祝令和ツアー第一弾FTBはるかシルクロード敦煌の砂漠

令和なる新時代を迎えた今日この頃であるが、昭和が最終回に入った1988年の夏、大和証券の新入社員として営業成績を上げるべく激戦地の兜町周辺を奔走する毎日に疲れていた私はいつしか飛び込み営業もそこそこに映画館で時間を潰す日々を繰り返していた。映画評論家への転進が視野に入り始めた頃、若き日の佐藤浩市や西田敏行がスクリーンで躍動する「敦煌」という映画に魅せられ、私もいつしか敦煌の砂漠で身を清めることになるだろうとの予見を胸に、豚骨ラーメンの聖地である北九州支店に流されて行った。30年にもおよぶ平成の世を平静にやり過ごしているうちに中国の大動脈はシルクロードから一帯一路に進化しつつあるものの、時代の転換期である令和初日に縁あって敦煌行きのミッションを実行することとなったのだ。

2019年5月1日(水)
各テレビ局が競って放映している新時代への改元の儀式への注目もほどほどに、昼過ぎにGWの中だるみが見られる羽田空港へそそくさと移動し、ANAの搭乗案内スクリーンが映し出す「祝令和」の文字を横目に17:20発NH963便にご祝儀の期待を抱きつつ乗り込んだ。機内では特に鏡割りのサービスがあるでもなく、すでにANA Suiteラウンジで暴飲暴食の限りをつくしていたので機内食には見向きをせずに機内ビデオで放映されている「101回目のプロポーズ」の「ぼくは死にましぇん」という決め台詞を右から左に聞き流していた。

1時間の時差を越えて午後8時過ぎに北京首都空港に到着すると小腹を満たすために小辛ラーメンを流し込み、タクシーを捕まえて予約しておいたHoliday Inn Beijing Airport Zoneに移動して速やかに休ませていただくことにした。

5月2日(木)
早朝5時から運行開始するホテルのシャトルバスに乗り込み、北京首都空港のターミナル3まで送迎していただいた。朝の早い時間から空港の国内線カウンターはおびただしい数の搭乗客でごったがえしており、プレミアムチェックインが期待出来るAir ChinaのStar Alliance Goldの列を探したが見つけることが出来なかったので一番端列の最後尾にへばりつくことにした。絶え間ない横入り客のため、列の進みは芳しくなかったもののチェックインの担当者は私が上客であることを理解し、手荷物にも通常通りのPriorityタグを付けてくれたので溜飲を下げながら搭乗口に向かった。

チェックインで出遅れたため、すでに搭乗開始となっている6:40発CA1287便に乗り込むと約3時間30分かけて中国の東端から西端へと移動した。飛行機が高度を下げるにつれ、タクラマカン砂漠の荒涼とした景色に刻まれたシルクロードの道筋がくっきりと浮かび上がるとともに喜太郎のシルクロードのメロディが頭の中を駆け巡り、時を越えてよくぞここまで来たろうという感動で心が埋め尽くされたのであった。

10時過ぎに敦煌空港に到着し、女性ドライバーの客待ちタクシーに乗り込むと車窓を流れる乾いた景色からオアシスグリーンを経由して約15分ほどで市街地に到着した。Agodaに予約させておいた日本人観光客御用達の☆☆☆☆ホテルである敦煌太陽大酒店にチェックインを試みたものの、日本語を操るフロントレディが予約がうまく通っていないという動揺した表情を浮かべており、最上階のPremier Deluxeルームにたどり着くまでかなりの時間を要してしまったのだった。

敦煌初日である今日は特にこれといった予定を立てていなかったので、とりあえずコンパクトにまとまっている敦煌市街地を散策することにした。かつてはシルクロードを代表する交易都市だったわりには人が少ない印象で、中国の大都市を練り歩く時の人いきれとは無縁のリラックス状態で町の雰囲気を楽しむことが出来るのだ。

市街地の目抜き通りの中央交差点に鎮座する飛天は仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人でシルクロード経由で各地に伝わり、敦煌のシンボルとして崇め、奉られている様子で、新高輪プリンスホテルの「飛天の間」の拝金主義とは一線を画している優美さを醸し出していた。

まだ夜には程遠い時間であったが、空腹を満たすために敦煌夜市の門をくぐることにした。ワゴンショップの土産物屋や多くの屋台は開店前で閑散としていたのだが、一部営業活動を展開している食堂の客引きは積極的でその勢いにつられるように入店し、適当な地元料理を賞味させていただいた。内陸地域のため、肉料理のメニューが圧倒的に多かったのだが、ひき肉を乗せた黄麺や塊あぶり肉の表面をこそぎ落として供されるケバブ系の食べ物はそれなりに美味であった。

市街地にはこれといった見所もなく時間を持て余すこととなったのでさらに散歩を続けていると町中にはチリひとつ落ちてなく、スカーフで防塵対策を施した掃除人があちこちでほうきを手にレレレのレ活動に勤しんでおり、この町の主要産業は観光と清掃ではないかと思わずにはいられなかったのだ。

5月3日(金)
朝7時より供される朝食会場には昨日は気づかなかった日本人観光客が数多く集散しており、祝令和よりも観光を優先させたはずの彼らは野菜中心の健康的な惣菜や中国粥、主食であるはずの牛肉麺に舌鼓を打っていた。

今回のツアーのハイライトである敦煌のシンボル、「砂漠の大画廊」と称される世界遺産「莫高窟」の見学を確実のものとするために中国の旅行会社である西安中信国際旅行社に高値を支払い、敦煌1日観光を申し込んでいた。朝8時に張し玉と名乗るうら若き観光ガイドギャルがSUVの運転手を伴ってホテルまで迎えに来たので専用車に乗り込んだ。道すがら張嬢は大連で2年間日本語を学んで日本語観光ガイドの職を得たとのことであったが、このツアーで彼女の一番得意な日本語であるはずの「お手洗いは大丈夫ですか?」という基本フレーズを何度も聞くことになるのである。

ホテルから10分程度のドライブで莫高窟数字展示センターに到着した。お手洗いに行っている間に張嬢がチケットを買って来てくれたので長い行列の最後尾に並び入場を心待ちにしていた。入場待ちの列の進み具合がやけに悪いと感じていたのだが、ある瞬間から一気に進み始め、最初に入った映画館のような場所で1本目のビデオを見せられた。さらにプラネタリウムを彷彿とさせるドーム型のシアターに移動するとすばらしい仏教画や仏像の3D映像が次々と大迫力で目の前に迫ってきたのであった。

2本の感動的なビデオで莫高窟見学の気分を盛り上げさせられた後、おびただしい数の観光客をさばくために運行されている多くのシャトルバスの先頭車に乗り込むと荒涼とした景色の中を15分ほど走り抜け、ついに莫高窟への悠久の扉が開かれる入り口へと到着した。

莫高窟勤務の中国人日本語ガイドのコストパフォーマンスを最大化するために集合場所に決まった数の日本人観光客が集まるまでの時間はちょっとした記念撮影タイムとなり、皆整然と莫高窟の看板の下のベストポジションを譲り合っていた。

ところで、莫高窟とは敦煌市の近郊にある仏教遺跡で別名、千仏洞、敦煌石窟とも称される。岩窟群は4世紀から約千年間、元代に至るまで淡々と彫り続けられ、大小492の石窟に彩色塑像と壁画が保存されており、仏教美術として世界最大の規模を誇っている。雲崗石窟、龍門洞窟とともに中国三大石窟のひとつに数えられている。青い制服を着た日本語ガイドの説明によると492の石窟はすべて公開されているわけではなく、ロシア革命時に北の国から流れてきた難民がいくつかの石窟の中でアウトドアライフを余儀なくされた 時のバーベキューの煙で内部がいぶされ、すでに修復不可能となっている壁画もあるというではないか!

とにもかくくにも多くの団体を効率よくさばくべく、粛々とツアーの開始となったのだが、残念なことに石窟内部は写真撮影禁止となっているためシルクロードを伝わって調達した多くの種類の顔料を粘土に溶いてなすり付けて彩色した保存具合の良い壁画や仏像をあらためて見るためには石窟の入り口にインストールしてあるバーコードをスキャンしておかなければならないのだ。

遣隋使、遣唐使の時代から宋、西夏、元と中国の歴史が移り変わるにつれ、仏教画の画風や色彩も変化しており、女性だけの寄進者の石窟が出現したりとバラエティに富んでいるのだが、多くは宋、元、清の時代に修復が入ったもので隋、唐時代のオリジナルのまま残っているものは大変貴重なので観光客は心してその光景を胸に刻み込むことが推奨される。

ついに莫高窟を世界に知らしめた「第17窟」に入場する瞬間を迎えることに相成った。1900年、一人の道士が莫高窟の第16窟に進入したところ、入り口の右手の壁にクラックが入っているのを見つけ、掘り進めたところ、多数の経典や仏画などが見つかったのだ。それらの多くはフランス、イギリス、日本などの探検家に買い叩かれて、持ち去られたものの、発見された古文献を研究する「敦煌学」という学問が成立する契機となったのだ。

なぜ4万点もの書画や経典が「第17窟」に隠され、壁に塗りこまれていたのかは今もって謎とされているが、井上靖の小説「敦煌」によると西夏軍に攻め込まれた敦煌が火の海となったときに貴重な経典を「灰にしてはならん」と思った敬虔な仏教徒たちが佐藤浩市の指示のもとで石窟に避難させたという説が日本人の心情に最も訴えるはずであろう。

2時間あまり続いた見学もクライマックスをむかえ、莫高窟のシンボル九層楼で締めることとなった。九層楼は莫高窟の第96窟で、俗に大仏殿と呼ばれている。高さ43mを誇り、9層を重ねた軒があり、うちの7層は山に寄りかかって築かれたが、上の2層は山を突き出して建てられた。洞窟内に弥勤の坐像が彫塑されており、石造で彩色絵画が施された泥彫塑で、高さ34.5m、幅12.5で、中国では第五番目に大きい仏像で、世界では現存する室内泥彫聖の第一大仏を誇る。仏像は唐代につくり始めたが、後代に幾度再建を繰り返しても、依然として従来の風貌が保たれているのである。

最高気温28℃まで達した乾燥晴れの中で無事に莫高窟の見学を追え、FTB一行は青い服の日本語ガイドから張嬢へと引き渡された。予約していた昼食の時間も押し迫っているようで、30年前にこの地を訪れた佐藤浩市、西田敏行の幻影に思いをはせる間もなく近郊の昼食会場へと移動した。高い観光代を払っているだけあって、昼食メニューは若鶏1羽まるごと鍋でぐつぐつにした敦煌の郷土料理や羊肉の串焼き等食べきれない品々が食卓を賑わした。

丸々太った若鶏にしゃぶりつき、鶏がらへと変身させるとその勢いを駆って次の目的地である鳴沙山へ向かった。トリップアドバイザーの敦煌観光地ランキングで莫高窟に次いで2位となっている鳴沙山は敦煌の市街区からわずか5kmに位置し、その砂山の長さは東西約40km、南北約20kmにもおよぶ広大なものである。風が吹くと「砂が鳴く」ような音を出すことから鳴沙山という名称になっているのだが、砂が鳴くような音をたてる現象は、物理的には長い年月を経て、砂粒の表面がきわめてよく洗浄され,微粉状の物質が付着していないことが重要だという。

鳴沙山くんだりまで来てラクダに乗らないと、シルクロードに来たにもかかわらずシルクのような透けスケの観光に成り下がってしまうことを恐れて100元の大枚をはたいてケツの筋肉を鍛えなおすことにした。多数の頑固そうなラクダがたむろしているラクダステーションでアサインされたラクダは前後の足を折り、正座して観光客を待ちうけ、池中玄太80キロに迫ろうかという私の肉体を軽々と背にしてゆっくりと歩き始めた。

ラクダドライバーの先導により、隊商は足場の悪い砂漠を慎重に進み、観光客が落ラクダしないように配慮されていたのだが、ラクダの機嫌次第では振り落とされそうな体勢に持ち込まれるため、常に手綱を引き締め、ケツのポジションを調整しなければならなかった。途中2箇所で記念撮影のための時間が設けられ、ラクダドライバー兼写真家の演技指導により、ポーズを取ることを強制されたのだった。

約1時間のシルクロード体験を終えると、張嬢のすすめで鳴沙山への登頂を試みることになったのだが、張嬢は「私は下で待ってます」とのたまったのだった。急角度で上昇する滑りやすい砂道ははしご状に埋め込まれたロープでサポートされているものの、息を切らした登山者はさわやかな砂風に吹かれながらその場に立ち尽くしていた。「滑沙」という有料の砂すべりアクティビティが人気を博しているのだが、その陰には修行僧のようにすべり板を運び上げる労働者の努力があるという事実を忘れてはならないのだ。

ある程度高度を稼いだところで振り向くと遠く敦煌の市街地が蜃気楼にように見え始め、三日月型の「月牙泉」の雄姿が砂山の裾野にあらわとなったのだ。

あらためて月牙泉フロントでそのオアシスぶりを眺めて見たのだが、砂漠の中にあって何千年前から絶えることなく湧き続けている神秘性に思わず引き込まれそうになってしまった。泉のそばには楼閣もあり、砂漠と水と建物のコントラストは敦煌の代表的な景色として多くのトラベラーを引き付けてやまないのだ。

敦煌観光のハイライトを駆け足で巡り、身も心もカラカラになったので、ホテルに戻って麦酒アルコールで水分を補充し、しばし休憩を取った後、夕食を取るために敦煌夜市に繰り出した。とある店先で一心不乱に木の円板に飛天を彫刻している青年の姿に釘付けになったものの、数ある食堂の客引きの声援を受けながら適当な一軒の店のテラス席に陣取った。途中となりの店で警察沙汰に発展した小競り合いがあったのだが、特に気にするでもなく地元料理を腹におさめるとライトアップされている飛天を見て体のバランスを取り戻しつつ太陽大酒店に帰還した。

5月4日(土)
晴れているのか、曇っているのか区別がつかないのは鳴沙山おろしで舞い上がった微小な砂粒が大気とコラボレーションしているせいであろうか?おかげで敦煌に着いてから今日まで謎のアレルギー症状が発生し、日本では花粉症耐性を持つ私の目、口、鼻を容赦なく蝕んでいた。清掃業者であるはずの五幸福田の従業員に対策のノウハウを聞きたいところだったが、敦煌の最終日を有効活用すべく「敦煌博物館」へと足を向けた。

チケットカウンターでパスポートを提示するとただで入場出来るシステムになっていたので遠慮なく広い館内を散策させていただいたのだが、莫高窟の仏教画のレプリカとともに私の印象に残ったものはマイクを持つポーズを取っているかのような石像のコーラスグループだったのだ。

