FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 八丈島

祝 水曜スペシャル復活記念!

FTBスペシャル 東京都最後の秘境八丈島の奥地に原始哺乳類八丈島のキョンは実在した!!

マサよ、君はあの伝説の探検隊が復活したことをしっているか!?

ということで川口浩隊長の遺志を引き継いで武道の達人である藤岡弘が立ち上がり、アマゾンの奥地に猿人ジュンマの探索を行なった模様が12月25日(水)に放映されていた。番組は当時の音響と映像テクニックを再現しており、ナレーターの田中信夫も当時と同じであった。尚、藤岡弘は仮面ライダー当時の癖が抜けてないらしく、番組中に「トォー!トォー!」と叫びながら日本刀を振り回していた。

というわけで、FTBも水曜スペシャル復活を記念し、今回緊急特集ということで急遽八丈島に探検隊を派遣することになった!

日本のアイドル史を振り返ってみるとホリプロに深キョンが出現する以前にバーニングプロにキョンキョンがいた。しかしそれより遡ること数年前に八丈島のキョンが一世を風靡していたことを知っている輩は今では少なくなっていることは確かであろう。

12月29日(日)

八丈島は伊豆七島でもっとも南に位置しており、同じ東京都とはいえ、丸の内線や総武線では決して行くことが出来ない東京都最後の秘境と言われている。エアーニッポンが誇るB737-400型機アイランドドルフィンANK821便に搭乗すると290kmをわずか35分のフライトで八丈島空港に到着することが出来た。

空港からあらかじめ予約しておいたモービルレンタカーのバンに乗り、景色を見渡して見るとあたりにあやしいヤシの木が生い茂っている光景を確認出来た。八丈島は高知県の室戸岬と同じ北緯33度に位置している南国で亜熱帯性や熱帯性の樹木が数多く繁茂しているのだ。

ホンダが誇る低燃費軽自動車であるトゥデーをレンタルすると探検隊は早速八丈島のキョンの探索を開始した。空港に程近い場所に八丈植物公園というファシリティがあったので聞き込みを開始しようと思い、園内を散策していると突然園内を案内するボードに「キョン」という文字を発見した。ボードが指し示す方向に急いで向かってみるとそこにはおびただしい数のキョンがキョンキョン飛び跳ねていやがった。これはまずいことになってしまった!まだ底なし沼にはまったり、ヘビやさそりのような毒動物の襲撃というような数々の困難を受けないうちに簡単に見つけてしまっては番組が持たなくなってしまうと咄嗟に考えた隊長はこの光景は見なかったことにしてそそくさとその場を後にすることにした。

八丈植物公園内のビジターセンターで島の情報を入手すると気を取り直してキョンの捜索に向かうことにした。まず、手始めにキョンが温泉に入っているかも知れないということで島南部の裏見ヶ滝温泉に入ってみることにした。この温泉は滝を見下ろすことが出来る無料の公衆露天温泉であり、しかも混浴のため、入湯者は水着を着用しなければならない。水着を持参していた隊長は温泉の内部から森の中や海に続く崖の方向をくまなく捜索したが、結局キョンの姿を見つけることは出来なかった。

八丈島は2つの火山が爆発して形成された火山島であり、西山と呼ばれている八丈富士(854.3m)と東山と呼ばれている三原山(700.9m)から成っている。三原山への登山道は車で無線中継所というところまで行って、そこからは徒歩で頂上を目指さなければ成らない。果てしなく続く階段と険しい登山道を登ると30分程度で三原山の頂上に到着した。頂上近くにはNHKのテレビ塔が設置されていたので受信料をまじめに支払っている隊長はそこでキョンの目撃情報が入手出来ないものかと期待していたのだが、紅白歌合戦とゆく年くる年の準備で急がしいためか職員は誰もいなかった。

厳しい登山で疲れ果てた体を癒すため、また原住民との接触を図るために末吉温泉みはらしの湯(¥500)へ向かうことにした。みはらしの湯は太平洋を眼下に見下ろす露天風呂が売り物であるのであるが、入湯客は外部からスキューバダイビングをしに来ている観光客が多く、有力な情報を得ることが出来なかった。ということで日も暮れかかってきたので今日のベースキャンプとなっている国民宿舎サンマリーナに引き払い、体制を立て直すことにした。

12月30日(月)

日本一の山である富士山を彷彿とさせる裾野の広がりを持つ八丈富士の原生林にキョンが潜んでいるかも知れないと思ったので早朝より八丈富士への登山を開始することにした。登山道入り口から続く登りの階段を一気に駆け上がると八丈富士の噴火口に到着した。ここから噴火口の周りに沿って御鉢めぐりの道なき道を強風と足場の悪い中を強引に進んでいるとしばらくして三角点という山の頂上に到達した。太平洋から吹いてくる容赦の無い強い風により、体感温度は下がり探検隊員の体力は奪われていった。頂上から島の全景や隣接する八丈小島の景色を楽しむ余裕もないまま30分ほどで御鉢めぐりのスタート地点に戻ってきた。そこからジャングルをかき分けながら火口の方に下っていくと赤間神社に到着したのでそこで無事にキョンが発見出来るように願をかけておいた。

