身を果たした安藤さくらの豹変ぶりに舌を巻きつつ、スペイン語に必要となるはずの巻き舌の練習に勤しんでいた。

12時間以上のフライトで夜明けは遠いフランクフルト空港に到着したのは午前5時半を回った時間であった。入国後ルフトハンザのセネターラウンジでだらだらと朝飯を食っていると8時過ぎに待望の日の出を迎えたのだった。

10時15分発LH1112便は定刻通りに出発となり、約2時間半のフライトで午後1時前にマドリッド空港に到着した。空港から市内へ行くには複数の交通手段があるのだが、手っ取り早い地下鉄でいくつかのラインを乗り継ぎながら何とか宿泊先のHoliday Inn Madrid Piramidesに到着することに成功した。

ホテルでしばらく休憩し、日の暮れないうちにマドリッドの旧市街の中心であるプエルタ・デル・ソルに近郊列車に乗って繰り出して見ることにした。「太陽の門」という名の広場であるプエルタ・デル・ソルはマサにマドリッドの中心であり、多くのマドリッド子や観光客で大変な賑わいを見せている。

クリスマス・シーズンということもあるのかも知れないが、かつての新春スターかくし芸大会のハナ肇が扮した銅像よりも洗練されたオブジェに扮した大道芸人たちが記念写真用のチップをもらうまではてこでも動かないというプロ意識を醸し出しながら道行く人々の興味を引き付けていた。

フェリペ3世が1619年に完成させた四方を建物に囲まれた広場であるマヨール広場に迷~うことなく到着出来たのでその風格を堪能しながら見て回ることにした。中央にはフェリペ3世の騎馬像が設えられ、スペイン王家の紋章が刻まれた北面中央にある建物は威厳に満ちており、かつてその下のバルコニーは王家が儀式や闘牛、種々の祭といった催し物を見学するための観覧席だったそうである。

日もとっぷり暮れてしまうとお約束のライトアップとなり、広場にはさらに多くセニョールやセニョリータが詰め掛けてきた。スペインの本格的なディナータイムが始まる前に適当なレストランに駆け込み定番のパエリアを賞味させていただくと初日の今日は早々と撤収して体力を温存しておくことにした。

12月26日(水)
午前中の程よい時間にマドリッドのターミナル駅であるアトーチャ駅まで出向き、切符売り場を探し回って近郊の世界遺産都市であるトレド行きのチケットの購入を試みたのだが、近年のオーバーツーリズムの影響か、本数が多いにもかかわらず直近発車の列車のチケットの入手はかなわなかったので2時間程の待ち時間が発生してしまった。駅構内の待合室は熱帯植物園になっているのでここで森林浴をするという選択肢も考えられたのだが、寒風の下の青空が眩しかったので近隣のレディーロ公園を軽く散策し、カラフルな野鳥の観察等で気を紛らわせていた。

結局入手に成功した列車の発車時間は12時20分だったものの、高速列車Avantに乗り込むともののわずか30分で古都トレドに到着と相成った。歴史と伝統を感じさせるトレドは駅に降りた瞬間から数百年前にタイムスリップした感覚を呼び起こさせ、セントロへと続く長い坂道を登っていくとさらに時計が巻き戻されるようで、期待感が高まっていくのであった。

13世紀に造られたアンカンタラ橋を渡り、ショッカーの首領のような紋章を冠した門をくぐり長い階段を駆け上ると見晴らしの良い展望台に到着し、番猫に挨拶するとtaco-awayで軽食をテイクアウトすることなく町の中心であるソコドベール広場に到着した。

1561年に首都がマドリッドに移るまで政治・経済の重要な拠点として繁栄し、「16世紀で歩みを止めた町」といわれるトレドの旧市街はまるで迷路のように路地が張り巡らされている。長くイスラム教徒の支配下におかれ、その後ユダヤ、キリスト教の文化を融合したトレドの町並みは古いものと新しいもののトレードではなく、共存しながら歴史を構築していった様子がここかしこに見て取れるのだった。

人口の圧倒的多数がカトリックであるスペインにはどんな小さな村にも教会は必ずあり、そのスペイン・カトリックの総本山のカテドラル(EURO 10)がトレドに君臨しているのでこの機を捉えて恒例の♪何となくクリスチャン♪気分で礼拝させていただくことにした。

トレドのカテドラルはフェルナンド3世の命によって1226年に建設が始まり、1493年に竣工したスペイン・ゴシック様式の大聖堂であるが、その後、時代に応じて増改築が繰り返され、竣工時当初のオリジナルの部分は少なくなったのだが、その芸術性の高さは時代ごとのアーティストによって維持されてきたという。

豪華絢爛な聖堂内部はマサに見所が満載で、どこを切り取って写真を取ってもインスタ映えは必至で、FBにアップしようものなら♪カ~モン ベービー アメリカ♪のリズムとともに親指が乱舞する光景が目に浮かぶほどすばらしいものである。

建物は大きく分けると本堂とアネックスから構成されているようであるが、それぞれの雰囲気はガラッと異なっており、本堂にはコロンブスがDA PUMPにいざなわれたかも知れないアメリカから持ち帰った金がふんだんに使われている一方で、アネックスの内部はまるでベルサイユの薔薇が咲き誇っているような豪華さを醸し出しているのであった。

カテドラルの正面にはみやげ物屋やスナック屋の出店が数多く見られ、2ユーロで購入した揚げたてのポテトチップスを片手に油にまみれた手で人口水面に反射するカテドラルのファサードにピントを合わせていた。

12月27日(木)
長年♪アンダルシアに憧れて♪いた思いを行動に移す日がついにやってきた。マドリッドからグラナダへの移動はオーバーツーリズムの影響を考慮して事前にミキツーリストみゅうに手配させておいたプレミアムバスのチケット(EURO 50.85 + みゅうへの手数料)を握り締めて南バスターミナルに向かった。定刻9時に出発となったプレミアムバスは飛行機のプレミアムエコノミーよりも待遇がよく、添乗員の女性が飲み物や朝食等なにくれとないサービスを施してくれながら約4時間半の快適なドライブで午後1時半にグラナダ郊外のバスターミナルに到着した。バスターミナルからセントロへは多少距離があったので路面電車等の公共交通機関を使うことも考えたのだが、観光客に優しくない自動券売機の攻略に失敗したため、タクシーでグラナダでの宿泊先に向かった。

今回のツアーのハイライトであるグラナダでFTBが選定したホテルは☆☆☆☆☆のアルハンブラパレスで宮殿へのアクセスも至便なアラビック調のスタイリッシュな宿である。高台にあるので眺望もよかったので、早速ホテルへと続く狭い坂道を駆け下りてグラナダの中心部の下見をさせていただくことにした。

とりあえず近くのバルで1杯のビールに付いてくるタパス等で軽く腹ごしらえを決めて歩き始めるといつのまにかセントロの中心にあるイサベラ・ラ・カトリカ広場に到着していた。ここに君臨するモニュメントはイザベル女王がコロンブスに新大陸への出張を許可する場面を再現したものらしいのだが、実際にはグラナダ近郊のサンタフェで勅許が与えられたそうである。クリスマスの余韻を残す繁華街を抜け、川べりを歩いていると雪を被ったシエラ・ネバダ山脈の雄姿が遠巻きに眺められ、グラナダの征服者イザベル女王の援助を受けたコロンブスが♪カ~モン ベービー アメリカ♪に到着した1492年とスペインが世界制覇の夢に燃えて大航海時代の盟主となった時代に思いを馳せていた。

12月28日(金)
朝シャンプーならぬ、朝シャンペン飲み放題のホテルのブッフェ朝食でエネルギーを充填すると腹ごなしがてらに広大なアルハンブラ宮殿周辺を散策し、午後のツアーに備えた予習と観光客の動向の観察にしばし勤しんだ。

さらに、アルハンブラ宮殿から続いているゴメレス坂を下り、観光の中心であるヌエバ広場に出てセグウエイ観光集団を見送るとカテドラルを中心とした下町の密集地帯に向かった。

ぎっしりと軒を連ねる土産物屋の誘惑を振り切ってカテドラル(Euro 5)の内見へと舵を切ることにした。グラナダ陥落後、モスク跡に1518年より建設開始となったこの箱物は当初は当時のトレンドであったはずのトレドのカテドラルが採用しているゴシック様式を範として基礎工事が進められたのだが、1528年以降に担当者が変更となり、プラテレスコ様式最大の建物となって完成をみた。

構造的にはゴシックで装飾にはアラブ的なムデハル様式を用いた折衷的なものであったが、その後「髭男爵・山田ルイ53世」も推奨したはずのルネッサンス風へと移行したそうである。

「レコンキスタ」、スペインの歴史を語る上で最大と言っても過言ではないこのキーワードはイベリア半島でのキリスト教勢力がイスラム勢力を排除する動きでアンダルシアの主要都市であるコルドバやセビーリャが続々と陥落する中でグラナダは最後の抵抗勢力として繁栄を維持し、イスラム文明の輝かしいモニュメント、アルハンブラ宮殿(世界遺産)を花開かせたのであった!

スペインを代表する観光地であるアルハンブラ宮殿は入場制限があり、ネットで事前購入するというパターンが効率的なので約1ヶ月前にウエブサイトを訪問したのだが、すでに12月分のチケットは完売状態であったので思わず行き先をアンダルシアからサンタルチアに変更しようという欲望に駆られてしまった。ページをスクロールしてみると英語もしくはスペイン語のパッケージガイドツアーが高値(Euro 69)ではあるが、予約可能だったのでマウスのボタンの上に置いた人差し指に思わず力を込めてしまっていたのだった。

ツアー催行会社であるGRANAVISIONのミニバスが午後1時50分ごろにホテルに迎えに来たので乗り込むと、ものの数分で集合場所のGranaVision Welcome
Visitor Centreに到着し、番号札とツアー用のイヤホンセットを渡されて待っているとスペインの優男風のカルロスというガイドが軽快に姿を現した。先行するツアーのグループを見送るためのしばしの待機時間があったものの午後2時過ぎに待望のツアーの火蓋が切って落とされた。ちなみに申し込んだのは英語ツアーだったのだが、実際の運用は英語とスペイン語の説明が交互に繰り返されるのでスペイン語を勉強したい英語が分かる輩にとっては格好の生きた教材ともなるのである。

バーコードチェックの後、宮殿の敷地への侵入を許されると本物には絶対に手を触れることの出来ない精巧なレリーフのサンプルを撫で回し、最高の技術を持っているはずの庭師により整えられた角刈り並木を抜けてカルロス5世宮殿の前で個体管理されている猫と一緒にカルロスの説明に聞き入った。

カルロスが途中で行方の分からなくなった車椅子参加のツアー客の救済に成功した後、ツアーのハイライトであり、訪れる者を千夜一夜の世界に誘う、幻想的な王宮であるナスル宮殿への入場と相成った。内部は精巧なモザイクやレリーフで装飾されているため、バッグ類(特にバックパック)は常に体の前面に保持する指示が徹底され、バッグのエキスがナスル宮殿の壁に決してなすりつかないように配慮しなければならなかったのだ。


「王は魔法を使って宮殿を完成させた」といわれるように宮殿内部はマサにイスラム芸術の結晶でどのタイルやレリーフを取って見ても絵になるのだが、特に気になったのはまるで生き物に見えるアラビア語の習字のレリーフであった。

内部構造は精巧な仕掛けが施されており、宮殿の中心部であるコマレス宮のアラヤネス(天人花)の中庭いっぱいに造られた青い池は水鏡となってコマレスの塔を写しだしている。

また、神秘的な音響効果が得られるように天井や壁の形状を最適な形に作りこんでいるのも非常に印象的であった。

コマレス宮を過ぎると12頭のライオンの噴水があるライオンの中庭に到着した。ここは王族のプライベート空間で装飾はより繊細に施されていた。

東側は謁見の間になっており、天井の中央にはナスル朝歴代10人の王の肖像画が描かれている。

アルハンブラ宮殿の心臓部であるナスル宮殿を出て一休みした後、軍事要塞であるアルカサバに移動した。アルカサバはアルハンブラで最も古い部分でローマ時代の砦の跡にモーロ人が9世紀に築いたもので、キリスト教国の攻撃から都を守るため、アラブ世界の軍事技術を結集した難攻不落の要塞である。

見張り塔に上ると360度の眺望は圧巻であり、グラナダ最古の町並みが残る歴史地区アルバイシンや遠く青空に溶け込むシエラ・ネバダ山脈の美しい遠景が瞼の裏に焼き付けられたのだった。

アルハンブラの幻想世界は宮殿だけでなく、いろいろな目的で造られた庭園も重要な構成要素となっている。パルタル庭園は、イスラム時代には、貴族の宮殿や住宅、モスクなどが立ち並ぶ緑地だったのだが、アルバイシンを見下ろす展望台には貴婦人の塔が、前面に池を従えた優美な姿を見せている。

実験農園から糸杉の植えられた遊歩道をさらに進むと、ヘネラリフェの入り口へと到着した。

ヘネラリフェはアルハンブラ宮殿の北、チノス坂をはさんだ北側の太陽の丘に位置する14世紀に建設されたナスル朝の夏の別荘である。いたるところにシエラ・ネバダ山脈の雪解け水を利用した水路や噴水が設けられ、「水の宮殿」との異名を持っているのだが、やはり一番印象に残るのは重い水がめを背負わされてゲロのように水を吐く人面噴水であったろう。

離宮中央に位置するアセキアの中庭は、イスラム=スペイン様式を代表する庭園でアンダルシアのイスラム建築で最も保存状態の良いものである。

2時過ぎから夕暮れ時までたっぷりとガイドのカルロスによってアルハンブラの神髄をたたきこまれ、良い具合に腹も減ったのでホテルでグラナダの夜景を見ながらディナーと洒落込んだ。ホテルは高級の部類ではあるが、レストランのメニューは比較的リーゾナブルなので前菜、メイン、デザートまで安心して発注をかけることができ、新鮮や野菜や魚をまんぷくになるまで堪能させていただいたのだ。

12月29日(土)
名曲「アルハンブラの思い出」の旋律を胸に朝の散歩を楽しんでいると19世紀の米国人作家ワシントン・アービングの銅像が朝日に輝いている姿に遭遇した。レコンキスタの完成後、アルハンブラは凋落の一途を辿っていったのだが、荒廃した宮殿を「アルハンブラ物語」というペンの力で立て直した偉人の目は誇らしげにアルハンブラを見上げていた。

ヌエバ広場から続くダーロ川沿いを歩いていると、丘の上に続く数多くの路地の美しさに圧倒され、アルカサバを見上げる展望台を支配する有名であるはずのフラメンコダンサーの銅像が観光客のハートを射抜いていた。

起伏の激しいグラナダ市街を迷路のように張り巡らす一方通行道を機動力良く走り回るアルハンブラバスに乗り、11世紀頃にイスラム教徒によって築かれたグラナダ最古の町並みが残る世界遺産地区アルバイシンのサン・ニコラス展望台に到着した。ここから見るシエラ・ネバダ山脈を背景にしたアルハンブラ宮殿は非常に有名だということで多くの観光客が肩を寄せ合って写真撮影に興じているのだが、もやと逆光によりもやもやしたプロファイルの写真で我慢せざるを得なかったのだ。

展望台の裏手に広がるラルガ広場は16世紀に市場として栄えたアルバイシンの中心で多くの商店が軒を連ね、原住民と観光客が織り成す混沌とした熱気で非常に活気に満ちていた。

アルハンブラの最後の王ムハマンド11世が、城を落ちシエラ・ネバダの険路にさしかかる丘の上で宮殿を視界に収めて惜別の涙を流したと伝えられているが、それと同じ気持ちでグラナダを後にしてバスでマラガに向かった。約1時間半のバスの旅で温暖なマラガのバスターミナルに到着すると近年完成したはずのきれいなMetroに乗車すると10分程度で目的駅に到着し、マラガでの宿泊先であるHilton Garden Inn Malagaに投宿し、近隣のスーパー、カルフールで食材を買って晩餐を楽しんだ。

12月30日(日)
スペイン南部アンダルシア州のマラガ県の海岸地域をコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と呼んでいる。強烈な日差しを跳ね返すために多くの村では建物を漆喰で真っ白に塗り、マサにマラガの海の贈り物と言っても過言ではない「白い村」がアンダルシアに点在するようになった。最も有名な「白い村」のひとつであるミハスがマラガからのアクセスも良かったので話の種に行ってみることにした。

マラガ・マリア・サンブラーノ駅からRenfe近郊線に乗り、30分程で終点のフエンヒローラ駅に到着し、さらにバスに乗り、地中海を見晴らす山の中腹に位置するミハスのビルヘン・デ・ラ・ペーニャ広場で下車すると色白の労働者像に出迎えられ、多少の白々しさは否定出来ないと思われたものの念願の「白い村」への入村となった。

なるほど、山の中腹には白塗りの建物が密集し、アンダルシアの青空とのマッチングは見事であるのだが、家畜系の香りが漂う方向に目を移すとそこは馬車とロバ・タクシーのターミナルで多くの頑固そうなドンキーが寒空の下で出番を待っていた。

地中海を見下ろす展望台の一角で尖っているのはラ・ペーニャ聖母礼拝堂で16世紀に修道士が岩を掘り抜いて造ったと言われており、完成当時はピノキオのように鼻高々であったことが容易に想像される。

サン・セバスティアン教会を基点にして丘の上へと続く坂道はサン・セバスティアン通りで、アンダルシアで一番美しいと言われている通りである。通りの左右が商店街になっている一方で坂を上りきると一転して住宅街になるのだが、各民家もミハスの景観をさらに見栄えのよいものにすべく努力をしているようだった。

今日は風が強く、雲の流れが速かったので地中海のかなた、遠くアフリカ大陸までの眺望は拝めず、寒さでトイレを探しているうちに1900年に造られた世界最小といわれる闘牛場近辺のコンスティトゥシオン広場に紛れ込んでいた。この時期はオフシーズンのためか闘牛場内への入場はかなわなかったのだが、ここでのアクティビティは闘牛と観光客の生死をかけた一騎打ちではなくマタドールに扮した観光客が温厚そうな牛君と一緒に記念写真を撮ることであるようだったのだ。

12月31日(月)
昨日地中海の風に吹かれすぎた影響か、スペイン風邪の前兆のような症状が出始めたので午前中はホテルで療養し、12時のチェックアウトの時間を待ってタクシーでマラガ=コスタ・デル・ソル国際空港に向かった。この空港は別名パブロ・ルイス・ピカソ国際空港と呼ばれているのだが、マラガはピカソの出身地でピカソの生家、ピカソ美術館も人気を博しており、マラガの海の贈り物はマサにピカソ自身であるとの思いをあらたにした。

ルフトハンザ航空LH1149便は定刻15時40分に出発し、3時間のフライトで18時40分にフランクフルト国際空港に到着、IHGのポイントが余っていたのでただで宿泊できるHoliday Inn Frankfurt Airportにエミレーツ航空の乗務員と一緒にチェックインし、2018年最後の夜を地味に過ごした。

2019年1月1日(火)
平成最後の年が幕開けとなった日本の新年の喧騒とは裏腹に静かな2019年の初日をフランクフルトで迎えると午前11時30分発NH204便に乗り込み、スペイン風邪を日本に輸入しないように細心の注意を払いながら約11時間30分の元旦フライトを楽しんだのだが、残念ながら機内食で雑煮とおとそは出なかった。

1月2日(水)
夜明け間近の午前7時前に羽田空港に到着、世界まるごとHOWマッチの中でも尽きることの無いアンダルシアへの憧れを胸に流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥131,650、EURO370.77
総宿泊費 EURO871.87
総バス代 ¥9,408、EURO17.47
総地下鉄、鉄道代 EURO37.8

