シンFTB魅惑のガーデンアイランドツアー in カウアイ島

アロハ ボンよ ハワイ湯!

というわけで、昨年9月に催行したハワイ オアフ島ツアーの最中、♪仮面舞踏会♪のリズムに後押しされてMarriott Vacation Clubに入会してしまったので今回早速そのエンターテインメントの実力を確認するために再びハワイに戻ってくることと相成った。尚、訪問先がカウアイ島になったのはClubとの契約の地であるオアフ島のMarriott Ko Olina Beach Clubの予約が取れなかったためではなく、2004年以来20年ぶりに訪問するカウアイ島がどのような変貌を遂げているのかを確認する使命のために他ならない。

2024年1月3日(水)
20:35成田発NH184便A-380-800機、機体に海亀文様をあしらったFlying Honuは定刻通りに出発した。機内映画の「ミステリと言う勿れ」を見ながら頭が爆発している自らの苦悩を整えていると6時間弱のフライトでホノルルのダニエル・K・イノウエ国際空港に午前9時過ぎに到着した。

アロハ航空の廃業により、ホノルルからのネイバーアイランドへの運航を独占している感のあるハワイアン航空が運航する正午発HA273便に搭乗すると30分程度のフライトでカウアイ島のリフエ空港に着陸した。早速ハーツレンタカーでコンパクトカーの予約にもかかわらず4WDのシボレートラバースSUV車をあてがわれたので遠慮なくレンタルさせていただくとイチロ今回のツアーの宿泊先であるMarriott’s Kauai Beach Clubに向かった。

空港からわずか10分程度で到着したMarriott’s Kauai Beach ClubはROYAL SONESTA KAUAI RESORTという高級ホテルと同居する形で運営されており、深く切れ込んだ入江に位置し、島で屈指の美しい海浜公園であるカラパキ・ビーチ沿いに展開されている。

今回アサインされた8階のオーシャンビューの部屋からはくっきりとした視力検査のマーク状の湾の形状が一望でき、晴れてBeach Clubの一員になった実感がじわじわと湧いてきた。

ビーチを散策するとちらほらとマリンスポーツを楽しんでいる輩もいるのだが、波も比較的静かなのでどちらかというとのんびり海を眺めて過ごすのにうってつけのリゾートであるとお見受けした。

KAUAI WEAHER STATIONなる看板で島のお天気情報を学習させていただいたのだが、唯一の気象予報士はヤシの実になっているようでヤシの実が「風と共に去りぬ」の状態になっているときの天候はハリケーンであるとのことであった。

今日は時差ボケのきつい初日ということで特に観光することもなく、車で近隣のスーパー等を巡り、いち早く現地の生活のペースに溶け込む活動に終始した。

1月4日(木)
日の出とともに目を覚まし、カーテンを開けてオーシャンの方向を一瞥すると巨大なマンションが迫ってくるような威圧感を感じた。

後の調査で判明したことだが、その巨大な物体の正体はホノルルから出港し、ハワイ4島を周遊する豪華客船PRIDE OF AMERICAでアメリカの総力とプライドをかけて安全運航を約束しているはずのクルーズツアーの1ページがマサに垣間見えた瞬間だったのだ。

Vacation Clubのようなタイムシェアの別荘を借りているという生活スタイルになじむために食事は現地調達したものを部屋で食したほうがよいだろうということで昨夜と今朝の栄養補給は必然的に質素倹約となっていた。

日本からハワイへは短時間で旅行出来る一方で、時差が大きいことから時差ボケが長引くことが難点で短期の旅程では頭の中のフラダンス状態が抜けきれないまま生活を送ることになる。それでも何とかアロハスピリットに後押しされ、島内の見物に繰り出すことにした。

カウアイ島最大の見どころを目指すために島西部のワイメア・タウン方面に車を走らせた。ワイメアは1778年にイギリスの海洋探検家であるキャプテン・クックが上陸した地であり、当時の現地人は一行をハワイの神「ロノ」の再来と信じて♪ようこそここへクッククック♪と歓待したそうだが、桜田淳子の幻影もすでに遠い過去のものとなっているため、クックの銅像に挨拶することもなく食料調達のためにイシハラ・マーケットに向かった。

1934年オープンで生鮮食料品を扱うイシハラ・マーケットであったが、日本における石原軍団の凋落の写し鏡のようにすでに廃業となっていた。ここを再びザワつかせるためには石原軍団の末裔であるはずの石原良純が一肌脱いで長嶋一茂あたりから資本提供を受けて事業を立て直す必要があるのであろう。

生鮮食品のゲットはならなかったが、別のスーパーで乾き食品を調達した後、車はワイメア・タウンから550号線に入り、一気に山道を駆け上がると外気温は見る見るうちに低下していった。とりあえず550号線のドン付きまで走り切ろうと思ったのだが、途中トイレ休憩が必要となったのでコケエ州立公園のビジターセンター駐車場に車を滑り込ませた。コケエ州立公園では多くのコケエコッコと観光客が戯れており、カウアイ島がニワトリファーストで成り立っている現状を見せつけられた。

コケエコッコの鳴き声に後押しされてコケエ博物館に入場することにした。入場料は無料だが、一人$3ドルの寄付を求められているので手持ちの$1を奉納し、展示物を見学させていただくことにした。狭い館内なので多くの展示物はなく、観光客はここでトレッキングのコースを確認したりしているのだが、ご本尊であるはずの野生の豚がその様子に目を光らせていた。

550号線の終点にはカララウ展望台が君臨し、カウアイ島最難関のトレッキングコースであるカララウ・トレイルのナ・パリ・コーストの海岸線やギザギザハートに削られた山肌の絶景を見下ろすことが出来たのだ。

カララウ展望台から来た道を引き返して南下する途中のプウ・ヒナヒナ展望台で長い年月により創り出された自然の芸術に圧倒されるとその勢いでワイメア渓谷州立公園のメインの展望台の駐車場に突入した。

$20の入場料をクレジットカード限定の支払いで乗り切ると足早に展望台を目指して行った。展望台ではいきなり古代の現地人風の裸の王様が長椅子ステージの上で演説している様子が目に飛び込んできた。

裸王の演説内容は当然のことながらワイメア渓谷、カウアイ島、さらにはハワイ全体の観光ガイド的な説明であるのだが、その戦士たる出で立ちは多くの観光客の興味を引き付け、最後には拍手喝采だけでなくSNS映えのための写真撮影のシャッター音とチップの嵐を浴びていたのだった。

裸王の説明によるとギネスブックで世界一の降水量を誇る標高1569mのワイアレアレ山の山頂は通常雲に覆われて見えないのだが、今日はその全貌がくっきりと見えるとのことであったが、マサにわ~い アレ(優勝)アレ(優勝)が示唆しているものは岡田監督の連覇ではないかと期待と不安が一つになったような感覚を覚えた。

展望台から見下ろす光景は「太平洋のグランドキャニオン」の異名にふさわしく、ここは本物のグランドキャニオンまで足を運ぶことの出来ない輩がグランドキャニオンの写真撮影を行うための最適なスポットであることが再確認されたのであった。

ワイメアを後にして海岸沿いを走っていると歴史遺産的な看板が目に入ったので立ち寄ってみることにした。ここはハワイ州歴史的建造物に指定されているロシアン・フォート・エリザベスという廃墟で特に目を引くものはなかったが、かつてカウアイ島を統治していたカウムアリイ王の雄姿だけは写真に収めておいた。

一旦Marriott’s Kauai Beach Clubに戻り、夕暮れ時にカラパキ・ビーチ周辺を散策し、リゾーターのアクティビティを遠巻きに眺めながらのんびりと過ごしていた。

今日のディナーはコンシュルジェの推奨リストに上がっていた近隣のThe Plantation house by Gaylordsを予約していたので日もとっぷり暮れた7時半に入店した。


1880年代に建てられたプランテーションのオーナー、ウィルコックス一家の豪華な邸宅をそのまま使用したガーデンレストランで猫の挨拶もそこそこに中庭の上席に案内され、メニューを手渡された。地産地消の割には高値で提供されている料理の中からマーケットプライスのものを避けて発注したものは伝統的なハワイ料理であるAhi Poke(マグロの刺身に醤油ベースのタレや香味野菜で和えたもの)を皮切りに海老や地魚をいい具合にアレンジした日本人の味覚を喜ばせる一品たちで、必然的にクレジットカードに多大な負担をかけさせることとなったのだ。

1月5日(金)
カラパキ・ビーチはサンセットもサンライズも直接見ることは出来ないロケーションであるが、夜明けの空には毎日♪パープルタウン♪すなわち♪むらさきにけむる夜明け♪が現出する。

♪すばらしい朝にHu Hu Hu♪から始まったこの日はリフエの町にほど近い双子の滝から活動をスタートさせた。ハワイ語でふたつの水という意味を持つワイルア滝がBeach Clubから車で20分程度の場所に流れているので見に行ってみた。古代ハワイの男たちが、上から滝つぼへ飛び下り、男を上げていたという高飛び込み伝説が残っているワイルアの滝ではあったものの滝つぼの見えるフォトジェニックなポイントへのアクセスが不可能だったので観光客の平均滞在時間がわずか数分であったことが心残りである。

ワイルア滝からの帰路の生鮮食料品店でPokeやタコのマリネ等の食料品を買い込んでBeach Clubでの昼食用に供すると、午後1時からのアポイントに備えてしばしくつろいでいた。

Beach Clubにチェックインした初日にコンシュルジェから施設に関する情報提供を受ける段取りになっているのだが、その折にツアーなるものに参加すればポイントの積み立てで無償宿泊の特典がもらえるマリオットボンボイポイントの30,000ポイントの進呈を受けることが出来るという口車に乗せられていたのだった。

約束の時間に1階のSales Officeの受付で来意を告げると中の打ち合わせテーブルでしばし担当者を待つこととなった。FTBの担当として名乗りを上げたSales Executiveの案内で最上階である12階に誘われ、絶景を前に営業活動が繰り広げられたのだが、何とか追加の投資をせずに持ちこたえられたのでまんまと30,000ポイントをせしめることに成功したのだった。

Sales Executiveから伝導された営業熱を冷ますために施設内のハワイでも有数の規模を誇るプールに入ることにした。プール内でもプールサイドでも少々行き過ぎたクールダウンを感じたのでジャグジーに入りたかったのだが、稼働している3ヵ所のジャグジーはリゾートファミリーに占拠され、割って入るほどの勇気がなかったので断念して部屋に引き返した。

夕暮れ時にプールサイドに舞い戻り、2日間カウアイ島に寄港していたクルーズ船を見送ると今晩はプール脇のレストランでの軽食による散財で施設への義理を果たしていた。

1月6日(土)
カウアイ島では曜日ごとに各所でファーマーズマーケットが開催されているのだが、土曜日の今日はノースショアで市が立っているので物色してみることにした。こじんまりとした印象ではあったものの確立された地産地消システムが提供する地元の野菜、フルーツ、スイーツ、コスメティックス等を見て回ると次第にテンションが上がってきたので思わず生はちみつとリップクリームを衝動買いして地元経済に貢献させていただいた。

1830年代から受け継がれてきた文化を感じられるレトロ・タウンであるハナレイに差し掛かった。チン・ヤン・ビレッジ・ショッピングセンター内を買う気もないのに練り歩いているとサーフスクールやサーフショップが目に付いた。ここはビーチエリアにほど近く、大波が来る冬場には熟練サーファーが日々波に揉まれながら腕を磨いているそうである。

狭いカウアイ島であるが、車で島内を一周するまでの道路整備はされておらず、ノースショアのカララウで終点を迎えることになる。そこから最高のキャンプを味わえるカララウ・トレイルが伸びているのだが、登録制のアクティビティは常に売り切れ状態になっており、ナ・パリ・コースト州立公園の満車の駐車場であえなくUターンとなってしまった。

カララウからの帰路でトイレの個室を求めていると首尾よくハナレイコロニーリゾートの水回り設備が使えそうだったのでレストランの入り口脇のトイレに痕跡を残し、そのお礼にカフェでモカフラペチーノ系の飲み物を牛飲した。レストラン裏手の景色は透明度の高い海のグラデーションで彩られており、ここでやっと落ち着いてノースショアの海岸の景色を堪能することが出来たのであった。

英語でタロイモのことをTaroというが、Taroはハワイの名産品の一つになっており、ハナレイ渓谷展望台からはタロイモ水田を中心とした湿地の保護区であるハナレイ・ナショナル・ワイルドライフ・レフュージを見下ろすことが出来る。霧のかかったワイアレアレ山を背景にした碁盤の目はマサに自然と人類の共同作業の賜物であり、訪れる人を古き良き時代に誘う癒しそのものである。

今日からMarriott’s Kauai Beach Clubでの広い部屋を予約していたので、部屋の準備完了とともにi Phoneにテキストメッセージが入ったのでそそくさと戻ることにした。今日から2日間過ごす部屋は最上階である12階角部屋のビーチ&プールフロント、広々ベランダ付きだったのだが、部屋に長居することなく、太陽に愛される町ポイプに繰り出すことにした。

ポイプで最も印象に残るはずの景勝地である潮吹き穴で伝説に彩られた自然の驚異を感じることにした。ここで目にする現象もさることながら、ハワイ先住民の言い伝えによるとカイカブという大きなトカゲの魔物がポイプの海岸線を守っているとカイカブった人々は、この地域で魚を取ったり泳いだりすると魔物に食べられると恐れていた。東尾という苗字を持つかどうかは定かではないが、ある日リコという利口な少年が海に入ると石田純一のようなカイカブが襲い掛かってきたのだが、リコはゴルフクラブのような鋭い棒を純一(魔物)の口に突き刺して溶岩棚の下に入り込み、小さな穴を通って地上に逃げおおせたという。

リコを追っかけた魔物は溶岩洞の中で引っかかり、その後潮吹き穴から噴き出す音は魔物の叫び声、潮しぶきは魔物の吐息だと言われるようになり今日にいたっているそうだ。

潮吹き穴から噴出された潮をカブって我に返ると夕暮れ時が迫ってきたころ合いを見計らってポイプ・ビーチパークに移動し潮吹きの景色を遠目に見ながらサンセットを満喫することにした。