太平洋からの潮風を受けて冷え切った体に生気を取り戻すために中之郷温泉やすらぎの湯(¥300)に入湯することにした。温泉に到着すると原住民と思われる老婦人達が受付をやっていたのだが、彼女らは何とかこちらの言葉を理解することが出来、また、こちらも相手の言葉を理解することが出来たので入浴券を無事入手することに成功した。浴槽にヒノキをしつらえてあるやすらぎの湯は窓越しに太平洋をながめることが出来る癒し系の温泉でここで登山の疲れを十分に取ることに成功した。

そば屋で名物のあしたば天ざるうどんを食った後、島の歴史を調査するために八丈島歴史民族資料館(¥360)を訪れた。ここには島で発見された縄文時代の石器や土器から島の民族や自然に関するものが数多く展示されているのだが、中でもいちばん人目をひいているのは流人コーナーである。この島は江戸時代には島流しで送られてきた流人が数多く暮らしていたのだが、その暮らし振りは受刑者のそれではなく原住民と一緒に普通に暮らしていたことが確認出来た。また、水汲み女といわれる現地妻もいたということで結構いい暮らしをしていやがったようだ。

歴史民族資料館で島の歴史を目の当たりにして背筋も凍る思いをしたので再び温泉に入ることにした。樫立向里温泉ふれあいの湯(¥300)は八丈島の杉、ヒノキを使用した建物の中に総ヒノキ造りの大浴槽と露天風呂を備えている。この温泉は毎日利用する原住民にも「自分の家の風呂には入れないよ」と言わしめるほど人気があると言われている。

帰りの飛行機の時間が刻々と迫ってきており、そろそろ番組の終了も近づいてきた。今回の探検で数々の苦難と試練を切り抜けてきた探検隊は気が付くと八丈植物公園内をさまよっていた。隊員達の体力と気力はもはや限界に近づき、このまま何の成果も得られるままこの島を後にしなければならないのかと思われた瞬間に今まで見たこともないような四足歩行動物が目の前に姿を現した。立ち止まる時に必ず一本の足を上げてポーズをとるその姿は「がきデカ」で一世を風靡した幻の八丈島のキョンの姿であった。

・・・・・ここでロッキーの音楽とナレーターの能書きで番組終了・・・・・

釣とダイビングと流刑者の島、八丈島情報

*マサよ、君は人捨穴を知っているか!?

 昔八丈島では50歳を過ぎた老人を人捨穴という姥捨て山系のファシリティに置き去りにして餓死させるという風習があったそうだ。三原山の麓に人捨穴入り口という看板を目にした探検隊はその穴に接近してみることにした。ぽっかりと口をあけた穴の入り口には供養物セットと賽銭が置かれていた。ところで穴の中で樹木希林 系のおば~ちゃんが「ジュリー~」と叫んでいたらどういうリアクションをとるべきかと考えていたのだが、そのときは私は♪TOKIO♪は歌わない、何故ならTAKEOだからだと言い切るしかないと思われた。

*八丈島には日本最長レベルの溶岩洞窟があり、旧日本軍が防空壕として利用していたそうだ。

*おびただしいほどの釣道具を抱えた釣人達がフェリーや飛行機でこの島を訪れている。釣れる魚はシマアジやカンパチ等の大型魚であるらしいが、大学時代につりが得意だった私は激しい運動をした後、寝ている最中によく足を釣ってのたうちまわっていたものだ。

*東京電力が誇る地熱発電所と風力発電所がこの島の電力の一部をまかなっており、八丈島地熱館で発電の仕組みを学習することに成功した。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥1,400

総宿泊代 ¥7,350

総レンタカー代 ¥9,000

総ガソリン代 ¥1,539

次回はFTBSEA無錫旅情をお送りします。

FTB炎の離島デスマッチ第?弾(海外編) in ハワイ島

アロハ マサよ、ハワイ湯!

ということで何かとしがらみの多いこのシーズンであるが、日本にいるとクリスチャンでもないのにクリスマスの喧騒にうっかり流されてしまいがちになってしまうことであろう。また、今週末から来週にかけて日本列島は寒波に見舞われることが予想され、南国育ちの私には絶えがたい状況となることは間違いない。そこで今回はFTBが誇る人気シリーズ「炎の離島デスマッチ」を海外にまで展開し、今回はハワイ島で開催することに相成ったのだ。

2002年12月20日(金)

20:50に出発が予定されているJAL070便コナ行きに搭乗すべく、成田空港のJALチェックインカウンターで19:00ごろチェックインをしようとしていたところ、いきなり飛行機の出発時刻が22:20に変更されてしまった。しかしながら、JALは開業50周年のノウハウを十分に駆使し、搭乗客に¥1,500相当のお食事券をばらまいてカスタマーサティスファクションに勤め、偽装牛肉を販売してお客に代金を返金していた西友とは一味違った対応を取っていた。

航空業界で最も美しい機体を誇るといわれるマクダネル・ダグラス社製DC-10に搭乗すると6時間程度でハワイの上空に差し掛かった。上空からは高層ビルの林立するホノルルのワイキキビーチやダイヤモンドヘッド、モロカイ島、ラナイ島、マウイ島の美しい景色をパノラマのように堪能することが出来た。

