シン・FTB ベトナム フーコックのかぜ

♪It’s so easy 走りだせよ! Easy to be happy. 風の青さを~ 抱きしめて 荒野へとまっすぐに オ~イエ~♪

というわけで1週間くらい前から♪かぜを感じて♪おり、発熱はしていないものの日々の筋トレ、体幹トレーニングで鍛えぬいた箇所に沿って筋肉痛が進行し、その後喉の奥底にからみつく緑黄色社会系のしつこい痰に悩まされていた。

症状も改善に向かっていたのでベトナム南部の離島で♪Easy to be happy 振り切って♪と歌えば完治するだろうと高をくくってかねてより計画しておいたフーコック島に向かうこととした。

2023年11月22日(水)
19:15成田発NH833便ホーチミン行きは定刻通りに出発し、7時間以上のフライトで2時間の時差を超えて日付が変わる前にはタンソンニャット国際空港に到着した。深夜にもかかわらず入国審査待ちの長蛇の列を見ながらここでも旺盛な旅行需要の回復の実態が見て取れた。

税関を通過して晴れてベトナムへの入国を果たし、イチロ到着エリアのATMに向かうとクレジットカードで百万ベトナムドン (VND) をド~んと出金し、一気にミリオネアへと成り上がった。

空港から今日の宿泊先であるHoliday Inn & Suites Saigon Airportへのタクシー代はVND 250,000という固定価格制になっているようだったので交渉の余地なく車上の人となり、約10分後にはチェックインを果たしていた。

11月23日(木)
モダンな外観のホテル上階のスイートルームから下界を見下ろすとマサにホーチミンの喧騒そのものが見て取れるのだが、空港近くという立地条件からか「放置民」と称されるはずのホームレスはいないようだった。

食欲不振のため、ホテルの各種ビュッフェメニューの中からかろうじて私の喉を越したものはレーザーラモンHG系の麺類であるはず「フォー!」で、その他流動食と合わせて何とか体力の維持に努めていた。

11時過ぎにはホテルをチェックアウトするとドアマンにタクシーを呼んでもらって空港に移動したのだが、タクシー代はVND 110,000で来るときの半額以下であった。
ベトナム航空運航の13:20発VN1827便はスモッグの曇り空を切り裂いて離陸し、インドシナ半島南部を西に進路を取り、タイランド湾に浮かぶ離島を目指して行った。眼下にベトナム最大の面積を誇るフーコック島の雄姿が確認出来るころには晴れ渡る空の下で視界を遮るものはなくなり、無事にフーコック空港に着陸することに成功した。

手付かずの自然が残る秘境のリゾートフーコック島は昨今欧米を中心に人気を集めるリゾートとして急速な発展を遂げている。島の大部分を山や丘、森、そして美しいビーチなどの大自然に覆われているのだが、伝統的なベトナムの魚醤・ニョクマムや胡椒の生産が主要産業となっている。

空港からフーコック島西海岸のリゾートエリアに位置するInterContinental Phu Quoc Long Beach Resortまでのタクシー代は定額のVND 200,000に設定されているようでわずか15分程度で現世の喧騒とはかけ離れたドリームランドに到着したのだった。

IHGのダイヤモンドエリートメンバー兼インターコンチネンタルのアンバサダーとしての地位を誇るFTBに対して用意いただいた部屋は数段階アップグレードされているはずの上階のサンセットビュー部屋であり、日が西に沈んで行くのを心待ちにしながらホテルライフをスタートさせることにした。

何はともあれホテルの中庭池の鯉を横目にプールサイドをスルーして早速ビーチに向かった。

ビーチの砂のキメ細かさが足裏に心地良い刺激を与えてくれるのと同時「キュッ、キュッ」というサウンドがマリンスポーツへの扉をこじ開けようとしていたのだが、さすがに今日の体調では水に浸ることは控えるべきだと考えたのでビーチサイドのカフェレストランSeaShackでビールをチビチビ飲みながらリゾート客のアクティビティを遠巻きに眺めていた。

体調の良し悪しにかかわらず燃えるようなサンセットは平等にやってくるので部屋のベランダからオレンジ色に輝く水平線を眺めてしばし旅情に浸らせていただいた。

夜になっても食欲は湧いてこなかったものの回復のための栄養素を吸収する必要があったのでホテル内のベトナム料理レストラン「Sora & Umi」に予約なしでしけこんだ。コロナビールでウイルスが上書きされることを期待しながら、ウエイターにおすすめの麺類を尋ねたところBun Cha (ブンチャ)を指名してきたので頼んでみることにした。ブンチャは焼いた豚肉とライスヌードルを用いたベトナム料理でサラダ素麺とも呼ばれている代物だ。グリルで焼いた豚肉の脂身(Cha)などを白いビーフン(Bun)にのせ、好みのハーブと甘酢っぱいつけだれに付けて食すのだが、その甘さが裏目に出てヌードルの完食には至らずもかろうじて葉っぱに巻いた焼肉で喉奥の痰を切り裂き肉食系の面目だけは保つことが出来たのだった。

11月24日(金)
朝9時半に朝食ビュッフェ会場に辿り着き、フォーや流動食で何とか胃袋を落ち着かせた。
今日は日がな一日浜田省吾よろしく♪ベッドでドン・ペリニヨン♪的活動に終始しながら♪いつかあいつの足元に BIG MONEY 叩きつけてやる♪というリベンジ妄想にふけるつもりであったが、リゾートの誘惑にはあらがえず、プールサイドに引き寄せられていった。

若いボーイが注文を取りに来たのでマルガリータを発注したものの、その数分後に先輩のボーイが飛んできてピザが焼かれそうであることを匂わせたのであわててクラシカル・マルガリータ、すなわち飲み物のマルガリータを頼んだのだと主張し、何とか事なきを得たのであった。

プールの水が少し冷たく感じる一方で遠浅のビーチの海水は病人には適温であるはずのぬるさだったのでここでタラソセラピーと洒落こむことにした。

透明というよりもエメラルドグリーンの海水は陸からの養分を豊富に含んでいるようであったが、特に魚類と遭遇することもなく、人類のレレレのレ~的アクティビティを横目にしばし緑茶を濁していた。

フーコックではサンセットは毎日見られる訳ではなく、今日は暑い雲に西方の視界を遮られていた。ディナーはいい具合に空いていたカフェレストランSeaShackで取ることにしたのだが、この度新メニューとしてシーフードの盛り合わせが松、竹、梅のランク付けでデビューしたようだったので景気づけに一番高いやつを発注した。スコップで運ばれてきたシーフードの盛り合わせは無造作にテーブル上のキッチンペーパーの上に流し出されたので早速食して見たのだが、甘辛いたれを絡ませた伊勢海老や普通の海老、ムール貝等はそれなりに美味であったのだが、付け合わせのパンまでは喉を通すことは出来なかったのだ。

11月25日(土)
今日も体調の回復がおもわしくなく、♪もうひとつの土曜日♪的なバラードの気分を引きずっていた。恩を仇で返すような♪友達に借りたおんぼろ車で♪と歌唱するほどやさぐれていなかったのだが、とりあえず♪海まで走ろう♪とは思っていた。

ビーチでは丁度パラセーリングがスタートする瞬間を目の当たりにしたのだが、数人がかりの力仕事の成果として晴れて沢田研二の♪TOKIO♪の気分を短時間だけ満喫出来ることが確認されたのだった。

パラセーリングが♪海に浮かんだ光の泡♪になったのを見届けるとさらにビーチの散策を進めることにした。忽然と目の前に姿を現したものは石垣の上に設えられた真珠貝のオブジェであり、MIKIOMOTOの気配はなくともこの島の主要産業が真珠の養殖であることを雄弁に物語っていた。

午後4時のレイトチェックアウトまでの時間をリゾートで満喫し、タクシーで空港へ帰ることになったのだが、ベトナムでは恒例となっているスマホの翻訳ソフトによるタクシー運転手の観光地への勧誘攻撃が始まった。彼は飛行機の出発まで時間があるので真珠の養殖場へ行かないかと誘ってきたのだが、体調の戻りが芳しくない私にとっては「豚に真珠」だと思えたので丁重にお断りし、速やかに空港へと向かわせた。

今日は昼食を抜いていたので空港でやたらとどんぶりサイズの大きい牛肉麺(フォー・ボー)を食した後、17:15発VN1828便でホーチミンへと帰って行った。

すでにホーチミンでの定宿に認定されたHoliday Inn & Suites Saigon Airportにチェックインし、ビールと生春巻きの完食でベトナム料理を締めさせていただくとあとはひたすらドン・ペリニヨンのないベッドで体力の回復に努めていた。

11月26日(日)
早朝4時過ぎに起床し、5時過ぎには寝ぼけタクシーで空港へと向かっていた。タンソンニャット国際空港で最後のフォーを流し込むと7:30発NH834便の機上の人となり、是枝裕和監督のカンヌ映画祭出品作品である「怪物」を見ながら、うちの怪物猫は切れの悪いうんこをしたときに床に肛門をなすりつける伝家の宝刀「うんこ切り」をマスターしているのだが、これも家に運が付く所業であると自分に言い聞かせながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥57,640.- / passenger、 ベトナム航空 = ¥10,570.- / passenger
総宿泊費 US$ 580.22
総タクシー代 VND 1,110,000.- (¥1,000 = VND 167,323)

協力 ANA、ベトナム航空、IHG HOTELS & RESORTS

シンFTB中部ベトナム世界遺産日本の爪痕ツアー

♪ツン・つくつくつくツン ツン・つくつくつくツン♪
♪ヒヤ~ ヒ~ヤ ヒ~ヤ ヒ~♪
♪ベンベらベンベらベンベらベンベら ベン(ベン) ベン(ベン) ベン(ベン) ベラん♪

というわけで、感染者増減の一喜一憂はさておいてコロナ明けましておめでたく、今年は新年より活動を開始させていただくことをお慶び申し上げます。
ところで、なぜ年初の訪問先として晴れてベトナムが選ばれたのか?

それは飛行機代が一番安かったからだ!!

2023年1月1日(日)
ANAクラウンプラザ成田に隣接している緑色がまぶしいSUN PARKINGに自家用車を預けると空港まで送迎いただき、そそくさと「ANA SUITE CHECK-IN」カウンターに向かった。幸先よく、一番安いチケットからビジネスクラスへのアップグレードを果たしたものの、係員よりフィリピンのマニラで航空機の管制トラブル発生のため、搭乗予定であるハノイ行きの便の大幅な遅延もしくは欠航の可能性があることが示唆されたもののそれでも結構だと思ってチェックインした。

「ANA SUITE LOUNGE」での長期滞在を覚悟し、体内のアルコール度数を高めていったのだが、意外にもフライトは定刻通りの決行となったので、18:20発NH897便に乗り込むと約6時間半のフライトで2時間の時差分の時計を巻き戻し、午後11時にハノイのノイバイ国際空港の第2ターミナルに到着となった。

ベトナムはコロナ関連の制限はすでに撤廃しているので入国審査も検疫も短時間で突破してシャトルバスで第2ターミナルから第1ターミナルに移動した。次のフライトは翌日の早朝に設定されているため、ノイバイ空港に内蔵されているVATC SleepPod Terminal 1と名乗るカプセルホテルにチェックインすると4時間程ベッドの上で体を休ませていただいた。

1月2日(月)
早朝5時前にカプセルを抜け出し、チェックアウトを果たすとエレベーターに乗って約1分でベトナム航空のチェックインカウンターに到着した。つつがなくチェックイン、セキュリティを突破してSONG HONG BUSINESSラウンジにしけこみ朝食を取らせていただいた。ベトナム入国後の食事はレーザーラモンHG系の麺類であるはずの♪フォー!♪がメインになることが約束されているので早速牛肉入りのフォーであるフォー・ボーを召し上がって腹ごしらえをした。

6:55発のVN157便は定刻通りに出発し、8:25にベトナム第3の都市であるダナンに到着するとArrivalロビーのATMで紙幣に大量のゼロを持つベトナムドンを出金し、一気にVND2,000,000の金持ち気分になった。その勢いをかってタクシー乗り場で正直そうな緑タクシーに乗り込み、一気に本日の宿泊地を目指した。

雨季の中部ベトナムはマサにべとべとした雰囲気で天気同様にどんよりした空気感を醸し出している。車はダナンの都市部を通過すると海岸沿いのビーチリゾートを抜けて緑まぶしいソンチャー半島に入っていった。約30分程度のドライブで美しい自然に囲まれたアジア随一の高級ラグジュアリーリゾートととして名高いインターコンチネンタル・ダナン・サン・ペニンシュラ・リゾートに早くも到着する運びとなった。

当ホテルのチェックインの時間は午後3時であるが、ANAマイレージクラブの会員ランクに連動しているため、インターコンチネンタルホテルズグループ(IHG)においてもダイヤモンドエリートメンバーに成りあがっているFTBに気を使ってしきりに時間稼ぎの有償朝食を勧めていただいたのでビーチにほど近い「Barefoot」というレストランで空港ラウンジに続いて2回目の朝食を取ることとなったのだった。レストランのトイレを拝借すると便器の形状は小用、大用ともスタイリッシュなものであったのだが、空港ラウンジのトイレには設置されていたウォッシュレットは装備されてなかったのだ。

それでもホテルの特別な計らいで午前10時には部屋を用意いただけたのでバギーと名乗る電動カートに乗って部屋まで送っていただいた。当ホテルの従業員のホスピタリティは申し分なく行き届いているものの、従業員の数以上に野生のサルが生息しており、対宿泊客であっても遺憾なく不逞の輩ぶりを発揮してくるので細心の注意を払ってホテルライフをエンジョイしなければならないのだ。

部屋の方はというと、内装にはベトナム伝統デザインが施され、湿気によるダメージを受けにくい木と石が調和した飽きのこない造りとなっている。ベランダから見える海は沖縄のようなサンゴの白砂による透明なビーチというわけにはいかないものの、打ち寄せる波の音が独特なハーモニーを奏でている。

雨季だとウキウキした気分にならず、日がな一日部屋で過ごさなければならないことは想定ずみだったので夕食の時間までベトナムビールで口を濁しながらのんびり過ごさせていただいた。

ディナーはミシュラン・スターシェフによる本格フレンチ、鉄板シーフード、ベトナム料理等、バラエティに富んでいるのだが、一番手軽そうな「Citron」というベトナム料理のレストランに予約なしで入店することが出来た。サービスメニューはビュッフェのみということだったが、ベトナムに限らず、ありとあらゆる食材を使った料理を効率的に摂取させていただいたのだ。

1月3日(火)
今日もどんよりとした天気である。「Citron」で朝食を済ませるとハイシーズンに備えての下見のつもりでリゾートの敷地内をぶらぶらさせていただくことにした。

山の斜面に形成されたリゾートは「HEAVEN LEVEL」、「SKY LEVEL」、「EARTH LEVEL」、「SEA LEVEL」の4層構造になっており、それぞれのレベルにはケーブルカーでアクセス出来るようになっている。

曇天模様でビーチパラソルの花は咲かなかったのだが、天気が良ければ海沿いの2つのプールと合わせて華やかなリゾート気分が満開になるであろうことは容易に想像できるのだが、今回はハートに穴が開いた気分でも致し方なしとした。

滞在中にあらゆる種類のサルのオブジェにお目にかかったのだが、現役のサルは一向に姿を現さないままチェックアウトの時間を迎えた。ベルマンが部屋に荷物を取りに来てくれたので外に出るとそこで見送ってくれたのは日本でもよく見かける変哲のない種のサルだったのだ。

つつがなく下見を終えることが出来たインターコンチネンタル・ダナン・サン・ペニンシュラ・リゾートを退出するとタクシーでダナン中心部に位置する正統派ホテルであるヒルトン・ダナンに移動した。高層階の部屋からハン川の向こうに広がるリゾートエリアを一瞥した後、ロビーでコンシェルジュに世界遺産のノスタルジックタウンであるホイアンへのツアーの相談をさせていただいた。

ショートノーティスにもかかわらずダナンの南東30km先のホイアンへの往復送迎車がVND1,000,000で手配出来たので、迎えに来た三菱SUV車に乗り込むと午後3時過ぎにホイアンへのツアーの幕が切って落とされた。ドライバーはホイアンまでほいほいと単純に乗せて行ってくれるだけの送り人かと思ったのだが、道中あらゆる手段でのコミュニケーションが模索され、スマホに面倒な翻訳機能付き会話アプリであるカカオトークなるもののインストールを促された。目力が弱っている私では揺れる車内での文字のインプットは困難でメールアドレスのco.jpをco.joと打ち込んでしまった時点でこの試みは強制終了となった。

仕方なく、他のアプリで翻訳会話を試みたのだが、なぜかベトナム語から韓国語への翻訳で、日本のトラベラーのプレゼンスが地に落ちてしまっている現状を思い知ることとなった。何とか会話は成立し、午後4時にホイアンに到着となり、3時間後の午後7時にピックアップに来るということで話はまとまったのだ。

1999年に古い町並みがユネスコ世界遺産に登録されているホイアンは古くからアジアとヨーロッパの交易の中心地として繁栄し、16~17世紀頃には日本人町まで造られていた。

ホイアン旧市街への入り口のソンホアイ広場には朱印船の模型が恭しく展示され、かつての日本との関係の深さを物語っている。ちなみに朱印船貿易とは、16世紀後半、海禁政策がとられていた中国(明)に代わる貿易相手を東南アジアに求めた日本において、倭寇や密貿易と区別するため、幕府等の権威者が許可した正式な貿易船であることを示す「朱印状」を携えた貿易である。

1593年に造られた橋は来遠橋であるが、通称「日本橋」と呼ばれている。本場お江戸の日本橋は首都高という好ましくない屋根がつけられてしまったが、ホイアンの日本橋の木製の屋根は作成当時のおもかげをそのまま残しており、ベトナムを代表する観光名所のひとつとなっているだけでなく、紙幣のデザインにも採用されている。

橋の中には小さな寺も造られ、橋の両側はユニークな猿と犬の像が守っている。これは申の年に着工し、戌の年に竣工した事実を物語っているからに他ならない。

この橋を造った人たちは、インドからホイアン、さらに日本まで達する大ナマズがいると信じていた。そして、この大ナマズが暴れると地震や大洪水に見舞われると考え、大ナマズを鎮めるために、この地に橋を建て、橋内に寺を造ったという伝説さえ残されている。

