シンFTB驚異の日本人出稼ぎMLBリーガーとスモーキーツアー in 米国南部

♪エブリバディ サムライ スシ ゲイシャ ビューティフォー フジヤマ HA HA HA♪

というわけで、円安バーゲンオーバーツーリズムで沸き返る日本の観光地ではもはやFUNK FUJIYAMAの歌詞は過去の物となっているはずなのに今年の3月に来日したドジャースとカブスの一行の中には♪ワタシハ NIHON ハジメテデス♪の輩も多かったと聞いている。日本のコスパの高さをあらためて世に知らしめる機会となったのは間違いないが、それと反比例するように日本人の旅行意欲は減退し、GWに海外で羽を伸ばそうという気もなかなか起こらないようである。そんな状況下でもアメリカに出稼ぎに行っている日本人メジャーリーガーの活躍は目覚ましく、飛行機を飛ばしてまで見る価値があるのは間違いないはずなのではるばるアトランタまで足を延ばすツアーの開催と相成ったのだ。

2025年5月1日(木)
空港ビル内に垂れ下がっている大谷翔平の看板に見送られつつ、10:40発NH112便は予定通り羽田空港を出発し、アトランタを舞台にした長編名作映画「風と共に去りぬ」を遠ざかる意識の中で見ながら12時間以上の浪漫飛行でシカゴオヘア空港に到着したのは同日の午前8時半過ぎであった。米国入国に必要なESTAの取得がぎりぎりになってしまっていたのでImmigrationでオヘア空港の別のオヘヤに連行される妄想を抱きながらも無事入国を果たし、乗継便の10:35発UA1848便に滑り込むと午後2時前にはハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港に到着することに成功した。

世界最大級の航空会社であるデルタ航空のハブ空港であり、2000年より発着数及び利用者数において世界中で一番忙しい空港内でレンタカーセンターを探すのは至難の業であったが、何とかスカイトレインに乗ってたどり着くとANA Traveler’sに予約させておいたThrifftyでヒュンダイの小型RV車をレンタルすると風と共に大都会アトランタの喧噪の世界に飛び出した。

米国に入国してからiPhoneのデータ通信が出来ない不具合に見舞われており、地図アプリも使えない状況なので自らの動物的勘を頼りにアトランタの町をさまよっていた。ジョージア州を縦断して北に向かうI-75に入りダウンタウンを突っ切ろうとしたものの片道7車線すべてが渋滞しているというモータリゼーションの負の遺産を目の当たりにしながらアトランタオリンピックの聖火台に火を灯した実績のあるモハメッド蟻のように進んで行った。

いつしか渋滞は解消し、テネシー州のチャタヌーガという都市を抜けてグレートスモーキーマウンテンズの方角を目指してひた走った。途中で2回ほど地元住民に道を確認させていただき、今日の宿泊先であるStaybridge Suites Pigeon Forge – Smoky Mtnsに命からがら
辿り着いた時間は午後10時頃であったろうか? 昼食も夕食も抜いていた状態だったのでホテルの売店で買ったチップスをオレンジジュースで流し込みながらKDDIのサポートに電話してデータ通信のトラブルシューティングに勤しんでいたのであった。

5月2日(金)
ホテルの粗雑なアメリカンブレックファストでも息を吹き返すことが出来たので昨日の夜に見た街並みの不思議な光景の正体を見極めるためにピジョンフォージの町をしばし車で流すことにした。

グレートスモーキーマウンテンズのベッドタウンであり、チープなリゾートの様相を呈するピジョンフォージには多くのファンキーな建造物が君臨しているのだが、倒壊ビルやタイタニックのミュージアムは形あるものは壊れるといった諸行無常のコンセプトを表してさえいるのであろうか?

アパラチア山脈の南端、テネシー州とノースカロライナ州にまたがるグレートスモーキーマウンテンズ国立公園は、アメリカで最も入園者数の多い国立公園で、どのような集計方法かは不明だが、年間約1134万人でグランドキャニオンの2倍以上と言われているそうだ。ピジョンフォージを出て園内のリゾートタウンであるギャトリンバーグのWelcome Centerで熊の歓迎を受けた後、入園料を徴収されることもなく、すみやかに国立公園に滑り込んで行った。

♪パープルタウン♪であるニューヨークは♪紫に煙る夜明け♪であるが、グレートスモーキーの上空には厚い雲が燻っており、カールスモーキーのような胡散臭さが漂っていた。

まずはSugarlands Visitor Centerでこの公園が世界遺産に登録された理由となった生物学の多様性を学習させていただくことにした。多くの剝製コレクションの中で特に気になったのはやはり赤いきつねと緑でないたぬきのコンビであった。しかし残念なことに石井竜也の映画監督デビュー作である「河童」はここにはいないようで入園記念に黄桜辛口一献で祝杯を挙げるわけにもいかなかった。

ビジターセンターからはトレイルが伸びており、♪Shake Hip!♪のリズムで辿り着いた新緑まぶしいCataract Fallsは家族連れの憩いの場所になっていた。

ブラックベアを始めとする野生動物との遭遇を期待してケーズコーブという草原を取り囲む1周約11マイルの舗装道路に侵入した。乗馬用に導入されている馬がいる駐馬場を過ぎ、アメリカではバーボンウイスキーであるはずのワイルドターキーを遠目に見ながら道は徐々に渋滞していった。

観光客が一斉にカメラを向けているその先には灰色の鼻先がスモーキーなブラックベアが単身で草原の中をさまよっていたのだった!

熊の出現により思いのほか足止めをくらい、公園を出るのが午後3時過ぎになってしまったのだが、とにもかくにもアトランタへの帰路を高速で疾走した。アトランタ・ブレーブスの本拠地であるTruist Park近辺に予約していた駐車場に6時半過ぎに車を滑り込ませると野球ファンの流れに身を任せて入場ゲートへの道筋を急いだ。iPhoneのデータ通信の復旧により首尾よく電子チケットのダウンロードに成功した勢いをかってこの球場内で一番多い数字であるはずの「17」を追いながらドジャース側の3塁側席奥地に腰を下ろした。

アトランタの地における日本人シリーズと言っても過言ではない一戦は大谷の登場で幕を明けると同時にブレーブスも最大のピンチを迎えたのだが、大谷はあえなく三振に切って取られてしまった。

今日のゲームのハイライトは何といってもドジャースのエース山本由伸の快投である。独特の「あっち向いてホイ!」投法はさらに磨きがかけられており、最初はグーと言いながらも相手がついチョキを出してしまうほどの圧倒的な威圧感で投球する前からすでに勝負は決まっているようであった。結局山本は6回を投げて1安打無失点でブレーブス打線の勇気を最後まで封じ込め、ブレーブス球場のチャンスの時に一体となって炸裂するトマホークチョップもフリーズしたままであった。

山本降板後に雨が降り、数10分間の中断を余儀なくされたものの試合は2三振を喫した大谷の不発にもかかわらずドジャースが2対1で辛くも初戦をものにしたのだった。

昨夜の宿もIHGポイントを使っての無料宿泊であったが、今夜もHoliday Inn Atlanta-Northlakeに無料でしけこむと首尾よく数時間の寝床を確保するに至ったのだ。

5月3日(土)
Holiday Innで朝食が提供されなかったという不測の事態はあったものの、チェックアウト後にダウンタウンまで足を運びガソリンスタンドのチョコレートとドーナツで人体への燃料補給を行った。

アトランタくんだりまで来てマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの足跡を辿らないとアトランタまで来た意味がないはずなのでダウンタウンの中心部に位置するその国立歴史公園を訪問させていただくことにした。首尾よくVisitor Parkingの空きを見つけ車を駐車することが出来たのでまずはNational Park Service Visitor Centerに入ってみることにした。

キング牧師が非暴力不服従という点でお手本としたインドのマハトマ・ガンジーの銅像に迎えられて中に入るとそこに広がっている世界はマサに「I have a dream !」そのもので、公民権運動の闘争と勝利、そしてマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの平等と正義に対するビジョンの持続的な影響を深く理解するための展示品の数々であった。私が生まれた1964年にキング牧師は史上最年少の35歳でノーベル平和賞を受賞したものの、1968年4月4日にはテネシー州メンフィスで暗殺されてしまっている。その後多くの議論を経て彼の誕生日である1月15日(1月の第三月曜日)はキング牧師記念日として国民の休日となったのだが、日本における人物関係の休日が天皇誕生日のみであることを考えると自由の国を標榜するアメリカがいかに不自由に関して敏感であることが理解出来るのである。

キング牧師とその妻の墓はVisitor Centerの目の前のThe King Centerに恭しく奉られ、訪問者が後を絶たないのだが、彼の生家は一時的に閉鎖状態で内見不可となっていたのでその暮らしぶりをうかがい知ることが出来なかったのが残念であった。

キング牧師の聖地から2㎞以内の場所にジョージア州議事堂がそびえている。この建物はアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定されているのだが、今日は休日のため遠巻きにしか眺めることが出来なかった。

日本で天下分け目の戦いと言えば関ケ原であるが、1861年に勃発した南北戦争はマサにアメリカ版関ケ原の戦いと言っても過言ではなく、激戦地の一つであるアトランタではKennesaw Mountain National Battlefield Park, Mariettaにてその様子が今に伝えられているので「風と共に去りぬ博物館」の見学を断念してまで入場させていただくことにした。

Visitor Centerに入館すると会議室で何らかのデモンストレーションが行われており、プレゼンターのおね~さんに執拗に入室を促されたので渋々話を聞いてみることにした。ここでは当時の戦闘服に身を包んだ兵士が銃を携えて一連の攻撃の流れを身を挺して説明してくれたのだが、実際の戦闘の時間よりも訓練や待機の時間の方が圧倒的に長かったので戦意を維持することがいかに大変かを思い知らされた。

近隣のアメリカ的なファミリーレストランでサクっと昼食を済ませ、Marriott Bonvoyポイントが余っていたのでただで泊ることが出来るCourtyard Atlanta Northlakeまで車を飛ばしてチェックインすると野球観戦モードにギアを切り替えることにした。

今日は余裕をもって野球場に到着出来たので2017年に建立されたTruist Park周辺をぐるっと回ってみることにした。ブレーブスのレジェンド選手の銅像のそばには子供用の小さなフィールドがあり、将来のメジャーリーガーを育んでいる様子がしかと見て取れたのだが、やはりアメリカではベースボールが生活の一部になっていることは疑いようのない事実であろう。

試合開始予定が7時15分なのでその前にジャンクフードを掻き込み、巨大スクリーンでの選手紹介とアメリカ国歌の斉唱も終わり今か今かとプレーボールのコールを待ちわびていた。しかしながら、一向に試合が始まる気配はなく、選手がグランドに姿を現す代わりに上空には厚い雷雲が垂れ込め始めたのだ。グランドキーパー陣がフィールドに巨大なシートをかぶせるとほどなくして雷鳴がとどろき始め大粒の雨が地面を打ち付ける展開となり、ここから松山千春よろしく♪長い夜♪の始まりとなった。

遅延が1時間以上経過した頃、おもむろにアルコール以外のドリンクとフードを40%値引きするという場内アナウンスがあり、たとえ試合が出来なくてもフードロスの影響を最小限に抑える配慮なのかと思ったのだが、2時間以上経過後に雨が止まなくても♪おま~えだけにこの愛を誓う♪といった律儀な野球ファンは球場を後にしたりすることはなく、ついに3時間遅れの10時15分試合開始というアナウンスがなされ場内は大きな歓声に包まれたのだ。

長い遅延時間を利用して球場内の散策と洒落こんでいたのだが、チームの歴史と栄光を展示しているモニュメントには世界の王貞治に抜かれるまでその755本という本塁打数は世界一であったハンク・アーロンのコーナーがひときわ目を引くものとなっていた。

試合開始直前にレフトスタンド最前列ドジャースブルペンフロントの自席に戻ると満を持して今日の先発投手の佐々木朗希が通訳を伴ってウォーミングアップのためにベンチから飛び出してきた。

槍投げ省エネ投法の山本由伸と違って佐々木朗希はその贅沢な手足の長さゆえにスピードは出るが肉体に脆弱な部分があればそこに応力が集中して故障につながってしまうリスクを抱えている。

ブルペンに入ると球筋までは見えなかったもののキャッチャーミットから発せられる音でその威力は十分に感じられ、フェンスの上から見下ろすその先にははっきりとフォークボールの握りが見えたのであった。

ブルペンからベンチに戻る際の右腕を気にする佐々木の様子が気になったものの、試合は通常では終了している時間であるはずの10時15分に開始となった。初回いきなり大谷のセンター前ヒットで観客の目を覚まさせたのだが、後続が続かず無得点に終わってしまった。

立ち上がりの佐々木はヒットと四球でランナーを2人出したものの5番打者のマーフィーを三振に切って取り、上々の滑り出しとなった。しかし2回の表ドジャース1点先行の後にはすぐにタイムリーヒットで追いつかれてしまった。

試合は早くも3回の表に最大の山場を迎えた。この回の先頭打者の大谷のバットが一閃すると打球は大きな放物線を描いてセンター左の観覧席に着弾した。ドジャースブルペンに陣取っている投手陣の盛り上がりとひまわり種シャワーの余韻に浸る暇もなく、後続打者の出塁とタイムリーヒットによって佐々木に3点目の援護がもたらされた。

さらに4回表のドジャースは二死から大谷のこの日3本目のヒットを皮切りに4点を追加したのだが、その裏のブレーブスの攻撃で佐々木は2点を奪われたのでこの回で降板となるのではないかと懸念された。

しかし、佐々木は何とか5回裏のブレーブスの攻撃を三者凡退で切り抜け、勝ち投手の権利を持ったまま降板となった。試合はその後8回の表にブレーブス在籍時の2020年にMVPを取った実績のある自由人フリーマンのスリーランホームランがダメ押しとなり、10対3でドジャースの佐々木に念願のメジャー初勝利がもたらされたのであった。

5月4日(日)
日付はすでに代わっており、♪長い夜♪の主役のヒーローインタビューは当然大谷の務めであったが、今回のシリーズの心残りは300年前の東京からタイムスリップしてやってきたような気風の良さを誇るドジャースのユーティリティプレイヤー トミー・エドマンの故障による欠場であったろう。日本名で江戸富男と名乗るかどうかは定かではないが、横浜の「べらぼう」に匹敵する逸材であることは確かである。

ここ2日の試合観戦で見たいシーンはすべて見尽くした満足感を胸にホテルに帰還すると時刻は優に丑三つ時を回っていた頃合いであったろう。睡眠時間もそこそこにホテルをチェックアウトすると再びスモーキーを目指してアクセルを踏みしめていた。

グレートスモーキーマウンテンズ国立公園のノースカロライナ側の入り口にあるチェロキーという小さな町の地ビールレストランでハンバーガーを片手にブランチを楽しむとOconaluftee Visitor Centerでチェロキー族の歴史と暮らしぶりを学習させていただいた。

公園の中心部を縦断するUS-441号線を一気に駆け上がり、ニューファウンドギャップという標高1,529mの峠の駐車場に車を止め、ノースカロライナとテネシーの州境に股をかけた。

ニューファウンドギャップの近くから脇道の舗装道路が伸びていたので約20分程車を走らせるとドン付きの駐車場に行き当たった。そこから徒歩で急な登坂を800m程上ると人工的な展望台が姿を現した。

ここは標高2,025mの園内最高峰でクリングマンズドームと言われ、360度のパノラマを背景にカールスモーキー石井が誇るレコ大受賞曲の♪君がいるだけで♪を熱唱しようかと思ったのだが、通信カラオケの電波が届かないようなので断念せざるを得なかった。

観光客を軽~く煙に巻くような景色に別れを告げ、アパラチアントレイルというアパラチア山脈を縦断する長大なトレイルを横目に一気に来た道を駆け下りチェロキーまで舞い戻ってきた。

「エルクにもプライバシーが必要だ!」という看板文句とは裏腹に発信機を付けられた鹿を見て仕方ないとは思いつつ、後ろ髪を引かれるようにスモーキーの地を後にしたのだった。

Marriott Bonvoyポイントがさらに余っていたので私はただで宿泊出来るThe Westin Atlanta Airportに夕暮れ時にチェックインし、テレビを付けるとそこには一昨日、昨日と二夜連続で目にしたブレーブスとドジャースの死闘が繰り広げられていた。画面越しには現地の熱狂は中々伝わりにくいのは当然だが、今日の試合は特に見せ場はなく地元ブレーブスが3連戦の最終戦で勝利をものにし、何とかアトランタのファンの溜飲を下げることが出来たのであった。

5月5日(月)
9:25発UA632は定刻通りに出発し、約1時間半のフライトでワシントンダラス空港に到着するとラウンジで一息入れる暇もなく12:15発NH101便に乗り継ぎ、13時間以上機上の人となっていた。

5月6日(火)
♪浪漫飛行♪中の機内のエンターテイメントプログラムを見ながら、日本の米騒動の原因はカールスモーキーの陰謀で備蓄米の放出とともに米米CLUBも復活するのではないかと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥388,770
総宿泊費 ただ
総レンタカー代 ¥32,909 + $149.81
総ガソリン代 $100.69
総駐車場代 $101.37
総走行距離 1,072マイル

協力 ANA、ANA Travelers、Thrityレンタカー、IHG、Marriott Bonvoy、KDDI

シン・FTB第7次MLBツアー ♪ニューヨーク・ニューヨーク♪

ニュ~ヨ~~クへ行きたいかぁ~!
ウォ~~~~!!!

という福留功男日テレアナウンサー(当時)の掛け声と参加者の地響きアンサーにより幕を開ける「アメリカ横断ウルトラクイズ」は当時学生だった私の野望と好奇心を常に駆り立てる名作であった。また、1980年7月にリリースされた「パープルタウン」は八神純子により♪愛する気持ちを呼び覚ます都会(まち)ね Ne~w Yo~rk♪と歌いあげられ、当時の若者の心に大いなる刺激を与える名曲であった。

私が初めてニューヨークに足を踏み入れたのはパープルタウン発売7周年記念の1987年7月のことであり、その後長らくのブランクを経てイチローやゴジラ松井がニューヨークでセンセーションを巻き起こし始めた2000年代からしばしばこの地に通うようになっていた。とはいえ、田中マー君がヤンキースタジアムでデビューを果たした2014年を最後にビッグアップルの摩天楼から遠ざかっていたのだが、ついにその大きな谷を埋めるべくイベントがニューヨークで発生することとなったので嬉々としてNYで入浴する気持ちが芽生えてきたのであった。

6月7日(金)
羽田空港第二ターミナル発着の11:00発NH110便は定刻通りに出発すると手持ちのアップグレードポイントを使い果たしてしけ込むことに成功したB777-300機のビジネスクラスTHE ROOMに腰を落ち着けたのだが、座席が前後の向きを組み合わせて配列されており、私の席は進行方向に背を向けていたため、離陸時の重力に違和感を感じながらのスタートとなった。

約13時間のフライトでJFK国際空港に到着したのは午前11時過ぎで軽く米国への入国審査を通過するとAir Train ($8.5)、地下鉄($2.9)を乗り継いでまずは本日の宿泊先に向かうことにした。ところでNY市の地下鉄は長らくMetroCardで入場するシステムになっていたのだが、昨年よりOMNY(One Metro New York)が導入され、非接触型決済システムに対応したクレジットカードが使えるようになり、MetroCardもその役割を終える予定になっているのだが、カードを持たないはずのホームレスの皆様方にとっては地下鉄が益々ハードルの高い乗り物となっているようだ。

地下鉄で到着したペンステーションでNJ Transitという列車のチケットを購入すべき自動販売機の操作をしている最中にはしきりに$2をせびってくる輩につきまとわれたのだが、これこそマサにNY旅行の醍醐味であり、このようなアナログ無心行動が残っている現状に少し安心感を覚えたのだった。

ニュージャージー州を抜けてペンシルバニア州に向かうNJ Transitの運行もアナログそのもので乗車する列車のプラットホームが決まる直前まで乗客は駅の構内でなすすべもなく待たされるシステムになっていた。何はともあれダイヤの乱れが日常になっている様子のNJ Transit列車に乗り込むと約50分程でNewark Liberty International Airport駅に到着した。そこからさらに運賃無料のAir Trainに乗り換え、Parking 4駅で下車し、Hotel Shuttleの待ち合わせエリアでHOLIDAY INN NEWARK INTERNATIONAL AIRPORTのバスを待っていた。

30分程の待ち時間はあったものの無事にシャトルバスに乗車し、ホテルにチェックインすることが出来たのでベッドの上でしばし旅の疲れを取らせていただいた。
午後4時前にはホテルを出ると来た時と逆の手順でペンステーションに戻り、さらに地下鉄に乗って10年ぶりの帰還となるヤンキースタジアムを目指した。乗り換えが必要であったが、ヤンキースのユニフォームを着ている集団の背中を追っていると次第に人口密度の多い方へと誘われ、ついにスタジアム前の喧騒の中の一部と化すこととなった。

2016年以来のヤンキースタジアムでのカードとなる対ロサンゼルス・ドジャース戦は大谷人気も相まって日本人ファン率の高さに圧倒されながら流されるように入場ゲートを通過し、角度的には左打席の大谷フロントではあるが、ターゲットからは程遠い最上階の固いシートに腰を下ろしてプレーボールの瞬間を今か今かと待っていた。

グラウンドに目を向けるとドジャースの先発ピッチャーである山本由伸が独特のやり投げフォームで投げやりにウォーミングアップに精を出しており、勢い余った遠投の投球がキャッチボール相手の頭上を越えてスタンドに突き刺さる様子も垣間見られた。