協力 ANA、ルフトハンザ航空、IHG、Hotels.com、ミキツーリストみゅう、CITY TOUR ALHAMBRA VIAJES, S.L. (GRANAVISION)

♪ようこそここへ♪ サグラダ・バルセロナツアー

ボンよ、これまでの長いFTB史の中で意外にも世界の人気観光地ランキングで常に上位に位置しているバルセロナに行ったことがないという汚点をどうしても埋めておく必要性に駆られたため、正座をして留守番をお願いしている間に軽く行ってみることにした。

2018年1月1日(月)
午前11時成田発ブリュッセル行きNH231便は定刻どおりに出発し、機内エンターテイメントの連続ドラマ「小さな巨人」を見ながら言葉の通じない国で意思疎通を図るための表情作りの極意を香川照之等の過剰な演技から読み取ろうと躍起になっていた。到着したブリュッセル空港はまだクリスマス気分も抜け切れていない様子で国の名産品であるはずのチョコレートが巨大なツリー状の形に成型され、その香りで観光客を引き付けていた。

ブリュッセル航空とのコードシェア便NH5147便は午後6時半に出発し、2時間のフライトでバルセロナ・エル・プラット空港に到着した。早速空港バスに乗り込むと約30分でスペインからの独立を画策しているカタルーニャ州の州都バルセロナの中心地であるカタルーニャ広場に到着した。広場に近いホテルを予約したはずだったが、すでに方向感覚を失ってしまっていたのでGoogle mapのお世話でかろうじてHotel Indigo Barcelona – Plaza de Catalunyaに到着することに成功したのだった。

1月2日(火)
さすがに世界有数の観光地だけのことはあり、バルセロナの主要観光地を巡るためにはあらかじめWebでオンラインチケットを購入しなければならない。まずは一人当たり7ユーロの支払いで午前11時に入場予約をしておいたグエル公園(世界遺産)を訪問することにした。

ちなみにバルセロナを代表する建築家は地元カタルーニャ出身のアントニ・ガウディであるが、実業家のエウゼビ・グエルはガウディのパトロンとして大枚をはたいてガウディの才能を利用し、並外れた芸術的な建築作品を生み出して行ったのだった。

グエル公園は当初の計画ではバルセロナを見下ろす山の手に60戸の住宅を造成し、イギリス風の田園都市を造ろうと構想したのだが、資金難で計画が頓挫し、公園として生まれ変わった成果物が世界遺産に登録されて多くの観光客から入場料をせしめているというマサに「災い転じて福となす」お手本のような代物なのだ。

ここでの見所は「ヘンデルとグレーテル」に出てくるお菓子の家をイメージしたといわれる正門や途中で有名なトカゲの噴水で記念写真を撮ることの出来る大階段、ギリシア神殿をイメージしたドーリア建築の柱で上部の中央広場を支えている市場である。

息を切らせて山の手の高台に登るとバルセロナの市街地と地中海まで一望することが出来、巨大クレーンで飾られたサグラダ・ファミリアも遠巻きに眺めることが出来るのだ。

グエル公園から下山するとデビュー当時の桜田淳子を思い起こさせる♪ようこそここへ♪サウンドが右耳から左耳に流れていった感覚を覚え、ふと頭上の看板を見るとサグラダ・ファミリアへ向かう矢印が示してあったので♪クッククック♪と笑いを噛み殺してバルセロナ最強の観光地へ急ぐことにした。

♪私の青い鳥♪は飛んでいなかったものの抜けるような青空に向かって伸びている4本の塔を目の当たりにした時には言いようのない感動を覚えてしまった。建築スケジュールが短縮され、竣工がガウディ没後100年の2026年に前倒しになったとはいえ、建築中の建物には目障りなクレーンが仮インストールされているため、緊張感を維持しながら周囲を巡ってあらゆる角度からその雄姿を堪能させていただいたのだった。

サン・ホセ帰依者教会の本堂として1882年に着工、翌1883年には初代建築家ビリャールからガウディに引き継がれ、今なお建設が進められているサグラダ・ファミリアの定番の見学コースはまず何よりもウエブで時間指定のチケットを事前購入するところから始まるのだ。FTBが少量購入したチケットはTOP VIEWというタイプで日本語対応のオーディオにガイドされた聖堂内部の見学と鐘塔にも登れるコースで1人あたり29ユーロもの大金がクレジットカードから引き落とされることになる。

メールで送られてきたバーコード付きのチケットを握り締めて定刻午後3時に意気揚々と聖堂の内部に侵入したのだが、塔へ登るエレベーターの前にはロープが張られ係員のセニョールから今日は風が強いためエレベーターは運行停止になっているとむなしく告げられてしまった。何本ものクレーンが活躍する建築現場の光景を思い出し、万が一の事故を考慮して風に対しては敏感になっているので致し方ないと納得して引き上げようとすると、セニュールは塔に登れなかった分の代金は後日カードに払い戻しされるとのたまい、実際に数日後に7ユーロが返金となっていたのだった。

竣工成ったあかつきには必ず塔に登るという決意をして気を取り直し、あらためてオーディオによるガイドでツアーを開始することにした。ツアーの最初はサグラダ・ファミリアの3つあるファサードのうち唯一ガウディ自らの指揮で1930年に完成した「生誕のファサード」を見上げて恐れおののくことである。生命の始まりということもあり、生誕のファサードは太陽が昇る東側に面しており、イエス・キリストの生誕と幼少期の出来事が精緻な彫刻で表現されている。

聖堂の内部はガウディ建築のエッセンスが詰まった空間で、樹木のように枝分かれした柱は構造上の利点があるだけでなく、神との一体化を擬似体験できる森のようになっている。2010年の完成時にはローマ法王ベネディクト16世を迎え、正式にカトリックの教会として認定された儀式が催されたのだが、法王もガウディ最大の傑作を目の当たりにして「ほ~お~」と感心したのはまぎれもない事実であろう。

内部の構造を存分に堪能した後、西側から外に出てイエス・キリストの死がテーマとなっている「受難のファサード」を見上げていた。ガウディによる原画を元に1954年に建設が始まったのだが、ほぼ完成形に達しているようで磔にされたイエスが覆いかぶさってくるような威圧感でしばしその場に立ちすくんでしまったのだった。

見学の最後にガウディが残した聖堂のスケッチや模型、建築の経緯を追った写真等が展示されている地下博物館にもぐることにした。晩年のガウディが泊り込んでいた作業場は現在では♪しあわせ芝居♪の舞台裏のようなラボとなっており、建築の工期の短縮を可能にした3Dプリンターが彫刻のモデルを精巧に作りこんでいた。

今回は塔に登ることが出来なかったので日本人彫刻家の外尾氏が製作したフルーツの実の彫刻を見ながら桜田淳子よろしく♪去年のトマトは青くて固かったわ♪と♪気まぐれヴィーナス♪のメロディーを奏でることは叶わなかったが、某新興宗教に入信している桜田淳子が♪17の夏♪に♪リップスティック♪を塗って、この地を訪問した実績はないはずだと思いながらサグラダ・ファミリアを後にした。

世界中にファンを持つFCバルセロナの本拠地ということもあり、町のあちこちにサッカーのポスターが貼られているのだが、スーパースターのメッシの写真がメシ時を教えてくれたのでスペイン人の社交場Bar(バル)で小腹を満たすことにした。店主に飲み物を注文し、お皿を受け取るとピンチョス(薄切りパンの上に具をのせたバスク地方のタパス)を手当たり次第に召し上がったのだが、狭くて観光客で込み合っている店内を自在に動くことが出来なかったので多くの種類を食すことが出来なかったという不満が残った。会計はつまようじの数をカウントするのだが、いっそのこと回転寿司のようなコンベアを導入してくれれば来店客に均等にピンチョスが行き渡るはずであろう。

1月3日(水)
芸術の町バルセロナでは一般にアールヌーヴォーとして知られる19世紀末芸術も花開き、モデルニスモ建築を代表する建築家としてモンタネールがガウディとは異なる個性を発揮していたのでその代表作を見学させていただくことにした。地下鉄サグラダ・ファミリア駅で下車し生誕のファサードを仰ぎ見た後、斜めに延びる街路の向こうに荒鷲のような羽を広げた重厚な建物が立ちはだかっていた。

サン・パウ病院として知られるサン・パウモダニズム区域(10ユーロ、世界遺産)はモンタール最大のプロジェクトとして1902年に着工し、1930年に完成しており、1916年から2009年まで実際に病院として使われていた。

完成当時のこの区域の建築群は、病院建設において活気的な作品となっていた。オレンジの木が生い茂る患者に優しいはずの庭園に囲まれ、分離された個々の美しい建物が地下を巡るトンネル網によって相互に連結された内外の空間は、マサに患者への最大限の配慮と快適性を追求することを目的に設計されている。

見学可能な8棟の建物の中で中央に位置するものは手術室であるが、ファサードには、著名な医師らの姓が書かれているのだが、かろうじてドクターXの痕跡らしきものは目にすることが出来たのだった。

建造物の内部に目を移して見ると、あまり快適そうに見えないベッドが並んでいる入院設備とは裏腹に、いたるところにあしらわれているステンドグラスやタイルなどの装飾を見上げると、「芸術には人を癒す力がある」というモンタネールの信念が垣間見えるのだった。

バルセロナに到着してからというもの、スペイン料理の王道であるはずのパエリアの看板を掲げるおびただしい数のレストランをスルーしてきた。昼飯時になった頃を見計らい、大通りにあるカフェに突入し、イカ墨パエリアとサラダを食したのだが、普通にうまかったのだ。

地中海の恵みが胃腸の中で蠢いている感覚を引きずりながらガウディの代表作の一つである世界遺産マンションカサ・ミラの前に立っていた。マンションの中を見る価格としては破格であるはずの25ユーロを支払い、吹き抜けの天井からのぞく青空を見て、見学コースに設置されてあるエレベーターに乗り込んで屋上へと上がっていった。

カサ・ミラは石を積み上げたような独特の形状から、石切り場を意味する「ラ・ペドロラ」とも呼ばれている。山がテーマということでゆがんだ曲線を主張するこの建物は徹底的に直線を排除しているので私もまっすぐな気持ちで向き合わないように注意しながら特徴のある構造物を見て回った。

屋上の煙突は、山の尾根から突き出た峰峰を表しており、遠くの景色はサグラダ・ファミリアやモンジュイック城が借景となっており、いずれに絶好の記念写真スポットとして観光客渋滞に一役買っていたのであった。

屋上から螺旋階段を下ると幾何学文様の美しい屋根裏部屋に到着し、暗がりの中カサ・ミラのミニチュアが白く浮かび上がる等の嗜好がこらされていた。このフロアはガウディ作品に関する資料や模型などの展示スペースになっており、中でも観光客たちはガウディが考案した逆さづり模型を興味深く見入っていた。

螺旋階段でもう1フロア下に下りるとそこは内見可能なモデルルームになっており、カサ・ミラが建築された1910年当時の家具・調度品を配した機能的な作りとなっていた。尚、部屋は細かく分かれており、実業家のペレ・ミラとその妻および使用人のための邸宅として使われていた当時の様子がそのまま保存されている。

尚、カサ・ミラの賃料であるが、築100年とはいえ、駅近の一等地で300㎡、7部屋で月賃料わずか14万円程度ということで、すぐさま手付金を払うべく、財布に手を伸ばしたのだが、ペット飼育に関する規定がわからなかったのでやむなく断念したのだった。

ガウディ作の世界遺産マンションはカサ・ミラ以外にもいくつかあり、海をテーマにしたカサ・バトリョの前を通りかかったのだが、内見待ちの観光客が列をなしているのとマンション診断の達人「住優師(じゅうゆうし)」でもない私が、すべてを見て回る必要はないと判断したので財布をポケットの奥深くにしまって遠慮しておくことにした。

1881年にスペイン南部のマラガで生まれたピカソは美術教師だった父親の転勤にともない、14歳の時にバルセロナに移住し、多感な青春時代を過ごしていた。9歳の時から「青の時代」までの作品がおもに展示されているピカソ博物館の入場券をあらかじめwebで買っていた(11ユーロ)ので約束の5時に入館する運びとなった。展示されている絵を1枚1枚ながめていると彼の天才的な早熟ぶりを見て取ることが出来、子供にしてアカデミックな技法を完全にマスターしていたピカソの初期の作品を閉館まで堪能することが出来たのだった。

1月4日(木)
午前中に少し時間があったので、古くはローマ時代に起源を持つ、バルセロナの中心であるゴシック地区を散歩することにした。その中心に鎮座するカテドラルはバルセロナが隆盛を極めていた13~15世紀に150年の歳月をかけて建てられたものでサグラダ・ファミリアに匹敵する価値を有するものであるはずなのに入場料が無料のためか特に観光客は集まっていなかったのだ。

カタルーニャ音楽堂(世界遺産)はモデルニスモ建築の中で最も美しいといわれるモンタネールの最高傑作であり、現役のコンサートホールとして多くの音楽ファンを集めているのだが、中を見学するのは次回に持ち越しとさせていただくことにした。

バルセロナのあるカタルーニャ州はフランスとの国境に程近いこともあり、南仏への小旅行も旅程に組み入れることも出来るので、バルセロナ最大のターミナル駅であるサンツ駅から先が尖っている高速列車に乗り、ヨーロッパ最大規模の城壁が残る、フランス有数の人気観光地であるカルカッソンヌまで足を伸ばすことにした。バルセロナから遠くパリを目指す列車は満席でフランス国鉄のwebで事前にチケットを購入していなければ乗車不可能であったろう。4人掛けの席の対面に座っていたマドモアゼルがしきりに咳き込んでいたのだが、車内は特にマスクをした人もいなかったので甘んじてスペイン風邪のウイルスを浴びさせていただいた。

フランスの途中駅でTGVから先の尖りがゆるやかになった列車に乗り換え、合計3時間程度の列車の旅でカルカッソンヌに到着したのは日も傾きかけた午後4時過ぎであった。駅を出ると世界遺産ミディ運河のクルーズ船が発着する場所の近くは水門になっており、マサに水位調整の真っ最中であったのだが、ホテルへ到着するまでの時間調整の方が重要だと判断したのでひたすら城壁へ向かって歩を進めていた。

カルカッソンヌを世界的な観光地として君臨させているものは「シテ」という城塞都市であり、誰も株を買い占めて値を吊り上げ、高値で手じまい売りをする集団だとは思っていないのだが、近隣の丘がストップ高した高台に見える城塞が目に入ると「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称えられている理由がよくわかるのだ。

シテの入り口ナルボンヌ門に程近い☆☆☆☆ホテルであるオテル・デュ・シャトーにチェックインすると受付に近い快適な1号室があてがわれた。夜になると城塞はイルミネーションに照らされて浮かび上がるというので時を待ち、周囲が漆黒に包まれてると満を持して絶景の買占めに向かうことにした。

ナルボンヌ門をくぐり、緩やかな石畳の坂を歩いているとお洒落な土産物屋は店じまいの最中であった。現場感覚を養うために闇雲に歩いていると多くのレストランが客が来るのを今か今かと待ち構えていたため、とりあえず広場の中で賑わいを見せている店に入り、長靴ビールを飲みながらフランス南西部の郷土料理として有名な「カスレ」を賞味することにした。

白インゲンや豚肉等を煮込んだ熱々のカスレは味はまあまあだが、風邪を引いて声がかすれた輩にはもってこいの滋養食になるはずであろう。

1月5日(金)
一人当たり15ユーロで発注していたコンチネンタルブレックファーストは犬のガン見が付いているのでプレッシャーに耐えながら完食させていただくと、マサに青天井の相場環境に気を良くした時と同様の気分で青空の下に広がるシテの全容を解明するために再びナルボンヌ門をくぐることとなった。

カルカッソンヌのシテは、全長3kmに及ぶ城壁と、52の塔で構成されている。二重になった城壁は古代ローマ時代の要塞跡に築かれたもので、3~4世紀に造られた内壁の下部には当時の石が今も残っている。

1082~1209年にはトランカヴェル家統治のもとで絶頂期を迎えるが、アルビジョワ十字軍に屈し、城壁はその後フランス国王に占拠され、世界遺産となった今に至っているのだ。

城壁や棟を見て回るとところどころに昔の名車ジャガーのエンブレムを彷彿とさせる動物の突き出た前半身が目に付いたのだが、11世紀からの歴史を持つサン・ナセール・バジリカ聖堂のものは人間が「何ですか~」ポーズを決めているようであった。

広大なシテ内の有料エリア(10ユーロ)は長い城壁を持つコンタル城であるのだが、残されているのは石造りの構造物だけであり、内装や当時の生活様式まではうかがい知ることは出来なかった。しかしながら、はじめ人間ギャートルズが使っていた石の貨幣のようなものは確かに存在していたのだ。

魅惑のスイーツを量り売りする土産物屋をいくつか回ったのだが、特に値ごろ感がなく、購買意欲がわかなったので、手仕舞い売りをするようにシテを後にすることにした。しかし、モンサンミッシェルと並び称されるフランスの人気観光地であるこの地を訪れた観光客はそのすばらしさに皆してやられたという強い印象を持って帰っていくことになるのであろう。

バルセロナのサンツ駅に戻ってきたのは午後9時前になっており、さらに空港線に乗り換え、空港からわずか2,3km程度のBarcelona Airport Hotelまでのタクシー代として28ユーロをむしりとられながら何とかツアー最終日の寝床にありついた。

1月6日(土)
午前7時発LH1137便は定刻に出発し、約2時間のフライトでフランクフルトに到着した。ルフトハンザ航空のラウンジのスナックエリアにフランクフルトソーセージはなかったのでスープやパンを肴にしてビールとワインを流し込んだ。

午前11時30分発NH204便は定刻に出発し、羽田着が日本の早朝であることを考慮しながら血中アルコール濃度を調整して体内時計の修復を図っていた。「小さな巨人」の最終回を見ながら香川照之らの顔芸はスペインではそんなに役に立たなかったという反省も忘れなかった。

1月7日(日)
午前7時前に羽田に到着、流れ解散。

アムロはともかくコムロの引退騒動はマーク・パンサーに言わせると♪道徳もな~い、規則もない、誰も止めることの出来ないサガ♪と切り捨てられてもおかしくないだろうと思いながら原稿執筆にいそしんでいた。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥158,590
総宿泊費 EURO345.33、¥27,886
総鉄道代 EURO114
総バス代 EURO5.9
総地下鉄代 EURO13
総近郊線代 EURO6.7
総タクシー代 EURO28.8

協力 ANA、ブリュッセル航空、ルフトハンザ航空、IHG、Hotels.com、SNCF

旧ユーゴスラビア大自然の芸術ツアー in スロヴェニア、クロアチア、セルビア

かつて中央ヨーロッパに存在したユーゴスラビアという社会主義国家が紛争を伴って分裂し、古代からの歴史的都市や大自然が崩壊の危機に瀕したことがあった。しかし、そのいくつかは不死鳥のようによみがえり世界遺産としての輝きを取り戻しているのだった。

2016年6月2日(木)
午前11時発ANA231便は定刻11時に出発し、13時間弱のフライトで今なおテロに対して厳戒態勢が敷かれているはずのブリュッセル国際空港に午後4時前に到着した。次の便の乗り継ぎまで4時間程の時間潰しが必要だったので空港から15分程度でアクセス出来るブリュッセル市街に繰り出すことも考えたのだが、リスク管理の観点から安全であるはずのラウンジに立て籠もりベルギービールを痛飲して世界平和を祈願しておいた。