旧市街のメインストリートには木造の古い家屋や華僑の建てた中華会館などの中国建築も並んでいるのだが、かつての繁栄当時の雰囲気が色濃く残っており、中世にタイムスリップした観光客はあてもなく歩いたり、シクロ(ベトナム人力車)に乗って決められた観光コースを回っていた。

ホイアンでは日本橋三越のような大型百貨店 はないものの、2階建てのホイアン市場が日用品や食料品の販売を担っており、日本の小売業者とは異なり楽天やamazonの台頭による業績低下の影響を受けずに脈々とその営業体制が今日まで保たれており、多くの観光客で賑わいを見せている。

黄昏時を過ぎたホイアン旧市街は漆黒の夜に向かってさらに輝きを増し始めている。多くの土産物屋の中でひときわ異彩をはなっているRocketman Tシャツは誰が買い求めるのかという疑問はさておき、灯篭流しと手漕ぎボート、ランタンの光に導かれるように街中を徘徊した。

輝きの中心に位置するアンホイ橋は最強の映えスポットとなっており、多くの観光客が光の揺れるトゥボン川を背景にSNS写真撮影に興じている。

ホイアン観光も終盤に差し掛かったころ、黙々と木に向かってノミを打ち付けているおばちゃんの姿にくぎ付けになった。こちらの興味を感じ取ったおばちゃんの説明によるとそれぞれの木彫り人形は表情によってLucky, Happy等の意味を表しているという。当初買う気はなかったのだが、その出来栄えに感銘を受けたので一つの人形を手に取り、価格を聞くとVND250,000ということだった。近辺のほぼすべての土産物屋の物品には値札はなく、すべて交渉で値段が決まるはずなのでVND200,000で価格交渉をしたのだが、最終的にはVND220,000で落札させていただくこととなった。

定刻7時にドライバーが迎えに来たのでサリーの弟のカブのように後ろ髪を引かれる思いでホイアンを後にした。帰りの道中も翻訳ソフトによる執拗な営業攻勢でDX(デジタルトランスフォーメンション)の浸透を思い知ったものの何とか無事にヒルトンに帰還することが出来たのであった。

1月4日(水)
ヒルトン・ダナンの朝食ビュッフェで炒め物のもち米添え等で腹を膨らませるとホテル周辺の散歩と洒落こんだ。ハン川沿いの遊歩道は野外彫刻博物館の様相を呈しており、どの1品も丁寧に作りこまれている印象を受けた。

遠目に見える黄色のロン橋はダナンのシンボルでロンは麻雀の殺し文句ではなく、ベトナム語で龍を意味するという。マサに龍が水面を泳ぐさまがデザインされているのだが、夜は当然のようにライトアップされ、土日祝日には火や水まで吐くパフォーマーともなるそうだ。

ピンク色の外観がまぶしいダナン大聖堂はフランス統治時代の1923年に建立されたゴシック様式のカトリック教会なのだが、今ではVietnumBankの資金力をバックに繁栄を続けているようにお見受けした。

正午前にヒルトンをチェックアウトし、タクシーで2㎞程先のダナン駅に向かった。インドシナ半島をハノイからサイゴンにかけて縦断するベトナム統一鉄道は1日に4往復の寝台列車を走らせている。ダナンから次の目的地のフエまでは約100kmで3時間程かかるのだが、あらかじめチケットはウエブサイトで購入済みだったのだ。

12:28発SE4列車の3号車は3層構造の寝台車になっており、上階に行くほど運賃が下がるのとは裏腹にスペースが狭くなってしまうのだ。

ダナンとフエの間にはハイヴァン峠が君臨しており、列車は海外線を走るため、眼下の絶景を終始寝転びながら堪能することが出来たのだった。

車窓の景色は断崖を経て農村部に移行し、コメ本位制を維持しているかのようなのどかな田んぼの風景を経てフエの都市部に入っていった。

1993年にベトナム初の世界遺産に登録されたフエに到着すると待ち構えていたタクシーの勧誘を断り切れずに相場より高いはずの金額を支払って本日の宿泊先であるホテル・サイゴン・モリンに向かった。Booking.comでお得な価格で予約出来たスイートルームにチェックインすると白を基調としたコロニアル調の内装や洋風の調度品に囲まれて外の喧騒とは切り離された空間を堪能させていただいた。

部屋のカードキーの動作不良というトラブルに見舞われたものの、日没後に雨模様のフエの旧市街を散策してみることにした。ホテルが林立する新市街からフーン川に架かるチューンティエン橋を渡り、旧市街に入るとライトアップされた建造物がいにしえの世界に誘ってくれるようだった。

夕食は手軽にホテルで取ることにしたのだが、選択は店員の判断に委ねることにした。気を良くした店員が選択したメニューは「黒ひげ危機一髪」をモチーフにしてあるはずの串刺し揚げ春巻きのくり抜きパイナップル生け花やパクチー香草牛肉等日本人の味覚の深層にも訴えるはずの美味な料理であった。

1月5日(木)
朝食ビュッフェは宿泊料に含まれているのでスイカアートが目を引くレストランで腹ごしらえを済ませると、1901年創業のフエで最も歴史のあるホテル内を散策することにした。

今日もあいにく朝からの雨であったのだが、中庭の風情は悪天候を逆手に取るほどしっとりと落ち着いていた。

ローシーズンのためか、ガーデンカフェにはひと気がなかったのだが、バーテンダー風のリスが健気に店番をしている様子が印象的だった。しかし残念ながらチップであるはずのピーナツを与えるまでには至らなかったのだ。

天候の改善を祈りながら正午のチェックアウト時間近くまでホテルで過ごさせていただいたのだが、埒が明かなかったので観光を決行することにした。フエの世界遺産の代名詞はグエン朝王宮に他ならないのでここを見逃すわけにはいかないのである。

街中に出て魚醤と香草の香りがプーンと漂うフーン川の橋を渡り、旧市街に侵入するとランドマークであるフラッグ・タワーを目指して歩を進めた。1807年に建てられた旗台は塔のてっぺんまで入れると29.52mにもなり、新市街からもその旗めきを拝むことが出来るのだ。

王宮を死守しているとされる9つの大砲を見てグエン朝の強力打線に思いを馳せると、王宮門にあるチケット売り場 (VND200,000)でE-TICKETを購入しバーコードをかざすと雨にもかかわらず、はれて王宮への入門を果たした。

1802年~1945年の間、13代もの長期にわたって政権を握ったグエン朝の王宮は東西642m、南北568mの広さを誇り、高さ6mの城壁に囲まれた別世界であるが、中国の紫禁城を模して建立されたといわれている。内部には多くの「殿」、「廟」、「宮」が建てられているのだが、紫禁城ほどの建物密度にはなっていないので全般的に開放感のある造りとなっている。

王宮の正殿であるタイホア殿(太和殿)のみ修復中であったが、あとは自由に見て回ることが出来るものの、とても1日で見学出来るような広さでなく、体力温存のために電気カーを使っても2日くらいは見ておく必要があると思われた。

建物の色調や装飾は概ね中国風で龍や獅子をアレンジしたものが多く、どれも圧倒する目力を誇っている。

かつで武官の詰所であった「ヒューヴ―」は皇帝の衣装を着ての記念撮影所と化しており、玉座に座って記念写真が撮れる映えスポットとなっている。

広大な王宮内にはいくつかの茶店が営業しているので歩き疲れた観光客は風光明媚な庭を眺めながらアフタヌーン・ティーを楽しめるように取り図られている。

日本庭園を模して造られた庭園には多くの盆栽もあり、中国だけでなく、日本の影響も少なからず残っている様子が見て取れた。

展示されている公式文書には様々な種類の金印の玉璽が押印されているのだが、王宮の要の位置に配置されている巨大な龍の金印がその頂点に立つものだと見受けられた。

王宮門の2階が観光客に開放されていたので登ってみることにした。あらためて見ると門口は5つあり、中央の門が皇帝専用で、左右が文官と武官、さらに外側の門が兵士やゾウ、馬が使用していたそうだ。建設当時は木造の建物にはすべて金箔が貼られていたと伝えられているが、現在はその面影は残っていないのだ。

王宮出口の近くに文化スペースがあり、ベトナム工芸品の実演販売を行っていた。針と糸を巧みに操る職人の手際につられてベトナム笠購入に食指が動いたのだが、手荷物として持ち込んだ機内で原型を維持出来るかという不安がよぎったため、財布の紐を開くことが出来なかった。

午後3時半にホテル・サイゴン・モリン内蔵のコーヒーショップのベトナムコーヒーで糖分を補充し、さいごんの力を振り絞ってタクシーでフーバイ空港へ向かった。
18:40発VN1546便ハノイ行きは定刻通りに出発し、20:00にハノイ・ノイバイ空港に到着した。来た時とは逆に第1ターミナルから第2ターミナルに移動し、NH898便のチェックインまで時間を持て余していたので空港レストランで最後のベトナム晩餐を楽しませていただいた。

1月6日(金)
ANAのアップグレードポイントを持て余していたのでビジネスクラスにアップグレードさせていただいたNH898便は定刻0:25に出発し、機内サービスより睡眠を重視したため短い飛行時間ではあったが、ほとんどフルフラットの体制で過ごしていた。定刻7:00前に成田に到着するとANAのArrival Loungeの開業時間が14時であることに軽いショックを受けながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥142,230
総宿泊費 VND20,566,085、¥6,281
総タクシー代 VND2,100,000
総ベトナム統一鉄道代 VND177,000
¥1 = 約VND170

協力 ANA、IHG、HiltonHhnors、Booking.com、Hotels.com、SUN PARKING

第二回FTBSEAべトコンツアー in ハノイ

2004年9月下旬にホーチミンを歴訪した実績


があるFTBであるが、当時はベトナム戦争でアメリカに黒星をつけ、戦後ドイモイ政策により急激な経済発展を遂げたベトナムの一面を垣間見ることが出来たのだが、今回は首都ハノイに繰り出し、古き良き時代のベトナムと数多くの奇岩を形成した自然の驚異を満喫することにした。

2008年9月12日(金)
JALのマイレージが余っていたので、マサであれば14~15万くらいかかるところを私は燃油代と税金の支払いのみで搭乗出来るJL751便に乗り込むと午後6時15分に出発したB767-300機は5時間程度のフライトで2時間の時差を越えて午後10時前にハノイのノイバイ国際空港に到着した。

入国後手持ちの$40を両替所でベトナムドンへの両替を試みるとVND656,000もの大金になってド~ンと返ってきたので欽ちゃんのど~んとやってみようで言うところの「ばかうけ」の気分を味わうことに成功した。大金を手にして空港タクシーに乗り込み30km程離れた市街地にあるニッコーホテルに移動すると定額料金のVND250,000に対してつり銭がないためにVND300,000を支払ってあげたため、「どっちらけ」の感覚に成り下がってホテルへのチェックインを余儀なくされたのだった。

9月13日(土)
早朝ニッコーホテルをチェックアウトし、もやにより日光が遮られているにもかかわらず30℃を越す猛暑の様相を呈したハノイ市街に繰り出すことになった。ハノイには単線の鉄道が通っており、線路沿いに進めば目的地に到着出来ると思っていたのだが、いつの間にか線路を見失ってしまい原チャリのクラクションでめまいがしそうな旧市街を2時間余り彷徨うこととなってしまった。

今日の予定はベトナムきっての景勝地であるハロン湾までバスで移動することであったのだが、世界最強レベルの旅行ガイドブックである「地球の歩き方 ベトナム’04~’05」の掲載情報が古かったせいかハロン湾行きのバスが出るターミナルに到着するまでいくつかのバスターミナルをはしごするはめになってしまった。とあるバスターミナルの案内所で原住民から目的地を確認すると市内バスとタクシーを乗り継いで何とか目的のミニバスに搭乗することに成功した。

バスターミナルを出発した韓国製払い下げミニバスは乗車率150%くらいになるまで道行く途中で乗客を勧誘しながら走ったため、4時間くらいかかってハロン湾の観光の拠点であるバイチャイ・バスターミナルに午後6時頃到着したのだった。そこから本日の宿泊予定地である楽天トラベルに予約させておいたハロン・プラザホテルへの道筋がわからなかったため、適当に湾沿いを目指してバイチャイ市街を歩いていると市バスが運行していることが確認出来たのでバスに乗り込み、言葉の通じない切符売りのおね~ちゃんとバス代がいくらであるかという仁義無きやりとりを繰り広げ、しかも野次馬風情のおっさん乗客が笑い転げているという状況の中で何とかホテルに到着することが出来たのであった。

9月14日(日)
マサよ、君は世界遺産として君臨しているハロン湾に比べてローカルな日本三景に甘んじている松島の現実に地団駄を踏んで悔しがっている松嶋菜々子を想像したことがあるか!?

ということで、昨晩のビュッフェで生ガキをはじめとする地元の海の幸を満喫することが出来たハロン・プラザホテルをチェックアウトするとハロン湾クルーズの船が出港しているクルーズ船乗り場を目指して海沿いを2km以上練り歩いた。

船乗り場のチケット売り場でハロン湾入域料(VND40,000)を支払い客引き風情の原住民に訳もわからずとある木造クルーズ船に連行されると午前8時過ぎにハロン湾クルーズ4時間コース($30)がスタートしてしまった。おびただしいほどの数の停泊しているクルーズ船を横目に私と何人かのベトナム人家族を乗せた船はエメラルドグリーンの海をすべるように航行していった。

船から海面を見渡すとそこには大小2,000もの奇岩がニョキニョキと生えておりマサに幻想的な光景を演出しているのだった。船は30分ほどでダウゴー島という大き目の島に到着し、そこで観光客は下船すると皆一様に島の散策に乗り出した。ティエンクン洞という高さ20m、幅数十mの鍾乳洞は内部がブルーやグリーンでライトアップされており、整備された遊歩道を歩いていると幻想的な気分と湿気によるだくだくの汗でやさしく包まれることになる。

ダウゴー洞はさらに大きな鍾乳洞であるが、観光時間の制限により通常は見学を省略されてしまうのだが、コウモリには格好の居住地となっていることが確認出来た。船に戻り、ダウゴー島を後にするとクルーズ船は島々の間を抜け、船上生活者の生活模様を垣間見ながらいくつかの特徴的な岩に遭遇した。

闘鶏島という2羽の鶏が闘っているように見える島がいわゆるひとつのハイライトのような様相を呈しており、どのクルーズ船も島の目の前に停泊して観光客に記念写真を撮らせながらご機嫌取りをしていたのだ。

4時間の予定のクルーズが2時間半程で終わってしまったのでそそくさとバスでハノイに戻り、数多くのシクロが客待ちをしているハノイ大教会を見上げ、パリのオペラ座を模して建築された市劇場の隣に位置するマサであれば$160くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るヒルトン・ハノイ・オペラに日中の暑さを避けるために早々とチェックインし、そのまま夜を迎えることとなった。

9月15日(月)
文廟(VND2,000)という1070年に孔子を祭るために建立された廟を訪問した。この敷地内にはさまざまな時代の建物が混在しており、中でも大学施設として使用されていた奎文閣はハノイの象徴となっている。また、ファシリティ内で民族音楽の演奏が行われており、観光客はチップを強要され、VND2,000程度でお茶を濁そうとしても$1以上を強奪されるシステムになっていることが確認された。

ベトナム独立の祖として崇められているホー・チ・ミンの遺体がガラスケースに入れられて安置されているホー・チ・ミン廟を遠巻きにチラ見し、月曜日が休館となっているホー・チ・ミン博物館の建物の立派さを思い知った後、一柱寺というハノイのシンボル的仏教寺院を見学した。一柱寺は李朝の太宗が1049年に創建した延祐寺の楼閣で、一本の柱の上に仏堂を乗せたユニークな形からこの名で呼び親しまれているのだ。

一柱寺で不安定感を満喫出来たのでその勢いを買ってロンビエン橋というパリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェルによって設計され、1902年に完成した1700mの鉄橋で錆びた雰囲気を味わい、ドンスアン市場とハンザ市場というハノイの代表的な市場をはしごしてベトナム人の生活感と活気を感じながらハノイ駅に紛れ込んだ。駅ではルンペン風の若者にここで買う必要も無い靴の中敷の押し売り攻撃に遭ったものの何とかかわすことが出来たのだった。

マサよ、君は捕虜収容所として常に満室だった裏のハノイ・ヒルトンが市内のど真ん中に取り残されているおぞましい事実を知っているか!?