FTBも世界各地で美しい夕日を鑑賞してきたのだが、ビーチを練り歩くニワトリ映えのするサンセットは世界でも類を見ない光景であるはずでマサにカウアイ島ならではの奇景ではないかと感心しながら見入っていた。

1月7日(日)
カウアイ島の有名な聖地のひとつであるシダの洞窟でかつてのハワイの王族や貴族の儀式をしのんでパワーをいただくつもりであったのだが、遊覧船ツアーが休止になっているようだったので次回訪問時に繰り越すことにした。

シダの洞窟を要するワイレア周辺は遺跡や伝説がたくさん残る地なので、まずは約20mの高さからふた筋に流れ落ちるオパエカア滝を眺めてリモートで体を清め、ワイルア川で邪念を流し去った。

カウアイ島最大の川であるワイルア川周辺は遠くポリネシアの島々からカヌーでやってきた人々が安住の地とした場所であり、当時は王や貴族がこの一帯を厳しく治めていた。そのためこの地域には歴史的にも興味深い遺跡や言い伝えが多く残っているのだ。

「陸の王者」の遺伝子を受け継いでいる私であるが、ワイルア川沿いには多くの聖地が点在しており、かつて「王者の道」と呼ばれ、王族や貴族階級、また、彼らの招待を受けた者しか通ることが許されなかったそうだ。

オパエカア滝の展望台を少し下った所にあるポリアフ・ヘイアウは高さ1m50cm、幅90cm程の石垣で囲まれ、島の先住民であるメネフネによって造られたと伝えられている。その目的はいまだに定かではないが、月に一度の夜、神々がここに集まりどんちゃん騒ぎをしていたのではないかと言われている。

ワイルア川にほど近いホロ・ホロ・ク・ヘイアウはカウアイ最古のヘイアウ(古代のハワイ人が建設した聖域のこと)で、ハワイでは珍しく、供え物は人類を犠牲として神に捧げていたと伝えられている。なるほどここから少し登った高台が墓地になっているのもそういう理由からであったのだろうか?

王者の道から普通の道に出て車を走らせ東海岸の遊歩道を歩きながら潮風を感じていると昨日訪れたハナレイから離れ(い)られない体になっていることに気づいたので再びノースショアに向かって行った。

道行く車中でこれぞガーデンアイランドという山紫水明を見出だし、容赦なく写真撮影を行いながら到着した場所はプリンスヴィルという高級リゾートタウンであったが、気軽に車を停められる雰囲気ではなかったのでそそくさと退散した。

ハナレイの広場にはいくつかのキッチンカーがいずれもきちんとした店構えで出店している。そういえば名産品のタロイモを食していなかったことを不意に思い出したのでTaroスムージーを高値で発注してみることにした。太いストローから直撃した冷媒による頭キーン状態で考えたことは日本にも古くから鬼のライバルであるPeach Taro,、海亀の自動運転で城に招待されたBack Island Taro、 マサカリをかついで熊を運転したGold Taro、ひと粒の米には7人の神様が宿っていると信じるドカベンYamada Taro、父親の目線がシュールなGe・Ge・Ge Goblin Taroが活躍していたことであった。

ハナレイにフィッシュマーケットが地味に営業していたので入ってみると、ここが米に海苔をまとった巻物の宝庫であることがわかったので高値で数本買って帰ることにした。切れ味鋭い包丁で食べやすい幅に切られた巻きずしをしつこいほどのラップでさらに巻き上げたものを手にBeach Clubへの帰路についた。

早速ベランダでスパイシーツナやホタテの太巻きをワサビを醤油に溶かしたソースと称するものに付けて食してみるとこれが想像以上の美味であったのだが、地元民が毎日食べるとなるとそれ相当のエンゲル係数は覚悟しなければならないはずである。

エンゲルを凌駕する「KAUA‘I‘ SPIRIT」に背中を押され、今日もポイプまで足を延ばした。

カウアイでも最高のビーチといわれるポイプ・ビーチパークはブギーボードやボディーサーフィンのメッカとして知られており、カウアイ島ではここの波打ち際が最も人口密度の高いエリアであることを示していたのだった。

1月8日(月)
同じ場所に5泊という滞在型リゾートの醍醐味を十分に味わうことが出来たMarriott’s Kauai Beach Clubを携帯のテキストメッセージの一言でチェックアウトするとリフエ空港のスターバックスでコーヒータイムを楽しんだ。飲んだコーヒーはハウスブレンド系の何の変哲もないものだったのだが、店を出る際に少し粉っぽさを感じてその方向に目をやるとそこにはコーヒーの王者であるはずのコナコーヒーがスターバックスのパッケージで鎮座していたのだが、カウアイコーヒーだったら買うわいと思っていたのでコナコーヒーを手に取ることはなかったのだった。

9:34発HA164便でホノルルに戻り、空港のANAラウンジでブランチを済ますと12:30発NH181便で成田への帰路についた。

1月9日(火)
午後4時過ぎに成田空港に到着し、車を預けたサンパーキングに電話を入れた後、即座に携帯の設定を機内モードに戻していた。世間は3連休明けの平日なのだが、仕事関係の電話を受けられるほど爆発した脳みそは回復していないだろうと考えながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥138,300.- / passenger、ハワイアン航空 = ¥25,270.- / passenger
総宿泊費 $74.77 (TAXのみ)
総レンタカー代 $389.65
総ガソリン代 $61.21

協力 ANA、ハワイアン航空、ハーツレンタカー、Marriott Vacation Club

シン・FTB ベトナム フーコックのかぜ

♪It’s so easy 走りだせよ! Easy to be happy. 風の青さを~ 抱きしめて 荒野へとまっすぐに オ~イエ~♪

というわけで1週間くらい前から♪かぜを感じて♪おり、発熱はしていないものの日々の筋トレ、体幹トレーニングで鍛えぬいた箇所に沿って筋肉痛が進行し、その後喉の奥底にからみつく緑黄色社会系のしつこい痰に悩まされていた。

症状も改善に向かっていたのでベトナム南部の離島で♪Easy to be happy 振り切って♪と歌えば完治するだろうと高をくくってかねてより計画しておいたフーコック島に向かうこととした。

2023年11月22日(水)
19:15成田発NH833便ホーチミン行きは定刻通りに出発し、7時間以上のフライトで2時間の時差を超えて日付が変わる前にはタンソンニャット国際空港に到着した。深夜にもかかわらず入国審査待ちの長蛇の列を見ながらここでも旺盛な旅行需要の回復の実態が見て取れた。

税関を通過して晴れてベトナムへの入国を果たし、イチロ到着エリアのATMに向かうとクレジットカードで百万ベトナムドン (VND) をド~んと出金し、一気にミリオネアへと成り上がった。

空港から今日の宿泊先であるHoliday Inn & Suites Saigon Airportへのタクシー代はVND 250,000という固定価格制になっているようだったので交渉の余地なく車上の人となり、約10分後にはチェックインを果たしていた。

11月23日(木)
モダンな外観のホテル上階のスイートルームから下界を見下ろすとマサにホーチミンの喧騒そのものが見て取れるのだが、空港近くという立地条件からか「放置民」と称されるはずのホームレスはいないようだった。

食欲不振のため、ホテルの各種ビュッフェメニューの中からかろうじて私の喉を越したものはレーザーラモンHG系の麺類であるはず「フォー!」で、その他流動食と合わせて何とか体力の維持に努めていた。

11時過ぎにはホテルをチェックアウトするとドアマンにタクシーを呼んでもらって空港に移動したのだが、タクシー代はVND 110,000で来るときの半額以下であった。
ベトナム航空運航の13:20発VN1827便はスモッグの曇り空を切り裂いて離陸し、インドシナ半島南部を西に進路を取り、タイランド湾に浮かぶ離島を目指して行った。眼下にベトナム最大の面積を誇るフーコック島の雄姿が確認出来るころには晴れ渡る空の下で視界を遮るものはなくなり、無事にフーコック空港に着陸することに成功した。

手付かずの自然が残る秘境のリゾートフーコック島は昨今欧米を中心に人気を集めるリゾートとして急速な発展を遂げている。島の大部分を山や丘、森、そして美しいビーチなどの大自然に覆われているのだが、伝統的なベトナムの魚醤・ニョクマムや胡椒の生産が主要産業となっている。

空港からフーコック島西海岸のリゾートエリアに位置するInterContinental Phu Quoc Long Beach Resortまでのタクシー代は定額のVND 200,000に設定されているようでわずか15分程度で現世の喧騒とはかけ離れたドリームランドに到着したのだった。

IHGのダイヤモンドエリートメンバー兼インターコンチネンタルのアンバサダーとしての地位を誇るFTBに対して用意いただいた部屋は数段階アップグレードされているはずの上階のサンセットビュー部屋であり、日が西に沈んで行くのを心待ちにしながらホテルライフをスタートさせることにした。

何はともあれホテルの中庭池の鯉を横目にプールサイドをスルーして早速ビーチに向かった。

ビーチの砂のキメ細かさが足裏に心地良い刺激を与えてくれるのと同時「キュッ、キュッ」というサウンドがマリンスポーツへの扉をこじ開けようとしていたのだが、さすがに今日の体調では水に浸ることは控えるべきだと考えたのでビーチサイドのカフェレストランSeaShackでビールをチビチビ飲みながらリゾート客のアクティビティを遠巻きに眺めていた。

体調の良し悪しにかかわらず燃えるようなサンセットは平等にやってくるので部屋のベランダからオレンジ色に輝く水平線を眺めてしばし旅情に浸らせていただいた。

夜になっても食欲は湧いてこなかったものの回復のための栄養素を吸収する必要があったのでホテル内のベトナム料理レストラン「Sora & Umi」に予約なしでしけこんだ。コロナビールでウイルスが上書きされることを期待しながら、ウエイターにおすすめの麺類を尋ねたところBun Cha (ブンチャ)を指名してきたので頼んでみることにした。ブンチャは焼いた豚肉とライスヌードルを用いたベトナム料理でサラダ素麺とも呼ばれている代物だ。グリルで焼いた豚肉の脂身(Cha)などを白いビーフン(Bun)にのせ、好みのハーブと甘酢っぱいつけだれに付けて食すのだが、その甘さが裏目に出てヌードルの完食には至らずもかろうじて葉っぱに巻いた焼肉で喉奥の痰を切り裂き肉食系の面目だけは保つことが出来たのだった。

11月24日(金)
朝9時半に朝食ビュッフェ会場に辿り着き、フォーや流動食で何とか胃袋を落ち着かせた。
今日は日がな一日浜田省吾よろしく♪ベッドでドン・ペリニヨン♪的活動に終始しながら♪いつかあいつの足元に BIG MONEY 叩きつけてやる♪というリベンジ妄想にふけるつもりであったが、リゾートの誘惑にはあらがえず、プールサイドに引き寄せられていった。

若いボーイが注文を取りに来たのでマルガリータを発注したものの、その数分後に先輩のボーイが飛んできてピザが焼かれそうであることを匂わせたのであわててクラシカル・マルガリータ、すなわち飲み物のマルガリータを頼んだのだと主張し、何とか事なきを得たのであった。

プールの水が少し冷たく感じる一方で遠浅のビーチの海水は病人には適温であるはずのぬるさだったのでここでタラソセラピーと洒落こむことにした。

透明というよりもエメラルドグリーンの海水は陸からの養分を豊富に含んでいるようであったが、特に魚類と遭遇することもなく、人類のレレレのレ~的アクティビティを横目にしばし緑茶を濁していた。

フーコックではサンセットは毎日見られる訳ではなく、今日は暑い雲に西方の視界を遮られていた。ディナーはいい具合に空いていたカフェレストランSeaShackで取ることにしたのだが、この度新メニューとしてシーフードの盛り合わせが松、竹、梅のランク付けでデビューしたようだったので景気づけに一番高いやつを発注した。スコップで運ばれてきたシーフードの盛り合わせは無造作にテーブル上のキッチンペーパーの上に流し出されたので早速食して見たのだが、甘辛いたれを絡ませた伊勢海老や普通の海老、ムール貝等はそれなりに美味であったのだが、付け合わせのパンまでは喉を通すことは出来なかったのだ。

11月25日(土)
今日も体調の回復がおもわしくなく、♪もうひとつの土曜日♪的なバラードの気分を引きずっていた。恩を仇で返すような♪友達に借りたおんぼろ車で♪と歌唱するほどやさぐれていなかったのだが、とりあえず♪海まで走ろう♪とは思っていた。

ビーチでは丁度パラセーリングがスタートする瞬間を目の当たりにしたのだが、数人がかりの力仕事の成果として晴れて沢田研二の♪TOKIO♪の気分を短時間だけ満喫出来ることが確認されたのだった。

パラセーリングが♪海に浮かんだ光の泡♪になったのを見届けるとさらにビーチの散策を進めることにした。忽然と目の前に姿を現したものは石垣の上に設えられた真珠貝のオブジェであり、MIKIOMOTOの気配はなくともこの島の主要産業が真珠の養殖であることを雄弁に物語っていた。

午後4時のレイトチェックアウトまでの時間をリゾートで満喫し、タクシーで空港へ帰ることになったのだが、ベトナムでは恒例となっているスマホの翻訳ソフトによるタクシー運転手の観光地への勧誘攻撃が始まった。彼は飛行機の出発まで時間があるので真珠の養殖場へ行かないかと誘ってきたのだが、体調の戻りが芳しくない私にとっては「豚に真珠」だと思えたので丁重にお断りし、速やかに空港へと向かわせた。

今日は昼食を抜いていたので空港でやたらとどんぶりサイズの大きい牛肉麺(フォー・ボー)を食した後、17:15発VN1828便でホーチミンへと帰って行った。

すでにホーチミンでの定宿に認定されたHoliday Inn & Suites Saigon Airportにチェックインし、ビールと生春巻きの完食でベトナム料理を締めさせていただくとあとはひたすらドン・ペリニヨンのないベッドで体力の回復に努めていた。