昨日夜市で目を付けておいた飛天の彫刻をファーウエイのスマホの計算機でコミュニケーションされた言い値で購入すると洋風の喫茶店で午後のコーヒータイムと洒落込み日中はのんびりと過ごさせていただいた。夕食を取るためにホテルに早めに戻り、青島ビールを頼んだものの出てきたのは黄河ビールだったのだが、特に大差はないので気にしなかった。

前日に交わした約束の時間にたがわず、張嬢が午後8時に運転手つきのセダンに乗ってホテルに迎えに来てくれた。敦煌郊外の劇場では日夜シルクロードを題材にした劇が公開されているとのことだったので敦煌のラストナイトは観劇で決めることにした。

定刻8時半に開演となった絹路花雨「シルクロードの花吹雪」はミュージカル仕立ての活劇で飛天をモチーフにした踊り子を中心にアクロバティックな演者たちが舞台を縦横無尽に跳ね回り、シナリオは幕間に大型スクリーンに中国語と英語のストーリーが表示されるので言葉がわからない輩もストレスなくシルクロードの世界に浸ることが出来るのだった。

午後10時過ぎにホテルに戻り、張嬢に観劇のチケット代と諸経費を支払おうとしたところ、今夜の観劇はプライベートということで運転手として張嬢の彼氏を夜遅くまで引っ張りまわしているので観劇代だけ受け取ることにすると言い放ち、中国の観光業の従事者としてありえない特別対応をしていただいたことはこの場を借りてお礼を申し上げるべきであろう。

5月5日(日)
昭和、大和(証券)、令和にまたがって抱き続けた敦煌への憧憬を舞い上がった砂粒のように昇華させることが出来たので、充血した右目を手土産に11時発CA1288便で北京への帰路に着いた。高速鉄道、地下鉄を乗り継いでホテルに到着した時間が中途半端だったものの近隣の観光地、世界遺産の天壇にはかろうじて入場出来る時間帯だったので明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所の一角(15元)に足を踏み入れることにした。

天壇でもっとも有名とされる建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在とされる祈年殿は入場時間の関係で遠巻きにしか眺められなかったものの、高い青空の下に広がった緑の楽園で、ここが悪名高いPM2.5の聖地であることが信じられないほど、のんびりとした時間を過ごすことが出来たのだ。

天壇散策で胃腸が活発に動き始めたので繁盛してそうな近隣の町食堂に入店し、名物北京ダックに舌鼓を打つことにした。北京で食する北京ダックはマサに本家中の本家の味で、そのまま天壇に向かって昇天しそうなくらいコストパフォーマンスが高かったのだ。

5月6日(月)
早朝5時半にホテルからタクシーで空港に移動し、8:20発NH964便で羽田に向かった。機内映画の「ボヘミアン・ラプソディ」を見ながら♪ボヘミアン♪と言えば葛城ユキの代名詞ではないかと思いながら、敦煌でハスキーになってしまった声をいたわりつつ流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥78,230、 Air China = ¥74,720
総宿泊費 RMB2,764.86
総鉄道、地下鉄代 RMB29
総タクシー代 RMB245
総敦煌1日観光代 ¥20,700

協力 ANA、Air China、IHG、西安中信国際旅行社
非協力 Agoda

中国最強リゾート 東洋のハワイ三亜with三国志

欧米各地でのイスラム国による度重なるテロ行為により、年末年始の海外旅行を控えるべきではないかと考えもしたのだが、テロとは縁遠い旅行先を探しているうちに中国が土俵に上がってきた。しかし、中国でも大気汚染やガス爆発、土砂崩れ等、問題のある地域は多いのだが、南シナ海に面する海南島の最南端にハワイに匹敵するリゾート地が君臨しているというではないか。今回は中国最強のリゾートである三亜に進出し、爆買人民がどのようなバカンスを過ごしているのかを確かめるツアーを催行することになったのだが、決してハワイまで行く資金が不足していたのではないことをあらかじめ申し伝えておかなければならないだろう。

12月29日(火)
成田空港のANA SUITE LOUNGEで優雅に朝シャンペンを楽しんでいるとスタッフが私の乗る飛行機の搭乗が開始された旨を律儀に伝えに来たので、炭酸のゲップを抑えながらそそくさと搭乗ゲートに向かった。中国国際航空公司(Air China)の運行するCA460便に乗り込むと、座席上の物入れの中はすでにインバウンド観光客が持ち込んだ爆買戦利品で埋め尽くされており、段ボールに入った炊飯器等を動かすことが出来なかったので、仕方なく座席の下のスペースに自分の手荷物を放り込んだのだった。

当機は定刻8時50分に出発すると約5時間のフライトで内陸部の大都市である四川省成都に到着した。パンダの繁殖で繁栄を謳歌しているはずの成都双流国際空港内は大量のパンダのオブジェで賑わっており、この地では何事も白黒はっきりつけることが重要だと思い知らされたのだ。

空港からバスに乗ると30分ほどで成都の中心部に到着したので、そこから徒歩でとぼとぼと成都最強の観光地へと向かった。尚、詩人の杜甫もこの地の出身らしく、成都では杜甫草堂博物館も名所の一つとなっているのだが、今回は時間の関係で割愛させていただいた。

中国の歴史好きの輩は例外なく三国志をフォローしているはずであるが、蜀の都である成都には武侯祠というマサに三国志の聖地が君臨しているので謹んで訪問させていただくことにした。武候祠博物館(60元)は、蜀の王、劉備玄徳と丞相諸葛孔明を祀る廟で、1961年に国務院により全国重要文化財に指定されている由緒ある場所である。

勝手がわからなかったので、恐らく正面ではない入口から入ったためか、最初に三義廟というおなじみの劉備、張飛、関羽の三兄弟を祀ったファシリティに行き当たり、三国志DVDに登場する主役達そのもののいで立ちに恐れおののいてしまった。

内部をさまよっていると千秋凛然という博物館に行き当たったので入ってみることにした。展示物はマサに三国志の資料の宝庫であり、小説家の吉川英治(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E5%90%89%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E6%B2%BB))や漫画家の横山光輝(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97_(%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D))がここに来れば狂喜乱舞するであろうことが容易に想像されよう。

劉備、関羽、張飛の像を祀った漢照烈廟(劉備殿)には三義廟のものとは表情の異なる3氏が鎮座していたのだが、その奥にあるはずの諸葛孔明とその子、孫の像があるはずの武候祠(諸葛亮殿)には工事中の影響でたどり着けなかったので優しい表情の孔明像を拝むことはかなわなかったのだった。

武侯祠内は赤壁の戦いをほうふつとさせる長い壁が張り巡らされているのだが、迫りくるフライト時間の関係で劉備の墓と言われている恵陵を見逃し、緑多き庭園の孔明苑が修繕中のために立ち入り禁止の憂き目にあったので、再度の訪問を検討しなければならないのだが、劉備が孔明に会う時も三顧の礼を尽くしたので私も三回来なければ謁見は許されないのかも知れない。ならば、土産物屋にて孔明仕様の扇子を爆買いしてジュリアナOG達が踏み倒したお立ち台にお供えすることも考えたのだが、センスの悪さを気にしてか、店頭では見ることが出来なかったのだ。

余裕があれば麻婆豆腐発祥の地である陳麻婆豆腐店にも立ち寄ろうと思ったのだが、今回は空港の食堂で元祖であるはずの麻婆豆腐と担々麺等を賞味させていただいた。山椒の効いた豆腐をひと口含むとそこには中華の鉄人、陳健一の世界が広がっていた。

CA4375便は定刻20時に出発し、中国大陸を南下して約2時間半で三亜鳳凰国際空港に到着した。ローマ法王は来たことはないと思うが、寒いところから熱帯地方に来た観光客が熱中症にならないように鳳凰空港の到着エリアには着替えのための更衣室が設けられており、思わずほ~お~と感心させられたのだ。

タクシー乗り場にはリゾート待ちの観光客で長蛇の列が形成されており、乗り込んだタクシーの運転手が間違ったホテルに連れて行ってとんずらこいてしまったので新たに手配したタクシーで何とか市中心のクラウンプラザホテルにしけこんだものの、町の喧騒で眠れない夜を過ごすこととなったのだ。

12月30日(水)
朝の散歩がてら立ち寄ったホテルのプールでリゾート気分を高めると、Tシャツと半ズボンで軽く周辺を散策することにした。海に近い川沿いには中国独特の毒々しげな高層ビルが目につくものの係留してあるクルーザーを見ると他のリゾートと同様にお金が流れている様子が想像できる。

中国大陸の南に浮かぶ海南島の最南端に位置する三亜は国際的なビーチリゾートの整備が今なお進んでおり、リッツカールトン、マリオット、ヒル / シェラトンといった名だたる外資系ホテルがこぞって進出している。爆買いにより回復基調にある日本経済の原動力となっている中国インバウンド観光客に報いるために、中国での散財を目的としてインターコンチネンタルホテルを予約していたのでタクシーで向かうことにした。尚、三亜には2軒のインターコンチがあり、案の定タクシーの運転手が最初に間違ったインターコンチに連れて行ってくれたので図らずも両ホテルの比較をすることが出来たのだった。

今回宿泊するインターコンチネンタル海栄湾リゾートは市中心や観光地から離れた東部のビーチにあり、周囲は開発真っ只中という様相を呈していた。木のぬくもりをふんだんにあしらったホテルの9階の部屋にチェックインするとバスタブがインストールされたテラスから眼下のプールや透明な南シナ海のビーチが眺められた。

地上に降りてウエルカムドリンクのビールを流し込むと、広大な敷地の芝生道を超えてビーチへと向かった。あいにくの曇り空と波の高さのため、遊泳禁止となっていたが、海はそこそこきれいで無理すれば泳げるくらいの海水温であった。

当ホテルの大きな特徴は水族館が内蔵されていることで、ウミガメやエイや掃除中のダイバーの雄姿をライブで眺めることが出来るのだ。

夕飯時になったので、館内の3軒のレストランを物色していたのだが、大人気の水族館レストランに予約なしで侵入することが出来たので目の前を泳ぐ魚たちを肴にシーフードビュッフェを堪能させていただくことにした。

メインコースはロブスターか大海老のチョイスとなっており、食事中にダイバーが頻繁にウミガメや六輔と命名されているかどうかわからないエイを引き連れて被写体になろうと躍起になっているので、落ち着いて飯を食うこともままならなかった。一人当たり約¥15,000の食事代(ドリンク付)がお得かどうかは実際にここに来ないと判断が出来ないであろう。

食後にビーチサイドを歩いて腹ごなしをしていると虹色に光るホテルのライトアップが眩しかった。魚を養っている水槽前のテラスではお洒落なバンドがサカナクションではないムーディーなミュージックを奏でていたのだった。

12月31日(木)
ホテル代の元を取るために今日は意地でもホテル内で過ごさなければならなかったのだが、隣に巨大免税ショッピングモールが営業していたので買う気もないのに足をのばしてみることにした。

中国人買い物客はここでは必ずしも爆買いをするわけでもなく、淡々とショッピングに勤しんでいたのだが、尿意をもよおした子供のパンツを下げて店の前で放尿させるというマナーはマサに一人っ子政策で子供を甘やかせる中国独自の荒業であったのだ。

山に沈む夕日を見送ると今夜はホテルのチャイニーズレストランにアポなしで突撃した。海南ビールで喉の通りを良くしたまでは良かったのだが、頼んだ料理の出てくる順番がスープ、メイン、前菜、デザート、あわびご飯と無法地帯の様相を呈していたのが多少気にかかったのだった。

1月1日(金)
ハッピー ニュー マサよ!

ということで、ホテルの地下水族館で最後のサカナアクションを堪能し、散財に勤しんだインターコンチを後にしてタクシーで空港にほど近い三亜湾のホリデーイン・リゾートに移動した。帰国を翌日に控え、豪華リゾートから通常のリゾートに格を落として現実に近づくためのリハビリも兼ねて今日は少し観光もかましてみることにした。

ホテル前のバス停から市バスに乗り、数kmの道のりを西に進んだのち、道路工事通行止め対策のシャトルバスを乗り継いで天涯海角風景区(100元)という景勝地にたどり着いた。海南島は長らく罪人の流刑地とされてきたが、特に三亜は、この世の果てを意味する「天涯海角」と呼ばれる土地だった。その実績を今に残すべく、この天涯海角は三亜最強の観光地として多くの人民を集めているのである。

さすがに風景区というだけあって青い海のビーチは美しく、1km程歩いていると様々な形をした岩々が忽然と姿を現し、観光客の目を楽しませてくれる。

中でも「南天一柱」、「天涯」、「海角」といった文字が彫られている岩は絶好の記念撮影スポットになっており、常に人だかりが絶えることがなかったのだ。

三亜湾に戻ると日もほとんど沈んでしまっていたのだが、ビーチの果物売りのおばちゃんは砂の上で閉店前のおしゃべりに余念がないようであった。

1月2日(土)
ホテルをチェックアウトする際に、昨日現金で支払ったはずの夕飯代を二重請求されそうになったのでフロント係を軽くどやしつけて溜飲を下げるとタクシーで三亜鳳凰空港に帰って行った。CA4250便成都行きは定刻10時35分出発にも関わらず、2時間弱も出発が遅れたため、成田行きへの乗り継ぎをあきらめかけたのだが、Air Chinaと成都双流国際空港スタッフの神対応のおかげで、CA459便15時30分発成田行きは1時間半程度遅らせて出発したものの危機感を共有した10名弱の乗り継ぎ客はかろうじて救われたのであった。

1時間程度の遅れで成田空港に到着したのは午後10時くらいであったろう。多少トラブルに見舞われたものの三亜はハワイの代替リゾート地として十分機能することが確認されたツアーであった。

FTBサマリー
総飛行機代 \65,890
総宿泊費 4,789.39元
総タクシー代 642元
総バス代 12元

協力 Air China、成都双流国際空港、IHG(Intercontinental Hotels Group)

FTB抗日戦争勝利70周年記念中国ツアー in 大同

昨今緊迫した日中関係、中国人観光客による爆買い、中国株式市場の暴落、人民元の切下げ等、中国に関する大きなニュースがちまたに溢れているのだが、今年は特に終戦70年、中国側からは抗日戦争勝利70周年という大きな節目の年を迎えている。

最近支持率の凋落が著しい安倍総理も起死回生を狙っているはずの日中首脳会談を行うべく、訪中する予定らしいが、それに先立ってFTBが中国人民の民意を探るために観光地を巡るツアーが敢行されることとなったのだ。

2015年8月12日(水)
今回はAir Chinaの利用にもかかわらず、同じスターアライアンスのよしみでANAマイレージクラブダイヤモンドメンバーの私にANA SUITEラウンジの使用が許可されたため、フライトまでの時間を優雅に過ごさせていただいた。