というわけで、ホアロー収容所(VND5,000)という19世紀末にフランスによって造られた監獄に収容されに行ってきた。1953年の満室時には2000人以上を収容した実績のあるホアロー収容所の内部には拷問の道具やその様子を描いたレリーフ、処刑に使われたギロチン台等が残されており、ベトナム戦争時に収容された鬼畜米兵から皮肉を込めて「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれていたそうだ。

ハノイ市街の中心に位置し、市民の憩いの場となっているホアンキエム湖上のゴッソン島に玉山祠(VND2,000)が夕涼みの観光客を集めていたので郷ひろみ系の眉をした虎に挨拶をして参拝させていただくことにした。尚、ホアンキエム湖には大亀の伝説があり、実際祠内には1968年に捕獲された体長2mの大亀の剥製が鎮座しているのだ。

ハノイを代表するエンターテイメントとして水上人形劇が有名であり、近くの劇場が夕方から公演を行っていたのでセカンドクラス(VND40,000)のチケットを買って見物することにした。水面を舞台にして繰り広げられる人形劇はベトナム伝統楽器の音色に沿って人形が繊細でコミカルな動きで観客を魅了し、民話や民族的な話が繰り広げられていくのだが、最後の舞台挨拶では操り人形師まで出て来やがるのである。

ハノイ市内の観光を十分すぎるほど満喫出来たのでミニバス(VND35,000)でノイバイ国際空港に戻り、乗客よりも圧倒的に数が多い見送り客の間をすり抜けてチェックインを果たすと午後11時55分発のJL752便に乗り込み機上の人となる。

9月16日(火)
機内で相武紗季とはタイプの違うものの相武紗季に匹敵するほどの美人スチュワーデスに思わずもっていかれそうになったところを何とか踏みとどまり、午前6時45分に小雨で涼しい成田に到着し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ¥25,200 (燃油代、税金のみ)
総宿泊費 $173.25、¥9,529
総タクシー代 VND340,000 ($1 = VND16,400)
総バス代 VND136,000

協力 JAL、HiltonHHonors、楽天トラベル

シン・FTB海峡ドラマチック 海のシルクロード マラッカの旅

振り返ると私の人生前半は西日本の大都市である門司と下関を急流で隔てる関門海峡で流されないように突っ張って生きてきた。古くは源平合戦、大谷翔平よりはるか以前に二刀流で実績を残した宮本武蔵が佐々木小次郎にサヨナラ勝ちをおさめた巌流島の戦い、さらには1987年10月には故アントニオ猪木がマサ!斎藤との死闘で新日本プロレスを人気凋落の危機から救った近代巌流島の戦い、1995年の門司港レトロのグランドオープン等、海峡は様々な戦いの舞台となってきた。

2020年初頭より猛威を振るい、人類の活動を停滞させた新型コロナウイルスもアップデートを繰り返しながら今日まで生き延びてきたが、アントニオ猪木亡き後のアントキの猪木、アントニオ小猪木のように徐々にその存在感も薄くなってきた。

今回裏の仕事の会社が解禁したカンファレンスを有効活用させていただく形となったものの、世界有数の海峡に参上し、「元気があれば何でも出来る!」ことを今一度思い起こさせるツアーが開催されることとなったのだ。

2022年11月5日(土)
午後3時過ぎに成田空港に到着し、つつがなくチェックイン、出国の手続きを済ませ、ANA SUITE LOUNGEに向かう道すがらですれ違った人々の多くは外国人で思わずここは欧米か!?と思った次第であった。

17:25発NH815便は定刻通りに出発し、約7時間のフライト時間をコロナの犠牲になった志村けんに代わって主役を務めた沢田研二の名演技が光る「キネマの神様」を見ながらやり過ごしていた。

11月6日(日)
日付の変わった午前零時過ぎにクアラルンプール国際空港に到着すると、ここでもつつがなく入国、税関を通過するとHotels.comでたまたま見つけた空港に内蔵されているサマサマ ホテル KL インターナショナル エアポートにしけこむことに成功した。

6時間程度惰眠を貪り、午前8時半頃に起床し、朝食会場で腹ごしらえをする際にマレーシアのコロナ対策をつぶさに観察したのだが、マスク着用ルールも含めてほぼ日本並みの対策が施されていることが確認出来たので今から始まるマレーシア生活への大きな自信となった。

11時過ぎに様々な不安を打ち消してくれたサマサマホテルをチェックアウトすると空港の到着ロビーに戻り、マラッカへの交通手段となるタクシーを物色した。とあるタクシーカウンターでRM 180でのディールが成立したのでマレーシアの国産車タクシーに乗り込むと2時間弱でHoliday Inn Melakaに到着した。


IHGのDiamond会員である私に用意された部屋は19階という上階のスイートルームで広めの窓からは関門海峡とは比べ物にならないほど広いマラッカ海峡とそれに続く湿地帯の絶景を見下ろすことが出来た。

部屋を出てエレベーターホールに向かうと海峡とは反対の窓の向こうに整然としたマラッカの街並みが広がっていた。マラッカは2008年に「マラッカ海峡の歴史都市群」としてユネスコ世界文化遺産に登録されているのだが、その東アジア、東南アジアにおいて類をみないユニークな建築様式、文化的な街並みに浸るために下界に下りることにした。

ビルの隙間からマラッカタワーが手招きをしているように見えたのでその方向に向かって歩を進めていると土産物店が並ぶ広場やのどかな公園の先には鮮やかな赤色の歴史的建造物群が姿を現した。

高台へと続く階段を上がっていくと日本人にもなじみのある宣教師のシルエットが近づいてきた。マラッカがポルトガルに支配されていた頃、この地は西洋の宣教師達の活動拠点であり、その威光の名残としてフランシスコ・ザビエル像が「チョッ~ト イイデスカ!」という布教のポーズで観光客を勧誘しているのだ。

ザビエルが案内するセントポールの丘はマラッカの街を見渡せるベストビューポイントとなっており、海峡を行き来する巨大な船舶による刻一刻と移り変わる風景で観光客の旅情を揺さぶっている。

ポルトガル支配の頃、キリスト教布教の拠点として建てられたセントポール教会は今や廃墟と化しているのだが、1552年12月に中国にて46歳でこの世を去ったザビエルの遺骨が1553年2月にマラッカに移送され、約9ヶ月間この場所に安置されていたという由緒正しい聖地である故、多くの観光客が巡礼に訪れているのだ。

1650年に当時マラッカを支配していたオランダの総督府として建てられ、現在は歴史博物館(RM 20)となっているスタダイス(The Stadthuys)にて歴史の勉強をさせていただくことにした。

当博物館はマラッカ王国誕生からオランダ、ポルトガル、イギリスといった欧州列強および第二次大戦中の日本軍の占領時代を経て、マレー連邦として独立するまでのマラッカの歴史が包み隠さず展示されている正直なファシリティで、マラッカのシンボル的存在として君臨している。

また、歴史のみならず近代マラッカの風俗や暮らしの展示物も豊富で、ここを見学させていただくと即座にマレーシアに溶け込めるような構成となっている。

スタダイスでの歴史探訪終了後、けたたましい音響付きで観光案内するトライシクル(サイドカー付きオートバイのオートバイを自転車にすり替えた代物)の駐車場をスルーしてオランダ広場に向かった。

ここはマラッカ観光の中心地とも言える場所で赤を基調とした建物や噴水等オランダ統治時代の箱物が並んでおり、オランダとは交易を持っても統治された実績のない日本のハウステンボスとは一線を画す景観となっている。

土産物屋通りを抜け、オランダ広場の裏手に回ると「つまらない住宅地」の様相を呈する古い団地が立ち並んでおり、観光地と庶民の暮らしの密着度も垣間見えていた。

裏手の方から再び観光地に戻るとマラッカ川沿いの遊歩道を歩いてみた。風光明媚な川沿いに立ち並ぶ飲食店には閑古鳥が鳴いており、アフターコロナと言えども全盛期には年間400万人もの観光客を集めていた賑わいとは程遠く、東京海上もどう保証してあげればよいのか判断出来ないほどさびれているようだった。

どこからともなく「虎だ虎だお前は虎になるんだ」という心の声に促され、伊達直人がタァ~と飛び降りるタイガーマスクのオープニングのような感覚を覚え、ふと上方に目をやるとチャイナタウンはマサに虎の穴と化しているようだった。

今日は長旅の疲れもあり、虎の穴に入ることは遠慮して、マラッカ川のクルーズ船や海洋博物館のオブジェ等を横目にホテルに引き上げることにした。

Holiday InnではExecutive Loungeに招待されていたので、そこでそそくさと夕食を済ませマラッカ海峡を見渡せるプールを横目に部屋に戻った。このホテルではNHKの主要番組がリアルタイムで視聴出来るように取り図られているので、「鎌倉殿の13人」を見て御家人の勢力争いでの勝ち上がり方を学習し、海峡を行きかう船を数えながら就寝させていただいた。

11月7日(月)
朝ドラを見て舞い上がった後、さくっと朝食をすませると再びマラッカの歴史都市群を見て回ることにした。

ビルに描かれた壁画を一瞥し、マラッカ川沿いの海の博物館前を素通りして昨日はあえて侵入せずにとっておいた虎の穴に入場させていただくことにした。

チャイナタウンの正門から裏門迄の距離は大したことはないもののエキゾチックな商店や土産物屋が軒を連ねており、少ないながらも観光客の行き来する様子が見受けられた。虎の穴の入門手続きはどうすればよいのか模索していたのだが、悪役レスラーに対抗するためのボディビルのジムが金ぴかに輝いていたので恐らくここであろうと自分を納得させて引き下がった。ちなみに虎の穴のマネージャーはミスターXであったが、日本ではドクターXの方が認知度が高くなっている今日この頃である。

チャイナタウンに軒を連ねる独特の家並みはマラッカの象徴的風景と言われているのだが、観光客はむしろ白亜の豪邸の方に気を取られているようであった。

1646年に中国から運んできた資材で建てられたマレーシア最古の中国寺院である青雲亭寺院に充満する線香の香りで心を落ち着かせようとしていたところ、「虎鉄聖徳自白反依」の文字で説明されているはずの親子虎の姿が目に飛び込んできたのでここが本当の虎の穴であることを確信した。

チャイナタウンを後にして昨日歩いたマラッカ川の遊歩道の対岸を歩いて気が付いたのだが、マラッカの建物に描かれている壁画は見事であり、歴史都市群の光景に違和感なくなじんでいるのであった。

赤いオランダ教会と横付けされている青いポルシェのコントラストは♪緑の中を走り抜けてく真っ赤なポルシェ♪に匹敵する光景だと感心しながら、昨日見たセントポール教会方面にプレイバックしてみることにした。

ザビエルから♪いったい何を教わってきたの♪と思いながら廃墟となった教会を通り抜け、丘の麓に君臨する強固な砦跡であるサンチャゴ砦を見に行った。

ここは1511年にオランダとの戦いに備えるため、ポルトガル軍によって造られた大砲を備えた砦なのだが、私的にはジュリアナ扇子をほうふつとさせる南国の木の方が気になってしょうがなかったのである。

1912年創建の洋風建築である独立宣言記念館を見て「独立自尊」の重要さを再認識し、ドン・キホーテを思い起こさせる探検型のショッピングセンターを抜けて正午前にはHoliday Innに帰還した。

ホテルでタクシーを手配してもらい数キロ離れたセントラルバスターミナルまでRM 30の明朗会計で送ってもらい、13:30発のデラックスバスでクアラルンプールへの車中の人となった。2時間後にTBSという日本のテレビ局ではない巨大なバスターミナルで下車してBandar Taslk Selatanという駅に向かった。駅の改札前では猫が我が物顔で闊歩しており、ふとKIOSKに目をやるともう一匹の猫が店でくつろいでいる様子だったので売店のおばちゃんと目を合わせるとみなしごの猫を世話してあげなければならないとのことで、ここはさながらタイガーマスクに登場するみなしご施設の「ちびっこハウス」ではないかと思われ、将来この猫たちも伊達直人扮するタイガーマスクのように強くなることが保証されているはずであろう。

KLセントラルという中心駅に向かうためにKLIAトランジットという高速列車の切符を求めて歩いていると巨大な爬虫類がガニ股で歩いているのを発見した。その傍らでは大柄の猫が成仏されているようで、もしかすると戦った後ではないのかとも訝られ、この体長1mにも達する肉食のミズオオトカゲ(マレーシアオオトカゲ)も裏切者のタイガーを追う虎の穴の刺客に見えてしまうのであった。

その後KLセントラルから近郊線でBukit Nanasという駅で下車し、高層ビル群が立ちはだかるクアラルンプールの中心街を1時間以上さまよった末に何とかThe Ritz Carlton Kuala Lumpurに辿り着き、沢口靖子とリッツパーティを楽しむこともなく、一気に裏の仕事モードに突入したのであった。

11月8日(火)
裏の仕事のWork ShopでThe Ritz Carlton隣接のJW Marriot Kuala LumpurのBayu Ballroomに軟禁状態となり、キンキンにクーラーの効いた部屋で寒さに耐え忍んで過ごしていた。

11月9日(水)
クーラーの温度調節が多少改善されてきたようだった。重役のプレゼンテーション後の質問コーナーで意地悪な質問で虎の尾を踏んでやろうかと思ったが、踏みとどまった。

11月10日(木)
午前中のThe Ritz CaltonのCarlton 6 Conference roomでのセミナー後、午後は独立を勝ち取ることとなり、本業に戻ることが可能となった。目まぐるしく近代化が進んでいるクアラルンプール市内で私の興味を引く観光地は限られているのだが、まずはモノレールと近郊線を乗りついでマスジッド・ジャメを目指してみた。

1909年建立の古いモスクであるマスジッド・ジャメはイギリス人建築家によるデザインとなっている。日本武道館ほどの大きな玉ねぎではないものの、新玉ねぎのような白いドームが特徴的で、礼拝のない時間帯は原住民の絶好の昼寝スポットとなっている。

世界一の高さ約100mを誇るフラッグポールにマレーシア国旗がはためいていたのでその方向を目指して歩を進めていた。

マレーシアは1957年にイギリスからの独立を宣言し、マレーシアの国旗が初めて掲げられたのがムルデカ・スクエア(独立広場)である。広場内の噴水は化け物がゲロを吐いているような装飾となっているものの、自ら勝ち取った独立の威厳を感じさせる空気が漂っていた。

広場周辺にはアラビアンナイト風のエキゾチックな建物がいくつかあり、スルタン・アブドゥル・サマド・ビル(旧連邦事務局ビル)は絶好の映えスポットになっている。

1888年開業のセントラルマーケットを買う気もないまま散策することにした。マレーシアの民芸品店等いくつか見るべき店もあったのだが、店員がアグレッシブさに欠けていたのですべて素通りしてマーケットを後にした。

近郊線、モノレールを乗り継いでチョウキットという駅で下車してみた。この近辺は高層ビルが立ち並ぶエリアとは一線を画しているようで古き良き時代の雰囲気が残っている様子が見て取れた。

行く手にはペトロナスツインタワーが雨季の雲を突き破る勢いで尖っていたので、スコールをものともせずその方向を目指していた。

トンネルをくぐるとそこは大都会で川沿いの高速道路で分断されている左右の街はまるで別世界のようであった。

世界一高いビルの称号はとうに奪われてしまったものの、いまだに世界一高いツインタワーとしての地位を維持しているペトロナスツインタワーの内部に侵入し、頂点を目指したいと思っていたのだが、あいにくチケットは売り切れでおとといきやがれとのサインが出ていたのであえなく撤収し、雨の中ライトアップされたシルエットを恨めしく見上げていた。

11月11日(金)
午前10時半にホテルをチェックアウトし、モノレール、KLIA Transitを乗り継いで空港に向かった。

14:15発NH886便は定刻通り出発し、約6時間のフライトで午後10時過ぎに羽田空港に着陸した。入国前の検疫で時間を取られることがわかっていたので今日は羽田近辺の宿を押さえていた。おかえり東京キャンペーンで安く泊まれる上に買い物クーポンまでもらえる「変なほてる」のチェックインカウンターはロボットと恐竜が受付を担当しており、やはりTOKIOは世界有数のテクノポリスの地位を譲ってはいけないという意気込みを感じながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代:ただ
総宿泊費:ただ
総タクシー代:RM 210 (RM1 = ¥31)
総バス代: RM 14.4
総MLRT代: RM 12.5
総KLIA Express代:RM 61.5

協力:ANA、 Advanced Energy Inc.、Hotels.com、IHG、ナビスコ、楽天トラベル

災害と貧困の国バングラデ首都ダッカ町歩きツアー

マサよ!というと

マサよ~という

こだマサでしょうか!?・・・・・私だよ!!!

ということで、復興へと大きく舵を切らなければならない今日この頃であるが、マサのような高級官僚が描く復興のシナリオにのり、電力会社に天下って行くのもよいが、「災害」と「貧困」を生業としている国から学ぶべきことも多いはずである。一方で、少年隊がもう仮面舞踏会の招待状をもらえないはずの40代半ばを過ぎても少年隊を続けなければならないほどの高度高齢化社会に備えて人間力を鍛えておくことも重要視されている。

今回は貧しいながらも頻繁に起こる大洪水のような災害を受け入れながら生きるベンガルの緑地の日の丸を持つ国バングラデシュを訪問し、近年のサイクロンの襲来により、仮面ライダーのオートバイに荒らされたような窮地から回復する術を学ばせていただくべくダッカを練り歩くツアーが敢行されることとなった。

2011年3月30日(水)

「バングラデシュを訪れよう!観光客が来る前に!!」という自虐的とも言えるキャッチフレーズを掲げているせいか、すでに昨日目黒区のバングラデシュ大使館で破格ともいえる無償のビザを査証していただき、渡航の準備も万端整っていた。尚、大使館の近くに目黒寄生虫館が開館していたのだが、衛生状態が悪いはずのバングラデシュで注意しておかなければならない寄生虫の生態を予習しておこうとは最初から思っていなかった。

震災後のショックから抜け切れていない成田空港は閑散としており、午前10時発NH909便香港行きも多くの空席が目立っていた。午後2時前に香港国際空港に到着し、JALのマイレージが余っていたのでマサであれば5~6万くらいかかるところを私はただで搭乗出来ると思っていた割には、税金と称して\18,640を支払わされていた香港ドラゴン航空ダッカ行きのボーディングパスをトランスファーカウンターで入手した。KA192便ダッカ経由カトマンズ行きは定刻の午後6時5分に出発し、4時間のフライトで午後8時過ぎにダッカのシャージャラル国際空港に到着した。ほとんどの乗客がカトマンズを目指しているせいか、ダッカで下りた乗客は少人数だったため、割と短時間で入国審査を切り抜けることが出来たのだった。

空港ですでに蚊が多いことに気付き、今回のツアーの前途を懸念しながら空港のATMでバングラデシュの現地通貨であるタカを引き出したのだが、相棒のトシの「欧米か?!」を封印せざるを得ない程、欧米人の姿を目にすることがなくなろうとはこの時点では考えもしていなかった。運よく欧米人10人に会うまで「帰れまてん」という企画をも封印出来たので、タクシーカウンターでタクシーを発注して今回の宿泊先である当地の高級ホテルであるベストウエスタン・ラ・ビンチに投宿した。

3月31日(木)

ダッカは町歩きが好きな人にはたまらないと言われるものの、初日は心と体を慣らすためにホテル周辺の散策にとどめよと物の本に書いてあったのでまずはウォーミングアップを兼ねてホテルからダッカ中央駅までの4km程度を歩いてみることにした。

ダッカ市街地の大まかな地理を頭に叩き込み、けたたましいクラクションと喧騒の中をやみくもに歩いていると当然のように方向感覚を失ってしまった。大通りには普通車やバスだけでなく、CNGという圧縮天然ガスを充填して走る緑の三輪車が連なるように走り、リキシャと言われる地球温暖化ガスを排出しない自転車系乗客座席引っ張り乗り物が路上に満ち満ちていた。電柱から髪の毛のように伸びる電線は無造作に束ねられ、この国の電力事情の混乱を示唆しているように思われた。

蒸し暑い中、数時間歩いても駅へ向かう道の手掛かりさえ掴むこともままならなかったのだが、何とか線路を発見することが出来たので、線路の上を駅の方向に辿っていくことにした。線路沿いの風景は発展途上国にありがちなスラムの日常生活そのものであり、寄生虫が付いているであろう生鮮食品だけでなく、牛やヤギ等の家畜も列車に轢かれないようにしっかりと繋がれているのであった。