スロヴェニアの航空会社であるアドリア航空が運航するJP395便は定刻より少し遅れて21時頃の出発となったものの、2時間弱のフライトで定刻22時25分前にはスロヴェニアの首都リュブリャーナのブルニーク国際空港に到着した。首尾よくタクシーの勧誘に捕まると30分程度でBooking.comに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテルであるHotel Lev Ljubljanaに無事到着の運びとなった。

6月3日(金)
1991年6月に旧ユーゴスラビアからの独立を果たしているスロヴェニアの首都リュブリャーナは人口27万と非常にこじんまりとしており、旧市街も徒歩で回れる範囲内にあるので起き抜けに軽く散策してみることにした。

ルネッサンス、バロック、アールヌーヴォーなど各様式の建築物が調和した街並みの中心はプレシェーレン広場となっており、19世紀の詩人フランツェ・プレシェーレンの銅像が観光客を迎えている。広場に面して建っているピンク色のフランシスコ教会は1646年~1660年の間に建てられたものでデザインは隣国イタリアの影響を受けている。

リュブリャーナ川をまたぎ、旧市街と新市街を結ぶ小さな三本の橋はトロモストウイエと呼ばれており、この地で最も有名な橋としての地位を確立しており、絶好の記念撮影スポットとなっている。旧市街のヴォードニク広場には市場が立っており、青果や生鮮食品からこの地の特産物であるハチミツ等が安値で取引されている。

リュブリャーナ駅から列車で1時間40分ほど南西に移動し、ディヴァチャという駅で下車すると停車していた送迎バスに乗り込んでスロヴェニア唯一の世界遺産であるシュコツィヤン鍾乳洞に到着した。

スロヴェニア南西部クラス(カルスト)地方にあるシュコツィヤン鍾乳洞は長さ5km、幅230mの規模があり、そのうち2kmをガイドツアー(EUR16)で見学出来るので早速12時のツアーに参加させていただくことにした。ツアー開始前の時間にビジターセンターで洞窟の遊歩道設置工事らしい歴史を軽く学習した後、数十人の集団に膨れ上がったツアーの幕が切って落とされた。

ツアーは洞窟の入り口で現地語ガイドと英語ガイドの2組に分かれ、まず英語集団が暗闇へと歩を進めた。年間を通して12℃に保たれた洞窟内はひんやりとしており、1㎜成長するのに100年くらいかかる鍾乳石が悠久の時を経て巨大な柱となっている自然の造形美に畏敬の念を抱かずにはいられなかった。

ツアールート上には「沈黙の洞窟」、「ドリーネ」と呼ばれる地底湖などの見どころがあるのだが、最大のハイライトは地底に眠る深さ250mの大峡谷である。鍾乳洞内部にはユリアン・アルプスの山から流れ出した雪解け水が川となって地底を削り、峡谷に近づくにつれ、その轟音は大きくなり、郷ひろみが♪君たちおんなのこ♪と歌っても、♪僕たちおとこのこ♪と音程を外しても♪ゴーゴー♪という音しか返ってこないのであった。尚、この大峡谷はヨーロッパのグランドキャニオンとの異名を取り、吊り橋の上から見るとマサに地底に吸い込まれる程の迫力を誇っている。

1時間半ほど暗闇を歩き回り、前方に光明が差し始めた所でツアーは解散となった。ガイド曰く、この先はエレベーターで地上に出るか、400段ほどの階段を風光明美な景色を楽しみながら這い上がるかは自分たちで決めやがれとのことだったので、ダイエットを兼ねて困難な道に立ち向かうことにした。

うっそうとした森の隙間には今なお洞窟を削っている川が白日の下にさらされており、あらためてその神秘と迫力が心に刻まれた。階段を登り切った先はこじんまりとした集落になっており、いくつかの見どころが点在していたのだが、体力の限界が迫っていたのでそそくさとビジターセンターへの帰路を急いだ。

世界遺産という看板につられてシュコツィヤン鍾乳洞観光の優先度を上げていたのだが、スロヴェニアにはその他にもヨーロッパ最大の鍾乳洞も君臨しているのでそちらの方にも足を伸ばしてみることにした。列車でリュブリャーナ方面に30数キロほど戻り、ポストイナという駅で下車して20分ほど歩くと巨大な観光地の看板が目の前に現れた。

ヨーロッパ最大の大きさを誇るポストイナ鍾乳洞は、1818年に初めて調査隊が入って以来、スロヴェニア有数の観光地に成長し、毎年100万人近い観光客を集めているという。何とか17時スタートの最終ガイド付きツアー(EUR23.9)に潜入することが出来たのだが、ツアーの参加者の多さはともかく、洞窟内での徒歩での散策開始地点まで列車を走らせていることに度肝を抜かれてしまったのだ。

マサにテーマパークと言っても過言ではないわくわく洞窟ランドの内部は写真撮影禁止のシュコツィヤン鍾乳洞と異なり、フラッシュを焚かなければ撮影可能なのでライトアーティストが絶妙に配置した照明を巧みに利用して自然の造形美を思う存分フラッシュメモリーにため込むことが出来るのである。

尚、ガイドによるとスロヴェニアは洞窟の宝庫ということで、国の全人口200万人の一人に一つづつMY洞窟をあてがうことが出来るとのたまっていた。日本にも福岡県北九州市の平尾台千仏鍾乳洞や山口県美祢市の秋芳洞等で洞窟体験は可能であるが、スロヴェニアの鍾乳洞はマサに日本のものとは比較にならないワールドクラスの規模であることが確認出来たのであった。

6月4日(土)
昨日は洞穴の探検に終始したので、今日は朝から地上の方を見物すべく朝からリュブリャーナの旧市街をぶらぶらしていた。三本橋トロモストウイエの東にもいくつか橋がかかっており、その近辺にシュールなオブジェや銅像が構えているのだが、「竜の橋」の欄干に佇む4頭の竜がリュブリャーナ市の象徴として崇められている。

旧市街を一望出来るリュブリャーナ城が高台にそびえているのでケーブルカーを使って入城(EUR10、ケーブル代込み)してみることにした。1144年に建設されたリュブリャーナ城は、中世のハプスブルグ家の支配等を経て1905年にリュブリャーナ市に買収されて現在に至っている。

城内には展望塔のほか、歴史博物館やハチミツ博物館、操り人形博物館等見どころも多く、観光客や市民も終日ここで楽しむことが出来るのだ。

ドイチェバーンが運行する2階建てバスがミュンヘンからリュブリャーナ経由でクロアチアのザグレブまで運行しているので12時40分発のバスに乗り、約2時間半の時間をかけて三浦知良もクロアチア・ザグレブのサッカーチームの一員として滞在した実績を持つザグレブに到着した。今回宿泊する☆☆☆☆ホテルであるDouble Tree Zagrebはバスターミナルから徒歩圏内だったので、速やかにチェックインを試みたのだが、部屋の準備が遅れているとのことでロビーでしばらく待たされたものの、部屋に荷物を置くとすぐにザグレブ市街地の散策に乗り出すことにした。

街を縦横無尽に行き来するトラムに乗ってイエラチッチ広場で下車すると小高い丘を登って旧市街へと突入した。ふと空を見上げると高さ100mあまりの尖塔が天を指す聖母被昇天大聖堂が目立っていたので入ることにした。13世紀~18世紀にかけて建てられた、ザグレブのシンボルであるこの大聖堂は1880年の大地震後に修復され、ネオゴシック様式を取り入れて現在の外観になっている。内部には、ルネッサンス様式の祭壇やバロック様式の説教壇等が厳かに配置され、信者たちが静かに祈りを捧げていた。

一旦丘から降りてイエラチッチ広場を西に移動するとケーブルカー乗り場を発見した。この路線は高低差わずか20m、片道30秒ほどの運行で坂が苦手な人にはうってつけの乗り物なのだが、なぜか運航停止になっていたので隣の階段で丘を駆け上がった。坂の上には2つの紋章をモザイクで表現した聖マルコ教会が鎮座しており、その前には中世のいでたちをした役者系の人物が立ちふさがり、観光客の被写体として賑わいを後押ししていたのだ。尚、聖マルコ教会は、13世紀に建てられたゴシック様式の教会で、屋根の紋章の向かって左側はクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方を表し、右側はザグレブ市の紋章である。

夕暮れ時になると雲行きが怪しくなってきたので繁華街にある人気のシーフードレストランでおすすめの柔らかいイカやタコの料理に舌鼓を打っていると雷雨が炸裂し始めたのでしばらく雨宿りをしながらザグレブの夜は更けていったのだった。

6月5日(日)
ザグレブから南へ約110kmのところに荒廃の危機を乗り越え、今なおひっそりと佇む森と泉に囲まれた楽園があると聞いていたので満を持して行ってみることにした。ザグレブのバスターミナルからモデルは古いがWiFiが使える長距離バスに乗り込み約2時間半で到着した場所はプリトヴィッツェ湖群国立公園である。

年間約80万人の観光客が訪れる世界的に有名な湖群公園は1949年に国立公園に指定され、1979年に世界遺産に登録されたのだが、1990年代の紛争による被害により、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に登録されもしたが、現在は幻想的で美しい湖群の姿を取り戻し、リストからも除外されたのだった。

公園に到着してまず驚いたのは入園を待つ観光客の多さであった。公園には入口が2つあるのだが、FTB一行が到着した入口1の方は団体客でごった返しており、何とかチケット売り場への列を確認するとKn110の入園料を支払って森の国でのトレッキングが始まった。

200km2の広さを誇るプリトヴィッツェには大小16の湖と92カ所の滝が程よい高低差でちりばめられており、エメラルドグリーンの湖水を見ているとマサに心が洗われるような感覚さえ覚えるのだ。

広い園内を移動するために遊覧船系の渡し船とエコロジーバスが運行されているのだが、料金はいずれも入園料に含まれている。早速遊覧船で大きな湖を横断し、上陸して本格的なトレッキングをスタートさせた。

園内には木道が張り巡らされ、その上を渋滞した観光客が秩序正しく歩き、滝の前では一様にマイナスイオンを浴びながら記念撮影に明け暮れることとなる。公園内には、321種の蝶、161種類の鳥および21種類のコウモリがこれまでの研究により発見され、大きな捕食動物としてオオカミやヒグマも潜んでおり、特にクマは公園のシンボルマークとなっているのだ。

遠目からはエメラルドグリーンに見える水も近づくと透明度が高く、餌を求めて近づいてくる淡水魚の魚影もくっきり見えるのだ。

途中雨に降られたものの、夕刻までクマに遭遇することなく園内をクマなく散策出来たので、17時15分の路線バスで無事ザグレブへの帰路につくことが出来たのだった。

6月6日(月)
今では分裂してしまったユーゴスラビアであるが、首都としてユーゴスラビアを統括していたのがベオグラードである。ということで、午前9時にややオンボロ系のバスに乗り、車窓を流れる地平線を見ながら6時間かけてセルビアの首都ベオグラードまでやってきた。

ベオグラード本駅に隣接するバスターミナルに着いたは良いが、初めて来た場所では当然右も左もわからず、小さな駅のインフォメーションも係りが留守の様子だったので、ホテルまでの移動をタクシーに託すことにした。駅前に停泊しているタクシーのおやじに宿泊先であるHoliday Inn Expressを地図を見せながら説明すると10ユーロで連れて行ってやると言ったので乗車したのだが、案の定おやじは間違ったHoliday Innに連れていきやがった。ホテルの係員のサポートで運転手のおやじに正しい場所をインプットしてHoliday Inn Expressにたどり着いたのだが、何とおやじは自分のミスを棚に上げてさらなる20ユーロを要求しやがった。通常であれば当然却下となるのだが、このおやじは舛添知事なみの神経の持ち主に違いないと感心させられたのでチップ代わりに明細書付領収書なしで12ユーロを渡しておいた。

Holiday Inn Expressのフロントギャルは非常に親切で、当ホテルはまだ新しいのでタクシー運転手は場所を理解しないかも知れないとのたまっていた。地図をもらってホテルの場所と駅や繁華街の場所を照らし合わせるとどこでも徒歩で行けることが確認出来たのだった。

というわけで、ベオグラードの繁華街や見どころに繰り出すことにしたのだが、最初に私の目を引いたのは大学と思われる建物の前で読書をしている二コラ・テスラの銅像であった。

この地は日本との関係もそれなりにあるようで市内を走るバスのいくつかは日本から寄贈されたものらしく、ボディにセルビアと日の丸の交差がペイントされていた。さらに、「お寿司プレー」という名の日本食屋を発見したのだが、残念ながら空いていなかったのでイカ、タコ、マグロ等の着ぐるみを来たシェフが握るであろう寿司を賞味することはかなわなかった。

旧社会主義体制の威光を残す重厚な建物が立ち並ぶ大通りとSTARI GRADと呼ばれるカフェやショップが立ち並ぶ目抜き通りを抜けるとカレメグダン公園という憩いの場所に到着した。ベオグラードは美しき青きドナウ川とサヴァ川が交わる場所に位置するバルカン半島の交通の要衝で、紀元前4世紀にはすでにこの場所に要塞が造られていたという。現存する建造物は18世紀以降に造られたものであるが、城壁を守るように配置されている紛争時に使われた武器や戦車、恐竜をアセンブルしてジュラシックパークもどきを建設している様子が特に印象に残った。

カレメグダン公園内に2つの美しい教会がある。聖ルジツァ教会は甲子園球場のように蔦で覆われた外観が神秘的でその下にある聖ペトカ教会には息を飲むほど美しいモザイクの壁画が人々を引き付けていたのだった。

6月7日(火)
ベオグラードの中心部に君臨する国会議事堂の前面に紛争の空爆等で亡くなった人たちを忘れるなという横断幕が掲げられている。その国会議事堂から南西へと延びるクネズ・ミロシュ通りは官公庁の建物が多く、別名「空爆通り」と呼ばれており、1999年に起きたNATOの空爆の際には通り沿いの建物も標的となり、次々に破壊されていった。いくつかの建物は広島の原爆ドームのようにいまだに破壊されたままの姿で残っており、廃墟を見上げていると通りすがりのおっさんが、「ここにアメリカのゲス野郎が爆弾を落として行きやがったのさ!」と捨て台詞を吐いて去って行ったのだった。

空爆にも参加したそのアメリカのシリコンバレーにテスラモーターズという電気自動車の製造会社がある。日本の自動車メーカーは矢沢永吉に「やっちゃえ日産」と言わせて喜んでいるが、テスラはすでに自動運転を実用段階までやっちゃっている会社なのである。私も数年前にこの会社の面接を受けてからここに注目しているのだが、この社名はセルビア人の物理学者の二コラ・テスラにちなんでおり、その博物館がベオグラードにあるということで謹んで訪問することにした。

二コラ・テスラがセルビアの通貨100デナール(RSD)の肖像画に採用されている縁で入場料は100デナールであることを期待したのだが、500デナールの支払で彼の発明品が数多く展示されている館内に入場させていただいた。交流電流や無線トランスミッターなどの発明でエジソンに匹敵する科学者である二コラ・テスラのニコりともしない肖像画を見ながら、テスラ社のイーロン・マスクCEOがその仮面の下で考えている次なる戦略にも思いを馳せていた。

尚、この博物館はテスラ社の後援は受けていないようで、代わりにサムソンが協賛しているというパネルが誇らしげに展示されていた。また、定時が来るとテスラコイルを使った空中放電実験が行われており、コイルの放電とともに子供たちが手にした蛍光灯が怪しい光を放っていた。

実験のための電気代は使っているが、トイレのない二コラ・テスラ博物館を後にして、トイレ休憩を兼ねたコーヒーショップでハートマークのカプチーノを召し上がると東方正教系の教会としては世界最大の規模を誇り、セルビア正教の中心的教会である聖サヴァ教会へ向かった。噴水に彩られ、市民の憩いの場になっている正面広場から教会内に入ると内部は大規模な工事中であったが、信者達は恭しく十字を切り、体を半分に曲げるほど深いお辞儀をしてイコンに口づけを交わしていた。

オンボロ系のトラムでベオグラード本駅に移動し、そこからバロック風の塔が印象的なセルビア正教大聖堂をチラ見してリュピツァ妃の屋敷(RSD200)を見学した。屋敷自体は第2次セルビア蜂起の指導者として、オスマン朝からセルビアの自治を獲得したミロシュ・オブレヴィッチのものであるが、その夫人の名前を冠しており内部は1832年の建設当時のように装飾されているので、当時の生活様式を少なからず垣間見ることが出来るのだ。

夕飯時になったので、ホテルの人も推奨するスカルダリアという郷土料理店が密集しているエリアで地元の味を賞味させていただくことにした。伝統衣装を身にまとった客引きをかわしながらドゥヴァ・イェリナというレストランのテラス席を占拠し、セルビアの国民酒と呼ばれる蒸留酒であるラキアのプラム味とアプリコット味で喉の奥を焼きつかせながらムツカリツァという豚肉をトマトとパプリカで煮込んだ料理を向かいの店から流れるライブ演奏に耳を傾けながら堪能したのだった。

6月8日(水)
早朝3時半に目を覚まし、4時のモーニングコールをスルーして4時半に予約しておいたまじめなタクシーで二コラ・テスラ・ベオグラード空港に向かった。6時15分発ルフトハンザLH1411便は定刻通りに出発し、2時間のフライトでフランクフルトに到着した。ラウンジでドイツビールを軽飲しながら4時間余りをやり過ごし、12時10分発ANA204便に乗り継ぐと11時間以上の浪漫飛行が待っていた。

6月9日(木)
午前7時前に小雨の羽田空港に到着し、舛添狂想曲たけなわの雰囲気を感じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \137,440
総宿泊費 EUR222.04、HRK883.1(HRK1= \16.7)、RSD15,894.76(RSD1 = \1)
総タクシー代 EUR67、RSD2,200
総バス代 EUR18、HRK425
総鉄道代 EUR14.74
総トラム代 HRK40

協力 ANA、アドリア航空、ルフトハンザ航空、Booking.com、Hiltonhhnors、IHG

FTB地中海に浮かぶ神話の国キプロスツアー

ハッピーニュー マサよ!