午後7時発CA168便は定刻通りに出発し、4時間弱のフライトで1時間の時差を超えて北京首都空港に午後10時前に到着した。入国審査、税関を順調に通過したものの、空港のタクシー関係者が今夜の宿泊先であるHoliday Inn Express:Beijing Airport Zoneを明記した英語の案内文や地図を理解しなかったため、ホテル到着までかなり手間取ってしまった。

IHG InterContinental Hotels Groupのポイントが余っていたのでマサであれば425元くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Expressの1室でくつろいでいるとNHK Worldのニュースで大爆発により火の海と化した天津市の様子が生々しく伝えられ、今回のツアーが前途多難であることを予感させられたのだった。

8月13日(木)
早朝4時のモーニングコールでたたき起こされ、5時にタクシーに飛び乗ると朝飯を食う間もなく6時半発CA1119便で大同市へと飛んだ。7時半過ぎに大同空港に到着し、価格交渉により60元のタクシー代で大同での宿泊先である花園大飯店まで送ってもらうと早速ビュッフェ式豪華朝食に舌鼓を打たせていただいた。

およそ中国国内とは思えない待遇の良さが売りのフロントスタッフの計らいで朝食後すぐに部屋へ入ることが出来たのだが、一息つくまもなくすぐに観光地へと足を延ばすことにした。山西省の北部に位置する大同は地方都市だが、世界遺産のある都市として毎年多くの観光客をおびき寄せている。1,000m以上の高地で砂漠性の気候のため、夏はカラッと暑く、冬は異様に冷え込み、強風にさらされるのでこの時期が観光のベストシーズンとなっている。

城壁に囲まれた町の中心の鼓楼でタクシーを拾い、数キロ離れた大同バスターミナルに移動するとそこから埃っぽい山道を1時間半ほど中距離バスに揺られ、さらにタクシーを捕まえて到着した場所はマサに崖っぷちの様相を呈していたのだった。

北魏の末期(6世紀)に建立された仏教寺院である懸空寺は空に懸かっているというより切り立った岩山の岸壁の中腹にしがみついており、見るからに壮観で珍しい景観を提供している。

チケット売り場で観覧券(120元)を入手し、峡谷を切り裂くように流れているミルクコーヒー色の川沿いを歩き、参観を待つ長蛇の列の最後尾に並んだ。階段を上り、寺院の門をくぐるとそこには極楽浄土と滑落の危険が背中合わせになった今までに経験したこともないような空間が広がっていた。

崖沿いを這うように連なる細い桟道は、これまた心細い数本の丸太で支えられており、その上におびただしい数の観光客が背筋に冷たいものを走らせながら行き来している。欄干の位置は腰よりも低いので体勢を崩すと容赦なく崖下に向かってまっしぐらになってしまうのだ。

建物は10棟ほどあるのだが、その中には全部で80体もの仏像が祀られており、どれも柔和な顔つきで崖っぷちにいる恐怖を軽減させようと努めているかのようだった。

懸空寺から下山し、観光客待ちのタクシーを探していると首尾よく相乗りで安く大同まで帰れることとなった。大同市区の中心部を散策していると華厳寺という華厳宗の寺院の前の広場がやけに賑わっているのが気になった。

寺の門前に掲げられている看板をよく見るとそこには「紀年抗日戦争勝利70周年」の文字が踊っており、大音響での歌や踊りで大いに盛り上がっていたので、私も敗戦国を代表して袋叩きにでもされて人民の溜飲を下げさせてやろうかと一瞬思ったのだが、その役割は後日訪中する安倍首相にまかせるべきだと考え直し、控えておいたのだった。

敗戦の鬱憤を晴らすにはやけ食いが最適だと考えたので花園大飯店が198元で提供するビュッフェレストランに駆け込んだ。前菜として美味なオードブルや海老、蟹、アワビで体内のプリン体を増加させるとメインとなっているブラジルスタイルのシュラスコという多くの種類の串刺し肉が次から次に回ってきて私のお皿に薄切りにされて供され、思わぬコストパフォーマンスの高いディナーを楽しむことが出来たのだ。

8月14日(金)
マサよ、君は敗戦の鬱屈をぶつけるべくは巨大な石窟であることを実践したことがあるか!?

ということで、ホテルを出て市バスに乗り、大同駅で軽く用を足すと首尾よく雲崗(うんこう)行きのバスが運行されているのが確認出来たので、大腸の下流、肛門の手前で邪悪な物体が蠢いている感覚を引きずりながら世界遺産である雲崗石窟に向かった。

世界に名だたる芸術宝庫のひとつである雲崗石窟(125元)は大同観光のハイライトであり、私も学生時代に社会の教科書で雲崗石窟像の存在を知って以来、この地を訪れることが宿命づけられていたのであるがついに実現を見ることとなった。

チケット売り場から石窟に辿り着くまでには数多くの前座的な寺院の門や仏像、仏画の鑑賞を余儀なくされたのだが、それを慈悲の心で乗り切った者のみが待望の石窟像たちとの謁見を許される仕組みとなっている。

武周山断崖の砂岩を切り開いて築かれた石窟は、東西1kmにも渡っており、主な洞窟は53窟あり、彫像は高さ数cmのものから17mのものまで5万1000体にもおよんでいると言われている。

石窟は460年(北魏の和平元年)から開削され、494年(北魏の太和18年)の洛陽遷都の前には大部分が完成したそうだ。その後も造営が続けられ、遼金時代に最大規模になったという。

律儀に第1窟から順番に見ていたのだが、第5窟には、雲崗石窟最大の高さ17mを誇る仏像が穏やかに鎮座していた。第5窟内は非常にカラフルに装飾されており、石仏も豪華に色づけされているためか、名目上写真撮影禁止となっているのだが、観光客は管理人の目の届かないところで平気で写真を撮り、見つかったものだけが怒号を浴びせられていたのだった。

保護が重要と思われるいくつかの石窟の全面には立派な門が増築されているのだが、第7窟~第13窟は脱落、汚染等を修復するためのメンテが行われているため入場出来なかったので芸術的レベルの高いと言われている多くの仏像を見ることはかなわなかったのだ。

雲崗石窟の中でも最も早く彫り始められたのが、第16窟~第20窟で曇曜五窟と呼ばれ、世界的に有名であるのだが、特に第20窟の巨大な仏像は雲崗石窟のシンボルとなっており、多くの観光用パンフレットや教科書の写真のモデルとなっている代物である。

石窟を一通り見終わると、石窟通りの外れに雲崗石窟博物館なるものが開業していたので入って見ることにした。巨大な箱物は広々としたスペースを誇っており、出土した展示物は端っこにひっそりと展示されている一方で、中央部は吹き抜けとなっており、数多くの背もたれなしソファーの上では石窟に圧倒されて疲れたはずの観光客が寝転びくつろいでいたのだった。

出口から退出するとそこは観光地化されたエリアとなっており、多くの土産物屋や食堂で賑わっていた。中でも当地の名物である刀削麺はチープなロボットが削っており、花園大飯店の朝食で供された熟練シェフの削り方とは一線を画していたのである。

バスを乗り継いで大同新南公路バスターミナルに移動し、明日の北京行きのチケットを入手した後ホテルに帰ると夕飯時の頃合いになったので、今日はホテル内の中華レストランで本格中華を賞味させていただくことにした。青島ビールで喉を潤すと、ふわふわ魚団子のスープ、あっさり味のプリプリ海老炒め、白身魚1匹丸ごと蒸し、デザートの紅芋クリームふわふわ丸めものを低価格で楽しむことが出来たのだった。

8月15日(土)
北京行のバスの時間が13時発のため、午前中の時間を有効活用すべく、大同中心部の見所を軽く巡ってみることにした。中国三九龍壁というもののひとつが大同にあるのだが、そもそも九龍壁とは中国で吉祥の数とされる九にちなんで九匹の龍を配した目隠しのための障壁である。入口で10元支払うと児童の集団と一緒に長さ45.5m、高さ8m、厚さ2mの中国に現存する九龍壁の中では最も大きい明代に建立された巨大な遺物としばし向き合わさせていただいた。

華厳寺広場は一昨日の抗日戦争勝利70周年パーティの喧騒は跡形もなく消え去っており、日常の観光地の様相と青空市場の賑わいをたたえていたので安心して闊歩することが出来たのだが、何故か大通りに面したとある商店の前では商売繁盛を願ってか、多くの小太鼓が打ち鳴らされていた。

長距離バスに乗るために時間の余裕を見て大同新南公路バスターミナルに到着したのだが、とある中国人民が大声で周囲の人に難癖を付けていてセキュリティ係りの集団にマークされていた。その光景を横目に北京行の自称「豪華バス」に乗り込むと定刻通りに大同を後にすることとなった。

5時間以上かけて北京の六里橋長距離バスターミナルに到着すると皆身分証明書を提示していたので私もパスポートを見せてターミナルから脱出すると地下鉄に乗り換えて北京中心部へ向かった。道に少し迷ったもののHoliday Inn Express: Beijing Temple of Heavenにチェックインを果たすと、フロントの女性の紹介で近辺の中華料理屋で最後の晩餐を楽しむことにした。

北京くんだりまで来て北京ダックを食わなければ、拗ねたアヒル唇で帰国しなければならなくなることを恐れて168元もの大金を支払って注文することにした。薄いクレープ皮に甘ダレを擦り付けてパリパリの皮と野菜を包んで口に放り込むとやはり北京に来る最大の目的はこれに尽きると痛感させられたのだった。

8月16日(日)
セキュリティの厳しい中国では飛行機の搭乗のみならず、長距離バスや地下鉄に乗るときさえもX線による荷物検査が行わるのでコインロッカーなどもっての外らしく、荷物を預けるのはホテルのフロントか大きな駅の手荷物預かり所になってしまうので、ホテルをチェックアウトすると地下鉄で北京駅まで移動し、そのまま駅で荷物を預かってもらうことにした。

北京駅は御多分に漏れず、おびただしい数の人民による人間模様が繰り広げられており、特別な用がなければここに来たことを後悔させられる場所である。出口はさほどではなかったものの狭い地下鉄への入り口には長蛇の列が出来ていたため、乗車を断念して繁華街の方へと歩いて行った。

中国の物価としては非常に高い30元を支払ってアイスコーヒーで体を冷却すると、北京駅から離れた地下鉄乗り場で乗車して天安門で下車するとここも人民で溢れかえっていたのであった。午前中にさくっと世界遺産の故宮と天安門の見学を済ませて帰国するという目論見があっさりはずれてしまったため、工事中らしき天安門と故宮に入場しようと躍起になっている観光客をチラ見して退散を決め込むことにした。尚、FTBでは両観光地とも2003年の訪中時に制覇済みとなっている(http://www.geocities.jp/takeofukuda/beijin.html)。

天安門の近くに王府井という北京一の繁華街があり、中国人はそこでも爆買いしているのかと思っていたのだが、土産物屋がことのほかすいていたのでありきたりの中国菓子を買って北京を後にしたのだった。

午後5時10分発CA183便は定刻通り出発し、9時半頃羽田空港に到着した。中国人は日本では爆買いするが、本場中国では天津が爆発するという恐怖を引きずったまま流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー
総飛行機代 \109,230
総宿泊費 RMB1,202.52(朝食付き)
総タクシー代 RMB315
総バス代 RMB188
総地下鉄代 RMB16

協力 Air China、IHG

宮崎駿引退記念 千と千尋と温泉ツアー in 台湾

豊臣秀吉に人生を翻弄された千利休に始まり、歌う不動産王と揶揄された千昌夫や神隠しにあった千と千尋のように千には波乱万丈のイメージがつきまとうのだが、高級烏龍茶と飲茶を求めて気軽に台湾を旅する日本人観光客は増加の一途をたどっている。今回は安倍首相の靖国参拝の喧騒をものともせず、宮崎アニメの影響により一躍一級観光地に成り上がったノスタルジックな町並みを脳裏に刻み込むために、一路沖縄県を飛び越えて台湾まで足を伸ばすことと相成ったのだ。

12月28日(土)
成田発と関空発のチケットで\10万以上の価格差が生じているのを目ざとく見つけることが出来たので関空までわざわざ足を運び、EVA航空が運行する午後5時35分発BR129便に乗り込むと約3時間のフライトで1時間の時差を超えて午後7時45分に台北の桃園国際空港に到着した。空港バスで1時間程の時間をかけて台北駅に移動するとさらにMRTに乗り換えて今日の宿泊地のあるとある駅に到着した。Hotels.comのWelcome Rewords無料宿泊特典を適用してマサであれば\13,000くらいかかるところを私はわずか¥1,326で泊まることが出来るパークシティホテルに投宿すると時差に体を慣らすために今夜はとっとと就寝することにしたのだ。

12月29日(日)
真冬の日本を離れ、温暖な環境を求めて南の島に逃避行したにもかかわらず、北から迫り来る寒気は遠く南の島にも及んでいた。小雨降りしきる寒空の下、気力を振り絞って台北の新興観光地まで足を運ぶことにした。台北世界貿易中心に竹のようにニョキニョキと天に向かって生えているビルが君臨している。高さ509.2mを誇る101階建ての超高層ビルは2004年に竣工した台北101でドバイのブルジュ・ハリファに抜かれるまでは世界一の高さを誇っていた。今日は天候が悪かったので91階の展望台に登ることは控えておいたのだが、地下5階から成るショッピングセンターで買う気もないのに高級ブランド品を物色することだけは忘れなかった。

MRTで忠孝復興駅まで移動し、1062番の路線バスに乗りこむと1時間程で九フンという町に到着した。バスを下りるとすぐに台湾のコンビニで圧倒的なシェアを誇っているセブンイレブンの隣に迷宮への入口が見受けられたので早速入って見ることにした。狭い通路の両脇にはびっしりと土産物屋が軒を連ね、台湾名物であるはずの駄菓子や惣菜の実演販売が行われていた。

想定外の寒さと人いきれで思いのほか体力を消耗してしまったので、とりあえず名物の芋園(芋ぜんざい)を召し上がって今日のところは九フンの下見だけにとどめておいてそそくさと退散することにした。

台北市内に戻ると日も暮れていい頃合になってきたので、台北二大夜市のひとつである士林夜市に繰り出すことにした。夜市の番を司っているかのようにとぐろを巻いているニシキヘビへの挨拶もそこそこに、大蛇の胴体ほどの太さのソーセージには目もくれずに臭豆腐臭に引き寄せられるように地下のB級食堂街になだれ込んだ。

さすがに島国だけあってB級シーフードのメニューは充実しており、台湾ビールの肴として蟹の揚げ物や小ぶりの牡蠣の茹でものなどを発注し、にんにくと生姜の効いた惣菜を食しながら冷えた体に活力を取り戻していたのだった。