11月26日(日)
早朝4時過ぎに起床し、5時過ぎには寝ぼけタクシーで空港へと向かっていた。タンソンニャット国際空港で最後のフォーを流し込むと7:30発NH834便の機上の人となり、是枝裕和監督のカンヌ映画祭出品作品である「怪物」を見ながら、うちの怪物猫は切れの悪いうんこをしたときに床に肛門をなすりつける伝家の宝刀「うんこ切り」をマスターしているのだが、これも家に運が付く所業であると自分に言い聞かせながら流れ解散。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = ¥57,640.- / passenger、 ベトナム航空 = ¥10,570.- / passenger
総宿泊費 US$ 580.22
総タクシー代 VND 1,110,000.- (¥1,000 = VND 167,323)

協力 ANA、ベトナム航空、IHG HOTELS & RESORTS

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 軍艦島

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カ・ス・テ・ラ~~♪
♪おおきく切って おおきく食べよう カステラは めいげつど~~~♪

ちゅうこって長崎へ行かないけん理由はカステラだけやのうて最近世界遺産になりよった長崎の産業革命遺産もよかごとあるけん気候もようなった10月に見物ばかますことにしたんよ。

2016年10月15日(土)
9:55発ANA3733便はソラシドエアとの共同運航便でソラシドいいよるわりには機内のオーディオ設備は整っとらんごとあった。仕方ないけ不貞寝ばしちょったら昼過ぎには長崎空港に着いっちょったんよ。早速ニッポンレンタカーでいっちゃん安いスズキのワゴンRをレンタルすると、とりあえず腹がへっちょたけ長崎市内へ乗り込むことにしたんよ。

新地中華街の宝来軒いう中華料理屋の店構えがよかごとあるけん特製ちゃんぽん(¥1600)ば食してみることにした。さすがに特製いうだけのことはあってちゃんぽんと言えどもちゃらんぽらんには作っとらんごとあった。

腹もそこそこ膨らんだごとあったけ、長崎市を出て「ねんりんピック」いう老齢者にむちば打たせるイベントが行われちょる諫早市を抜けて雲仙に向かうことにしたんよ。狭い山道をぐるぐる登りよったら卵の腐った臭いが段々きつくなりよるごとあった。雲仙温泉街をスルーして今晩のお宿になっちょる「ゆやど雲仙新湯」にチェックインすると、とるものもとりあえず周辺の調査に出ることにしたんよ。

雲仙温泉のメインスポットとして雲仙地獄が君臨しよるごとあるけ、それがどれほどの苦しみを与えちょるんかいっちょ見てやることにした。雲仙の古湯と新湯の間の白い土(温泉余土)におおわれた一帯が雲仙地獄なんやけど地獄の名にふさわしくキリシタンを弾圧した痕跡が残っちょるごとあった。

壮絶な運命に翻弄されたキリシタンの♪現在過去未来♪に思いを馳せながら地獄の迷い道をくねくね歩きよったら「真知子岩」いう石碑系のオブジェがあったんやけど渡辺真知子とは特に関係は持っちょらんごとあったけ、♪ブルー♪な気持ちでここを後にせんといけんかった。

湯煙舞い上がる木歩道を歩きよったら温泉神社に出くわしてしもたけん、パワースポットの夫婦柿で厄ば落としてホテルに帰り、地獄から天国モードに切り替えて温泉ば堪能させてもらったんよ。

夕食の御前にはビールは付けてもらったんやけど、メニュー表に書いちょった日本酒や焼酎の値段がやけに高かったけん、必然的に夜のちゃんぽんは避けられよったんよ。

10月16日(日)
雲仙温泉を後にして長崎市内に戻る道すがらに長崎カステラというのぼりに引き付けられるように旅の駅千々石展望台に寄らないけんごとなった。雲仙普賢岳を見上げる展望台からは龍馬も見たはずの絶景ば目にすることが出来たんよ。

土産物屋に入るとムツゴロウ水槽のその奥のカステラ工場が甘い匂いを漂わせ、試食でつまんだ蜂蜜カステラが美味やったんで思わず一番安いやつを買うことにしたんよ。さらにびっくりぽんやったんはTOKIOを中心とした鉄腕ダッシュのロケ隊がソーラーカー団吉の撮影でこのカステラ工場の仕事の邪魔をしに来とる様子が誇らしげに紹介されちょったことやった。

長崎の歴史を語るうえで避けて通れんのは戦争と平和の話になるんやけど、長崎市内に戻ると早速平和公園で祈りば捧げさせてもろたんよ。園内でまず目に付いたんはまるで♪憂鬱など吹き飛ばして♪と言うちょるかのようにYMCAの「C」のポーズを決めようとしちょるごとある平和記念像やった。

さらに長崎原爆資料館(¥200)に入館し、洋式便所の正しい使い方ば学習した後、長崎型原爆ファットマン等の展示物を直視しながら次回はもっと時間をかけて見学ばさせていかんと肝に銘じよったんよ。

石炭が”黒いダイヤ”と呼ばれていた頃、炭鉱はマサに命綱のごと日本の文明開化と高度経済成長を支えちょった。その歴史的遺産を「ブラックダイヤモンド」というクルーズ船で巡る軍艦島上陸クルーズにあらかじめ予約を入れちょったんで満を持して乗船させていただく運びとなった。

多くのねんりんピック流れの参加者を乗せたブラックダイヤモンドは定刻午後2時に元船桟橋を出航すると三菱重工の現役造船遺産が居並ぶ長崎港内を疾走した。世界遺産に登録されているジャイアント・カンチレバークレーン等のファシリティを横目に船は最初の寄港地である高島に向かって行った。

高島に上陸し、早速鬼瓦ヅラの三菱創業者である岩崎弥太郎に挨拶すると高島石炭資料館の前に設置されている軍艦島模型を使ってオリエンテーションが行われたんや。資料館自体にも貴重な品々が展示されちょるんやけど、特に純度の高い黒いダイヤや炭鉱夫が描いた炭鉱夫像の目が鋭い輝きを放ちよるごとあった。

30分程の滞在で高島を出航し、火葬場のなかった軍艦島の死者の魂を弔うための島を過ぎると目の前に「いかにも廃墟ばい」と主張しちょるごとある建物が迫ってきた。

軍艦島は長崎県長崎市高島町端島の俗称で戦艦「土佐」に似ちょることからそう呼ばれるようになったそうなんよ。クルーズ船はご丁寧にも島が戦艦の形に見える場所まで移動してじっくりと撮影するチャンスば与えてくれよった。

島をぐるっと一周しよる間に他のツアーグループの船が桟橋から離れるとブラックダイヤモンドが着岸する順番になりよった。かつて栄華を誇った帝国のような軍艦島に一歩足を踏み入れるとガイドの説明とともにこの島の現在過去未来の光景が早回しで流れていくごとあった。

上陸ツアールートは島の西側の一部に限られとるけん、迷い道をくねくねすることはないんやが、歩きスマホや歩き写真は禁止されとるごとあった。その理由は上陸客がようけ一斉に歩きよって写真撮りよる奴がつまづいて将棋倒しを起こした教訓からなんよ。

ところで、軍艦島は幅160m、長さ480m、周囲1.2kmで面積に至っては東京ドームのグラウンドおよそ5個分しかなく、最盛期にはその狭い空間に約5,200人もの人々がひしめきあい、当時世界一の人口密度を誇った東京の9倍の人口密度やったそうなんよ。しかしその中は当時の最先端の技術や流行で埋め尽くされており、鉄筋コンクリートの高層ビル、封切映画が上映される映画館、給料の高い炭鉱夫から金を巻き上げるためのパチンコ屋や娯楽場、さらに各家庭にはすでにテレビが導入されちょったんよ。

島の西側の見学地点からは大正5年に建立された日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅も確認出来、このビルは日本コンクリート工学会の垂涎の的にもなっちょるそうや。しかし軍艦島周辺の海は波も荒く、周囲のビルは防波堤の役割も兼ねているため、建造物は自然荒廃しており、このままの姿で保存するんは日本が誇る最新の技術をもってしても困難やと言われちょるわけたい。

見学ルートに赤レンガの廃墟があるんやが、これは三菱石炭鉱業の事務所棟でその隣に階段が見えるんやが、雨が降るとこの階段が黒光りするそうなんよ。この階段は第二竪工入坑桟橋と言って炭鉱夫達は日々この階段を登って四角いリングのようなリフトに乗り、東京スカイツリーの高さを超える660mの距離を2分くらいで一気に降りてさらに1km以上先の坑道へと進んで行ったそうや。坑道内の温度は40℃、湿度は90%を越えたため、坑道に着いてまずせなならんかったんは炭鉱夫の健康チェックやったそうや。

前日の作業で怖い目にあった炭鉱夫は次の日に膝が震えて階段を登れんくなったそうで、隣の小学校から聞こえる子供の声を聞いて勇気を振り絞って作業に向かったそうなんよ。マサに家族のために命がけで仕事をしよったちゅうこっちゃ。

端島炭鉱は1974年1月15日に閉山となり、この年の4月20日にすべての島民が島から離れ、軍艦島は無人島となって今に至るんやけど、上陸ツアーのほとんどには元島民も参加しよるということで繁栄時の面影は今も人々の心の奥に残されとるちゅうことや。

ツアーも無事終了し、そそくさと長崎空港に戻ると空港にインストールされちょる牡丹という中華料理屋で名物皿うどんの固麺を喉に突き立てることなく完食すると18:55発ANA670便へ東京へと帰って行ったんよ。

FTBサマリー
総飛行機代 ANA = \44,180
総宿泊費 ¥31,320(2食付き)
総レンタカー代 ¥7,476
総高速代 ¥2,690
総ガソリン代 ¥1,275
総軍艦島上陸クルーズ代 ¥3,600

協力 ANA、ソラシドエア、ニッポンレンタカー、楽天トラベル、軍艦島クルーズ株式会社

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 奥尻島

しかしマサよ、ひとつになろうニッポン!というキャッチフレーズがむなしく響く中、復興担当大臣は不幸を引き受けてしまったかのようにばっくれやがり、九州電力が不作為的に実施したストレステストにより我慢の限界を超えた玄海町長は原発の運転再開を白紙に戻してしまい、庶民は日々尻の奥が塞がってしまったような閉塞感に苛まれている。

このような状況では復興の早期実現は望むべくもないと思われがちであるが、北海道の離島奥尻島では巨大地震と津波で壊滅的な被害を被りながらも尻の穴を引き締めてより強固な災害対策を実現させているという。その不屈の闘志に敬意を示すと共に、今後の節電方針を模索するために北の離島までやって来たのであった。

2011年7月9日(土)

JALのマイレージが余っていたので、マサであれば¥3万くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL1201便は定刻午前7:35に出発すると9時前に青森空港に到着した。早速空港バスで青森駅まで移動して駅の周辺を散策することにした。整備の行き届いた青森駅周辺で目に付いた代物は国鉄時代に栄華を誇ったはずの青函連絡船の遺物である八甲田丸である。青森駅から連絡線の桟橋までは直結しており、かつては本州と北海道を結ぶ唯一の交通手段であった連絡船が今では「津軽海峡冬景色歌謡碑」に慰められながら、記念館として細々と余生を送っている姿が見て取れた。

私もひとりローカル線に乗り、北のはずれを目指すことにした。青森駅から10:21発の津軽線に乗り、蟹田で乗り換えて終点の三厩に着いたのは正午過ぎであった。駅から列車の発着にあわせて運行する路線バスが一回¥100という破格の運賃で運行していたので乗車させていただくと14kmもの道のりを30分かけて終点の竜飛崎灯台バス停に到着した。

竜飛崎にもお約束の「津軽海峡冬景色歌謡碑」が設営されているのだが、さすがにご当地だけあり、ボタンを押せば石川さゆりの歌が2番から流れる本格的なセットとなっていた。私もこの歌を耳にして以来、♪ごらんあれが 竜飛岬ぃ 北のはずれとぉ~ 見知らぬぅ人がぁ 指をさすぅ♪の見知らぬ人を演じてみたいと念じており、ついにその時がやって来たと思ったのだが、よく考えてみると連絡船から岬を指差さなければならないシチュエーションだったため、敢なく断念せざるを得なかったのだ。

石川さゆりが青森県知事に立候補すれば、確実に当選することを思い知ったので、その勢いで岬の頂上に駆け上り、さけ茶漬けを主食とする北島三郎の聖地である函館を見渡そうとしたのだが、お茶漬けの湯気で曇っているかのように見通しが悪かった。そこで北の漁場で釣れるはずの竜飛まぐろのオブジェを一瞥し、♪さ~よな~ら マサよ~ 私はか~えりますぅ~♪と歌いながら撤収することとなった。

次から次にやってくる観光客の衝動により、絶え間なく流れる津軽海峡冬景色の歌謡碑の隣に日本唯一の国道339号階段国道の案内図があったのだが、それをスルーして青函トンネル記念館(\400)に向かった。

竜飛は青函トンネル本州方基地になっており、その基地の跡地が記念館に成り代わり、観光客と世界一の海底トンネル掘削の苦労をわかちあう形となっている。しかし、青函トンネルのリファレンスとしては英仏海峡トンネルを取り上げやがっており、日本初の海底トンネルであり、本州と九州を苦労して結んだ関門トンネルには一切触れられてなく、九州人を敵に回しているのではないかと懸念されもした。

ついつい語気が荒くなりそうになったけん、バスで三厩に戻り、蟹田駅でスーパー白鳥25号に乗り換えて実際に青函連絡トンネルを通過してみることにした。トンネルは深さ140mの津軽海峡のさらに100m下に掘られており、実際に最深部を通過するときに私の腕時計に内蔵されている高度計に目をやると-280mを指していた。

蟹田の次の駅の木古内は北の大地の始発駅となっており、函館を目指す特急白鳥に別れを告げてローカル線で江差に向かった。JTBに予約させておいたホテルニューえさしは天皇皇后両陛下も宿泊したことのある江差随一のホテルではあるが、他の宿泊施設はしなびた旅館しかない静かな町であった。