午前10時前にコナ国際空港に到着すると入国審査をとっとと済ませ、空港のハーツでレンタカーをピックアップすることにした。これはハワイ島に到着してから判明したことだが、ここには一切の公共交通機関がなく、観光客は現地のツアーかタクシーかレンタカーを使用しなければならないのだ。レンタカーの予約を明日からにしておいた私はここでクイックディシジョンを行い、ハーツのカウンターで交渉して何とか予約を前倒しにすることに成功し、しかも通常のコンパクトカーではなく今回は赤いジープをせしめることに成功した。

コナ国際空港から海沿いを北に向かってジープを走らせるとあたり一面黒い溶岩に覆われた景色が目に飛び込んでくるため、この島が世界有数の火山島であることを容易に体感することが出来る。今日の宿泊先はハワイ島西海岸のワイコロアビーチリゾートに君臨するヒルトンワイコロアビレッジを予約しておいたので早速そこに向かうことにした。ヒルトンワイコロアビレッジはヒルトンホテルズのリゾートテクノロジーの総力を結集し、総工費3億6千万ドルをかけて25.5ヘクタールの溶岩台地を切り開いて作られたスーパーメガリゾートなのだ。ヒルトンHオーナーズのシルバー会員として活躍している私はマサであれば$469.-かかるところをただで1泊できる権利を有していたので今日は日がな一日ここでくつろがせていただくことにした。

ちなみにこのホテルのファシリティであるが、敷地内には鉄道が敷かれ、運河が流れているため、ロビーから客室が入っている各種タワーまではトラムか船か徒歩で行くことが出来るようになっている。また、3箇所のプールでは親子連れが戯れ、プライベートビーチを見下ろす海辺にはデッキチェアやハンモックが掛かっており、多くのリゾート野朗が波の音と鳥のさえずりをBGMに昼寝や読書をしながら贅沢な時間を過ごしていた。

ホテルの敷地の中央に海水を引き込んだイルカ用のプールがあった。ライフジャケットを身にまとった子供達や親子連れがインストラクターとともに何かを始めようとしているようだった。プールの中には数頭のイルカが手ぐずねを引いており、てっきりイルカと一緒に「なごり雪」の大合唱でもおっぱじめるのかと思っていたのだが、このアクティビティは当ホテルが誇るドルフィンクエストという単なるイルカとの戯れの機会提供にすぎなかった。

ホテル内のいたるところにはなぜか仏像等のオリエンタル美術品が配置されており、ブッダポイントと呼ばれる太平洋を見下ろす風光明媚な場所には大型の仏陀が鎮座していた。ホテルの夜の催し物としてお約束のハワイアンソングとフラダンスや危険な火炎バトン振り回しショーがしめやかに執り行われ、更けゆくハワイの夜を彩っていた。

12月21日(土)

朝起き抜けにビーチ沿いの椰子の木に掛けられているハンモックに寝そべりうだうだとした時間を過ごした後、ホテルをチェックアウトするとハワイ島西海岸最大の繁華街であるカイルア・コナに向かった。カイルア・コナはハワイ王朝初期には都があったところであり、カメハメハ大王が晩年を過ごした街として有名である。街の雰囲気はギラギラしたホノルルとは異なり、小ぢんまりとしかものんびりとした港町の風情を醸し出しているのでリゾート気分に浸らなければならないという強迫観念にとらわれずにゆったりと観光に励むことが出来るのだ。

今日は到着2日目ということもあり、Wrangler Jeepもそろそろそのポテンシャルを発揮したがっていたので午後からハワイ島を一周することにした。ハワイ島はBig Islandと呼ばれ、他のハワイの島々の合計よりも広い面積を誇り、大きさは四国の半分程の島である。コナ方面から海岸沿いに南向きに進路を取り、島の最南部を抜け、北東部方面に向かい始めたところで島の雰囲気が一変したことに気がついた。ハワイ島中心部北から南には4000m級の山が2峰連なっており、それぞれマウナケア山(4205m)、マウナロア山(4170m)と呼ばれている。この連山を境に西と東では気候が全く違っており、雨が少なくコーヒーの栽培に最適な砂漠性気候の西と異なり、東海岸は世界有数の多雨地帯として熱帯植物が繁茂しているのだ。

日本に君臨している大王は「つけめん大王」であるが、ハワイの大王といえば誰に聞いてもカメハメハ大王である。ということで、夕暮れ時に島の最北部のカパアウという街にカメハメハ大王像を見に行ってきた。この大王の銅像といえばホノルルのダウンタウンにあるものが最も有名であるが、実はオリジナルは大王生誕の地であるここカパアウに設置されてあるものだそうだ。1883年にイタリアのフィレンツェに発注して作成された象は、ハワイに運ばれる途中で海に沈んでしまい、そのためもう一度発注し直したのがホノルルにある大王像だそうだ。その後、海の底から引き上げられた像が王の生誕地であるここに落ち着いたというわけである。

今日の宿泊地は島北部のハワイ島で3番目に大きな都市であるワイメアのKamuela Innというところを予約したおいた。ワイメアはマウナケア山麓の高原都市であり、夜になるとホシ伊東とハッピーアンドブルーが歌う「星降る街角」が出現する空気のきれいな街である。ところでマウナケア山頂は、安定した気流と澄み切った空気、光害の無さなど、好条件がそろった最高の天体観測場所として有名で、世界各国からの天文台が集まっている。日本がはじめて海外に建設した世界最大級の望遠鏡「すばる」もここに設置されている。ところでStargazing Tourといってマウナケア山頂にジープで登って星空を探索するツアーが人気となっているらしいのだが、このツアーに参加するためにはツアーデスクで谷村新司よろしく♪わ~れもゆく♪といえば誰でも参加出来ることが確認出来た。