48,000人以上の観客を集めて午後7時5分にプレーボールとなったゲームは1回表ドジャーズの攻撃で2番打者の大谷を迎えたところで早くも盛り上がりのピークとなった。ヤンキースファンのブーイングとドジャースファンの歓声が入り混じる中3-2のフルカウントからセカンドゴロに倒れ、続くフリーマンは自由人よろしくフォアボールを選んだものの4番打者のスミスのセカンドゴロで攻撃終了となり、淡々と進行するゲームのスタートとなった。

ハイサイおじさんを彷彿とさせる沖縄出身のデーブ・ロバーツ監督により自信をもってマウンドに送り出された日本最高峰投手である山本由伸がブロンクス・ボンバーズとの異名を取る強力ヤンキース打線とついに対峙することとなった。

1番、2番打者を簡単に打ち取り、次に打席に向かうのは大谷も見上げるほどの巨漢のホームラン打者であった。通算755号のホームランを打ち、世界の王貞治に抜かれるまでは世界一であった伝説のハンク・アーロンと同じ名前を持つアーロン・ジャッジに対し、カウント2-2から投じられたフォークボールに黒いバットが一閃すると打球はあっという間にレフト頭上を越える2塁打となってしまった。次打者スタントンもジャッジに匹敵するホームラン打者であったが、あっさり三球三振に打ち取られ1回裏の攻撃は事も無げに終了した。

ゲームはその後両チーム無得点のまま淡々と進んで行った。好投を続ける山本由伸の投法は足を高く上げないスライドステップで一部の野球通から「あっち向いてホイ」投法と揶揄されているが、これまでの試合では前後左右に振られる指の動きと相手の首の向きが合ったときに打たれていたような印象であったが、今日のピッチングはバッターの狙いが合った時でも力でねじ伏せられるほどの制圧振りであった。スピードガンによる直球の計測速度も自己最高の98マイルとなり、最終的には106球を投げてヤンキース打線を7三振の無得点に抑えきってマウンドを後にしたのだった。

試合はそのまま延長戦に突入し、タイブレークで無死2塁からの開始となるのだが、前の回に凡退した大谷は11回表には2塁ランナーとして復活し、フリーマン四球、スミスがセンターライナーに倒れた後、5番のテオスカー・ヘルナンデスが2塁打を放ちドジャースに2点をもたらせた。その裏の攻撃をジャッジのタイムリーヒットによる1点に凌いだドジャースが3連戦の初戦をものにするとハイタッチを交わすドジャース選手を祝福するようにフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪の歌声が高らかに響いていたのだった。尚、本日の大谷は5打数無安打と不発に終わり、日本人ファンの期待に応えるには至らなかったのだ。

試合終了後、数万人の観客が一気に流れてくる地下鉄駅に蟻の歩みのようにゆっくりと進んでいくと改札のところで腰位置からの前方圧力で回転するバーを飛び越えて入場している輩も多く見受けられたのだが、なるほどこの方法だとMetroCardやクレジットカードがなくても地下鉄に乗ることが出来るのであえて管理を甘くしてホームレスへの救済策として機能しているのではないかと感心させられたのだった。

6月8日(土)
地下鉄でペンステーションに到着したころにはすでに日付が変わってしまっていた。NJ Transitは相変わらず遅れを出しているようだったが、ヤンキースタジアムから流れてきた乗客は気にする素振りもなく、車内はマシンガントークの嵐で活気づいていた。結局ニューアークのホリデーインに帰って来れたのは丑三つ時を過ぎた時間であったろうが、時差ボケの影響もあったのであまり気にすることなく意識を失うことのみに専念しながら過ごしていた。

午前9時半頃覚醒すると昨夜入浴していないことに気づいたもののここはニューヨークではなくニュージャージーなので仕方がないことだと思いつつ、浅いバスタブに斜めに身を沈めて体内時計の調整を図っていた。ホテルのアメリカンブレックファストのスクランブルエッグはすでに固くなっていたのだが、胃袋の容積を満たすのには十分だったので腹八分目まで詰め込んだ後、昼寝と洒落こむことにした。

ホテルの客人にも3時間の時差を超えて飛行機を飛ばしてやってきたドジャースファンが多数いたのでユニフォーム姿の彼らとともに午後4時くらいにホテルを出ると昨日と同じ手順でヤンキースタジアムを目指した。今日の試合は昨日より30分遅い午後7時35分開始となる予定で夕食のポップコーンを買って席に着こうと思っていたころに始球式が始まった。

モニターを見上げるとヤンキースの背番号55番のユニフォームに身を包んだ日本人顔がマウンドから全力投球したものの投球は大きく右にそれる大暴投となってしまった。驚きはこれだけにとどまらず、始球式の主はヤンキースの共同オーナーとして君臨しているビズリーチの社長であり、暴投の原因はこの転職サイトを使わずに、60歳を直前にしてすでに転職先を決めてしまっている私への当てつけでないかと勘繰られもした。

今日のゲーム展開は昨日の試合であっち向いてホイに幻惑させられたブロンクスボンバーズの強力打線は鳴りを潜める一方でドジャースはテオスカー・ヘルナンデスの2本のホームランなどで大差が付けられていた。

私の席の斜め右前方に観戦マナーの悪いヤンキースファントリオがゲームが始まっても着席せずにはしゃいでいたのだが、いつの間にか彼らの声援はトーンダウンし、ついには周辺のドジャースファンに見送られて退散となってしまった。

食べても減らないポップコーンで口中の水分をすっかり奪われてしまったのでビール売りから$17のジャイアント缶ビールを調達したのだが、ビズリーチの社長が始球式後にビズリーチ女優がやっているような人差し指を立てるポーズを決めることが出来なかった憂さを晴らすようにそのデザインは「いいね!」の太い指を模したガチョウが「がちょ~ん」
と叫んでいるかのような図柄であった。

今日の大谷とジャッジの動向であるが、テオスカーに主役の座を奪われた大谷も3回表にきっちりレフト前にタイムリーヒットを放ち、4打数1安打でかろうじて存在を示していた。ジャッジの方は大差の負けゲームであっても彼のモチベーションは落ちることなく、2本の本塁打を放ち、ホームランキングの独走態勢に入って行ったのだった。

結局試合は11対3でドジャースが連勝し、このカードの勝ち越しを早々と決めてしまった。♪ニューヨーク ニューヨーク♪のメロディーに見送られ、ヤンキースタジアムのトイレで見た後ろ姿は松井の亡霊であったのか、また、ペンステーション近くで見上げたエンパイヤ―ステートビルは近隣のビルに反射してあたかも双子のビルに見えたのもニューヨークの幻かと思いながらホテルへの遠い道のりを引き上げていった。

6月9日(日)
午前中に2日間お世話になったHOLIDAY INN NEWARK INTERNATIONAL AIRPORTを引き払うとようやくマンハッタンへと拠点を移すこととなった。そもそも週末のマンハッタンのホテル代が異常に高かったのでやむなく郊外のホテルに投宿していたのだが、日曜になって価格も落ち着いたのでロウアーマンハッタンのウォールストリートに程近いHotel Indigo NYC Financial Districtへと颯爽とやってきたのだ。

最上階の部屋からウォール街のシンボルであるトリニティ教会を見下ろした後、ブランチのチーズバーガーで腹をこなすとお金の匂いにつられるように金融街へと流されていった。

世界の代表的な株価指数であるNYダウ、NASDAQとも史上最高値を更新している昨今であるが、関連ニュースで必ず目にするモ~モ~が「チャージング・ブル」というウォール街のシンボルである。この牛の銅像は1987年の株式大暴落、いわゆるブラックマンデーを受けて「アメリカのパワーの象徴」を意味して作られたそうだが、ゲリラ・アートとして1989年12月15日にロウワー・マンハッタンのニューヨーク証券取引所の向かいのブロード・ストリートの中央にある60フィート (18 m)のクリスマスツリーの下に突然設置されたというではないか。当初警察はこの銅像を押収しこの銅像は拘置されたが、人々の激しい抗議によりニューヨーク市公園・保養局がこの銅像を証券取引所から2つ南のボウリング・グリーンの広場に正式に設置することを決めたそうだ。大人気のこのモ~モ~はも~勘弁してくれと言わんばかりの長蛇の列の観光客の撮影スポットになっているのだが、A面の顔面だけでなく、なぜかB面のケツの下も執拗にマークされているようであった。

LAD v.s. NYY3連戦の最後の日は少し早めにスタジアムに繰り出した。「Pregame Glimpse of Greatness: A Peek Inside Yankee Stadium」というゲーム開始前のヤンキースタジアム内の見学チケットを買っていたのでツアーが始まる4時35分前には入場ゲート前に並んでいた。ヤンキースタジアムにはバックスクリーンの手前が防球網に守られたモニュメントパークになっており、そこにはヤンキースで活躍し、永久欠番としてその名を刻んだ名選手たちの伝説が奉られている。

27回のワールドシリーズ制覇を誇るこの球団の歴史を彩る名選手の中でも野球の神様ベーブ・ルースの存在感は群を抜いており、近年の大谷選手の二刀流の活躍でさらに脚光を浴びているのだが、このモニュメントパーク内を一周するとここの主が誰であるか一目瞭然となっている。

ヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーはぶれない強引さと傲慢さで常勝軍団を作り上げ、その栄光の証として掲げられた最大のモニュメントは名選手たちに囲まれたセンターに君臨しているのである。

グランドの中では試合前のバッティング練習が行われていたのだが、大谷の姿はそこになく、今年からショートを守っているムーキー・ベッツがむきになって守備練習を繰り返している姿にプロフェッショナルとしての生き様を感じた。

今日の試合はヤンキース有利の展開で6回裏終了時のグラウンド整備員による♪YMCA♪も連敗による♪ゆううつなど 吹き飛ばして 君も元気出せよ♪と日本語で言わんばかりの諸手の上がりようだった。

試合のハイライトは4打数3安打2打点と大暴れのジャッジの活躍であったが、最大の見どころは8回の表と裏の攻防であった。8回の表は大谷の左翼線打ち損ないの2塁打から始まりフリーマンの自由に打てる状況だが、チームバッティングの内野ゴロで大谷は3塁に進んだ。続くスミスはライト定位置にフライを打ち上げ、そこには強肩のジャッジが手ぐすねを引いて待ち構えていた。捕球後タッチアップのスタート切った俊足の大谷と150㎞以上のジャッジの送球の一騎打ちとなったのだが、間一髪のタイミングで滑り込んだ大谷の右足がいち早くホームベースの一角をとらえたのであった。

このシリーズの主役は誰であるかというジャッジが下されたのは8回裏のヤンキースの攻撃であった。それはLADのテオスカーでもShow Timeでもなく、この回の先頭打者として登場し、飛距離434フィートの特大弾をレフトスタンドに叩き込み、NYYの勝利を確信付けたジャッジ自身であったのだ。

6対4で勝利したヤンキースナインを祝福する♪ニューヨーク ニューヨーク♪のリズムは格別で多くのファンは最高の気分でスタジアムを後にした。スタジアムを出たところの路上でジャッジのTシャツと大谷Tシャツが並んで売られていたので迷わず$10の支払いで大谷シャツを購入し、今回のシリーズの締めくくりとさせていただいた。

6月10日(月)
ニューヨーク滞在最終日はウォールストリートの宿泊地を拠点に終日マンハッタンの名所観光に励むことにした。1987年7月当時のロウアーマンハッタンのランドマークはワールドトレードセンターのツインタワーであった。

2001年の9.11後、いつしかその地はグランドゼロと呼ばれていたのだが、今日ではワールドトレードセンタービルもその数を7棟まで増殖させている。さらにその中心部には不死鳥のごとく翼を広げた建造物がマサに羽ばたこうとしており、内部空間はショッピングセンター、複数路線の地下鉄駅が交差する貿易の殿堂としてもはや誰もグランドゼロとは呼ばず、力強い一歩を踏み出しているのだ。

体力の充電がてらバッテリーパークをぐるっと歩いて再びWTCエリアに戻り、さらにマンハッタンからブルックリンへの架け橋であるブルックリンブリッジに向かった。

この橋は交通の要衝であるだけでなく、中央部の木道は人道になっているので多くの観光客が行き来する人気スポットとなっている。

橋の上からの絶景に気を取られながら歩いていると前方に巨大な幸福の黄色いマフラーを巻かれていい気になっている若人の姿が飛び込んできた。よく見るとそれはエリマキトカゲでもなく、同じ爬虫類でもヘビー級のヘビで観光客のインスタ映えに一役買っており、NYの燃える商魂の一端を垣間見た気がした。

多くの観光客は橋を渡ってブルックリンに到着するとタッチ&ゴーでマンハッタンに引き返すルートを取っているので私もそれに倣うことにした。マンハッタンに向かう景色は林立する摩天楼に圧倒される絶景のオンパレードで、大学生の時分に投資の大部分を無駄にしたはずの英会話学校の講師から学んだ自由の女神を英語でSatue of Libertyと言う記憶を噛みしめながら自由の女神像を遠巻きに眺めていた。

黄色いヘビが出没するスポットに戻ってきたのだが、記念撮影の列はヘビー・ローテーションにはなっていない様子で放置状態のニシキヘビはブルックリンブリッジに錦は飾れていないように見受けられた。

地下鉄で北上し、ミッドタウンで地上に出るとそこにはアメリカ横断ウルトラクイズの決勝の地がそびえていた。MetLifeビルはかつてPANAMビルとして栄華を極め、その大手航空会社は大相撲のスポンサーもつとめており、「ヒョ~ショ~ジョ~!」という高らかな声を響かせて人気を博したデービッド・ジョーンズ氏が輪島や北の湖等に表彰状とともに巨大な地球儀状のトロフィーを渡していた光景が昨日の出来事のように浮かんでくるのである。

♪マリーという娘♪がいたはずの5番街を歩いているとババが抜かれたり、「七」が並べられたりする感覚を覚えたのでふと斜め前方を見上げるとそこにそびえていたのは有名なトランプタワーであった。

内部に侵入すると彼が45代大統領を務めあげた実績を刻むモニュメントもちゃっかりスペースを取っており、土産物の品数も多いのだが、何といっても常駐しているトランプが観光客と一緒にポーズを取ってくれるシステムが確立されていたのだった。

来る大統領選で切られるカードに思いを馳せながら数ブロック北上するとそこは憩いのセントラルパークで鉛筆状の細いビルを見上げながらトランプをシャッフルするように気持ちを落ち着けた。

今後いかなる高さのビルが建立されようとも摩天楼のシンボルの地位は揺るぎないエンパイアステートビルの展望台行きを所望する観光客の集団を横目に地下鉄でロウア―マンハッタンへ帰って行った。

暮れなずむウォールストリートであったが観光客の姿は絶えず、突き当りのトリニティ教会まで多くの人出で賑わっていた。尚、1987年7月時のトリニティ教会は漆黒でカラスの教会との異名を取っていた記憶があるのだが、その後紆余曲折を経て現色まで褪せていったのであろうか?

1987年7月当時、大学4年生の私はすでに大和証券への就職を決めていたため、興味本位でニューヨーク証券取引所の見学さえぶちかましていた。取引所の威光は今も変わらないのだが、それを見上げる「恐れを知らぬ少女」像なる自信家の登場は2018年まで待たなければならなかったそうだ。

トランプタワーならぬ、トランプビルまで見てモ~十分観光のフルコースは堪能したのだが、ふと強気のモ~モ~の股間に目を移すと金の玉々をしっかりと抱き抱える観光客の笑顔に仰天させられた。お金の神様であるはずのこのチャージング・ブルが自由の女神を抜いてNYの人気観光スポットの第一位に躍り出るのも遠い未来ではないことを予感させられた。

6月11日(火)
午前2時発NH159便は定刻通りに出発し、すぐに入眠したものの14時間余りのフライトを睡眠だけで消化するのは無理があった。色々考えを巡らせているうちにドジャースの選手がヒットを打って塁上で決めているポーズのことが気になった。ドジャースの選手であるキケ・ヘルナンデスに起源を発するため「キケ・ポーズ」と言い、両手を上げ、上体を傾けながら左足を上げるポーズであるが、ドジャーズ開幕戦が日本で開催される際には赤塚不二夫先生に敬意を表しておそ松ながら「シェ~」のポーズにマイナーチェンジしなければならないはずだと考えていた。

6月12日(水)
公共交通機関も稼働していない早朝5時前に羽田空港に到着し、朝日を浴びて体内時計をリセットしつつ流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥319,440(内ANA SKYコイン使用 ¥199,100)
総宿泊費 $508.34
総Air Train代 $17
総地下鉄代 $31.9
総NY Transit代 $96

協力 ANA、IHG、MLB.com

シン・FTBヒューストン経由コスメル島天国と地獄インターコンチネンタルツアー

メキシコ最強の観光地、ユカタン半島の東端に位置するカンクンを拠点にいくつかのマヤ遺跡を散策したのは今から19年前の2005年2月のことであった。

当時心残りであったのはバスで立ち寄ったプラヤ・デル・カルメンという町からフェリーに乗って世界で一番透明度の高い海を持つコスメル島に上陸出来なかったことに他ならず、再訪を期してユカタン半島を後にしたのだった。その後ユカタン半島に戻るどころかスカタンな人生を過ごしてきたわけだが、ドロンジョ様のスカポンタンにも背中を押され、ついにコスメル島を目指すツアーが遂行されることとなったのだ。

2024年5月1日(水)
成田空港17:00発NH6便は定刻通りに出発すると日付変更線を越えて同日の午前11時前にはロサンゼルス空港に到着となった。すでに米国入国の定連となっているためあらためて指紋を採取されることもなく入国審査を顔パスで切り抜けるとUnited Clubラウンジで乗り継ぎまでの時間をさしておいしくないケータリングの飲食物を口にしながらやり過ごしていた。

16:22発UA1497便は定刻通りに出発し、2時間の時差を超えて22時前にはヒューストン・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港に到着した。広い空港内にはSky TrainやSubwayが行き来しているのだが、早速Subwayに乗り込んで本日の宿泊先で空港内蔵ホテルのヒューストン・エアポート・マリオット・アット・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタルにつつがなく到着したのだった。

5月2日(木)
午前10時過ぎのフライトに備えて8時前にはホテルをチェックアウトしたのだが、外気はむっとするような湿気を含んでおり、暗雲漂う中Subwayでターミナルへと向かった。すでに常ラウンジと化しているUnited Clubで朝食を済ますと搭乗時刻前には所定のゲートに到着したのだが、ゲート前の行き先を告げる画面にはすでに混乱の兆候が見え始めていた。

早朝よりUnitedから本日搭乗予定の便はOn timeとのメールによる通知を受けていたのだが、目の前の状況が刻々と悪化している様子が見て取れた。窓越しに駐機している飛行機の背後に広がる空の様子を眺めると、分厚い雷雲を引き裂くように雷鳴が鳴り響き、あたかも夜のとばりが下りて来てしまったかのような暗さであった。

ゲートのアナウンスに耳を傾けると搭乗予定の便は燃える闘魂サン・アントニオから来る予定なのだが、悪天候のため離陸が出来ず、そもそも前の便が出発出来ずにゲートにとどまっているため、必然的な卍固め状態となってしまっていたのだ。この時あたりからUnitedからのメールの本数が一気に増え始め、真綿でスリーパーホールドを決められたような遅延地獄に陥ってしまったため、やむなくFTBの対策本部に格上げされたUnited Clubに引き上げることとなった。

今日の午後にはコスメル島に到着出来るというヒュ〜という盛り上がりの気持ちがいきなりストンを落とされたのはマサにヒューストンのラウンジにいる時であった!