7月10日(日)

北海道の里 追分流れるロマンの町江差の代表的観光地である「かもめ島」を目指していると幕末のロマンが再現された開陽丸が座礁したかのように黒光りしている様が目に飛び込んできた。かもめ島の入口には頑固親父が鉢巻を締めているような瓶子岩が鎮座しており、それは必然的に江差町のシンボルとしての地位を不動のものとしている。

風光明媚なかもめ島には民謡の王様と言われる江差追分の記念碑も建てられており、民謡は江差追分に始まって江差追分に終わるという威光がつつましくも存分に示されているかのようだった。

かもめ島から程近いフェリーターミナルで午前9時半発ハートランドフェリーが運航するアブローラおくしり2等席に乗り込むと江差を後にして尻の穴を引き締めながら奥尻島に向かった。曇り空の下、アブローラはアブノーマルな挙動を示すことなく順調に航行し、定刻11時40分に奥尻フェリーターミナルに着岸した。

観光シーズンもたけなわとなっている奥尻島ではゆるキャラの「うにまる」が観光客を迎えているのだが、皆上陸すると条件反射でついつい写真を撮ってしまうのだった。

今日宿泊する浜旅館はフェリーターミナルから徒歩5分の近距離だったので、サクッとチェックインすると近隣地区を散策することにした。奥尻市街に程近い海岸に凱旋門のような奇岩が立ちはだかっているのだが、これは奥尻島のシンボルとして君臨している鍋釣岩で囲炉裏で使う鍋のツル(弓形の取っ手)が名前の由来になっている。

海岸線に沿って2km程南下し、少し山間に入るとうにまる公園に到着した。ここに奥尻島で最も重要な観光施設であるはずの佐藤義則野球展示室が無償で観光客を待ち構えていたので満を持して見学させていただくことにした。奥尻島出身の佐藤はその強靭な背筋力を背景に奥尻中学時代に頭角を現し、函館有斗高校では甲子園出場は逃したものの、日本大学で大学球界のエースとして君臨し、ドラフト1位で阪急ブレーブスに指名され、新人王を獲得したつわものである。通算165勝を挙げた佐藤投手の野球人生のハイライトは1995年に史上最年長の40歳で達成したノーヒットノーランで当時ライトを守っていたイチローも試合終了後に俊足を飛ばして一路マウンドまで駆けつけていたのだ。

うにまる公園をうにまる公園ならしめている代物は平成元年のふるさと創生資金の投入により建立されたうにまるモニュメントである。ウニによる町おこしが順調に進んでいるのは町を照らす街灯もうにまるモニュメントを模した形に作られていることからも窺い知ることが出来るのだ。

うにまる公園を後にして東海岸線を北上していると民家の庭から野生のミンクが姿を現した。奥尻島にはクマ、毒ヘビ、キツネといった動物はいないのだが、島の60%を占めるブナ林はタヌキの居住地となっており、冬季には天然記念物のオオワシやオジロワシも出張してくるという。

1831(天保2)年に島の漁師たちが大漁祈願に弁天様を奉納したことから始まっている宮津弁天宮に164段の階段を上り下りして辿り着いた。気が付くと浜旅館から6km程離れた場所まで北上してしまっていたので道沿いに咲いている奥尻の花々を愛でながら奥尻市街まで帰って行った。

7月11日(月)

瀬川商会奥尻観光レンタカーで4段変則機能付きママチャリをレンタルすると、今後対応しなけらばならなくなるかも知れない自家発電のトレーニングを兼ねて島内の一周にチャレンジすることにした。奥尻島の海岸周囲は84kmなのだが、道路一周はわずか66kmなので26インチのチャリのサドルを最大限に上げ、尻の奥に食い込ませるようにしてサイクリングをスタートさせた。

島の道路の至る所にウニの殻が落ちているので、それらを踏んでパンクしないように注意しながら北上していると程なくして最北端の稲穂岬に到着した。もの悲しい雰囲気をたたえる岬の周辺は賽の河原と呼ばれており、海難犠牲者や子供を慰霊する霊場となっている。

さらに近辺には佐藤義則投手もその才能を開花させた野球場や決して八百長が行われることが無いはずの相撲広場、生きた海産物をその場で地獄焼きにして提供する土産物屋が少ない観光客を心待ちにしていたのだ。

賽の河原にさいならすると道はいつしか深いブナ林に囲まれ、開けた草原に到着すると、そこには魚介類に飽きた島民に肉の味を提供する奥尻牛の放牧場が展開されていた。

山道でところどころ視界が開ける絶景ポイントに遭遇し、思わず息を呑むような自然美を堪能しながら峠を降りると島内唯一の温泉地である神威脇に到着した。

通常であれば離島の温泉に浸かって英気を養うところであるが、島内一周を制覇する志半ばであったため、近隣のホテル緑館の巨大な足湯に手を差し入れて温度を確認するだけに留まってしまった。

北追岬で謎のオブジェをちら見した後、ほほえましい少し大人向けの艶笑話を由来とするみかげ石の奇岩を拝みに行った。そのモッ立岩の由来とは「一人の未亡人が、この磯に岩ノリを採りに来てこの岩を発見。亡くなった自分の亭主のからだの一部にあまりに似ていたので、喜び懐かしみ、そのままの名を付けることに恥ずかしさを覚え、上の一文字を抜いて、モッ立岩と呼んだと言われている」

マサよ、君がもしモッ立岩との勝ち負けをどうしても判断しなければならないのなら、遠路はるばるここに来なければならないのだ!

ということで、モッ立岩をあっさり完封した私はママチャリに跨り、落石防止のために絶壁に張り付いて作業している労働者にエールを送りながらウイニングランを続けることにした。

保水性の高いブナ林の高台から豪快に流れ落ちるホヤ石の滝でマイナスイオンを浴び、離島最北端の田んぼの風景をのんびり眺めながらペダルを漕いでいるといつの間にか島の南端部の岬に到着していた。

青苗というこの地区は津波で最も大きな被害を受けた地域だが、その教訓を生かして漁港からすぐに高台に非難出来る望海橋と命名された人工地盤が海と人との幸せのかけ橋になることを望んでいるかのように浮かび上がっていた。

奥尻島最南端の青苗岬をヒットして、奥尻まで残り17kmの距離を東海岸沿いに一気に北上していると沖縄の海のように透明な北の海が永遠に続いているかのような鮮烈な印象が心に刻まれた。

予定通り4時過ぎに奥尻市街に帰着し、チャリを返却するとさらに5km程歩いて今日の宿泊地である御宿きくちに向かった。この宿は奥尻島で一番新しい民宿だが、2006年、2008年、2009年に北海道地区の楽天トラベルアワードを受賞した名門で、授賞式に列席した際に、三木谷会長から表彰された様子が誇らしげに飾られていた。この宿で地獄焼きにされるアワビは水揚げ後1時間以内の新鮮なもので、何もつけずに召し上がっても十分に磯の味が口内に広がるのだ。

7月12日(火)

御宿きくちをチェックアウトし、フェリーターミナルに付属するバスターミナルまで送っていただいた。乗客の少ない9:40発のバスに乗り込むと30分程で最南端の町である青苗に戻ってきた。ここで忘れてはならない観光地は震災から8年、災害の記憶を忘れないために2001年にオープンした奥尻島津波館(¥500)である。

1993年7月12日、午後10時17分、北海道南西沖の深さ34kmを震源とするM7.8の地震が日本海地域を襲った。震源地に近い奥尻島は地震発生後わずか3分で襲来した大津波により壊滅的な被害を受けたのだ。津波の速度はなんと佐藤義則投手の速球の4倍近い500kmにも達したと言われ、オリックスが誇るブルーウェーブも全く歯が立たない程の威力で島を呑み込み、船の燃料である重油やプロパンガスに引火した炎は青苗の町を焼き尽くしていた。津波襲来後すぐに先発を生業とする佐藤義則投手も救援に駆けつけ、今回の震災とは比べ物にならないほどの速さで復興が始まり、5年後には早くも復興宣言が出されているのだ。

今日7月12日は震災の発生日ということで、北海道南西沖地震慰霊碑である時空翔の前には地元のテレビクルーが陣取り、震災の恐怖と教訓を後世に伝えるべく入念な番組のリハーサルが繰り返されていた。

この震災による被害を乗り越え、最新の津波対策を確立し、実施した奥尻には海外からのメディアも数多く取材に訪れていたのだが、高台への避難路、高さ6mの空中広場、遠隔操作出来る水門等の技術を十分に学ぶことが出来たので、速やかに奥尻空港に移動し、午後3時5分北海道エアシステムが運行するHAC2894便で函館までひとっ飛びした。

函館空港には北島三郎の痕跡が残されていないことにある種の安心感を覚えたので、午後9時10分発JAL1170便で羽田空港に帰還し、すし太郎も買わずに流れ解散とさせていただいた。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥5,380

総宿泊費 ¥6,720(食事なし)、¥22,300(2食付)

総JR代 ¥4,260

総バス代 ¥1,500

総フェリー代 ¥2.300

総レンタサイクル代 ¥700

協力 JAL、北海道エアシステム、楽天トラベル、JTB、ハートランドフェリー、JR

祝2000本安打&世界遺産内定記念 小笠原ツアー

マサよ、君はまもなく首都・東京に誕生する世界自然遺産に先取り上陸したことがあるか!?

ということで、2011年5月6日(日)、国際自然保護連合(IUCN)は、小笠原諸島を世界遺産リストに記載することが適当であると世界遺産委員会に勧告し、順調に進めば2011年6月末の同委員会で、小笠原諸島は日本で4番目の世界自然遺産となる。これは石原都知事が多額の税金をつぎ込んでゴリ押しした東京オリンピックの招致の失敗など足元にも及ばない快挙である。また、小笠原が世界遺産となれば観光客が殺到し、その重みで島々が沈んでしまうことも懸念される。いずれにしても、世界遺産登録後に様々な制限を設けられる前に小笠原まで航海しなければ後々後悔するのは必至であるはずなのでGW後の閑散期に太平洋の荒海に乗り出すことにしたのだ。

2011年5月24日(火)

JR浜松町から程近い東京港竹芝客船ターミナルに午前8時半頃到着し、東海汽船の窓口で乗船券と人名票を入手し、必要事項を記入すると世界自然遺産登録直前小笠原先取り体験キャンペーンのゆるキャラに就任しているメグロンにガンをつけた後、通称「おが丸」として慣らしている小笠原丸に乗り込んだ。

大きな銅鑼の音を鳴らして定刻午前10時に出港となった「おが丸」は小雨そぼ降る中、東京タワーやレインボーブリッジ等の都会の建造物を尻目に東京湾を南下して行った。

おが丸には何故か日テレ等のテレビクルーも乗船しており、しきりに周囲の風景を録画しまっくていた。羽田沖を通過しているおが丸のデッキからは数十秒毎に離着陸を繰り返すANAやJALの機体が遠巻きに眺められ、これから起こるアドベンチャーの期待が徐々に高まっていくのであった。

東京湾に別れを告げ、太平洋の外洋に出たおが丸は、その6700トン、全長131mの巨体を大きく揺らしながら酒さえ飲んでいない乗客をも酔わせ、船内レストランや売店の売り上げを著しく低下させると同時に各所に設置されていたエチケット袋の消費量を増やしていた。南極に至るドレーク海峡で三半規管を強化していた私でさえ、この日は飯も食わず、持参していた三国志4巻、5巻を読破することもなく、2等雑魚寝スペースで意識を無くそうと努力するのが関の山であったのだ。

5月25日(水)

夜が明けるとようやくシケも収まっていたようで、何とか船内レストランの売り上げに貢献し、デッキで果てしなく続く青い海を眺めていた。空を舞う海鳥やおが丸が立てる白波を眺めていると、ふとGIANTSの背番号2のユニフォームに身を包んだ侍が左打席でフルスイングしている感覚が強くなってきたのですでに小笠原諸島の海域に差し掛かっていることを確信した。

島影が次第に濃くなり、歓迎クルーザーも姿を現したところでおが丸は父島二見港に着岸し、乗客は約26時間ぶりに大地を踏みしめることとなった。

下船後ほどなくすると今回宿泊することになっているトロピカルインパパヤのスタッフがバンで迎えに来ていたので早速乗り込むと宿に着く2分程の間に簡単に父島市街のガイドが施された。ATMは農協と郵便局のものが使用可能なので金融機関に金を預けている限り金欠病に罹る懸念はなく、コンビニはないものの商店や食堂、居酒屋はいくつかあるので東京都民としての暮らし向きに何ら不便がないことが確認された。

宿に到着すると父島に入植して39年のパパヤのパパ兼オーナーの田中氏から新規宿泊客に対して数々の注意事項が与えられた。基本的に南国での自由気ままな生活を謳歌してよいのだが、過去には不幸にも海や山でお亡くなりになった方々が数多いので出かけるときは行き先を伝えるようにとのことであった。

近くの中華料理屋でタン麺を食った後、パパヤの目の前にある小笠原ビジターセンターに入ってみることにした。ここには実物のカヌーが帆走時代の姿に復元されて展示されているのだが、窓越しに広がる前浜と言われる大村海岸では気安く海水浴やウインドサーフィンを楽しむことが出来るのだ。

パパヤで原チャリをレンタルすると父島の見所を一通り回ってみることにした。大村地区の繁華街を抜け、東岸の舗装道路を南に進んでいるとギルバート諸島出身の先住民「コペペ」が利用していたというコペペ海岸に到着した。さらにその奥には真っ白い砂浜が広がる小港海岸がコバルトブルーの透き通った水を満々と湛えていた。

島内にはいくつもの森林生態系保護地域があり、そこに入るためには観光ガイドの同行が必要でさらにマットの上で泥や種子を落とさなければならない程の厳重管理がなされている。さらに大陸と陸続きになった実績のない小笠原には固有の動物や植物が生息しているのだが、中でもアカポッポとの異名を取るアカガシラカラスバトは十分にマークされ、野猫の脅威から防御されているのだ。