12月22日(日)

昨日チェックインしたKamuela Innはモーテルではなく、実はB&Bだったので朝食としてもみじ饅頭でも出てくるのかと期待していたのだが、用意されていたのは普通のコンチネンタルブレックファストだった。朝7時半ごろKamuela Innを出て島を東周りに2/5周ほどすると世界でもっともエキサイティングな活火山として有名な世界遺産にも認定されているハワイ火山国立公園($10.-/Car)に9時半頃到着した。まず、園内のビジターセンターでキラウエア山の噴火の歴史を軽く学習したあと、早速キラウエアカルデラの周辺を走るクレーターリムドライブを走り、さらに海側に向かってのびるチェーンオブクレーターロードを下ることにした。このロードは標高1200mから数多くの連なるように存在しているクレーターを横目に一気に太平洋岸まで下りることの出来る22マイルにも渡る風光明媚な道である。道の終点は今年の9月に流れ出た溶岩でさえぎられ、そこから徒歩で溶岩が太平洋に流れ落ちている様子を見学出来る地点までコールタール状に不気味にに黒光りする溶岩の上を進んで行かなければならない。

溶岩が海に流れ落ちている地点からは不気味な水蒸気がもくもくと上がっており、風に乗って舞い上がっている海水と火山灰は容赦なく観光客に降り注ぎ、また、有毒な火山性ガスにより、まともに目を開けているのが難しい状態でこの地球上の営みを観察しなければならない。

今日のところは午前中でハワイ火山国立公園を後にすることにして、午後から再び西海岸にあるプウホヌア・オ・ホナウナウ国立歴史公園($5.-/Car)を訪問することにした。ここは古代ハワイアンの暮らしぶりを再現した公園で園内には魔よけと思われるオブジェやトーテムポール、アウトリガーと呼ばれるカヌー状の船等さまざまなハワイアンの小道具が展示されていた。また、Green Turtleと呼ばれる海亀が砂浜で昼寝をしているので決してこの亀をいじめたり、背中に乗って竜宮城まで案内させてはいけないことになっていた。

再び島をぐるっと回って東海岸に帰ってきた。心なしか♪メリージェ-ン♪のようなノスタルジックな感傷をおぼえたころハワイ州第二の都市であるヒロの都心部に入り込んでいることに気づかされた。ヒロはツノダヒロのような日系人(日系人かこいつは・・・??)が作った街でいたるところに日本語を連想させるファシリティが存在している。日本の築地魚市場に相当するSUISANという市場では毎朝セリが行なわれ、そのとなりのジャパニーズレストランは「日本」という名前で営業活動に励んでいた。

今日の宿泊地であるビーチ沿いのヒロハワイアンホテルにチェックインするとホテルのレストランは日本からの団体旅行客でごった返しており、私もひとやまいくら?程度の扱いを受けそうだったのでとなりのUncle BillyというSeafood & Steakレストランにエスケープすることにした。このレストランで提供されるCatch of the Dayという魚のメニューは当然SUISAN直送であるため新鮮さが保証されている。しかもレストランの内部にはステージが設置されてあり、午後8時からハワイアンソングのライブと腰を高速で動かすことが出来るフラダンスを目の前で堪能することが出来るのだ。

12月23日(月)

ヒロは雨の都という異名を持ち、年間降雨量3400mmを誇っている。昨晩から今朝にかけても雨が降り続いており、ハワイ火山国立公園に到着した午前8時過ぎになっても雨は止んでくれなかった。仕方なくビジターセンターで各種の火山系の展示物を見たり、Auditoriumで噴火の映像を見ながら時間をつぶし、ついには車の中でうとうとしていたところ、太陽の光により午前10時過ぎに目を開けさせられた。

今日はキラウエア火口を取り巻くクレイターリムの細部を観察することに午前中の時間を費やしていた。キラウエアが最近噴火したのは1982年に遡るのだが、それ以前にも何度か大噴火を経験している。クレイターリムには噴出した溶岩の歴史が年次別に示されており、火口内部は未だに活動を続けている様子で異様な臭いがする硫黄ガスや小刻みに噴煙を上げているポイントを数多く観察することが出来る。

午後から、昨日に引き続き、チェーンオブクレーターロードを南下して溶岩が海に流れ出る様子を見に行って来た。この地点は火山の活動状況により、真っ赤に流れ出る溶岩を目の前で観察出来る世界でも唯一のスポットであるのだが、今回は残念ながらすでに黒くなっているコールタール状の溶岩や牛の糞のような形状の枯れた溶岩しか見ることが出来なかった。

また、この地点の上空には高値で観光客を拾ってきた多くのヘリコプターやセスナ機が旋回を繰り返していた。

12月24日(火)

ヒロ市内から車を飛ばしてコナ空港に帰る道すがら、プウコホラ・ヘイアウ・ナショナルヒストリック・サイトに立ち寄り、おびただしい数の石垣で構成されている古代ハワイアンの寺院跡を見学させていただき、カメハメハ王朝の栄華の一端を垣間見ることに成功した。