直近のメールによるとUA1919便は16:31までさらなる遅延のアナウンスがあったものの19時前には何とかコスメルに到着する算段であったのだが、14時過ぎに届いた立て続けのメールには何とフライトがキャンセルされ、新たに明日の便が予約されたとのショッキングな知らせであり、いくら暴風雨の嵐のためとはいえ、長期休養したリーダーの大野君が復帰する時にはすでにジャニーズ事務所が無くなっているくらいの衝撃を受けてしまった。

通常であれば膝から愕然と崩れ落ちるところであるが、約10分で正気を取り戻すと早速本日から宿泊する予定であったPRESIDENTE INTERCONTINENTAL COZUMEL RESORT & SPAにメールを投げ込み到着が1日遅延する旨を伝えると即座に了解したとの返事をいただいた。立て続けにMarriottのウエブサイトにアクセスすると今朝チェックアウトしたばかりの同じホテルを予約し、何とか本日の宿を確保出来たかのように思われた。

United Club内のカウンターには長蛇の列が出来ていたのだが、チェックイン済みの荷物を取り戻す必要があったので担当者にその旨を伝えると1〜2時間くらいで荷物の引き取りは可能だろうとの返答をいただいた。

空港内の土産物屋の多数の招き猫に見送られ、彼らが招いたのは嵐であり、♪体中に風を集めて 巻き起こせ A・RA・SHI A・RA・SHI♪のメロディーとともにやけ気味にBaggage Claimへと重い足を運んで行った。

Baggage Serviceのカウンターを先頭に見たこともないような長蛇の列が形成されていたのだが、ひるまずに列の最後尾に並ぶと1時間以上は経ったであろう時間にやっとFTBの順番が巡ってきた。すでに多数のクレームを受けて正常な判断機能が麻痺しているであろう担当者から告げられた言葉は、明日の便に振り替え予約されているのであれば荷物を引き戻す必要はなく、どうしても今日荷物が欲しければ6時間以上待てという非情な物質(ものじち)との引き換え系の暴言であった。

一旦は引き下がったものの再考の上、身代金を払ってでも荷物を救出しなければならないとの決断に至ったのでさらに長くなった列の最後尾に再び並び直すことにした。気の遠くなるような時間を立ち尽くしたまま過ごし、何とかBaggage Serviceのカウンターが視界に入ったころ、「Mr. FUKUDA!」と呼ぶ天の声的アナウンスが場内に響き渡った。指定された場所に足早に向かうと何とかそこで危害を加えられていない荷物との再会を無事に果たすことが出来たのであった。

数時間前に依頼したUnited Clubの差し金とはいえ、何とか荷物を奪還したものの試練はそれだけにとどまらなかった。なんと先程Marriottのウエブサイトで予約したホテルのチェックインの日付が明日になっていることが判明し、泣く泣く高額のキャンセル料を支払ってキャンセルし、あらためて今晩の宿を探さなければならなくなっていたのであった。

なすすべもなく向かった先はいわくつきとなったエアポート・マリオット・アット・ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタルであったが、当然当日予約の部屋は空いているはずもなく、近隣のホテルのリストを渡され、一軒一軒自力で探すほかない状況であった。

携帯の電波の状態が良くなかったのでホテルロビー出口の外気の当たるところで電話をかけようとしているといかにも白タク系の雰囲気を装っているが紳士の心根を持つはずのナイスガイが車で近隣のホテルを当たってあげると申し出てくれたので藁にもすがる思いで彼の車にかけることにした。Hampton Innをはじめ数件のホテルで満室Sold outの洗礼を受け、次に向かった先はSheratonであったのだが、ここでもSold outを告げられ空振り三振で空港に戻るべきかと思った瞬間にマネージャー面した男性が女性クラークを制し、実は部屋は空いているという助け舟を出してくれた。嬉々として白タク系の紳士の元へ戻り、感謝を込めて彼の言い値より高い$60を握らせ、「いいね!」のポーズで別れを告げると遅れてきたMarriott Bonvoy会員のゴールドメンバーの威光とともに何とかチェックインを果たしたのであった。

5月3日(金)
ゴールドメンバーの特典である朝食をさくっと済ますと空港までの無料送迎シャトルに乗り込み、憂鬱な空の色を眺めながら粛々と昨日と同様の手順を踏んでいた。午前中の強雨は昨日よりもましであったものの10:03出発予定であったUA1919便はまたもや遅れを出し、それでも11時前には晴れてヒューストンを離れることが出来たのであった。

離陸しさえすればこっちのもので、約2時間ちょっとのフライトで念願のコスメルに到着すると抜けるような青空に迎えられた。つつがなくメキシコへの入国を果たすと一人当たり$14の支払で乗り合いバンに乗り込み、コスメルでの宿泊先に向かうこととなった。

20分程度のドライブでPRESIDENTE INTERCONTINENTAL COZUMEL RESORT & SPAに到着し、チェックインデスクでウエルカムドリンクを飲みながら、やっとの思いでヒューストンのインターコンチネンタルからコスメルのINTERCONTINENTALへの引継ぎを完了させることが出来たことを実感した。

IHGダイヤモンド兼アンバサダー会員の威光により2段階アップグレードされたオーシャンビューの部屋に案内されると窓越しに広がる雄大な景色はいかなる高級コスメティックスにも劣らないはずの透明感あふえるコスメルの海であった!

昼飯を食いそびれていたのでホテル内の散策がてらLe Cap Beach Clubという地中海系料理を供するレストランに突入し、シーフードや牛肉タコスを肴に吸い込まれそうな透明な海をひたすら眺めながら、ヒューストンでの悪夢を消し去るのに躍起になっていた。

思いのほかの疲労とマルガリータのテキーラが体の節々に行き渡った影響からか部屋に戻ると不覚にも意識を失ってしまい、気が付くとサンセットの時間を迎えていた。

太陽が完全に水平線に吸い込まれた後のマジックアワーは想像以上の長続きで漆黒の闇が訪れるまで身動き出来ないままでいたのだった。

広々とした高級ルームであったが、バスタブの設置までは気が回ってなかったので代わりにインフィニティプール後方のジャグジーの泡に揉まれながら体内に残留しているアルコールをバブルとともに排出し、明日への鋭気を養うべき長時間のリセットモードを満喫させていただいた。

5月4日(土)
想像だにしなかったアクシデントにより3泊の予定が2泊になってしまったため、島内観光は断念し、ひたすらホテルの敷地内での籠城を決め込むことにした。

毎日コスメルに入港するクルーズ船の雄姿を横目に海辺の朝食会場となっているCarbeno Restaurantに入場した。建物を吹き抜ける爽やかなそよ風とともに野鳥が館内を縦横無尽に飛び交い、ちょっとしたバードウォッチング気分が味わえるのかと思ったのも束の間、野鳥の目的は人類の隙をついて食べ物を略取することであり、マサに仁義なき共生の光景が展開されているのだった。

マサと言えば、前回のユカタン半島ツアーでとうもろこしの粉に水を加えて生地にしたものがマサであること(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5)を
解明していた。マヤの聖地を巡りながらほんまやと納得しながらありがたく食すようになったのだが、このホテル内のレストランの主食もタコスやナチョスになっているようで外資の入ったリゾートホテルとはいえ、メキシコのアミーゴプライドは決して損なわれてはいないのだ。

世界一の透明度の海に囲まれたコスメルは言うまでもなくダイビングの聖地であり、早朝よりホテル内の桟橋から多数のダイビングボートが出航する。ダイビングをしない輩はその光景をぼ〜と眺めるだけであるが、ホテル敷地内でもその透明度は十分に堪能可能である。

レストラン裏のScuba Du Dive Centerでスノーケリングセットを借りて安全な場所で波に体をゆだねるのも良いのだが、それがなくても砂地に足が付いた場所で魚ウォッチングが可能なほど豊かな水産資源が身近に迫っているのだ。

この地の陸の王者であるはずのイグアナを横目にホテル敷地内を隈なく散策し、途中シーフードのランチで一休みして十分にコスメルでの休日を堪能させていただいた。

日が傾きかけてきた頃合いを見計らってインフィニティプールに繰り出し、ジャグジーでの温浴効果を高めていると早くもサンセットの時間を迎えてしまった。

水際から真っ赤に燃える西の空を見上げながら、永遠に続いて欲しい瞬間とはマサにこのことであろうと考えながら自らも水の中に体を沈めていくのであった。

5月5日(日)
今朝は昨日よりも少し早い時間に朝食会場に繰り出した。相変わらずダイビングボートはせわしなく出航の準備に取り掛かっていた。

まだお客さんの数も少なく、料理の食べ残しがテーブルに散在していなかったのでバードウォッチをするほどの野鳥の飛来も見られなかったのであろう。しかし野鳥の少ない原因はそれだけではなく、今朝は手乗り猛禽を操っている鷹匠が威嚇兼パトロールの任に着いており、野鳥のさえずりも心なしか警戒モードの調べを含んでいた。

チェックアウトまでのしばしの時間であったが、名残を惜しむように徘徊し、コスメルの絶景を目に焼き付けるのに余念がなかった。

気が付くとメールボックスには見慣れたUnitedの文字が躍っており、ヒューストンへのフライトが遅れるとの再度の嵐を予見させる通知であった!

予定していたチェックアウト時間を1時間程遅らせて正午過ぎにタクシーを呼んでもらい、来る時よりもかなり割安の$20の支払いでコスメル空港に帰ってきた。元々のフライトの予定時間は13:27で、それが13:50になるとの通知はまだ序の口で空港に着いてからもUnitedからのスパムメールは止まらずに出発時間が14:30, 15:20, 16:00, 16:20と小刻みに後ろ倒しになって行った。United航空のハブ空港であるヒューストンであれば、即座に一人当たり$15のMeal Couponが発行されて搭乗予定客の溜飲を下げるのに一役買っていたのだが、ここコスメル空港ではUnitedの威光は届かない様子で「許しテキーラ!」というお詫びの一言もなかったのだ!

搭乗することになっているヒューストンからの飛行機が到着した時間はすでに16時を回っており、結局UA1867便ヒューストン行きが出発出来たのは16:50であった。

約2時間のフライトでヒューストンまで帰ってこれたのだが、さらなる難題はロサンゼルスまでの乗り継ぎ便には間に合わないという事実である。幸い米国入国審査がすいていたのでそそくさと荷物をピックアップしてUnitedの乗り継ぎカウンターに向かい、首尾よくロスへの最終便にねじ込んでもらったのだが、その便自体もすでに遅れの兆候を示していた。

常ラウンジのUnited Clubの飲食物で胃袋の容積を満たすと22時前には搭乗ゲートに向かい、遅ればせながら出発出来ると高をくくっていた。ところが待てど暮らせど出発する気配がないのでついには腹をくくらなければならない状況になっていた。機長のアナウンスによると遅れの理由はワシントンDCからのケータリングを待っているとのことで狭い機内に閉じ込められた乗客を希望者のみ一旦降機させるとの措置さえ取られていた。

トイレ近くの機内後方に陣取っていたFTB一行であったが、かわるがわる用を足しに来る乗客の中でひときわ長い時間トイレに籠城している輩がいるようであった。すると突然うめくような嘔吐サウンドがトイレ周辺にこだまし、付近の乗客が眉をひそめている様子が見て取れた。しばらくして出てきたのは小太りの黒人女性であり、当然のことながらそのトイレは使用禁止の烙印が押されてしまった。

それだけならまだしも汚染されたトイレを除染しなければ出発出来ないという安全規定により、吸引機を持った防護服姿の整備士が乗り込んでくる事態となり、機長の甘い作業時間の見通しもあいまって乗客の苛立ちはピークを迎えつつあった。一方、汚染の張本人は悪びれることなく機内を徘徊し、解説者のような振る舞いで遅れの原因説明に勤しんでいたのだった。

5月6日(月)
結局UA2000便が出発出来たのは日付の変わった0:20でロサンゼルスに着いたのは午前2時くらいの時間であったろう。幸いなことにホテルへのシャトルバスは24時間運行なのでホテルまでの足は確保されていたのだが、予約していたウェスティン・ロサンゼルスエアポートに到着した時間の記憶はすでに飛んでいた。ホテルの従業員は深夜シフト体制に入っていたためか、ここでもチェックインまで長時間を要してしまい、結局ベッドに体を横たえることが出来たのは4時を回った時間になっていたであろうか?

幸い日本へのフライト時間が午後であったので多少睡眠時間は確保出来たのだが、それでも午前10時過ぎにはチェックアウトしてそそくさと空港へ向かって行った。United航空の束縛を逃れて搭乗したNH5便は定刻通りに出発し、定刻のありがたさを噛みしめつつ、機内映画のゴジラ-1.0の主役である着ぐるみに破壊的衝動の発散を肩代わりしていただいた。

5月7日(火)
午後4時半頃成田空港に到着し、ヒューストン経由で旅行するときにはホイットニーを警護したケビン・コスナー扮するボディーガードのような強いメンタルが必要であることを肝に銘じつつ流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥135,350 / passenger、United Airlines = ¥86,530 / passenger
総宿泊費 $1,440.25
総宿泊キャンセル料 $221.13
総タクシー代 $108

協力 ANA、United Airlines、IHG、Marriott Bonvoy

シン・FTB王道バカンス ハワイ オアフ島ツアー

アロハ ボンよ、ハワイ湯!?

というわけで、アフターコロナにもかかわらず、円安の定着により海外渡航客の戻り足が鈍く、航空会社もこぞってキャンペーンによる需要喚起に励んでいる今日この頃であるが、憧れのハワイ航路が♪ウエイクアップ デ・ザイヤ―♪を呼び起こす起爆剤になりうるかどうかを確認するためにオアフ島ツアーを開催することにした。

8月30日(水)
21:30発NH182便B700-300機は定刻通りに成田空港を出発した。機内映画のトップガン マーヴェリックを見ながらまだまだ若い者には負けられないという気概をあらたにしていると間もなくしてダニエル・K・イノウエ国際空港(旧名称ホノルル国際空港)に到着した。飛行時間はわずか7時間弱であった。

ハワイのさわやかな朝日を浴び、メラトニンを増やして時差ぼけを解消すると空港でタクシーを拾ってワイキキ方面に向かった。最初の宿泊先であるヒルトン・ハワイアン・ビレッジまでの道のりはわずか10km程度であったろうが、$50のタクシー代が重くのしかかってくるように感じられた。

12時半に追加料金を払ってアーリーチェックインをさせていただくとダイヤモンドヘッド・タワー上階のオーシャンビューの部屋のベランダに陣取り、おだやかな海に浮かぶヨットやボートをぼ~と眺めていた。

リゾートの敷地内にはヒルトン・ハワイアン・ビレッジの歴史を物語る年表や銅像も数多く設置されているのだが、1961年には映画「ブルーハワイ」の撮影でエルビス・プレスリーが宿泊した事実が大きな金字塔となっているようである。

約15年振りのハワイの雰囲気に酔いしれ、気が付くと昼飯を食いそびれていたので近場のアラモアナショッピングセンターに買う気もないのに足を運んでみることにした。

フードコートで高値のバーガー系のランチで胃袋を落ち着かせたのは良いのだが、ちょっとした日用品の購入の後、財布の中身を見てみると「アラ モぁ ナくなった」というセリフが思わず口をつくようにハワイで使うお金には羽が生えていることが実感された。

日も西に傾いてきた頃にヒルトン・リゾートの目の前に広がるデューク・カハナモク・ビーチを散策させていただいた。このビーチは国際的に有名な沿岸生態学者であるスティーブン・レザーマン博士(通称ドクタービーチ)が毎年選出する全米ベストビーチ・リストで、2014年にはアメリカのベストビーチに選ばれている由緒正しい砂浜である。

ビーチの内側には最新の水循環装置を備えた5エーカーの海水ラグーン、デューク・カハナモク・ラグーンが君臨し、サーフィンやカヌー等のアクテビティとは一味違う静かなひと時を過ごせる憩いの場となっている。

夕日に照らされるダイヤモンド・ヘッドを見送った後、予約なしで着席できたビーチフロントのトロピックス・バー&グリルにしけこんでディナータイムとなった。ハワイアンシーフードメドレーと和牛ブリスケを食させていただいたのだが、和牛にかかっている自家製バーベキューソースが市販品のA1ステーキソースと大差ない味である以外は非常にゴージャスな気分を味わうことが出来たのであった。

8月31日(木)
午前中の涼しげな気候につられて、おもむろにヒルトンを飛び出すとワイキキ・ビーチ方面に向かって歩を進めた。ビーチにはすでにリゾート客が繰り出しており、皆それぞれの出で立ちで小麦色のマーメイドを目指していた。

ワイキキのセンターとして不動の地位を確立しているロイヤルハワイアンセンターの数あるダイニングからアイランド・ヴィンテージ・ワインバーを選択し、ハワイアン系のプレートを発注して遅めの朝食を取ることにした。クレジットカード支払いによるチップは15%, 18%, 20%, 22%の言い値系選択制になっているもののハズキルーペの力を借りなければ細かい数字の確認が出来ないため、どうしても真ん中あたりに狙いを定めて☑マークを記入することになってしまうのだ。

ワイキキのメインストリートは巨大なショッピングセンターとしてブランド店の見本市と化しているので買う気がない私であっても購買意欲をそそられないようにANAが運営しているマハロラウンジにエスケープした。ANAのテリトリーということで心を許してくつろいでいたのだが、巨大ホテルブランドであるマリオットの回し者に$100をやる代わりにマリオットバケーションクラブ見学説明会への参加を勧められたので一本釣りされてみることにした。

マリオットとのアポ確定後、ヒルトンに戻ってプールサイドでくつろごうかと思ったのだが、どのプールや設備も芋洗い場と化しているようだったのでかろうじてアイスクリームを食すと一旦部屋に引き払い、体制を立て直して夕暮れ時に再びワイキキに舞い戻ってきた。

プーチンの影におびえることなく、カメハメハ大王と人気を二分するはずのデューク・カハナモク像にハワイへの帰還を告げるとしばしザ・ベンチャーズが奏でる電気ギターのテケテケサウンドの幻聴とともに波乗りジョニーや波乗りパイレーツを傍観した。

地元の画家の作品を数多く展示するギャラリーで絵になる男であるはずの長嶋一茂の幻影を一瞥し、エンタメディナーの鉄板となっているはずの鉄板焼き屋である「田中オブ東京」に入店した。先にマリオットから$100のバウチャーを授与されていたので夕食代にあてるべくANAトラベルに予約させておいたのだ。

ハワイカクテルの主流派であるはずのブルーハワイやマイタイで気分を高めると「田中」より技術を引き継いだはずの地元シェフによる鉄板用調理器具であるコテを使ったこてこてのパフォーマンスの幕が切って落とされた。ジャグリングの際にコテを落とした時は単なる小手先のパフォーマーかと思ったのだが、鉄板上での失敗にもテンパることなく見事に客のハートに火を灯したのだった。

9月1日(金)
チェックアウト時間ギリギリの11時までヒルトンで過ごした後、タクシーで空港まで移動し、ハーツレンタカーでKIAの普通車をレンタルした。ハワイは1年中温暖な気候でいつ来ても気軽にバカンスが楽しめるのだが、ワイキキ周辺の喧騒には辟易とさせられるので比較的人口密度の低いノースショアに移住するプランをあらかじめ組んでおいたのだ。

ノースショアのオールドタウンであるハレイワに到着すると、あたかも翼が生えたような♪バンザ~イ 君に会えてよかった♪的なテンションの高まりを感じた。そこにはウルフルズの代わりにBANZAI BOWLSの看板が掲げられており、朝のいい気分のうちに食すると思わず諸手を上げてしまうはずのメニューであるアサイー・ボウルがメインになっているので高値で発注してみることにした。

けたたましいミキサーサウンドですり潰したアサイースムージーの上には各種フルーツやナッツが盛り付けられており、カロリー消費量が激しいはずのサーファーの美容と健康にはうってつけの栄養食である。

ノースショアの海岸沿いの国道83号線の道路状況はスムージーとは程遠く、数回の地獄渋滞を乗り越えて今日から2日間お世話になるコートヤード バイ マリオットオアフ ノース ショアに到着した。ワイキキのリゾートホテルではないのにリゾートホテル並みの宿泊料と1日$20の駐車場代の支払いはFTBの財政を圧迫したもののこのマリオットグループでの宿泊が後日大きな恩恵をもたらせてくれたのだった。

ホテルの隣の広大な敷地でポリネシア・カルチャー・センターが圧倒的な存在感を誇っていたのだが、入場せずに軽く周囲を見学するにとどめておいた。それよりも近隣のスーパーやダイニングでの物品の相場の確認に余念がなかったのだ。

ビッグウエーブが押し寄せるサーフィンの聖地ノースショアは夏はベタ凪になると聞いていたのだが、ビーチにはそれなりの波がうねっており、地元住民の夕飯前の最適なエクササイズ環境が提供されていたのであった。

9月2日(土)
早朝よりローカルフードを提供してくれるはずの近隣のダイニングに寄ってみたのだが、人が並んでいるようだったので断念して再びハレイワに向かった。特に渋滞にも遭遇せずスムーズなドライブに気を良くしてBANZAI BOWLSでアサイースムージーを流し込んで朝食とした。

金銭出納には常に気を付けているつもりであるが、今回のツアーでは思わぬ物価高に見舞われ多額の出費を余儀なくされている中で、今後収支バランスを保っていく術を身につけさせていただくためにとあるパワースポットに向かった。

カイアカ・ベイ・ビーチ・パークと言う海に面した公園の中で車を停めるとおもむろにパックマンの強い引力に引き寄せられてしまった。

現地語でポハクラナイと呼ばれる伝説の岩は直訳すると「岩のベランダ」であるが、洗濯物も干せそうにないので通称バランスロックと呼ばれている。

この代物はハワイ先住民の故郷であるタヒチから流れてきて、霊力のある岩という言い伝えがあるので、不思議な力を有しているはずであろうことから投打のバランスにおいてはすでに伝説となっている大谷翔平選手も訪れ、パワーチャージした実績があるそうだ。

ちなみにハンバーガーの具になった心境を共有するためにマクドやモスの社員研修ツアーのコースになっているかどうかは定かではない。

パワーバランスの一端を垣間見た後、車は南に進路を取り、真珠湾を思い出すPearl CItyから西に切り込み、KO OLINAビーチを目指した。目的はむろんマリオットバケーションクラブ見学説明会に参加するためであった。

Valletパーキングに車を預けると颯爽と会場のコナタワーの14階に向かった。そこで出迎えてくれたセールスエグゼクティブのレディは勧誘ノルマを抱えているはずで♪きっとお前も悩めるマドンナ♪に違いないと警戒心が湧き上がった。

マドンナの説明によると目の前のラグーンは熊谷組が設計し、どんな嵐が起こってもビーチに高波が押し寄せることはないとのことであった。また、マリオットの敷地のとなりは広大な空き地となっており、ここで2014年に嵐15周年の野外公演が開催された実績まで誇っているという。

アイドルの所属事務所に嵐が吹き荒れている状況はさておき、マドンナが繰り出す条件は特にシャイな言い訳を仮面で隠している様子もなく、勧誘もさほど強引ではなかったのでいつしか前向きな検討段階に入っていった。通常であればマドンナの上司であるシニア・ディレクター登場による締めの特典をもって合意となるのだが、その前の段階、すなわち今回マリオットグループで宿泊している旅行者には無条件で1000ポイント贈呈するという殺し文句ですでにダイヤモンドヘッドのある東の山の方から♪いぃっそ エクスタシーィ♪ ♪強っく♪ ♪強っく♪というクライマックスの声が下りてきたような感覚を覚えていたのであった。