何とか辿り着くことに成功したダッカ中央駅にたまたまローカル系の列車が止まっていたのだが、乗客は車内だけでなく、屋上にも溢れており、完全に安全性を無視した運行体制が敷かれていることが確認出来た。また、男性が路上で用を足すときは通常の立ち姿ではなく座って放尿していたので、私も早くこの方式を会得しなければ膀胱炎は免れないのではないかと懸念された。

バングラデシュは日本の半分ほどの広さの国土に世界7位の1億4000万以上の人々が暮らしている人口過密地帯である。今回のツアーでは喧騒の首都ダッカだけでなく、近隣に2つの世界遺産を抱えるクルナを訪問しようと考えていたので、駅で気軽に列車のチケットの手配でもぶちかまそうと思っていたのだが、駅構内の表示や案内がほとんどベンガル語でクルナには来るな!と脅迫されている感覚を覚えたのでダッカに留まることにした。

ダッカ市内を数時間練り歩いて異様な疲労感を感じたのでホテルにとぼとぼと徒歩で戻ることにした。帰る道すがらの歩道には下水施設がいくつも崩壊した痕跡があり、これがサイクロン等の自然災害によるものか、もともとこのような体制なのか識別することが出来なかった。また、交通量の多いダッカでは事故も多いと見えて、ほとんどの乗用車は鉄パイプ系のバンパーを車体の前後にインストールしているのだった。

4月1日(金)

ホテルのふもとに大きな生鮮食品市場であるカウラン・バザールが商売繁盛していたので軽く覗いて見ることにした。貧困の国とはいえ、バザールには豊穣なベンガルデルタの恵みを実感させる程の食べ物が溢れており、お金が無くても何とか食いつないでいけるようなたくましさを思わず感じてしまうのだった。

昨日の放浪により、多少ダッカ市内の地理感覚が身に付いてきたので、ダッカ町歩きの目玉といっても過言ではないオールド・ダッカに恐る恐る足を踏み入れる決断が下された。道行く途中の広場では青少年が国技であるはずのクリケットに興じていたのだが、たまたまバングラデシュでクリケットのワールドカップが開催されているため、町中には主催者たるものを誇示する看板が至る所に設置されていた。

人間の巣窟とも言えるオールド・ダッカに足を踏み入れると、そこには将来マトン・カレーの原料となる羊たちが道端で沈黙していやがった。迷路のような細い路地を歩いていると、私のようなよそ者外国人は原住民から平均10秒くらいガン見されるのでそのプレッシャーに耐えながら歩を進めなければならない。

路地を抜け切るとブリコンガ川に行き当たった。ヒマラヤの雪解け水によって形成されたベンガルデルタと呼ばれる氾濫原を担っているはずのこの川とその岸辺はおびただしい程のゴミで汚されているのだが、原住民は平気で沐浴を楽しんでいらっしゃった。

ショドル・ガットという船着場にはロケット・スチーマーという外輪を持つ蒸気船が停泊しており、この船はダッカとクルナを26時間以上かけて航行する定期船となっているようだった。

ピンク・パレスとの異名を取るアージャン・モンジールを鉄格子越しにチラ見した後、ひといきれで窒息しそうになっても一息入れることが出来る場所のないオールド・ダッカからそそくさと退散させていただくことにした。

ホテルの近くにダッカ最大のショッピングセンターであるボシュンドラ・シティがリッチな買い物客でごった返していたので、フードコートがあればここで夕飯でもご馳走になろうと思って入ってみることにした。果たして中央ぶち抜きの7階建ての最上階はファストフード天国だったのでここでお約束のカレー系の食い物を食いつないで英気を養っておいたのだ。

4月2日(土)

ダッカを初めて訪れ、少しでも町中を歩いてしまった輩は、その後ホテルの外に出るのが非常におっくうになることが実証されたのだが、私は人間力を鍛えなければならない使命を帯びていたので、勇気を振り絞って喧騒に戻ることにした。ダッカ大学の近くに国立博物館(Tk75)がアカデミックな装いで門を構えていたのでバングラデシュ人と一緒にバングラデシュに関する各種展示物を見学させていただくことにした。ここで一番印象に残ったものはパキスタンからの独立戦争にかかわる資料で、壮絶な写真や虐殺された人々の遺品や遺骨が当時の惨劇を物語っていた。尚、バングラデシュの国旗の赤い円は独立戦争で流された血を表しているのである。

別に意図したわけではないのだが、人間の磁力に吸い寄せられるようにオールド・ダッカに舞い戻ってしまっていた。ここでは通りごとに異なる種類のバザールがござ~るのだが、鳥インフルエンザが蔓延するリスクのある家禽類のコーナーではスリムクラブが2010年のM1の決勝で世の中で一番弱いとのたまったウズラが籠の中に封じ込められていた。尚、世の中で一番強いものは放射能であることは皮肉にも実証されてしまっており、イスカンダルまで取りに行かなければならないコスモクリーナーDのような装置の早急なる自力開発が望まれているのだ。

これまでダッカ市内を歩き回って欧米人どころか東洋人にさえ会うことがなかったのだが、町で声をかけられてもほとんどはリキシャやCNGの運転手であった。となりのインドでは10m歩くごとに客引きに声をかけられたのだが、バングラデシュでは引き当てるべく観光資源が乏しいので無理もないことだと思われた。

今夜もボシュンドラ・シティで夕食をとることにした。フードコートでは多くのバングラデシュ人がクリケットワールドカップ決勝戦インド対スリランカに見入っており、時折大きな歓声が上がっていた。飯を食っていると雨季に入ったバングラデシュの氾濫の兆しを思わせるような雷雨のサウンドが聞こえてきたかと思うと館内の電気が一斉に消えてしまった。水はけの悪い道路はとたんに冠水しているようだが、原住民はビーチサンダルを履いているにもかかわらず、水溜りを避けて歩いていたので狭い歩道はいつにも増して渋滞状態だったのだ。

4月3日(日)

ダッカ滞在の最終日はホテルのチェックアウト時間の正午ギリギリまで部屋に引き篭もり、極力外界との接触時間の短縮を図っていた。重い気分を引きずってホテルを後にすると、今日はダッカで最も洗練された雰囲気を持つグルシャン地区に足を運ぶことにした。グルシャンに向かう道すがらで踏み切り待ちをしていると列車の屋根で少年が大の字になって立っている光景を目にした。

グルシャンが洗練されているとはいえ、その手前の池の周辺はスラム系の水上住宅街になっており、住民は渡し舟でそれぞれの帰路に着いていた。ウェスティン・ダッカがグルシャン地区随一の高級ホテルとして君臨していたので高い金を払って昼飯を食うという名目でしばらく目撃していないバングラデシュ人以外の人種の見学に行ったのだが、大きな成果は得られなかったのでとっとと撤収することにした。

ダッカ国際空港はグルシャンからわずか5km程度の距離だったので乗り物に乗らずに徒歩で向かっていると途中で何がしかのデモに遭遇してしまった。おびただしい数の原住民の熱い視線を感じ、声援さえ受けながらも何とかデモ隊を交わして無事に空港に到着することに成功し、念願の出国の手続きとなった。午後9時5分発KA191便カトマンズ経由香港行きは定刻通り出発し、機内でカトマンズに向かう観光客が少しでもダッカに立ち寄る気を起こすような観光客受入体制の確立を祈っておいた。

4月4日(月)

午前6時前には香港国際空港に到着したのだが、そこには日本からの到着旅客向けの健康相談デスクの案内が風評被害を煽るように各所に立てられていた。さらにキャセイパシフィックが運行する成田行きの便は何故かキャンセルになっており、スリムクラブも恐れる放射能の脅威をマザマザと見せ付けられたような気がした。

午前9時45分発、機体にパンダ紋様をあしらったNH912便はキャセイパシフィックがフライトをキャンセルするのもうなづけるほど空席が目立っていた。午後3時に成田に到着するとリハビリの必要性を感じたのでスリムクラブを輩出した沖縄へ流れされるように解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥21,830、日本航空(香港ドラゴン航空)= ¥18,640(税金のみ)

総宿泊費 Tk 22,880(Tk 1 = ¥1.2)

総タクシー代 Tk 800

総バングラデシュ ビザ代 ただ

協力 ANA、日本航空、香港ドラゴン航空

FTBSEAビルマの竪琴ツアー

ミズシマ(サよ)~ いっしょに ニッポンにかえろ~~!

ということで、仏像顔の中井貴一を主演に据えて1985年に公開されたビルマの竪琴の決め台詞は明石家さんまのひょうきん族のギャグにも採用され、一大センセーションを巻き起こしたのは記憶に新しいところだが、結局水島上等兵は帰ってくることはなかった。ビルマの国名は1989年にミャンマーに変わってしまったが、水島は今でもビルマの空の下で竪琴を弾いているはずだという思いに駆られ、その音色に引き込まれるようにこの地を訪れることになったのだ。

3月9日(水)

ビザ申請用紙の渡航目的欄に沖縄弁で「アウン・サン・スー・チーに会うんサ~!」と余計な事を書かなかったおかげで、予定通りミャンマー大使館でビザが査証されたパスポートを返却していただくことに成功した。

3月10日(木)

午前0時30分羽田発のNH173便に乗り込むと後輩の水嶋ヒロが出演している機内映画プログラムがあれば見ておかなければならないと思っていたのだが、幸いにもなかったので安心して瞑想モードに突入した。バンコクのスワンナブーム国際空港に午前6時前に到着すると、数週間に渡ってチケットを暖めておいたタイ国際航空TG303便に乗り換えると午前9時頃に市川昆監督や中井貴一も利用したことがあるはずのヤンゴン国際空港に辿り着いた。

スループットの悪い入国審査カウンターでアウン・サン・スー・チーの話題を持ち出さなかったのでアウンの呼吸で入国を許可されると念願のビルマの竪琴ツアーが開始されることとなった。地場の旅行会社であるミャンマー ゴールデン ガーデン トラベルに国内線のチケットの手配を依頼しており、ヤンゴン空港でチケットを受け取る手はずを整えていたのだが、要人であるはずの私が入国するということで用心のために代表取締役社長であるカイン カイン エー氏自らがパシリの役目を買って出て到着エリアで待ってくれていた。尚、ミャンマーの現地の旅行会社はメールでの日本語対応が可能であり、カイン カイン エー氏も流暢な日本語を喋るのだが、驚いたことに日本に行ったことはないとのことだった。

空港で「坂の上の雲」を読みながら4時間程やり過ごし、午後2時にエアバガンが運行する109便に乗り込むこととなった。この便がいくつかの経由地を経てバガンに到着したのは午後5時を過ぎた時間であったので、そそくさと空港でタクシーを拾ってホテルに向かうことにした。タクシーではお約束のツアーの客引きが便乗し、しきりにガイド付きのツアーを高値で売り込もうと躍起になっていたのだが、何とかのらりくらりと交わしている間にオールドバガンのホテル・タラバーゲートに到着した。

城壁に囲まれた保護区であるオールドバガンの入口にタラバー門が開門されているのだが、この門は9世紀にビンピャー王がバガンの防護を固めようと築いた城壁の名残である。

ホテル・タラバーゲートを出て夕暮れ時の町並みを散策することにしたのだが、バガンの観光の主要交通手段となる馬車の運転手兼客引きの執拗なマークに遭い、彼はホテルにゴールするまでそのマークの手を緩めることはなかったのであった。エーヤワディー(イラワジ)川が流れる岸辺は質素な村落地帯となっており、若者村民たちがセパタクローに興じながらその見事な足技を披露していた。

ホテルで夕食を取った後、ロビーでネットに接続出来るというので早速時間当たり$3の大金を払って速度の遅いインターネットに接続したのだが、この国の厳しい情報統制のおかげでかろうじてYahoo Japanには接続させていただけるが、Yahooメール等のウエブメイルは使用不能になっており、私のタイムリーな情報発信は制限されてしまったのだ。

ネット接続につき込んだ$3が無駄になり、蚊に食われた足を掻きながら呆然と空を見上げていると、ヒロとの結婚でミズシマ一族の一員となった絢香が歌唱する「三日月」が♪みんな空の下♪を明るく照らしていた。

3月11日(金)

ミャンマー最大の見所で世界的にも貴重な仏教遺跡のひとつバガンは、1044年にビルマ族による史上最初の統一王朝が開かれた土地であり、エーヤワディー川の岸に広がる乾いた平原に数千ともいわれる仏教建築物が林立し、幻想的な光景を目の当たりにすることが出来る。

とうことで、起きぬけにエーヤワディー川岸を散策し、バガンの朝の営みの一端を垣間見ることにした。川岸に着岸している船は単に居住空間を提供しているものや物資や人々を運ぶもの等様々であるのだが、浜辺では早朝から多くの原住民の往来が見受けられた。川岸から高台に続く階段に多くの原住民が座って朝飯を食っていたのだが、何故か皆一様に通り過ぎる私に対して物乞いの手を差し伸べていた。

階段の頂上に川を見下ろすように小さな円筒形の仏塔が光っている。このぶっとい仏塔はブーパヤー・パヤーであり、一説によると7~8世紀頃、ビュー族によって建てられたと言われている。

ところで、外国人旅行者はバガンへ入る際に$10の入域料を徴収されることになっており、私も昨日空港で入域料を奉納していたので、朝食後にその元を取るために本格的にバガンの散策に繰り出すことにした。手始めにホテルのあるタラバー門から程近いバガンで最も美しい建築とされるアーナンダ寺院を見学させていただくことにした。

仏教建築に興味がないであろうマサであれば、あ~何だ・・・という程度の印象しか持たないかも知れないが、アーナンダ寺院はバガンの遺跡を代表する最大かつ最もバランスの取れた美しい寺院だといわれている。本堂の中央には高さ9.5mの4体の黄金の仏像がそれぞれ四方を向いて収められており、朝日を浴びた東の仏像の足元では僧侶の読経に合わせて熱心な信者が朝のお勤めにいそしんでいた。

バガン遺跡観光の機動力を高めるためにホテル裏の馬車配送センターを兼業している自転車屋でママチャリをレンタルすることにした。バガン観光地区一帯はオールドバガンだけでなく、ニャウンウー、ニューバガンと広範囲に渡っているため、効率的に回るための足がどうしても必要になるのだ。

オールドバガンから北東に5km程離れているニャウンウーはバガン地区の入口となる町で長距離バス乗り場もある交通のターミナルとなっている。とある旅行会社で明日乗らなければならないバスのチケットを購入し、軽く町並みを眺めていると、セブンイレブンの看板を掲げながらセブンイレブンらしくないしなびた商店を発見した。

ニャウンウーの長距離バスセンターの近くにシュエズィーゴォン・パヤーがそびえている。これはアーナンダ寺院と並んでバガンを代表する黄金の仏塔で青空の下で圧倒的な存在感を示していた。日光で熱せられた広い境内を裸足で歩いていると仏塔以外にも多くの小仏塔や仏像が安置されているきらびやかな建物を目にすることが出来、原住民は額を地面になすりつけんばかりの勢いで祈りを捧げていた。

ニャウンウーからオールドバガンに向かう途中にあるティーローミィンロー寺院は1215年にバガン王ナンダウンミャーがこの地で王位継承者に選ばれたことを記念して建てた寺院である。5人の王子の中からの王位継承者の選定方法であるが、傘が倒れた方向に座っていた者を選んだというエピソードが残されており、ナンダウンミャー王は別名ティーローミィンロー(傘の王)と呼ばれていたためにこの名称が付いたと言われているのだ。尚、この方法が財務省で採用されれば、マサがトップの事務次官に成り上がるのも夢ではないと思われた。

猛暑での体力消耗を避けるためにミャンマーでは日中の最も暑い時間帯はホテルで休憩することが通例となっているので、ホテルに戻り何気なくテレビから流れるNHK Worldのニュースを見ていた。日本とは2時間半の時差のあるミャンマー時間のお昼過ぎに信じられないような光景が目に飛び込んできた。巨大地震と津波により東日本が壊滅し、水島の帰国を按ずるどころか私自身が帰国出来ないような恐怖感に駆られながら一瞬たりともテレビから目を離すことが出来なくなってしまった。

数時間後に何とか気を取り直し、仏教の聖地に来ているアドバンテージを利用してブッダに救いを求めるべく、再び炎天下に飛び出すことにした。12世紀半ばにアラウンスィードゥー王によって建立された美しい寺院は65mの高さを誇るバガンで最も高いタビィニュ寺院である。タビィニュとは全知者を指し、仏陀を意味しているのでここにお参りすれば何とかご加護を受けられるはずであろう。

バガンの遺跡は広い範囲に散らばっているので考古学保護区であるオールドバガンの南5~6kmに位置するニューバガンまで足を伸ばしつつ周辺の寺院や仏塔を眺めていた。

バガンの平原に夕暮れ時が訪れた頃、夕日の名所とされているシュエサンドー・パヤーに到着した。この仏塔はバガン黄金期の初期にあたる1057年の建立で、特徴的な5層のテラスの上を目指して観光客が急な階段を我先にと這い上がろうとしていた。塔のふもとでは金属製のリングをはめて首を長く見せる風習のあるバダウン族の女性が機を織りながら購買意欲の高い観光客が来るのを首を長くして待っていた。

サンドーとはビルマ語で「聖髪」を意味し、この仏塔の中にはモン族の所有していた釈迦の遺髪が納められていると言われている。この仏塔の最上部のテラスからはバガンの平原に無数に林立する仏塔群を見下ろすことが出来、夕暮れ時にはバガン中の観光客が参集するため、テラスの上は観光客で溢れ返ってしまうのだった。

3月12日(土)

早朝7時前にホテル・タラバーゲートをチェックアウトし、朝日を浴びながらニャウンウーの長距離バス乗り場への道のりを徒歩で目指していた。バス乗り場には日本でお払い箱になったバスが数多く停車しており、その余生はミャンマーでの過酷な道路事情でスクラップになるまで酷使されることになっているようだ。

原住民を満載したトラックも日本製で、あらためて日本の工業製品の品質の高さを認識することが出来るのだが、日焼け止めは現地の伝統の自然化粧品が使われている。しかし、柑橘系の木の幹をすりおろして粉にしたその化粧品は何故か「タナカ」と命名されており、ミャンマーではどこへ行ってもタナカギャルやタナカ児童が炎天下を闊歩しているのだ。

座席の広い日本の夜行バスの払い下げを受けた長距離バスは8時半にバガンを出発すると不安定な橋、水没した道路、迫り来る牛の大群を避けて午後2時前にはミャンマー第二の都市であるマンダレーに到着した。