ホノルルよりすばらしいハワイ島情報

*ハワイ島で自由に動き回るためにはレンタカーを借りるしか方法がなく、非常に不便な島なのだが、それがかえってホノルルのようなミーハー観光客を少なくしている要因になっているのだ。

*日本語のハワイ島観光パンフレットに「マサシの世界遺産真っ赤な溶岩トロトロツアー」というツアーが誇らしげに掲載されていた。このツアーはガイドであるマサシ・(ツカモト)ナカタ=合衆国連邦航空局飛行教官(CFI)がキラウエア火山の溶岩ツアーを日本語で安全に案内するという溶岩が流れているときの限定ツアーである。このツアーに対抗するためには「マサの財務省人間関係ドロドロツアー」を塩爺が流されるとき限定で行なうしかないものと思われた。

*ハワイ島コナ地方の特産品であるコナコーヒーはインスタントコーヒーのように粉っぽいのかと思ってたのだが、何のことはない普通のアメリカンコーヒーだった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥110,610

総宿泊費 $277.44

総レンタカー代  $440.07

総ガソリン代  $94.30

総走行距離  1,271マイル

次回はFTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 八丈島のキョンをお送りする予定です。

FTBJ龍馬がゆくin 高知

マサよ、君は日本で一番インパクトのある方言をしゃべる地方はどこか知っちゅうがかや!?

それは私がはじめて東京に出てきた18年前のことであったのだが、私が入部した某大学某体育会野球部に土佐高校出身と名乗る2人の若者が姿をあらわした。2人のかけ合いを聞いていると彼らはうちゅうではなくシチューの彼方からやって来た異星人であるかのような言葉をしゃべっていやがった。なぜなら、彼らの会話の端々には「~~シチューき!」「~~シチューがや!」といったおおくのシチューがふんだんに盛り込まれていたからだ。

というわけでシチュー王国高知県は坂本龍馬や板垣退助等幕末から明治維新にかけて多くの偉人を輩出した県として有名であるが、近代においてもなお、番場蛮(侍ジャイアンツ)や二代目スケバン刑事(デカ)麻宮サキ(Acted by南野陽子)や広末涼子等を生み出し続けているのだ。

12月14日(土)

ANA561便にて高知空港に到着すると早速ニッポンレンタカーで日産マーチをレンタルすると5年ぶりに高知の町並みに繰り出すことにした。高知大学の受験に失敗して仕方なく福岡教育大学に進学してしまった武田鉄矢と同様に坂本龍馬を敬愛している私は5年前に訪れることが出来なかった龍馬歴史館を目指すことにした。空港から近いにもかかわらず交通の便が悪い龍馬歴史館(¥1,050)は日本の歴史を揺り動かしたひとりの自由人、坂本龍馬の足跡をダイジェストで辿ることが出来る貴重なファシリティである。館内には26の場面が設けられており、龍馬本人と龍馬にまつわる人物と歴史上重要な出来事を180体の蝋人形を駆使して表現しており、デーモン小暮率いる聖飢魔IIが誇る「蝋人形の館」でさえも太刀打ち出来ないほどおどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。

龍馬歴史館を後にすると南国市、高知市内を抜けて桂浜方面に車を走らせた。桂浜に面し、太平洋を見下ろす高台に国民宿舎桂浜荘とともに高知県立坂本龍馬記念館(¥400)が青い大海原に乗り出すように建てられているので5~6年ぶりに様子を見に行ってみた。坂本龍馬記念館は坂本龍馬生誕150年を記念して昭和60年に建設しようという意見がまとまり、数々の募金活動や建築様式のコンペ等を経て平成3年10月に竣工した新しいファシリティである。建築様式はハーフミラーの鏡張りになっており、8度の勾配を持った海に突き出した展示室はつり橋構造を取り入れ、高床式になっているため、強い風に吹かれると揺れを感じることもあるそうだ。

ところで館内の展示物であるが、龍馬が姉乙女等に送った手紙の数々や愛用していたピストル2丁、武田鉄矢垂涎の品である、龍馬直筆の「海援隊規約」、龍馬が暗殺されたときに血痕のついた掛け軸等が所狭しと並んでおり、マサに日本史を生で学習するには持って来いの場所だと思われた。結局館内には昼の2時過ぎから閉館の5時まで居座ってしまったのだ。

ANA超割ワンモアホテルを利用して予約しておいた空港近くの高知黒潮ホテルにチェックインすると早速1300mの地下からくみ上げている温泉である龍馬の湯に入湯した。龍馬の湯は数多くのミネラルが含まれており、四国で最高の19種類くらいの効能があるとの能書きが看板に誇らしげに書かれてあったのが印象的だった。

12月15日(日)

高知市内には土(佐)電という路面電車が走っており、高知城下のかみまち1丁目電停の目の前に「坂本龍馬生誕の地」という記念碑が奉られているので見物に行って来た。この記念碑はビルの谷間にひっそりと建てられているので車でボケ~と走っていると見過ごしてしまう危険性があるので細心の注意でわき見運転に専念しなければならないのだ。