無事に契約書にサインを済ますと今日はリゾートの設備を自由に使ってもよいとのことだったので早速ロッカーで水着に着替え、ネズミ駆除のために放たれているマングースによって♪時を止めた楽園♪に導かれた。

♪とけて 魔性のリズム♪に体が支配されはじめたころリゾートを後にして帰路についたのだが、今後KO OLINAビーチがハワイにおける別荘の役割を果たすかどうかはFTBの匙加減にかかっているはずであろう。

ホテルへ帰る道すがらで海亀渋滞を引き起こすビーチに立ち寄ってみた。ハワイでは海亀をホヌと呼び、ノースショアのラニアケア・ビーチ付近はホヌが上がってくるため、その見学のために慢性的な渋滞が発生するとのことであった。幸か不幸かホヌは不在でその代わりにサーファーが波に上がっている姿を見て留飲を下げることが出来たのだった。

9月3日(日)
今回のツアーにてヒルトンからマリオットへの華麗なる転身を土産に空港へと向かった。空港で待っていたのは生身の海亀ではなく、フライングホヌと呼ばれる海亀文様をあしらった大型機であった。途中ハワイ出身の名野球選手であるウォーリー与那嶺のメモリアルで、お金を使いすぎた罪はDo not ウォーリーで問題ないとの啓示を受けたのでそのまま13:00発NH181便A380機に乗り込み帰国の途に着いた。

9月4日(月)
機内のオーディオプログラムで70~80年代の楽曲を聴きつつ、近年では仮面舞踏会は記者会見と同義語になってきていないかと訝りながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥106,180 / passenger
総宿泊費 $1,796.95
総タクシー代 $110
総レンタカー代 $127.8
総ガソリン代 $22.46

協力 ANA、ANAトラベル、Hiltonhhonors、MARRIOTT VACATION CLUB、ハーツレンタカー

シン・FTB Los x ロス = 二刀流Show Timeツアー

コロナ自粛中のGWはまるで猫が寝込んだようにおとなしく過ごさざるを得なかったのだが、待望のコロナ明けを迎えても円安に苦しむ日本人旅行者はコスト面で自主規制を余儀なくされている今日この頃である。

このたび運よくANAよりSuper Valueという破格の運賃による航空券をゲット出来たので、過去数年分の旅行ロスを取り戻すべくLos方面へのツアーが敢行されることとなったのだ。

2023年5月1日(月)、5月2日(火)
連休のはざまとなっている5月1日(月)の裏の仕事をさくっとこなした後、日の暮れるのを待って羽田空港第3ターミナルへとJR横浜線、京急羽田空港線を走らせた。おなじみのANAのSuite Loungeで夕食とアルコール入り飲料で体の調子を整えると日付の変わった0:30発NH106便に乗り込み、フライト時間の大半を無意識状態で過ごせるように狭いエコノミー席での体勢の調整に余念がなかった。

5月1日(月)
太平洋上の日付変更線を超えたことに気づかないまま、飛行機は前日の5月1日(月)午後5時頃ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着した。米国入国の際にそれなりの時間がかかることは想定済みだったのでストレスなくイミグレーションとカスタムを通過すると上階に上がり空港周辺を巡回するHotel Shuttle Busに乗り込み、Holiday Inn Los Angeles – LAX Airportにしけこんだ。

これまでの裏の仕事のハードな出張による副産物としてIHGリワーズクラブのポイントをためこんでおり、宿泊料は無料の恩恵を受けたので、代わりにホテルのレストランに金を落とさなければならない義務感でビールとメキシカン料理で脂肪で覆われた小腹の隙間を埋めさせていただいた。

5月2日(火)
IHGダイヤモンド会員に無料で供される朝食の施しを断り、早朝6時にホテルを出発するShuttle Busに乗りこんだまでは良かったもののバスの運転手や同乗客から下車するべくターミナルを惑わされたため、目的のTerminal 7に辿り着くまでに余計な時間を要してしまっていた。

何とかUnited Clubで朝食を取れる時間が確保出来たのでアメリカンブレックファストで栄養補給を行うと8:26発UA1185便でメキシコのLos Cabosに向かった。ところで何故今回のツアーでLos Cabosが目的地に選定されたのかであるが、第一の理由は単純に行ったことがなかったからなのだが、第二の理由は私が昔勤めていた米国の故シマンテックという会社がITバブル華やかなりし頃、グローバルの多数の営業を引き連れてAchiver’s Tripという名目でLos Cabosで豪遊しやがったという行けなかった者からすると忌まわしい過去の怨念を払拭するためである。ちなみに私は営業ではなくマーケティングだったので最初からAchiverの土俵には乗っていなかったのだが・・・

いずれにしても2時間超のフライトで砂漠の大地を縦切り、バハカリフォルニア半島の最南端に位置するLos Cabos国際空港に到着する運びとなった。多くのアメリカ人バカンス客と一緒にメキシコへの入国を果たすと割高だが明朗会計の前払いとなっているエアーポートタクシーに乗り込み、まずは本日の宿泊予定地に向かった。車窓からはバハカリフォルニア半島の乾いた大地を賑わせているサボテンの姿が見受けられたのだが、前述のAchiver’s Tripの旅行者へのはなむけの言葉はマサに「サボってんじゃ~ね~!」がふさわしかったのではなかろうか?

ちなみにロス・カボスはメキシコの基礎自治体で半島南端のカボ・サンルーカスと東側のサンホセ・デル・カボの二つの主要都市のほか、いくつかの村を含んでいるという。二つの都市を結んでいるのは幹線道路の国道一号線でこの道路上に各種ホテルが軒を構えているのだが、今日はカジュアルなビジネスホテル系のHOLIDAY INN EXPRESS CABO SAN LUCASにIHGの24,000ポイントの支払いで宿泊することとなっている。

チェックイン後、とくにすることもなかったので小さなプールのあるホテルの敷地を散策し、停泊しているクルーズ船を眺めながら感染拡大の温床となったことはもはや過去の遺物だと言い聞かせていた。

国道一号線の主要都市間は市バスが頻繁に往来しているので紫外線が弱まってきた時間を見計らってバスでサンルーカス方面に向かった。初めての土地ゆえ、下車するべくバス停を無意識に通り越し、バスはどんどんダウンタウンの奥地に向かって行ったので適当なところで降りてスーパーマーケットでトイレ休憩をさせていただいた。生鮮食品売り場を見渡すと、さすがに海沿いの都市だけに提供される魚の種類は豊富であったのだが、とりあえず闇営業の仲介で吉本を首になったカラテカ入江をしのぶことが出来るはずのスナック菓子は購入しておいた。

慣れないスペイン語とメキシコペソ(M$)の現金払いの市バスの乗車に苦労を重ねながら、何とかサンルーカスの見どころが集まるマリーナ周辺まで漕ぎ付くことに成功した。

サンルーカスは観光用に整備された人工的な都市の印象は否めないが、街自体の装飾や演出が優れているので歩いているだけでリゾートの気分は自然に盛り上がっていくのである。

マリーナに係留されているおびただしい数のクルーザーを見てもわかる通り、ここでの主なアクティビティは加山雄三的な舟遊びであるのだが、今回は日程の都合で老人と海のように大海に乗り出すようなことはなかったのだが、天空を突き刺すカジキと地面から生えているサーフボードのオブジェだけで疑似マリンスポーツ体験を賄うことが出来たのであった。

夕食は多くの飲食店の中から雰囲気の良い音楽が流れているシーフードメキシカン系のレストランで取ることにした。メキシコでは乾杯の音頭はコロナビールで取るはずなのでそのしきたりには従うことにしたのだが、ビールのお供の柑橘類がライムであることに多少の不安を覚えざるを得なかった。その心は北部九州出身である私のような輩はこのような状況では大分県名産のかぼすを絞ると相場が決まっているのだが、ロス・カボス滞在中の間は「かぼすロス」に苛まれ続けることが確定したからである。

5月3日(水)
午前10時過ぎにはHOLIDAY INN EXPRESSをチェックアウトし、ホテルで手配したタクシーに乗り込むとリゾート気分による胸の高まりを抑えつつ、今日から泊まることになっているHilton Grand Vacations Club La Pacifica Los Cabosに向かった。完全プライベートリゾートであるがゆえにゲートで宿泊予定者名簿と名前を照らし合わせた後、晴れて敷地内への入場が許されたのでフロントでチェックインする運びとなった。

ウエルカムドリンクは、日本では高校球児の主要なヘアースタイルを模しているはずの丸刈り~タとレモネードが選べるのであるが、少しでも早くリゾート環境に適応するためにマルガリータを一気飲みしてフロントデスクで宿泊手続きを行った。デスクではサボテン並みのとげとげしい対応ではないもののチェックイン時間の午後3時までは部屋に入れないとのことだったのだが、ホテル内の施設は自由に使えるとのことだったので早速リゾート内の散策と洒落こんだ。

あいにくの曇り空ではあったもののプールやビーチを眺める限りではここロス・カボスがユカタン半島のカンクンとともにメキシコ最強クラスのリゾート地であることは疑いの余地はなく、松任谷由実が推薦するはずのアカプルコさえ霞んでしまうほどの絢爛ぶりが窺えた。

ビーチまで下りてみると今は亡き日通のペリカン便を偲んでいるかのような怪鳥が岩の上で魚待ちをしている姿を見てこの海の生態系の豊かさを感じ取った。

ビーチのアクティビティとして水上バイク、乗馬、小舟等があるようであったが、リゾート客はあまり関心を示していないようであった。

待望のチェックインを済ませると早速水着を着こんでプールバー方面に向かった。とはいえビリヤードの設備があるはずもないので皆アルコールを飲みながらそれぞれのスタイルで水平線に向かってくつろいでいたのだった。

夜のとばりがおりてもリゾート内は落ち着いた雰囲気をとどめており、浴びるほどの酒を飲みすぎて「許しテキーラ」と温情にすがろうとする者も♪シエリト・リンド♪を合唱するホセやサンチアゴのアミーゴ達も参上することはなかったのだ。

5月4日(木)
昨日の曇天とは打って変わって早朝より青空が広がり、いよいよリゾートがその実力を遺憾なく発揮出来る環境が整った。

リゾートのメインレストランであるTalaveraで高値で供されるビュッフェ朝食を軽快な流しのギターのメロディーとともにゆっくりと楽しんだ後、水着に着替えるとプール沿いの至る所に設置されている大判のタオルをわしづかみにするとコロナビールと一緒にデッキチェアに身を委ね、リゾート活動の定番となっているはずのプールサイド読書に勤しむことにした。

ハズキルーペを介した読書で目に疲労がたまってきた頃を見計らってプールにどぼんしてビーチで展開される人間模様にしばし目をなじませてピント調整を行った。

ビーチもプールも野性味に欠ける感は否めないのだが、突如姿を現したイグアナ越しに眺める海の青さは圧巻であり、これぞマサにメキシカンリゾートの神髄であると思い知らされた。

喉の渇きを覚えるとそのままカウンターでマルガリータを発注し、イグアナに乾杯したのだが、つまみのピザであるはずのマルゲリータがないのが唯一の難点といえよう。

結局日が西に傾きかける時間まで至福の時間を堪能したのだが、リゾート客が去った後のプールは鏡のように周囲のヤシの木を写し取っていた。

今回FTBが泊っている部屋はコスト面を配慮してプールフロント1階のパーシャルオーシャンビューであったのだが、後々ハウス猫のコンシュルジュ付きであることが判明した。奴はしなやかな肢体とともに突然姿を現し、心理的癒しのサービスを提供すると名作映画のように風と共に去って行ったのだった。

今日のディナーは予約が必要だと言われていたが、実際には予約しなくても入れたVelaというイタリアンレストランで取ることにした。

女性の妖怪人間系の名前を冠したはずのベラでは主にシーフード系の料理を召し上がったのだが、地元の食材を伝統的イタリアンにマッチさせた手法により、リゾート暮らしで脳みそを溶かし、人間性を失ってしまった観光客も思わず「早く人間になりた~い」とうなってしまうほど美味にアレンジされていた。

5月5日(金)
わずか二泊三日のリゾート滞在の最終日を迎えた。昨夜のディナータイムの静けさとは打って変わって朝食レストランのTalaveraは活況を呈しており、昨日着席したオープンテラスが満席だったので屋内のテーブルに席を取ったのだが、内と外では違う価格設定がされているようで、開放感に劣るが食べ物への距離が近い屋内は価格的にやや有利であり、ライブオムレツやサボテンをもすりつぶすことが出来るはずの強力ミキサーを要するスムージーバーにもスムーズにアクセス出来たのだった。

チェックアウト迄の貴重な時間はビーチで過ごし、海辺で繰り広げられる人間模様をボ~と眺めていた。

すでに日よけ用の帽子やアクセサリーを売りさばく商人たちも虎視眈々と商機をうかがっていたものの、決してリゾート客のプライベートスペースに土足で踏み込むような押し売り営業はしないので商品に興味のない客にとって彼らは単にビーチを彩る景色の一部でしかなかったのだ。

午前10時にホテルをチェックアウトし、タクシーで空港に向かった。カラフルなロス・カボス国際空港はメキシコ国内や米国主要都市からの様々な航空会社のフライトで賑わっており、そのアクセスの便利さからリピーターもかなり多いはずだとあらためて認識させられた。

12:25発UA547便は30分程遅れて出発し、ロサンゼルス国際空港トム・ブラッドレー国際線ターミナルへ到着したのは午後3時半を回った時間であった。さらに長い列の入国審査を突破するのもかなりの時間を要してしまった。何とか米国への再入国を果たすとHearz Rental Carのシャトルバスに乗り、Hertzの営業所に着いたのだが、ここでも長蛇の列の洗礼を受けてしまった。何とかTeslaのModel 3を入手して目的地に向かおうとしたが、モータリゼーションの申し子であるロサンゼルス名物の渋滞にはまってしまったのだ。

1998年の夏以来、25年ぶりに訪れたエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムであったが、$20の支払いで駐車場に滑り込んだ時にはすでに試合開始となっていた。巨大なエンゼル帽をあしらった球場正門の装飾は当時と変わらなかったのだが、そこに君臨するエンゼルスの主である二刀流使いにより新たな時代の息吹が感じられた。

ア・リーグ西地区首位を快走するテキサス・レンジャーズを迎え撃つエンゼルスは大谷を3番指名打者に据えて立ち向かったものの、序盤はレンジャーズに3点のリードを許し、大谷のバットからの快音も聞こえないまま試合は淡々と進んだ。

日本では「こどもの日」ということもあり、折り紙兜を被った日本人ファンの姿も見受けられたのだが、今日はエンゼルスの選手にホームランは出ず、ホームラン・セレブレーションで鹿児島の甲冑工房丸武産業製の兜を「パイルダー・オン」する兜甲児的なパフォーマンスは見ることが出来なかった。

今日のShow Timeは残念ながら野球のパフォーマンスではなく、巨大スクリーンに映し出されるコーセーによってあ~せい、こ~せ~と演技指導された姿のみであったのだが、通常は♪飛ばせ 鉄拳 ロケットパンチ♪によって放たれる外野センター奥の巨大な人工岩と滝まで架けられるアーチの軌道が期待されている。ちなみにその装飾はかつて親会社であったウォルト・ディズニー・カンパニーの時に大幅な改修に着手して出来たものの名残であり、エンゼルスの選手がホームランを打つと、約27メートルの高さまで火が勢いよく噴き、花火も打ち上がるアトラクションが提供されている。

メキシコでの思い出を胸に売店でタコスとブリトーを買って景気づけをすると逆転猿と和訳される「ラリー・モンキー」のラリッた姿に後押しされ、9回裏ツーアウトの土壇場からエンゼルスが同点に追いついてしまった。

試合は延長戦に突入し、ノーアウト2塁から始まるタイブレークの10回表のレンジャーズのスコアボードに首尾よくゼロが記された。10回裏のエンゼルスの攻撃は主砲トラウトからであったが、最近の試合で虹ますのようなアーチをかけずとも申告敬遠の憂き目に会い、切り身にされるような断腸の思いで一塁に向かって行った。

ノーアウト1塁、2塁のサヨナラの好機にShow Timeがお膳立てされたものの、大谷はセカンドゴロに倒れ一死1・3塁で大谷が一塁ベースコーチに反省の弁を述べたのも束の間、次打者アンソニー・レンドンへの初球はワイルドピッチとなり、期せずしてエンゼルスがサヨナラ勝ちを収め、球場内は歓喜の嵐に包まれたのであった。

5月6日(土)
IHGリワーズクラブのポイントがさらに余っていたので25000ポイントの支払いで宿泊したCandlewood Suites Anaheim – Resort Areaをチェックアウトするとディズニーランドの城下町であるアナハイム市内をModel 3で軽く流し、空港近くのサンタモニカまで足を延ばしたのだが、桜田淳子の♪来て 来て 来て 来て サンタモニカ♪という歌声に統一教会の幻影を感じたので車から降りることなくそのままHeartzの営業所に帰って行った。

17:15発NH125便は定刻通りロサンゼルス国際空港を出発し、機内映画の「ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY」を見ながら次のメキシコツアーの折にはヒューストン空港を経由することになるだろうと考えていた。

5月7日(日)
飛行機が日本に近づくにつれ、Losでの楽しい生活が走馬灯のように脳内を駆け巡りLosロスの感情が押し寄せてきた。マサにそれはロス・インディオスとシルビアが歌う♪別れても好きな人♪に通ずるものがあったのだが、その歌がヒットしている当時の六本木のスナックで歌われていた♪別れたら~ 次の人♪のように未来志向が重要ではないかと思いながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥134,540 / passenger、United航空 = ¥32,350 / passenger
総宿泊費 US$1,065.68
総レンタカー代 US$114.23
総タクシー代 US$115、M$1,000(M$1 = ¥7.8)
総バス代 M$104

協力 ANA、United航空、IHG、HILTONHHNORS, Heartz Rental Car

FTB MLBフォーカス レジェンドと二刀流世代交代ツアー in バンクーバー&シアトル

ボンよ、イチローが古巣マリナーズと契約したのは2018年3月7日のことであった。この契約発表がなされるや否やFTBは他の旅行代理店に先駆けてゴールデンウィークのシアトルMLBツアーを企画し、即日航空券の発行まで行うという電光石火の早業を見せたのであった。ついでにまだ行ったことがないカナダのバンクーバーにも立ち寄るオプション付きやった。

2018年5月2日(水)
午後9時50分発NH118便羽田発バンクーバー行きに乗るべく、7時過ぎに空港に着いたのはよかったのだが、ANAのカウンターでカナダ入国の電子ビザは取得していますかと聞かれ、自信を持ってしていないと答えたところご丁寧にとなりの椅子席に案内され、タブレットを渡されて無事にeTA (Electric Travel Authorization)をサクッと取得出来たのであった。

ANAのSUite Loungeで少しは高級なはずの和牛ステーキの小さいやつを食して夕食とすると機内では頭の中を3回転半くらい回してひたすら意識を失うことに集中し、同日午後2時過ぎには浅田真央やキム・ヨナも来たことがあるバンクーバー国際空港に到着した。空港からスカイトレインなる鉄道に乗り、わずか20分程度でダウンタウンの中心部に侵入するとグランビル・ストリートという南北を貫くメインストリートを南下して予約済みのHoliday Inn & Suite Vancouver Downtownに無事にチェックインと相成った。

初春のブリティッシュ・コロンビアの晴天につられるようにホテルから足を踏み出すとグランビル・ストリートをさらに南下してグランビル・アイランドを見下ろす大橋を渡り切り、ぐるっとUターンしてバンクーバー有数の観光地に成り上がっているグランビル・アイランドへと足を踏み入れた。

グランビル・アイランドはグランビル・ストリート(大橋)の真下にある小さな島で、昔は工場街として発展したそうだが、一旦さびれた後、観光スポットとしてV字回復を果たした楽しいことが満載の場所である。船着場には大小様々のクルーザーが繋留されており、釣ったばかりの魚を洗浄しているおっさんやレストランで自ら食材になろうとしているかのように振舞っているいいカモも見受けられた。

最大の見所は何といってもグランビル・アイランド・パブリック・マーケットで新鮮な魚介類、肉、野菜、果物、メープルシロップのような地元の特産品がそこそこの価格で売られており、地元の住民だけでなく、観光客も遠慮せずに財布の紐を緩めることが出来るのである。

夕飯時になったのでマーケット内のフードコートでファストフードを掻き込むか、洒落たレストランでスローフードを良く噛んで食べるべきか迷ったのだが、ツアー初日ということもあり、消化器官への負担も考えてスローを選択することにした。Fish Companyという新鮮な魚しか扱ってないはずの小洒落たレストランの窓辺に席を取り、地元のビールと今日のスープ、生牡蠣、魚の3点盛をじっくりと味わい、優雅なディナーを十分に堪能させていただいたのだった。

腹ごなしのために再びアイランド内をぶらぶら歩いていると現役の工場らしき場所に行き当たった。そこの設備には斬新なポップアートが施されており、多くの観光客がゲートの前で足を止めていた。便所を借りるために再びマーケットに戻ったのだが、午後7時が終了時間ということで、重たい膀胱を刺激しないようにさっき飯を食ったばかりのレストランに引き返し、担当してくれたウエイトレスにお願いして個室に駆け込んだのだった。

5月3日(木)
時差ボケの影響を受けずに朝まで生眠り出来たのでホテルで高値の朝食を取った後、近場の観光に繰り出すことにした。グランビル・ストリートを北上し、途中目抜き通りのロブソン・ストリートを闊歩し、ウォーターフロントへ向かった。