12月30日(月)
今日もどんよりとした寒空の下、ホテルをチェックアウトするとMRTで台北駅に向かい、台湾高速鉄道に乗って一気に亜熱帯から熱帯地方に長距離移動することにした。日本企業が受注したはずの台湾新幹線はのぞみよりも望みが高い仕様で設計されているせいか騒音や振動もほとんどなく、快適な列車の旅を約束してくれる。台北駅から2時間で終点の左榮駅に到着するとそこからローカル線に乗り換えて台湾第二の都市である高雄駅に降り立つこととなった。高雄では期待通りの温暖な気候に恵まれていたので、早速agodaに予約させておいた福華大飯店にチェックインして荷物を置くと町の様子を見物しに出かけることにした。

高雄市内を流れ、高雄港に流入している愛河という川があるのだが、日本の統治時代に運河として開拓され、かつては「高雄運河」と呼ばれていたそうだ。橋から見下ろす愛河の景色はすばらしく、太陽電池で航行する遊覧船が観光客を満載して行き交っていたのであった。

埠頭から港を見渡すと対岸には高雄市のランドマークとなっている標高378mの東帝士85國際廣場大楼という高層ビルがそびえており、歴史的な風情と近代的な港町が絶妙にマッチした景観を醸し出していた。

12月31日(火)
高雄駅から列車で新左榮駅に移動し、しばらく歩いていると高雄の名物を販売しているはずの高雄物産館に行き当たった。これといって目ぼしい物産がなかったので目の前の風光明媚な池のほとりから線路を走行しない汽車に乗って左榮蓮池潭に向かった。

何がしかのパレードの様子を横目に伝統的なツインタワーの方向に目を移すとそこは阪神・中日戦の熱戦さながらに虎と龍が大きな口を開けていたのだった。

高橋ジョージよろしく♪何でもないよ~なことが幸せだったと思♪いながら龍の口から内部に侵入するとトンネル内部は仏教説話の壁画で埋め尽くされていたのだった。尚、台湾の人は十二支の中で「龍が最も良い動物で虎が最も悪い動物」と信じられているため、虎の口から入ってしまうと虎舞竜よろしくトラブルを引き起こす懸念があるので注意しなければならないのだ。

蓮池潭の周辺には龍虎塔の他にも龍鳳塔、春秋閣、孔子廟などの見所も多く、池周辺のロードは絶好の癒しの空間となっているのである。

蓮池潭で虎舞竜を充分堪能できたので、次は三船でも見物すべく高雄港まで戻ってきた。港には三船どころかおびただしい数の船が停泊していたので早速渡し舟に乗って対岸の旗津半島に上陸することにした。海岸公園のビーチに着くころには丁度サンセットが迫っていたのだが、ヤシの木の間に沈む太陽を眺めているとここがあたかも南国のビーチのような感覚さえ覚えてしまうのだった。

1月1日(水)
ハッピーニュー マサよ!

ということで、高雄で充分暖をとることができたので、新幹線に飛び乗って台北に戻り、暖から温に進化させるために台湾で最も有名な温泉地である新北投温泉まで北上することにした。MRTの新北投駅で下車すると頭でっかちの不思議なオブジェに出迎えられ、世界ふしぎ発見の期待が高まってくるのだが、実際に温泉地に踏み込んで見るとそこは日本の伝統的温泉リゾートのコピーでしかなかったのだ。

和服をお召になった従業員が立ち並び、おもてなしスタンスを貫いている日式の加賀屋を通り過ぎると、楽天トラベルに予約させておいた熱海大飯店になだれ込み、ババンババンバンバンもそこそこに周辺の見物をかましてみることにした。温泉の仕組みや歴史が一目でわかるはずの北投温泉博物館が閉まっていたので硫黄の臭気が立ち込める天然足湯川のほとりを上って源泉であるはずの地熱谷でもうもうとした気分を堪能して撤収することにした。

台湾の公共温泉は基本的に水着着用入浴が基本となるのだが、熱海大飯店のようなホテルの大浴場には治外法権がしかれている様子で、入浴者は皆フリチンで入ることが許されているのだった。

1月2日(木)
新北投温泉で日本の温泉地の実力を再認識することができたので、千と千尋が労働していた八百万の神々が集う湯屋・「油屋」の雰囲気を求めて再び九フンへと向かうことにした。前回の寒々とした訪問とは打って変わって今日は温暖な青空が九フンを包み込んでいたので緑と青のコントラストの絶景がひときわ輝いていたのだった。

猫街道を標榜する階段から九フンの中心部を目指して登っていると一際観光客が集まっているスポットで交通渋滞が発生しており、日本の一流番組で放送されたという看板の背後にある光景はマサに千と千尋が労働する建物の風景そのものだったのだ。

建物にはどことなくカオナシのような風情のお面も飾られているのだが、台湾ツアーとしてのメンツを保つために、千利休よろしく茶芸を堪能してみることにした。とある高級そうな茶屋に陣取り、高級であるはずの烏龍茶を高値で発注すると中国茶のバリスタであるはずの店員ギャルが茶器と茶葉を持ってきてお作法のデモをしていただける仕組みとなっている。お茶請けに黒ピーナツと抹茶チーズケーキをいただきながら本場の味を堪能するとどことなく、わびさびとは異なった中国5000年の伝統の雰囲気が漂ってくるのであった。

日が暮れると古き良き時代の建物に明かりが灯りはじめ、九フンの観光は佳境を迎えるのであるが、あまりの観光客の多さのために無事に台北まで帰れなくなることを懸念して早めに退散すべく、バス停で台北行きのバスを待っていた。バスは台北行きと近隣の町である基隆行きのものがあるのだが、長い行列を並んでやっと乗れると思った台北行きはすでに満席でその間に多くの基隆行きのバスが台湾人客を拾っていった。台北行きを待っているのはほとんど日本人観光客になり、彼らはすでに1時間以上もバス待ちをしているため、基隆行きのバスが来るたびにバスに向かって呪いの言葉を吐いていたのだった。

何とかその日のうちに台北に帰ってくることが出来たので、台北駅から新幹線で桃園に移動し、Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればNT$2,700くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Express Taoyuanに引きこもると宮崎駿が九フンに来ると気が変わって間違いなく現役復帰するのではないかと考えていた。

1月3日(金)
タクシーで桃園空港に移動すると、EVA航空のラウンジで飲茶を堪能し、午前11時30分発BR130で関西空港に帰って行った。九フンでの観光客の喧騒を考えると何人か神隠しに遭ってしまうのも無理はないと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 \66,610
総宿泊費 \43,184
総列車代 NT$3,478
総MRT台 NT$455
総バス代 NT$525
総渡し船代 NT$30
総タクシー代 NT$700

協力 EVA航空、hotels.com、agoda、楽天トラベル、Priority Club

FTBキラー菅送別モンゴルツアー

大相撲7月場所で大関魁皇が胃潰瘍を患うことなく引退し、日本の国技にして八百長のはびこる相撲界はますますモンゴル人力士が幅を利かせることになる。ところで、格闘技界でモンゴリアンが一躍脚光を浴びたのは今から遡ること20数年前の新日本プロレスのリングであったろう。当時国際プロレスから乱入してきた維新軍団は、今では消臭力の台頭により影が薄くなってしまった長州力を筆頭にラッシャー板前のモデルとなったラッシャー木村、アントキノ猪木に似ているストロング小林、京子のプロデュースを始める前のアニマル浜口、マサ!斎藤と蒼々たるメンバーが揃っていたのだが、中でも日本人でありながらモンゴリアンを語るキラー・カーンがひときわ異彩を放っていた。

相撲界出身のキラー・カーンから繰り出されるモンゴリアン・チョップは主流のアントニオ猪木、ドラゴン藤波辰巳、坂口憲二パパである坂口征二を筋書き上苦しめていたのだが、今では小澤正志と書いてキラー・カーンと読ませ、ちゃんこ居酒屋http://www.kan-chan.jp/のおやじに出世を果たしている。

ということで、今回はキラー・カーンがあこがれてやまなかったであろうモンゴルに代わりに行ってやることにしたのだ。

2011年8月26日(金)

午後5時20分発NH955便にて成田から北京に移動し、北京首都空港から列車で市内に入り、さらに地下鉄10号線に乗り換えて北土城に到着した。PRIORITY CLUBのポイントが余っていたのでマサであれば400元くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Express Beijing Minzuyuanにチェックインを果たすと北京ダックを食らうことなく、暗がりの中で寝静まった。

8月27日(土)

早朝5時半にホテルをチェックアウトすると北京首都空港に直行し、AIR CHINAが運行するCA901便に搭乗し、定刻午前8時35分に飛び立った。B737-800機の窓から眼下を見ると荒涼とした土色の大地が果てしなく広がっていた。飛行機が高度を落としていくにつれて、徐々に川の流れと緑も見え始め、11時前にモンゴルの首都ウランバートルのチンギス・ハーン国際空港に到着した。

空港の銀行で一万円札を差し出すと152,000トゥグリク(Tg)という大金になって返ってきたので札束を握り締めて空港外のバス停まで歩いて行った。ところで、ウランバートルの公共バスではスリ被害が多発し、その手口はナイフを使ってズボンやバックを切り裂く強引なものなので、モンゴル人でもバスの利用を避けていると物の本に書かれていたので、バスには運転手と切符売りの車掌しか乗っていないのかと思っていたが、意外にも乗客でごったがえしたバスがやってきたので意を決して乗り込むことにした。

ポケットの中の財布と手持ちのバックパックに最大限の注意を払いながら、埃の舞い上がるでこぼこ道をバスに揺られていると交通量の多いウランバートルの市街地に入ってきた。そして適当に乗客がたくさん降りるところで下車してあたりを軽く歩いてみることにした。目の前に旧国営デパートを大手電気店が買収したモンゴル最大のノミンデパートが多くのモンゴリアンで賑わっていたのでトイレを借りに入って行った。尚、ウランバートルの繁華街には有料のCITY TOILETも各所に設置されているのでおなかピーピー状態を恐れずに自信を持って町を闊歩することが出来るのだ。

躍動感のある信号機や新しい高層ビルを横目にエンフタイヴァン(平和)大通りを東に進み、今日の宿であり、モンゴルと日本の合弁会社が運営するテムジンホテルに到着した。ホテルの受付ギャルは朝青龍顔ながらも日本語を話すことが出来るので、首尾よくチェックインを果たすと部屋でビールを飲みながら少し休憩させていただいた。尚、ウランバートル入りしてからこれまで出会ったモンゴル人の10%くらいは老若男女問わず朝青龍似のしょうゆ顔であったので、ここは朝青龍ファンにとってはパラダイスだと思われたのも確かであった。

ビールの酔いも醒めた頃、あらためてウランバートルの町に繰り出すことにした。格式高いウランバートルホテルの前にご当地レニングラード(現サンクトペテルブルグ)でもすでに撤去されてしまっているレーニンの銅像が浪人のように立ちはだかっており、モンゴルが旧ソ連の影響を受けている名残が今も残っているようだ。また、モンゴルの言語はモンゴル語なのだが、表記はキリル文字(ロシアンアルファベット)になっているのだ。

市内で最も広いスフバートル広場の脇には日本人抑留者が建設した国立ドラマ劇場がピンク色に輝いており、1921年のモンゴル革命の指導者のひとりであるスフバートル像は馬に乗って天を目指しているかのようであった。その奥には蒼き狼チンギス・ハーンの像が鎮座しており、政府宮殿の前で睨みを効かせていた。

町中にはビートルズのオブジェやオレンジ色の屋根が眩しいサーカス場がさびれかかっており、朝青龍顔を持つ安田大サーカスのヒロにはもってこいの舞台だと思われたのだが、むしろここで大相撲モンゴル場所を開くのがふさわしいのであろう。この件は八百長問題に適当な落とし所を見つけた元大関魁傑である放駒理事長が解決してくれることを期待しよう。

テムジンホテルに帰ってテレビをつけるとNHKの衛星放送を見ることが出来るのだが、これはモンゴル力士のオールスター戦である大相撲場所を見るのにかかせないものだと思い知らされた。

8月28日(日)

ウランバートルの西のはずれにソンギノハイルハン長距離バスターミナルがあり、そこからモンゴルの古都ハラホリンに行こうと思っていたのだが、本日分のバスチケットは売り切れていたので仕方なく明日出発のチケットを購入した。

バスでウランバートル中心部に戻り、1838年に建立されたチベット仏教寺院であるガンダン寺にお参りすることにした。この寺は活仏と言われるこの世に姿を現した仏の化身とされるチベット仏教の高僧により建てられたもので、モンゴルが仏教国であったことを思い起こさせてくれるものだ。

ガンダン寺の観音堂には高さ25mの観音像が起立しているのだが、これは盲目となった第8代活仏ボグドハーンがその治癒を祈願して建立した開眼観音である。実は初代観音はスターリンによって1938年に破壊され、ソ連に収奪されており、今の観音は2代目のものとなっているのだ。

ガンダン寺で起動戦士ガンダムのように崇拝されている観音がスターリンに観念させられたという事実に憤りを覚えたので心を鎮めるために自然史博物館(Tg2,500)で目の保養をすることにした。1924年に開館したこの博物館にはモンゴルの自然や考古学に関する豊富な資料が取り揃えられている。

自然科学のコーナーでは現地の動物の剥製が生き生きと展示されており、木と相撲をとるヒグマや尻尾の長いユキヒョウ、耳がキュートなネコ科の動物が目を引いた。

恐竜王国モンゴルではたくさんの恐竜の化石が発見されているのだが、ここではタルボザウルスの骨格標本が目玉となっている。その周辺には巨大なマンモスの牙や古代のサイ等の骨格も彩を添えているのだ。

人口100万人を誇るウランバートルの中心部に都市部の川の割には清らかなセルベ川が流れている。その川原にはおびただしい数のヤギやヒツジさえ進出しており、放牧大国モンゴルの実力をまざまざと見せつけているかのようであった。

8月29日(月)

マサよ、君は大草原の小さな少女が隠そうともせず、あっけらかんと放尿している光景に衝撃を覚えたことがあるか!?