島の中央に標高319mの中央山がそびえているのでそこからの絶景を堪能した後、宇宙航空研究開発機構の何らかの機器をチラ見していくつかの展望台をはしごしながら大村地区に帰ってきた。

気象庁傘下の父島気象観測所が小笠原諸島一帯の天気予報を担っており、石原良純のへたくそな天気予想よりも高い信頼性を誇っているのだが、三日月山という小高い丘は何故かウエザーステーションと呼ばれており、夕日の絶景ポイントになっているのだ。クジラの繁殖シーズンともなればこのステーションからザトウクジラが座頭市のように海上でもだえている様子を遠巻きに眺めることが出来るという。

夕食に島鮨をたらふく食った後、パパヤの相部屋の部屋に戻り、オーナーの田中氏の勧めで2009年7月に観測された皆既日食のDVDを鑑賞させていただいた。その年の日食のホットスポットは鹿児島沖のトカラ列島であったのだが、奄美大島に上陸した沢尻エリカ様の祟りのために暴風雨になり、鹿児島沖では見れなかったのだが、何と小笠原諸島南部で目撃された天体ショーがしっかりと記録されていたのだ。さらに田中氏の説明によれば東京都の石原軍団に仕切られている小笠原では毎月¥5,000をぼられながら東京都と同じチャンネル数のテレビが見れるとのことで、何故か地デジ対応後は¥1,500になると満足気に話していた。尚、小笠原好きでしかも海の男である石原都知事は自家用のヨットで小笠原まで来やがった実績もあるとのことであった。

5月26日(木)

今回宿泊しているトロピカルインパパヤはドルフィンスイムやホエールウォッチングを通年営業しているマリン系のツアーを生業としており、今日は父島周辺1日コースのツアーに空きがあり、しかもキャンペーンでツアー代金が10%割引になるとのことなのでマサであれば\8,000かかるところを私は\7,200の支払いで参加させていただくことにした。

午前9時過ぎに桟橋に到着し、そこに繋留してあるミス・パパヤという大型クルーザーに乗船すると小笠原で最もエキサイティングな海上ツアーの火蓋が切って落とされた。ミス・パパヤは二見湾を抜けると父島の東岸を南に進路を取り、父島南東にひっそりと佇むジニー・ビーチの近辺に浮かぶ南島に到着した。

大型クルーザーのミス・パパヤでは南島に着岸出来ないため、ツアー客はミス・パパヤに伴走してきたマンボウという小型船に乗り換えると石灰岩で出来ている沈水カルスト地形の小さな島に一歩を踏み出すこととなった。

南島では貴重な自然環境を保全するため、1日100人という入島規制が敷かれており、しかも最大15人までを管理出来る東京都認定ガイドの同行が必要となるため、どこぞのテレビクルーもガイドの指示に従いながら粛々と絶景をカメラに収めていた。

南島での最大の見所である扇池の砂浜には貴重な半化石状のヒロベソカタマイマイの貝殻が散乱しており、さらにアオウミガメが産卵した後には観光客が卵にダメージを与えないように目印として3本の小枝が白砂に突き刺されていた。

マサよ、君はかつての女王小谷実可子が野生のイルカとシンクロして泳いだ時に人生観が変わり、オリンピックで獲得した銅メダルなど、ど~でもよくなった程の衝撃を受けたという逸話を聞いたことがあるか!? http://spiritual.syuji.com/?eid=501699

というわけで、小笠原はドルフィンスイムの先駆けであり、聖地であるとも言えるのであるが、南島からミス・パパヤに戻り、辺りをクルーズしていると程なくミナミハンドウイルカの群れに遭遇し、すぐさまドルフィンスイムのスクランブル体制が取られた。海の水はまだ冷たいため、乗客はウェットスーツに身を包み、クルーザーの後方から次々にイルカ目指して青い海にエントリーして行った。

脳内から分泌された脳内モルヒネと言われるベータエンドルフィンのせいか、ドルフィンスイム中は皆リラックスした状態でイルカと戯れることが出来るのだが、イルカにもイルカの事情があり、餌取りで忙しいときもあるので必ずしも一緒に遊んでくれるとは限らないのである。また、♪イルカに乗った少年♪である城みちるが水平線の向こうから乗ってきたイルカは自家用イルカでないかとの疑いを持たれているのだが、その根拠はドルフィンスイムでは決してイルカに触れてはいけないという厳しい自主規制が敷かれているからだ。

複数の船からイルカの群れにエントリーする場合には一隻あたり5回のイルカアタックまでというルールがあるのだが、今日は複数のイルカの群れが出現したため、ドルフィンスイムはお昼過ぎまで続けられた。イルカを追いかけて腹も減ったので父島の北に位置する兄島南岸の兄島海域公園まで移動して海底に固定されている浮きにミス・パパヤを繋留して昼食を取ることとなった。船の上から餌を撒くとすぐに熱帯魚が群れを成して集まって来たので、ここで釣竿を垂らせば入れ食い状態になることは間違いないはずである。

昼食後もイルカやクジラ等を探して父島海域をクルージングしたのだが、これといった成果も上げられなかったので島の横穴の奥まで泳いで探検して帰ってくる等のスノーケリングアクティビティで時間をやり過した後、午後5時前にサンゴが茂っている二見港の桟橋に無事帰港し、ツアーの終了となったのだった。

5月27日(金)

離島の静かな夜も明けきった早朝からあわただしく相部屋の同宿人が道を隔てた目の前のビーチに走り去っていったので、何事かと思い、私も後を追いかけてみると夜中に安産を終えたはずの巨大なアオウミガメが砂の窪地に排卵の余韻を残しながら砂を掻いていた。この光景を目にすると、わずか数m先に人類が住んでいる喧騒のビーチにまでアオウミガメが産卵に来るほど、この地域は自然と密接に繋がっている事を思い知らされるのであった。

午前6時半には朝食を済ませてトロピカルインパパヤをチェックアウトするとフェリー乗り場まで徒歩5分の道のりにもかかわらずバンで送っていただいた。小笠原諸島くんだりまで来て父島だけで母島に上陸しないと両親に対する仁義を欠くことになりはしないかと思ったので片道\4,400の大金を支払って「ははじま丸」に乗り込み、親孝行のつもりで50kmもの距離を2時間かけて航行することにした。

航海途中の船上で「船の周辺にイルカを発見しました~!」とのアナウンスが鳴り響いたりしながら、午前9時半過ぎには母島の沖港に到着した。ところで小笠原の携帯電話情報なのだが、父島ではドコモとAUは使用可能だが、ソフトバンクには対応していないのでiPhoneユーザに対して優越感を持ちながら観光していた。ところが、母島に入るとAUもNGでドコモのみとなったので仕方なく「圏外」となったAU電話を引っさげて沖港船客待合所に付属している母島観光協会で今日の宿を探していただいた。

幸いにも石で作ったクジラのオブジェが反り返っているクラフトイン・ラ・メーフという宿にしけこむことが出来たので、チェックインするとすぐに母島の探検に繰り出すことにした。沖港内にバスタブ系ではあるが浄水設備が整ったははじま水族館に拉致されているアオウミガメの子供を見舞っているとその下の海には体長1m程度のネムリブカが眠そうに泳いでいた。

港の脇はその名の通りの脇浜なぎさ公園という人口砂浜になっており、その上には鮫ヶ崎展望台という見晴らしポイントが設置されているので季節がよければザトウクジラの絶好の観察ポイントになりうるのだ。

脇浜なぎさ公園の入口にアオウミガメの人工産卵場が整備されていたので覗いて見ることにした。産卵場内の海域は柵で外海と隔てられており、わざわざ産卵に来たであろう成人アオウミガメはしきりに柵外に出ようと無駄な努力を繰り返しているのがやるせなかった。さらにネムリブカも繁殖のシーズンを迎えているようで岩を中心とした添い寝がしやすいフォーメーションが形成されていた。

ロース記念館という母島特産のロース石で製作された生活用品を展示していると見せかけて実は母島の歴史を学ぶための郷土資料館として君臨しているファシリティでパンフレットに記念スタンプを押していただいた後、町を流していると行幸紀念碑に遭遇した。東京から1,000kmも離れた離島であっても昭和天皇も平成天皇もしっかりとこの地を訪れている様子から小笠原はいつの時代にも日本の重要拠点であることが確信されたのである。

母島の母性本能をくすぐるために父島、母島の最高峰である乳房山に登頂することにした。標高がわずか463mということで楽勝かと思いきや、地形上トップとアンダーの差が大きいので乳房山遊歩道一周には約4時間かかるのが標準となっているのだ。

集落近くの乳房山遊歩道入口から急な斜面を登り始めると程なくしてうっそうとした亜熱帯雨林のジャングルに紛れ込んでしまった。森の中は小笠原の固有植物の宝庫であり、母島にしか生息していない特別天然記念物の鳥「メグロ」等の野鳥が喉を潤すために観光客は小鳥の水場で給水に協力しなければならないのだ。また、山中の所々に第二次大戦中に掘られた塹壕の跡や米軍が置き土産として不要爆弾を落とした跡が今も生々しく残されているのだ。

登山遊歩道は各所で展望が開けており、高台から沿岸部を見下ろすことが出来るのだが、頂上から見る東側の景色はとりわけすばらしいものであった。

蒸し暑い中、体中に汗をしたたらせながら何とか2時間半で乳房山遊歩道を制覇し、集落に戻ると売店でビールを買って前浜でひっそりと登頂記念の祝杯をあげていると車の中からとある少女が私が食っていたスナックを見て「それ、かっぱえびせんですか?」と気軽に声をかけてきた。母島はわずか450人しか人が住んでなく、人とすれ違う時は必ず挨拶を交わす習慣が徹底されているのでそこいらの児童からも魔法の言葉が「ポポポ ポ~ン!」と出てくるのである。

1927年の行幸の折、天皇が生物採集にいそしまれたことから命名された御幸之浜に向かう途中で東京電力母島発電所に遭遇した。この発電所はLNGを燃焼させる火力式となっているので小笠原は放射線の脅威にさらされるリスクがなく、人々は紫外線のことしか気にかける必要がないのである。

5月28日(土)

クラフトイン・ラ・メーフをチェックアウトする際にオーナーのおばちゃんと雑談していると部屋の隅に無造作に置かれた色紙群から、この宿にはCWニコルやアルピニストの野口健といった自然派有名人が宿泊した実績があることが判明した。また、ルネサスソフトボール部所属で日本代表のエース上野は律儀にもサインボールまで提供していたのだった。

午前9時半過ぎに父島から到着したははじま丸は10時半に折り返し出港となった。港に見送りに来ていた面々を見ると圧倒的に母子連れが多く、母島は将来に渡って安泰であることが約束されているかのようであった。

午後12時半過ぎに父島に帰着し、ペリー提督来航記念碑に別れを告げた後、おが丸に乗り込み着岸側のデッキで出港の行く末を見守っていた。出港の10分前には航海安全と再会を祈念して勇壮な小笠原太鼓が打ち鳴らされ、船長とおぼしき人は船員らしき人々の一団と儀式的な握手を交わしていた。

おが丸が岸から離れると父島中のクルーザーが狂い咲きのように一斉に伴走を開始した。港外に出てもなお追っ手のスピードを緩めない見送り船団であったが、それまで大きく手を振っていた海人たちは頃合を見計らって皆コバルトブルーの海に飛び込んで藻屑と化していったのだった。おが丸を最後まで追いかけてきたのは最大級のクルーザーであるミス・パパヤでオーナーの田中氏も運転席から手を振っていたのだが、彼にはこれから藻屑を回収するという残務が残されているのであった。

5月29日(日)

台風2号の接近により復路の航海は大荒れを覚悟していたのだが、航路は概ね波静かで持参していた三国志も順調にページが進んでいった。小笠原での滞在により、乗客は顔見知りが多くなり、会話もはずんでいたのだが、誰も巨人のクリーンアップに君臨している小笠原道大の2000本安打達成キャンペーンが無かったことを議論している者はいなかった。小笠原親善大使に就任している小笠原道大にとっては立場のない状況だと思われたが、彼は今年の日本シリーズでMVPを取った後に凱旋来島することであろう。http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/sightseeing/ambassador.html

おが丸は定刻午後3時半に竹芝港に着岸し、台風2号が熱帯低気圧に変わってもなお雨が降っている浜松町にて流れ解散。

FTBサマリー

総フェリー代 ¥56,296

総宿泊費 ¥22,300 (2食付き)

総レンタルバイク代 ¥1,350

総ガソリン代 ¥319

協力 小笠原海運、伊豆諸島開発株式会社、(株)パパヤマリンスポーツ (http://papaya.ecgo.jp/)

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 対馬

♪ポルトガル人がっ、ながさきへ~~~ カステラ (カステラ) カステラ (カステラ) めいげつど~の カステラ~~♪

というわけで、長崎県玄界灘の沖合、韓国との国境に浮かんでいる対馬はポルトガルではなく韓国がその領有権を主張していると言われており、高速フェリーの運航により実際に多くの韓国人が対馬に観光に来ているニダ。今回は実際に対馬で日韓の友好関係が機能しているのか、はたまた敵対関係のために緊張感が島を支配し、ヤマネコを絶滅の危機に追いやっていないか、その実態を確認するために上陸しなければならなくなったのだニダ。

2010年9月18日(土)

対馬へのアクセスは福岡または長崎からの空路、もしくは博多港からフェリーとジェットフォイルが運航されとるんやけど、今回は午前10時発ANA4933便で福岡からわずか30分で飛んでくることにしたんよ。

ヤマネコが島を支配しちょるごとある交通の要衝の対馬やまねこ空港に到着すると対馬交通が転がしとる島内バスに乗り、島で最も栄えちょる厳原に向こうたんよ。交流センターと呼ばれとるスーパーや飲食店、ショップの複合施設でちょっとくつろいだ後、島の歴史を予習せんといけんと思ったけ、県立対馬歴史民俗資料館に行くことにしたっちゃ。

島内の文化財、考古歴史資料、民族資料とかヘチマとかを収録展示しとる対馬歴史民俗資料館には対馬固有の動物の剥製もおいてあったんやけど、天然記念物に指定ばされとるツシマテンを見よったら、目がテンになったけん、ここから撤収することにしたんよ。