バンクーバー・ハーバー・フライト・センターで水上飛行機の離着陸を見物し、シーウォール・ウォーター・ウォークを「ウォ~!」と叫ばずに歩いてバンクーバー最強の観光地であるスタンレー・パークへ向かった。

スタンレー・パークはダウンタウンの北西に広がる広大な自然公園で、どの観光ポイントから手を付けて良いかわからなかったのでとりあえず公園入り口のInformation近くでアイドリングしている馬車で1時間の観光(CAD45)をかますことにした。装備してないはずのシートベルトを締めるようにとの洒落でスタートした馬車ツアーはガイドギャルの弾丸トークでバンクーバーの歴史や近辺の見所情報が語られた。園内の最大の見所である広場で5分間の猶予が与えられ、観光客は馬車を降りてトーテムポールとの記念撮影に躍起になっていた。

馬糞の香りに慣れた頃合に1時間のツアーも終焉を迎えたので、馬車を降りて今来た道を馬車馬のようにむやみに歩いて見ることにした。園内を流れる細い川にはSALMON CROSSINGというサケの繁殖地としての復活を期する黄色看板が掲げられ、サケとの衝突を避けるような注意が促されている。海沿いのビューポイントには一見コペンハーゲンにある世界三大がっかり世界遺産の人魚姫に見える人間姫(Girl in a Wet Suit Statueという)が岩の上にインストールされており、園内の自然に対するひとつのアクセントになっているようであった。

広い園内をすべて網羅出来たわけではないが、この時期は総じて花々が美しく咲き誇り、散策や休息には最適の観光地であることは疑いようもない事実であった。

スタンレー・パークからダウンタウンに戻る散策路には珍しい形をした立ち木や倒木が写真撮影スポットになっているのだが、私が一番印象に残ったのは用途不明の足長高床式小屋であったのだ。

散策も一段落したところで地元のビール醸造所系レストランでフルーティな地ビールと揚げ物をつまんだ後、Canada Placeという比較的新しげなくつろぎ広場をさまよった。野生のがちょうがCanadian Familyとして認定されているこの場所では卵をあたためているがちょうに「がっちょ~ん!」というような刺激を与えてはならないため、静かに退散させていただくしかなかったのだ。

休息を取るためにホテルに一旦戻り、何気なくYahoo Newsをチェックするとミズノプロの黒バットで後頭部をジャストミートされたような衝撃的なニュースがスポーツ欄を埋め尽くしていた。シアトル・マリナーズはイチローがジジロ~になるまで選手として使い続けると信じて疑わなかったのだが、今年は選手登録を外して会長付き特別補佐に就任するというではないか!このニュースが出た瞬間にGWイチローv.s大谷観戦ツアーを組んだ大手旅行会社である日本旅行、近ツリ、JTB、FTB等には抗議の電話が殺到し、「てるみくらぶ」の二の舞になるのではないかと懸念されたのだが、いずれにしても今季のレジェンドと二刀流の共存共栄は見られなくなってしまったのである。

失意のうちにホテルを飛び出し、チャイナタウンで暴飲暴食をして溜飲を下げようと思ったのだが、適当な場所が見つからなかったのでバンクーバー発祥の地であるガスタウンで蒸気時計を眺めながらガス抜きをするしか鬱屈する気持ちを静めるすべがなかったのだ。

5月4日(金)
昨日の快晴とはうってかわり、今朝はイチローロスとともにどんよりとした空気に支配されていた。宿泊しているホテルはシアトル行きバスの発着地になっているので9時半発のバスに乗り、国境を超えて一路シアトルを目指した。シアトルダウンタウンにあるコンベンションセンターに1時半頃到着するとHoliday Inn Seattle Downtownにチェックインを果たし、早速シアトル最強の観光地であるパイクプレイスマーケットの様子を見に行くことにした。

屈強な男が魚番をしている脇を通り過ぎて早めの夕食をとるためにとあるシーフードレストランにしけこみ地元のIPAビールでCrab Biscuitやサーモンソテーを流し込んで空腹感を解消し、Pike Streetにある1号店ではないスターバックスでコーヒーを飲みながらしばしくつろぎ、球場へ行く時間を見計らっていた。

シアトル・マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに到着したのは試合開始1時間前の午後6時くらいであったろうか。球場を彩る外壁にはまだイチローの写真が残されていることに安心して入場すると三塁側内野席の前方に席を取った。永久欠番選手の名前をあしらったホームプレートが3枚遠巻きに眺められたのだが、4枚目の51番の掲示が遅くなればなるほどイチローのライフが伸びるはずであろう。

今夜はスターウォーズナイトということでスターウォーズの人気キャラクターが試合前のグラウンドを闊歩しており、選手紹介の大型ビジョンもスターウォーズバージョンが徹底されていた。

イチロー目当てで来場した日本人観光客の救いとなったのはエンゼルス大谷の天使のような活躍であった。5番指名打者大谷がコールされると場内にはこの日最大のブーイングが沸き起こり、エンゼルスと最後まで獲得を争ったマリナーズが逃した魚の大きさを思い知らされた。エンゼルス入団の決め手となったのはやはり二刀流をやりたいという大谷の申し出に対してエンゼルスのマイク・ソーシア監督が「そ~しや!」と気持ちよく承諾したことであったろう。

右打者の強打者がずらりと並ぶエンゼルスの打線の中で左打者の大谷が5番に座ることで打線のバランスが格段によくなっている様子で、この日の大谷はクラブハウスで見ているはずのイチローにいいところを見せようと発奮して4打数2安打の活躍でチームの勝利に見事に貢献したのであった。

大谷の活躍よりさらに大きな出来事が起こったのは試合中盤のエンゼルス4番打者のアルベルト・プホルスの打席であった。イチローと同じ2001年にメジャーデビューを果たし、同年のナショナルリーグの新人王を獲得した長距離打者のプホルスはこれまで2999安打を重ねており、シアトルで3000安打を打つことが確実視されていたので多くのエンゼルスファンが球場に駆けつけていた。

2打席目でライト前へ渋いヒットを落としたプホルスの元にエンゼルスの選手全員が駆けつけ、祝福のために試合は中断となったのだが、次打者の大谷はその喧騒をものともせず、レフト線にツーベースヒットを放ち見事に花を添えたのであった。

試合途中で球場内通路をうろつき、イチローグッズがもはやディスカウント価格で販売されているのではないかとひやひやしながら歩き回っていたのだが、それどころかイチローの栄光の歴史を彩るコーナーが開設され、そのレジェンドぶりに益々拍車がかかっている様子だったので安心して球場を後にした。

5月5日(土)
シアトルに遠征に来ている大谷率いるエンゼルスの選手達はまぎれもなく「ホテルニューオータニ」クラスの高級ホテルに宿泊しているはずであり、それらをしらみつぶしにあたれば大谷の出待ちをしてサインを入手することも可能かも知れなかったのだが、今朝もやはりパイクプレイスマーケットでまったり過ごすことにした。お決まりの観光コースとなっている1912年開店のスターバックス1号店はすでに長蛇の列をなしていたので入店を断念して海沿いの景色を眺めていた。

ブランチを取るために比較的すいてそうなシーフードレストランに入ってお約束のシーフードチャウダーやサーモンバーガー等を賞味させていただき、短い時間だがシアトルの休日を十分に満喫させていただいた。

今日の試合は午後6時10分開始ということで昨日より早めに球場に到着したのだが、翌日の先発投手としての準備のためにエンゼルスは大谷ロスの打順を組むことを余儀なくされていた。試合はシーソーゲームの展開であったが、延長戦の末マリナーズがサヨナラ勝ちを収めたので今夜はシアトルファンが溜飲を下げる番となった。

シアトル・マリナーズにはイチローだけでなく、過去数多くの日本人選手が在籍した実績がある。レフトセンター間の客席の下にブルペンがあり、その近辺のThe PENというコーナーで過去のリリーフ投手の栄光のパネルが展示されているのだが、、2000~2003年に在籍し、129セーブをあげた佐々木も一角に名を連ねており、その大魔神ぶりがシアトルファンの心に深く刻まれていることが確認出来たのだった。

5月6日(日)
会長付き特別補佐という要職を手にしたイチローは来年東京ドームで開催されるマリナーズの開幕戦出場を念頭に、それまでに劣化しないように冷凍保存されるようであるが、本来は今日この日に投手大谷とイチローの対決を期待して多くの日本人観光客がシアトルを訪れている。大谷も怪我の影響で登板日がずれたりしたのだが、何とか今日のデーゲームでマウンドでの勇姿を見せるということで舞台は整ったのである。

三塁側観覧席、前から6列目、マサに大谷フロントと言っても過言ではない良席に陣取ったFTBご一行は大谷がベンチから出てくるのを一日千秋の思いで待ち構えていた。試合開始30分前についにその193cmの巨体が姿を現すと三塁側のにわか日本人街は大歓声に包まれた。

レフトの芝生の上でウォーミングアップを開始した大谷はマサに貫禄十分でこれから始まるShotimeに向かって球場の雰囲気は徐々に高まっていった。

一方、マリナーズの先発投手も最大の強敵と言えるThe Kingの順番となっている。サイヤング賞をはじめ多くのタイトルを獲得しているマリナーズの絶対エース、フェリックス・ヘルナンデスの登板日には三塁側アルプススタンドはKING’S COURTに変貌を遂げ、ヘルナンデスが三振を取るたびに多くの歓声が上がる手順となっているのだ。

午後1時10分にヘルナンデスの一投で始まった試合であったが、ヘルナンデスの苦手な時間帯はヒルナンデス!とでも言い訳するかのように初回に2本のホームランを食らってエンゼルスが先行した。早速援護をもらった大谷はこれまでの登板とは投球パターンを変えてカーブやスライダーを増やし、強打マリナーズ打線を手玉に取っていた。

大谷の快投を援護したのは、すでに2回のMVPを獲得した実績のあるスーバースター、マイク・トラウトであった。守備ではセンター前に飛んできた打球に猛然とチャージし、イチローをしのぐレーザービームで三塁を陥れようとしたランナーを見事に刺し、打つほうではノックアウトされたヘルナンデスに代わったリリーフ投手の出鼻をくじく、虹鱒のような特大のアーチをレフトにかけて点差を5点に広げたのであった。

エンゼルスがワールドシリーズを制した2002年にはティム・サーモンという主軸打者がチームを牽引していたのだが、このチームは魚系の選手が活躍するとチーム状態が良くなる傾向にあるようなのでサーディーンやシャークと言った名前の選手ををトレードで釣ってくれば最強のチーム構成が約束されるはずであろう。

快投を続ける大谷は99マイルの速球と88マイルのフォークボールが冴え渡り、6回まで無得点に抑えたのだが、疲れの見え始めた7回に四球とホームランで2点を献上した後、リリーフ投手にゲームを託すこととなった。

8対2で勝利を飾ったエンゼルスの選手は三塁側ベンチに引き上げ、ベンチ前ではヒーローインタビューも始まった様子で大谷もこの場に呼ばれるはずだと期待する多くの日本人が詰め掛けていたのだが、大谷はすでにチェックアウトしたのか、再びグラウンドに姿を現すことはなかったのだ。

シアトルでのMLBツアーも一段落となったのであらためてダウンタウンに目を向けると以前から存在した不安定なビルはともかくとして新たな高層ビルやユニークな建造物が続々と誕生している様子が目についた。今ではこれなくしてショッピングは語れないほどの存在になったAmazon.comはブラジルのアマゾン奥地ではなく、シアトルに本社を構えており、レジがないAIコンビニと言われているamazon GOの一号店もダウンタウンで開業している。

早速店舗を訪ねて見ると入り口に立つサポート要員にスマホにアプリのインストールを促され、改札にバーコードをかざしての入店となった。適当に買い物をすると自身のamazonアカウントに買い物情報が表示され、金額が引き落とされる仕組みになっているのだった。レジがないということで万引きが懸念されるかも知れないが、アプリにより厳格な入場規制が敷かれているのでダウンタウンを寝ぐらにしているホームレスには門戸は開かれてないようであった。

シアトルのシンボルと言えば1962年の万国博覧会の時に建立されたスペースニードルである。米流通天閣と言っても過言ではないコテコテ系のタワーは今なお多くの観光客を集めており、上階の展望台にレストランでもあれば記念に飯でも食っていこうと思ったのだが、カフェしかないということだったので断念した。その代わりに近辺の人気がありそうなレストランに首尾よく入店し、味噌付き焼き牡蠣やビフテキ、チキン等でシアトルでの最後の晩餐を堪能させていただいた。

5月7日(月)
日本人ツアー客率の高かったHoliday Innをチェックアウトするとダウンタウンからリンク・ライト・レールに乗り、シアトル・タコマ空港に向かった。シアトルからバンクーバーに飛び、バンクーバー空港で名物メープルシロップを仕入れると午後4時15分発NH116便の機上の人となった。

5月8日(火)
機内エンターテイメントで日曜劇場「陸王」を見ながらイチローもあきらめずに走り続けるはずだとの思いを胸に流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥134,590
総宿泊費 CAD558.89、USD617.76
総バンクーバースカイトレイン代 CAD9.1
総バンクーバー・シアトルバス代 USD43
総Metro代 USD15.25
総リンク・ライト・レール代 USD3

協力 ANA、Air Canada、IHG

IchiRoad to 3000 in マイアミ with ドミニカ共和国

FTBはイチローの2001年のMLBデビュー以来、MLBの様々な球場でイチローの雄姿を見守ってきた。
http://www.geocities.jp/takeofukuda/2001mlb3.html
http://www.geocities.jp/takeofukuda/mlb.html

3000本安打という金字塔が達成間近になり、にわかにカウントダウンが熱を帯びてきたこの時期に飛行機を飛ばしてわざわざアメリカの端っこまで足を伸ばすことはMLB評論家を自任するFTBとしては当然の義務なのだが、果たしてイチメーターは進んだのであろうか!?

2016年7月8日(金)
17:10発ANA114便シカゴ行は定刻通りに出発し、機内で東芝日曜劇場「天皇の料理番」を見ながらエコノミークラスの機内食の不十分さを心理的に補っているうちにシカゴオヘア空港に午後3時前に到着した。ユナイテッド航空が運航する19:21発NH7800便に乗り換えると約3時間弱のフライトでマイアミ空港に着いたのは午後11時半を回った時間であった。Holiday Innホテルのシャトルバスが中々来ないことに苛立ちを隠せないどこぞの航空会社の乗務員のクレーム電話に耳を傾けながらバスを待っていると30分待ちでやってきたバスに乗りホテルに着いた頃には日付が変わってしまっていたのだった。

7月9日(土)
空港から1.6マイルしか離れていないHoliday Inn Miami International Airportからシャトルバスで再び空港に戻るとMetororailという公共交通機関でマイアミダウンタウンまで移動し、さらにダウンタウン内を無料で移動出来るMetromoverに乗り換えてBayfront Parkという駅で下車する運びとなった。今回は「I」のロゴを持つホテルに宿泊するこだわりを見せていたのでシーズンオフで安値で宿泊出来るIntercontinental Miamiにチェックインするとしばし窓辺からカリブ海クルーズの出航地となっているマイアミ港の景色を眺めていた。

アシックスをお払い箱にして2015年のシーズンよりイチローが採用したビモロシューズの紐を締めなおして再びMetromover、Metrorailを乗り継ぎ、Culmerという駅からMarlins Park行きのシャトルバスに乗ると午後3時前には全天候型スライド開閉式屋根付きエアコン完備球場であるマイアミ・マーリンズの本拠地に到着した。

手始めに球場の全容を解明すべくスタンド周りを一周して見たのだが、Team Shopではイチローユニフォームが日本語版、英語版共販売されており、イチローの3000本安打達成を前祝いするかのようにイチローグッズの専門店まで開業していたのだった。さらにライトスタンド後方には電光式Ichimeterが現在の通算安打数である2990を誇らしげに灯していた。

イチロー率いるマイアミ・マーリンズ対シンシナチ・レッズの試合は4時10分にプレーボールとなったのであるが、チーム事情から主役のイチローは序盤はベンチを温めて、3塁側スタンド前列に席を取ったFTB一行に対してその形の良い後頭部を披露するにとどまっていた。試合の方はレッズの左投手のLambが羊肉のように臭いコースを突いてマーリンズ打線も湿りがちだったためか、762本のMLB本塁打記録を持つバリー・ボンズ打撃コーチもその坊主頭を抱えていたのだった。

冬場のバカンスシーズンではないため、千葉ロッテ・マリーンズ程度の観客数しか入っていない球場が盛り上がりを見せ始めたのは、当然のことながら主役のイチローがネクストバッターズサークルに姿を現した8回の裏2死1,2塁の場面であった。

場内に「Ichiro Suzuki」の名前がコールされると観客は総立ちとなり、事前に配られていた「ROAD TO 3000」のパネルや多くのファンが手にしているイチローの人面ウチワをが打ち振られ、皆ライトスタンドのIchimeterが2991に代わることを疑っていなかったのだが、無念にもこの日のイチローはピッチャーゴロに倒れてしまったのだ。

結局試合の方は地元のマーリンズが4対2で勝利を収め、イチローも勝利のハイタッチに参加してその見事なチームワークスピリットを観客に示してくれていたのだった。

試合終了後、晩飯の頃合いになっていたのでシャトルバスと公共交通機関で一路ホテルに帰還し、ダウンタウンに「スシロー」等の高級日本食屋が開業していれば、一番高いネタの皿を天高く積み上げて溜飲を下げようと思ったのだが、和食探しが徒労に終わったため、ホテルの肉食レストランである「Toro Toro」でおすすめの「Nikkei」と名乗る宮崎ブランド牛を断ってToro Toroという南米肉セットを食らってIchiroのリベンジを祈願しておいた。

7月10日(日)
今日はMLBオールスター前の前半戦最終戦ということで、前日と同じカードのマーリンズ対レッズ戦は午後1時10分からの開始となったのだが、昨日と同様にイチローはスターティングメンバ―に名を連ねていなかった。試合の方はバリー・ボンズ打撃コーチの適切なアドバイスが功を奏したはずの主砲ジャンカルロ・スタントンのホームランがレフトスタンド上段に突き刺さり、マーリンズ有利の展開で進んでいった。

スタントンのホームランの喧騒を凌駕するイチローコールが場内にこだましたのは7回裏無死1塁のチャンスに代打イチローが起用された場面であった。

しかし、相手投手のスライダーがイチローの足を直撃するとイチローコールは一瞬にしてブーイングの嵐となり、手当に向かったトレーナーを制するようにイチローは軽やかな足取りで一塁に向かっていった。

試合の方は7対3でマーリンズが勝利を収め、プレーオフ進出を期待する地元ファンは喜んでいたものの、日本からはるばるイチローのヒットを期待して見に来たファンはイチローの出場機会が制限されていることにフラストレーションを抱えているようだった。しかし、イチローの調子自体は全盛期を彷彿とさせるほどのヒットメーカーに復活しており、7月中には3000本安打を打つことは確実視されているのだが、あとはマーリンズサイドのマーケティングとの兼ね合いになるかも知れない。

7月11日(月)
午前11時頃インターコンチネンタルホテルをチェックアウトしてホテルに内蔵されているAlamoレンタカーでヒュンダイ小型車をレンタルするとダウンタウンから少し離れたリゾートエリアであるマイアミビーチを軽く流していた。細長いビーチのパーキングメーター式駐車場はどこも満車状態で何とか見つけた駐車場に車を止めてビーチに足を踏み入れてみるとそこはマサに大西洋のセレブビーチの様相を呈していたのだった。

今回はマイアミビーチでのアクティビティは予定に入れていなかったので、速やかに車に戻ると世界遺産の湿地帯として君臨しているエバーグレーズ国立公園($20/車1台)に向かうことにした。同公園にはいくつかの観光ポイントやビジターセンターがあるのだが、一番簡単にアクセス出来る淡水地帯のシャークバレービジターセンターを訪問させていただいた。

通常ここでのアクティビティは24km先の展望台までトラムか貸自転車でアリゲーター等を見物しながら到達して戻ってくることであるのだが、今日は時間がなかったのでとりあえず午後3時からのパークレンジャーのプレゼンテーションを拝聴することにした。現在エバーグレーズで大きな問題の一つになっているのは外来種の脅威であり、元々ペットとして飼われていたビルマニシキヘビが公園に放流され、そいつらが繁殖し、ワニと仁義なき戦いと繰り広げているので駆除しなければならないと申していた。

公園には野生のボブキャットが生息しており、ボブキャット・トレイルを抜けてシャーク川に辿り着くそこにはアリゲーターが水面をなめらかに移動し、正直そうに見える白い鳥のサギが正攻法で魚を取っている光景を目にすることが出来た。

午後5時にはマイアミ国際空港でヒュンダイ車を返却し、アメリカン航空AA1337便が1時間の遅れを出したものの午後7時半にマイアミを飛び立ち、約2時間のフライトでドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴのラス・アメリカス国際空港に午後9時半頃到着した。早速空港のATMで現地通貨を2000ペソ程引き出すとタクシーで今回の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルのCatalonia Santo Domingoに移動し、2013年に行われた第3回ワールドベースボールクラシック(WBC)での同国の優勝を讃えながら眠りにつかせていただいた。

7月12日(火)
ドミニカ共和国は、カリブ海でキューバに次いで2番目に大きなイスパニョーラ島の東半分を占めており、国全体の面積は九州に高知県を足したくらいの大きさである。コロンブスが第1回航海の時に足を踏み入れたドミニカ共和国は、当初スペインによって新大陸で最初の町が造られ繁栄したのだが、その栄華を伝える歴史遺産が旧市街に残っているので早速訪問することにした。