バスを降りるとゲストハウスやタクシーの客引きが大挙して押し寄せてきたのでその攻勢をかわしながらバス乗り場を後にするとなおもバイクタクシーの客引きが追いかけてきたので仕方なく乗ってやることにした。マンダレーの長距離バスターミナルは市街から10km程南に位置しているので移動交通手段がないと市街に辿りつけないのだが、2時半頃には何とか伝統的ミャンマー様式を模した堂々とした概観を持つセドナ・ホテル・マンダレーに到着した。

予定よりも早くチェックイン出来たので、町に出て整然とした碁盤目状の町並みを歩いてみることにした。ホテルの目の前に一辺が3km、高さ8mの城壁に囲まれ、さらに濠をめぐらせてある旧王宮が町の中心部をなしているのでその南側の大通りに沿って西に歩いているとマンダレー駅に到着した。重厚な駅ビルとは裏腹にホームのある駅の構内は典型的な東南アジアの旅情が溢れており、原住民が織り成す人間模様を観察するのに持って来いの場所となっている。

さらに西に向かって歩を進めるとマンダレー最大のマーケットであるゼェジョーマーケットに到着したので、ここで中古の竪琴でも売っていないかと探し回っていた。路上ではナイトマーケットの準備がぼちぼち始まっていた頃であったのだが、何気なく見上げた視線の先にある看板を見て愕然としてしまった。何とここでは大胆にも竪琴がそばヌードルとして宣伝されていやがったのだ!しかも現地のそばということで竪琴を粉にしてそばにしてしまったのか!?という疑念さえ沸いてきたのでそのままホテルに引き返して平常心を取り戻すためにレストランに駆け込んだ。

ミャンマービールを飲みながらフィッシュカレーを流し込み、気持ちも落ち着いてきたところでロビーに出るとそこでは民族衣装に身を包んだホテルの契約踊り子が民族舞踊でマンダレーの夜を彩っていたのであった。

3月13日(日)

ミャンマーのほぼ中心に位置する古都マンダレーは1857年にミンドン王によって建設され、以後1885年にイギリスに占領されるまで、ミャンマー最後の王朝として栄えていた。その栄華の夢の跡を偲ぶために早朝より旧王宮を散策させていただくことにした。尚、このファシリティはミャンマー国軍の軍事設備も兼ねているため、外国人の入場エリアは限られているのだ。とりあえず、入口でマンダレー入域料としての$10を徴収されると中心部の美しく再現された旧王宮の建造物群に向かって突き進んでいった。

1945年3月に日本軍と英印連合軍との戦闘によって焼失した王宮であったが、現在では王の謁見の間や控えの間、宝物館等、往時の栄華が偲ばれるほど豪華に再現されている。

円筒形をした監視塔からは建物群を鳥瞰的に眺めることが出来るばかりか、遠くマンダレーヒル迄の眺望も提供しているのだが、実際に建造物を間近に観察すると建て付けの悪さがどうしても目に付いてしまうのである。

マンダレー駅の近くにエアバガンのオフィスがあり、そこでフライトのリコンファームを行った後、近隣のショッピングモールを軽く散策して猛暑を避けるためにホテルに戻ってきた。テレビから流れるCNNのニュースでは暗い音楽とともに日本の地震の状況がひっきりなしに伝えられていた。

午後3時を回った頃に活動を再開することにした。マンダレーの見所はマンダレーヒル周辺に広がっており、まずは麓の寺院であるチャウットーヂー・パヤーを見学させていただくことにした。本堂にある大きな石仏は1865年にミンドン王によって開眼されたのだが、その切れ長の目は中井貴一を髣髴とさせる細さであった。

白い仏塔が果てしなく並ぶサンダムニ・パヤーは、ミンドン王が王宮造営の間、仮の王宮となっていたそうで、そのひとつひとつの白い仏塔には律儀にも仏典を刻んだ石版が納められているのだ。

クドードォ・パヤーには仏陀が悟りを開いてから死ぬまでの説教をまとめた経典を刻んだ石版が729もの小仏塔群に納められており、時のミンドン王にして2400人もの僧を招集してその作業にあたらせたと言われている。

旧王宮の東北に隆起している標高236mのマンダレーヒルは、丘全体が寺院となっているマンダレー最大の聖地であると同時に絶好のサンセットスポットとなっているので満を持して登ってみることにした。マンダレーヒルへは車を使って7合目付近から観光を開始することも出来るのだが、私は当然のように麓から攻めることにした。

マンダレーヒルの頂上に達するまでの間は屋根のある参道が展開されており、要所要所に祠や仏塔が点在しているので、それらを見て歩くと結構時間がかかるのだ。また、道行く途中からも麓の寺院の遠景を拝みながら仏塔の配置と全体のスケール感を堪能することが出来るのである。

1時間程かけて何とか頂上に這い上がるとそこにはマンダレーヒルで最も古いスタンピー・パヤーの豪華絢爛な配色が施された仏教施設が待ち構えている。また、奥には下りの階段があり、ムイジーナッカという2匹のコブラの像が口を開けてそこにお布施のお札を挟めと催促するような上目遣いをしている。尚、このムイジーナッカはミャンマー人に大変な人気を誇っているようで、頂上まで巡礼に来た輩はもれなくこの像の前で記念写真を撮っていた。

夕暮れ時が訪れると僧侶も観光客も皆一様に西側のテラスの手すりにもたれかかると沈み行く太陽を最後まで見守り、マンダレー観光のハイライトを飾っていた。

3月14日(月)

セドナ・ホテルをチェックアウトするとダウンタウンにあるいくつかの見所を拾ってみることにした。シュエチミン・パヤーはマンダレー最古の仏塔とされ、バガン王朝時代に建立されたものらしいのだが、現在メンテ中になっているのでこの寺院が信者と猫の憩いの場になっている状況を確認して撤収することにした。

退官した東京都バスが走る大通りを抜けるとエインドーヤー・パヤーに到着した。ここには整った形の仏塔がそびえているはずなのだが、やはりメンテ中らしく、布で覆われた残念な姿をさらしていた。通常遺跡はそのままの姿で保存されることが多いのだが、ここミャンマーでは積極的に修復の手が加えられ、現役の仏塔や寺院として地元の信仰の支えとなっているのだ。

マンダレー市街から南に40km以上離れたマンダレー空港に移動するために流しのタクシーを捜していたのだが、中々捕まらず結局マンダレー駅まで流れ着いてしまった。駅で客待ちをしていたタクシーはMAZDAという看板は持っているものの明らかに日本製ではないオンボロ車だったのだが、時間も押していたので運転手にマンダレー空港まで走れるかと聞くとたどり着けるという自信を持った意思表示をしたので$20で契約して乗り込むことにした。バックミラーもサイドミラーもなく、走るための必要最低限の機能しかないタクシーは一応ガソリンで走るのだが、何とそのガソリンタンクは運転席の足元のポリタンクに満たされていたのだった。

普通車系のタクシーに何台も抜かれながら1時間以上かけて何とかマンダレー空港に到着した頃には、この乗り心地の悪いオンボロ車に情が移っていたので$5のチップを渡して無事に市街地に帰還出来るように祈っておいた。午後1時40分発エアバガン120便に乗り込むと4時前にはヤンゴン空港に到着し、空港タクシーで今日の宿泊先であるパークロイヤル・ヤンゴンに移動した。

ところで、ヤンゴン市街地までの空港タクシー代は$8なのでホテル到着時に運転手に$10札を渡したのだが、ドル札のお釣りがないと言いやがったので、それではミャンマーの紙幣で釣りをよこせと要求し、この旅で初めてミャンマーの通貨であるチャットを目にした。ミャンマーでは旅行者向けに米ドルが流通しているのだが、米ドルからチャットに両替するための公式な手段がなく、町中で物を買い食いしたりするのに非常に苦労するのである。通常の両替手段は両替商の看板も何も掲げていないブラックマーケットでの両替となるため、チャットを入手するのはYahooインスタントメッセンジャー等のようなお気軽さとは無縁のものであることを思い知らされるのだ。

ヤンゴン市街地中心部に位置するパークロイヤル・ヤンゴンにチェックインし、CNNニュースを見ながら相変わらずYahooメールが使えない不便を思い知った後、町に繰り出してみることにした。イギリス植民地以降、この町はラングーンと呼ばれてきたのだが、町には多くの植民地時代に建てられた重厚な建物が並んでいる。

ヤンゴン川沿岸に建つ仏塔はボータタウン・パヤー($2)で2500年以上昔、8人の僧がインドから仏陀の遺品を持ち帰ってここに安置したことに始まるといわれている。仏塔の内部はまばゆいほどの金で装飾されており、迷路のような道が張り巡らされている。

広い境内は多くの仏像で賑わっているのだが、日本から伝来したはずの「シェ~!」のポーズを決めたシュールな仏像が一際目を引いた。寺院の外ではそこいらの鳥たちを拉致して閉じ込めてある鳥かごが無造作に置かれているのだが、これは信者が金を払って鳥を逃がして徳を積み、逃がした鳥を子供が捕まえて小遣いを稼ぐという人間の身勝手なお金の流れの連鎖を支援するものであろう。    

3月15日(火)

ヤンゴンの市街はスーレー・パヤー($2)を中心に設計されている。スーレーとはパーリ語で「聖髪」という意味で、仏塔内には仏陀の遺髪が納められているといわれている。スーレー・パヤーでは早朝より多くの参拝客で賑わっており、仏教がミャンマー人の生活の一部として溶け込んでいる様子を間近で観察することが出来るのだ。

ヤンゴンで最も大きいボーヂョーアウンサン・マーケットに買う気もないのに行ってみることにした。ここではお土産物や宝飾品店等が多いのであるが、道行く外国人に対してミャンマー通貨のチャットへの両替を勧誘するささやき声も聞こえるのだ。

正午前にパークロイヤル・ヤンゴンをチェックアウトしようとした際に、昨日はクレジットカードは使えると言ったはずなのに今日になって現金払いにしやがれと手の平を返されてしまった。手持ちの米ドルが底をつきかけており、もう現金では払えね~ぜとダダをこねたところ他の通貨も受け付けるという妥協案を示してきたのでタイバーツで支払っておいた。尚、ミャンマーではクレジットカードを使える所が非常に限られているので観光客は米ドルでの現金掛け値なしの取引を覚悟して入国しなければならないのだ。

ミャンマーでの国営天気予報であってほしいミャンボ~ マーボ~天気予報の確認を怠っていたせいか、ヤンゴンに来て雨に見舞われてしまった。しとしとと降りしきる雨の中、ヤンゴンを見守るミャンマー最大の聖地であるシュエダゴン・パヤー($5)を参拝させていただくことにした。

ヤンゴン市外の北、シングッダヤの丘に金色に輝くシュエダゴン・パヤーの歴史は、今から2500年以上も昔にさかのぼるといわれている。言い伝えによると、とある兄弟の商人がインドで仏陀と出会った際に引導を渡される代わりに8本の聖髪をもらい、紀元前585年にこの地に奉納したのが起源とされている。

「シェ~!」の変形バージョンのポーズを決めたおやじに迎えられて104段の階段を登りきると高さ99.4m、基底部の周囲433mの巨大な仏塔に圧倒されることになる。この仏塔には8688枚の金箔が使用され、塔の最頂部には1個76カラットのダイヤをはじめ、総計5451個のダイヤと1383個のルビー等がちりばめられているのだ。

広大な境内の東西南北には祈祷堂があり、それぞれにシュエダゴン・パヤーにゆかりのある仏陀像が祀られている。尚、これまで無数のパヤーを見てきたが、仏教国ミャンマーの象徴ともいうべき仏塔「パヤー」は英語では「パゴダ」と呼ばれており、日本では「パゴダ」という呼称の方が通りが良いようである。

今回のツアーでは結局「ミズシマ」と名乗る日本人を探し出し、「いっしょにニッポンにかえろ~!」と呼びかけておきながら、連れて帰れないという実績を残す前に、自分が日本に帰れるかどうかの不安感に苛まれ、仏陀にすがるような思いで多くの仏教施設を訪問させていただく結果となってしまった。午後7時40分発TG306便でヤンゴンからバンコクに戻り、11時55分発NH916便が予定通り出発出来るのも仏陀のご加護であったのは間違いないはずである。

3月16日(水)

機内のエンターテイメントプログラムでキムタク主演のSpace Battleship Yamatoを見ながら有効な放射線除去の方法を考えていたのだが、宇宙戦艦ヤマトの原作のイメージが損傷されている印象だけが残留してしまった。

午前7時30分過ぎに成田空港に到着すると、Arrival Loungeにしばらく立て篭もり、過去数日に日本で起こったことをレビューし、気持ちの整理をしながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = だた、タイ国際航空 = THB11,900、エアーバガン = $197

総宿泊費 $354.08、\5,300

総バス代 $11

総タクシー代 $51

総バイクタクシー代 $3

総レンタサイクル代 $5

総ミャンマー出国税 $10

総ミャンマービザ代 ¥3,000

協力 ANA、タイ国際航空、Myanmar Golden Garden Travels & Tours Co., Ltd(http://gg.yangon.jp/)、楽天トラベル

奥東南アジア ラオスの桃源郷ルアンパバーン

水島上等兵に敬意を表してビルマの竪琴ツアーを実施するためにミャンマー行きの航空券をすべて手配し、満を持してミャンマー連邦大使館に観光ビザの申請に行ったのだが、、申請窓口の不機嫌そうな女性事務員が言うには何とビザの発行に一週間も要するというではないか。しかも私が大使館に出向いたのは出発の2日前だったのでもはやビザの発行を待っているとANAご利用券を使って購入したE-ticketが紙くずならぬEくずと化してしまい、マサに竪琴の弦が切れかかった窮地に陥ってしまった。。私の経験則から言うとブラジル大使館は人情にほだされてビザを予定より早く発行してくれた実績があったのだが、軍事独裁政権主義のミャンマーは頑として融通を利かそうとはしないので水島上等兵に「いっしょにニッポンへ帰ろう!」と呼びかけるミャンマー行きは延期せざるを得なくなってしまった。

高級官僚のマサであればその権力を盾に八百長をしてでも即日でビザを発行させたであろうが、ガチンコで勝負しなければならない私はすかさずバックアッププランの検討に取り掛からなければならなくなったのだった。バンコクから短時間で移動が可能だという要件から2007年の10月にラオスの首都ビエンチャンを訪問(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2007laos.html)し、雄大なメコン川を眺めながら再びこの地に戻らなければならない望郷の念に駆られていたので、今回はラオス北部の世界遺産都市ルアンパバーンに急遽足を踏み入れる決断が下されたのだ。

2011年2月24日(木)

夜中12時半出発の羽田発NH173便バンコク行きに乗り込むと同時に目隠しを装着し、どうしても私に挨拶をしないと気がすまないスチュワーデスの干渉を避けていると午前5時過ぎにはバンコクのスワンナブーム国際空港に到着した。次の便の乗り継ぎ迄の間に広い空港内を闊歩したのだが、巨大な免税ショッピングモールに設置された古代仏教のフェスティバル系のオブジェが圧倒的な存在感を示しているのを目の当たりにした。

バンコクエアウェイズが運行するPG945便ルアンパバーン行きは定刻13時30分に離陸すると約1時間40分のフライトで国際空港に到着した。空港のATMでラオスの通貨であるキープを引き出して当座の生活資金をキープすると、早速タクシーチケットカウンターでタクシーを発注し、20分程度で今回の宿泊地であるバン・ランカーン・ゲストハウスにゲストとして迎えられることと相成った。チェックインの手続きもそこそこにメコン川とその支流のナムカーン川に挟まれたルアンパバーンの中心地を彷徨うことにした。

ラオスの北部は、そのほとんどが山岳部で形成されており、その山々の間に世界遺産都市ルアンパバーンが桃源郷のように存在し、その魅力から多くの欧米観光客の楽園となっている。なるほど川べりには多くのホテルやゲストハウスが軒を連ね、皆一様に川を見下ろすようにバーやレストランを開業させている。水深の浅いナムカーン川ではたくさんの児童たちが水遊びに興じており、マサに古き良き時代の日本の田舎の風景を思い起こさせてくれるのであった。

大河メコンに多くのスローボートが繋留されているのを確認し、メインストリートに移動するとそこはナイトマーケットの出店準備をしている原住民で賑わいを見せ始め、大事な売り物を足蹴にしないように注意をしながらゲストハウスに引き上げていった。

2月25日(金)

ルアンパバーンでは特定の建造物ではなく、町全体が世界文化遺産に登録されているのだが、今日は大小あわせて70以上もの寺院のうち、代表的なものをお参りさせていただくことにした。

ルアンパバーンのシンボルになっているワットシェントーン(Kip 20,000)は1560年に建立された寺院でラオスの寺院の中で最高の美しさを誇ると言われている。本堂は「ルアンパバーン様式」といわれるスタイルで建造されており、屋根が大胆に湾曲しているのが特徴とされる。

ホーラーサロットと言われる車庫には実際に1960年に行われたシーサワンウォン王の葬儀で使用された霊柩車が収められており、その金の装飾が王の圧倒的な権威を示しているように思われた。敬礼をしている寝仏が納められた祠は「レッドチャペル」との異名をとり、その名の通り、ピンク地モザイク画で彩られている。

ルアンパバーンの中央にそびえる高さ150mの小高い山プーシー(Kip 20,000)はかつて神様に導かれてこの山に辿りついたという仙人の山で頂上にタートチョムシーという塔が建っている。頂上からはメコン川とナムカーン川の間に広がるルアンパバーンの町を見下ろすことが出来、町の構造を鳥瞰的に把握するのに一役買っているのだ。

プーシーから下山して麓にあるこじんまりした寺院の古い壁画に目を通した後、かつて王宮だった建物を利用して王朝時代の歴史を展示しているルアンプラバーン国立博物館(Kip 30,000)を見学することにした。ルアンプラバーンはこの町の旧名称であるのだが、館内には王族が使用した家具調度品や日本を含む各国使節からの贈答品などが展示され、当時の繁栄を偲ばせてくれるのだ。

当博物館の裏手にラオスと日本の共同プロジェクト10周年を記念して修復仏像展が開催されていた。仏教学科を主体にした身延山大学の指導で修復された仏像の展示物もさることながら、ここでは仏像修復所も公開されており、タバコを吸いながら修復を見守るけしからん輩や「自然に古く見せるようにしなけりゃだめだよ!」と厳しい指導をする大学関係者の権威も垣間見ることが出来るのだ。