日曜日の高知市内の繁華街にはたくさんの日曜市が出展しており、新鮮な野菜や魚やそれらをさばく鋭い刃物等が売られていた。繁華街を見下ろす高台に重要文化財の高知城がそびえている光景を目の当たりにしたのでこの機会に入城(¥400)してみることにした。高知城は1603年に竣工すると同時に当時の藩主であった山内一豊が入城したのであったが、1727年には城下町の大火で天守閣をはじめ城郭のほとんどが焼失し、1748年に復興したという歴史をもっている。また、城へ続く石段の最下部には昔百円札として一世を風靡した板垣退助像が誇らしげに立ちはだかっていた。

♪土佐の高知のはりまや橋♪がよさこい節の風情で君臨していたのでとりあえず見物しようとした時に通りに設置されている時計の針がいきなり1時を指してしまった。すると平時は普通の柱時計の装いだったものがけたたましいよさこい節のメロディとともに左右からはりまや橋とチンドン屋風情が姿を現し、多くの通行人の度肝を抜いていた。平井堅が童謡から強奪した大きなノッポの古時計も太刀打ち出来ないこのからくり時計のパフォーマンスを見ると死んだおじいさんも死にきれなかった心境になったことであろう。

高知市内を後にし、車で横浪黒潮ラインを流すことにした。太平洋と土佐湾のながめが美しい横浪黒潮ラインは全長18.8kmのダイナミックなドライブロードで起伏の激しいコースであるがゆえ、多くの走り屋たちが腕を競っていた。

マサよ、君は高知県で一番の景勝地である桂浜でしばし物思いにふけったことがあるか!?ということで今回のツアーの締めとして再び桂浜に波の音を聞きにいった。桂浜で最も有名なものは太平洋をながめるように建てられている巨大な坂本龍馬像である。この銅像は建立されてからすでに60年以上経っており、還暦時には「龍馬がゆく」の作者である司馬遼太郎も「銅像の龍馬さん、おめでとう!」とのメッセージを寄せているのだ。ちなみに桂浜は砂浜ではなく角の取れた小石の粒で形成されているため、波がよせると独特な音と旋律を奏でる癒し系の浜である。また、桂浜には観光客をおびき寄せるための多くのファシリティが存在している。中でも私が6年前くらいに訪問したことのある土佐闘犬センターには数々の歴戦により闘犬の汗が染み込み異様な臭気を発している土俵の上で土佐犬の命がけのデスマッチを見物することが出来、動物愛護協会の関係者は出入り禁止になっている場所なのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥400

総レンタカー代 ¥10,500

総ガソリン代 ¥846

総宿泊費 ¥5,750

次回はFTB炎の離島デスマッチ第?弾 in ハワイ島をお送りする予定です。

FTBJ西九州いにしえの旅

マサよ、君は九州で一番マイナーな県を知っているか!?

ということで九州で一番メジャーな県である福岡県を仕切っている私にとっていままで佐賀県は福岡の属国程度にしか考えていなかったのだが、今回のツアーにより日本の歴史を語る上で佐賀県が果たした重要な役割を再認識するに至ったのは確かである。

12月7日(土)

ANA451便にて佐賀・有明空港に10時過ぎに到着すると空港のトヨタレンタカーでヴィッツをレンタルすると早速佐賀市内に向けて車を走らせた。

ところでマサよ、君は佐賀県が生んだ偉人の中で最高峰に位置する人物が誰であるか知っているか!?早稲田大学政治経済学部政治学科を優秀な成績で卒業したマサであれば当然ここに来たことがあるであろう大隈記念館というファシリティが佐賀市の中央部で営業(¥300)しているので見物に行って来た。木造平屋建て4LDKの大隈重信の生家の横に建立されてある大隈記念館は早稲田大学の大隈講堂より規模は小さいものの大隈重信の生涯や業績を知るのに十分な資料が展示されており、マサのような早稲田出身の官僚が東大卒の官僚を出し抜いて出世するためのノウハウが蓄積されていると思われた。

ところで私が愛用しているお札にプリントされ、かつ私が尊敬してやっている福沢諭吉は佐賀県より都会である大分県の出身であり、大隈重信とはジャンルこそ違え、非常に仲が良かったというエピソードが語られている。明治?年2月3日に福沢諭吉が死んだとき、大隈重信は涙にくれ、自宅の温室で自分が手塩に掛けて育てた花を切って使いの者に持たせたという。福沢邸の受付で福沢の遺族が一切の供物は受け取らないと頑なに断ったものの、大隈の使いの者はこの切花は買ってきたものではなく、大隈が自分の温室で自ら切って切花にしたものであり、それを受取らないとは何事だ!と恫喝したところ、福沢の遺族は黙ってその花を諭吉の霊前に捧げたそうだ。

マサよ、君は日本最大級の弥生時代の遺跡が佐賀県内に君臨していることを知っているか?