ソーナ・コロニアル(旧市街)という一角は世界遺産にも指定されており、歴史的建造物が数多く残っている。まずは旧市街のランドマークになっているコロンブス広場でクラーク博士ばりに指をさしているコロンブスの像にイチローの3000本安打の早期達成を祈っておいた。

1492年~1821年まで、歴代の総督が住んでいた官邸がラス・カサス・レアル(王宮)博物館(RD$60、オーディオガイド付き)として開業していたので見学させていただくことにした。展示物は多岐にわたり、サンタ・マリア号など、航海に使われた帆船のミニチュア模型や、何故か桃山時代から江戸時代にかけての日本の甲冑や刀まであり、サムライ・ジャパン魂もここまで届いていたのかと驚かされもした。

博物館の目の前には石碑のような日時計が鎮座しているのだが、これは1753年に造られた新大陸で最も古い日時計で長きに渡ってこの町の波乱万丈を見守ってきた威厳を湛えていた。

ホテルが海に面していることもあり、レストランでシーフード三昧を楽しむことにした。ロブスターのサラダ、タコのソテー、プリプリ白身魚の焼き物やパエリア風シーフードライスを召し上がったのだが、どれも日本人の味覚にマッチしており、広島カープアカデミーオブベースボール(http://www.carp.co.jp/facilities16/dominica.html)の日本人スタッフもきっと満足したであろうと思われた。

7月13日(水)
ホテルの目の前はカリブ海の絶景とはいえ、バカンス用のビーチではなかったのだが、地元住民が何人か泳いでいたので軽く水浴びをすることにした。何気ない住民の憩いの場に見えるビーチだが、砂浜はウミガメの産卵地にもなっているようで海の生態系の重要な役割さえも担っていることが確認出来たのだ。

再び旧市街に繰り出し、マイケル・ジャクソンに扮装した大道芸人のチップ缶にコインで音を鳴らして景気づけをした後、昨日は見ることが出来なかった重要ファシリティのいくつかを見学することにした。昨日訪れたコロンブス公園の背後にどっしりとした大聖堂(RD$100、オーディオガイド付き)が多くの観光客を集めていたので入ってみることにした。1510年にスペイン王朝の依頼を受けて新大陸初の教会建設に着工したのが建築家のアロンソ・ロドリゲスというゲス野郎だったのだが、労働者たちが富を求めてさらに先へと航海に出たので工事は中断となり、建築再開は1519年で完成をみたのは1540年だということだが、何とか新大陸で一番最初の大聖堂の誕生という栄誉だけは守られたのだった。

サントドミンゴ大聖堂ともいわれるこの建築物は、ルネッサンス様式とゴシック様式の混合で、白い珊瑚礁の高い天井が印象的である。内部の祭壇のわきには14ものチャペルがあり、1506年にこの世を去ったコロンブスの遺体も遺言通りにスペインから運ばれてここに安置されていたという(現在はコロンブス記念灯台に移されている)。

サント・ドミンゴの旧市街は要塞に囲まれているが、その中心となる要塞がオサマ砦(RD$70)である。ここは1505年~1507年の間に造営されたサント・ドミンゴをカリブの海賊から守るための防衛の拠点となっている。高さは18.5mで、当時は市内で一番高い建物であり、新大陸時代最初の軍事建築物でもある。

昨日は押し売り観光ガイドの心理的ブロックにより入るのをためらったパンテオンにスペイン語、英語がわからないふりをして突入することにした。1714年にイエズス会の教会として建てられたパンテオンは、その後タバコ倉庫、国立劇場に変貌を遂げ、1955年にドミニカ共和国の歴代の総督や国民的英雄が眠る霊廟となり、常に衛兵に警護されているのだ。

ラス・カサス・レアル博物館からオサマ川沿いの防護壁沿いを練り歩き、中世ヨーロッパに匹敵する雰囲気を楽しんだ後、番猫により警護されているサンフランシスコ教会の廃墟を鉄格子越しに眺めた。勤勉な番猫は観光客に頭を擦り付けたり、膝に乗ったりと執拗なマークを緩めることはなかったのであった。

7月14日(木)
早朝ホテルをチェックアウトするとタクシーでラス・アメリカス空港に移動し、定刻9:00に出発したAA1026便でマイアミに帰って来たのは正午前であった。空港のAlamoレンタカーで再びヒュンダイ小型車をレンタルするとフロリダ半島の南端部に向かってひたすら車を走らせた。エバーグレーズ国立公園のゲートを抜け、フロリダ湾に面したFlamingo Visitor Centerに午後4時前に到着した。11月~4月が観光シーズンということもあり、真夏のこの時期は観光客も少なく閑散としているのだが、虫刺されに対する注意を促すFlamingo Mosquite MeterがIchimeter並みの存在感を示していた。

Flamingo Visitor Centerではフロリダ湾周遊コースもしくは湿地帯内部に分け入るコースの2種類のボートツアー(それぞれ$35/1.5HR)が定時開催されているのだが、丁度4時からBlack Waterという湿地帯ツアーがスタート目前となっていたので参加することにした。

ツアーガイド兼運転手のALEXの早口での説明によると今から通過する運河は人為的に作られたもので、この運河により湿地帯の環境に多大なる影響がおよぼされたという。淡水と海水が混じった汽水域であるこのあたりに生えているマングローブは4種類で、ワニは汽水域や海洋に住むクロコダイルと淡水域に住むアリゲーターの2種類が生息しているという。出航後早速岸辺で口を開けて休んでいるクロコダイルを発見したのだが、今回のツアーでワニをまともに見れたのはこの時だけで、期待していた多くのワニに囲まれてV6の♪ワニなって踊ろう♪を歌い踊るという状況には決してならなかったのだ。

エバーグレーズ一帯は哺乳綱海牛目に属するマナティーの生息地で、ツアー中にマナティーも姿を現し、観光客も思わず席を立って前のめりになったのだが、水の黒さに阻まれてその人魚のような雄姿を拝むことは叶わなかったのだ。いずれにしても動物がアクティブに行動するのは冬場ということで、ALEXの言う外来種の蛇との遭遇も不発に終わり、ツアーのほとんどの時間はマングローブを育てる黒い水面をむなしく眺めるにとどまってしまったのでALEXのチップの売り上げもほとんどゼロだったのだ。

アブのふくらはぎチクチク攻撃をかわしつつ、ボートツアーは5時半に終了となり、北米に生息するマウンテンライオンの亜種であるフロリダパンサーの幻影を追いながらエバーグレーズを後にして今日の宿泊先であるHoliday Inn Miami International Airportへとひた走った。

7月15日(金)
松田聖子よろしく♪マイアミの午前5時♪前に目を覚まし、5時半にホテルを出て空港のレンタカーセンターでヒュンダイ社を返却すると7:28発のUA便でシカゴまで飛んで行った。さらに11:00発ANA11便に乗り込むと12話を機内ビデオで一気に公開している「天皇の料理番」を完結して眠りにつくこととなった。

7月15日(土)
イチローの3000本安打達成を後押しするかのような追い風に乗ったおかげで定刻より1時間以上前の12時半過ぎに成田空港に到着し、イチロ自宅への帰路につく。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \144,000、AA = \44,180
総宿泊費 $867.76
総タクシー代 $80
総バス代 $9
総メトロ代 $11.25
総レンタカー代 $151.04
総ガソリン代 $35.29

協力 ANA、ユナイテッド航空、アメリカン航空、Priceline.com、Alamoレンタカー、楽天トラベル、Booking.com、IHG

イチロ、ボルトを締め直してカリビアンツアー in NY、ジャマイカ、バハマ

グレたイチローがシアトルをバックれてヤンキーになった!?

衝撃のニュースが日米を駆け巡ったのは7月23日のことであった。思えばイチローが渡米し、全米にセンセーションを巻き起こした2001年からFTBのMLBツアーが加速し、同時多発テロを乗り越えてイチローは伝説の域に達してしまった。しかし、野球人生の集大成とも言うべきワールドチャンピオンのリングだけは強豪チームにいない限りは決して手にすることは出来ないのも事実である。

今回は大都市で覚醒したイチローのさらなる飛躍ぶりをこの目で確かめるためにニューヨークに飛び、さらに緩んだボルトを締めなおすためにジャマイカ、北ウイングの足跡を追ってナッソーを訪問するツアーが開催されることとなったのだ。

2012年10月2日(火)

ANAのプレミアムポイントが余っていたのでビジネスクラスにアップグレードして乗り込んだ11:00発NH010便は定刻通りに出発し、約12時間のフライトで午前10時過ぎに曇り空のニューヨークJFK国際空港に到着した。早速AirTrainと地下鉄を乗り継いでダウンタウンに向かったのだが、地下鉄を降りて外界に出ると今日の野球の試合の開催が危ぶまれるように雨がしとしと しとピッチャーだった。

再び1乗車に付き$2.25に値上げされている地下鉄に乗り、柄の悪いことで有名なブロンクスのW Farms Sq Tremont Avで下車するとhotels.comに予約させておいたHoward Johnson Bronxにチェックインしてしばし雨の行く末を見守っていた。夕方の5時近くになると霧雨を切り裂くように外に出て地下鉄を乗り継いでイチロ、ヤンキースタジアムに向かった。161 St Yankee Stadiumで下車すると2009年にオープンした新ヤンキースタジアムが目の前に迫っていた。尚、老朽化のために取り壊された旧ヤンキースタジアムは跡形も残っていなかったのだ。

スタジアムの回りを一周し、その建築様式を確認するとTicketmasterでオンライン高値購入しておいたチケットを入手するためにチケット売り場のWill Callの窓口に向かった。チケットを手にヤンキースタジアムへの入場を果たすと各土産物屋ではイチロー祭りが開催されているかのように多くのイチローグッズが並んでいた。さらに食い物屋に目を向けると伝統的なホットドッグやピザを横目に日本食屋の開店も見られたのだが、メニューの目玉はイチローを転がしたようなSUZUKI ROLLだったのだ。

試合開始まで時間があり、雨よけのシートのかかったグランドでは練習も行われていなかったので球場内を隈なく散策することにした。伝統あるヤンキースは永久欠番を量産しており、欠番に値する野球の神様達を奉るためにバックスクリーンの直下にMemorial Parkなるものを開設している。神様達は銅版のプレートとなってその活躍を讃えられているのだが、何故か前オーナーのジョージ・スタインブレナーIIIの巨大なプレートが神様達を束ねているかのように中央に飾られていやがった。

続いて球場内2階にあるヤンキース博物館にも足を運び、ワールドチャンピオン27回の栄光の歴史をまざまざと見せつけられたのだが、直近の世界一である2009年にワールドシリーズのMVPを獲得したマツイの痕跡がスタジアムのどこにも見られなかったのでそれはマヅイだろうと思いながら場内を彷徨っていた。

霧雨の降り続く中ではあるがヤンキースとレッドソックスの伝統の一戦は定刻7:05にプレーボールとなり、相手が左ピッチャーのために9番という下位打線に甘んじているイチローが私が座っているレフトスタンド前のフィールドに定着した。

この日のイチローは3打席目にSUZUKI ROLLを彷彿とさせるような球を3塁線に転がし、見事なバントヒットとしたのだが、見せ場はこの打席だけで結局5打数1安打とファンにとっては物足りない結果となってしまった。

試合の方は9回裏に2点をリードされたヤンキースが代打ラウル・イバネスの起死回生の同点2点ホームランにより延長戦に突入し、12回の裏のチャンスに再び打席が回ってきたイバネスのサヨナラヒットによってヤンキースが勝利し、フィールド内とスタンドは歓喜の渦が巻き起こり、締めの定番ソングであるフランク・シナトラの♪ニューヨーク ニューヨーク♪がかき消されそうな喧騒であった。

試合が終わったのが11時半頃で満員の地下鉄に乗り、深夜にブロンクスのホテルに帰り着いたのだが、ニューヨークでの入浴は翌朝に回して時差でボケている今夜はとっとと寝静まることにした。

10月3日(水)

今日の天気予報も雨であったのだが、何とか曇り空が涙を流さずに持ちこたえていたので午前中にロウアーマンハッタンに繰り出すことにした。地下鉄フルトン駅で下車して9.11 Memorial方面に向かうとグランドゼロにはワールドトレードセンターに変わる高層ビルが再び天空を目指すかのように建設中であった。

タイムズスクエアで大道芸人が芸のクライマックスを警察に制止されて見物人からブーイングをくらうNYPDを横目に街頭でOREOとHOLDSの新商品のサンプルを受け取ってミッドタウンをしばし徘徊した。

午後6時頃にヤンキースタジアムに入場すると今日は雨が降らなかったために通常通りの試合前の打撃練習が行われ、外野席ではグローブを手にしたファンがホームランボールを追って右往左往していた。今日はレギュラーシーズンの最終戦でヤンキースが勝つか2位のボルチモア・オリオールズが負けるとヤンキースのアメリカンリーグ東地区の優勝が決まるという大一番であり、場内は異様な熱気に包まれていた。

その熱気の主役となるのが、ヤンキースのエース黒田とレッドソックスの崖っぷちエース松坂の先発ピッチャーの投げ合いであり、マサに日本人のために用意された舞台が幕を開けようとしていたのだ。試合開始前30分頃からウォーミングアップを開始した両エースであったが、右肘の手術から復帰して今だに調子の出ない松坂は重そうな体を引きずりながらランニング、キャッチボール、ブルペンでのピッチングへと入っていった。ブルペンでの投球はあまり球が走っていないように見受けられ、捕手の構えたミットになかなかコントロールされていなかったのだ。

試合は定刻7:05に開始となり、1回の表に黒田はいきなり1点を先行された。その裏の松坂は2番のイチローをポップフライに打ち取り、三者凡退で順調なスタートを切ったかに見えたのだが、2回にスリーランホームラン、3回にツーランと2本のホームランで5点を失い、早々と交代を告げられて日本に強制送還されるかのようにマウンドを降りていった。

試合はヤンキースの一方的な展開で7回裏にはこれまで4打席ヒットがないにもかかわらず大歓声でファンに迎えられていたイチローに5打席目が回ってきた。千両役者のイチローは右中間に2塁打を放ち、2点を追加したのだが、その時追加点の場面とは関係のないところで大歓声が上がった。電光モニターには2位のオリオールズが敗れ、ヤンキースの優勝が決定したことを告げる表示が大きく示されると観客はスタンディングオベーションで優勝を祝い、セカンドベース上のイチローもようやくその事実を理解した様子であった。

黒田は7回を7安打2失点の好投でマウンドを降り、今季16勝目を上げてヤンキースの優勝に多大な貢献を果たしたのだった。ヤンキースは14対2で宿敵レッドソックスを打ち破るとロッカールームではお約束のシャンペンファイトが繰り広げられ、その様子は電光モニターに鮮やかに写し出されていた。

優勝の余韻に浸っているヤンキースファンとともにスタジアムを後にする際に1人のファンが着ているユニフォームの背中に背番号55とともにMATSUIの文字が浮かび上がっていた。チーム公認の球場内展示物には松井の痕跡はなかったのだが、ファンの心にはマツイの幻影がしっかりと刻み込まれているのであった。

10月4日(木)

ニューヨークでヤンキース優勝の瞬間を目に焼き付け、イチローがイチロー足りうる価値を維持していることが確認出来たので次の目的地に向かうべく地下鉄でJFK空港に向かった。カリビアン航空が運行する13:25発BW014便に乗り込むと約3時間50分のフライトでジャマイカの首都キングストンのノーマン・マンレイ国際空港に時計の針を1時間戻した午後4時15分頃到着した。

入国の際に審査官のおばちゃんからあれこれ質問されてあまり歓迎されていない印象を受けたものの何とか入国を果たすと両替所で手持ちのUS$60を差し出すとあまり良くないレートで両替していただき、4,549ものジャマイカドル(JMD)の大金を手にした。空港のArrivalの出口の近くにJUTAという会社のタクシーカウンターがあったのでそこで市内までの料金がUS$28であることを確認すると安心してタクシーを発注したのだが、何故か乗り込んだ車は誰も乗っていないマイクロバスであった。

何はともあれ、hotels.comに予約させておいた治安の良いニューキングストン地区にある高級ホテルWyndham Kingston Jamaicaに約30分で到着するとフロントでチェックインを行う運びとなった。フロントのおね~ちゃんに周辺の地図をくれないかと要求したのだが、無いとの返事だったのでキングストンは観光客向けの町ではないことを即座に認識することとなった。

日本の秋田県とほぼ同じ大きさを誇るジャマイカでは北部のモンテゴ・ベイというカリブ有数のビーチリゾートエリアがあり、観光客のほとんどはそこで休暇を楽しむのだが、海外から来るビジネス客の多くは首都キングストンに滞在し、ここでは国際的な会議もたびたび行われているという。この日のWyndhamホテルではイギリスからの独立50周年を祝うイベントが行われており、多くのパーティドレスで着飾った貴婦人が入口で記念写真を撮られながら会場に吸い込まれて行った。

パーティのためにホテル内の食事処が閉鎖されていたため、「ひとり歩きは絶対にやめよう」という物の本に書かれている警告にもかかわらず夜になって外に出てみることにした。なるほど、ホテル周辺にはホームレス系を中心とした怪しい輩がたむろしており、施しを受けるために宿泊客の出待ちを行っていた。ホテルの近辺にケンタッキーがあったのでそこに入ってチキンバーガーを発注している際にも怪しい野郎が店の中を覗き込んでおり、店員が追い払った隙に店を抜け出し、何とか無事にホテルに帰還出来たのだった。

10月5日(金)

キングストンの背景に高級コーヒー豆で有名な標高2000mのブルーマウンテンがそびえているのだが、ホテル内の喫茶店や土産物屋で売られているコーヒーもすべてブルーマウンテンである。朝食として香り高いコーヒーとマフィンをいただくと意を決してキングトンの観光に出ることにした。

キングストンはレゲエ・ミュージックのふるさととして有名でキング・オブ・レゲエとして君臨しているのが、かのボブ・マーリーである。キングストンの唯一の見所でここに来なければキングストンに来たことにはならないと言われているボブ・マーリー博物館(US$20)がニュー・キングストン地区で開館しているので見学に行くことにした。

多くの来館者はモンテゴベイから1日かけてツアーでやって来ており、博物館自体はガイドによる案内で館内は写真撮影禁止となっている。この建物はアイランド・レコード社の社長の家でボブが亡くなるまでの6年間を妻と子供たちと生活した場所であるので寝室、キッチン、狙撃されたときの銃弾の跡などボブの生活が染み付いているのである。

ところで、レゲエとは1960年代にジャマイカで誕生した新しいジャンルの音楽でもともとあったアメリカのリズム&ブルースにアフリカ的なリズムを加えたアップテンポの「スカ」からちょっとスローダウンした「ロック・ステディ」を経てキングストンのスラム街であるトレンチ・タウンのルードボーイ(不良少年)によって完成されたものである。ボブも父を亡くした12歳でトレンチ・タウンに移り住み、そこで彼の音楽的な基礎が作られたようである。

尚、1時間のガイドツアーの内の最後の20分は視聴覚室でボブのDVDをじっくりと見せてくれるので、気に入れば隣のショップでCDやDVDを買って帰ることも出来るのである。

ボブ・マーリー博物館でレゲエの真髄に触れることが出来たので炎天下の中をホテルに戻り、プールのある中庭でしばしくつろぐことにした。何でも昨今のジャマイカでは小島よしおのリズムがレゲエに取り入れられているという噂を耳にしており、危険なダウンタウンやトレンチタウンに行けばその真相を解明できる可能性があるのだが、そんなの関係ね~と思っていたので終始安全なホテルでくつろぐことにしたのだ。

10月6日(土)

ジャマイカはスペインに支配された周辺のカリブ海諸国と異なり、英国連邦に加盟しているので公用語は英語であり、車は日本やイギリスと同じ右ハンドル、左側通行なので道行く車の多くは日本車である。治安が良くギャングの抗争に伴う銃撃戦に遭うリスクが少なければダウンタウンのスラム街に侵入し、ミヤネ屋が伝える上半身裸率の高い庶民の生活も垣間見ることが出来るのだが、今回はアップタウン周辺の散策にとどめることにした。

ジャマイカの民族構成の内90%以上はアフリカ系であるのだが、彼らは英国の統治時代にアフリカから連れてこられた奴隷の子孫である。よってその類まれなる身体能力はオリンピック100m、200mの金メダリストのウサイン・ボルトを頂点としたアスリートに引き継がれているのだ。そのボルトがネジ業界ではナットに相当するはずの共同経営者と開店しているレストランがキングストンにあると伺っていたのでネットで場所を調べて突撃することにした。

ボルト・ポーズをデザインに取り入れたTRACKS & RECORDS(http://www.tracksandrecords.com/)というレストランは幸いホテルから2km程しか離れていなかったのだが、夕食の時間帯に移動するのはリスクを伴うのでランチの時間を狙って来店することにした。店に入るとすぐボルトの叩き出した世界新記録のタイムが誇らしげに掲げられており、店内はスポーツバー風の装いであった。

この店はジャマイカ料理のレストランなのでローカルな食物であるザリガニの出汁をベースにしたジャンガスープとタラをすり身にしたフリッターを発注させていただいた。出汁が利いているジャンガスープは非常に美味だったのだが、フリッターは味が薄くマヨネーズをなすり付けて食うよりも醤油の方が相性がいいはずだと思ったのだが、何とか完食してボルトに仁義を切っておいたのだった。

昼過ぎにホテルに戻った途端に雲行きが怪しくなり、激しい雷雨が降り始めた。何ボルトに相当するのか想像はつかないが高電圧の雷がそこら中に轟音を立てて落ちている様で必然的に午後からの活動は制限されることになってしまったのだ。