ということで、日本における淡路島のようないでたちでトルコの南の東地中海にぽっかりと浮かぶキプロスは、日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、世界的なリゾートアイランドとしての地位を確立している。冬場はリゾートはオフシーズンとなるのだが、この国にまつわる神話を求めてやってくる観光客は後を絶たないのである。

1月6日(火)
トルコ航空チケットに含まれている羽田発関空行きのANA便で関空に移動し、551の豚まんをかじって時間を潰した後、23:20発TK47便に乗り込んだ。シートTVの故障発生率の高さを気にすることなく、フライト中は機内で意識をなくすことに専念しながら12時間あまりをやり過ごしたのだった。

1月7日(水)
強い寒波が到来していると見られるイスタンブールのアタチュルク空港に到着したのは夜明け前の午前5時半頃であったのだが、あたりが明るくなるにつれ、雪化粧した空港模様が鮮明になってきた。とりあえず、トルコへの一時入国を果たし、Baggage Claimで荷物が出てくるのが著しく遅かったことを大阪からの乗客とともに集団提訴して溜飲を下げると、エーゲ航空のカウンターで次の便のチェックイン手続きを行った。

9:30発A3991便は定刻どおりに出発し、11時前に底冷えのするアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港に到着した。ラウンジで2時間ほど時間を潰すと14:00発A3904便に搭乗し、午後4時前にキプロスのラルナカ国際空港に到着した。早速priceline.comで最安値で手配しておいたレンタカーをピックアップしにAVISのバンに乗り込み事務所に向かうと私に与えられたのはシボレーの右ハンドル小型マニュアル車であった。

英国連邦加盟国であるキプロス共和国では車は日本と同じく右ハンドル左側通行なのだが、何故かシボレー車のウインカーとワイパーのレバーが日本車と逆であることに違和感を覚え、クラッチのつながり具合を左足にたたきこみつつ空港を後にした。ラルナカから高速道路に乗り、ギアを5速に叩き込んで1時間程北上するとキプロスの首都レフコシアに差し掛かった。市内でホテルの位置はすぐに特定出来たのだが、駐車場の位置を見極めることが出来なかったのでそのままやり過ごすと再びホテルに戻ってくるまでに1時間程の時間を要してしまった。

Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであれば1泊あたりEUR76くらいかかるところを私はただで2泊出来るHoliday Inn Nicosia City Centreに何とかチェックイン出来たのは午後7時前であった。オフシーズンのためか、ボンザイ・ジャパニーズ・レストランをはじめとするホテル内部のレストランが休業していたので街中のケバブ系のレストランで肉を食らい、今夜は早々と休ませていただくことにした。

1月8日(木)
キプロスの1万年の歴史を効率よく学習するために紀元前7000年の新石器時代からビザンチン前期までの貴重なコレクションを並べたキプロスで最大のキプロス考古学博物館(EUR4.5)を見学することにした。扉を引いて館内に踏み込むと、そこはカラフルな色彩で装飾された陶磁器類やユニークな容姿や容貌を持つフィギュアの宝庫であり、キプロスの古代からの文化レベルの高さを思い知らされたのだった。

神話の国キプロスにはいくつかの世界遺産があるのだが、ラルナカから南西に30km程進んだところにヒロキティア(EUR2.5)という紀元前7000年頃の住居跡が残っているとの情報を入手していたので早速見に行くことにした。当時の人々は、丘の斜面に近くの河原の石を土台にワラを混ぜた土レンガで円形の住居を造り、集落を形成して狩猟、農業、牧畜で生計を立てていた。その住居の残骸がかろうじて土台のみ残っており、寒々とした雰囲気の中でも当時の生活の名残を今に伝えているのである。

また、丘の麓には円形住宅のレプリカが設えられており、質素な住居内の様子や生活、死者の埋葬方法などを窺い知ることが出来るような構成となっているのだ。

ラルナカ空港に程近い場所に冬場に塩水をたたえるソルト湖がたたずんでおり、野鳥の楽園を形成しているとのことだったので足をのばしてみることにした。湖近辺に到着したところ、最初は雑草の生えた殺風景な水溜りにしか見えなかったのだが、湖は意外に広く、道路を挟んだ向かいの湿地に目を転じてみるとそこはももいろクローバーを思わせるようなピンクの羽で埋め尽くされていた。

夕暮れ時にレフコシアに戻り、城壁に囲まれた旧市街を改めて見て回ることにした。レフコシアは観光というよりもキプロスのビジネスの中心地であるのだが、観光用と思われる胴長タクシーがホテルの近くに何台か待機していた。

16世紀のヴェネツィア時代に建てられた城壁に沿って歩を進めているとファマグスタ門という全長45mの巨大な建物に到着した。扉を押して中に入ると内部はほとんど空洞状態なのだが、現在はカルチャーセンターとして人々のカルチャーショックの緩和に役立っているという。

1月9日(金)
キプロス島の地図を見ると、この島を東西に貫く1本の線が引かれていることがわかるのだが、これは1974年に起きたキプロス紛争の結果設けられた南北を分断するグリーンラインで、国連平和維持軍により今も監視されている。グリーンラインの北側はトルコ以外には独立国として承認されていない「北キプロス・トルコ共和国」となっているのだが、今では南北間の往来もかつてより柔軟になっているという。尚、グリーンラインの北側はトルコ系住民が住んでいるエリアであり、南側はギリシア系住民の居住地なのでキプロスを旅しているとキプロス自体の国旗よりもギリシアの国旗を多く目にするのである。

キプロスの首都レフコシアは城壁で囲まれた旧市街をグリーンラインで分断されているのだが、その周辺は特に危険地帯でもないので軽く見学させていただくことにした。レフコシアには南北を行き来できるクロスポイントが設けられているのだが、そこでは国連軍のおじさんが厳しく目を光らせており、多少重苦しい雰囲気が感じられたので写真を撮るのは遠慮しておいた。

新石器時代までさかのぼる歴史を持つレフコシアを後にして、キプロス島を横断すべくシボレー小型車のアクセルを踏みしめていた。キプロスは国土の4割近くが森で、中央には標高1951mのオリンポス山を頂点とした山岳地帯が広がっている。トロードスという避暑地として人気のあるエリアを目指して高度を上げていったのだが、折からの寒気のために山岳地帯には雪が積もっているため、ノーマルタイヤの小型車では峠を越えることが出来ないと判断したため、途中で山登りを断念せざるを得なかった。

山道を慎重に下り、南岸の海岸エリアに差し掛かり、さらに島の西部に向かって走っているとペトラ・トゥ・ロミウという看板が目に飛び込んできた。あまりにも海の色が澄んでいるので車を降りて見学すると、ここは美と愛欲の女神であるアフロディテ(ビーナス)が海の泡から生まれたとされる場所であると知り、思わず泡を食ってしまったような感覚を覚えたのだ。

アフロディテ生誕の地に程近い場所にはアフロディテ神殿(EUR4.5、世界遺産)が君臨しており、これはミケーネ文明時代のものと思われる神殿跡で、アフロディテ伝説の基になったものと伝えられている。

神殿にはパレパフォス博物館が隣接しており、そこに収められている高さ1mほどの黒いアフロディテの石は、子供に恵まれない女性が子宝が授かるようにとお願いにやってくるほどの実力を持つ聖なる石なのである。さらに館内には「見返りアフロディテ」を現した鮮明なモザイクが展示されており、風雨にさらされるはずの元々あった敷地にはレプリカが設置されていた。

ギリシア神話のヒロインであるアフロディテを要するキプロスの主要観光地をはしごしてその実力を思い知ることが出来たので、世界遺産の街であるパフォスの北部にあるHotels.comに安値で予約させておいたキャピタルコーストリゾート&スパに引き篭もり、オフシーズンのリゾート気分を堪能させていただいた。

1月10日(土)
早朝よりリゾート猫の先導で敷地の海岸を散策した後、ホテル近くの海岸沿いで掘り返されている王族の墓(EUR2.5、世界遺産)を見学させていただくことにした。。現在発掘されている墓は11ヶ所で、いずれも紀元前3世紀頃のものであるが、誰の墓であるのかはいまだに解明されていない。しかし、暴かれた墓の大きさや壮麗さから当時の支配者の権力の強大さをうかがい知ることは出来るのだ。いくつかの墓の中には石彫刻の柱もあり、死後の神殿のような様相さえ呈しているのだった。

町中が世界遺産で溢れているパフォスはキプロスの西岸に位置し、気候に恵まれているため、かつてはキプロスの首都として栄えていた。その繁栄の名残がパフォス考古学サイト(EUR4.5、世界遺産)で手厚く保存されている。パフォス港に面したこの場所はマサに紀元前2世紀~紀元前4世紀まで都だった町で野外劇場や集会場といったファシリティの面影がかろうじて残っている。

このサイトの最大の見所は色鮮やかに残っている美しいモザイク画の数々で、ディニオスの館、テセウスの館、エオンの館といった相当の部屋数を誇るかつての有力者の屋敷跡の床に当時の色彩そのままにへばりついているのである。

温暖な気候を誇るパフォスとはいえ、雨模様のこの日は異常な寒さで、手もちぶたさのシーフードレストランが立ち並ぶ港の突端のパフォス城(EUR2.5)にのぼり、寒風にさらされてみることにした。この城はビザンティン時代、港を守るための砦として造られ、13世紀に城として再建された歴史を持っている。その後、オスマン・トルコがキプロスを支配したときに再々建され、今に至っているのである。

オスマン・トルコの台頭のせいか、キプロスにはキリスト教が弾圧されていた時代があり、その当時にひっそりと礼拝、埋葬に使われていた小さな穴蔵が聖ソロモンのカタコンベとして奉られている。人々の祈りがしみ込んだ白い布きれが無数に結び付けられている木の横の石の階段を下りると暗がりにフレスコ画やイコンを目にすることが出来る。最深部の穴の中には水が湛えられており、その水は目に良いので水をつけた布を木に結びつけ、眼病完治の祈願をしたそうだが、暗がりの中で水の存在を見過ごしてしまった私はビシャっとズボンの裾を浸してしまったのだ。

寒風で濡れたズボンを乾かしがてらカタコンベの近くにある聖キリヤキ教会に移動した。ここには「聖パウロの柱」という使徒パウロが縛られムチで打たれたという話の伝わる円柱がある。この体罰の理由は、無知なパウロの使途不明金を追及するものではないのだが、最終的にはパウロはムチ打ちの刑を命令したローマ提督をキリスト教に改宗させたという実績をあげたのだった。

ムチ打ちの恐怖がズボンの乾きを早めたところでパフォスを後にしてキプロス第二の都市、南岸のレメソスに向かった。Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればEUR94.5くらいかかるところを私は1泊分のみただで泊まることが出来るクラウンプラザ・リマソルにチェックインすると美しいビーチを眺めながら軽くリゾート気分を味わった。日が暮れると海上には釣り船の灯りがともり、アフロディテのお膝元と相まってムードが高まっていったせいか、隣室から美と愛欲を実践するうめき声が夜通し聞こえてきたのであった。

1月11日(日)
ホテルの目の前のビーチは絶好の釣り場となっているようで、地元民や観光客が早朝から競うように釣り糸をたらしているのを横目に海岸を散策した。

昨日とは打って変わった好天に恵まれ、さらにシボレー小型車も体に馴染んできたこともあり、今日は再び山岳地帯を攻めてみることにした。ここ数日のキプロス滞在中に雪が解けていることを期待したのだが、トロードスへ向かう山道は積雪からアイスバーンに変貌を遂げようとしていた。このような路面状態にもかかわらず、高度が増すにつれ、山岳地帯に向かう車の列が長くなってきた。今日は日曜ということもあり、世界遺産に指定されている壁画教会群への巡礼渋滞かと思ったのだが、実際は多くの家族連れがオリンポス山周辺での単なる雪遊びに向かっていたのだった。

結局警察の交通規制に阻まれ、トロードス地方の世界遺産にはたどり着けなかったので、低速エンジンブレーキを駆使して慎重に下山することを余儀なくされた。無事にレメソス市内に帰還出来たので、その勢いをかってさらなる遺跡巡りに精を出すことにした。レメソス市内から東に11km程進んだ所にアマサスの古代遺跡(EUR2.5)が廃墟のいでたちで観光客を待ち構えている。高台にあるこの遺跡はキプロスの最も重要な古代遺跡のひとつと位置づけられており、現在も粛々と発掘作業が続けられているのだ。

1月12日(月)
昨夜も隣室からの愛欲のうめき声にうなされていたにもかかわらず、5時前には起床してそそくさとラルナカ空港へと向かった。8:30発A3991便の窓からはラルナカ市街地と青く澄んだ地中海のコントラストが見下ろされ、山岳地帯への再訪を誓いながら帰路に着いた。アテネで13:40発A3992便に乗り換え、さらにイスタンブールで17:15発TK50便に搭乗し、一路成田を目指していた。

1月13日(火)
定刻11:30前に無事成田に到着し、少子化問題対策としての美と愛欲の大切さを噛みしめながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 トルコ航空 = \71,130、エーゲ航空 = EUR262.41
総宿泊費 \7,891、EUR94.5
総レンタカー代 \6,167、EUR73.09
総ガソリン代 EUR36.01

協力 トルコ航空、エーゲ航空、Priority Club、Hotels.com、AVISレンタカー、priceline.com

FTBモン・サン・ミッシェルツアー with モンテカルロで乾杯

ボンジュール マサよ! 鯖(サバ!?)

ということで、アベノミクスの失速と消費増税による物価高で日々悶々とした生活をおくっている今日この頃であるが、この閉塞感を打破するために屈指の世界遺産であるモン・サン・ミッシェルと金持ちが集結するモンテカルロを巡るモンモンツアーが開催される運びとなったのだ。

10月22日(水)
羽田空港の国際線ANA SUITEラウンジでカレー朝食を召し上がり、10:25羽田発NH215便に搭乗すると機内エンターテイメントプログラムで放映されている映画「イブ・サンローラン」、「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」、「万能鑑定士Q -モナ・リザの瞳-」を立て続けに見ながら今回のフランス生活の予習を行っていた。

飛行機は定刻の午後3時半過ぎにパリのシャルル・ド・ゴール空港に到着すると列車と地下鉄を乗り継いでパリ18区に移動し、Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればEUR250くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Paris – Porte De Clichyに引きこもって英気を養わせていただくことにした。

10月23日(木)
夏時間と日の出の時間の関係で午前8時過ぎにあたりがようやく明るくなったので、ホテルを後にしてPorte De Clichy駅から通勤客に揉まれながら満員の地下鉄に乗り込んだ。車内でいい仕事をしているスリの気配を感じてディフェンスを固めているうちにモンパルナス駅に到着すると早速TGVのチケットを求めて自動販売機を操作したのだが、午前中発の列車は1stクラスしか空いていなかったのでより良いチケットを求めて窓口に向かった。首尾よく英語が通じる窓口が空いたので、そこで何とか午後2時発のレンヌ行きTGVと乗り継ぎバスによるモン・サン・ミッシェル行きの往復チケットを入手することに成功した。尚、モン・サン・ミッシェルまで通しで行けるルートの便は非常に限られているのでチケットは早めに購入しておくことが重要だとの教訓が刻まれたのだった。

予期せず手にした午前中の空き時間を利用してフランスが誇る世界遺産であるセーヌ河岸の散策と洒落込むことにした。凱旋門で地下鉄を降りてシャンゼリゼ通りを闊歩しているとグラン・パレ国立ギャラリーの重厚な建物が見えてきた。そこでは親日国であるフランスのお国柄を反映するようにユニクロをスポンサーとした北斎展の看板が誇らしく掲げられ、入場を待ちきれないムッシュやマダムたちが長蛇の列を作っていたのだ。

エッフェル塔に見送られ、コンコルド広場を駆け抜けてチュイルリー公園で一休みすることにした。園内はパリ見物で疲れた観光客が小休止出来るよう多くの椅子と彫刻やオブジェが配置され、野外美術館の様相さえ呈しているのである。

ルーブル美術館への入場を待つ長蛇の列を見てモナ・リザの瞳を鑑定する気分が萎えてしまったので、ピラミッドを遠巻きに眺めつつ、パリ発祥の地であるシテ島まで流れることにした。豪華絢爛たるノートルダム大聖堂の雄姿を一目見てシテやったりと満足すると地下鉄でモンパルナスに戻って来た。

14:08発TGV8623号は定刻どおりモンパルナス駅を出発すると16:16にフランス最西端ブルターニュ地方の中心都市であるレンヌに到着した。そこからさらにバスに乗り継ぎ、モン・サン・ミッシェルのバス停に着いたのは午後6時であった。バス停とモン・サン・ミッシェルの間には無料のシャトルバスが頻繁に往復しているので満員の乗客に押し込まれるようにシャトルに乗り込んだ。

モン・サン・ミッシェルへとつづく干潟は再生プロジェクトの最中で19世紀に築かれた従来の堤防道路を撤去して近々開通となるであろう海水を通すことの出来る橋のような道路を伴っていた。シャトルバスを降り、海に浮かんでいるような幻想的な要塞に向かって歩を進めていくと、中世に一歩ずつタイムスリップしていくような感覚を覚えた。

周囲約900m、高さ約80mの島内に足を踏み入れ、砦の守りを固めるため15世紀に建てられた王の門をくぐるとグランド・リュというメインストリートに差し掛かった。通りの両側にはおびただしい数の土産物屋が並んでいたのでタイムトラベルの時計が中世から現代に逆戻りしてしまった。島内にはいくつかの☆☆☆ホテルが高値で営業しており、そのうちの一つのオーベルジュ・サン・ピエールをagodaに予約させていたので早速チェックインすると黄昏時のモン・サン・ミッシェルを散策することにした。

島が難攻不落の砦だった頃の面影を今に伝える城壁に沿って歩いていると見張り台に到着した。ここからはモン・サン・ミッシェル湾が一望され、時間帯によっては潮のダイナミックな満ち引きを目の当たりにすることが出来るのだ。

日帰り観光客も帰路につき、島内に閑古鳥が鳴き始めるとモン・サン・ミッシェルが一日で最も神秘的な時間を迎えることとなる。ライトアップされた修道院は周囲が暗くなるにつれて輝きを増し、その幻想的な光景はモン・サン・ミッシェル地区に宿泊したもののみが得られる特権となっているのである。

10月24日(金)
朝起きるとあいにく雨模様となっていたのだが、これも中世の風情を高めるための一興だと割り切って、今日は島内を隈なく見て回ることにした。まずは、昨晩神秘を演出した夜景スポットに戻ってみるとかろうじて水溜りが残っており、修道院の姿を写し取る鏡のようになっていた。

モン・サン・ミッシェルとその湾はフランスを代表する世界遺産となっており、中世から脈々と歴史を積み重ねてきたのだが、その一端を垣間見るためのいくつかのミュージアムのセット券(EUR9)を購入してまずは歴史博物館に入ってみることにした。館内は中世の暮らしぶりを今に伝える家具調度品や武器のコレクション、牢獄だった頃の凄惨さを伝える蝋人形や拷問器具、鋼鉄のTバックなど、思わず背筋が寒くなるような展示品でにぎわっていた。

歴史博物館を抜けると島と一体化してそびえたつ修道院(EUR9)の入り口にたどり着いたのでそのまま入ってみることにした。修道院は966年に建築が始まり、数世紀にわたって繰り返されてきた増改築の様子が模型として展示されている。

モン・サン・ミッシェル修道院は、他の修道院とは似ても似つかない独特の様式を持つ建造物である。このモン(岩山)のピラミッドの形を念頭に置きながら、中世の建築家の巨匠たちは、花崗岩の岩山の周囲に建物を巻き込むような形で作りこんでいったのだ。

修道院の尖塔上には黄金の聖ミカエル(仏語でミッシェル)像が鎮座しているのだが、8世紀のはじめにアヴランシュの司教であった聖オベールが夢の中で大天使ミカエル(サン・ミッシェル)の「この地に修道院を建てよ」というお告げを聞いて建設が始まったという。

正午を回った時間帯に修道院の鐘の音が鳴り響き、上層階の付属教会で礼拝が始まったので悶々としながらも見届けることにした。修道僧と尼による賛美歌の合唱により教会は厳粛な雰囲気に包まれ、約1時間後の礼拝終了までその場を動くことが出来なかったのだ。

西のテラスから湾を展望すると干潮になった湾を歩く人々の姿が見受けられるのだが、ひざまで砂洲につかりながら干潟を歩くツアーが人気を博しているという。尚、この付近一帯は潮の干満の差が激しいことで知られており、満潮時には驚くべき速さで潮が満ち、島全体が水に囲まれてしまうため、多くの巡礼者が命を落としてしまったのだ。

修道院の上層、中層、下層を隈なく見て回るとちょうど昼飯時になったので、有名なレストラン「ラ・メール・プラール」でオムレツを召し上がることにした。もともと巡礼者が気軽に食べられるようにと考案されたオムレツだが、今では高級料理に成り上がっており、デザート付のランチセットを楽しむためにはEUR30の出費を強いられてしまうのだ。ただし、EUR30は節約したいが、気分を味わいたい輩のためにキッチンの前ではふわふわオムレツ作りの実演まで行われ、観光客の食欲増進に一役買っているのである。

モン・サン・ミッシェルのツアーガイドの写真は通常見栄えの良いA面が使われているのだが、裏に回りこんでB面を見てみるとそこは自然の岩とうっそうと茂る木立で覆われている事実が確認できたので、中世の幻影とラ・メール・プラールのクッキーを手土産に17:20発のバスとTGVを乗り継いでそそくさとパリに帰って行った。