江戸時代の対馬藩主であった宗家の墓所になっとる万松院(¥300)が厳原の代表的観光地の割にはひっそりと佇んどるごとあったけんその幻想的な雰囲気ば感じるために見物することにしたっちゃ。万松院は宗家20代義成が、父義智の冥福を祈って1615年に建立された由緒正しい菩提寺なんよ。ここにはなんか知らんけど徳川歴代将軍の位牌が祀られるとるんやけど、裏手には百雁木と呼ばれちょる100段以上の石段が幽玄な雰囲気を醸し出しちょるごとあり、樹齢1000年の大杉まで立ちはだかっとったんよ。

対馬の海の交通の要衝となっとる厳原港に停泊しとるフェリーを遠巻きに眺めながら歴史情緒あるれる厳原地区を軽く散策した。今日の宿が空港の近くやったけ、バスで空港まで戻り、その辺をぶらぶらしよったら、ネコ科の動物が寛ぎよったけん、「君はヤマネコか!?」と聞いたところ、「いえ、猫です!!」と答えよったごとあったけん、そいつば適当に転がしてお茶ば濁しとった。

長距離ば歩いてくたくたになったけん、楽天トラベルに釣られて予約しとった民宿つりの家にしけこんだ。この民宿はつりの家の名に恥じんごと食堂には魚拓がようけ飾られており、宿泊料¥7,000の割にはアワビ、サザエ、鯛等の豪華料理が食卓を賑わしよるごとあった。

9月19日(日)

つりの家ば引き払い、空港のジャパレンでホンダのフィットをレンタルすると今日は島の北部ば散策してみることにした。島内を車で流しとったらいたるところにヤマネコ注意の看板が掲げられとるごとあり、ここでは学童よりもヤマネコの飛び出しに注意せんといけんごとあった。

対馬北部の上県町、棹崎公園の一角に対馬野生生物保護センターが、ツシマヤマネコ等の絶滅のおそれのある野生生物の生態や現状について解説し、野生生物保護への理解や関心を深めていただくための普及啓発活動や、希少な野生生物の保護増殖事業、調査研究を総合的に実施するための拠点施設として1997年にオープンしているので見学ばさせていただくことにしたんよ。

ここでの最大の見どころは言うまでもなく一般公開ばされちょる生きたヤマネコである。保護センターの一角には三代目となる福馬と命名されやがったヤマネコが慎ましく暮らしており、お気に入りであるはずの止り木にちょこんと正座して見物客の好奇の目に晒されとったんや。しかし、見物客はフラッシュを焚いたりガラスを叩いてヤマネコを刺激すると係員にクラされるけ、おとなしく見守らんといけんのよ。

今日は運ばよかったことにヤマネコの餌付けの日になっとったと。飼育員がネコ小屋に近付くとヤマネコも心得たものでドアに向かってまっしぐらに突進して行きよった。白ネズミの遺体を飼育員が見物客の見やすい位置に放り投げよったら、ヤマネコは一気に食らいつき2週間ぶりの食事をおいしそうに堪能しよるごとあった。

対馬の食物連鎖の頂点に立つはずの肉食系のヤマネコの恐ろしさを十分に思い知ったところで年々生息数が減少し、今では80~110頭と推定されとるヤマネコを危機に至らしめちょる脅威について学習もしとかんといけんと思いよったんよ。ツシマヤマネコの減少原因は交通事故、生息地の減少、犬による咬傷、とらばさみ等多々あるんやけど、♪ぼくには~ ゆめ~がある、希望がある、そして~ 持病がある~♪と歌っとる家猫からの感染症も多いみたいやった。ばってん、アフラックの保険はどうもきかんごとあったけ、泣く泣く撤収するしかなかったんよ。

マサよ、君は日本の国土におるのにNTTドコモを出し抜いて韓国の携帯基地の電波に接続支配されてしまったという屈辱ば味わったことがあるんかニカ!?

ということで、保護センターからほど近い「異国の見える丘展望台」で49.5km離れた対岸の釜山港を見ようとしよったら、いきなりブラックベリーが反応し、韓国の携帯電話のキャリアであるKTFに繋がり、私は携帯電話上では海外におることにされてしまいよったとや。ちなみに展望台からの景色は何の変哲もなか、曇った水平線の光景やったとよ。

対馬の北岸が電波上で韓国の植民地になっとる実態ば思い知らされたけ、もうひとつの展望台の韓国展望所に移動したニダ。ここでは観光バスで訪れとるごとある韓国人観光客がビールで酒盛りばしとっただけで電波はNTTドコモに戻りよったけ、Jinroで祝杯でもあげようかと思いよったんやけど酔って拉致されたらいけんけ、とっとと撤収することにことにしたんよ。

電波ジャックの問題が自然消滅せんかったら、大砲でもぶちかまさんと納得せんやろうと思いよったけ、豊砲台跡を見物することにしたんよ。豊砲台は昭和9年3月に完成し、戦艦の主砲をこの砲台にすえたんやけど、結局実戦に参加することなく「まぼろしの砲台」として朽ち果てて行きよったそうや。

豊砲台跡の見物が不発で、飲み屋で加藤あいを指名したはずなのに出てきたのは阿藤快だったときのような屈辱を覚えたけ、対馬北部の主要港である比田勝港で伊藤英明も乗船したことがあるはずの海上保安庁の船に海猿野郎!と暴言を吐いた後、日本の渚・百選に認定されている三宇田海水浴場に向かったんよ。

さすがに日本の渚・百選のビーチだけあり、天然白浜とエメラルドグリーンの遠浅の海のコントラストはマサに沖縄の海をほうふつさせるごと見事なもんやった。また、ビーチには上対馬温泉 渚の湯(¥500)が隣接しており紺碧の海に広がる水平線を眺めながらゆったりとくつろがせてもらったんよ。

9月20日(月)

厳原の繁華街に位置するビジネスホテルである柳屋ホテルをチェックアウトすると近辺で移動の足を確保出来んかったけ、バスで空港まで行って、トヨタレンタリースでダイハツのムーブばレンタルした。その名のとおりの移動手段を使こうて今日は島の南部の散策に乗り出すことにしたと。

厳原町のほぼ中心に位置する鮎もどし自然公園に鮎も泳いどるはずの清流と瀬川にかかる清流橋が♪いのち くれ~ない♪というような瀬川瑛子のリズムを刻んどるごとあったけん軽く見物し、さらに島南西部に突き出ている豆酘崎で海に浮かぶ白亜の灯台を遠目に眺めながら、朝鮮海峡と対馬海峡の境界の水路の厳しさを思い知りよった。

標高がそげん高くない割には険しか山道を運転しとったら内山峠ちゅうアカハラダ言う渡り鳥を観察出来るごとある展望所に到着した。内山峠には内山田洋とクール・ファイブとほぼ同年齢に見える律儀な渡り鳥観察老人達がたむろしており、今年は例年に比べて渡りの数が少ないごとあると嘆いちょった。

山間でしいたけを栽培しとるファシリティをちら見しながら車ば転がしとると、思わず「これなんやね?」と口走ってしまうごとある奇妙な屋根を持っとる古か倉庫群に行きあたりよった。これらは厳原町西海岸にわずかに残っちょる石屋根で、対馬で産出される板状の石で屋根を葺いとる高床式の建物で風に強い倉庫として慣らしとるゆうことやった。

対馬の中部は日本の代表的なリアス式海岸・浅茅湾が広がっとるごとあり、箱庭のような絶景ば提供しとるんやけど、あまり見て回る時間が残っとらんかったけん、軽く車で流した後、空港に戻り、福岡経由で東京に帰って行ったとやった。

役に立つごとあるワンポイント九州語講座

・ヘチマ

これがホントに九州語かどうか確信は持てんのやけど、27年前に北九州予備校で英語の教師をしよった馬淵先生が好んで使いよったことばやったとよ。意味としては・・・など、等々、etc.で多少ネガティブなトーンを持った状況で使われよるごとあった。財務省にも財務大臣とか、事務次官とかマサとかヘチマとかようけ偉い人がおるごとあるが、景気がいっちょんよくならんのはどういうこっちゃ、一回クラされんとわからんのやろ!という具合に使われるんよ。

FTBサマリー

総飛行機代 ただ

総宿泊費 ¥7,000(2食付き)、¥6,000(朝食付き)

総レンタカー代 ¥10,500

総ガソリン代 ¥3,508

総バス代 ¥1,840

協力 ANA、楽天トラベル、対馬交通、ジャパレン、トヨタレンタリース

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 礼文島

♪僕の先生は~、フィ~バ~♪

というわけで、小学校学園物の先駆けとなった熱中時代の水谷豊扮する北野広大は礼文島出身であるという設定であったのだが、2年前はその礼文島の隣に浮かぶ利尻島へは何とか上陸を果たし(http://www.geocities.jp/takeofukuda/2008rishiri.html)、しかも利尻富士の頂上まで制して来たにもかかわらず、礼文島に行く時間が取れなかったために北野広大への仁義を欠いてしまったことが大きな心残りとなってしまっていた。今回私の心の中の忘れ物を取りに行くために忙しいこの時期を選んでわざわざ礼文島を目指すこととなったのだ。

2010年7月3日(土)

将来はマサの財力を利用してANAの筆頭株主に成り上がるという野望を持っている私はANAの株主優待券を利用してマサであれば\43,000かかるところを¥21,550の支払いで羽田発稚内行きのチケットを入手し、しかもプレミアムクラスへのアップグレードまで果たし、B767機の1-Kという筆頭席に陣取り、意気揚揚と日本最北端を目指した。ANA573便は午後2時過ぎに稚内空港に到着すると早速空港バスでフェリーターミナルへ向かった。

北海道の離島航海を取り仕切るハートランドフェリーが運航する午後3時25分発礼文島行きのフェリーの2等席に乗り込むと甲板で潮風にあたりながら約2時間の航海がスタートした。あいにくの曇り空で利尻島にそびえる利尻富士の雄姿は拝めなったものの穏やかな海上の快適な航海で午後5時20分に香深港に着岸した。

「お帰りなさい礼文島へ」の看板に迎えられるとおびただしい数の老老男女で構成されるエースJTBの団体旅行客やFTB御一行様はついに海抜ゼロメートルから高山植物が咲き誇る花の島への上陸を果たしたのだった。多数の観光バスをチャーターしやがっているエースJTBを尻目にFTBは宗谷バスが運航する路線バスで島の北部の船泊に向かった。

楽天トラベルに予約させておいたホテル礼文荘が提供する「ドーンと大きなボタン海老 北春丸さんありがとう」プランにより早速宿に到着後に夕食の時間となった。北春丸が釣り上げてきたはずのボタン海老の優雅なフォルムに見とれてデジカメのボタンが押せなかったために豪華な夕食はマサの想像にまかせるしかないのだが、食卓はウニやホタテや毛ガニの半身等豪華な海の幸で彩られており、宿泊客は皆、毛ガニの毛が指先に刺さらないように注意しながら黙々と身をほじっていたのだった。

7月4日(日)

早朝より日本最北の湖である久種湖と久種湖畔キャンプ場を軽く散策しているとテントからアルファベットを喋っている声が聞こえてきた。なるほど日本のこんな僻地にも律儀にテントを担いでキャンプにいらっしゃるアメリカ人がいるのかと感心させられた。尚、アメリカ人がいるからといって13日の金曜日にジェイソンが斧を持って襲いに来るような雰囲気のあるキャンプ場ではないことは確かであった。

8時半過ぎの路線バスで利尻礼文サロベツ国立公園が誇る最北端のスコトン岬に向かった。最北限のトイレで用を足すこともなく、スコトン岬からストンと落ちている低地に佇んでいる民宿を尻目に最北端ではなく最北限の地点から目の前のトド島を見渡していた。

トド島はその名の通りトドがとどまることが出来る無人島でゴマフアザラシも見られることもあるそうだ。また、とどめを刺されたトドはトド肉の缶詰として昆布ソフトとともに最北限の土産物屋のエースとして君臨しているのだ。

約300種の高山植物が咲き乱れ、「花の浮島」の異名をとる礼文島には数多くのトレッキングコースが整備されている。ねづっちのなぞかけが整う前に私のフィジカルを整える必要があったので礼文島で最も過酷な8時間コースに参戦することにした。最北のスコトン岬をスタートし、猫が寝込んでいる様子を横目に西海岸に沿って南に向かって歩いていた。

整備されたトレッキング道ではエースJTBの観光客を乗せた観光バスと何度もすれ違い排気ガスを出さないエコなFTBとの格差の違いを見せつけてやったのだが、トド島展望台という高台に到着した時には、トド島は手のとどかない遠くに逃げてしまっていた。

トド島の景色に別れを告げるとトレッキング道はバスの通るアスファルト道から野山を切り開いた土道に変わっていた。険しい崖に囲まれたゴロタ岬から見下ろす海はこれがホッケの泳ぐ海とは思えないほど透明度が高く、サンゴ礁が生えていれば沖縄の海に匹敵するほど美しいものであると思われた。

澄海岬から透明度の高い海で漁をしている小舟を見下ろし、いくつかの明るい漁村を通り過ぎると道はいつしか林に変化していた。ホッケの海とホッケキョのさえずりが響く林のコントラストの中でホテル礼文荘で用意していただいたおにぎり昼飯を食いながら体力の回復に努めたのだが、携帯していた500mlの飲料水をすでに飲みきってしまっていた。

林の中から水の流れる音がしたので川の上面をすくって喉の渇きを抑えたものの過酷なトレッキングはさらに続き、岩場にロープ伝いで降りなければならない難所にも遭遇した。薄曇りの空はいつしか晴れ上がり容赦なくトレッカーの体力を奪っていった。山をついに降りきるとそこに待っていたのはゴツゴツとした岩が転がる沿岸部の難所であった。

すでに5時間以上歩いているにもかかわらず、抜群のボディバランスで岩場を切り抜けると宇遠内というコンパクトな漁村に到着し、日陰と水分を求めて休憩所に転がり込んだ。早速アクエリアスで喉を潤そうとしたのだが、1000円札しか持っていなかったので休憩所を取り仕切るおばちゃんがぎりぎりでお釣りを用意する状況になってしまった。すでにビールとおつまみでいい気分になっていた先客の夫婦が土産物として売られている干しワカメや昆布を買う際に1000円札を出したのだが、こいつに釣銭を払ったので小銭がなくなったぜとプレッシャーをかけられ、罪の意識に駆られた私は図らずも300円の干し海苔を買わずにはいられなくなってしまっていたのだ。

北の離島の僻地で商売の真髄を目の当たりにした休憩所を後にすると残っている力を振り絞って最後の峠に立ち向かっていった。通常8時間設定の場合のコースであれば5時間程度でゴール出来るはずであるのだが、このコースはマサに山あり、谷あり、海あり、岩あり、商売ありだったのでまるまる7時間程度もかかってしまった。東海岸の香深井からフェリー港のある香深までさらに1時間かけて歩き、命からがら5時40分のフェリーに乗り込むとエースJTB観光客と一緒に雲に隠れて見えない利尻島の幻影を眺めながら稚内に帰って行った。

マサよ、君は日本最北端の地で松坂大輔が町興しのために担がれている実態を垣間見たことがあるか!?