背後に背振山地、全面には筑紫平野を見下ろす高台に弥生時代の集落が再現されている様子を垣間見ることが出来る国営吉野ヶ里歴史公園(¥400)は非常に学術的価値の高い吉野ヶ里遺跡を発掘した跡に土をかぶせ、その上に竪穴住居、物見やぐら、高床式倉庫等のファシリティを再現し、弥生時代のこの地方の状況を見事に復元して見せている場所だ。また、発掘作業は現在も継続されており、甕棺という棺おけの中に埋葬されている人骨の状態からこの時代の人々の暮らしぶりや健康状態を正確に推測することが出来、ここに来てタイムスリップしなければ佐賀県に来た意味がないと言われているのだ。また、この公園の展示室にはたくさんの出土された土器が展示されており、縄文式土器 → 弥生式土器 →赤道小町ドキ(By山下久美子)といった進化の様子を学習することが出来る。

江戸時代の260年間は鎖国の時代で幕府はほとんど外国と交易を行なわなかったわけであるが、当時日本で唯一海外と交流を持っていたのが、何を隠そう長崎県なのである。佐賀市内から車で3時間ほど西に走ると長崎県の果て平戸に到着した。平戸近辺に田平町というマイナーな観光地があり、今日の宿泊地であるプチホテルたびランドに引き払うことにした。ここはコストの安い国営国民宿舎であるにもかかわらず、多くのB級芸能人が宿泊した痕跡を残しており、清水国明や梅宮辰夫等の色紙が誇らしげに飾られていたのである。

12月8日(日)

プチホテルたびランドをチェックアウトすると田平町からゴールデンゲートブリッジを彷彿とさせる平戸大橋(¥100)を渡って平戸島に侵入した。平戸には聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂、オランダ商館跡といった数々の歴史的建造物があるのだが今回は軽く車で流す程度にとどめておいた。

橋を渡って再び田平町に戻り、田平町が誇りとする田平カトリック教会を見物した後、たびら昆虫自然園(¥400)を訪問した。ここは4.1ヘクタールの敷地に昆虫館と4つのゾーンからなる観察ゾーンがあり、、昆虫の生態をライブで見ることが出来るようになっている。入園するといきなり作業着に長靴を履いたおっさんに捕まり、園内を案内してくれるというので案内させてやることにした。南国九州といえども冬という季節柄、昆虫の数は少なくなっているのだが、枝と同化している尺取虫やおっさんがあらかじめ拉致して洗面器に保存しておいたタイコウチやミズカマキリやヤゴを観察することが出来た。また、園内にはミツバチの巣が設置されており、太ももに沢山の花粉を蓄えた働き蜂が巣に戻ってくる様子を間近で観察することが出来た。

たびら昆虫自然園を後にして日本最西端の駅である平戸口駅で記念写真を撮った後、佐賀県への帰路を急ぐことにした。

マサよ、君は日本で一番すばらしい名前を持つ温泉が佐賀県に君臨していることを知っているか!?

というわけで今回のツアーのハイライトであり、FTBの指定温泉にもなっている武雄(タケオ!)温泉に午後3時ごろ到着することに成功した。京都屋という老舗の高級旅館で日帰り入浴料¥1,000を支払うと早速単純重曹泉の湯船に浸かってみることにした。ところでタケオ温泉の効能はというと「今までうけなかったあなたのギャグがあ~ら不思議、この湯に浸かるとたちどころに大爆笑の嵐となる」と口コミで伝えられているそうである。京都屋を出て温泉街を徘徊しながら将来財務省の裏金を使って「旅館総統」を開業し、天下り用に提供するための敷地を探していたのだが、土地は余っているようだったのでとりあえず土産物屋で郷土どら焼き「たけおどら」を購入してタケオ温泉を後にしたのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥20,400

総レンタカー代 ¥10,500

総宿泊費 ¥7,445(2食、温泉入湯税込み)

次回はFTBJ竜馬がゆく!をお送りするぜよ!

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 与那国島

日本最北端 ‐ 宗谷岬(稚内)

日本最東端 ‐ 納沙布岬(根室)

日本最南端 ‐ 波照間島 

日本最西端 ‐ ・・・・・・・

ということで今回ついにFTBJは念願の日本東西南北を制覇するに至ったのである。

10月25日(金)

いつものように夕方とっとと会社を後にすると全日空沖縄行き最終便(20:00発)に飛び乗ると那覇空港に夜中に到着し、FTBの常宿となってしまった沖縄ホテルに立てこもり、夜が明けるのを待ちわびていた。

10月26日(土)

昨日の東京-沖縄便に続き、今日は朝から沖縄-石垣便、石垣-与那国便と合計飛行機を3便乗り継ぐことにより、国境の島である与那国島に午前10時半頃上陸することが出来た。与那国空港の到着ゲートを出るとそれなりの数の民宿や旅館やレンタカー等の看板を持った客引き野郎やババァがたむろしていやがった。私の今日の宿泊先はホテル入船というところに予約を取ってあったのでホテル入船のロゴの入ったマイクロバスに乗り込んで颯爽とホテルへ向かった。空港から東に2kmほど走ると祖納という与那国で一番の都会に到着し、ホテルのチェックインを済ますと早速島の全容解明の探検に向かった。

とりあえず、足を確保する必要があったので近辺の西レンタカーという地場のレンタカー屋で原チャリをレンタルした。与那国島自体は非常に狭いのでまずは島をグルっと一周することにした。島を直撃している強い風を切って走っているとあたりは牧歌的な雰囲気に包まれてきた。いたるところに天然記念物であるヨナグニウマや黒毛和牛が放し飼いされており、島の最東端の東崎展望台にいたっては多くの牛の親子がくつろいでおり、マサにモ~モ~ランドと化していた。

東崎展望台から島の南部の道路に沿って西に進路を取ることにした。サンニヌ台という景勝地があったので立ち寄って見るとそこは強い風と波の浸食によって造られた段々畑上に広がる岩の台地があり、軍艦岩という軍艦を彷彿とさせる奇岩がひとつ海の中にたたずんでいた。さらに西に進むと立神岩展望台に到着した。ポッコリと海に浮かんでいるように見える立神岩は与那国のシンボルのような奇岩であり、岩のヘッドには緑色の植物が群生しており、岩色と緑のすばらしいコントラストを醸し出していた。

マサよ、君は国境の島の日本最西端の地に立ったことがあるか?