10月25日(土)
♪ふ~ゆのリビエラ、おことってやつは 港を出てゆく ふ~ねのよ~だね 悲しけ~れば 悲しいほど 黙りこむもんだね~♪

というわけで、TGVの1stクラスチケットをあらかじめ安値で購入していたのでパリのリヨン駅から8:41発TGV26403号に乗り、7時間近くかけて森進一も推奨するはずのリビエラ地方までやってきた。フランス最大のリゾート地であるコート・ダジュールのニース駅で下車してagodaに予約させておいた駅前のHotel Ibisにチェックインすると「リビエラの女王」との異名を持つニースの町並みの見物に繰り出すことにした。

旧市街を抜け、高台にある展望台から海岸線を見下ろすとそこには陽光降り注ぐ「天使の湾」が広がっていた。海岸に下りてみるとそこは砂浜ではなく、丸石で覆われたビーチになっており、遅れてきたリゾートを堪能している海水浴客が数多く見受けられた。

サンセットを見送るとディナーセットが恋しい時間帯になったので、プロムナード・デサングレという海岸沿いの目抜き通りの中心にある気軽なレストランでシーフードを堪能し、優雅な雰囲気の中で自らの誕生祝いを満喫させていただいたのだった。

10月26日(日)
♪飛んでイスタンブール♪のヒットにより、一発屋としての地位を確立した庄野真代であるが、次作の「モンテカルロで乾杯」もそれなりに売れたことを覚えている輩は少ないかも知れない。中学時代にこの曲を聴いて以来、いつかはモンテカルロに行かなければならないと思い続けていたのだが、ついにその悶々とした気分を払拭する日を迎えたのだ。

ニースからローカル列車に乗るといつしか国境を越えて30分ほどでバチカン市国に次ぐ世界第2の小国であるモナコ公国のモンテカルロ駅に到着した。わずか2平方キロメートルの面積しかないモナコであるが、6つの地区を要している。まずはカジノで有名なモンテカルロ地区に足を踏み入れることにした。パリのオペラ座パレ・ガルニエを設計したシャルル・ガルニエの作であるカジノ・ド・モンテカルロで勝負するほど現金を用意してこなかったので、カフェ・ド・パリで茶をしばいているセレブを遠巻きに眺めながらモナコ湾の方へ下っていった。

ちょっとしたクルーズ気分を味わうためにEUR2を支払ってBateau Busという水上バスで300m程のモナコ湾を横断するとモナコの歴史が集約されている高台のモナコヴィル地区を見学することにした。

モナコ最大のイベントといえば、5月のF1グランプリで市街道路がサーキットへと変貌を遂げる。F1のコースをクラシックカーで駆け抜けるツアーもあるのだが、今回はプチトラン(EUR9)に乗って日本語解説を聞きながら「リビエラの真珠」との異名をとるモナコの観光名所を30分かけて巡って行った。

プチトラン観光でモナコの歴史を学習することが出来たので、大聖堂に入って歴代のモナコ公の墓参りをさせていただいた。多くの墓の中でひときわ美しいバラで装飾されたものがあるのだが、これはヒッチコック監督を従えてハリウッドに君臨した女優グレース・ケリーのものである。グレースは1956年に前モナコ公レニエ3世の妃になったのだが、ド・ゴール大統領のプレッシャーをものともせずフランスの手先になることを拒んで独立を守り、モナコの名を世界的に知らしめたヒロインなのである。

「公妃の切り札」を見せ付けられて喉の渇きを覚えたのでビールで乾杯し、さらに大公宮殿(EUR8)を見学させていただくことにした。衛兵に守られた宮殿内部は写真撮影禁止となっているのだが、日本語解説のヘッドセットを無償で貸し出してくれたので、1215年にジェノバ人が築いた要塞の跡地に建てられた宮殿の各部屋や装飾仕様を細かく見て回ることが出来たのだ。

高台にあるモナコヴィル地区には多くの展望台があり、高級クルーザーが整然と停泊しているハーバーや地中海に面した崖や高台を埋め尽くす高層ビルの様子が眺められる。また、3万人の人口が60数人に1人の割合で配備している警察官で守られているいるセキュリティ体制は圧巻で野良猫さえ自由に街を闊歩出来ないのだ。

10月27日(月)
早朝より太陽が燦々と降り注ぐ中、コート・ダジュールの景色を目に焼き付けるために再びプロムナード・デサングレを歩いていた。すでに海岸ではビーチパラソルの花が咲き、多くのリゾーターが海水浴と日光浴に興じていた。

ニース市街地から5km程離れたニース・コート・ダジュール空港まで市バスで移動するとエール・フランス航空が運航する13:00発AF7703便に乗り込みパリのシャルル・ド・ゴール空港まで帰って行った。引き続き、17:05発NH206便に搭乗する際にビジネスクラスへのアップグレードを果たすことが出来たので成田まで快適なフライトが約束された。さらに飛行機が北極圏に差し掛かった頃、キャビンアテンダントがオーロラが出ているので見てくれと迫ってきたので半沢直樹の最終回を一時停止してうっすらと見えるオーロラの確認に勤しまなければならなかったのだ。

10月28日(火)
飛行機は定刻前の午後12時半頃成田に到着。高飛車だが、高級ワインのように文化が熟成しているフランスに敬意を表しながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \143,850
総宿泊費 \40,011、EUR218
総鉄道代 EUR246.35
総バス代 EUR31.4
総地下鉄代 EUR8.5

協力 ANA、エールフランス、Priority Club、agoda、sncf

FTB中欧復興世界遺産ツアー in ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、モンテネグロ

旧ユーゴスラビアから分離、独立した国々には美しい自然と歴史的建造物の景観が織り成す独特の風景が数多く存在するのだが、独立にまつわる紛争や自然災害により数多くの世界遺産が壊滅的な打撃を受けている。今回はそのような危機的状況から見事に復興を成し遂げた地域を歴訪し、二度と愚行を繰り返さないことを肝に銘じるべくツアーが敢行されることとなったのだ。

9月23日(火)
ヨーロッパとアジアの架け橋になっている地理的利点を活かし、中東や中欧地域に圧倒的なネットワークを持つトルコ航空が安値で欧州行きチケットを提供しているので、今回は関西空港発22:30発TK47便に乗って久しぶりに庄野真代よろしく飛んでイスタンブールまで行くこととなった。

9月24日(水)
午前6時前にイスタンブールのアタチュルク国際空港に到着すると、しばしスターアライアンスの大ラウンジで英気を養い、7:05発TK1021便で一路サラエボを目指した。飛行機がサラエボ上空に差し掛かると眼下にはこれまで見たこともないような雲海が広がり、分厚い雲を突き破って降下するとそこには素朴な町の光景と質素な空港が待ち構えていた。

早速空港で手持ちの米ドルを現地通貨であるマルカ(KM)に両替するとタクシーに乗車して今日の宿泊地であるHotel Colors Inn Sarajevoに向かった。ホテルでは早朝到着で部屋の準備にあと数10分を要するとのことだったのだが、美味な朝食を無料サービスしてくれるというホスピタリティを発揮してくれたのだった。空腹を満たすと首尾よく部屋にしけこむことが出来たので、荷物をおいて20年前には紛争地帯であったボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボの散策に繰り出すこととなった。

町の目抜き通りはスナイパー通りと呼ばれ、紛争時には、この通りで動くものは高層ビルに潜んだセルビア人狙撃兵の餌食となり、子供や老人、女性さえも狙い撃ちされたという暗い過去を引きずっている。また、通りのビルにはおびただしい数の弾痕が残っており、当時の銃撃戦の凄惨さを物語っている。尚、スナイパー通りに高級ホテルとして君臨するホリデー・インは紛争時にも営業を続けて利益を独占するという気概を見せ、当時は世界中のジャーナリストのたまり場と化していたそうだ。

サラエボの暗黒時代をさらに調査するためにトラムに乗って空港近くのイリジャという町で下車し、徒歩でトンネル博物館(KM100)に向かうことにした。目的地への道中では金を無心する青少年から尾行されるという一幕があったものの、少年の執拗なマークを振り切ると銃弾の痕が生々しいとある建物に到着した。

この博物館は1993年の紛争時に造られたトンネルの一部を公開しているもので、当時のサラエボは旧ユーゴスラビア連邦軍に包囲され、孤立していたが、このトンネルのおかげで他のボスニア軍占領地域と結ばれ、物資輸送を行うことが出来たのである。サラエボで冬季オリンピックが開催されたのは1984年であるが、そのわずか8年後の1992年からは敵陣に包囲された紛争地帯として輝かしいはずの歴史に暗い影を落とすことになるのである。

とんねるから脱出すると世界でもっとも有名な石橋のひとつを見るためにトラムで市の中心地に引き返すことにしたのだが、すれ違うトラム後部の連結器には青少年が危険を顧みずにしがみついて無賃乗車に精を出しており、この国の問題がまだ十分に解決されているわけではないことを思い知らされた。

有名な石橋であるが、何のきなしに歩いていると通り過ぎてしまうかも知れないが、1914年6月28日にボスニアを統治していたオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア青年に狙撃され、第一次世界大戦のきっかけとなったラテン橋なのだ。このようにサラエボは当時から狙撃には縁のある地域であるが、紛争後は国際開発協会の援護射撃的な援助により、今では見事に復興を果たしているのだ。

サラエボでもっとも観光客が集まる旧市街にバシチャルシアという職人街がある。中近東の雰囲気が漂うこの地域にはトルコ風の銀や銅製品の工房兼売り場が軒を連ね、あちこちで金属をとんかちで打ち付ける音が響いており、人々はやっとの思いで手に入れた平和を存分に謳歌しているようであった。

9月25日(木)
列車の運行が少ないサラエボ中央駅に隣接しているバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の観光地を目指すことにした。風光明媚な山道を3時間以上バスに揺られて到着した町はモスタルと呼ばれ、その旧市街は世界遺産となっているのである。

とりあえずagodaで予約しておいたHotel Old Townにしけこんだ後、早速周囲の散策に繰り出すことにした。石灰岩の山に囲まれた大地を切り裂くように流れているエメラルドグリーンのネトレヴァ川の両岸を美しいアーチを描いた橋がまたいでいる。スターリ・モストと名付けられた橋はこの地の象徴で、ボスニア語でモスタルとは「橋の守り人」を意味しているのである。

スターリ・モストの周辺がにわかに賑わってきたのでその喧騒に近づいてみると橋の欄干の上を集金しながら歩いている上半身裸のナイスバディ男の姿が目に飛び込んできた。橋の下の川べりでは何故かサムライもどきが決定的瞬間をとらえようとカメラの設定に余念がないようであった。ひととおりの集金活動が終了すると集金係ではない別のおじさんがしゃしゃり出て、高さ10m以上の橋の上からいきなり川に落下しやがったのだ。

7~8中世に建てられたいくつかのイスラム寺院を遠めに眺めた後、橋を構成する東岸の塔で開業しているスターリ・モスト博物館(EUR5)で橋の構造を学習させていただくことにした。スターリ・モストは1566年にオスマン朝支配下の時代に建てられたもので橋台を用いず、両岸からアーチ状に構成されており、当時の建築技術の高さを示している。塔の上からは違った角度のスターリ・モストが眺められ、橋を行きかう人を真上から見下すことが出来るのである。

旧市街は日中はクロアチアからの日帰りツアーで賑わっているのだが、夕方になると人も少なくなり、徐々に落ち着いた雰囲気を醸し出していった。さらに夜のライトアップの光景はこの地に宿泊したものが得られる特権となっているのであった。

9月26日(金)
モスタルはスターリ・モストを中心に発展してきた町であるが、この橋でさえも紛争中の1993年11月に破壊されてしまったという暗い過去を引きずっている。その出来事を決して忘れないようにと、旧市街では至る所で「Don’t Forget」を刻んだ看板が見られるのだが、橋の西岸の塔に紛争時の写真を集めた写真館(EUR3)が早朝より営業していたので入ってみることにした。

プロカメラマンにより激写された紛争時の状況を生々しく伝える写真の中には武器を携えた少年兵やスターリ・モスト倒壊後に架けられた仮のつり橋をわたる人々等の姿が映し出されており、復興成った今のモスタルの姿が奇跡としか思えないような感覚さえ沸いてくるのであった。

紛争から得られるものはむなしさ以外の何ものでもないことを思い知らされ、あらためて旧市街を歩いているとスターリ・モストより小ぶりな石橋が視界に入ってきた。Crooked Bridgeというこの橋は1558年に建造されたのだが、1999年の大晦日の洪水で破壊され、2002年に再建されたもので、戦火と災害をかいくぐってきたモスタル旧市街を裏で仕切っているような存在感さえ示していたのであった。

スターリ・モストが異民族や他宗教をつなぐ架け橋となることを祈りながらモスタルを後にすべくバスターミナルからバスに乗り、ボスニア・ヘルツェゴビナから撤退すると3時間程時間をかけてクロアチア随一の観光地と言っても過言ではないドブロヴニクに移動する運びとなった。バスはいつしか光り輝くアドリア海沿岸を走りぬけ、吊り橋を渡ると高層マンションのような豪華客船が停泊するフェリーターミナルに隣接するバスターミナルにすべりこんだ。

ターミナルに程近いホテル・ぺトカという規模は大型だが、部屋は小型であることを思い知らされた観光ホテルにチェックインすると徒歩で2km程離れた旧市街に向かった。城壁に囲まれた旧市街の入口のひとつであるピレ門はあたかも中世への扉を開いているようで、足を踏み入れるとこの町に忠誠を尽くさなければならないかのように財布の紐を緩ませる土産物屋や飲食店が軒を連ねて待ち構えているのだ。

日も西に傾いてきたのでとりあえず一通り旧市街を回ってみていると波止場の人だかりが目に付いた。船上では何がしかのウエディング系のセレモニーが行われており、一流の観光地のサンセットに花を添えていたのだった。

9月27日(土)
マサよ、君はミキモトでも仕入れることが出来ないアドリア海の真珠と心中しそうになるほどの感動を覚えたことがあるか!?

というわけで、クロアチア最南端に位置するアドリア海沿岸の小さな町ドブロヴニクは「アドリア海の真珠」との異名を持つ風光明媚な観光地である。その旧市街はオレンジ色の瓦屋根を頂いた家屋がぎっしりと並び、8~16世紀に増改築を繰り返して建造された城壁で囲まれている。

旧市街を取り囲む城壁は1940mもの長さがあり、周囲をぐるりと歩いて回ることが出来るので早速Kn100を支払って城壁への急な階段を上ってみることにした。1438年に造られたオノリフの大噴水で汲んできた天然の湧き水を片手に一方通行の歩道を進んでいくとほどなくしてシーカヤックツアーの一団がアドリア海の景色の一部となっていた。

城壁から見下ろす旧市街の奥地は原住民の生活感が息づいており、多くの洗濯物がさわやかな風にたなびいている。一方、アドリア海を行き交うクルーズ船はさまざまなタイプがあり、太陽電池を使ったものやグラスボート、半潜水艦等、観光客の好みに応じて乗り分けることが出来るのである。

世界の一流観光地は名所・旧跡、博物館の入場料、飲食店の割引、乗り物代等がパッケージとなっているお得な期日限定のカードを発行している。観光立国としての道を歩んでいるクロアチアも例外ではなく、1日、3日、7日有効のドブロヴニクカードなるものを発行しており、すでにKn100を支払った城壁巡りも含まれているにもかかわらず、今後の観光プランを考慮してあえてKn150を支払って1日カードを購入することにした。

早速1516年に建立されたスポンザ宮殿への侵入を試みたのだが、カードでは入場出来ないとけんもほろろだったので気を取り直して総督邸に入ることにした。15~16世紀に栄えたラグーサ共和国の最高権力者である総督の住居兼共和国の行政機関であった総督邸は今では文化歴史博物館へと変貌を遂げており、武器、硬貨、絵画など当時の反映を偲ばせる代物が取り揃えられている。

聖イヴァン要塞を利用した海洋博物館でドブロヴニクの貿易都市としての実力を垣間見た後、1699年~1725年に建てられたバロック様式の聖イグナチオ教会でフレスコ画を見ながら聖母像に祈りを捧げさせていただいた。

夕暮れ時が迫ってきた頃合を見計らって旧市街の背後に控えるスルジ山に登頂して高みの見物を決め込むことにした。標高412mを誇るスルジ山へはKn100を支払ってロープウエイで上るのが一般的で、頂上からは堅固な城壁に囲まれたオレンジ色のパズルと紺碧の海、ロクルム島の緑のコントラストを楽しむことが出来る。

水平線に沈み行く夕陽を見送ると旧市街に灯がともり、マイルドな夜景が現出された。西の空は旧市街の屋根よりもオレンジ色に染まり、その残像はいつまでも消え去ることがないのではと思えるほど鮮やかであったのだ。

下界に戻ると旧市街のライトアップを眺めつつ、ディナーと洒落込むことにした。とある雰囲気のいいレストランでシーフードの盛り合わせを発注したのはよいが、ドブロヴニクにはどぶろくのような濁り地酒がなかったのでビールで肴を流し込むしかなかったのだった。

9月28日(日)
ドブロヴニク旧市街は1979年に世界遺産に登録されたのだが、1991年からのクロアチア独立戦争時には旧ユーゴスラビア連邦軍の攻撃により、かなりの被害を受け、一時は「危機にさらされている世界遺産リスト」に挙げられていたものの、終戦後に急ピッチで修復が進み、1994年に再度世界遺産にカムバックした不屈の闘志を誇っている。その復興成った雄姿を海上から眺めるために50分のクルーズ船(Kn75)に乗船してみることにした。

船長としての威厳を感じさせない船の運転手が携帯でしゃべり倒しているのが気にならないほど美しい光景が次から次に出現するアドリア海の色は海底の地形により猫の目のように色を変え、高級ホテルのプライベートビーチでは過ぎ行く夏を惜しむかのようにセレブ達が日光浴に勤しんでいた。

クルーズの余韻を崖っぷちカフェでのコールドドリンクで抑えると、旧市街の喧騒に戻ることにした。何故か大聖堂の周辺が立ち入り禁止エリアに成り上がっていたのだが、どうやら何かのロケをやっているらしく、中世の兵士の衣装に身を包んだ多くのエキストラがテーブルでくつろぎながら出番が来るのを今か今かと待ち構えていたのだった。

ドブロヴニクカード使用のパフォーマンスを上げるために今日も城壁巡りで足腰を鍛え、さらに民俗学博物館でシュールなおとぎ話に登場しそうな怪人物や民族衣装を見学させていただき、土産物屋の店番猫に別れを告げるとドブロヴニクを後にする時間となった。

バスに乗って国境を越え、モンテネグロに入るとアドリア海の入り江の奥に向かうくねくね道を進んでいった。イタリア語のヴェネツィア方言で「黒い山」を意味するモンテネグロはアドリア海沿いにそびえる山々に木が生い茂り、黒く見えたからだと言われているのだが、福島県と同じくらいの面積の国土の中に4つの国立公園を持つ風光明媚な国なのである。

複雑に入り組んだ入り江ポカ・コトルスカの最奥部に位置し、背後を山に囲まれた海洋都市コトルに到着したのは夕暮れ迫る時間であった。古い城壁の正門をくぐり、旧市街へ入ると、日本人団体旅行客をかわしてagodaに予約させておいたホテル・ランデブーにチェックインすると併設されているレストランで山盛りのシーフードをいただきながら、明日のランデブーアクティビティに備えることにした。