というわけで、今朝はソンギノハイルハン長距離バスターミナルに速やかに移動し、午前11時発のハラホリン行きのバスに乗り込んだ。ウランバートルから西に向かう365kmの長旅は草原に挟まれた管理状態の良くない舗装道を延々と走ることになる。

バスが出発して1時間程経つと何の前触れも無く路肩に停車し、数人の少女が開かれた草原に駆けて行った。すると彼女らはいきなりパンツを下ろして草原にしゃがみこみ微笑みさえ湛えながら尿を大地に放っていた。するとバスに同乗していた妙齢の女性もおばちゃんも釣られるように草原に飛び出し、草花に肥やしを提供していたのだった。

慎ましさを美徳とする倭人には理解出来ない生態であるが、島田紳助というプロデューサーを失った羞恥心さえコントロール出来ればなでしこジャパンであっても問題なく対応可能な行為のはずである。

ところが、バスが昼食休憩のために寄ったドライブインには掘建て系のトイレがあり、草原に馴染まない人々のプライドを頼りなく紙一重で支えていたのだった。

車窓を流れる遊牧民の日常生活を遠巻きに眺めていると長い移動時間も苦にならなかったせいか、5時間以上のバスの旅はあっさりと終了し、寒村地帯の雰囲気を漂わせるハラホリンのバスターミナルに到着と相成った。早速宿を探さなければならなかったので村の中心を通り過ぎて草原にポツンと立つ宿泊所らしい建物を目指して歩いていた。

HOTELという看板を掲げた建物に窓越しに来意を告げると多少英語の出来る若者が出てきて宿泊システムの説明が始まった。宿泊者はホテルの快適な部屋に泊まるか値段の安いゲルにしけこむかを選択することが出来るのだが、私は馬乳酒を牛飲して泥酔し、ゲルをゲロだらけにするリスクを避けるために1泊US$45のホテルを選択し、前払いで支払いを済ませて部屋に引き篭もり静かな一夜を過ごさせていただくことにしたのだった。

8月30日(火)

ハラホリンはかつてモンゴル帝国の首都が置かれており、カラコルムと呼ばれていた。現在では往時の栄華を偲ばせるファシリティはほとんど残っていないのだが、エルデニ・ゾーという巨大な仏教寺院群が世界遺産であるオルホン渓谷の文化的景観の中で最も規模が大きく有名な建造物として君臨しているのでじっくり見させていただくためにここまで足を伸ばしたのだ。

エルデニ・ゾーに侵入する前に小雨そぼ降る町中を歩きながら悠久の時の流れを感じることにした。集団で通りを闊歩する野犬の群れをなだめながら歩いているといつしか牛のドクロが転がる草原に迷い込んでいた。広大な草原はなだらかな山や丘に囲まれており、丘陵部には集落とゲルのキャンプが固まっていた。

天候も回復の兆しを示してきたところで108個の卒塔婆(ストゥーパ)の塔と外壁に囲まれた約400mx400mの正方形を目指して歩を進めた。城壁の東のはずれに亀石という石碑を載せる台座として彫られた亀型の花崗岩が祀られているので亀井静香には静かにしてほしいとの祈りを込めた後、城壁の回りのビーフを愛でながらエルデニー・ゾーの西門に向かって行った。

城壁の内部は草原と仏教大寺院群のコントラストが美しく、さらに青空の下で中国式木造寺院が一際輝いていた。早速17世紀初頭から18世紀初頭に建立されたダライラマ寺を通り過ぎて3つの寺の意味を持つゴルバン・ゾー(Tg3,500)にお参りすることにした。

ゴルバン・ゾーは中央寺を挟んで西寺と東寺から構成され、内部にはユニークな仏像が祀られているのみならず天井の仏画や修復された壁画も非常に印象的なものがあった。

インド仏教伝来の仏舎利塔(ストゥーパ)ソボルガン塔の装飾にモンゴル風味が加えられているのを確認し、さらにチベット式建築のラプラン寺で勤行している僧侶たちに敬意を表した。

エルデニ・ゾーの広い敷地内にかつてチンギス・ハーンが陣営で煮炊きに使用したものといわれている鉄鍋が無造作に置かれていた。チンギス・ハーンも将来自分の名前がジンギスカンというくせのある料理名に使われるとは思ってもみなかったであろう。

エルデニ・ゾーの目の前には土産物やモンゴル料理を提供するテントが積極的に客引きするでもなく、控えめな営業体制を取っていた。同様に観光客の腕に止まって有料被写体となる巨大な鷹も爪を隠しながら止まり木の上でおとなしく出番を待っていた。とりあえず、一軒のテントに入り、モンゴル語で書かれたメニューを見てとある料理を指差し発注すると強烈なマトン臭を発する羊肉入りの麺が出てきやがった。はしではなくスプーンだけで食べるその麺を何とか完食し、観光を続けていると数十分はお腹のグルグル感が残ったものの体内に驚くべき活力がみなぎり始め、その後の草原の丘登りが非常に楽になったのだ。

エルデニ・ゾーから数百m離れた所に日本の協力によって設立されたカラコルム博物館(Tg3,500)が開館していたので見学することにした。お約束の蒙古帝国の歴史の資料によるとエビフライが好きであってほしいフビライ・ハーンは1274年と1281年の2度にも及ぶ日本への侵略未遂を行っているのだが、時の執権北条時宗が胸をときめかせながら元寇に対応した日本サイドの観点は示されていないのだ。

ハラホリン一帯を見下ろす小高い丘の頂上へ行く途中に殿方の性的シンボルをかたちどった男根岩が誰の手にも触れさせぬように柵で覆われながら手厚く祀られていた。男根岩の触感を味わうことが出来なかった腹いせに頂上に鎮座している亀石の頭を撫で回しておいた。

丘の上からはエルデニー・ゾーの遠景や伝統的なゲルの集落が眺められ、草花から漂ってくるハーブやミントの香りでリラックス効果を高めながら、ゆっくりと流れるぜいたくな時間を思う存分堪能させていただいた。

丘の上の草原には保護色に彩られている茶色や緑のバッタが羽音を響かせて飛び回っており、どこからやってきたのかカエルまでが帰る道を探そうと歩き回っていた。

8月31日(水)

早朝窓から差し込んできた柔らかな光で目を覚まし、ホテルの外に出てみると東の空がオレンジ色に輝いていた。ホテルの敷地内で休んでいた牛達も徐々に目を覚まし、ゲル周辺の短い草を牛タンでからめとるように食みはじめた。

サンライズの幻想を十分に堪能するとホテルを出て晴れ渡った草原を眺めながらバスターミナルに向かった。ウランバートルへは午前10時発の大型定期バスで帰ろうと思っていたのだが、いきなりミニバンで運行するミニバスの関係者に腕を取られ、それでも私が大型バスの方へ向かおうとすると彼は地団駄を踏んで悔しがる姿勢を示した。その熱意に敬意を表してミニバスに乗ってやることにしたのだが、乗客が中々集まらなかったため、大型バスよりも1時間遅い出発となってしまった。

ミニバスには学生系の少女や青年、母親に連れられたまだ蒙古斑も消えていないであろう幼女の姉妹等が乗っていた。出発して1時間も経たない頃にいきなり社内で「ボン!」という激しい破裂音がこだまし、ミニバスは路肩に停車した。スライドドアを開けるとカルピスソーダの爽やかさとはかけ離れた酸っぱい白色液体が後部のシートから社外に流れ出てきた。この現象は恐らくポリタンクに詰めてあった馬乳酒が振動により膨張し、ついに圧力に耐え切れなくなった栓を吹き飛ばして暴発したものであろう。ちなみにハラホリンはよほど高品質の馬乳酒を生産するためか、多くのモンゴリアンはウランバートルから空のポリタンクを多数持ち込み、帰りはその中に液体を満たしてバスやバンに積み込んでいる光景が印象に残っていた。

馬乳酒が醸し出す酸臭がようやく薄まってきた午後5時前にウランバートルのソンギノハイルハン長距離バスターミナルに到着し、近くのバス停から市バスに乗り換え、町の中心部に戻ると予約をしていないが空室があるはずだと信じていたテムジンホテルに帰還し、バックパックにしみ込んでいる馬乳臭を気にすることなく休ませていただいた。

9月1日(木)

スリの被害に遭わなかったのでキラー・カーンには申し訳ないが、モンゴリアンチョップで防戦することなくモンゴルツアーの最終日を迎えることとなった。ところで日本では国民を見殺しにするキラー菅がついに退陣するとのことで海外との対人関係も大いに改善されることが期待できよう。

ウランバートルを南北に走るチンギス通りからバスに乗ってしばらくすると黄金色に輝く大仏からここで降りよとの啓示を受けたので素直に従うとその大仏の背後の丘に記念碑のようなオブジェが天空を指していたので登ってみることにした。

行き場を失った旧ソ連製の戦車を尻目に階段を登りきると幅3m、周囲60mの鉄筋コンクリート製の輪に囲まれた伝統的なモンゴルの灯「トルガ」に到着した。トルガは、生命を具現すると同時に、ソ連兵士がモンゴル兵士と共同で侵略者から防衛したモンゴル人民共和国独立を象徴している。

なるほど、輪の内側のモザイクの壁画にはモンゴルとソ連人民の友好が描かれており、一方で大日本帝国とナチスドイツの旗は無残に踏みにじられているのだった。

ザイサン・トルゴイと呼ばれるこの展望台は360度の視界が開けており、密集した都会の周辺に広がる草原までウランバートル市を一望することが出来るのだ。

丘の麓に建つおとぎの国系の住宅街を過ぎると荘厳な造りの寺院が目に飛び込んできた。寺院付属の土産物屋の前に狼の剥製があったので谷村新司よろしく♪オ~かみよ、彼を救いた~まえ~♪と海江田を海に沈めてチャンピオンの座に着いた野田首相の活躍を祈っておいた。

ボグドハーン宮殿博物館(Tg2,500)は第8代活仏ボグドハーンの冬の宮殿であった。現在の建物は1919年に建立されたもので、その建築様式は釘を一本も使わない木組み方式の最新テクノロジーが駆使されているそうだ。

引き続き第8代活仏の弟の寺として建立されたチョイジンラマ寺院博物館(Tg2,500)を見学したのだが、今では高層ビルとの対比が美しい景観を醸し出している寺院の内部には土俵入りのような格好の仏像が躍動している姿が印象的であった。

通常であればモンゴル入りして一番最初に訪問しなければならなかったはずの民族歴史博物館(Tg5,500)に遅ればせながらモンゴルに関する基礎知識を身に付けるために入館することにした。展示物は民族衣装や生活様式に関する物が主であるが、フエルト生地で覆われた本物のゲルも展示されており、内部の構造やインテリアも覗き見ることが出来るようになっていた。

ウランバートル市内を歩いていると蓋が開いているマンホールを見かけることがあるが、ここには社会問題化しているマンホールチルドレンが住んでいるという。様々な理由からホームレスになった彼らは冬の厳しい寒さに耐えるために地下に潜行し、物乞い等をしながら生計を立てていると言われている。

今回のツアーで似非モンゴリアンのキラー・カーンがモンゴルの知識を身に付ける一助となったことを確信したのでバスでチンギス・ハーン国際空港に戻り、午後6時20分発のCA956便にて北京へ飛び立っていった。

9月2日(金)

再びただで宿泊させていただいたHoliday Inn Express Beijing Minzuyuanを早朝チェックアウトすると午前6時半前には北京首都空港に到着した。空港第3ターミナルのファシリティを軽く見学させていただいた後、午前8時30分発NH956便で成田に飛び、フビライ・ハーン似の朝青龍がモンゴルの大統領に就任した暁には、神風の吹かない財団法人日本相撲協会はモンゴルに買収されるだろうと考えながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥31,660、AIR CHINA = ¥49,130

総宿泊費 = US$270

総北京鉄道代 = RMB100

総北京地下鉄代 = RMB8

総モンゴルバス代 = Tg32,800 (¥100 = 約Tg1,500)

協力 ANA、AIR CHINA、PRIORITY CLUB

FTBソウルフル世界遺産ツアー

1987年7月、私の初めての海外旅行先はニューヨークだったのだが、大韓航空の格安チケットを購入していたため、ソウルにストップオーバーされる憂き目に遭ってしまい、韓国が私の世界進出の第一歩として刻まれてしまっていた。さらに1989年9月、当時面倒を見てやっていた大和証券青森支店の同期の山田君を従えて韓国に乗り込み、東京国際大学を優秀な成績で卒業したはずの奴の英語力を頼りにソウル市内を闊歩していた。

その後21年が過ぎ去った今、韓国は経済でもスポーツでも日本を凌駕する強国に成り上がって来たのでその実態を体感し、日本の未来に活力を取り戻すための魂を得るためにソウルに舞い戻ることに相成ったのだ。

4月3日(土)

午前8時20分発NH1291便は定刻どおり羽田空港を出発した。2時間程度を機上で過ごしながら、トリプルアクセルの基礎点を上げてもらえるようにスケート連盟に抗議したくなるような感覚が強くなってきた頃、キム・ヨナ中心に世の中が回り始めているソウルの上空に差し掛かった。するとほどなくしてハイジャックされたよど号もおどおどしながら着陸した実績のある金浦国際空港に午前11時前に到着したニダ。早速地下鉄に飛び乗り、1時間以上の時間をかけて美しい城郭が残る町である水原(スウォン)に向かった。水原駅前の観光案内所で地図を入手した後、世界遺産に登録されている華城に向かう途中で猪八戒よりも強そうな考える豚に睨まれてしまったニダ。

李朝22代国王の正祖が造営した城郭都市である華城(W1,000)は、正祖が政争の犠牲となって死んだ父の墓を水原に設営したついでに墓所の近くに都を移そうと血迷って建設された代物である。城は優美な姿に造られ、レンガの製法に西洋の手法を取り入れたりもしているのだが、結局遷都は中止されて城郭だけが残り、その後荒廃してしまった形で後輩に受け継がれているのだニダ。

出来上がった城郭は当時の漢城(ソウル)よりも立派で、外敵に対し効率的に攻撃出来る軍事施設を備えているのみならず各所に優雅な外観が取り入れられているニダ。華城は周囲5.7kmの城郭でぐるっと一周すると3時間程かかるのだが、都になり損ねた悲哀を魂に刻み付けるために最高地点の八達山(143m)から下界を見下ろしながらウォーキングをスタートさせた。

水原華城の見所は各所に設けられた門であり、華城四大門の北門で事実上華城の正門である長安門は朝鮮戦争時に門楼が焼失したが完全な形で復元されているニダ。門には鮮やかな装飾が施されており、ユニークな鬼たちが道行く観光客を見下すようにほくそ笑んでいるのだった。尚、歩くのがおっくうな輩のために華城内を周遊する乗り物が竜の先導で運行されているので後期高齢者であっても安心して観光に励むことが出来るのだニダ。

Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであればW120,000くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Innホテルを探すために適当な駅で地下鉄を降りてソウル市内を彷徨っているといよいよ道がわからなくなってしまった。場所を特定するためにホテルに電話をかけたのだが今いる地点の場所を説明出来なかったので道行く人に電話を代われと言われてしまった。ということで、とあるローカルコンビニに飛び込み、休憩中のレジで麺をすすっているおばちゃんに麺をすするのを止めさせて電話で話セヨとお願いした。

何とかタクシーを捕まえ、さらにタクシーの運ちゃんにも電話対応セヨと脅迫する代わりにチップをはずんで遂にHoliday Inn Seongbukに辿り着く事に成功したのだが、道行く人のサポート体制がしっかりと整っているのが韓流であることを思い知らされたのだニダ。

4月4日(日)

Holiday Inn Seongbukが運行するシャトルバスで明洞に移動し、地下鉄で昔ながらのソウルの街並みが残る鐘路・仁寺洞(チョンノ・インサドン)に向かった。この地域はソウル中心部の北側に広がっているのだが、2つの世界遺産が君臨しているので満を持して見物させていただくことにした。

マサよ、君は吉本系のギャグを巧みに操る韓国人日本語ガイドの案内で「エンタの神様」が打ち切られた心のすきまを埋めたことがあるのは「私だけ」でしょうかニカ!?