10月7日(日)

正午前にWyndhamホテルをチェックアウトしてホテルの敷地で待機しているJUTAタクシーに乗り、キングストン国際空港へとひた走っていた。空港で出国審査を受ける際の審査官は偶然にも入国の際に遭遇したおばちゃんで「楽しめたか?」と聞かれたので大して出歩くことは出来なかったものの「楽しんできたぜ!」と見栄だけは張っておいた。

朝飯を食って来なかったので空港のコーヒーショップでブルーマウンテンコーヒーを軽飲し、ついでに粗挽きされたコーヒー豆も買っておいた。免税品かつ原産国でありながら、ブルーマウンテンコーヒーの価格は高く、227g入りの真空パックでJMD1995(日本円で約\1700)もしやがった。尚、日本が誇るUCCコーヒーはブルーマウンテンに自前のコーヒー農園を持っており、以前はガイドツアーも行われていたそうだが、現在は高値でコーヒー豆を日本に輸出することに専念しているようであった。

♪Love is the My~stery~ 私をよ~ぶのぉ~ 愛はミ~ステリ~ 不思議なち~からでぇ~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、14:30発BW063便は定刻通りに出発し、途中モンテゴベイを経由して3時間弱のフライトで1時間時計の進んだ午後6時過ぎにバハマ連邦の首都ナッソーに到着した。

ところで何故ナッソーくんだりまで来なければならなかった理由であるが、1984年5月1日にリリースされた名曲「北ウイング」を収録した中森明菜の6枚目のアルバムのタイトルが「ANNIVERSARY FROM NEW YORK AND NASSAU AKINA NAKAMORI 6TH ALBUM」となっており、ニューヨークはわかるが、当時の私にとってナッソーは謎であり、将来ナッソーに行くのはめっそ~もないと思っていたのだが、北ウイングを飛び立った中森明菜がやって来たのはニューヨークを経由してナッソーだったという定説が強まったため、私もナッソーに来なければならなくなったのだ。

何はともあれ、フロリダ半島の東数百km沖にあるバハマ諸島の中心ニュープロビデンス島のナッソー国際空港に降り立つとナッソーダウンタウンまで9kmと距離も手頃だったので徒歩で予約しておいたホテルに向かうことにした。歩いてみると思ったより距離感が感じられ、2時間経ってもダウンタウンにたどり着かず、挙げ句の果てに雷雨に見舞われ濡れ鼠になりながらagodaに予約させておいたNassau Junkanoo Resortにチェックインを果たしたのは午後10時近くになってしまったのだ。

10月8日(月)

早朝差し込んでくる光で目を覚まし、最上階である6階の部屋の窓越しから巨大なクルーズ船がゆっくりと入港する光景が目に入った。ナッソーはカリブ海クルーズの寄港地になっており、前夜マイアミを出た船が翌朝ナッソーに着くことになっているので毎日何らかの豪華客船の入港、出航の様子が見られるのだ。

ダウンタウンの目の前に広がるJunkanooビーチは白砂のビーチにエメラルドブルーの海の景色が美しく波も穏やかなので早朝から夕暮れ時まで海水浴を楽しむことが出来るカリブ海の天国と言えよう。

ダウンタウンのちょっとした高台を目指していると階段脇を流れる水が涼しげでコケに覆われたクイーンズ・ステアケイスに遭遇した。階段を上りきったところはフィンキャッスル砦($2)になっており、船の舳先のような形が印象的であった。この砦は1793年に造られたもので3つの大砲が海の彼方を狙ったまま残されている。

砦のとなりには水道塔がそびえており、以前はエレベーターで塔の頂上まで上がり、ナッソーの街全体を見渡すことが出来たのだが、残念ながら今は立ち入り禁止となっていた。

ナッソーの北にパラダイス・アイランドという細長い島が浮いており、リゾートの架け橋を渡って到達することができるので、その楽園ぶりがいかほどのものかこの目で確かめに行くことにした。

ナッソーのダウンタウンには大型のホテルが少ないこともあり、観光客のリゾートの拠点は主にパラダイス・アイランドか西に4km程離れたケーブル・ビーチとなっている。パラダイス・アイランドに立ち並ぶホテルは皆リッチでゴージャスなのだが、その最高峰に君臨するのがアトランティスというテーマパーク型リゾートホテルである。

アトランティスホテルの中庭にあるプールや魅惑のアトラクションは主に宿泊客専用となっているのだが、観光客から金を巻き上げるカジノはアクセスフリーになっているのでリゾート客の散財ぶりを冷やかしにカジノを通過してみたのだが、昼の時間帯だったためディーラーも暇を持て余していた。

さらにアトランティスの目の前には豪華クルーザーが停泊するハーバーがあり、その周辺はショッピングセンターになっていたのでこのホテルに宿泊していなくても充分リゾートのおこぼれに預かることが出来るのだ。

10月9日(火)

早朝目を覚ますと港にはすでに昨日とは違うクジラの尻尾が突き刺さったようなクルーズ船が停泊していた。クルーズ船の乗客は下船するとローソン・スクエアというコンビニはない小さな広場を通過しておのおの街に繰り出す日常となっている。

ローソン・スクエアの近くにストロー・マーケットという土産物屋のたまり場があり、観光客はここでストロー(やしの木の葉を裂いてよったもの)製品や木彫りの置物を物色したり、バハマ・ママたちと仁義なき値段交渉をして交渉力を鍛えようとしていた。

政府庁舎を有するパーリアメント・スクエアにはコロニアル風のピンクの建物が立ち並んでいるのだが、バハマにピンク色の建物が多いのはフラミンゴを国鳥とし、シンボルカラーとしてフラミンゴ色を採用しているからだ。

ダウンタウンの路地には個性的な土産物屋や飲食店も多く、海賊をモチーフにした人形がそこかしこで観光客の目を楽しませてくれるのだ。

カリブ海というと海賊を連想してしまうのだが、カリブ海に海賊がいたのは実話で1700年代前半にはナッソーに2000~3000人もの海賊が住んでいたという。海賊に関する知識についてはパイレーツ・オブ・ナッソーという博物館($12)で学習することが出来るので早速入場してみたのだが、館内には臨場感たっぷりの人形や模型がマサにディズニーランドのカリブの海賊のように配置されているのだ。

途中で地元の小学生ツアーに合流し、彼らは海賊に扮した荒くれ男の説明を要所要所の生返事を加えながら律儀に聞き入っていた。一通り説明が終わって中庭に出ると記念写真撮影タイムとなり、青少年少女たちは代わる代わる海賊のオブジェを背にしてポーズを取っていた。

フラミンゴ色の建造物はすでに充分堪能したので今度は本物のフラミンゴを見るためにオーダストラ・ガーデン&動物園($16)に入園することにした。園内はそんなに広くはないのだが、飼育されている動物は鳥類、爬虫類、哺乳類と非常にバラエティに富んでおり、観光客は手を消毒してインコに餌をあげることも出来るのだ。

ネコ科の動物もSERVAL、OCELOT、JAGUARと取り揃えられており、それらが狭い檻の中をアクティブにのし歩く様子も間近にすることが出来たのだった。

ここでの最大のイベントは1日3回行われるフラミンゴのショーでフラミンゴ・アリーナに訓練されたカリビアン・フラミンゴを寄せ集め、アリーナ内を行進させるのと観光客に一本足のポーズを取らせてフラミンゴと記念写真を撮ることであった。

午後4時過ぎから海に入って波に揺られていたのだが、常夏と思われるバハマ諸島でも12月~3月の冬季には気温が下がるため、ビーチでくつろげるのは11月くらいまでかも知れないのだ。

10月10日(水)

Energy Surchargeと称してagodaに事前に支払っている宿泊料とは別に3泊分で$46.5を払わされたNassau Junkanoo Resortをチェックアウトすると沿岸部を走るバスに乗って空港まで2km程の距離のオレンジヒルビーチに移動し、そこから徒歩で空港まで向かった。歩いている途中で何故中森明菜がアルバムのレコーディングの地としてナッソーを選んだのか考えていたのだが、それは単に来たかっただけだろうという結論に至った。

ナッソー国際空港の米国行きのターミナルは他の国行きとは離れており、アメリカへの入国手続きもナッソー国際空港で行われるという離れ業が演じられていた。バハマ連邦はジャマイカと同じく英連邦加盟の国であるのだが、これではまるでアメリカの植民地ではないかと思われたのだった。何はともあれ12:40発のUA1462便に乗り込むと約3時間でニューアーク・リバティ空港に到着した。空港から列車と地下鉄を乗り継いでニューヨークでの定宿となってしまったHoward Johnson Bronxの最寄駅まで移動し、チェックイン後すぐにヤンキースタジアムに向かった。

マサよ、君はMLBのポストシーズンの試合を現場で見てサヨナラ勝ちの瞬間に見知らぬヤンキースファンとハイタッチを交わしたことがあるか!?

というわけで、アメリカン・リーグのディビジョン・シリーズであるボルチモア・オリオールズとニューヨーク・ヤンキースの戦いはすでにオリオールズの本拠地で1勝1敗となっており、第3戦はヤンキー・スタジアムでの初戦であったので試合前に選手紹介等のセレモニーが賑々しく行われていた。

試合はエース黒田の好投にもかかわらず、2対1とヤンキースがリードされて9回の裏を迎えた。4打席目のイチローがレフトライナーに倒れた後、度重なるチャンスに凡退を繰り返し、ヤンキースファンから辛辣なブーイングを浴びていた3番アレックス・ロドリゲスについに代打が出され、「Rauuuuu~L」の声援とともに勝負強いラウル・イバネスが打席に立った。イバネスが振り抜いた打球はライナーとなって右中間スタンドに突き刺さり、ついにヤンキースはスコアを振り出しに戻したのだった。

試合の方は延長戦に突入し、大歓声とともに12回の裏に先頭打者として打席に立ったイバネスが振り切った打球は大きな弧を描いてライトスタンドに舞い降りた。その瞬間にヤンキースタジアム全体に驚喜の嵐が吹き荒れ、観客は誰彼構わず隣近所同士でハイタッチを繰り返し、勝利の喜びを分かち合っていた。

10月11日(木)

昨日のヤンキースタジアムでの喧騒をひきずりながら入浴して身を清め、Howard Johnson Bronxをチェックアウトすると地下鉄でのんびりとJFK国際空港に向かっていた。12:30発NH009便は20分程の遅れを出したものの、眠れない機内で映画を3本ほど鑑賞しながら14時間近くのフライト時間をやり過ごしていた。

10月12日(金)

午後3時過ぎに成田空港に到着すると、実は間違って翌日の試合のチケットも購入していたため、ヤンキースタジアムに魂は残してきたと思いながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \127,140、Caribbean Airlines = $370.91、ユナイテッド航空 = \15,870

総宿泊費 \75,500

総ナッソーホテルEnergy Surcharge $46.5

総ニューヨークAirTrain、地下鉄代 $55

総ジャマイカタクシー代 $56

総ナッソーバス代 $1.5

協力

ANA、Caribbean Airlines、ユナイテッド航空、hotels.com、agoda、Ticketmaster.com

FTBアメリカ先住民の足跡を追うグランドサークルツアー in 2010

ちょっちゅね~ マサよ!

ということで、夏の高校野球の決勝戦を制したのは沖縄県勢では夏初優勝で、しかも具志堅用高をOBに要する興南高校であったのだが、その相手である東海大相模は巨人軍の原辰徳監督の影を色濃く残している。かつて東海大学という存在を知らなかった私は東海にある大魔神のような大相模高校のイメージしか持ち合わせていなかったのだが、その当時の純粋な心を取り戻すためにアメリカ大陸原住民が今も生き続けるグランドサークルを回らなければならなくなったのだ。尚、このツアーが開催されるきっかけは裏の仕事の日本代表として参加を要請されているミーティングに他ならないのだった。

2010年8月21日(土)

NH008便で恒例のビジネスクラスへのアップグレードを勝ち得ると快適な空の旅で午前10時過ぎにサンフランシスコに到着した。引き続きUA753便に乗り込み、午後4時過ぎにデンバーに到着するとそそくさとHilton Garden Inn Denver Airport Hotelに引き籠って時差ボケの解消に努めていた。

8月22日(日)

デンバー空港より午前8時11分発のUA6940便に乗り込み、約1時間程飛行してコロラド州の南西部であり、コロラド、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコ各州の州境が一点に交わるフォー・コーナーズに程近いDurangoという町に降り立った。早速ハーツでフォルクスワーゲン・ジェッタをレンタルするとアメリカ先住民の足跡を追うツアーの幕があいた。

アメリカの国立公園の中にはいくつかユネスコの世界自然遺産に指定されているものもあるのだが、今回訪れるメサベルデは唯一の自然遺産以外の国立公園であり、1978年にすでに世界遺産に登録されている由緒正しい遺跡なのである。まずはゲートで入園料($15/car)を支払い、急な登り坂を上ると緑のテーブルと呼ばれる独特の地形を見渡せるビューポイントからロッキー山脈の一部を形成する広大な眺望を楽しませていただいた。

メサベルデの最大の見どころはアナサジと呼ばれるアメリカ先住民のコミュニティが形成されていた遺跡群であり、その中の代表的なものはガイドを伴ったツアーでしか行くことが出来ないので、公園の中心にあるFar Viewビジターセンターで最大の遺跡であるクリフ・パレス・ツアー($5)に参加することにした。

Far Viewビジターセンターから南に向かって20分程車を転がし、クリフ・パレス・ツアーでレンジャーと待ち合わせをすることになっているポイントに到着した。崖の上からはすでにクリフ・パレスの眺望が開けており、前の組のツアー客が車座になってレンジャーの話に耳を傾けている様子が確認された。

切り立った崖がオーバーハングしている窪地に217室の部屋、4階建てに相当する高い壁を擁しているクリフ・パレスは当時の豪華マンションといった風情がある遺跡であるが、キバ(Kiva)という儀式が行われていたはずの部屋の痕跡も数多く残されており、自然の脅威に対してなすすべのなかったアナサジはここで雨乞いや豊作の祈願をしていたものと考えられている。

クリフ・パレスから同じくレンジャーの引率でしか行くことの出来ないバルコニー・ハウスを過ぎ、メサベルデで発掘された数々の品が展示されている博物館に到着した。ここではアナサジの人々の生活、文化、習慣などを学習することが出来るジオラマが印象的でアナサジが穴をサジで掘っているかのような生活の様子が生き生きと伝わってくるのであった。

レンジャーの引率ではなく、Self Guided Tourと言って自分勝手に見て回ることの出来る見所の中ではスプルースツリー・ハウスがもっとも保存状態のよい遺跡であった。ここには8つのキバと114の部屋があり、西暦1200年の現役当時には100人以上の大所帯を誇っていたそうだ。

緑の生い茂るキャニオンの眺望と遺跡のコントラストを眺めながら、ゆっくりと車を転がしているとサンテンプルという台地の上に造られている大きめのファシリティに到着した。ここでは何がしかの儀式が行われていたことは間違いないのであろうが、対岸にはクリフ・パレスのすばらしい眺望が広がっているのだった。尚、高度な文明を持ち繁栄していたアナサジであったのだが、約700年後にはサジを投げるように忽然と姿を消してしまったそうだ。しかも白人がアメリカ大陸に到着するはるか以前の出来事であったという。

アナサジが活躍していた時代から大急ぎでページをめくるようにメサベルデを後にして、西に向かって3時間程車を転がすとペイジというレイク・パウエルのゲートシティに到着した。Priority Clubのポイントが余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Expressホテルにチェックインすると翌日のウォーターアクティビティに思いを巡らせながら長い夜を過ごしていた。

8月23日(月)

グランドキャニオンの上流に94もの峡谷が複雑に入り組んだ場所があり、そこはグレンキャニオン国立レクリエーションエリア($15)に指定されている。その乾いた風景の中でコロラド川をせき止めてダムが造られ、世界で2番目に大きな人造湖レイク・パウエルが誕生しているので見物をぶちかますことにした。

ペイジからUS89号線を進み、コロラド川をまたいでいるグレンキャニオンブリッジを渡ると右手にグレンキャニオン・ダムのビジターセンターであるCarl Hayden Visitor Centerが開業していたのでダム建造の背景を学習するために入ってみることにした。巨大なレイク・パウエルを出現させたダムは高さ216m、幅475mで1956~64年にかけて建設された。コロラド川の下流にあるフーバー・ダムより多少サイズは小さいもののグレンキャニオンという特異な景観に見事にマッチしており、レイク・パウエルを満水にするのに17年もの歳月をかけやがったそうだ。

ビジターセンターでは30分毎にダムの設備を見学するツアー($5)が催行されているので参加させていただくことにした。エレベーターでダムの内部に下りると摂氏15℃程度の冷たい空気が流れている。これはダムに満たされている水の表面温度は高いのだが、水深が深くなるほど水温が下がるため、自然のエアーコンディショナーが効いているためである。水力発電のファシリティは8基のGE製のジェネレーターが稼動しており、近隣の州に十分な電力を供給している実態を確認することが出来た。

レイク・パウエル観光の中心地ワーウィーブ・マリーナにLake Powel Resortが展開されており、そこでレインボー・ブリッジまで行って帰ってくるRainbow Bridge Cruise ($121.25)が開催されているので参加することにした。尚、レイク・パウエルはアメリカ西部におけるウォーターアクティビティのメッカであり、ここでの足は船しかないのでCruiseの価格は比較的高めに設定されやがっているのだ。

Cruiesは午後12時30分にスタートし、観光客はリゾート裏手のドックからCANYON ODYSSEYと名乗る船に乗り込むと「水をたたえたグランドキャニオン」との異名を取る迫力の景観が次々に出現し、皆思い思いにデジカメのシャッターを切りまくっていた。

レイク・パウエルの水位は全盛時よりも多少落ちている様子で満水時の水位は岩の変色部により容易に確認出来るようになっていた。尚、この湖の長さは約300km(東京-名古屋間に相当)もあり、その不思議な景観は「猿の惑星」等数々のSF映画の舞台となっているのだ。

マサよ、君は織田裕二率いる「踊る大捜査線」さえ封鎖することが出来ない巨大なレインボー・ブリッジがレイク・パウエルの奥地にひっそりと佇んでいる実態を確認したことがあるか!?

ということで、ユタ州にはアーチやブリッジと呼ばれる「穴のあいた巨岩」がたくさんあるのだが、レインボー・ブリッジはその完璧な形状や大きさからナンバーワンに位置づけされている。船はいつのまにか狭い入り江を縫うように航行しており、左右には巨大な岩が目前に迫ってきていた。

巨岩の間にレインボー・ブリッジと観光客との橋渡しの役目を担う桟橋が設置されているので船はそこに横付けされた。観光客は「事件は会議室で起こっているのではない!」という勢いで下船すると先を急ぐように現場へと向かっていった。ついに、「織田裕二が来た~~~!」という心の絶叫とともに山本高広の凋落とは対象的な巨大な虹が目の前に現れたのだ。

レインボー・ブリッジは世界最大のナチュラル・ブリッジでその高さは88m、差し渡し84mでお台場にかかっているまがい物と比べても決してひけをとることのない代物である。また、この地の先住民ナバホの言い伝えによると「虹が固まって石になってしまったものだ」と言われ、非常に神聖視されているので高い金を払ってここまで来た観光客でさえ、橋のたもとに近づくことは許されないのだ。

レインボー・ブリッジが湾岸署ではなく、ナバホに封鎖されている実態が確認出来たので船に戻り、いかりや長介の怒りはいかにと考えながらさらに2時間程の航海を経て午後6時頃に船はLake Powel Resortにいかりを降ろしたのであった。

レイク・パウエルのゲートシティであるペイジを後にしてナバホの居留地を疾走し、午後8時過ぎにKayentaの町に到着した。Priority Clubのポイントがまだ余っていたのでマサであれば$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHoliday Inn Monument Valleyにチェックインするとナバホ居留地ではアルコールの販売が禁止されているという衝撃の事実に直面して不貞寝を決め込むことにした。

8月24日(火)

日の出前にホテルを抜け出し、月明かりの残る暗い道をひたすら疾走した。月が西に落ち、東の空が徐々に明るくなってくると遠くに幻想的なシルエットが浮かび上がってきた。車は「アメリカの原風景」とも言われる西部劇の舞台にいつの間にか吸い込まれて行ってしまっていた。

午前6時過ぎにモニュメントバレー($5)のゲートをくぐり、10年ぶり(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2000gc.html)にこの地を訪れたのだが、今ではリゾートホテルやビジターセンターが充実した一流観光地に成り上がっており、宿泊客が思い思いにサンライズの景色を楽しんでいた。

真夏の太陽が上り、幻想から現実に引き戻されたので一旦ホテルに戻り、チェックアウト後にナバホの歴史を思い知るためにNavajo National Monumentに向かった。ビジターセンターの内部では原住おばちゃんが手工芸品の機織にいそしんでいたのだが、写真を撮るためには$5払いやがれという看板があり、現実の厳しさを思い知らされたので裏手のキャニオンのトレイルにエスケープすることにした。0.62マイルのSandal Trailの終点はベタテキン(BETATAKIN)展望台となっており、そこからナバホが建築した岩棚の家を見下ろすことが出来たのだった。

再びモニュメントバレーに戻る道すがら、真直ぐな一本道の向こうに立ちはだかるビュート(残丘)やメサ(テーブル上台地)を目指しているとアリゾナ州とユタ州の州境に差し掛かった。モニュメントバレーはマサにユタとアリゾナをまたいでおり、ゆったりと時間が流れているユタと夏時間を採用していないアリゾナとは1時間の時差があるはずなのにアリゾナであってもナバホ居留地だけは夏時間を採用して帳尻を合わせているのだ。