メコン川の向こう岸に沈む夕日を背景にスローボートで到着した欧米人客を獲得しようと躍起になっているゲストハウスの客引きとの攻防戦が終盤に差し掛かった頃には日もとっぷり暮れてしまったのでナイトマーケットの物産を物色することにした。出店者は周囲の村々の少数民族で織物やお茶や日用雑貨を交渉に欠かせない電卓片手に適正価格で販売し、ボッタクリ店との汚名を着せられないように配慮しているようだった。

2月26日(土)

ルアンパバーンの早朝の象徴的な光景となっている托鉢を見学するために夜も明けきらない5時半にとある寺院の前で待ち伏せをすることにした。托鉢とは、坊主頭の寺院の僧侶が喜捨を受けに町を歩く儀式でラオス全土で行われているのだが、世界遺産の町ルアンパバーンではほかの町とは比較にならない規模で実施されているのだ。

托鉢が行われるのは早朝5時半~6時半と聞いていたので満を持して5時半に集合したのだが、托鉢の始まる気配さえ感じられなかったので暗闇の中でしばらく時間をつぶさなければならなかった。しかし周囲が明るくなった6時半頃にはタクシーやトクトクで多くの団体観光客が参集し、それぞれのポジションに着くとほどなくプレイボーズとなった。

世界遺産に登録されて以来、観光化されてきた宗教儀式とはいえ人々は僧侶に敬意を示さなければならないので基本姿勢は正座となっている。また、フラッシュ撮影が禁止されているのは決して僧侶の頭からの反射光が眩しいからではないのである。

僧侶は各寺院の行列毎におのおの金属製の壺を持って裸足で練り歩き、貢物は主にもち米ご飯やバナナ等の食べ物であるのだが、すぐに壺が一杯になるので青少年少女が合掌しながら路上に控え、あふれた貢物を回収するシステムになっているのだ。

托鉢をプレイ坊主からゲームセットまで見守り、仮想的に徳を積むことが出来たのでさらなる悟りを開くために寺院巡りを再開することにした。1821年に建立されたワットマイ(Kip 10,000)はラオスにおける仏教芸術が最盛を誇った頃を髣髴とさせる絢爛さを誇っており、五重に折り重なった屋根はワットシェントーンよりも美しいと言われている。

おばあちゃんが現役看板娘として取り仕切っているスイカ売り場の奥にベトナム風寺院のワットパバートタイ(Kip 10,000)がひっそりと存在している。さすがに建物の建築様式は他の寺院とは異なっており、中には巨大な黄金の寝仏が薄目を開けながら寝たふりをしていた。

ナーントランニーという仏を守る女神の像が躍動しているワットタートルアンをちら見し、さらに町中を歩いていると衣料品店の店先では現代風の娘が不自然に笑顔を取り繕っていた。

ついさっき目にした大量のスイカの幻影を消し去ることが出来ないままワットビスンナラート(Kip 20,000)に到着した。タートパトゥムという塔がスイカを半分に切ったような形をしていることからこの寺にはスイカ寺という別名が付けられているのだ。

ワットビスンナラートに隣接するワットアーム(Kip 20,000)の本堂正面の両脇には力士のような鬼が股を割って構えており、内部の仏画は八百長をした力士の将来を暗示するかのような地獄絵図がデザインされているのだ。

ここ数日間ルアンパバーンの町中を歩き回ったわけだが、体内には当然疲労が蓄積し、それを解消するための癒しが求められるのだが、この地には数多くのマッサージ店が軒を連ね、しかも1時間500円程度の安値で施術してくれるので毎日通っても財政難に陥る懸念はないのである。

大通りの中央のとあるカフェの奥にカム族に伝わるマッサージを体験出来るマッサージ屋が開業していたので試しにカムマッサージ(Kip 55,000)を受けてみることにした。カム族ということで歯を使った甘噛みが駆使されるのかと思ったのだが、女性施術士が施した技はカム族秘伝のツボマッサージということだった。

2月27日(日)

マサよ、君は無免許であるにもかかわらず象の運転を強制され、何とか無事故無違反で乗り切ったことがあるか!?

というわけで、ルアンパバーンは現在のラオスの礎を築いた「ラーンサーン王国」の都として発展を遂げたのだが、ラーンサーンは百万頭の象を意味し、それを国名にしてしまうほど象との関係が深いのである。そういう背景からこの地では多くの優秀な象使いを輩出しており、養成のための教育体制も充実しているのだ。今回はその実態を確認すると同時に私にとっても将来上野や旭山動物園で再就職する際の賃金交渉を有利に進めるために象を運転するトレーニングに参加させていただくことにした。

All Lao Camp & Resortが提供するメニューで2 Days Mahout Courseという2日間で象使いに成り上がるコースにあらかじめ申し込んでおいたのでゲストハウスに迎えに来たバンに乗り込むと山中に展開されているキャンプ&リゾート地に向かった。尚、Mahoutを辞書で引くと「象の御者で飼い主(the driver and keeper of an elephant)」となっている。

All Lao Camp & Resortのファシリティはルアンパバールから車でわずか20分程度、ナムカーン川の両岸に展開されている。最初にとあるElephant Riding Platformに到着すると休む間もなくElephant Ridingの火蓋が切って落とされた。象には背中に2人掛けの座席がインストールされており、ドライバーも含めて3人乗りがスタンダードとなっている。出発当初は象使いが象を運転し、私とオーストラリアから来たおばちゃんが後部座席で余裕をこいて座っていたのだが、ふいにその象使いは、子供や動物やヘッドハンターから絶大な人気を誇っている私の特性を見抜いた様子で私に運転を代われと言いやがった。

象の背中を伝って何とか運転席にたどり着いた私は象の首周りの筋肉の動きを内太もも内転筋に感じながら、これがラオスで最も効果的なマッサージだと思っていた。シートベルトもなく安定感の悪い象の運転席に座り続けるのは意外と体力を消耗するもので体勢を安定させるための唯一のよりどころは象の頭しかないのであった。また、エアーバッグもないので象に振り落とされて落象したあかつきには大怪我は免れないことであったろう。

象の大きな耳のパタパタを膝元に感じながら、ナムカーン川の浅瀬を渡り、今日の宿泊地となっているMahout Eco Lodgeに到着すると部屋に準備されていた囚人服のようなユニフォームに着替えなけれならなかった。尚、象に類する巨体を持つオーストラリア人のおばちゃんにフィットするユニフォームはなかったので必然的に彼女は私服での参加となったのだ。

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昼食後にコースの講師兼世話役のアットに案内されてボートで川を渡り、対岸のビレッジを軽く見学する運びとなった。尚、アットが居住しているあばら家もその村にあり、中では妻が新生児が眠っている揺りかごを揺らしていた。

象使いになるためにはMahout Training Schoolで講習を受けるのが必須となっている。ここでは講師のアットから象に対するコマンドが教授されたのだが、象は元々言語を持っていないのでこれは象を操るための造語に過ぎないのである。

基本的な象語を会得した後、再び象に搭乗し、Elephant Bathing Areaまで運転する運びとなった。川に象を沈めると水をかけて象を洗濯するという重労働を強いられるのだが、「Bone bone、ブン ブン」というコマンドで象は鼻で吸い上げた水を自らの背中にかけ、背中にしがみついている人類をびしょ濡れにして喜ばすというのが定番になっている。

Mahout Courseには象の相手だけでなくその他のアクティビティも含まれているのだが、象に水をかけられてびしょ濡れになった勢いを駆ってTubingという浮き輪にはまって川に流されるという1時間程度の放置プレイに参加することにした。このプレイにより観光客はナムカーン川のゆるやかな流れに乗り、田舎の桃源郷のような景色を眺めながら徐々に癒されていく感覚を覚えるのだった。

夕暮れ時にボートに乗ってアンリ・ムオというフランス人探検家の墓にお参りに行くことになった。アンリ・ムオはインドシナ半島のジャングルを探検しているときにアンコール・ワットを発見してワット驚いたという輝かしい実績を持っているのだが、マラリアに罹り、この地で終焉を迎えることになってしまったそうだ。また、ここはラオスの中心地とされ、Zero kmの碑も建てられているのだ。

ところで、世話役のアットにルアンパバール近辺のジャングルの野生動物情報を聞いたところ、コブラのような毒蛇がツイストをしながらやってくることはないが、虎はいるかも知れないとのことだった。現にアットの子供時代に親とボートで魚採りをしているときに六甲おろしに乗ってもいない猛虎が川を泳いでいる光景を見てアット驚いた恐怖体験を持っているとのことであった。

2月28日(月)

コース2日目は早朝7時に起床し、ジャングルまで象を迎えに行き、さらに朝の水浴びをさせなければならなかった。象を洗っているその脇を象の糞がどんぶらこと流れていくというようなコミュニケーションの継続により象との信頼関係が築かれ、将来的には地元の象使いのように象の上でタバコを吸ったり、運転しながら携帯メールを打つといった離れ業が身に付いていくものと思われた。

朝食後のアクティビティのオプションとしてエスニック・ビレッジへのトレッキングとカヤッキングがあったのだが、もう水に濡れたくなかったのでトレッキングを選択することにした。炎天下の山道をガイドの先導で2時間ほど練り歩くと正午前にしなびたビレッジに到着した。

竹で建築された粗末な家が並ぶ村の人間模様を軽く見学させていただいた後、村の重役とおぼしき人の家で昼食をご馳走になることになった。食事は川魚の切り身を油で炒めた物に指で丸めたもち米ご飯をなすりつけて食べるという素朴なものであり、子沢山の大家族の他のメンバーは米で作られているはずの麺を召し上がっていた。

電気もなく、NHKも放映されない素朴な村であるが、観光客のホームステイは受け付けているということで、八百長で廃業になった力士が人生をやり直すためのスタート地点としてこの上ない環境が提供されていることは確かであろう。

トレッキングも無事終了したのでルアンパバーンに戻り、予約していたThe View Pavilion Hotelという高級ホテルで涼を取った後、夕飯を求めて町に出ることにした。村での質素な生活と食事を参考にして今夜は市場の露天で供される惣菜と焼き魚をBeerLaoで流し込み、わずか400円程度の支払いで済ませ、余った金はFoot Massageにつぎ込みながら桃源郷での最後の夜を過ごしていた。

3月1日(火)

ホテルがメインストリートの寺院の前に立地していることから図らずも再び托鉢のオレンジの隊列を見守ることとなった。地元の熱心な信仰者は毎日欠かさずお供えを与えるのかと思っていたのだが、今日路上で膝まづいている外国人観光客を除く地元の人々の顔ぶれを見ると3日前の参加者とは異なっているようだった。

メコン川のクルーズも兼ね、上流にさかのぼる事25km、メコン川がナウムー川に合流する地点にある洞窟を訪れるツアー(Kip 95,000)に参加することにした。午前8時半の集合時間にはすでにたくさんの欧米人観光客が参集しており、皆それぞれに指定された小型のスローボートに乗り込んでいった。私を含めた総員5名が乗船したボートは出航後しばらくすると水上IDEMITSUガソリンスタンドで燃料を補給した後、座り心地の悪い椅子の上でケツをよじりながら1時間以上の単調な水上クルーズが続けられた。

最初の上陸ポイントはバーンサーンハイという酒造りの村で、ここはラオスの焼酎である「ラオ・ラーオ」を蒸留している現場を見学することが出来る。また、売られている酒類の中にはお約束のコブラ等を漬け込んだ滋養強壮酒も並んでおり、見るだけで背筋の寒さを覚えるため、夏バテ防止に効果があるのではないかと思われた。

村ではラーオ・ルー族の女性があちこちで機を織っており、その華やかな成果物が多くの店先を飾っていた。世界的にも評価の高いラオスの織物だが、このような形で生産された物がルアンパバーンのナイトマーケットのテントの下で観光客の物色の対象となるのであろう。

船がさらに30分程上流に向かって航行すると巨大な絶壁の隙間に白い階段が伸びている光景が目に飛び込んできた。パークウー洞窟(Kip 20,000)はその岩肌の洞窟に安置された数千の仏像で知られており、ルアンパバーン市内の寺院中心の仏教施設とは趣を異にした光景を見学することが出来るのだ。

洞窟は2ヶ所あり、川に面した切り立った崖にくりぬかれた洞窟が「タムティン」、さらに上にある恰幅のよい仏像に守られた真っ暗な横穴が「タムプン」となっている。

正味4時間のツアーで上陸部分がわずか1時間程度の観光が終了するとThe View Pavilion Hotelに戻り、送迎車でルアンパバーン空港に帰って行った。午後4時10分発予定のPG946便は1時間以上の遅れを出したものの大勢に影響なく、7時過ぎにはバンコク国際空港に到着した。深夜便の発着が多いバンコク空港のショッピングモールは夜が更ける程に人出が多くなり、その喧騒を抜けて午後11時55分発NH916便に乗り込むとすぐさま瞑想状態に入らせていただいた。

3月2日(水)

午前7時半過ぎに成田空港に到着し、その足でミャンマー連邦大使館に向かったのだが、「農民の日」という祝祭日のため大使館は閉館となっており、ミャンマーへの道のりがいかに厳しいかを寒風の中で感じながら流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ただ、バンコクエアウェイズ = THB15,620

総宿泊費 $341

総タクシー代 Kip 50,000 (Kip 10,000 = 約¥100)

総Airport Transfer代 $6

総 2 Days Mahout Course代 $95

協力 ANA、バンコクエアウェイズ、All Lao Travel Service(http://www.alllaoservice.com/)

新春スペシャル ミヤネ屋では行かない世界の屋根ネパールツアー

つん つくつくつくつん ♪♪ つん つくつくつくつん ♪♪

ひや~~ ひや~~ ひや~~ ひ~~ ♪♪ 

ベンベラ ベンベラ ベンベラ ベンベラ ベン ベン ベン ベン ベラン♪♪

ということで、アラフォー時代もとうに過ぎ去り、アラウンドAKB世代に差し掛かった今日この頃にもかかわらず、今年も♪ヘビ~ぃ ローテーション♪で世界を駆け巡らなければならない私にとって48までに達成すべき目標がいくつかセットされた。その第一弾としてネパールに足を踏み入れ、ヒマラヤ周辺の調査を行うべくミッションが遂行されることとなったのだ。

2011年1月1日(土)

ハッピー ニュー マサよ!!

というわけで、元旦を迎えた成田空港は閑散としていたにもかかわらず羽田からのハブ空港の覇権を取り戻そうとする努力の一環なのか、お屠蘇無料サービスが振舞われており、アルコール飲料は有料になっている米系航空会社に搭乗するであろう輩はここぞとばかりに無料の酒を煽っているかのような賑わいを見せていた。

午前9時50分発のNH909便香港行きは定刻どおりに出発し、機内で「海猿3 THE LAST MESSAGE」を見ながら海上保安庁が一時的に海上不安庁に陥ってしまっても最終的にハッピーエンドで終わることが確認出来たところで香港国際空港に到着した。空港で3時間程やり過ごした後、DRAGONAIRが運行する午後5時25分発KA192便に乗り込むとバングラデッシュのダッカを経由したしたものの午後10時過ぎにはカトマンドゥのトリブヴァン国際空港に到着した。

ネパールに到着すると日本との時差が3時間15分という中途半端な設定のおかげで時差ぼけを感じることなく空港のカウンターでタクシーを発注するともれなく現地の旅行会社の勧誘員がついてきやがった。K.Bと名乗る若者は巧みな日本語を操り、ホテルに到着するまでの限られた時間の中で様々なツアーのプレゼンテーションを展開したのだが、つつがなくかわすことに成功した。PRIORITYCLUBのポイントが余っていたのでマサであればUS$150くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るKATHMANDU SOALTEE Crowne Plaza Hotelにチェックインするとホテルのカジノで年末ジャンボが当たらなかった分の穴埋めをするわけでもなく早々とダウンしてしまった。

1月2日(日)

早朝よりヒマラヤの民との交流を図るために町に繰り出すことにした。カトマンドゥはネパールの首都とはいえ、町中は非常にとっ散らかっており、トラック、バス、タクシーやバイクの排気ガスで溢れており、さらにゴミが至る所に投げ捨てられているため上級住民は皆マスクをして町中を徘徊していた。しかし、かつてヒンドゥー教を国教とし、信仰心の厚いお国柄のせいか、多くの豪華絢爛な寺院が目に付いたのだ。

ネパールの先住民ネワール族によって、独自の文化が育まれたカトマンドゥ盆地には中世時代に建立された王宮や寺院等の多くの世界文化遺産が受け継がれている。まずは手始めに丘の頂に建つ、ネパール最古の仏教寺院であるスワヤンブナートに参拝させていただくことにした。高台に鎮座する白く巨大なストゥーパ(仏塔)に描かれた目つきの悪い目は「四方を見渡すブッダの知恵の目」と言われており、マサにカトマンドゥ全体に睨みを利かせているかのようであった。

新年を迎えたスワヤンブナートは多くの参拝客で溢れかえっていたのだが、人間の数に匹敵する猿と犬も暮らしており、修行験者風の老人も観光客からの寄進を得ようと寺院内を徘徊していたのだった。

展望台からは霧の底に沈んでいるカトマンドゥ盆地を見渡すことが出来、参道の階段には絶え間なく人々が行き交い、密教のご本尊である大日如来やヒンドゥー教の女神ガンガとヤムナーからの複合的ご利益を得ようと躍起になっているかのようであった。

スワヤンブナートから下界に降り、しばし町中をさまよっていたのだが、カトマンドゥは世界に冠たる観光地であるにも拘わらずトイレの設置数が非常に少ないことが問題であると思われた。さらに神様仏様はそこいらに奉られているのだが、数少ないトイレには植村花菜のおばあちゃんが信奉する「トイレの神様」は居住していないようでピカピカには磨かれていなかったのだ。従って、ここでは絶対にべっぴんさんになりたければ高須クリニックに頼らなければならないという現実を突きつけられるのだった。

けたたましいクラクション音が鳴り響く路地や大通りを抜け、市バス乗り場に辿り着くとそこからバクタプル行きのバスに乗り、ネパール人と一緒に小1時間程度の小旅行を楽しんだ。カトマンドゥから東へ12kmほどの距離に位置するバクタプル(世界文化遺産)はカトマンドゥ盆地で3番目に大きな町で外国人が町に入るためには文化財保護基金としてUS$15をむしり取られる仕組みになっている。