ということで、地下鉄3号線安國駅3番出口から徒歩5分のところに世界遺産に登録されている華麗な離宮である昌徳宮(チャンドックン)がおびただしい数の観光バスを停車させているのでW3,000を支払って10:30からの日本語ガイドツアーに参加することにした。入り口付近にはHISの旗を目印に参集してきた格安であるはずのガイドツアー参加者を中心に数多くの日本人がひしめきあっていた。

すると軽めの防寒ルックに身を包んだ普通のおばさんがマイクを使ったアナウンスで昌徳宮に入場するにあたり、あらかじめチケットを切り離しておくようにと依頼すると同時に「日本ではあり得ないことだと思いますが・・・」とつぶやきやがった。この一言で日本人観光客がこのガイドはただ者ではないという雰囲気を感じ取った後、ついにガイドツアーの火蓋が切って落とされたニダ。

昌徳宮の正門である敦化門をくぐり、20年後のだいたひかるを彷彿とさせる笑いの暴走自転車系ガイドは参加者が集合してくる間に「皆さんが集まるまでイライラしないで待ってください。イライラしてもわたしほどではないでしょうから・・・」と淡々とした口調で冗談を言いやがった。

昌徳宮は李朝3代国王の太宗が1405年に建てた宮殿で始めは離宮として創建されたのだが、後に王たちが居住しながら実質的な法宮の役割を果たした由緒正しい場所である。さらに昌徳宮は人為的な構造に従わず、周辺の地形と調和を成すように建築され、最も韓国的な宮廷という評価を受けているニダ。

だいたひかるの説明によると王の執務室として使われた宣政殿の高級青瓦は韓国の大統領府である青瓦台と同じ瓦が使用されており、マサに見事な光沢を放っていたのだった。また王の日常生活の場であった熙政堂の屋根のオブジェは西遊記を表しており、夏目雅子風の三蔵法師に先導された孫悟空、沙悟浄、猪八戒等が膝まづいている様子が遠巻きに確認出来た。

昌徳宮の観光を終え、エンタの神様が終わってもだいたひかるの将来が安泰であると思われたので、別のテレビ局に移動する勢いでその隣の昌慶宮(チャンギョングン)になだれ込むことにした。道行く途中で冬のソナタの撮影地を示す看板があったのだが、だいたひかるが代打で出演しているわけでもなかったので無視することにした。

昌徳宮の東にある王宮である昌慶宮(W1,000)は李朝4代国王世宗が父親の太宗のために建てた寿慶宮が前身となっており、一時荒廃の憂き目にあったのだが、第9代国王成宗が当時の3人の皇后のために宮殿を建て、以来昌慶宮と呼ばれるようになったのだニダ。

昌慶宮の正門の弘化門は東に面しており、続く正殿の明政殿も正面が東に面しているのが特徴になっているとのことである。何故なら普通王宮の正殿は南を正面に造られているからだ。何はともあれ、広い敷地内には多くの樹木が生い茂り、かつ大温室もそなえているのでのんびりと散歩を決め込むには絶好の場所だと思われた。

昌慶宮をくまなく探索し、道路を跨いでいる橋を渡るといつのまにか宗廟(世界遺産)に紛れ込んでいた。李氏朝鮮歴代国王とその妃の位牌を祀っている宗廟は毎年5月に行われる宗廟祭が有名で王の末裔にあたる全州李氏一族が集まり、雅楽が響く中、厳かな儀式が執り行なわれることになっているニダ。

4月5日(月)

昨晩の宿泊地で白蓮山の麓にあり、豊かな緑に囲まれたリゾートタイプのホテルであるグランドヒルトンからホテルのシャトルバスに乗り、明洞近辺で下車すると都市の緑を保ってきた歴史と文化の香り漂う森である南山公園へ這い上がることにした。南山はソウル中心部に位置したソウルの象徴で、本来の名前は引慶山であったが朝鮮太宗李成桂が1394年に都を開城からソウルに移して来てから南にある山だと言って南山と呼ぶようになったのだ。南山公園内に千円札の帝王である伊藤博文を暗殺し、韓国で英雄扱いされている安重根義士祈念館がリニューアルのため閉館になっているという驚愕の事実に直面してしまったため、安重根の銅像にどうぞ~よろしくという感じで財布に控えていた野口英世の肖像画を見せつけて溜飲を下げることにした。

標高265mの南山の頂上に高さ約230mのソウルタワーが天を突き刺すようにそびえている。ソウルタワーにはケーブルカーと言う名のロープウエイで登ってくることが出来るのだが、私は恒例の徒歩ですでに辿り着いていた。タワー展望デッキの欄干に願い事を書き込んだ無数の南京錠がかけられているのを発見したのだが、私もついでに子供手当の財源を消費税の増税なしに確保セヨと願をかけておいた。

南山公園から下界に降り、しばらく歩いていると21年前に山田君と共に練り歩いた梨泰院(イテウォン)に舞い戻っていた。この場所は米軍基地に近いため、外国人が集まるインターナショナルな町として毒々しい雰囲気を醸しだしていたのだが、今ではすっかり毒抜きされたおとなしい町に成り下がっているようだったので近くの飯屋で海鮮粥とチヂミを朝鮮人参茶で流し込んでとっとと撤収することにした。

南大門市場(ナムデムンシジャン)に行けば何でも揃うと聞いていたので買う気もないのに立ち寄ってみることにしたのだが、あまりの人の多さに買う気がそがれてしまったため、2008年の火事で燃え尽きてしまった南大門に非難することにした。正式名称を崇礼門(スンネムン)という南大門は漢城四大門のひとつであり、ソウルに現存する最古の木造建築で、国宝第一号にも指定されている。しかし今では再建のための覆いで隠されており、その雄姿が回復するのは数年待たなければならないものと思われるニダ。

ソウルを代表する繁華街である明洞(ミョンドン)を歩きながら一向に回復しない日本の景気を嘆いていると何故かIKKOがほめる化粧品の看板に遭遇してしまったのでこいつのせいだと割り切ってソウルの魂に身を浸して見ることにした。歩行者天国になっている明洞エリアは月曜日にもかかわらず若い男女で溢れかえっており、各ショップからは韓国語だけでなく、日本語の呼び込みもこだましていたのだった。

明洞の喧騒を避けるように地下鉄で金浦国際空港に戻り、午後7時30分発NH1294便羽田行きの機上でキム・ヨナはソチオリンピックはそっちのけでプロに転向するはずなので次回のオリンピックでは浅田真央の金メダルは確実だと安心しながら帰路に着いた。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥27,140

総宿泊費 W224,153

総地下鉄代  W6,600

総タクシー代 W10,000

協力

ANA、Priority Club、HiltonHHonors

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in 済州島

マサよ、君はサンドウィッチを韓国語で「パンにハム挟むニダ!」ということを知っているかニカ!?

そんなデマカセはいいかげんにセヨ!!

ということで、M1チャンピオンという栄冠にもかかわらず、フリートークがうけないため、今ではすっかりテレビ画面から姿を消してしまったサンドウィッチマンを尻目に前回ハワイツアーを強行したFTBであるが、今回は韓国のハワイという異名を持つ済州島を制覇する計画が実行に移されることになったのだニダ。

6月5日(金)

午前9時45分発大韓航空とのコードシェア便であるJAL5241便、A300-600機に乗り込むと程なくして機内食がふるまわれる時間となったニダ。大韓航空便ということで、当然のことながらキムチとビビンバが出てくることを期待したニダが、欧米観光客のきむち悪いというクレームにビビったせいなのか機内食は巻き寿司といなり寿司といったセオリー通りのものしか供されなかったニダ。

午後12時20分に済州国際空港に到着したニダが、入国審査では新型インフルエンザに対して厳格な検疫体制が敷かれており、すべての入国客に対して耳の穴に体温計を突っ込んで検温するという暴挙が展開されていたニダ。耳の穴をかっぽじかれた屈辱を味わいながらも何とか入国を果たすと空港リムジンバスで済州島最北部の空港から一気に島最南部の西帰浦へ向かうことにした。

1時間ちょっとバスに揺られ、今回のツアーの宿泊先であり楽天トラベルに予約させておいた☆☆☆☆☆ホテル兼大韓航空経営の西帰浦KALホテルにチェックインするとかつては新婚旅行のメッカであった西帰浦地区の散策に乗り出すことにした。港から直に水揚げされた海産物を供する海鮮食堂が競合する港町を抜け、南国ムードの植物が生い茂る天地淵瀑布に向かった。巨大な駐車場近くの入場券(W2,000)売り場から新緑の眩しい遊歩道を奥に進むと谷間に豪快に流れ落ちる滝が姿を現したニダ。神秘的な深みのある緑の水をたたえた滝壺の前は絶好の記念写真スポットになっており、多くの観光客が早よセヨ、早よセヨと急かしながら入れ替わり立ち替わり写真撮影に興じていたのだニダ。

ウエルドルグェという高さ20mの岩が海から生えているように見える奇峰を遠巻きに眺めさせていただくことにした。「たったひとつの塊」といった意味を持つウエルドルグェの周辺は韓国有名ドラマのロケ地であったようで断崖では顔をくり抜かれた主演女優が「記念写真でも撮らないかニカ?」といったいで立ちで観光客をおびき寄せていたニダ。

6月6日(土)

ユネスコ世界自然遺産に登録されている済州火山島と溶岩洞窟群を満喫するために早朝よりバスで済州島を巡ってみることにした。西帰浦のバスターミナルからバスに乗り、島中央を横断する5.16道路という風光明媚な山道を抜け、一旦北部の済州バスターミナルに到着するとそこからバスを乗り換えて島東部に位置する済州島一の洞窟である万丈窟に向かった。

万丈窟(W2,000)は漢拏山が爆発したときに出来た洞窟で、1.34kmと溶岩洞窟としては世界最長を誇っている。そのうち800mあまりが観光コースとして公開されており、最大幅18m、高さ23mの不気味な闇の世界を満喫することが出来るようになっているニダ。薄照明の中、明らかに溶岩流が通過したことを感じさせる洞窟文様を眺めながら観光コースの最奥部に到着するとそこには世界一の規模を誇る高さ7.6m、周囲8mの溶岩柱が天井に向かって伸びており、あたかもこれ以上の侵入を阻むように立ちふさがっていたニダ。

万丈窟の土産物屋に入り、何か買い物をしないと外に出られないような厳しいマークを受けたので仕方なく、飲み物、饅頭、茶色に変色した固ゆで卵を買って昼食とすると、再びバスに乗り、済州島を代表する風景と言われる城山日出峰(W2,000)に向かった。この日は何がしかのマラソンもしくはトライアスロン系の競技が行われている様子で城山日出峰の麓がそのゴール地兼表彰式会場になっていた。

何はともあれ、済州十二景の第一景に挙げられる済州島を代表する景勝地の頂上を目指してみることにしたニダ。周囲約1.5km、高さ約180mを誇る済州島の代表的な噴火口をいくつかの奇岩に遭遇しながら頂上を極めてみるとそこからの景色は険しい断崖絶壁、噴火口のような窪んだ草地、船が行き交う雄大な海等非常にバラエティに富んだものであるニダが、日出峰と言われるようにここの景色のハイライトはこの頂上に登って見る朝日のすばらしさだと言われているニダ。

城山日出峰を下山し、海女さんが漁を行い、モーターボートの観光船が発着する沿岸部まで足を伸ばしてみた。よゐこ濱口とは異なり、いちいち「とったどぉ~」という奇声を発せずに淡々と漁を行っている海女が取り仕切る生貝類のぶった切りを観光客に高値で食べさせる食堂が賑わっていたのでW20,000もの大金を支払って試食してみることにした。伊藤英明率いる海猿と同等の潜水能力を誇っているはずの海女はアマと言っても素人とは訳が違うぜというプライドをその表情に滲ませながら淡々とサザエやホッキ貝をブツ切りにしていたのだが、アワビや蛸は追加料金を取られそうだったので韓国語で価格交渉の出来ない私は断念せざるを得なかったニダ。

6月7日(日)

ここ2日間で甘鯛や太刀魚等、鱗が生えるほど海産物を味わうことが出来たので西帰浦KALホテルをチェックアウトするとその近辺で流れ落ちている正房瀑布(W2,000)のマイナスイオンで体を清めさせていただくことにした。正房瀑布は海が滝壺になっている珍しい滝で、大小2つの流れが23mの高さから落ちている姿は圧巻である。近くの海岸にはお約束の海女の拠点テントが設営されており、済州島ならではの光景と日常が展開されている場所であるニダ。

マサよ、君は潜水艦で海中40mの難破船探検に繰り出し、その船が半端なサイズで拍子抜けしたことがあるかニカ!?

というわけで、西帰浦に潜水艦遊覧船が済州島の海の生態系と難破船探検の旅に誘ってくれるという情報を入手していたので、W45,000の大金を支払って潜ってみることにした。10:05出発のチケットを入手すると接続用のボートに乗り込み潜水艦が停泊してある浮島ですでに海底から浮上してきた前の組の観光客との入れ替えで記念写真撮影後、潜水艦に乗り込んだ。乗船するとほどなくして潜水が開始された。水深20mではイシダイやクマノミ等の数多くの魚とともにダイバーも生息していることが確認された。

その後一気に水深40mに到達し、東洋唯一と言われる難破船がタイタニックの数百分の一程度の大きさであることを確認すると再び水深30mまで上昇し、ライトアップとともに大きな歓声が沸き上がった。窓の外には世界最大と言われるトサカ(サンゴ)の群落地がオレンジ色のライトで幻想的に浮かび上がっていたニダ。30分程度の海中探索が終了し、港に戻ると乗船時に撮影した記念写真が水深40mを探検しやがったという証明書に加工されて観光客に配布されていた。

西帰浦からバスに乗り、2002年日韓共同ワールドカップが行われた巨大サッカースタジアムを過ぎると韓流ドラマのロケ地にもなっている高級ホテルが建ち並ぶ中文観光団地に侵入した。中文川流域に伝説の7仙女が水浴びをしたという天帝淵瀑布(W2,500)という済州島最大の滝が大規模な観光地になっているので見学させていただくことにした。この地域は滝の峡谷を中心に常緑亜熱帯林が形成されており、約460種の植物が繁茂している。

神に仕える7人の仙女が夜ごと降り立ち、こっそり水浴びをして天に昇っていったという伝説を持つその仙女たちは天帝渓谷の上にかかるアーチ型の仙臨橋に描かれており、天帝楼というあずまやとともにこの場所の見事な景観に一役買っているのであるニダ。

天帝淵瀑布を後にし、一気に海まで出てみることにした。パシフィックランドでは数多くのマリンスポーツのサービスが提供されており、クルーザーやモーターボートが我先にと行き交っていた。中文海水浴場の海はマサに透明でこれぞ韓国のハワイと呼ぶにふさわしい海洋環境が提供されていることを思い知らされたニダ。

リゾート地として開発された中文観光団地には映画「シュリ」やドラマ「オールインワン」のロケ地にもなった世界的リゾートホテルである済州新羅やオランダ風の風車が一際目を引くロッテ済州等の高級ホテルがそのリゾート度を競うように建ち並んでいる。ロッテ済州では夜になると中庭でファイアーショーが開催されるらしいのだが、それに出演するはずのつぶらな瞳の竜が洞窟の中で出番を待っている姿が遠巻きに確認出来た。

中文観光団地から空港バスに乗り、一気に済州国際空港まで戻ると機体にJEJU文様をあしらったA300-600機に搭乗し、成田への帰路についた。大韓航空の機内食ではキムチは出なかったのだが、ハムを挟んだサンドウィッチが供されたのでこれを韓国語で「パンにハム挟むニダ」ということを機内放送で周知サセヨとスチュワーデスにお願いしようという欲望に駆られたのだが、何とか抑制することが出来たニダ。

総飛行機代 \44,840

総宿泊費 \24,470(朝食付き)

総バス代 KRW18,400

協力 JAL、大韓航空、楽天トラベル

FTBふしぎ発見 魚が空を泳ぎ、鳥が水中を飛ぶ神秘!九寨溝ツアー

マサよ、君は♪右から来たものを左に受け流す♪ような安易な仕事を日々繰り返していないか!?