午前11時前に再びモニュメントバレー、正式名称”Monument Valley Navajo Tribal Park”のゲートを通過し、園内に戻ってくると駐車場にはおびただしい数の車やバスが満ち溢れていた。またバレーツアーを催行するためのバンもたくさん待機しており、増加する観光客需要に十分応えているようであった。

バレーツアーは1.5時間ツアーと2.5時間ツアーの2種類があるのだが、今回は園内の奥地まで侵入する2.5時間のツアー($70.-)に参加させていただくことにした。ガイドのベニーが運転する4WDのバンはWest Mitten、East Mittenに見送られるように急な坂道のオフロードを転がるように荒野へと下り、ツアーの火蓋が切って落とされた。

「荒野の決闘」の第一弾は名匠ジョン・フォードがしばしばカメラをセットした彼のお気に入りの地点であるJohn Ford’s Pointであった。この場所にはジョン・ウェインに扮したえせカウボーイが常駐しており、観光客からチップを巻き上げながら自ら絶好の被写体となっていた。また、スリー・シスターズを見上げるこのポイントには数件の土産物屋が出店しており、手作りアクセサリーの販売によるナバホの貴重な収入源となっていた。

バレーは奥地に進むにつれて荒野から緑の台地に変貌を遂げ、ところどころには豪雨によるものであろう水溜りも形成されていた。陽気に手を振る乗馬ツアーの集団とすれ違ったかと思うと騎手のいない半野生化した馬の集団にも遭遇し、あたかも映画のワンシーンが提供されているかのようでもあったのだ。

厳しい自然環境の中で生き抜いてきたアナサジが描いた下手な絵をチラ見して長年の風雨によってくり抜かれたEAR-OF-THE-WINDで猛烈な暑さの中で風の音に耳を傾けた後、BIG HOGANに向かった。ホーガンはナバホの人々が居住する粘土で作ったお椀型の住居であるが、自然の産物であるBIG HOGANを下から見上げるとコンドルの横顔に見え、不思議な感覚を覚えるのだった。

バレーツアーもクライマックスを迎え、モニュメントバレーのシンボルとも言えるトーテムポールのビューポイントにたどり着き、中指を天に突き上げるように人間として一本筋を通していただいた。締めはThe Thumbを見上げながら親指でOKサインをいただくとモニュメントバレーに別れを告げ、コロラド州への帰路に着いたのだった。

8月25日(水)

久しぶりにお金を払って宿泊したHoliday Inn DurangoをチェックアウトするとUA6837便にてDenverに戻り、裏の仕事へ・・・

8月27日(金)

Hilton Fort Collinsホテルで実施された裏の仕事のミーティングもつつがなく終了し、今夜はコロラド・ロッキーズの試合を見に行くというイベントに参加することと相成った。通常であれば私の先導の下での野球観戦となるのだが、今回は会社が手配した観光バスに乗ってCoors Fieldへと向かった。Corporateや団体のPartyのために手配されるはずのSummit Party Suiteに陣取ったのだが、そこにはフルコース系のディナーが用意されており、ステーキの肉はホテルで供給されるものよりもさらに柔らかく高級感があったのだった。

8月28日(土)

ミーティングのオプションとしてTeam Buildingのアクティビティに参加しなければならなかったのでロッキー山脈の山麓に位置するSylvan Dale Ranchという牧場まで繰り出すこととなった。参加メンバーは乗馬とフライフィッシングの組に分かれることになるのだが、武豊なみの才能を持つはずの私であったが、今回はG1ではなかったのでフライフィッシングをやることにした。

釣り場は近くの川から水を引き込んだ狭い池で最初にインストラクターによるフライフィッシングのレクチャーが行われた。そのおかげで100回程シャドー・キャスティングをやる羽目になり、参加者は皆肩の痛みをこらえながら釣りを楽しむことと成った。しかし、あいにく水温が高すぎてコンディションが悪く、通常であれば松方弘樹のマグロなみの大物を釣り上げるところであったのだが、本日の釣果は中国人が引っ掛けた死亡したマス1尾のみであったのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 $387.40

総宿泊費 $266.32

総レンタカー代 $128.11

総ガソリン代 $68.5

総Glen Canyon Damツアー代 $5.00

総Lake Powell Boat Tours代 $109.00

総Monument Valley 2.5時間ツアー代 $70.00

協力

ANA、United航空、ハーツレンタカー、Priority Club、HiltonHHonors

FTB発掘あるあるインカ帝国調査イインカイツアー(捏造なし!)

FTBではこれまでマヤ文明、アステカ文明、エジプト文明等数々の古代文明の謎を解明してきたが、今回はインカ帝国調査委員会を立ち上げ、捏造ではない本物の謎の究明に立ち向かうため、ペルーへと旅立つことにしたのである。

2007年8月11日(土)

盆、暮れの繁忙期にはエコノミークラスが満席となるため必ずビジネスクラスにアップグレードしていただけるNH8便サンフランシスコ行きに乗り込むと追い風にうまく乗り切れないため1時間の遅れを出しながら午前11時にやっとのことで地元サンフランシスコに到着した。早速BARTでバ~とダウンタウンに滑り込むとその足でサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地であるAT&Tパークに向かった。

今回のMLB観戦のハイライトはスーパースター、バリー・ボンズの756号ホームランボールの争奪戦に勝利し、そのボールを福岡に持ち帰り王監督のサインをもらってe-Bayに出品し、高値で売り抜ける予定であったが、すでに兵どもが夢のあと状態だったため、何の変哲もない野球観戦に成り下がってしまっていた。桑田が桑わっ田ピッツバーグ・パイレーツとの試合は午後12時50分にプレーボールとなったのだが、私が見たかった出来事であるボンズのホームラン(758号)と桑田の登板はすでに昨日の出来事となってしまっており、今日はボンズは休養日で大量リードで勝利したパイレーツは桑田を出す機会がなく、唯一の見所は過去の遺物となった投手が捕手のサインを覗き込む時の「パイレーツだっちゅ~の」のポーズだけであった。

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野球観戦終了後、次のフライトまでの空き時間を潰すべく、$5に値上されているケーブルカーには乗らずにその横を歩きながらダウンタウンの観光を実行することにした。夏休みの観光スポットはどこも家族連れで賑わっており、ケーブルカー乗り場には長蛇の列が出来ており、観光客は箱乗り状態でアップ・ダウンを楽しんでいた。

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8月12日(日)

思わず相方のトシに「欧米か?」と突っ込まれそうになるタカ・ペルー航空が運航する午前1時20分発TA561便にチェックインする際に目的地は「南米か?」と聞かれたのでペルーのリマだと答えておいた。4時間以上のフライトで中米エル・サルバドルの首都サン・サルバドルに到着し、この空港で5時間近くを座り心地の悪い椅子の上で不貞寝をしてやり過ごし、さらに5時間以上のフライトでリマのホルへ・チャべス国際空港に到着したのは夕方の6時半過ぎであった。何故か手元にあったユーロを現地通貨であるソルに両替した後、本日の宿泊地であり、セントロに位置するシェラトンホテルまでの交通機関を探していると日本の三井物産が経営しているMITSU TAXIに捕まってしまったので仕方なく、相場より高いUS$27を支払って実車することにした。ホテルまでの道すがら、私を上客だと判定した運転手から巧みな営業を仕掛けられ、今後空港までの行き来に関してはすべてMITSU TAXIをチャーターすることになってしまった。

8月13日(月)

STAR WOODSのポイントが余っていたため、マサであればUS$100以上かかるところを私はただで宿泊することが出来たシェラトンホテルをチェックアウトすると、早朝7時に迎えに来たMITSU TAXIに乗り込み、昨日着いたばかりの空港に舞い戻った。リマ ⇔ クスコ間のフライトは多くの航空会社が参入し、競争が激しくなっているのだが、その中の代表的なエアーラインであるアエロ・コンドルを選択しようとしたところ「混ンドル!」と拒否されるのを恐れてWEBから容易に予約の出来たSTAR PERUの1117便に搭乗し、午前9時15分にリマをコンドルのように飛び立った。上空から下界を見下ろすと茶色い不毛の大地が果てしなく広がっており、起伏に富んだアンデスの遠景を鳥瞰することに成功した。

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午前11時前に標高3,399mのクスコ空港に着陸し、空港外でラジオタクシーを捕まえると翌日に控えたマチュピチュ行きの列車のチケットを現地手配すべく、ワンチャック駅へ向かった。南米独特のスローサービスにより、何人もの旅行者がチケット購入待ち状態になっていたのだが、皆文句も言わずに待合室でインカ帝国探訪に思いを馳せており、怒りの火花が導線に引火することもなかったのだ。

駅到着1時間後に何とかチケットの購入に成功すると念願の古都クスコ(世界文化遺産)の散策に乗り出すこととなった。クスコはかつて北はコロンビアから南はチリ北部まで、南北4,000kmもの地域を支配していた南米最大の王国、インカ帝国の首都であった。1534年にスペイン軍の侵攻を受けると町は崩壊したのだが、新たに精巧なインカの石組みを基盤としたスペイン風の街並みが建造されたのだ。その代表的な建造物としてサント・ドミンゴ教会(S/.6)がインカの石組みに支えられた状態で今なお堅牢さを誇っているので手始めに見学させていただくことにした。ここはインカ時代にはコリンカチャ=太陽の神殿として君臨し、内部は眩いばかりの金で装飾が施されていたのだが、黄金に目がくらんだスペイン人がすべて略奪し、延べ棒に変換して本国に送信してしまったのだ。しかし、黄金がなくなった今もその美しい石組みは健在でインカの建材加工の精密さを長きにわたって伝承しているのだ。

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200mも続く石組みが残るロレト通りを歩いていると高地での酸素不足からろれつが回ってないのを感じながらも何とかクスコの中心であるアルマス広場に到着した。スペイン式町造りは中心にアルマス広場をおくことから始まるのであるが、偶然にもインカ帝国の町造りも広場が中心だった。ここは広場を見下ろすカテドラルをはじめ、レストラン、旅行会社、土産物屋に囲まれた最大の観光拠点となっている。

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髭剃りメーカーのジレットがじれったく感じる「カミソリの刃1枚すら通さない」と言われるインカの石材建築を象徴する物件として宗教芸術博物館があり、その建物を支える礎石として12角の石が有名である。通常の石組みであれば4角形で十分なのだが、あえて難度が高い多角形に挑戦し、ピッタリと寸分の隙間もなく、しかも接合剤も使わずに組み上げ、数度の地震を乗り越えながら何百年もの間ビクともしていない様子は日本の城郭を支える石垣とは趣の異なる美意識を感じさせる代物である。尚、12角の石よりも小ぶりであるが、近辺に14角の石もひっそりと佇んでいるのだ。

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夕暮れ時にアルマス広場に立ちふさがるカテドラル(S/.16)に侵入した。この物件はインカ時代のピラコチャ神殿の跡に建造されたもので、1550年に建築が始まって完成したのは100年後と言われている。内部にはトポシの銀300トンを使ったメインの祭壇が鎮座しており、約400ある宗教画の中ではクスコ名物のクイ(テンジクネズミ)が盛られてある「最後の晩餐」が目を引いた。

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マサよ、君は空気が薄くて寝苦しい夜を過ごしたことがあるか!?

楽天トラベルに予約させておいたSan Agustin Plazaホテルの予約が通っていないという危機に直面したため、系列のSan Agustin Internationalと交渉し、新たにディールを成立させて宿泊したその夜は高地に位置するクスコの空気が薄いため、呼吸困難を経て意識不明状態に陥り、見事睡眠状態を達成するという荒業が完成されたのだった。

8月14日(火)

午前5時前に何とか蘇生し、5時より供されている朝飯を食ってホテルをチェックアウトし、マチュピチュ行きの列車が発着するサン・ペドロ駅に向かった。クスコからマチュピチュへは鉄道でアクセスするのが一般的になっており、通常早朝に数本の列車が出るのみである。午前6時15分に発車したビスタドームと呼ばれるパノラマ列車内ではペルーの旅行会社であるミッキーツアーの日本語をしゃべるペルー人のツアーガイドに席が進行方向ではないと文句を言っている日本人観光客の愚痴と隙間風のように入り込んでくるディーゼルの排気ガス以外は快適な環境が提供されていた。4,000m超の山を越えるため、3回のスイッチバックを繰り返しながら列車はゆっくりとクスコの街並みを見下ろすように進み、その後車窓は次々にとうもろこし畑、アンデスの雪山、マチュピチュ近辺のジャングルといったものを映し出していった。

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わずか114kmの距離を4時間以上かけてマチュピチュ村にあるアグアス・カリエンテス駅に10時半頃到着し、観光案内所でマチュピチュの入場券(S/.120.50)を購入するとシャトルバス(US$6)に乗り込みつづら折の未舗装道路を30分くらいかけてマチュピチュの入り口に登りついた。インカ帝国を語る上で数々のテレビ番組で「空中都市」、あるいは「失われた都市」として取り上げられているマチュピチュ(世界文化自然複合遺産)は15世紀前半、スペイン軍によるインカの都市の破壊を免れるために標高2400mに造られており、無傷のままインカ帝国滅亡から400年近くを経過した1911年にハイラム・ビンガムに発見されたのだ。

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午前11時過ぎより早速マチュピチュの謎の解明に取り掛かることにしたのだが、手始めにマチュピチュの背後にそびえる峰であるワイナピチュに登頂することにした。ワイナピチュへの入山は一日400人に限定されており、何とか400番目の入山権利を首尾よく入手すると断崖絶壁で急勾配の道をピチュピチュと汗を滴らせながら進むトレッキングをスタートさせた。眩い太陽の下、過酷な坂道を40分ほど登ると、頭上にインカの遺跡が見えてきた。さらに岩の下に空いた洞窟を抜けると頂上に到達し、巨大な岩の上で多くの観光客がマチュピチュの遠景や周囲の山々を覆うジャングルの景色に見入っていた。頂上からマチュピチュを見下ろすと遺跡が尾根にあるのがよくわかり、そこに到達するためのシャトルバスの路線がつづら折状に山間に美しくつづられているかのようだった。

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ワイナピチュから滑落することなく来た道を逆方向にチュピチュピと下山することに成功したので遺跡の隅々を隈なく調査することにした。マチュピチュの食生活を支えるために重要な役割を果たしていた段々畑が大きなスケールで広がっており、遺跡の中心部には石を削って造られた水路が張り巡らされ、きれいな山水が流れていた。また、遺跡の中央には太陽の神殿が君臨しており、石で描かれた美しい曲線が目を引いた。神殿の下は陵墓になっており、ミイラの安置所だったと思われる。

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マチュピチュの最高点にインティワナと言われる高さ1.8mの日時計が時を刻んでいる。その眼下には糸のように細いウルバンバ川とめまいをおこしそうな絶壁が見下ろせる。高台に沿って神聖な広場と3つの窓の神殿を抜け、市街地を通り過ぎ、最も定番のマチュピチュの風景が撮影できるポイントである見張り小屋に登った。記念写真の順番待ちをする観光客の合間を縫って風景を撮影していると飼いならされているリャマの集団に遭遇し、砂浴びの砂嵐を見舞われてしまった。

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マチュピチュを発見したアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムの名を冠したバス道ではなく、下山道はジャングルを切り開いた階段道を選択し、1時間ほどで麓のマチュピチュ村に帰った来た。ミッキーツアーによる日本人観光客に占拠されているHOSTAL ELSANTURIOにチェックインした後、村の散策に乗り出すことにした。村長の多忙さを尊重して面会は申し込まなかったものの、村内にはインターネットカフェやトレッキングで疲れた肉体を癒すためのマッサージ屋、さらにはアンデアンスパという温泉まで沸いているのだ。

8月15日(水)

早朝よりバスに乗り、再びハイラムビンガムロードをくねくねとドライブし、マチュピチュの入り口に到着した。ここで直面した衝撃の事実は大金をはたいたにもかかわらず、入場チケットは有効期間は3日であるが、1回入場すると無効になるという事実が私の理解しないスペイン語で書かれているということであった! やむなく空中都市から地上に舞い戻ると列車の時間を変更してもらい、9時15分発のオリャンタイタンボ行きのバックパッカー列車に乗車した。

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6000m級の山々に囲まれたインカの聖なる谷のほぼ中心に位置するオリャンタイタンボ(S/.70=周遊チケット)はインカ帝国時代の宿とも要塞跡ともいわれており、300段の階段に沿ってタンボの代わりに段々畑が斜度45度の斜面に造られている。300段の階段を登りつめると広場に出た。広場の周辺には恒例のインカの石組みが続き、中央には6個の巨石を並べた不思議な建造物が残っている。一説によると太陽の神殿の作りかけではないかと言われているが、いずれにしてもこの急斜面をどうやって持ち上げたのか謎は残ったままである。

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オリャンタイタンボで乗り合いタクシーに乗りあって午後5時くらいにクスコに戻ってきた。街中では何らかのフェスティバル&カーニバル系の催し物に遭遇し、原住民ギャルが脚線美を見せ付けるように踊り狂っていた。夕暮れ時にクスコの市街を見下ろせる高台にあるサン・クリストバル教会に息を切らせて駆け上がり、たそがれる夕暮れの風景にインカ帝国への思いを馳せることにした。

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アルマス広場に戻り、民芸品を売りつけようとするアンデスの民の攻撃を避けながら、日本食堂であるKINTAROに非難し、マスの塩焼きを食っていると熊と相撲を取ったときのような振動を感じて思わず店員と顔を見合わせてしまった。これが何百人もの命を奪った大地震であることをその時点では知る由もなかったのだった。

8月16日(木)

早朝7時30分発のSTAR PERU航空でリマに戻り、待ち構えていたMITSU TAXIでダウンタウンに向かい、かつてフジモリが仕切っていたペルーの心臓部への侵入を果たした。1535年の建設以来、、南米におけるスペイン植民地の中心として栄えたリマは今では旧市街のセントロと新市街のミラフローレンス地区に分かれているのだが、まず手始めに世界文化遺産に登録されているセントロの中心であるアルマス広場を訪問した。

アルマス広場の正面に堂々とそびえているカテドラルはコンキスタドール(征服者)の総督フランシスコ・ピサロにより」礎石が置かれ、リマ建設と同時に建立されたものだ。その脇には1587年建造のペルー政庁が構えており、毎日正午を迎えると衛兵交代式が行われるので話の種に軽く見学させていただいた。

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旧市街で最も美しいと言われるサン・フランシスコ教会・修道院に宗教博物館(S/.5)が開館していたのでスペイン語のガイドツアーに便乗させていただくことにした。丁度現地在住であると思われる日本人のおじいちゃんを訪問した家族集団と一緒だったのでおじいちゃんの中途半端な解説を聞きながらのツアーとなった。ここでの最大の見所は地下にある墓地カタコンベである。天井の低い暗い地下室には長方形の囲いの中に人間の手足の骨が詰め込まれ、さらに奥にある大きな穴の中にはドクロが渦状にまるで芸術品のように並べられているのだ。

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セントロのアルマス広場とサン・マルティン広場を結ぶラ・ウニオン通りを通っているとどこぞの国のTV局の取材クルーが地震被害の取材を行っている様子でガラスが軽く割れているビルは立ち入り禁止の黄色いテープが施されていた。

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すでにリマでの定宿となった旧市街のはずれに位置するシェラトンホテルから新市街へのシャトルバンが出ているので便乗してミラフローレンス沿岸沿いにあるラルコ・マルというショッピングモール、ダイニング、エンタメ系の複合ファシリティにたどり着いた。ラルコ・マルの展望台からは太平洋が一望出来、そこから徒歩10分位のところに位置する恋人達の公園という海岸公園には日本柔道協会が公認しそうなケサ固めによる押さえ込みのモニュメントが置かれていた。

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8月17日(金)

早朝より再びアルマス広場を訪れ、2001年に破綻したフジモリ政権に別れを告げると、ホテルに迎えに来たMISTU TAXIに乗り込み、空港への帰途に着いた。尚、今回の地震で最大の被害を受けたイカ州はナスカの地上絵の観光拠点となっている場所で今回は予定していなかったのが幸いした。もしイカにいた時に地震に遭遇していたら崩壊したビルの下敷きとなり数日後にスルメの状態になって発見されていたかも知れない。

リマのホルへ・チャべス空港からTACA PERU航空に乗り、再びサン・サルバドルを経由してサン・フランシスコに帰る機内で黄色い液体であるインカコーラを痛飲しながら、ペルー人にイイン加減な奴だと思われることなく帰路に着いた。

8月18日(土)

サン・フランシスコよりNH7便に搭乗し、機上の人となる。正露丸を飲みながら乗務している気分の悪そうなスチュワーデスがいたが、救いの手を差し伸べることが出来なかった。

8月19日(日)

ペルーで地震が起こった時には無事帰国出来るかどうか自信がなかったが、何とか成田空港に到着し、そのまま流れ解散。しかし、むしろこの地震を理由に会社には帰国出来なくなった旨を伝え、ボランティア活動に移行すべきではなかったかとも思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥207,290、TACA航空(UNITED) = ¥96,690、STAR PERU = US$209.44

総ペルー空港使用料 US$42.5

総宿泊費  S/.1,007.16、US$99.96、¥6,000

総BART代  US$10.3

総MITSU TAXI代  US$108

総ペルータクシー代  S/.20

総PERU RAIL代  US$96.5

総マチュピチュシャトルバス代  US$12

総サンフランシスコタクシー代 US$16

協力 ANA、TACA航空、STAR PERU航空、STAR WOODS、MITSU TAXI、PERU Rail