9月29日(月)
ホテルで食した豪華ブレックファストにフルーツが入ってなかったので旧市街の外ではあるが、城壁沿いに営業している市場で新鮮であるはずのぶどうとりんごを安値で仕入れることにした。気がつくと目の前の港には豪華客船が停泊しており、こんな湾の奥地にまでクルーズ船がよく入ってきたものだと感心させられた。

世界遺産に登録されているコトルの旧市街の最大の特徴は、背後の山に沿って築かれた城壁でかつては堅固な要塞都市として栄えていた。そこで、早速EUR3を支払って全長4.5kmにおよぶ城壁沿いの山道を練り歩いてみることにした。

急な石段を登り、高度が増すに連れ、オレンジ屋根が密集した旧市街と迫りくる黒い山、コトル湾の地形がその全貌を現しはじめた。山の中腹には15世紀に建てられた小さな救世聖女教会が急峻な山道の城壁巡りをする観光客を救済するかのようにつかの間の休憩場所の役割を果たしていた。

城壁には要所要所に要塞が造られており、複雑な地形を有効活用した防衛体制が構築されているようであった。しかし、今となっては最上部の要塞はここまで登りつめて来た観光客の達成感を満たすためのお山の大将的記念撮影エリアに成り下がっているのだが、ここからの絶景は何物にも代えがたいほどすばらしいものであることは確かである。

下山してあらためて旧市街を歩いていると、ここが1979年の地震によって多大な被害を受けたことがうそであるかのような重厚な建物群が目を楽しませてくれた。狭い石畳の路地が走る旧市街は、貿易でもたらされた富で築かれた豪華な館や美しい教会が建ち並んでいるのだが、そのうちのいくつかに入ってみることにした。

小ぶりな聖ルカ教会は1195年の創建で、内部に当時のフレスコ画をかろうじて残している。1160年に建てられた聖トリプン大聖堂(EUR2)はロマネスク様式の教会で塔以外の部分は創建当時の姿をととめているのだが、内部は1667年と1979年の地震の後に改修が施されているそうだ。

日が落ちると旧市街はライトアップされ、光を放つ城壁の要塞によりその輪郭があらわとなる。旧市街の喧騒は深夜になっても鳴り止まず、ホテル・ランデブー近辺では音楽と話し声がついに途切れることはなかったのであった。

9月30日(火)
アドリア海の奥座敷とも言えるコトルを後にするとバスでモンテネグロの首都であるポドゴリツァに向かった。山間部を走り抜けるバスの車窓からは緑の山とオレンジ屋根の町並み、紺碧のアドリア海のコントラストが美しく、小国であるが、マサに観光資源の充実したすばらしい国であることが実感できた。

ポドゴリツァのバスターミナルに到着した瞬間にタクシー運転手の客引攻勢にさらされた。気のよさそうなおじさんが10ユーロという破格の値段を提示してくれたので乗ることにした。同時にメーターも倒したのだが、なるほどメーターの示す金額は13ユーロであり、おじさんは元々空港での集客を狙っていたためにあえてディスカウントを提示したのではないかと思われた。

トルコ航空のはからいでビジネスクラスへのアップグレードを果たした14:25発TK1086便は定刻どおりに出発し、1時間の時差越えで午後5時過ぎにイスタンブールに到着した。成田行きのフライトまでかなり時間があったのでトルコに入国を果たし、♪夜だけぇ~のぉ~パラダイス♪になっているイスタンブールを軽く見学し、今回のツアーを締めることにした。

10月1日(水)
深夜1:00発TK52便に搭乗し、約12時間のフライトで午後7時前に成田に到着、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥126,770
総宿泊費 \31,321、Kn1,933.24 (Kn1 = \18.5)、EUR100(全朝食付)
総タクシー代 KM30 (KM1 = \72)、EUR10
総バス代 KM50、Kn100、EUR7.5
総トラム代 KM3.6、TRY16

協力 トルコ航空、agoda

FTBもっと北の国からバルト三国世界遺産首都ツアー

あ”~あ”~あ”あ”あ”あ”あ”~

マサよ、君は北の海に面する小国群がソ連崩壊のきっかけを作ったという歴史的事実におののいたことがあるか!?

ということで、世間一般の夏休みも終わり、海外旅行の旺盛な需要が沈静化した時期を見計らって北欧とは明らかに一線を画しているバルト三国でもっと北の国のアンチソ連三国志を学習するツアーが催行されることとなったのだ。

2012年9月6日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば\12万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思いきや、燃油代として\5万円超を支払わされた10:45発JL441便はボーイングの最新鋭低燃費機であるB787-8ドリームライナーでの就航であったのでそんなに燃料代はかからないだろうと思いながら新しい機内に足を踏み入れた。

先だって六本木のロシア大使館まで申請と受け取りのため2回も足を運び入手したトランジットビザを携えてJALが月曜日と木曜日の週2回のみ運行しているモスクワ行きの直行便に乗り、乗客の少なさにJALの再上場後の株価の行く末を案じながら過ごしていると10時間程度のフライトでモスクワ最大の空港であるドモジェドボ空港に到着した。

民主化の進んでいるロシアでは入国書類もすでになくなっており、ビザがあればすんなり入国出来たのだが、乗り換えの便がモスクワ北東35kmに位置するシェレメチェヴォII国際空港だったのでモスクワの南東のはずれのドモジェドボ空港から大移動をかまさなければならなかった。とりあえず空港バスで渋滞に巻き込まれながら最寄りの地下鉄のドモジェードフスカヤ駅に移動し、そこから地下鉄で1時間以上かけてモスクワ市内を縦断し、レチノイ・ヴァグザール駅に到着するとさらにミニバスであるマルシルートカに乗って合計3時間程度の時間をかけてシェレメチェヴォII国際空港に到着した。

モスクワの町の雰囲気と交通機関を充分堪能させていただいたので22:15発アエロフロートロシア航空とエストニア航空のコードシェア便であるSU3706便に乗り込むと1時間40分程度のフライトでエストニアの首都タリン空港に1時間の時差を超えて夜11時頃到着した。EUに加盟し、さらにEUROも導入しているエストニアへの入国を果たして外に出るといきなり外気温10°C以下の冷気にさらされ、もっと北の国からの洗礼を受けることとなった。市バスでタリン市の中心部に移動し、hotels.comに予約させておいたホテルメトロポールにチェックインすると早速ベッドに入って体を温めながら休ませていただくこととなったのだ。

9月7日(金)

中世の空気を今持って漂わせているタリンはバルト海のフィンランド湾に望む港町で、かつてはソ連の一地方都市として不遇な時代を過ごしていたのだが、現在は多くの観光客が行き交う「バルトの窓」として開かれている。まずはその開かれ具合を垣間見るために曇寒空の下、タリン港周辺の散策を行うことにした。

タリンと北欧フィンランドの首都ヘルシンキの間にはLinda Line Expressの高速艇が行き交っており、その船着場はタリン港から少し離れた市民ホール港となっている。物価が異常に高い北欧都市からバルト三国くんだりに渡ってくる主な理由は船代として片道EURO50を払っても物価の安いバルト三国で買い物をすれば充分元が取れるからに他ならない。確かに船着場周辺は出航待ちの乗客で賑わっているのだが、市民ホール自体は何故か閉鎖されており、薄暗い廃墟感の中を好奇心の強そうな観光客が徘徊していたのだった。

タリンの旧市街は北ヨーロッパで最もよく保存されている旧市街のひとつで世界遺産にも登録されている貴重な観光資源である。旧市街はぐるりと城壁に取り囲まれているのだが、とりあえず北口であるはずのスール・ランナ門を通って足を踏み入れてみることにした。スール・ランナ門はかつて町の最も重要な出入口だったようで、そこを守るために1529年に建てられた砲塔がどっしりと構えている。そのかつての砲塔は「ふとっちょマルガレータ」と呼ばれているのだが、ここが監獄として使われていた頃、囚人の食事を切り盛りする太ったおかみさんがいてそのおばさんの名前に由来するという放蕩生活の帰結のような命名であったという。

ダイエットの必要性を感じながら、旧市街の石畳の上を練り歩いていると城壁のここかしこに塔が散見され、おしゃれなプチホテルや飲食店、ギャラリー等が古い町並みの中でモダンなアクセントとなっていた。

タリンの旧市街は大きく分けて山の手と下町に分かれているのだが、山の手から高みの見物を決め込んでいる団体観光客に引き寄せられるように階段を登って高さ24mのトームペアと呼ばれる丘に登って行った。身分の高い者はお決まりのように高い場所に住んでいたためか、トームペアはは常に権力の居城として市議会が支配する下町とは一線を画していた。その最大の名残は13世紀前半に建てられた騎士団の城であるトームペア城であろう。トームペア城が現在の姿になったのは18世紀後半のことで当時の権力者エカテリーナII世により改築を命じられたもので一見すると城というよりは宮殿風の建造物である。この城に寄り添っている高さ50.2mの塔は「のっぽのヘルマン」と呼ばれている代物で頂上にエストニアの三色旗を掲げ、今では国を象徴する存在に成り上がっている。

1219年にデンマーク人がトームペアを占領してすぐに建設されたエストニア本土における最古の教会である聖母マリアの大聖堂と対極を成すように1901年に当時の支配者の帝政ロシアによって建てられたロシア正教会であるアレクサンドル・ネフスキー聖堂が立ちはだかっている。エストニアが最初に独立を果たした時代にはタリンの町並みとは調和しないこのロシア正教会を移転する計画まであったそうだが、結局実現されないまま世界遺産となったのだった。

屋台で中世のアーモンド菓子を売っているエストニア美女に目を奪われながらいくつかの展望台をはしごすることにした。トームペアの展望台からは城壁と塔が立ち並ぶタリンならではの景色を堪能出来るので多くの団体観光客が列を成して記念写真の撮影に興じているのだった。

エストニアの神話によるとトームペアは古代の王カレフが眠る墓陵であるとされているのだが、彼を埋葬したのち巨大な石を集め、墓陵を造ろうとしていたのは彼の妻リンダである。リンダが墓陵が完成する最後の石をエプロンに包み丘を登っていたそのとき、エプロンの紐が切れ石が転げ落ちてしまった。疲れ果て、♪リンダ リンダ♪を歌う気力さえ残っていなかった彼女はその石に腰を下ろし、悲しみの涙にくれていたという。その時の様子は今もトームペア城南側下の広場に鎮座するリンダ像により伺い知ることが出来るのだ。

マサよ、君は猫の手も借りたいほど忙しい寿司屋が秋葉原ではなくヨーロッパの北の僻地でご主人様を待っている現実に直面したことがあるか!?

というわけで、タリンには来たものの、何かが足りんという感覚を引きずりながら観光に勤しんでいたのだが、その何かとは通常観光地で養われている生猫であるということに気がつき始めた時にふと鮨猫という看板が目に飛び込んできた。バルト海から水揚げされる魚で潤っているタリンで日本食屋が幅を利かせるであろうことは理解出来るのだが、日本のコスプレ文化がもっと北の国までに及んでいるとは想像だにしていなかった。尚、このスシ・キャットは非常に繁盛している様子だったので残念ながら入店するには至らなかったのだ。

スシ・キャットで喰らった猫パンチのショックを一掃するために旧市街の下町の中心部に移動すると14世紀の半ばに建立された庶民的な聖霊教会(EUR1)に入って15世紀の木製祭壇や質素な内部装飾を見て心を落ち着けなければならなかった。

聖霊が宿ったところを見計らって教会の向かいに君臨する大ギルドの会館に入館させていただいた。この会館は1410年に建てられ、大ギルドの集会やパーティー、結婚式などに使われていた建物であるが、1920年にギルドは解散し、現在はエストニア歴史博物館(EUR5)として有効利用されている。3本のアーチ柱で支えられている大ホールがメインの展示室になっているのだが、時代を感じさせる地下室も公開されており、さらに館内のここかしこに大ギルドの紋章でもあった赤地に白十字のタリンの小紋章が残されている。

9月8日(土)

早朝より昨日の曇天とはうって変わった青空が広がっていたので人出もまばらな旧市街の下町を巡ってみることにした。下町の中心はデンマーク人に占領される以前から市場として存在していたラエコヤ広場であるが、そこで際立った存在感を示しているのが14世紀半ばに建てられた北ヨーロッパに唯一残るゴシック様式の市庁舎である。広場の中に方位が描かれた円い石が鎮座しているのだが、この上に立ってあたりを見回すと、タリンの最も有名な5つの尖塔(旧市庁舎、聖霊教会、大聖堂、聖ニコラス教会、聖オレフ教会)のすべてが見えるのだ。

中世の雰囲気のみならず何となく不気味な雰囲気を湛えているタリンの旧市街には幽霊の話も多く、実際にヴァイム通り、日本語で幽霊通りも存在しているのだ。その由来はこの通りのある家でオランダ商人が妻を惨殺し、その幽霊が出るようになったからで17世紀以来、通りは公式に幽霊通りとなったのである。さらにとある建物の上から目を光らせているスケベオヤジがいるのだが、奴は「のぞき見トム」と呼ばれる実在の人物で隣の娘たちの動向にいつも目を光らせていた芸能レポーターのような役割を担っていたのだ。

旧市街で最も有名な中世の住宅であるスリーシスターズを改装した☆☆☆☆☆ホテルの大きな自慢のひとつは雨が降ると窓を閉めに来るという女性の幽霊の存在であるが、ホテル関係者に言わせるとフレンドリーなので心配ないとのことである。おそらく冥土に行き損ねたメイドの魂が森三中のようにホテル内を彷徨っており、今持って忠実に職務を遂行しているものと思われる。

幽霊話も一巡したところで、公園で演奏している鼓笛隊に身を清めてもらうと旧市街を抜け出して近郊の見所を探ってみることにした。

タリン駅前のバスターミナルから市バスに乗り、沿岸部を30分程度西に向かうとエストニア野外博物館(EUR6)に到着した。ここは17世紀~20世紀初頭にかけてのエストニア各地の木造建築が当時のままの姿で移築されている民俗博物館である。

バルト三国は伝統文化の保存に熱心なところであるが、ソ連時代の農業集団化政策によって伝統的な農村は破壊されてしまい、ほとんど残っていない。従って、彼らの文化の根底にある農村生活はこのような博物館まで足を運ばないと垣間見ることが出来なくなっているのである。農村の建物の大きな特徴は白川郷を彷彿とさせる茅葺き屋根と寒風が入ってくるのを最小限に抑えるためにコンパクトに作られた建物や部屋の出入り口である。もっと北の国ではマサにエコで低燃費な生活が送られていたのであろう。

市バスで旧市街に戻ると中世から伝わる国宝級の芸術品が収められている聖ニコラス教会(EUR3.5)を見学することにした。ここでの最大の見物は15世紀後半の作品で法王、皇帝、皇女、枢機卿、国王が浮かない顔で死を暗示する骸骨とダンスを踊っている「死のダンス」である。戦乱と疫病の時代であった中世にはこのような「死のダンス」のモチーフが普及したのだが、現存するものが少ないため、この絵は非常に貴重な逸品となっているのである。

タリンには生猫が足りんということは前述したが、「つるべ井戸」の通りに「猫の井戸」と呼ばれる枯れ井戸がある。かつてここには魔物が住み、住民は生贄としてよく猫を投げ込みやがったという。その酸っぱい思い出が鮨猫となって今も住民の心と舌に残っていることは疑いようもない事実であろう。

旧市街で最高の高さを誇る塔を持つ聖オレフ教会には建設にかかわったオレフという名の巨人の伝説が残されている。彼は莫大な報酬を要求して仕事を引き受けたのだが、もし教会が竣工する前に彼の名前がわかったら報酬は1ペニーでいいという条件だった。市民たちは手を尽くして彼の名前を探り当て、教会がほぼ完成に達したときに塔の上の十字架を取り付けているオレフに向かって「オレフよ、十字架が傾いているぜ!」と叫んだという。動揺したオレフは塔の上でよろめき、足場を失って下に落ちてしまった。オレフの体が地面に打ち付けられると1匹のヒキガエルと1匹の蛇が彼の口から飛び出し、彼の体は石になってしまったという。教会の外壁にはキリスト受難の物語のレリーフの下にオレフの石像が横たわっているのだ。

高さ123.7mを誇る聖オレフ教会の60mの高さのところに展望台(EUR2)が設置されているので258段の階段を登って高みの見物を決め込むことにした。急な階段を息を切らせながら登っていると狭いらせん状の階段室が前を行く飲酒若者達の吐く酒息で充満されたため、苦しさが2倍になって跳ね返ってきたのだが、無事に頂上にたどり着いた。空気のいい展望台で深呼吸をしながら酒を抜き、最後のタリン旧市街の眺望を十分に堪能させていただいた。

旧市街を後にして街の中心から1.5km程離れたバスターミナルまで徒歩で移動すると長距離バスに乗り込み、2時間程の時間をかけてパルヌというリゾートタウンに向かった。リゾートタウンといえども町は晩秋の装いで一向にリゾート気分の盛り上がりが見られなかったのでビーチにほど近いホテル・アストラに引き上げると晩飯も食わずにいち早く不貞寝体制に入ることにしたのだった。

9月9日(日)

歴史と海と太陽の町パルヌはエストニアの「夏の首都」と言われ、泥治療で有名なリゾートタウンである。早朝人影のないビーチに出てみるとなるほどリゾートの面影が残っているが、季節は過ぎ、つわものどもの夢の跡の様相を呈していた。パルヌの泥治療は180年以上の歴史を持つこの町の名物であり、そのファシリティであるネオ・クラシック様式の建物は今もパルヌのシンボル的存在として君臨しているのだが、設備の老朽化ですでに営業を停止しており、裏に回り込むとマサに廃墟そのものであった。

ホテル・アストラをチェックアウトしていくつかある町のサナトリウムを横目に旧市街に向かって歩いて行った。歴史的建造物である赤い塔が目立つバロック様式のエリザベート教会や17世紀の城門の一つであるタリン門等を見やりながらバスターミナルまで移動し、午前11時25分発のバスに乗って次の目的地を目指すことにした。

バスはいつしか国境を超えてラトヴィアに入っており、午後2時過ぎにはラトヴィアの首都リーガのバスターミナルに到着した。早速手持ちのユーロをラトヴィアの現地通貨であるラッツに両替するとホテルを目指して旧市街方面に歩いて行った。歌舞伎という名を冠したスシバーを見ながら市川染五郎の早期回復を祈り、石畳の道を歩いているとタリンでは足りんかった生猫が早くも姿を現しやがった。

旧市街に立地するホテル・セントラにチェックインすると目の前には大きな教会が迫っていたのでその威風堂々とした姿に引き寄せられるように町に繰り出すことにした。約70万人の人口を抱えるリーガはバルト三国では抜きん出た大都市でタリンの古風な雰囲気とは打って変わった都会的な空気が漂っている。ハンザ同盟の町並みが残る美しい通りにある姉妹都市のブレーメンから贈られたブレーメンの音楽隊像に挨拶をして市庁舎広場まで出てみるとそこには目を見張るほどの立派な建物が立ちはだかっていた。

リーガの守護神聖ローランド像の背後に建っている壮麗な建物はリーガを代表する建築として名高いブラックヘッドの会館である。この建物は基礎が発掘された後、リーガの創設800年を記念して再建されたものであるが、その個性的な姿がほぼ完全に再現されているという。彫金細工と彫刻で飾られた外観で目立つのが、月、日、時間と月齢を刻む大時計で、その時計を造った職人は二度と同じものが造れないように目をくり抜かれてしまったほどの秀作である。