一度は盆地全体の首都に成り上がった実績のあるバクタプルは中世の町そのものの佇まいを残しており、カトマンドゥの中心部ほど人も多くないのでのんびりと観光に専念することが出来るのだ。町の西側のダルバール広場には衛兵にガードされた旧王宮、国立美術館やいくつかの寺院が絶妙の伽藍配置で並び建っているのだが、ブバティンドラ・マッラ王の石柱の前では新年の催し物であるはずの民族系の踊りが繰り広げられていた。

トゥマディー広場には18世紀初めに建立されたニャタポラ寺院が君臨しており、カトマンドゥ盆地で一番高い5層の屋根から成る高さ30mの建造物はその存在感を際立たせていた。バクタプルの奥には数多くの土産物屋もさることながら、原住民の日常生活も息づいており、共同水道場での井戸端会議や布を粛々と織るおばあちゃんの姿等が目に焼き付いたのだった。

1月3日(月)

早朝7時発の長距離バスに乗るために闇夜の午前5時半にホテルをチェックアウトし、明かりのない漆黒の中を歩いていた。ライトも無く、足元が全く見えない中、勘に頼って歩を進めていたのだが、とある場所に一歩を踏み出すとふいに体に無重力状態を感じた。何事かと気づいた時にはすでに遅く、その場所だけ蓋のはずれた深い側溝にすっぽりと陥ってしまったのだ。溝の中には「ナマステ」と言いながらなまものを捨てているはずの堆積物がヘドロ化しており、その邪悪な黒いヘドロがズボンの裾に練りこまれてしまった。

マサであればドブに落ちたショックで30分程放心状態に陥ったことであろうが、私は30秒で精神状態を立て直すとドブから這い上がり、左足首の軽い捻挫の痛みと衛生状態のよくないネパールの疫病に感染するかも知れない恐怖を感じながらも再び目的地に向かって歩き始めた。多くの人々で賑わう市場で人の波を掻き分けて前進し、暗がりで見通しの利かない寺院が群集するダルバール広場を抜けたところで道に迷ってしまった。何とかタクシーを捕まえ、バス乗り場に急行させると首尾よく目的地行きのバスにしけこむことに成功したのだが、バスが出発後、車掌がチケットをチェックする際に私のチケットを何も言わずにしげしげと見つめていたのだった。

ズボンの裾になすりつけられたヘドロから漂ってくるドブ臭に悩まされながら5時間程バスで走ると中央ネパール南部の、マハーバーラタ山脈とチューリヤ丘陵の間にひらけたタライ平原の一角に降り立った。バス乗り場は多くのホテルの客引きで賑わっていたのだが、私はすでに井上陽水も推奨するはずのリバーサイドホテルを予約していたので迎えのバンに乗り込んだ。2泊3日、3食昼寝プラス各種アクティビティ付きながらUS$135のホテルにチェックインするとズボンを履き替えてビレッジツアーに参加することと相成った。

ソウハラ村は先住民であるタルー族が細々と生活している田園地帯でその暮らしぶりを見学するために井上陽水をほうふつとさせるサングラスをかけている現地ガイドに付いて田舎道を闊歩していた。タルー族は独特の文化を持っており、毎年張り替えられる家の土壁には「ペイズリー模様」の名で知られる匂玉模様が描かれており、軒先に干されているとうもろこし、整然とした鳩の巣、大量の蜜を生産する蜂の巣等、思わず望郷の念に駆られるような光景が次々に展開されたのだった。

ツアーの終盤に国立自然保護局に辿り着いたのだが、そこには巨大なアジア像が牙を剥き出しており、また驚いたことに分厚いプロテクターを身にまとった野生のインドサイが草原を我が物顔で闊歩していやがった。

1月4日(火)

冬場でも水温の高いラプティ川から立ち上る朝靄の中、カヌー乗り場に到着すると見事な一木造りでくりぬかれた数人乗りの丸木舟にライフベストも着けずに乗り込むと朝一のアクティビティであるカヌーライドがスタートした。カヌーはいつしか世界遺産に登録された野生の王国であるチトワン国立公園の敷地に紛れ込み、1時間程でジャングルウォークのスタート地点に到着した。

チトワン国立公園およびその周辺には獰猛な人食い虎や人食いワニ、村には人食われ牛や人食われ鶏等が生息しているのだが、野生と人類の暮らしとの間には高電圧が流れる針金で仕切られているのだった。ジャングルウォークでは目の前を足早に走り去るインドサイの親子やベンガルトラの生の糞、巨大なアリ塚、川沿いに佇むクロコダイル等を観察することに成功した。

ジャングルを抜けるとエレファント・ブリーディング・センターという象を育てて喜んでいるファシリティに到着した。ここでは2年前に誕生した世にも珍しい双子の象がすくすくと育っている有様を見せ付けられるのだが、その母親はジャングルに放牧に出た際に野生の間男系の象と関係を持ったらしく、すでに妊娠してしまっている驚愕の事実が伝えられた。

川べりではおっさんが絶妙なノミさばきで木彫りの仏像や動物の製作にいそしみ、その成果物は安価で直売され、観光客の人気を博していたのだが、私はすでに鎌倉で入手した大仏や高知で買った坂本竜馬像を持っているのでそいつらに仁義を尽くすために何も買わないことにしたのだった。

リバーサイドホテルの目の前の川にエレファントドライバーに運転されてやってきた数頭の象が集結し、次々に川に入っていった。象使いの指示で川の中に横たわった象に水をかけて河原の石やたわしで象の皮膚をこするエレファント・バスがすでに開始となっていた。このアクティビティは観光客から金を巻き上げながら象の入浴という重労働をさせて一挙両得を得るというものであるが、私もヘドロの染み付いたズボンで川に入り、ドブ臭を洗い流すとともに象のエキスを取り入れるというお得感を十分に満喫することが出来たのだった。

昼食後にホテルのハンモックで昼寝をした後、チトワン国立公園での最大のアクティビティであるエレファント・サファリに参加させていただけることと相成った。所定の場所には既に数十頭の象が勢ぞろいしており、おのおのの背中には巨大な2枚重ねの座布団の上に正方形の木組みの観覧席がインストールされていた。4人の観光客は各角に配置され、エレファント・ドライバーも含め、象は合計5人を乗せて歩くという重労働を強いられるのだ。

アジア象のコンボイは川を渡ると野生動物の宝庫であるはずのジャングルの奥へと踏み込んでいった。しかし、今回のサファリの参加者がジャングルで目にすることが出来た動物は人類に支配された象の群れのみであったのだった。

1月5日(水)

ソウハラ村の長距離バス乗り場で窓枠からすきま風が入ってくるバスに乗り、5時間程の時間をかけてアンナプルナ連邦とフェワ湖に抱かれた楽園であるポカラにやってきた。バスが到着すると予約していたホテルに手配していただいた送迎タクシーに乗り込み、数分でトラベル・インに到着した。ポカラはネパール観光のドル箱となっているトレッキングツアーの拠点の一つとなっているため、フェワ湖周辺にはおびただしい数のホテル、レストラン、ショップ、インターネットカフェが立ち並んでいるのだが、中でも巨木に着色を施したasian paintsの広告が至る所で異彩を放っていた。

ポカラの標高はわずか800m程なのでむしろカトマンドゥよりも暖かく、亜熱帯らしい雰囲気も漂っているのだが、すぐ目の前には7000m~8000m級のアンナプルナ連邦が広がっており、その高低差は世界でも類を見ないものである。また、高さは6993mしかないものの手前にあるため、ひときわ大きく見えるマチャプチャレがポカラの象徴として天を目指して尖っていた。

フェワ湖には色とりどりのボートが浮かべられ、天気の良い日には何もせずにボ~とするのが最高の贅沢ではないかと思われた。一方で原住民たちはフェワ湖で体を洗い、原住主婦たちは湖や川で洗濯を行っており、生活の原点を垣間見ると同時にネパールのエコシステムを思い知らされたような気もしたのだ。

夕暮れ時に今日のディナーを求めて徘徊していると「大阪名物くいだおれ」がはるかネパールの僻地で再雇用されている現実に直面したのだが、私は迷わず本格的なネパール料理を堪能出来るタカリ・キッチンでスペシャル・ディナーを発注した。尚、物価の安いネパールではスペシャルとは言え、わずか数百円程度で満腹になり、動けなくさせられてしまうのだった。

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1月6日(木)

デラックスバスであるにも拘わらず、車内のエアコンが窓枠から吹き込んでくる寒気になっているツーリストバスは早朝7時半にポカラを後にして一路カトマンドゥを目指していた。ポカラとカトマンドゥは全長206kmのブリティヴィ・ハイウエイで結ばれており、バスで7~8時間かかるのだが、対向一車線の山道を縫うように走るため、軽微な事故の発生でも交通が滞ってしまうのだ。

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デラックスバスはついにそのアドバンテージを発揮することなく、午後3時前にカトマンドゥに到着した。バスを降りた場所がタメル地区と呼ばれるツーリストエリアだったので、そこから徒歩でカトマンドゥの中心中の中心であるダルバール広場(世界文化遺産、NRs300)に向かった。ダルバールというのは、ネパール語で「宮廷」を意味する言葉である。カトマンドゥ盆地のパタンやバクタプルにも同様のダルバール広場があるのだが、それぞれの王朝の王が美しさを競い合っただけあって、どの広場にも見事な装飾が施された宮殿や寺院が立ち並んでいるのだ。

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並み居るガイドの勧誘をかわしながら立ち並ぶ古い寺院群を見上げて歩いていると色黒のユーモラスな彫像が人々の信仰を集めている状況に出くわした。これは破壊神シヴァの化身「カーラ・バイラヴ」で童話的な風貌にも拘わらず恐怖の神である。尚、カーラ・バイラヴの前でうそをつくと即座に死んでしまうと信じられており、かつてはこの像の前に容疑者を連れてきて罪を白状させていたそうなので小沢一郎の証人喚問もここで実施されなければならないであろうと思われた。

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多くの人々が行き交うバザールでござ~るインドラ・チョークを抜け、大通りに面した旅行会社が集結する地区に移動した。とある路上就寝者に入口をふさがれた旅行会社に入り、ヒマラヤ名物マウンテンフライトのチケットの手配を依頼した。首尾よく明日の1便の予約を取ることに成功したのだが、私が手にしたチケットの航空会社を見るとブッダエアーとなっていた。思わず担当者にブッダエアーの飛行機は過去ヒマラヤに墜落してお釈迦になり、搭乗者が成仏した実績はないのかと聞きたい欲望に駆られたのだが、何とかその煩悩を抑えることが出来たのであった。

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犯罪を犯した犯人はその後犯行現場に戻るという習性があることを「太陽にほえろ」等の刑事ドラマで学んだことがあるのだが、私も自分が暗がりの中でドブに落ちた時の現場検証をするために当時の足跡を辿らなければならない衝動に駆られてしまった。1月3日早朝に歩いた道を逆戻りしていると市場でわりと大きな淡水魚系の魚が並んでいる光景を目にした。現場に到着してその状況を確認するとやはりそこは格好の生捨て(ナマステ!)場になっているようであり、何とか危機を乗り越えて生きながらえている現状に感謝しなければならないと思われたのだった。

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1月7日(金)

カトマンドゥでの定宿となっているKATHMANDU SOALTEE Crowne Plaza Hotelを1月3日と同様に午前5時半に出立したのだが、これ以上ヘドロとは付き合いたくなかったので安全策を取り、タクシーで空港に向かった。ブッダエアーが運行するBHA100便は午前7時半に出発予定だったのだが、カトマンドゥ上空の気流が悪いために2時間半程遅れてのフライトとなった。

マウンテンフライトとはいえ、行き先がMountainという通常の国内線のフライトであるため機材は普通のチャチな小型機に乗り込むこととなった。機内の窓側はすべて乗客で占められ、通路側は空席にされているという配慮を感じながら1D席に腰を下ろすと小型機は神々が居住するはずのヒマラヤに向かって離陸した。

小型機が安定飛行状態に入るとすぐにごつごつした山肌に雪をたたえた絶景が小さい窓の外に広がった。しかし、ヒマラヤを見れるのは飛行機の片面だけなのでブラインドサイドに座っている乗客は何の変哲もない山閑の小さな村々を見て我慢するか反対側に乱入するしかないのであるが、全員が片面に勢ぞろいすると飛行機が傾き、本当にお釈迦になったら洒落にならないので私は自分の持ち場を離れることはなかったのだ。

飛行機が折り返し地点でUターンするとついにヒマラヤの絶景を独占する機会を得ることと成った。するとほどなくしてブッダ紋様をあしらったプロペラエンジンの背後に一目見ただけでその頂が8848mあることがわかるような巨大な頂が姿を現し、ぶったまげてしまった。すかさずスチュワーデスが歩み寄ってきてその山がエベレストであることとその手前が8516mのローツェであることが確認された。

今回は財務省のエコツアーでマサをエベレストに無酸素登頂させるための下見に来たのだが、私の経験から6000m級のキリマンジャロでも死にそうになったので8000m級の山に登ると死ぬだろうということが容易に想像出来たのだった。飛行機から下りる際にブッダエアーに搭乗し、あの世を見る代わりにエベレストを見たということを証明するシリアルナンバーで管理されたCERTIFICATEが乗客に配られていた。

ヒマラヤの極楽浄土の世界から下界に下り、空港の近くにあるパシュパティナート(世界文化遺産、NRs500)に向かった。ここはネパール最大のヒンドゥー教寺院兼インド亜大陸にある四大シヴァ寺院のひとつでもある。ガンジス川の支流であり、聖なる川とみなされるバグマティ川の川岸にあるガートでは死者の火葬が行われているのだが、上流にあるものは身分の高い者専用で庶民は下流の火葬台でこんがり焼かれ、遺灰は聖河バグマティに流されることになっている。上流の火葬ガートの前の川では少年が水の中をさらい、上流階級者の火葬で焼け残った金の断片を見つけようと血眼になっていた。

パシュパティナート構内の寺院はヒンドゥー教以外の立ち入りを禁止しているのだが、寺院の概観や寺院を棲家にしているかのような野生の猿の大群、修行中のサドゥーに出会うことが出来るので、猿に襲われなければここでゆっくりと輪廻転生について思いを馳せることが出来るのだ。

カトマンドゥの東約6kmに位置するネパール最大のストゥーパ(仏塔)のあるボダナート(世界文化遺産、NRs150)に立ち寄った。ここは古くからチベット仏教徒の主要な巡礼地であり、中国によるチベットの武力併合後は世界でも有数のチベット文化の中心地となっているのだ。世界最大級の巨大なストゥーパの周囲には巡礼者が時計回りに回り、また台座の上にも多数の観光客や巡礼者がひしめきあっていた。さらにチベット仏教徒が板の上で敬虔な祈りを捧げている光景が目に焼きついた。

すでに日も暮れてしまったのでタクシーを捕まえてトリブヴァン国際空港に帰って行ったのだが、空港に着いた時間が早すぎて中に入れてもらえなかったので仕方なく外で待機していた。DRAGONAIRのチェックインが始まる前に空港内に入れたのだが、暖房設備のないネパールの空港の建物はどこへ行っても寒々としていた。午後11時25分発のCX6731便に搭乗出来た時点でやっと暖を取ることが出来た感じがした。

1月8日(土)

CX6731便は午前6時前に香港空港に到着し、午前9時55分発のNH912便に乗り換え、午後3時前に成田に到着し、停電のない文明生活に感謝しながら流れ解散となった。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ただ、Dragon Air = HK$6,328.-、Buddha Air = US$160.4

総宿泊費 NRs19,089.46、$157.6

総タクシー代 NRs1,850 (NRs1 = ¥1.2)

総バス代 NRs650、$9

総ビザ代 $25

総空港使用料 NRs170

協力 ANA、DRAGON Air、Buddha Air、PRIORITY CLUB

デヴィ夫人推薦東南アジア最大都市ジャカルタツアー

今から20年前の1990年にすでに海外進出を目論んでいた私であったが、その一歩を踏み出すべく当時の勤務先であった大和証券の6ヶ月海外インターン制度に応募したものの営業成績優秀な社員を流出させるわけにはいかないということで、その選に漏れてしまった。その代わりに同期の大和証券甲府支店の深田君が選出され、晴れてジャカルタに流されることになったのだった。それ以来ジャカルタに行かなければならないという観念に捕らわれてしまっていたのだが、ついに深田君の無念を晴らすべく立ち上がる時が訪れたのだった。

2010年2月11日(木)

午後5時25分発NH901便は定刻通りに出発し、深夜12時過ぎにシンガポール・チャンギ国際空港に到着した。空港での定宿となっているアンバサダー・トランジットホテルにチェックインすると5時間程度の束の間の仮眠を取るべき意識を失うこととなった。

2月12日(金)

早朝トランジットホテルをチェックアウトするとシンガポール航空のラウンジにしけこみ、朝食としてゆで卵等を食した後、午前7時50分発シンガポール航空SQ952便ジャカルタ行きに搭乗すると1時間の時差を越えて8時30分に曽我ひとみさんとジェンキンズさんが感動の再開を果たしたスカルノ・ハッタ国際空港に到着した。インドネシアへの入国をつつがなく果たした頃、ゆで卵の効力が効いてきた様子で板東英二の幻影に支配されることになり、ジャカルタ都心部へ侵入する代わりに空港から直接バンドンを目指すことになってしまったのだ。

9時半過ぎに10人乗りのバンに乗り込むと首都ジャカルタから東南に約200km離れたスンダ地方の中心であり、人口200万人を誇る大都市バンドンに正午前に到着した。バンから降りた地点が郊外だったらしく、市の中心部にたどり着くまでに思わず世界ふしぎ発見の気分を味わうことになってしまった。降りしきる雨の中、何とか今日の宿泊地であるHilton Bandungまで辿りつくと早速街の喧騒に繰り出すことにした。

歩行者用信号の機能していないバンドンの市街地は人と車と原チャリでごった返しており、道路を横断するのも車とバイクの流れを遮る勇気とタイミングが重要であることを思い知らされた。バンドンは1955年に第一回アジア・アフリカ会議が行われた場所として世界史の教科書にその功績が記されているのだが、その会議場が博物館として公開されている。今回は館内を見物することが出来なかったのだが、このAA会議には主催国のスカルノをはじめ、周恩来、ホー・チ・ミン、ナゼルなど29ヶ国の代表が勢ぞろいし、その後の反植民地主義運動に大きな影響を与えたと言われている。しかし当時は徳島商業に入学する前であったはずの板東英二は残念ながらこの会議への参加は許されなかったので、今では世界ふしぎ発見の回答者として溜飲を下げているのである。