ということで、稚内市内では何故かわからないが、おびただしい数の露天が出店し、浴衣を着たギャル等が闊歩しており、お祭り気分満載の様子であった。さらにおじいちゃんが稚内に住んでいるという理由だけで松坂大輔が稚内のヒーローに祭り上げられ、松坂大輔スタジアムに貴重品を献上させられている様子が確認された。同じ敷地内に港のゆ(¥700)という天然温泉が開店していたので寒冷地のためお湯がなかなか沸っかないはずの稚内では貴重なファシリティだと思われたので入って見ることにした。泉質は単純ナトリウム泉ということだったが、何故か昆布ローションのようなとろみが加えられているので美肌効果も期待出来るはずである。

温泉でトレッキングの疲労を癒すことに成功したので稚内駅前バスターミナルから運行している札幌行き都市間バスに午後11時に乗り込むとリクライニングの倒しすぎで後部座席の乗客からクレームをつけられながら、札幌駅を目指していた。

7月5日(月)

午前5時半に札幌駅前に到着し、そのままバスを乗り換えて新千歳空港へと向かった。午前7時30分発ANA050便にてプレミアムクラスへのアップグレードを果たし、1-Aという筆頭席で快適に過ごさせていただいた。午前9時半に羽田に到着し、筋肉痛が運動の翌日に発生したことに感謝しながら裏の仕事へ・・・

FTBサマリー

総飛行機代 ¥21,550

総バス代 ¥8,920

総フェリー代 ¥4,600

総宿泊費 ¥11,000

協力 

ANA、楽天トラベル、宗谷バス、ハートランドフェリー

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 南北大東島

マサよ、君は沖縄本島の東、約340kmの太平洋上に存在する珊瑚礁の数回にわたる隆起によって形成された海洋島に上陸した実績があるか!?

私は遂に這い上がってしまった!!

というわけで、沖縄県は離島も含めてほとんど制覇してしまった感のあるFTBであるが、沖縄県の中でも最強の僻地である大東諸島へは交通の便の悪さからなかなかアクセス出来ないという屈辱を長らく味わってきたのも事実である。ところが、定額給付金のおかげで今回ついに南北大東島を一気通貫でアイランドホッピングする機会を得ることとなったのだ。

7月3日(金)

定額給付金という小金を手にした善良な国民に首尾よく散財させるため、定額給付金超割を設定したANAの戦略にまんまと乗ってしまったFTBはANA993便にて午前6時40分に羽田を出発し、午前10時前には梅雨明け間もない那覇空港に到着した。空港内で軽く裏の仕事をこなした後、定額給付金バーゲンフェアにより通常の半額以下の運賃で搭乗出来る琉球エアーコミューターRAC847便に午後2時45分に搭乗すると約1時間のフライトで絶海の孤島もしくは「うふあがりじま」と言われる北大東島に上陸することに成功した。尚、那覇と大東諸島を結ぶ350kmにも及ぶ飛行距離は、コミューター路線としては世界最長となっているのだ。

空港出口で本日の宿泊先となっている民宿二六荘の若頭が出迎えに来ていたので早速バンに乗り込むと10分程で宿に着き、そそくさとチェックインをすますと軽く島の散策に乗り出すことにした。周囲13.52kmの北大東島の北西部に西港という港があり、地元のおばさんが岸壁の母よろしく瞑想に耽っているのを横目に高い波と今まで見たこともないような海の青さにおののいてしまった。

西港を見下ろすように石積みの燐鉱石貯蔵庫跡が廃墟のような存在感を示していたので孤島の雰囲気との妙なマッチングを満喫した後、国標というはるか昔の明治18年にこの島が日本の領土であることを明確にした標柱にお参りしながら、北方領土や尖閣諸島等で揺れている領土問題に関して深く考え込んでいた。

7月4日(土)

早朝二六荘で原チャリをレンタルすると北大東島の本格的な調査が開始されることとなった。島内を流しているとさすがにここが隆起珊瑚礁で形成された地形だと納得させられるような荒々しい岩礁の景色が次から次に目に飛び込んできた。また、島内ではあちこちで何らかの農業施設やファシリティの建設ラッシュとなっているようで北大東島では一流企業であるはずのISO9001を取得した(株)与儀組の重機がいたるところでうなりをあげていた。

島の西部に「上陸」と呼ばれる北大東島開拓百年記念碑がおっ立てられている島の文明の起源のシンボルが青い海に映えている光景を目に焼き付けた後、空港の海側の脇にひっそりとおいやられている「沖縄最東端之碑」を見物してここはおそらく沖縄県人にしかその価値がわからないのではないだろうかという不安に苛まれることにした。尚、「うふ(遥か)あがり(東)島」の語源は古来、琉球王朝の人々がこの島がはるか東方にあることから名付けられているのである。

マサよ、君は人間UFOキャッチャーを彷彿とさせるクレーン上陸の瞬間を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、週に一度しか寄港しない大東フェリーの勇姿を見るために北港まで原チャリを飛ばして大東島の名物と言っても過言ではないクレーン上陸のテクノロジーを見学させていただくことにした。そもそも波の荒い大東島ではフェリーが着岸出来ないという理由から乗下船の際には乗客は囚われた動物のようにカゴの中に封じ込められ、クレーンでカゴごと釣り上げられるという東京ディズニーランドや豊島園でも体験することが出来ないアトラクションが日常的に展開されているのである。

クレーンがフリーフォールにならなかった状況を確認して安心した後、昭和50年3月18日に指定された国指定天然記念物である「長幕岸壁及び岸錘の特殊植物群落」、通称「屏風岩」を見に行った。北大東島の内陸部を環状に取り囲む隆起珊瑚礁地帯のうち、南部の約1.5kmは内側が切り立った石灰岩の崖で、まるで屏風を立てたような絶壁と崖の下に崩れ落ちた石がゴロゴロしている場所(岸錘)は、その地形の特性のため与儀組にさえも開発されずに北大東島本来の自然植生に近いものが残っている貴重な地域となっているのである。

屏風岩でISO9001取得優良企業である与儀組の限界を感じ取ることが出来たので二六荘の若頭にバンで空港まで送ってもらい、午後4時30分発RAC836便にて約3分の飛行時間を経て南大東島に着陸した。尚、北大東島と南大東島間の飛行はわずか20kmであり、滑走も含めて所要時間は10分たらずである。こちらは世界でも最短クラスの航空路線となっているのである。

空港を出ると島唯一のホテルであるホテルよしざとの番頭が迎えに来ていたのでバンに乗り込み、10分程で文明の開けた町に君臨する5階建て高層ビルのホテルに到着した。チェックイン後、周囲を軽く歩きながらこの島の暮らしぶりを吸収し、腹が減ったのでホテルよしざとと契約して夕食サービスを提供している居酒屋ちゃんぷる~亭にしけこんだ。店内には過去南大東島の様子を旅番組やバラエティで伝えた実績を証明するために永六輔、チュートリアル、クリーム・シチュー等のB級有名人のサイン色紙が壁紙と同化していたのだった。

7月5日(日)

ホテルよしざとでママチャリをレンタルすると北大東島よりも一回り大きい南大東島の実態の解明に乗り出すことにした。隆起珊瑚礁で形成された島は洞窟の宝庫となっており、そのためダイトウオオコウモリというフルーツ好きのベジタリアンコウモリの生息地となっているのだが、まず最初に島最大の鍾乳洞である星野洞(¥800)を探検することにした。

(有)大東観光商事の厳格な管理下におかれた星野洞の名前の由来を管理人の若づくり海人風のおばさんに尋ねると何と星野さんの所有物だという驚愕の事実が告げられた。早速管理事務所で充電式電池を搭載した巨大懐中電灯とセルフガイド用のミニカセットデッキを借りると美しくライトアップされた異空間の幻想的な世界に這い降りることとなった。温度15℃、湿度100%の洞内は数億年の時を経て成長を遂げてきた鍾乳石の巨大柱や上からのツララと下からの剣の接近によりマサに柱になろうとしている鍾乳石が林立しており、真夏の南の島での一服の清涼剤となっているのである。

島の北部では第4種南大東漁港の整備がライブで進んでおり、従来のクレーンによる漁船の出漁・寄港から沿岸の内部を掘り込んで堤防を作り、高波の影響を受けずに漁船が着岸出来る港構造への変化の様子を見て取ることが出来るのだ。漁港から少し内陸に入ると一面サトウキビ畑が広がっており、給水塔には小学校低学年生が描いたわりには完成度の高いダイトウオオコウモリがめんそ~れと羽ばたいていた。

マサよ、君は「どうだ、まいったか、太平洋一体型くりぬきプール」に恐れ入ったことがあるか!?

というわけで、南の絶海の孤島くんだりまで来て水泳に興じなければ南の島に来た意味を失ってしまうのだが、南北大東島の地形ゆえ、ビーチというものは存在しない。そこでどうしても水泳をしたかったであろう島民は沿岸部をくり抜いて太平洋一体型プールを作るという快挙を成し遂げたのだ。海岸植物が群落を成す東海岸に海軍棒という人工海水プールがあり、島民や観光客が水泳やシュノーケリングに興じていたので参加させていただくことにした。さすがに太平洋と一体になっているプールだけあり、おびただしい数の熱帯魚が人間を恐れることなく悠然と泳いでいた。ちなみに海軍棒の名前の由来は昔々旧海軍がこの場所に国の指標を建てやがったからだそうだ。

海軍棒での遊泳を満喫すると腹が減ってきたので市内に戻り、「元祖大東そば」でうどんのような麺の太さを誇る大東そばを食すことにした。南大東島には元祖を含めて2件のそば屋があるのだが、特に元祖を名乗らなくても誰も真似するものはいないのではないかと思われた。

食後の運動を兼ねて日の丸山展望台までママチャリを転がし、展望台から遠景を見渡しながら、島にはサトウキビ畑以外は何もないことをあらためて実感した。島の南西部に塩屋海岸というもうひとつの海水プールがあったので日曜日にもかかわらず、そこに人が一人もいない事実を確認した後、ホテルの送迎バンで空港まで帰って行った。

南大東空港でうふあがり製菓が製造した大東島特産の黒糖を購入し、午後4時55分発のRAC868便にてシャワーの無かった海軍棒で流し去ることが出来なかった海水塩分を身にまとったまま那覇空港への帰路に着いた。

7月6日(月)

午前8時発ANA120便にて東京に帰還。次回定額給付金の支給を期待しつつ流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 ANA = \2,500、JAL = \25,000

総宿泊費 \16,365

総レンタルバイク代 \2,500

総レンタサイクル代  \1,000

協力 ANA、JAL、琉球エアーコミューター、楽天トラベル

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 奄美大島

いも~れ マサよ!

(奄美の方言:いらっしゃい)

ということで、WBCを制したサムライジャパンが寒いジャパンにならずに帰国出来、原監督のハラキリも何とか回避されたのでWBC期間は休業中であったFTBを再開し、早速奄美大島に流れることと相成ったのだ。

4月3日(金)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば¥46,000くらいかかるところを私はただで搭乗出来るJAL1953便奄美大島行き8:30発MD81機に乗り込むと2時間25分のフライトで午前11時頃に奄美大島空港に到着した。早速空港バスに乗り込み、1時間程の時間をかけて奄美大島の中心都市である名瀬に到着した。大島紬と民謡で有名な奄美大島は、とあるディレクターが元ちとせを見出したことで名を馳せており、町行く人々は離島名物の老人だけでなく、わだつみの木の下で遊んでいるちとせ飴が似合いそうな七五三系の子供の姿も数多く見られたのでこの島の将来は安泰だと思われた。

名瀬市街地の東を流れる新川は離島ならではのきれいな水を湛えており、川沿いの静かな散歩道を歩いていると色とりどりの巨大な錦鯉が放し飼いにされている様子が垣間見られ、この島のスケール感のある自然に圧倒されることになるのだ。

名瀬港のほとりを歩いていると船が数多く出入りする港にも拘わらず、その海の青さに驚かされ、数多くの魚が群れを為して泳いでいる姿に思わず目が釘付けになってしまった。今日の宿泊地は名瀬港を見下ろすトロピカルステーションホテルであったので早速チェックインを済ますと名瀬近郊の散策に乗り出すことにした。

マサよ、君はハブ対マングースの息詰まる熱戦を見て手に汗握ったことがあるか!?