旧市街の南側にあるのは13世紀に創立され、その後16世紀に再建されたゴシック様式の美しい聖ヨハネ教会である。通りに面した外壁上部には口を開いたふたつの修道士の顔が見えるのだが、これはこの教会に伝わる中世のエピソードによるものである。当時は生きた人間を壁に塗り込めれば災いから建物を守ることができるという信仰があり、ふたりの修道士が志願して壁の中に入ることになった。壁には外から穴が開けられて、通りかかる人から施しを受けられるようになっていたが、彼らはほどなく亡くなってしまった。その後穴は塞がれ、彼らの行いは人々の記憶から消え去ったのだが、19世紀半ばの教会修理の際に彼らの屍が実際に発見されたことから彼らを記念してこのような人面像が造られたそうだ。

聖ヨハネ教会に隣接するように建っている高い塔をもつ教会は聖ペテロ教会(Ls4)である。最初の教会は13世紀に建てられ、18世紀にはほぼ現在の姿に改築されたのだが、塔自体は第二次世界大戦後に改修されたもので、高さは123.25mを誇っている。72mの地点までエレベーターで昇ってリーガの町並みを一望できるということなので早速楽して高みを極めてみることにした。塔の上からはタウガヴァ川とかつての堀に囲まれた世界遺産であるリーガ歴史地区を鳥瞰するとともに旧市街の主要な観光ポイントの大まかな位置関係をいち早くつかむことができたのだった。

旧市街には飲食店で太らされているはずの生猫も多く生息しているのだが、リーブ広場の北側では屋根の上で伸びをしている猫の姿を見ることができる。「猫の家」と呼ばれるこの家には大ギルドに加盟したいと思っている裕福なラトヴィア商人が住んでいたのだが、ドイツ人が支配的なギルドへの加入を拒否されてしまった。その腹いせに大ギルドの会館にケツを向けた猫を屋根に取り付けたのだが、その後大ギルドの会館がコンサートホールに変わると猫は音楽に誘われてその向きを変えやがったのだ。

9月10日(月)

朝食ビュッフェを提供するホテル・セントラの食堂に何故かシャンペンがスタンバイされていたのだが、それには手をつけずに朝食を済ますとバスターミナルの近くの中央市場で腹ごなしをすることにした。市場には巨大なドームが5つ並んでいるのだが、これらは20世紀初頭にラトヴィア領内にあったドイツのツェペリン型飛行船の格納庫で今ではおびただしい量の肉や魚や乳製品等が格納されているのだった。

市場の調査を終了し、緑多き大地で威厳を示している国立オペラ座を横目に自由記念碑に向かった。これは1935年にラトヴィアの独立を記念して建てられた高さ51mの記念碑でソ連時代にも壊されることはなかったのだが、反体制の象徴として当時は近づくだけでシベリアへの片道切符がいただけると噂されていたそうだ。

リーガの新市街にドイツ語でアールヌーヴォを意味するユーゲントシュティール建築群が林立している通りがあるということだったのでその斬新性を確認するために足を伸ばすことにした。ユーゲントシュティールは19世紀後半にヨーロッパ各地を席巻した新芸術様式で、その特徴は過度に装飾的なデザインであり、デフォルメされた人体像なども使われている。

最も装飾的傾向が強い初期ユーゲントシュティールを代表する建築家はミハイル・エイゼンシュテインというユダヤ系ロシア人のおっさんで新市街のアルベルタ通り周辺に彼の手がけた建築が集中しており、人気の街歩きスポットとなっている。

1902年建立のラトヴィア国立劇場の前を通ってタウガヴァ川沿岸部まで辿り着き、あたりを散策しているとチャチな人間像に遭遇した。こいつは巨人クリストファーという川の渡し役で、ある夜彼が運んだ子供が翌朝黄金となっていて、そのお金でリーガが創設されたという伝説がある由緒正しい像である。尚、河岸にいるこの像はレプリカでオリジナルの木像は博物館で丁重に保管されているのだ。

タリンの旧市街では三人姉妹(スリーシスターズ)の幽霊話で肝を冷やしたのだが、リーガには三人兄弟という肩を寄せ合って建っている中世の住宅群がある。兄貴格の建物は15世紀に建てられたもので、一般住宅としてはリーガで最も古いのだが、「窓税」なるものの影響で貧相な窓しか付いていない。弟分達の建物は「窓税」がなくなったため建物の目鼻立ちは良くなったのだが、土地不足のため、末弟の建物は非常に細っそりとしているのである。

塔の高さ80mを誇る聖ヤコブ教会には「哀れな罪人の鐘」と呼ばれた鐘が吊り下がっている。市庁舎広場で罪人の処罰が行われる際にはこの鐘がそれを市民に知らせる役を担っていたからだが、違う言い伝えによると、この鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴り出しやがったので女性の敵となり、夫らに尻で圧力をかけてこの鐘をはずしたという恐るべきかかあ天下のエピソードも残されている。

リーガに唯一残るかつての城門はスウェーデン門で、この門にも悲しい伝説が残っている。かつてリーガの娘たちは外国人と会うことを禁じられていたのだが、ひとりの娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で逢い引きをするようになった。しかし、スウェーデン兵を待っていた娘は捕らえられ、罰として門の内側に塗り込められてしまったというではないか。それ以来、真夜中にここを通ると娘のすすり泣きが聞こえるようになったのだった。

現存するバルト三国最古の建築のひとつであるリーガ大聖堂(Ls2)は修復の途上にあったのだが、内部は公開されていたので入ってみることにした。この聖堂は1211年に僧正アルベルトが建設を始め、その後何度も増改築がなされて18世紀の後半に現在のような姿になった。そのため、ロマネスクからバロックにいたるさまざまなスタイルがこの教会には混在しているのだ。内部にはアルベルト僧正を映したステンドグラスや重厚なパイプオルガン等の見所がたくさんあるはずなのだが、修復中の影響でお目にかかることはかなわなかった。

腹も減ってきたので市庁舎広場にあるラトヴィア料理のレストランで夕飯をごちそうになることにした。昨日は旧市街にあるステーキハウスで300gの牛肉が縮んだ硬いステーキを食ったので今日はパンの器にオニオンスープを流し込んだものとムニエル系の平たい魚を発注した。バルト三国ではほとんどの商品に20数パーセントの付加価値税がかかるのだが、すべて内税でしかも物価が安いのでビールとこれだけの美味な料理をいただいても日本より安く上がるのだ。

9月11日(火)

これまでバルト三国の港町であるタリン、リーガの調査を行ってきたが、今日はリーガのバスターミナルから午前10時発のバスに乗ってリトアニアの首都で内陸部に開かれた町であるヴィリニュスに移動することにした。約5時間もの時間をかけてバスがヴィリニュスのバスターミナルに到着したのは午後3時くらいであった。早速手持ちのユーロをリトアニアの現地通貨であるリタスに両替して小銭を得ると、予約していた旧市街にほど近いホテル・コンティが提供する安い屋根裏部屋にチェックインして町に出てみることにした。

バルト三国に来て初めてTシャツで過ごせるほどの好天に恵まれたヴィリニュスは深い緑に囲まれており、ドイツ商人の影響を受けずに建設されたため、タリンやリーガと違って天を突くゴシック教会の塔は見当たらない。世界遺産に登録されているヴィリニュス歴史地区は東ヨーロッパで最も広い旧市街のひとつでもあり、バロックを中心とした様々な様式の建築が、迷路のような旧市街の全域に広がっているのである。

ヴィリニュスの中心に建ち、ヴィリニュスのシンボルともされる主教座教会は高い鐘楼を従えた巨大なギリシア神殿を思わせる大聖堂である。最大の見所はリトアニアの守護聖人となったカジミエラス王子が安置された17世紀バロック様式の聖カジミエルの礼拝所である。正面に置かれた聖カジミエルの聖画には手が3つあるが、3つめの手は画家が何度消しても再び現れてきたので根負けして残されたと伝えられている。

丘の上でリトアニアの国旗を誇らしげに掲げているのはケディミナス塔でかつての城壁の塔である。現在は展望台と丘の上の城博物館(Lt5)としてヴィリニュスの眺望と歴史の知識を提供している。博物館の展示品はケディミナス城の模型や武具、出土品が主な物であるが、私の最も興味を引いた内容はバルト三国独立に関するビデオや写真である。特に1989年に「人間の鎖」がバルト三国の首都を結び、連帯と独立への意思を示している写真には人心に訴えるものがあった。タリンからヴィリニュスまで600kmを200万人(民族人口の約半分)が手を結んで作った人間の鎖は腐りかけたソ連の支配からの解放を実現に導いたのである。

大聖堂の鐘楼近くに「Stebuklas(奇蹟)」と書かれた1枚の敷石があるのだが、ここが人間の鎖の起点となった場所で、この上で反時計回りに3回回りながら願い事をするとかなうと言われているので観光客がこぞってグルグルしていたのである。

ケディミナス塔の展望台からの眺めで一際私の目をひいたのは16世紀後半に建てられたゴシック様式の聖アンナ教会である。建設には33種類もの異なった形のレンガが使われており、当時の技術の粋を集めたものだったという。1812年ロシアへ攻め上がるナポレオンがヴィリニュスに入城した際、この教会を見て「我が手に収めてフランスに持ち帰りたい」とざれ言を言ったのは有名な話だそうだ。

旧市街の東にはヴィリニャ川が流れており、「川向こう」という意味を持つウジュピスというしなびた地域がある。流れる川の壁面に見つけると幸せになれるという人魚像がインストールされているのだが、周囲の落書きのせいか、妙に寂しげに見えたのだった。

ヴィリニュスには元来9つの城門があったのだが、現在唯一残っているのが、旧市街の南の入口となっている「夜明けの門」である。門の2階は小さな礼拝所になっており、お祈りをする信者が絶えないのであるが、ここにある聖母のイコンは、1363年にアルギルダス公がクリミア半島に遠征した際持ち帰ったものだといわれており、奇跡を起こす力があると今も信じられている。

居酒ファミリーレストラン風の純リトアニア料理を出す食堂が市庁舎広場沿いの通りで繁盛していたので晩飯はここで食うことにした。とりあえず500mlの地ビールとイワシの酢漬けとジャガイモやベーコンをつぼ焼きにしたものを食したのだが、値段が安いので非常にコストパフォーマンスの高いディナーとなった。

外はすでにとっぷりと日が暮れており、大聖堂等のメジャーな観光物件が見事にライトアップされている様子をアイスを舐めながらゆっくりと楽しむことができたのだった。

9月12日(水)

ヴィリニュスの中心にある大聖堂から徒歩15分程東に歩くと一見普通に見える教会が現れた。入口のおばちゃんに促された寄付金の小銭を払って中に入ると息を呑むような装飾に圧倒されてしまった。

聖ペテロ&パウロ教会はバロックの町ヴィリニュスを代表する記念碑的な建築である。建物そのものの建築は1668年から7年間しかかかってないのだが、凝った内装にはその後30年あまりの時間がかけられているという。ここにある2000以上の漆喰彫刻はひとつとして同じものがなく、聖人からはじまって天使や想像上の獣といった芸術品でマサに彫刻のデパートの様相を呈しているのだ。尚、この教会には団体観光客がひっきりなしに訪れるのだが、入口のおばちゃんは何故か中国人団体に寄付を要求するタイミングは逸していたのだ。

新市街のモダンな通りを歩いていると国立ドラマ劇場からは彫像トリオが今にも襲いかからんばかりの迫力で前のめりになっており、とある建物の屋根ではキューピー系の天使が微笑みかけていた。ルキシキュウ広場の花畑の向こうでは砂で固められたジョン・レノンが暇人の私にイマジンを歌いかけてくれるかのようにギターを携えていた。

ソ連時代の秘密警察KGBが1944年から1991年まで本部として使っていた建物がTHE MUSIUM OF GENOCIDE VICTIMS(Lt6)として開館していたので入ってみることにした。展示内容は過去の戦争における虐殺の歴史でビルの正面の壁にはおびただしい数の犠牲者の名前が刻まれている。来館観光客が特に注目しているのは地下にあるKGB関連の展示で冷たい時代に実際に行われたKGBの所業を当時のファシリティや記録フィルムで確認することができるのだ。とりわけ見学者の背筋を凍りつかせるものは血のついたクッションで防音された拷問部屋や1000人以上の銃殺が実行され、その様子がビデオで再現されている地下室であったろう。

ヴィリニュスの観光も一巡したところでバスで近郊の見所まで行動範囲を広げてみることにした。ミニバスに40分程揺られて着いた所はヴィリニュスに移る前にリトアニアの首都が置かれていたトゥラカイという風光明媚な観光地である。

観光の中心地は14世紀後半に建設され、その後廃墟となったが、1987年に復元されたトゥラカイ城(Lt12)である。湖上に浮いている様子は非常にメルヘンチックであるが、構造を見ると戦争のために築城されていることがわかり、興味をそそるものがある。

現在は城壁、本丸ともに博物館となっており、特に中世の生活様式を物語る展示品の中にはジュリ扇のようなセンスのない羽が生えた扇子やライオネル・リッチー系のリッチな貴族も一服したであろうパイプ等が目を引いた。

トゥラカイからヴィリニュスに戻ると不意に向学意欲が湧いてきたので16世紀に創設された由緒あるヴィリニュス大学に入学金Lt5を支払って入学させていただくことにした。大学に付属する聖ヨハネ教会に礼拝すると言語学部の建家の2階のホールに書かれている「四季」のフレスコ画を見ながら自然崇拝時代の生活について自習し、軽くキャンパス内を歩き回って退学となった。

大学裏手の大統領官邸では丁度国旗の降納の儀式がリトアニア兵により厳粛に執り行われていた。国旗も降ろされたところでヴィリニュス観光も潮時を迎えたことを悟った私は昨日と同じレストランでリトアニア料理を食って明日の朝に備えてホテルに退散することにした。

9月13日(木)

早朝4時にタクシーを発注してヴィリニュス空港に移動し、5:40発SU2109便に乗り込む際に機材の脇にロシア語の新聞・雑誌が置いてあったのだが、何故か巨匠ビートたけしの巨顔が目についたのでアウトレイジする代わりに手にとって座席に着くことにした。

定刻8:05にモスクワのシェレメチェヴォII国際空港に到着すると空港に乗り入れている便利な特急列車に乗って30分程でモスクワ中心部のベラルーシ駅までたどり着いた。成田行きの飛行機が夕方発だったのでそれまでの時間を有効に使うためにモスクワ観光のお約束の地である赤の広場を目指して歩き始めた。赤の広場は何らかのイベントの準備のためか設営関係の工事が行われていたのだが、相変わらず観光客で溢れかえっており、かぶりもの系のキャラクターも控えめながら観光客に愛想を振りまいていた。

聖ワシリー教会のネギ坊主の華やかさぶりは2006年の7月に来た時(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2006moscaw.html)と変わらなかったのだが、入場料は倍以上に値上げされていた。クレムリンの入場料も同様で内部のすべての見どころを網羅するためには日本円で\5000くらいの出費は覚悟しなければならないのだが、幸い木曜日はクレムリンの定休日だったので周囲を一周してその広さを実感するだけにとどめておいた。

赤の広場でロシアの民主化の進展ぶりを確認出来たので、徒歩でバヴェレツ駅まで移動し、特急列車でドモジェドボ空港へ40分程かけて移動した。今回のツアーでモスクワの空港間を移動する際に空港バスや特急列車を利用したのだが、コストの安いバスは渋滞に巻き込まれるおそれがあるが、バスの3倍以上のコストがかかる特急列車は時間も正確で便数も非常に多いので乗り継ぎの際には非常に信頼性が高いと思われた。

ロシア・ルーブルが余っていたので土産物のマトリョー猫を購入する代わりにドモジェドボ空港内の自動販売機でロシアのビールを買い込んで飛行機に搭乗した。

17:45発JL442便B787-8ドリームライナーは定刻通りに出発し、JTB旅物語のツーリストや多くのロシア人とともに機内で9時間もの時間を過ごすこととなった。

9月14日(金)

定刻の午前8時過ぎに成田空港に到着し、こざかしいコザックダンスをすることなく流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 JAL = ¥52,010(燃油代のみ)、アエロフロートロシア航空 = $316.2

総宿泊費 ¥32,549、EUR45

総モスクワバス代 RUB180 (RUB1 = ¥2.6)

総モスクワ地下鉄代 RUB28

総モスクワ鉄道代 RUB640

総ロシアトランジットビザ代 ¥5,600

総エストニアバス代 EUR18.4

総ラトヴィアバス代 Ls9 (Ls1 = ¥142)

総リトアニアバス代 Lt13.6 (Lt1 = ¥29)

総リトアニアタクシー代 Lt50

協力

JAL、アエロフロートロシア航空、hotels.com

FTBEU経済危機のエーゲ海に捧ぐ魅せられてツアー

♪Wind is browing from the Aegean おんなはうみ~♪

(訳:マサよ、エーゲ海から女々しい不況の風が吹いて来るぜ!)

というわけで、私が中学生として活躍していた1979年にヒットした日伊合作映画「エーゲ海に捧ぐ」と連携キャンペーンを行ったワコールのCMソングとして作られ、ついでにレコード大賞も取ってしまった名曲が流れていた頃のギリシアはエーゲ海に世界中の欲望を集めてマサにキリギリスさながらの生活をエンジョイしていたのだが、その化けの皮もとっくに剥がれて公務員が賄賂を持って暗躍する借金大国と成り下がってしまった。

好きな男の腕の中でも違う男の夢を見ているかのように様々な経済援助を受けているにもかかわらず破綻の足音が大きくなっているギリシアから観光客の足が遠のき、飛行機代もホテル代もバーゲン状態になっているこの機を捉えて中学時代から憧れてやまなかったエーゲ海にジュディ・オングのような羽を広げてついに舞い降りることになったのだ。

2012年6月18日(月)

エーゲ海の風の数倍の威力を持つはずの台風4号の上陸に先立って22:30関空発TK47便に乗り込むと♪南に向いてる窓をあけ♪ることなくブラインドを閉めて♪私の中でお眠りなさい♪という文言を機内で唱えながら意識を失くすことに専念した。

6月19日(火)

11時間以上のフライトで夜もまだ明けぬ午前5時過ぎにイスタンブール国際空港に到着するとトルコ航空のラウンジに直行して日がな一日ここでタダ酒とタダ飯を貪りながらキリギリスのように過ごさせていただいた。トルコ航空運行のイスタンブール‐アテネ間の便は一日3便あるのだが、最終便である19:25発TK1843便に乗り込むと1時間ちょっとのフライトでアテネのエレフテリオス・ヴェニゼロス国際空港に到着したのは午後9時前の時間帯であった。

到着口で空港から市内へのタクシー料金が一律の明朗会計になっているのを確認すると順番を待ってイエローキャブに乗り込み、整備された高速道路を経由してアテネ市内のノボテルホテルに辿り着いた。タクシー料金を払う際にアテネに来て料金があってね~といったトラブルに遭うこともなかったのでチップ込みで40ユーロを与えると運転手は満足した面持ちで引き上げていったのだった。

6月20日(水)

ホテルから徒歩5分のところにアテネの中央駅である鉄道ラリッサ駅が君臨し、それに付属するように存在する地下鉄ラリッサ駅で4ユーロを支払って24時間乗り物に乗り放題のチケットを購入すると車体を下手くそな落書きでコーティングされた地下鉄に乗り込み、アクロポリという駅で下車する運びとなった。この駅の構内には地下鉄工事の際に発掘された土器や墓などが展示されており地下鉄ミュージアムとして観光客の注目を集めていた。

ギリシア古代遺跡のハイライトともいうべきアクロポリス(世界遺産)は「高い丘の上の都市」という意味を体現するかのように自然の要塞とも言える岩山にそびえていた。早速チケット売り場で複数の遺跡に入場出来る共通チケット(12ユーロ)を購入すると炎天下で不貞寝を決め込んでいる猛犬を刺激しないように丘の上に続く階段を登って行った。