雨季のジャワ島は毎日のようにスコールが激しく降りしきっている様子で、雨宿りしたショッピングセンターで開催されていた少女伝統舞踊コンテストを彷彿とさせる催し物を見ながら時間を潰していた。しかし雨脚が一向に弱まる気配がないので落雷の恐怖におびえながらも混雑する道をホテルに引き返すことを余儀なくされたのだった。

2月13日(土)

眼下に広がる巨大プールとバンドンの街並みを見渡す高級ホテルHiltonをチェックアウトすると街の中心として栄えている広場であるアルンアルンに向かった。この広場には何があるんだろうと思ってあたりを見渡すとモスクの巨大尖塔が天に向かってそびえており、下界では原住民に安価であるはずの飲食物を提供する出店が数多く展開され、皆思い思いにのどかな休日を過ごしているようであった。

アルンアルン広場から東に400mの地点にサボイ・ホマンという古き格調ある歴史的ホテルが存在している。1888年オープンのこのホテルには第一回アジア・アフリカ会議の際に各国首脳が宿泊したことで知られているのだが、板東英二の定宿にはなっていないようだった。反植民地化の勢いを駆ってゆで卵顔女性の胸像に圧倒される独立公園に侵入したのだが、そこでは何故か女子学生が行進の練習をしている光景が目に焼きついてしまった。

結局バンドンと板東英二との関連の解明には至らなかったため、Hoka Hoka Bentoの出店が見られるバンドン駅から列車パラヒャガン号のエクセクティフクラスに乗り、インドネシアの首都ジャカルタに戻ることにした。列車が線路脇に密集するスラム系の住宅街を抜けると車窓からはジャワ島のジャングルを開墾して形成した美しい棚田が次々と流れていった。

あたりの景色が深い緑からスラム系瓦茶色に変化し、ついには摩天楼が姿を現した頃、かつてスカルノ大統領の愛人から第三夫人に成り上がったデヴィ夫人が幅を効かせていたはずのジャカルタに足を踏み入れることとなってしまった。パラヒャガン号がジャカルタの中心部に位置するガンビル駅に到着した時間は夕刻4時近くでしかも小雨が降っていたため、とりあえずホテルに向かうためにちょっとした街歩きをかますことにした。

人口1100万人を誇り、東南アジア最大の都市であるジャカルタにヤシの木のように生えている摩天楼を見上げながら歩いていると意外ににデブ夫人のような恰幅系の女性には遭遇しなかった。これもひとえに赤道直下の熱帯気候により活発になった新陳代謝の賜物であると思われた。それと同時にJAL破綻の遠因となっているはずの放漫ホテル経営を象徴する巨大な箱物NIKKO JAKARTAもリストラの対象にならなければならないはずである。

STARWOODSのポイントが余っていたのでマサであればUS$50くらいかかるところを私はただで泊まることが出来るル・メリディアン ジャカルタホテルにチェックインし、夕食のビュッフェレストランでデヴィ夫人がデブ夫人に成長しないように厳密にカロリー計算されたメニューに舌鼓を打ちながらジャカルタの夜は更けていった。

2月14日(日)

ジャカルタでの安全確保のためにスリの出没の多い市内バスは避け、比較的安全なトランス・ジャカルタという専用道路を走るバスに乗車した。日曜日の今日は何がしかの祭りが行われているような雰囲気でパレードの列が歩行者天国となっている幹線道路を練り歩いていた。

国立中央博物館前で下車し、その足で博物館に向かったのだが、何故か休館だったため、若い頃に東洋の真珠と評された美貌を誇るデヴィ夫人のようなインドネシア通に成り上がるという野望は断念せざるを得なかった。ところで美川憲一グループ所属のデヴィ夫人の本名はラトナ・サリ・デヴィ・スカルノと言うのだが、旧名(日本名)は根本七保子だと言う事実は美川憲一や神田うのであっても知らないのではないかと思われた。尚、奴は軍事クーデターによりスカルノ大統領が失脚するとフランスへとっとと亡命しやがったのであった。

ジャカルタ中心地のシンボルとして独立記念塔(モナス)がそびえているので広大なムルデカ広場となっているその敷地内に足を踏み入れようとしたのだが、柵で囲まれたその広場は容易に市民の侵入を許さない構造になっており、入り口にたどり着くまでに数百mもの距離を汗だくになって歩かなければならなかった。

ここムルデカ広場でも何らかの催し物が行われている様子でチープな仮装パレード等で大変な賑わいを見せていた。独立記念塔はエスニックなレリーフが施された壁で囲まれており、Rp2000を支払って中に入ると台座部分が博物館になっており、インドネシアの歴史を48のジオラマで学習することが出来るようになっている。しかし、展望台へのエレベーターに乗るためにはインドネシア人と一緒に長蛇の列に並ぶ必要があったので慎んで辞退させていただいた。

マサよ、君はかつてのオランダ東インド会社の拠点バタビアに足を踏み入れ、おびただしい数の停泊船を見ながらそれらがはるばる長崎まで来やがっていた鎖国時代の光景に思いを馳せたことがあるか!?

ということで、トランス・ジャカルタでジャカルタ湾に面した北部のコタ地区まで足をのばすことにした。オランダ植民地時代にはジャカルタはバタビアと呼ばれ、港町として栄えていた。その政治の中心地だっだのが旧市街のコタであるのだが、今ではすっかりさびれてしまっている。スンダ・クラバ港が当時の港町の繁栄を思い起こさせるかのように数多くの観光バスを集めているのだが、そこにはおびただしい数のピニシと呼ばれる古い木造帆船が停泊し、忙しく荷揚作業を行っている様子を垣間見ることが出来る。また、ジャワ海を航海する原住船員が観光客を船内に招きいれ、船の模型等の土産物を売りつけようと躍起になっていた。

海洋博物館(Rp2000)の見張り塔に登り、さわやかな風を受けながら港の遠景を見ていると西洋人をガイドしているツアーガイドのおっさんがここは天然のクーラーだと自慢すると同時に日本人の連中はこのような光景にはあまり興味を示さず、とっとと有名スポットに流れていってしまうぜと皮肉交じりに話していた。

さびれているとはいえ、当時のバタビアの繁栄をかすかに残すコタ地区にオランダ統治の面影である跳ね橋がドブ川系の川に架かっている。しかし1980年代前半に改修されたこの跳ね橋は通路面をアスファルト舗装で固定してしまったため、もはや跳ねることが出来ない代物と化してしまっているのだ。

コタ駅の北側にあるファタヒラ広場には現在博物館になっているコロニアルな建物がいくつかあるのだが、この広場も何らかの祭りの会場となっているようであった。1627年に市庁舎として建立されたジャカルタ歴史博物館(Rp2000)に入場したのだが、館内は不法地帯の様相を呈しており、オランダ総督が使った家具や陶磁器などの触ってはいけないはずのコレクションに対して原住民達は代わる代わる手に取りながら写真撮影を凶行していやがった。

バタビアから船を漕いで長崎まで来ていたオランダ人の拠点の謎を解明することに成功した勢いを駆ってトランス・ジャカルタで一気にブロックMまで南下することにした。大都市ジャカルタを代表するショッピングエリアであるブロックMに深田君も休日の暇つぶしに来ていたはずの巨大デパート「バサラヤ」が君臨していたので買う気もないのに見物することにした。さすがにイスラム教勢力の強い国のデパートだけあり、館内にはイスラムファッション専用のフロアもあり、雑貨用品を売りさばいているフロアでは仏教やヒンズー教関連の民芸品も数多く取り揃えられていた。

ジャカルタの喧騒の中で深田君の深いため息が聞こえてきたような錯覚を覚えたのでガンビル駅前の空港バス乗場からバスに乗り、スカルノ・ハッタ国際空港に帰って行った。尚、国際ターミナルの外見はチープに見えるのだが、内部は数多くの免税品店で溢れかえっており、デヴィ夫人がまとめて土産物を買う時に困らないような配慮がなされているかのようであった。

午後7時5分発のSQ963で午後9時半頃にはシンガポールに戻ったものの、成田へ帰国するANA便が1時間半程遅れるという衝撃の事実に直面してしまったのでシンガポール空港のファーストクラスラウンジで不貞寝を決めこむしかなかった。

2月15日(月)

日付の変わった午前1時前に出発となってしまったNH902便に乗り込み、午前9時過ぎに成田に到着。流れ解散後、午後から裏の仕事へ・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = ¥15,370, シンガポール航空 = S$506.-

総宿泊費 S$68.27, Rp1,687,950 (Rp1 = ¥0.0127)

総空港バス代 Rp110,000

総鉄道代 Rp50,000

総Trans Jakarta代 Rp14,000

総インドネシアビザ代 US$25

総空港使用料 Rp150,000

協力 ANA,シンガポール航空, HILTONHHONORS, STARWOODS HOTELS

FTB天然資源ブル行きツアー in ブルネイ

マサよ、君はD和証券が肉弾接待の切り札として当時の人気AV女優であったムニュ夢乳系の村上麗奈(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E9%BA%97%E5%A5%88)をブル行きさんとして天然資源豊富なブルネイに送り込んでいたという驚愕の事実を知っているか!?

しかもD和証券の新卒入社で早くもトップセールスかつ幹部候補として活躍していた総統が将来その任務に当たっていたかも知れないという甘くせつないおまけまでついているのだった!!!

というわけで、天然ガスや石油の豊富なブルネイがその資金運用先の選定条件として国王の接待を重視していたという事実を解明するためにわざわざブルネイまで足を伸ばさなければならなくなったのだ。

11月20日(木)

♪Love is the mistery~ 私を呼~ぶのォ~♪   ♪愛はミステリー~ 不思議なち~からで~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~♪

ということで、中森明菜がスポンサーになっているはずの成田空港第一ターミナルの北ウイングに登場し、自動チェックイン機を導入したことが仇となり、行列の出来るチェックイン相談所を作ってしまったノースウエストカウンターで30分以上かけて搭乗券を入手すると、ノースウエスト航空のマイレージが余っていたのでマサであれば6~7万くらいかかるところを私は燃油代の支払いだけで搭乗出来るNW0011便に乗り込んだ。早速機内の飲み物サービスでビールでも飲もうかと思っていたのだが、何とアルコール飲料は$5もの大金を徴収されるという驚愕の事実に直面したため、円高のご時勢にもかかわらず断念せざるを得なくなってしまったのだ。

しかたなく不貞寝をしながら機内で5時間程やり過ごすと飛行機は午後10時前に香港国際空港に到着した。空港からバスで今日の宿泊先である楽天トラベルに予約させておいたIbis Hotelが位置する北角に移動し、近くのセブンイレブンで購入した機内よりも安いビールでようやく溜飲を下げることが出来たのだった。

11月21日(金)

香港国際空港に早めに到着し、空港で裏の仕事を軽くこなしながら時間潰しを行った。午後12時過ぎにチェックインしようと思って香港ドラゴン航空のカウンターに行ったのだが、この便はロイヤル・ブルネイ航空とのコードシェア便なのでここではチェック・イン出来ね~ぜと言われたのでロイヤル・ブルネイ航空のカウンターに移動した。そこで目にした文字はブルネイに麻薬を持ち込んだ輩は最高で死刑に処せられるというプレッシャー警告であった。

午後3時20分発のKA1636便は定刻通りに出発し、3時間ほどで雨のバンダル・スリ・ブガワン国際空港に到着した。空港からタクシー(B$25)で今日の宿泊先であるシェラトン・ウタマホテルに移動し、イスラム教国のため酒が飲めないという絶好のアル中更正ファシリティのような雰囲気で裏の仕事の残務をこなしながら松山千春を彷彿とさせる♪長い夜♪を過ごすこととなったのだった。

11月22日(土)

昨晩の雨模様とはうって変わって朝から晴天に恵まれたので早朝よりブルネイ・ダルサラームの首都バンダル・スリ・ブガワンの散策に乗り出すことにした。ホテルを出て運河沿いを歩いていると魚や野菜を売っているオープンマーケットが開かれており、原住民は水上タクシーで乗り付けて生活必需品を買い込んでいた。また、水上タクシーのドライバーはしきりに観光客を水上観光に勧誘すべく余念がない様子であった。

バンダル・スリ・ブガワンは総人口の約5分の1の7万人が暮らすブルネイ最大の都市であるのだが、ダウンタウンといえども高層ビルはなく、日本製や韓国製の車はそれなりに走っているのだが、バイクや自転車は見られず人の数もそれほど多くないのでブルネイ国内を恐怖でブルブル震えながら歩き回る必要はないのである。

街の中心には通称オールド・モスクと言われるオマール・アリ・サイフディン・モスクが異様な存在感を示しており、その周辺に2つのショッピングセンター、国会議事堂、緑の芝生が敷き詰められたサッカー場が配置されており、とてもここがボルネオ島であるとは思えないほど整然とした街づくりとなっているのだ。

豪華絢爛な王室宝物・資料館としてロイヤル・レガリアが白いドーム型の屋根を尖らせているので観光バスで乗り付けた欧米観光客に紛れて入ってみることにした。内部の床にはぶ厚い絨毯が敷き詰められており、式典などで使用されるはずの豪華な装飾が施された大八車系の引き回し車や国王の即位行列を再現した一行が今にも行進をはじめそうな勢いで立ちはだかっていた。また、国王の生い立ちやブルネイ・ダルサラーム独立の歴史や国事遂行の様子などが写真やパネルで紹介されているのだが、その中に村上麗奈の亡霊が写りこんでいないか血眼になって探したが、とうとう見つけることは出来なかった。

酷暑のボルネオ島の強い日差しを避けるためにいったんホテルにエスケープし、気温がピークとなった午後の時間に徒歩で40分かけて王宮を目指すことにした。イスタナ・ヌルル・イマンという正式名称を持つこの王宮は金満ブルネイの象徴的な箱物であるのだが、一般公開されていないため村上嬢以外の日本人は決して招かれることはないであろうことは容易に想像出来るのだった。

夕暮れ時を迎えたバンダル・スリ・ブガワンはモスクから礼拝を呼びかけるアザーンにより幻想的な雰囲気に包まれることになる。西の空が夕暮れから夕闇、さらに暗闇に移行するにつれて見事にライトアップされたオールド・モスクが徐々にその輝きを増していき、イスラム世界の神秘を醸しだして行くのであった。

11月23日(日)

マサよ、君はカンポン・アイールという言葉を聞きなれていないだろう!!

それはアンポンタンでも志村けんのアイ~ンでもないということは当然だぜ!!!

ということで、ブルネイには約150年もの歴史を持つという世界最大の水上集落がカンポン・アイールという名称で3万人以上の居住者を抱えながら、一大水上都市としてブルネイ川を潤しているのだ。

というわけで、ブルネイ川沿いの堤防を歩いているといくつかの階段状の水上タクシー乗り場があり、原住民を対岸から渡してきた運転手は一様に観光客を高値で水上集落観光へ導こうと躍起になっているのだ。しかし、一部の運転手は陸上で積極的に客引きを行っていたので、私もついつい30分の水上集落観光コースにB$20を支払って参加せざるを得ない状況に陥ってしまった。

交渉が成立すると早速日本製のモーターボートエンジンを背面に配備した木製のボートに乗り込むと肥満気味の少年が見習いガイドをする水上ツアーがスタートした。暴走族並の猛スピードで行き交うボートを交わしながら、少年はブルネイ川に浮かんでいる集落のファシリティの紹介をモーター音にかき消されながらも果敢に行っていた。

集落にはいくつかの学校、消防署、モスク、病院、レストランをはじめ、給油を行うShellのスタンドまで浮かんでいやがった。ところでブルネイ政府は安全性の問題から水上住民に陸地への移住を奨励し、好条件で公団住宅への上陸を促し、その隙にブルネイ川を埋めちまおうとしているらしいが、水上住民のミズスマシ魂がそれを潔しとせず、頑として移住を拒絶していると言われている。

ガドンというダウンタウンと空港の間に君臨する新しめのショッピングセンターに紫色のバスにって、恒例の買う気もないのに行ってみることにした。敷地にはホテルとショッピングモールの複合施設が2つあり、そのうちの新しいほうでは隣国マレーシアへの旅行を誘致する民族歌謡のショーが行われていた。

ショッピングセンターの近くにニューモスクと言われる国王の個人資産で建立されたジャミヤシル・ハサニル・ボルキア・モスクがその巨大なミナレットを天高く突き上げていたので近くまで寄って見たのだが、中に入れそうもなかったので断念した。そのかわりにダウンタウンに戻り、特定時間のみ観光客にも開放されているオールド・モスクに入って見たのだが、入り口を管理する太っちょのおっさんに黒ずくめのガウンを着せられ、決められた絨毯の上だけを歩くように高慢に指示されてしまった。しかも私が経路を若干はずれた事実を発見すると見る見る不機嫌になり、レッドカードをもらうような勢いで退出せざるを得ないような状況になってしまったのだった。

11月24日(月)

昨日オールド・モスクでレッドカードをいただいたので今日はブルネイから退場しなければならないということで、ダウンタウンからバスで空港に移動し、午前11時30分発のKA1635便に乗り、そそくさとブルネイを後にした。

午後2時過ぎに香港に到着し、ホテルチェックイン後、イスラム教戒律の厳しいブルネイで飲めなかったビールをやけ酒の如くあおり、レッドカードの出場停止期間があけるのを待って香港の繁華街に繰り出すことにした。スターフェリーで香港島から九龍に渡ったときにはとっぷりと日も暮れており、アチョー!のポーズを決めたブルース・リーもクリスマス・イルミネーションの光を怒りの鉄拳に反射させていたのだった。

11月25日(火)

午前8時30分発のNW0012便に乗り、午後1時過ぎに成田に到着、村上麗奈も村上ファンドももはや過去の物だという郷愁にかられながら流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ノースウエスト航空 =\12,310, ドラゴン航空 = HK$3,622.-

総宿泊費 香港 = HK$1,166, ブルネイ = B$496.73 (B$1 = \66)

総香港バス代 HK$160

総香港フェリー代 HK$3.2

総香港地下鉄代 HK$6.0

総ブルネイタクシー代 B$25

総ブルネイ空港税 B$12.0

総ブルネイバス代 B$2.0

協力 ノースウエスト航空、ドラゴン航空(ロイヤル・ブルネイ航空)、スターウッド、楽天トラベル