というわけで、奄美観光ハブセンター(¥750)を午後2時過ぎに訪問させていただいたのだが、ハブとマングースのショーが午後2時から開催だったものの前半はハブの知識を吸収するためのビデオ鑑賞だったため、何とかその時間のショーに潜り込むことに成功した。

島のハブ名人として名高いハブセンター代表の中本英一氏が試合前のセレモニーのごとくハブに関する講釈をたれてくれたのでハブの牙が毒蛇の中で最も長いことやハブの生態に関する日常生活では役立つことのない知識が得られ、また実物のハブを取り出し、観光客に触らせて変温動物である蛇の体温は今日の気温と同じ20℃であることを体感させていただいた。

プロ野球セパ同時開幕に先立って、いよいよハブ対マングースの伝統の一戦がプレーボールとなった。ネット裏の特等席に陣取ったFTBご一行様の目の前で繰り広げられた死闘はマングースの足を使った機動力と足を使えないハブの鞭のようにしなる瞬発力による攻防となった。マングースは絶妙の距離感を保ちながらハブのアタックを交わし、鞭が伸びきった瞬間を見計らってハブの急所である頭部に食らい付き、勝負の行く末が見えたところで中本レフリーによりマングースのTKO勝ちが宣告された。尚、中本氏によれば頭を噛み付かれたハブは一時間以内にあの世行きになるだろうとのことで、ハブの死体は解体され革製品に加工されたり、肉は蛇料理に供されなければならないのでハブが傷物になる前に意図的に勝負を止めさせたのではないかと思われた。

ハブセンターの地階はハブ飼育展示場となっており、おびただしい数の生きたハブや子猫や蛙を丸呑みした状態等のおぞましいハブのホルマリン漬けが観光客に恐怖を植え付けるのに一役買っていた。また、ここには有名人の来場も見られる様子で長渕剛が♪ろくなもんじゃね~♪という及び腰でハブを満足気に握り締めている写真も展示されているのだった。

4月4日(土)

昨晩地元の島料理居酒屋「みれい」で黒糖焼酎「里の曙」、「れんと」を牛飲したにもかかわらず、二日酔いの症状が出なかったので、早朝トロピカルステーションホテルをチェックアウトし、名瀬漁港近郊にそびえる大島紬資料館への入館を試みると休館日だったため、若き日の宮崎緑が大島紬大使よろしく着物を着飾ったポスターの見物しか実行出来なかった。尚、昨日のハブ名人中本氏によると大島紬の柄は元々ハブの皮の色模様からはじまったとのことであった。

名瀬新港の北側に奄美の歴史を紐解くのに最適なファシリティである奄美博物館(黒潮館、¥300)が開館していたので見学させていただくことにした。博物館は3階建てのフロアから構成されており、特に3階の第3展示室には奄美の珍しい動植物がジオラマで再現されており、特別天然記念物のアマミノクロウサギがハブやマングースの襲撃におびえながら森で密やかに暮らしている様子を垣間見ることが出来た。

午後1時前にニッポンレンタカーでホンダのライフをレンタルすると島の北東に位置する西郷南洲謫居地(¥200)に向かった。生涯で奄美大島、沖永良部島、徳之島に流された実績のある流され名人の西郷隆盛は1858年に菊池源吾という偽名を使って奄美大島に砂糖積船福徳丸に乗ってやってきた。西郷は妻帯者であるにも拘わらず、島妻である愛加那との間に菊次郎と菊子の二児をもうけやがり、島津の殿様の呼び戻しによって薩摩藩に戻るともう二度と愛加那には会えなかったという悲しい物語がこの家の当主によって長々と語られることとなったのだ。尚、築150年のこの家には西郷隆盛を敬愛する稲盛和夫が仕切っている京セラの社是となっている「敬天愛人」と刻まれた看板が燦然と輝いていたのだ。

西郷が上陸した地である西郷松でその見事な枝ぶりに感心した後、さらに北東に進み、ライフでエンジョイしているとふと申し訳ない気持ちに苛まれてしまった。気がつくと、風光明媚な岬に立っており、看板には「あやまる岬」という文字が躍っていた。仕方がなかったので過去の財務省の悪行を走馬灯のように頭に思い巡らせてマサの代わりに透明な海に向かってあやまっておいた。

「あやまる岬」での懺悔によりみそぎをすますと奄美で一番美しいと言われる土盛海岸に向かった。太陽の光によって変化するエメラルドグリーンの海は南国の雰囲気そのものでここは沖縄の海にも引けをとらない透明度を誇っていたのだった。

島の北東部よりはるか沖縄本島から続いている国道58号線に入り、名瀬を経由して奄美の南部を目指した。途中マングローブ原生林という緑の悪魔を彷彿とさせるジャングルを見下ろし、なるほどこの景色が東洋のガラパゴスである所以であると感心しているうちに瀬戸内町に到着した。すでに夕方の5時を回っていたので今日の宿泊地であるネプス ダイブリゾートに潜り込み、¥300の発泡酒を注文するとただで付いてくる黒糖焼酎「里の曙」と痛飲しながら意識を無くすことに躍起になっていた。

4月5日(日)

早朝奄美名産黒砂糖を土産にネプス ダイブリゾートから浮上すると奄美大島南部のリゾート地であるヤドリ浜に向かった。夏場にはダイビングやウインドサーフィン、ジェットスキー等のマリンレジャーで繁盛するヤドリ浜であるが、シーズンオフのこの日はエメラルドグリーンの海は静かな水面を湛えているだけであり、雨が降っても雨ヤドリが出来ない場所であることが確認された。ホノホシ海岸という訪れる人を一瞬立ち止まらせる光景が広がる海岸に到着した。太平洋の激しい荒波に洗われ、珍しい丸みを帯びたおびただしい数の石が転がるホノホシ海岸は波が押し寄せるたびにそれらの石が「カラコロ」と音を立て、幻想的な狂想曲を奏でていた。

大島海峡全体を西から東まで一望出来る高知山展望台にらせん階段を駆け上って登頂した。展望台からは海峡を隔て近隣の加計呂麻島、与路島、請島まで見渡すことが出来、眼下には古仁屋市街地もひっそりとした佇まいを見せている様子が確認された。

古仁屋港からは加計呂麻島までの主要交通手段となっているフェリー「かけろま」が航行されており、その隣には半潜水船 マリンビュワー「せと」が大島海峡の水中散策に誘ってくれるというので¥2,500を支払って乗船することにした。半潜水船というだけあって船倉部には海中の景色が楽しめるように窓が作りこまれており、そこから大島海峡に生息する珊瑚や熱帯魚の姿が垣間見られたのだが、沖縄や八重山諸島の海に比べると華やかな彩りに欠けるのはいたしかたがないと思われたのも事実である。

半潜水船を下船するころには天気予報通りに雨となってしまったので名瀬まで引き返し、市内で車を返却するとそのまま空港バスに乗り込み奄美大島空港への帰路についた。JALのマイレージが余っていたのでマサであれば\23,000.-くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL3732便鹿児島行きに乗り込むと後方客席部より数10cmしか離れていないMD81機のジェットエンジン音を気にしながらも午後4時前には鹿児島空港に到着した。鹿児島空港におやっとさぁ(おつかれさま)天然足湯温泉が沸かされていたのでかろうじて温泉気分を味わった後、ANA630便にて東京に帰って行った。

FTBサマリー

総飛行機代 JAL = ただ、ANA = \17,100

総宿泊費 ¥12,275

総レンタカー代 ¥6,825

総ガソリン代 ¥1,608

総バス代 ¥2,200

総走行距離 240km

協力 ANA、JAL、楽天トラベル、ニッポンレンタカー

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 佐渡

ここに来て急に秋の気配も深まってきた10月の3連休をさ~ど~やって過ごそうかと考えていたところアメリカが北朝鮮のテロ支援国家指定の解除をしやがったので佐渡ヶ島の人々も気が気でないだろうと思いながら佐渡に渡り、曽我ひとみ、ジェンキンス夫妻を中心にした佐渡の島民の暮らしぶりを観察しに行くことにした。

10月11日(土)

地震に対する脆弱性をすでに露呈しているJR東日本が誇る上越新幹線Maxトキで日暮れ時の燕三条駅に到着し、楽天トラベルに予約させておいたワシントンホテル燕三条に引きこもり、ワシントンまでわざわざ直訴に行ったにもかかわらず拉致家族の奪還の成果が上がっていない拉致被害者の会の無念を思いながら夜を過ごしたのだった。

10月12日(日)

早朝ワシントンを発ち、さ~ど~やって佐渡に行こうかと思案しながら新潟駅を降りて佐渡汽船のターミナルに向かった。新潟から佐渡の両津港へは高くて早いジェットフォイルか安くて遅いカーフェリーの選択肢があるのだが、資金力が豊富なFTBではあるがここは手堅くカーフェリーを選択し、午前9時20分発のおおさど丸に乗り込んだ。

けたたましいドラの音(録音)が出航の合図となり全長132mの巨船おおさど丸は日本海の荒海への航海へと乗り出した。出航後しばらくすると船内イベントとして無料のヨガ教室が開催されているとのアナウンスが入ったが、体の固い私にはヨ~ガないと思われたのでそのままやり過ごした。

2等客室雑魚寝スペースで体を横たえているとフェリーの大きな揺れを感じながら2時間半の航海で両津港の埠頭が見えてきた。おけさで有名な佐渡はおけさ灯台、おけさ橋等いたる所におけさの名を冠したファシリティが存在し、観光客も思わず拉致の恐怖を忘れ「OKさ」と思いながら佐渡への上陸を果たしている様子が見て取れるのである。

12時半に島内交通の路線バスの本線に乗り、40分程で佐和田バスターミナルに到着し、そこから徒歩で南に歩いていると佐渡博物館(¥700)に行き当たったのでいち早く佐渡の全容を解明するために入ってみることにした。ここには佐渡の自然、風土、芸術の貴重な資料、作品が所蔵されており、総合博物館として充実した内容を完備しているのだが、特に目を引いたのは企画展「金と銀の島佐渡」で紹介されている鉱山の発掘や鉱石の粉砕、金銀の精錬等の往時の最先端のテクノロジーであった。

佐渡博物館前から再びバスに乗り、小木港を目指している途中に西三川ゴールドパークという砂金取り体験が出来る砂金山跡があるのだが、ちまちました砂金より一攫千金を狙う私には関係ないと感じたのでそのままスルーさせていただいた。

マサよ、君は佐渡名物たらい舟でたらい回しにされている観光客を見下したことがあるか!?

ということで、小木地区のシンボルたらい舟はワカメ、アワビ、サザエなどの漁に実際に使われていたたらいの舟でここ小木港では観光用のたらい舟が人気を博している。1人¥450の支払いで狭い港内を一周し、観光客自身で舟を漕ぐ体験も出来るようになっているのだが、たらい回しで目が回るのを恐れて遠巻きに眺めるだけにとどめておいた。

10月13日(月)

早朝バスで両津港に戻り、ニッポンレンタカーでホンダのフィットをレンタルすると佐渡観光のハイライトであり、ここに来なければサ~ド長嶋を欠くV9巨人のような物足りなさを感じるであろう佐渡金山へ向かった。

世界遺産暫定リスト登録された佐渡金山は言わずと知れた徳川幕府300年の財政を支えた金銀山跡であり、観光コースとして江戸時代のトンネルの「宗太夫坑」と明治時代のトンネルである「道遊坑」が公開されている。早速両方のトンネルの入坑許可証、共通券(\1,200)を購入するとまずは「宗太夫坑」に潜り込むことにした。

「宗太夫坑」の内部は採掘、保坑、測量などの坑内労働の様子が実物大の動く人形で再現されており、とあるおっさん人形の「早くここから出て、酒飲みて~、なじみの女に会いて~よ~」という台詞を聞くとあたかも江戸時代にタイムスリップした感覚を覚えるのだ。坑道が終了すると展示室に抜けるコースになっており、ここでは選鉱、製錬から小判鋳造までの過程を学習することが出来、その成果物として金の延べ棒や大判、小判のレプリカも光り輝いているのだ。

売店にて佐渡金山特性の純金ソフトクリーム(\300)で金を体内吸収した後、明治32年、佐渡鉱山の主要鉱脈「道遊脈」の開発を目的に開削された主要運搬坑道である「道遊坑」に侵入した。近代的なトンネルの内部はトロッコが通れる線路も形成されており、金鉱を載せてトロトロ走っている往時の様子が偲ばれるのだ。さらに佐渡金山の象徴となっている「道遊の割戸」は「道遊脈」が地表に露呈した部分を採掘した江戸時代の露頭堀跡で異様な程の存在感を示していた。

佐渡金山で徳川埋蔵金のルーツが確認出来たので海岸線沿いにフィットを走らせ、尖閣湾へと向かった。佐渡の海は透明度が高く、海中透視船シャーク(\1,000)が尖閣湾内の海底を映し出すことが出来るとの情報を得ていたので早速乗船することにした。沖縄のグラスボートのテクノロジーを採用したシャークは棒読み台詞のおばちゃんガイドの説明とともに湾内への航海をスタートさせた。なるほど海の透明度は高く十数メートル下の海底までガラス越しに見下ろすことが出来るのだが、沖縄で見慣れた珊瑚礁の彩りはなく、砂色とワカメブラウンの単調な風景が続き、魚も黒鯛の群れが軽く行き来するだけであった。

大佐渡スカイラインという佐渡金山を通る全長30kmの山岳観光コースを軽くフィットで流しながら、紅葉の始まりを実感した後、日本の国鳥である朱鷺にときめくためにトキの森公園(\200)を訪問することにした。1871年に学名ニッポニア・ニッポンと名づけられたトキの絶滅の危機を免れるため、この場所ではトキの保護、繁殖を行っており、先月は試験放鳥を行ったばかりである。尚、トキが生息する自然環境を守るために佐渡の田んぼは無農薬の有機農法が行われており、トキの餌となるタニシやドジョウや昆虫も元気に生息しているのだ。

午後4時30分発のフェリーに乗り込み、展望デッキで佐渡の島影に沈む夕日を眺めながら感傷に浸っていた。新潟からMaxトキに乗り込み、時々トキの繁殖状況を確認するためにマサを佐渡に送り込まなければならないと思いながら帰京する。

FTBサマリー

総宿泊費 \15,650

総JR代 \18,930

総フェリー代 \4,880

総バス代 \3,140

総レンタカー代 \5,460

総ガソリン代 \1,084

協力 JR東日本、佐渡汽船、楽天トラベル