ということで、食料不足と見受けられる中国において肉まんの具としてダンボールが使用されていることが明らかになった。しかもテレビのインタビューで激怒していた3年以上もその肉まんを食わされていた北京市民がいかにも健康そうに見えたということもあり、今後は日本でもダンボールが新しい食材として注目されることは明らかである。これはマサに右から来たクレームを左に受け流す体質の中国当局の快挙とも言えることであろう。何はともあれ、今回のFTBでは中国食文化の中心地四川省に侵入し、中国の隠匿体質を体得するとともに農水省に絶対ばれない偽装の奥義を伝授するためのプロジェクトが実行に移されることになるのである。

2007年7月21日(土)

午前10時10分発ANA909便香港行きは定刻どおりに出発し、午後2時前には香港国際空港に到着した。次の便に乗るまでに4時間程度の時間を持て余すことになるのでとりあえず香港に入境し、空港バスで東涌に向かった。MRT東涌駅構内におびただしい数のアウトレットショッピングセンターが開業していたので買う気もないのにウインドウショッピングを決め込みながら時間をやり過ごした。

再び香港空港に戻ると、ブルース・リー系のエアーラインであるはずの香港ドラゴン航空のチェックインカウンターであらかじめ予約しておいた成都行きのチケットを受け取るとKA824便は定刻通り、18:55に出発することとなった。ちなみにA-320機の機内を彩るスチュワーデスは厳しいドラゴンへの道を勝ち抜いたきたであろういずれも精鋭ぞろいであることが確認された。何とか死亡遊戯のような危機的状態に陥ることなく、午後9時半には無事に成都双流国際空港に到着し、空港バス(10元)で成都の中心部を目指した。四川省の州都である成都はサタデーナイトの盛り上がりの余韻を残しているかのような賑わいで、マックやスタバ等の米系ファストフードはいずれも24時間営業でナイトフィーバーを演出していた。本日の宿泊先であるはずのダウンタウンのホリデーインに乗り込むと、実は私がネットで予約しておいたホテルは郊外だという衝撃の事実に直面してしまったため、タクシーを捕まえて、世紀城という国際展示場に付属しているホリデーインに到着し、明日からのFTBふしぎ発見に備えてとっとと不貞寝を決め込むことにした。

7月22日(日)

ホテルからタクシーで空港まで走り、四川航空のカウンターでネットで予約することが出来なかった九寨・黄龍空港行きのチケットを手配することと相成った。チケットカウンターのおね~ちゃんは中国語しかしゃべりやがらなかったのだが、言ってることはわからないが、相手の心を読むことが出来る私は首尾よく9時20分発のチケットを入手することに成功した。ところが、当便は中国語のヒアリング能力がない私には理解することが出来ない理由で3時間以上の遅れを発生させたために九寨・黄龍空港に到着したのは午後2時を過ぎた時間であったのだ。

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標高3,400mに位置する九寨・黄龍空港は九寨溝から90km離れているため、寝不足と空気の薄い中、意識を失いかけながらタクシーに乗って午後4時過ぎに九寨溝入り口に到着した。今日は目的地に着いた時間が中途半端だったので九寨溝遊客中心(ビジターセンター)をちら見した後、予約しておいた☆☆☆☆☆ホテルである九寨溝喜来登国際大酒店(シェラトン)に徒歩で向かうことにした。途中道路沿いを流れる川があり、水の色が異なる2つの流れが合流するポイントではそれらの色が混ざり合うことなく平行して流れており、否が応でも何かの不思議が発見出来る予兆を示しているかのようであった。

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7月23日(月)

マサよ、君は魚が空を泳ぎ、鳥が水中を飛ぶ光景を目の当たりにしたことがあるか!?

そんなシーンの演出はテレビの撮影クルーに任せておけ!!

ということで、数年前に一流クイズ番組である世界ふしぎ発見で当時はまだメジャーではなかった九寨溝が取り上げられ、その神秘的な美しさで黒柳徹子の玉葱から芽が出るほどの感動と驚きを覚えたFTBは必ずここに来なければならないと常々考えてきた。数年の時を経て今回は総統自らミステリーハンターとして名乗りを挙げ、満を持して約束の地に乗り込むこととなったのだ。

大酒店とは言え、大酒飲みとは縁遠いシェラトンホテルを出発し、午前8時過ぎには九寨溝の入り口にたどり着くと、そこはすでに割れんばかりの数の観光客で膨れ上がっていた。チケット売り場で入場料(220元)と観光車(90元)がセットになったチケットを購入すると1992年に世界自然遺産に登録された九寨溝国家級風景名勝区への第一歩を踏み出すこととなった。尚、環境保護のため、風景名勝区内を走るバスはすべて天然ガスを利用するものになっているため、まずは長蛇の列の最後尾に並びバスの順番待ちをしなければならないのだ。

何とかバスに乗り込み、車窓からあたりを見渡すと今まで見物してきた奥入瀬や尾瀬の景観が一瞬で消し飛んでしまうかのような絶景が次から次に目に飛び込んできた。途中原住民であるチベット族の居住地を横目にバスは観光客がアクセス出来る最深部である長海に到着した。この長海は標高3,100mの地点にある、長さ8km、幅4.4kmの海子でその規模は九寨溝最大を誇り、氷河の侵食によって形成された凛とした雰囲気を称えている。長海から1kmほど戻った地点に佇んでいるのは五彩池である。深さ6.6mの青透明のこの海子を目にしたとき、マサにこの景色がテレビで見た九寨溝であり、自分が今その場に立っている感動がこみ上げてきたのだった。

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再びバスに乗り、途中観光客センターで下車し、近くにあるチベット寺院を清掃している清楚な美女に見とれた後、別の景区行きのバスに乗り込み、最深部の原始森林景区に降り立った。杉系の樹木で覆われている太古からの原始林で森林に浴するとその足で森林からの堆積物により緑濃くなっている天鵝海にたどり着いた。敷物のように草花が茂っている浅瀬は白鳥の飛来地になっており、冬場にはチャイコフスキーもシュプールを描きたくなるほどの白鳥の湖が出現すると言われている。

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目まぐるしく動く雲の隙間から滴り落ちる雨が激しくなってきたのでバスで5kmほど戻りそこから整備された遊歩道を歩くことにした。かつて多くのパンダを目の当たりに出来たという熊猫海から流れ落ちる熊猫海瀑布では気分ランランで観光していた観光客が雨のためカンカンになっているのではないかと懸念されもした。

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マサよ、君はクリスタルひとし君よりも透明感のある海子でブルーな気分に存分に浸ったことがあるか!?

というわけで、熊猫海瀑布の下流には魚裸鯉と言われる無数の原住魚がゆらゆらと泳ぎ、やつらを生息させるその海子は神秘的なブルーの様相を呈していた。ここは九寨溝の中で最も美しいといわれる五花海であり、浅い湖底には乳白色になった倒木が横たわり、青い湖水と相まって幻想的な雰囲気を醸し出している。

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五花海の美しい景色を背景にB級中国俳優を起用していると思われるウエディング系の写真撮影が行われていたので便乗見学させていただいた。尚、五花海の美は水底に堆積しているカルシウム、マグネシウム、銅といったミネラル系のイオンや藻類、コケ類が太陽光線の屈折と散射を受け、青、緑を主とする色とりどりな色彩から形成されていることが確認された。

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五花海のさらに下流に珍珠灘瀑布という幅約200m、最大落差40mの雄大かつ壮大な滝がマイナスイオンを提供している。ここでは板東英二をほうふつとさせるうっとおし系のおやじが記念写真のベストポジションを求めて仁義無き戦いを展開させていた。動的な滝を後にすると今度は対照的に静的な鏡海がさざ波ひとつない湖面に周囲の木々や山々の風景を鏡のように映し出しており、静と動の絶妙なコントラストに言いようの無い感動を覚えてしまった。

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すでに十数キロもの距離を歩いているので九寨溝を走るバスに救済を求めて次の景区へ向かった。九寨溝を形成する”Y”字の谷の中心に樹正溝景区が広がっている。この地域は樹海の中にいくつかのコバルトブルーの海子を擁し、周辺の広葉樹が赤黄に染まる秋の紅葉時には観光客の気分も高揚すると言われているのだ。

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7月24日(火)

九寨溝の観光にマックのポテトのように必ずセットとして着いてくる観光地である黄龍を目指すために九寨溝バスセンターに赴いたのだが、あいにく黄龍行きのバスが売り切れとなっていたため、即座にマスターズチョイスを行い、高いタクシーを使ってでも黄龍に乗り込むことが決断された。標高2,000mの九寨溝入り口から人里離れた山道をぐるぐる回り雲を見下ろしながら、2時間以上のドライブで9時過ぎに黄龍国家級風景名勝区(世界自然遺産)に到着した。

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早速チケット売り場で入場券(200元)を購入し、標高3,000mを超える過酷なトレッキングをスタートさせた。風景区内は九寨溝と異なり、バスが連なる喧騒は無く、橋板からなる桟道が非常に整備されているため、周囲の風景に非常にマッチしていた。また、黄龍の周囲をぐるりと取り囲んだ高峰の眺望はすばらしく、そこからの雪解け水と地下水の炭酸カルシウムが相まって乳白色の結晶体を作り、特異な景観を作り出しているのだ。

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ゆるやかに登る桟道には多くの休憩用のベンチが据え付けられ、いくつかのポイントには無料酸素吸入所が息苦しい観光客の呼吸の一助となっていた。龍が舞い昇るような黄色い棚田状の器には上流から透明な水が絶えず流れ込み、LIVE中国ANAのキャンペーンで現地を訪れた速見もこみちが興奮して股間をもっこりさせていたのも無理のないことだと思われた。

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入り口から4km以上先には黄龍寺が参拝者の供える線香の煙をもくもくと吐き出し、その先が終点の五彩池となっている。五彩池は黄龍区内最大の池グループで浅い池に流れ込む水と湖底の堆積物が相まって様々な色彩のページェントを演出し、観光客の目を楽しませているのだ。

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午後2時過ぎにはすでにおびただしい数の観光バスが駐車場から道路に溢れている黄龍から撤収し、高地トレーニングにより著しく増加させたヘモグロビンを土産に九寨・黄龍空港を後にした。成都の世紀城のホリデーインに戻ってきた頃には丁度夕飯時となっていた。四川省くんだりまで来て麻婆豆腐を食わないと陳健一にチンケな奴だと罵られることを恐れてホテルのレストランで名物坦坦麺とともに麻婆豆腐と白ご飯を発注した。さすがに本場の麻婆豆腐だけあり、口当たりの辛さはそんなに感じなったものの、額から滝のような汗が流れるとともに翌朝には肛門にまでヒリヒリ感を残す代物であった。尚、味自体は陳健一がプロデュースしている渋谷セルリアンタワー(http://www.ceruleantower-hotel.com/restaurant/chen.html?link_id=re_ch02)の中華レストランで暴利を貪っている麻婆豆腐と変わらないものの、ここホリデーインではわずか66元の支払いで青島ビールを含めたすべてのディナー代をまかなうことが出来たのであった。

7月25日(水)

午前8時20分発のKA825便で成都を後にし、香港経由で成田に戻り、これからは脱税の技術に優れた周富徳派をやめて陳健一をサポートすることを誓いながら、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥70,640、香港ドラゴン航空 = HK$2,817、四川航空 = 2,010元

総宿泊費 2,886元

総タクシー代 1,142元

総バス代 10元

協力 ANA、香港ドラゴン航空、四川航空、Starwood、Priority Club

FTB炎の離島デスマッチ 第?弾 in セブ島、マクタン島

♪おっかのうえ、ひぃなげぇしぃの♪マサよ!

ということで、とりたてて「アグネス・チャン杯争奪 香港飲茶ツアー」を開催する意向もないまま、香港まで足を運ばなければならないのは世界有数の海の美しさを誇るフィリピンセブ島の移動拠点として香港国際空港が単に交通の便がいいからに他ならないのだが、年末のあわただしい中何とかセブ島までたどり着くべく長い足をさらに伸ばすことにしたのだ。

12月27日(水)

年末恒例の空港の混雑をものともせず、さらにビジネスクラスへの無条件アップグレードを勝ち得た私は颯爽とNH909便B747-400機に乗り込み、機内映画のUDONを見ながらワインを飲んで伸びてしまったものの午後2時過ぎには香港国際空港に到着した。空港からバスで九龍に向かい、何故か東海観光の株主優待券を利用して半額で宿泊することの出来るドーセットシービューホテルにチェックインした後、香港一のメインストリートであるネイサンロードを南下してハーバーの方へ向かった。

たそがれ時の香港ハーバーは徐々に明かりが灯り始め、町中がいまだにクリスマスの余韻のイルミネーションに満たされている光景が浮かび上がってきた。対岸の香港島の高層ビルが醸し出す100万香港ドルの夜景を目の前にしてハーバーウォークを満喫しているとふとドラゴンへの道が切り開かれた感覚を覚えてしまった。すると目の前に香港最強のムービースターであるブルース・リーが「アチョー!」のポーズを決めている銅像が死亡遊戯を楽しむがごとく、道行く観光客の行く手を阻んでいたのであった!