今も古典劇などが上演されるイロド・アティコス音楽堂を高みから見下ろすと不景気を物ともせずに多くの観光客で溢れているプロピレア(前門)を通ってアクロポリスの中心部に踏み込んでいった。

ギリシアの象徴と言っても過言ではないパルテノン神殿は紀元前432年に完成したもので、現役当時は神殿内部にアテネの守護神アテナの高さ12mにも及ぶ巨大な像が安置されていた。1687年のヴェネツィア軍の攻撃で大破してしまったのだが、修復作業を継続するために今なお多額の資金が投入されている様子が見て取れたのだった。

エーゲ海から吹く風で栄光のギリシア国旗をはためかせているパルテノン神殿奥の展望台からはアテネの街並みが一望出来、観光客は狭い展望台の中でベストな撮影スポットを確保しようとせめぎ合っているのであった。

紀元前408年に完成したエレクティオンは北側にイオニア式円柱、南側にはカリアティデスと呼ばれる6人の少女像を人柱的に配しているのだが、それらの人柱はすべて複製でオリジナルのうち5体は新アクロポリス博物館に収蔵され、残りの1体は大英博物館に略奪されているのである。

アクロポリスで古代ギリシア建築の真髄に触れると同時に栄枯盛衰のはかなさをかみしめた後、丘を降りてとあるカフェで昼食のパンを噛みしめて体力を回復させるとかつて賢人たちが議論を交わしたと言われている古代アゴラに向かった。

古代においては政治、宗教、文化的施設が集中している場所を意味するアゴラでは男たちが買い物をしたり、政治を論じたりしていたのだが、精神的中心であったアクロポリスに対して、当時の古代アゴラは生活の中心として重要な役目を果たしていた。

ヘファイストス神殿はギリシア国内で最も原形を留めている神殿で、建築時期はパルテノン神殿とほぼ同時期の紀元前450~440年頃のものと言われている。市場があったとされる中央柱廊は長さ約120m、幅約15mにもおよび、ここで物が売買されていたのであった。

巨人とトリトン(半人半魚)の像3体のみが残っているアグリッパの音楽堂を通り過ぎるとギリシア遺跡の中で唯一完全に復元された建造物であるアタロスの柱廊にたどり着いた。ここは古代アゴラ博物館になっており、古代ガッツポーズ像等の古代アゴラで発掘されたもののほとんどがここに収蔵されている。

古代アゴラの隣に広がるローマン・アゴラはローマ時代初期(紀元前1世紀~紀元前2世紀)のアゴラの跡で、かつては市場兼集会場として人があふれていたという。大理石でできた八角形の「風の神の塔」は日時計、水時計、風見の3役をこなしており、塔の8面はそれぞれ東西南北と、北東、南東、南西、北西の方向を指し、壁の上部にはそれぞれの方角の風の神が浮き彫りにされている。

30°をゆうに超える炎天下を長時間遺跡見物に勤しんでいると遺跡のように干からびてしまいそうな乾きを覚え、のぼせるといけないので早々とノボテルホテルに退散し、ギリシア料理をつまみに英気を養っておくことにした。

6月21日(木)

朝日が昇ってるのを横目にノボテルホテルをチェックアウトすると地下鉄を乗り継いでエーゲ海の島々への海の玄関口であるピレウスのフェリー乗り場に向かった。2500以上もの島々が点在するエーゲ海を運行する多くのフェリー会社から人気島への高速フェリーの便を持つHellenic SeawaysのチケットをあらかじめWEBで予約していたので窓口で搭乗券を受け取ると7:30発サントリーニ島行きの大型高速艇Highspeed6に乗り込んだ。

船内の売店で高値で売られているカフェとサンドイッチを召し上がっていると船はいつの間にか出航しており、すべるようにピレウス港内を後にした。広い船内では概ね快適なエーゲ海クルーズを楽しむことが出来たのだが、トイレの洗面所がゲロまみれになっていたり、流してはいけないトイレットペーパーを流してトイレが詰まっているような些細な不具合には目を瞑らざるを得なかった。船は途中イオス島に寄港して速やかに乗客の乗り降りを済ませると正午過ぎにはキクラデス諸島の中でも観光客に絶大な人気を誇るサントリーニ島のアティニオス港に到着した。

船を降りると目の前には断崖の壁が迫っており、その上には雪のように積もった真っ白な家々が町を形成している様子が遠目に見受けられた。港には観光客をサントリーニの中心の町であるフィラまで運ぶ公共のバスが待ち構えていたので早速乗り込むとつづら折りの坂道を駆け上がって20分ほどでバスステーションに到着した。引き続き、この島での宿を取っている北部の町イア行きのバスに乗り、眼下に広がる真っ青なエーゲ海を眺めていると青と白の対照がこの上なく美しいイアの町にたどり着いた。

観光案内所に荷物を預け、シエスタの時間でも営業しているレストランで昼食を済ませると軽くイアの町を歩いてみることにした。まるでメルヘンの世界のような通りにはおしゃれなカフェ、アートショップ、土産物店が所狭しと立ち並び、エーゲ海の絶景を価格に上乗せしているはずのコスメショップにはご当地名物のオリーブを原料にした石鹸が陳列棚を席巻するように配置されていた。

崖には白壁に青屋根の教会や民家が段々に建っており、他の島では見ることの出来ないサントリーニ島独特の景観を形作っている。不況の影響でバカンスシーズンの観光客の出足が悪いとは言え、ここはマサに不景気であることを忘れさせてくれるこの世の楽園だと思われた。

強烈な日差しからエスケープするためにイアのバスステーションでベンツタクシーを捕まえてビーチ沿いに位置するプール付きアパートメント系のエンプロホテルに移動し、チェックインの手続きを行った後、周囲を散策していると閑散とした黒砂のビーチに数人のリゾート客がくつろいでいる光景を目にした。

サントリーニ島のイアに来てかの有名な夕日を見なければサントリーニ島に来た意味がなくなってしまうので太陽が水平線に没する前に再びイアの断崖沿いの町並みに繰り出すことにした。周囲は充分明るいとはいえ、時刻は7時を回っていたのでとりあえず眺望のいいレストランでディナーと洒落込むことにした。シーフードのスパゲッティとイカの中にもち米をギュウギュウに梱包したイカ飯を肴にギリシア語で「伝説」を意味するMithos(ミソス)ビールを飲んでいたのだが、何となく物足りなさを感じていた。ところで、ヨーロッパで最初にワインが作られたのはギリシアであり、中でもサントリーニ島のワインは定評があるのでサントリーのウイスキーを発注する代わりに白ワインを軽飲して夕日見物の雰囲気を高めておいた。

のんきに飯を食っている間に夕日見物スポットはすでにおびただしい数の観光客で埋め尽くされており、ベスト撮影ポジションを確保するのは困難な状況であったのだが、何とか人ごみの中にカメラを潜り込ませると景気動向には左右されることのないすばらしいサンセットの光景を焼き付けることが出来たのであった。

6月22日(金)

エンプロホテルでさわやかなエーゲ海の風に吹かれながらゆったりとした午前の時間を過ごした後、タクシーでイアの町まで移動し、さらにバスに乗ってフィラまで繰り出すことにした。バスステーションから風光明媚な断崖に向かって歩いていると青い空を背景に輝く白亜の大聖堂が迎えてくれたので中でお祈りをすると観光客で賑わっている断崖沿いを散策することにした。

サントリーニ島はキクラデス諸島最南にある火山島で、現在のような三日月形の島になるまでには何回も火山の爆発があったそうだ。火山のクレーターは断崖の上から見下ろすことが出来る海上に浮かんでおり、そのネア・カメニ火山にはツアーボートかクルーズ船でアクセス可能になっている。また崖の上にはクレータービューを標榜するレストランが何軒も軒を連ねている。

崖の下にオールド・ポートという港があり、そこへアクセスする主な交通機関はゴンドラタイプのケーブルカーかロバの背中になっているのだが、なるほど、ケーブルカー乗り場近くのレストランで飯を食っているとロバの交通量の多さを実感することが出来るのだ。

崖の上には多くのブティックやショップも営業しているのだが、崖っぷちホテルはどれも例外なくプール付きとなっており、リゾート客がプールに入浴しながらビールやワイン片手に絶景を眺めるというこの上ない贅沢を味わっている様子が見て取れた。

フィラからバスに乗ってイアに帰り着くと丁度サンセットの光景がクライマックスを迎える頃であった。昨日とはポジショニングを少し変えて見たのだが、オレンジ色の空と崖に張り付くように建っている白い建物群とのコントラストは何度見ても感慨深いものがあった。

6月23日(土)

イア地区のエンプロホテルからタクシーを飛ばして一気にフェリー乗り場に移動した。港の旅行代理店でフェリーの搭乗券を入手し、冷房が完備した待合室でくつろいでいると何隻かの観光船の出航が見受けられた。Hellenic Seawaysが運行するFrying Cat4と命名された高速艇に乗り込み、定刻の正午に出航すると途中のパロス島に立ち寄った後、定刻14:35頃にはミコノス島のオールド・ポートに到着を果たした。港の入口にミコノス島での宿となっているサンアントニオ・サマーランド・ホテルのバンが止まっていたので速やかに乗車すると少し内陸の高台に位置するホテルにチェックインと相成った。

同ホテルでは2時間毎にオールド・ポートまでのバンによる送迎サービスを行っているので頃合を見計らって町に出てみることにした。オールド・ポートから町に向かっていると透明な海とビーチがいやがおおうでもリゾート気分を盛り上げてくれるのだが、不意に昼飯を食っていないことを思い出したので港に面したレストランに入ってシーフードの盛り合わせを発注した。しばらくすると港のレストラン通りで養われているはずの顔芸猫が絶妙な表情でおこぼれを要求してきたのだが、軽くそいつをいなしてエーゲ海の白い宝石との異名をとるミコノス・タウンの迷路に踏み入ることにした。

島のアイドルとしてレストランから鮮魚を分け与えられているペリカンを横目にミコノス・タウンの深部に向かって歩を進めていると土産物屋の前には同性愛者の多い島の雰囲気を表しているかのようなセクシー系の人物像が裸で立ちはだかっていた。

海からの強い風に抗うようにさらに進んでいると白いのっぺりとした建物に遭遇した。これが絵葉書の被写体としてよく使われるパラポルティアニ教会であることを確認すると強風を利用して動力を得ているエコなファシリティが立ち並んでいる広場に到着した。

リトルヴェニスと呼ばれるこの地域は夕日の名所でおしゃれなカフェやレストランが立ち並んでいるのだが、景色の主役である6つの風車は、かつて麦を挽くのに使われていたのだが、今ではミコノス島のシンボルとして静かに観光客を見守っているのだった。

鹿児島県の与論島と姉妹島の契を結んでいるミコノス島であるが、夜は大人の遊園地として不夜城と化すと言われている。ミコノス・タウンに宿を取ると喧騒で眠れないはずなので明るさがまだ残っているうちに高台のホテルに退散してテラスを流れる潮風にあたりながら選挙後のギリシアの離島の世論に考えを巡らせていた。

6月24日(日)

サンアントニオ・サマーランド・ホテルのテラスからニューポートに停泊している大型クルーズ船を見下ろしつつ、いつかはクルーズでやって来るぜ!という闘志を掻き立てながら朝食のコーヒーを掻き回していた。

送迎バンに乗り込むタイミングを逸してしまったので徒歩で港まで歩いて行くと野菜や魚を販売する朝市がほどよい賑わいを見せていた。港の端にある船着場からディロス島行きの船が出ているので往復チケットを購入すると11:00発のツアーボートに乗り込み、しばし洋上で風を受けることにした。

キクラデス諸島は「ディロス島を囲んでいる島々」を意味するように、諸島の中心にあるディロス島は、太陽の神アポロンとその双子で月の女神アルテミスの誕生の地として知られ、古代から信仰も盛んであった。面積にして約4km2の小島であるが、島全体が世界遺産に登録されているほど遺跡の宝庫となっているのだ。

約30分程の航海でディロス島(5ユーロ)に到着すると廃墟にしか見えない小島の中を徘徊することにした。まずはこの島の主であった太陽神アポロンを祀るアポロン神殿を見学させていただいた。ペルシア戦争で勝利を収めたアテネ率いる各ポリス(都市国家)は、戦後ペルシアの次なる攻撃に備えてアテネを中心としたディロス同盟を結成し、ディロス島に本部が置かれた。アポロン神殿は同盟結成とともに建築開始され、紀元前3世紀に完成を見たという。ディロス同盟の金庫もここに置かれ、経済的な潤いを見せていたのだが、この金庫がアテネに移されるとアポロン神殿の建設は一時中断されるという憂き目も経験しているのだ。尚、今残っているのは土台の一部のみとなっている。

ディロス島のシンボルと行っても過言ではないライオン像が海側から聖域を守るように7頭並んでいる。これらは紀元前7世紀のナクソス人からの奉納品であるが、ここで海風にさらされてアザラシ化しているのはレプリカで本物は現在保護のために博物館で余生を送っているのである。

モザイクの残る柱廊や古代体育館をチラ見して枯れた水場にたどり着いた。ここは有名なギリシア神話で女神レトがお産に使ったと言われる「聖なる湖」である。そのときオギャ~と生まれやがったのが、マサに太陽神アポロンと月と狩りの女神アルテミスの双子だったのだ。

炎天下を歩き回り、体力も尽きかけた頃合いを見計らって冷房完備の博物館に入ることにした。館内には当然のことながらディロス遺跡で発掘された数多くの遺品が収蔵されているのだが、展示されているオリジナルのライオン像のアザラシ化の具合は炎天下で頑張っているレプリカと大差はないように感じられた。

13:30発のボートに乗り込むと観光客は灼熱の太陽に生気を奪われたためか、皆ボ~として過ごしており、中には嘔吐をしている輩も見受けられた。確かに船はエーゲ海の強風のために微妙な揺れ方をして気分が悪くなることもないではないのだが、船上から見るミコノス・タウンの景色はマサに白い宝石そのものであった。

マサよ、君はタベルナと言いつつも伝統的なギリシア料理をふるまっているハングリーな食堂を知っているか!?

ということで、ミコノス・タウンに上陸するといい具合に腹も減っていたのでアントニーニというタベルナに入ってトマトをふんだんに使ったミコノス・サラダとオーブンで焼かれた白身魚を食しながらのんびりとシエスタ気分を味わうことにした。尚、TAVERNAとはお腹の空いている客に意地悪をするところではなく、魚介類を中心としたギリシア料理を出す、高級レストランよりも敷居の低い不況フレンドリーな大衆食堂なのである。

腹ごなしにミコノス・タウンの白い迷路をさまよっていると地元住民御用達の店ながら地球の歩き方を掲げて邦人をおびき寄せているオリーブ・オイルというヘルスケアの専門店に遭遇した。店に入ると店主のおばちゃんが先に来店していた中国人団体観光客を差し置いて丁寧な接客をしてくれていたのだが、中国人が起死回生のゴールドカードをちらつかせながら大人買いの装いを見せはじめると私に差し向けられていた試食品のキャンディがあえなく撤収されてしまったのだった。

オリーブ・オイルで適当に油を売った後、南のバスステーションからミコノス島を代表するパラダイス・ビーチに向かった。このビーチはヌーディスト・ビーチとして有名でゲイ・カップル等の同性愛者も御用達にしているという。トロピカーナ・クラブというゲートをくぐってビーチに出るとそこはマサに♪Wind is browing from the Aegean♪のイメージそのままの妖艶な世界が広がっていたのだ。

やさしいひとに抱かれながらも強いおとこにひかれてくような気分を引きずりながらパラダイス・ビーチを後にしてミコノス・タウンに戻ってくると風車と夕日のコラボレーションが一日の終わりを告げようとする一方で涼しくなったミコノス・タウンの賑わいが佳境を迎えようとしていた。多くのショップで目移りしながらウィンドウショッピングを楽しんでいたのだが、どの店もペリカン便で購入品を日本に送ることは出来ないと思ったのでホテルに帰って羽を休めることにした。

6月25日(月)

充分リゾート気分を満喫させていただいたサンアントニオ・サマーランド・ホテルをチェックアウトし、バンでオールドポートまで送っていただくとフェリー出航までのしばしの時間をミコノス・タウンに委ねることにした。ところで、夏はサマーランドの名の通りにリゾート客で賑わうミコノス島であるが、冬場のローシーズンになると店の半分以上が閉まって与論島のような静かないなかの小さな島に変貌するという。不況下で人生の何たるかを考え直したいという輩には絶好の環境を提供することであろう。

オールドポートから大型フェリーや大型クルーズ船が入港するニューポートまでバスで移動すると14:15発Blue Star Ferriesが運行する大型のNAXOS号に乗り込んだ。高速艇ではないのでフェリーの航行速度は遅く、さらにいくつかの島を経由するために5時間半もの時間をかけてピレウス港に到着したのは午後8時前であった。

ピレウスから地下鉄でオモニア広場に移動したのだが、さんざんこのあたりの治安の悪さを刷り込まれていたため、地下鉄駅から200m程度しか離れていないポリス・グランド・ホテルまで脇目も振らずに突進した。☆☆☆☆が光っているこのホテルの最上階のテラスはバー&レストランになっており、南にアクロポリス、東にリカヴィトスの丘の夜景を堪能しながらディナーを楽しむことが出来たのだった。

6月26日(火)

ホテル前の大通りを北に400m程進んだ場所に国立考古学博物館(7ユーロ)が開館していたので、ギリシア彫刻、美術の真髄に触れるために入ってみることにした。ギリシア神話で躍動するオリンポス12神の神々や英雄たちのことを事前に学習しておけばここで過ごす時間もこの上なく有意義なものとなったであろうが、最近の日本でホットな神はAKB48の神セブンなので不動のセンターとしてオリンポス神の最高神として君臨するゼウス(ジュピター)やエーゲ海に捧ぐ美と愛欲の女神であるアフロディテ(ヴィーナス)、油断するとデーモン小暮に見えてしまう戦いの神アテナに注目しながら見学を行った。

展示品は彫刻だけではなく、キュートな土器や黄金仮面、エレクトした銅像等多岐に渡っていたので閉館時間まで博物館に入り浸り、暑さを凌ぐと同時にギリシアの歴史への理解を深めるべく勤めさせていただいた。

ギリシアツアーの最後は神殿で締めたいと思っていたので地下鉄でアテネの心臓部であるシンタグマ広場に移動し、国会議事堂に向かってこれ以上借金を重ねないように睨みをきかせた後、15本の柱がそびえているゼウス神殿に向かった。アドリアノス門のすぐ南にあるゼウス神殿はかつて計104本ものコリント式の柱が並び、それは美しく、威厳ある姿であったという。財政難にあえぐギリシアもひたむきに観光業に励んで借金を返済し、過去の威厳を取り戻してくれるように祈りを捧げながら整備された地下鉄で空港に戻っていった。

泣き叫ぶ猫をバスケットに閉じ込めて空港内を闊歩しているギャルを横目にトルコ航空カウンターでチェックインを果たすと21:50発TK1844便に搭乗し、一旦イスタンブールまで飛んだ後、ほとんど乗り継ぎ時間もないままにTK46便関空行きに乗り換えると定刻00:50には恒例のJTB旅物語のツアー客に取り囲まれてのフライトとなっていた。

6月27日(水)

午後6時頃に関西空港に到着すると2004年のアテネオリンピックの栄光は身の丈にあってね~♪若さによく似た 真昼の蜃気楼♪だったのではないかと訝りながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥115,410

総宿泊費 ¥48,440

総フェリー代 EUR162.5

総地下鉄代 EUR13.8

総バス代 EUR13.4

総タクシー代 EUR93

協力 トルコ航空、Hotels.com、agoda、Hellenic Seaways、Bluestar Ferries