12月28日(木)

世界有数の優良エアーラインであるキャセイパシフィクが誇るB777-300機、セブ行きは定刻より30分程遅れたものの、午前9時半には離陸し、正午過ぎにマクタン・セブ国際空港に到着した。入国後すぐに今回の宿泊地であるHilton Cebu Resort & Spaの看板を掲げた若者をとっ捕まえると車を手配させて早速ホテルに向かった。

12月中旬に予定されていたASEAN SUMMITが台風という口実で中止になり、その余韻の横断幕がむなしくあちこちに掲げられていたのだが、本当はテロの脅威が迫っていたため、ホテルの入り口では警察犬を駆使した慎重な安全管理がなされていた。ヒルトンホテルはマクタン島東海岸のリゾートホテルの中で最も新しく、3つのタワーがビーチを見下ろすようにそびえている。レセプションで提供されるグアバジュースを一気に飲み干すと11階の部屋にチェックインし、そのままビーチに向かった。

岩礁地帯に白砂を移植したであろう人工っぽいビーチの遊泳地帯はブイで仕切られており、餌付けされている熱帯魚がゆらゆらスイミングしている姿を間近で見ることが出来、また波がおだやかなのでシュノーケルにもってこいのコンディションであることが確認された。ホテルを出て半島の最端を目指して歩いているとそこはもはやリゾート地ではなく、単なる田舎の明るい漁村の様相を呈しており、屈託のない笑顔をたたえた原住民青少年少女が容赦なく、「アンニョンハセヨ!」と声をかけてくれるのであった。

12月29日(金)

早朝より、ビーチでシュノーケリングをしながら熱帯魚と戯れた後、徒歩で町に繰り出すことにした。

マサよ、君はセブ島へのツアー客の多くがマクタン島にとどまりセブ島に上陸しないまま去っていく事実を把握しているか!?

ということで、マクタン島北東に突き出た半島の付け根にマゼラン記念碑とラプラプ像が君臨している。世界的探検家であるマゼランは1521年にセブに上陸して以来、キリスト教の布教に精力を傾けていたのだが、マクタン島の酋長であるラプラプだけはこの侵略に戦いを挑んでいたそうだ。その結果マゼランはラプラプとはラブラブにならないまま殺害されてしまい、彼の野望は海の藻屑と消え、ラプラプは英雄としてその名を残しているのである。

マクタン島とセブ島は2本の橋で繋がっており、セブ本島に上陸しないとセブ島に来たことにはならないのでまずは第2マンダウエ・マクタン大橋を徒歩で渡りきることにした。橋の最高部にはこの橋が日本のODAにより建設された看板が誇らしげに掲げられており、また橋の上からはセブ本島とマクタン島の間の海峡を一望することが出来、そこにはリゾートエリアとは正反対のバラック系の居住地や廃船家屋がならんでおり、セブエリア原住民の本来の生活様式を垣間見ることが出来るのだった。

炎天下の中すでに10km以上も歩いて何とかセブ本島に上陸することに成功した訳だが、さすがにフィリピン第3の都市であるセブシティを持つ本島だけあり、広い道路と大きな船が行き来する港湾ファシリティが印象的であった。脱水症状を免れるために第1マンダウエ・マクタン大橋を渡り、マクタン島へと撤収する道すがら、橋の欄干が非常に低くマリンブルーの海に転落する恐怖を覚えながら何とかマクタン島へとたどり着いたのであった。マクタン島のとあるインターネットカフェ(P25/hr)でアンチウイルスソフトがインストールされていないPCでサーフィンの練習をした後、そそくさとホテルへの帰路を急いだ。

再び10数kmの道を歩きホテルに戻ったころには身も心もボロボロになっていたのでヒルトンリゾートの売りのひとつであるスパで人間性を取り戻すことにした。数多くのメニューの中から、スタンダードなマクタン・マッサージ(P2,400)を選択すると待合室にてジンジャーティーで一息入れた後、セラピストの案内で施術室へと案内された。まずはトイレ兼更衣室でスッポンポンになり、ガウンをまとったのはいいのだが、ベッドですぐにガウンを脱がされてうつ伏せにされ、フィリピンマダムからアロマ系のオイルを全身になすりつけられながら1時間もの恍惚の時を過ごすことになったのであった。

12月30日(土)

昨夜のスパでスパッと英気を取り戻すことに成功したので朝から海でひと暴れをと考えていたのだが、あいにくの嵐まがいの荒天だったため、11階の部屋からビーチとプールを恨めしげに眺めてこの島の上客はもはや日本人ではなく韓国人であることを思い知った後、ホテルをチェックアウトし、タクシーの運ちゃんに高額チップをたくして日本人の実力を思い知らせながら空港へ到着した。

CX920便にて晴天の香港に到着したのは午後4時近くになっていたため、そのまま空港バスに乗り込み香港島に向かった。楽天トラベルに予約させておいた港島太平洋ホテルは空港で入手した都市地図の圏外に位置していたため、場所を特定するのに街中を3時間程歩き回ったものの疲れを感じなかったのはスパのスバらしさであることを認識しながら香港での夜を過ごしていた。

12月31日(日)

NH912便、B767-300機にて午後2時半頃には帰国、その後引き続き次回FTBのアクティビティのために奔走。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥46,980(ANA)、HK$3,834.- (キャセイパシフィック)

総宿泊費 HK$1,548.1(HKD1 = \15.3)、P19,504.94(P1 = \2.4)

総香港バス代 HK$117.2

総香港トラム代 HK$2.0

総マクタン島車代 P770

総マクタン・セブ空港使用料 P550

協力 ANA、キャセイパシフィック航空、HiltonHHonors、東海観光、楽天トラベル

チョー・ヨンピル推薦FTB版釜山港へ帰れ!

♪つ~ばき咲くぅ~ 春なのにぃ~ あ~な~たは かえらない~♪http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-sengokayou/pusanhanhekaere.htm

ということで、バブル経済の絶頂期に大和證券北九州支店で肩で風を切って歩いていた私が大和證券青森支店の山田君を従えて短い夏休みを韓国で謳歌し、ソウルのシェラトン・ウォーカーヒルのカジノで無類の勝負強さを発揮したのはまだ海外渡航履歴の浅かった1989年のことだった。それ以来15年間、近くて遠い国として韓国を訪れる機会がなかったのだが、この期に及んでチョー・ヨンピルのリクエストに応えなければならないという衝動に駆られ、釜山港へ帰る決意を固めることにした。

5月27日(金)

早朝6時30分発のANA981便に搭乗し、羽田から福岡に乗り込んだ。到着した時刻が経済活動が始まる前の午前8時過ぎだったため、とりあえず博多駅の地下街のロッテリアで朝飯を食いながら時間を潰し、適当な頃合を見計らって西鉄バスで博多港の中央埠頭国際ターミナルへ向かった。

釜山港へ帰るためには旅情溢れるフェリーでないとヨンピルも浮かばれないと考えたので全長170m、幅24mの巨大貨客兼用フェリー「ニューかめりあ」の2等客室(¥8,500)に乗船すべくチケット売り場に向かった。窓口にはユン・ソナ系の美女とユン・ソナに似てない普通の女子がチェックインの業務を行っていたので迷わずユン・ソナが待つ窓口でチケットの購入を果たした。

マサに釜山港へ帰らんとする韓国の大学生旅団の嬌声を聞きながらも定刻どおりに出国、乗船を果たすとニューかめりあは午後12時半ごろ博多港を出港した。船内でキムチチゲ定食を食い、展望風呂で海を眺めながらひと汗かく等の優雅な船旅アクティビティをこなしていると夕方6時前にフェリーは世界を代表する港である釜山港に入港した。

釜山国際フェリーターミナルで韓国への入国を果たすと今回のツアーの宿泊地であるHotel Kukuje(国際)の場所を探すことにした。中央洞という地下鉄駅の切符売り場で手持ちの1万ウォンが自動販売機で使えないため対応にもたついていると回りの韓国人がしゃべっているアンニョンハセヨがハヨセヨ!早よせよ!!と聞こえてしまう妄想に駆られてしまい、仕方なく徒歩でホテルを目指すことにした。

アウェイの博多にユン・ソナを送り込むほど人材の豊富な韓国だけにホームの釜山では韓流ブームもあいまって道行くギャルは圧倒的にチェ・ジウ系が多いことが期待されたのだが、実際には「チェ!」と舌打したくなるような女子ばかりが私の横をすり抜けていった。私の舌もしびれはじめた夜8時頃にホテルにチェ!ックインを果たし、ハングルだらけの街に繰り出すとハングリーになったのでお粥専門店で海鮮粥(W8,000)を食って溜飲を下げ、これから対決することになる辛さに舌をならしはじめることにしたニダ。

5月28日(土)

釜山総合バスターミナルまで地下鉄(W1,000)で移動し、そこから高速バスで韓国の古都慶州(キョンジュ)を目指すことにした。チケット売り場にて慶州までのチケット(W3,900)の購入を試みていると日本名を蜂谷真由美と名乗りそうな金賢姫似の美女が機転を利かせて日本語で対応してくれたのですぐに目的のバスを見つけることに成功した。

78kmの道のりを1時間半ほどの時間をかけてバスは午前10時半頃、2000年の歴史を誇る世界遺産の古都慶州に到着した。慶州高速バスターミナルから市内バスに乗り換えて30分くらい走ると仏国寺(世界文化遺産、W4,000)に到着した。3国に分かれていた朝鮮が新羅により統一された751年頃に建立されたと伝えられている仏国寺は高い築台の上に平地を造り、そこに殿閣を建てた伽藍である。殿閣に入る前に33段の石組みがあり、その上が仏国になっているのだが、早速私も何かをぶっこくためにトイレを使用させてもらった後にゆっくりと観光にいそしむことにした。

仏国寺からさらに山を登った吐含山の頂上に石窟庵(世界文化遺産、W4,000)という最高峰の新羅仏教彫刻が鎮座しているので見物に行ってきた。自然石を成形した人口のドームの中で八部神衆のレリーフに守られたご本尊は保存のためにガラスで仕切られており、観光参拝客はかろうじてガラス越しに本尊仏に対面することが出来るのだけにとどまっていた。

慶州中心部に大陵苑(W1,500)という新羅1000年の古墳23基が散在する公園がある。その中の天馬塚は内部が公開されており、古墳の構造を観光客が学習出来るようになっている。高さ27.7m、下部の直径が47mにもおよぶ古墳の中心には王の棺桶が設置されており、その周りは石垣で厳重に覆われている様子を垣間見る事が出来、また金銀財宝の出土品は慶州国立博物館や古墳内部に展示されたりしているのだ。

マサよ、君は韓国の食い物屋のメニューにキムチが存在しないのを知っているかニカ!?

ということで、バスで釜山に戻りホテル近くの韓国食堂で夕飯を食う運びとなった。メニューはすべてハングルで書かれていたのでおばちゃんに日本語のメニューを要求すると「ン」であるべきものがすべて「ソ」になっていることが気になったものの無事に「サムゲタソ」をW8,000で発注することに成功した。私が実際に発注したものは鶏にもち米を詰めて高麗にんじん等の薬膳で煮込みまくったサムゲタソだけだったのだが、その回りはキムチ、カクテキ、ニラ、青とうがらし、生にんにく等で完全包囲され、テーブルは色とりどりのカプサイシンワールドと化していたニダ。

5月29日(日)

日本から密輸した手持ちのガムの在庫が切れてしまったので補充のためにロッテという大百貨店にやってきた。韓国女性の花形職業として駐車場ガールという車で来店した客を誘導兼悩殺する業務があり、開店前の振り付け練習を軽く見学した後、デパートの中に侵入したのだが、ここではついにお口の恋人であるガムやチョコは発見出来なかった。

釜山市立博物館(W500)で豊臣秀吉から近代までの日韓関係の歴史を紐解いた後、海雲だいという釜山きってのビーチリゾートに向かった。オンザビーチには水族館やウエスティン、マリオットといった特1級ホテルが立ち並んでおり,さらに数棟のホテルの建築も進んでいた。またシーフードレストランも数多く、関釜フェリーで交流のある下関と漁場をシェアするふぐ料理も名物のひとつとなっていた。

韓国に来て韓国エステを体験しないと決して垢抜けることがないと言われているので博多港で入手したパンフレットを頼りに山庭というエステ専門店にやって来た。ここではW70,000で基本コースを受けることにしたのだが、まずは黄土汗蒸幕オンドルというサウナに閉じ込められ体の毒素を出された後,アカスリルームに向かった。ルームでは下腹の出たおやじが手ぐずねを引いて待ち構えており、アカスリ用の布を右手にぐるぐる巻きにして私の敏感もち肌をこすり始めた。おやじが日本のアカスリに関して逆取材してきたので日本ではアカスリ用のミットを両手にはめてゴシゴシやるぜと答えると彼は本場の韓国ではミットを使わないからといってミットもないと思うなよニダと言わんばかりに擦る手に力が込められたのであった。その後、足マッサージ療法を受け睡眠ルームで休憩した後、山庭を後にして下界におりることにした。

ロッテ百貨店やホテルを要する西面(そみょん)という若者の流行発信基地にロッテ一番街という屋台街がある。そこに釜山B級グルメを代表するテジクッパプ(W4,500)というご飯に豚骨ベーススープをぶっかけた食い物屋が軒を連ねていたのでエステで減量した体重を取り戻すべく庶民の味に舌鼓を打ちながら釜山のラストナイトは更けていった。

5月30日(月)

釜山を代表する温泉として東莱温泉があり、そこからさらに8km北へ進むと梵魚寺(W1,000)という新羅時代創建の山寺がある。国宝に指定された本堂やその他の堂の建築様式のすばらしさを堪能しながら木魚のポンポンサウンドを聞いて軽くお参りをすることが出来たので下山してプサンの伝統的繁華街である南浦洞に向かった。

龍頭山公園という市民の憩いの場所である小高い丘の上に高さ120mの釜山タワー(W3,000)が君臨しているのでエレベーターで登頂し、釜山の全景を目に焼き付けながらこれでチョー・ヨンピルも浮かばれることだろうと安心してプサンを後にすることにした。

帰りはJR九州の運行する海飛ぶカブトムシとの異名を持つビートル(¥13,000)というジェットフォイルでわずか2時間55分で博多港に帰還し、博多に来た足跡として長浜ラーメンを食ってお茶を濁し、ANAの最終便で東京への帰路へ着いたのであった。http://www.jrkyushu.co.jp/beetle/index.jsp

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,900

総船舶代 ¥21,500

総博多港国際ターミナル利用料 ¥400

総釜山港港湾利用料 W2,200(¥1=W10)

総韓国バス代 W12,200

総釜山地下鉄代 W7,800

総宿泊費 W174,240

協力 ANA、カメリアライン(株)、JR九州