私は・・・・・ある!!

というわけでついに念願のFTBJ日本東西南北制覇の最終地点である与那国島西崎展望台にやって来ることに相成った。風の強い断崖絶壁に位置する日本最西端の碑は北緯24°26’44.99″ 東経122°56’09.33”に位置しており、天気のいい日には遠く111km先に位置する台湾を見渡すことが出来ると言われている。噂にたがわずここは観光客の記念写真撮影スポットと化しており、中には自転車で日本を縦断してきたと思われる沢山の岬の木の札を自転車にくくりつけ、おびただしいほどの野宿グッズを積んでいるサイクリング野郎の強者も見受けられた。

10月27日(日)

朝9時半頃ホテル入船をチェックアウトすると早速ティンダハナタという自然展望台に向かった。断崖絶壁に囲まれている与那国島の中にあってここディンダハナタは一際高く隆起した台地となっており、ここから祖納の町並みや遠く東シナ海を見下ろすことが出来るのだ。また、ここにはいくつかの洞穴があり、その中でオスの犬と人間の女が同棲しており、島に上陸した男どもを犬が噛み殺して生活を守っていたのだが、ある男が島に漂着したときに女の美しさに惹かれた男が犬を殺して女と結婚して7人の子をもうけたのだが、結局男が犬を殺したことが女にばれてしまい、女が犬の死体を抱いて自殺しやがったというわけのわからない伝説が看板に誇らしげに書かれていた。

島の西部に久良部漁港という祖納に匹敵する人口密集地帯がある。このあたりの高台に久良部バリという日本で最後に夕日が見える丘と掘られた石碑が奉られている丘があった。なんとここにも呪われた伝説があったのだ!昔人口が増えすぎたこの地の人減らしのために妊婦を崖と崖の間をジャンプさせ、多くの妊婦は谷底に落ちて死んだり、無事に生き残った妊婦も流産したりしたそうである。実は与那国島とはとんでもない島であることが現地に来て初めて確認出来た次第であった。

国境の島与那国島情報

*開帳すると180mm~300mmにも達するという世界最大の蛾であるヨナグニサンがこの島に生息している。学研の昆虫図鑑の中で多くの昆虫が呼び捨てにされたり、・・・虫というように虫けら扱いされている中でヨナグニサンだけがサン付けで呼ばれている現状を考えるとこの蛾が天然記念物に指定され、多くの人々から尊敬されているのも納得がいくであろう。http://www.town.yonaguni.okinawa.jp/yona_new/nature.html

*テキサスゲート

 与那国の牛や馬は広い大地に放し飼いにされ、伸び伸びと育っている。牧場にはほとんど柵といったものが見られず唯一牧場を仕切っているものはテキサスゲートというファシリティである。テキサスゲートとは道路に切られた金属製の溝のことで牛や馬の脚であれば丁度はまってしまうような幅に切られているのだが、車や原チャリは振動を我慢すればその上を通ることが出来るのだ。

*海底遺跡

 与那国島を一躍メジャー級の島に押し上げたのは他でもない海底遺跡の発見である。これは太古の昔に沈んでしまったムー大陸の名残ではないかとの説もあるが、明らかに人間の手によって加工されたような階段や広場を持っているのだ。海底遺跡を見るためにはダイビングで潜るかグラスボートで上から見下ろすしか方法がないのだが、今回は残念ながらグラスボートの運航はなかったのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥15,000

総レンタバイク代 ¥5,300

総ガソリン代 ¥556

総宿泊代 ¥7,700(2食付き)

天声入語

日曜日に沖縄から東京に帰ってきたと思ったら、月曜にはアメリカに来ていた。寒風吹きすさぶシカゴでのミーティングを終えてボストンに移動して車でボストンローガン空港から市街に抜けるトンネルを通過するときに6月には$2だったはずの通行料が$3に見えてしまった。ついに私の目にも老眼の弊害が出てしまったのか!?と思ってしまったが、通行料は確かに$3に値上げになっていたのだ。また、市内のハイウエイも以前は50セントだったものが$1に上がっていた。財務省の無策によりデフレ不況に陥っている日本と違ってアメリカでは確実にインフレが迫ってきているようだ。これからはオイスターやロブスター等のスター系の食い物も慎まなければならなくなるだろう。(総)

FTBJ北の国から2002

♪ウ~ウ~~ウ・ウ・ウ・ウ・ウ~~ ♪ (Song by Masashi Sada)

純! じゃなかった! マサよ!!

秋も日に日に深まり、朝晩の寒さが身にしみる今日この頃ですが、君はいかがお過ごしだ!?ということで紅葉を見に行こうよう!!という心の叫びに耐えかねてふらっと富良野方面にやって来ることになってしまった。

10月13日(日)

札幌新千歳空港のニッポンレンタカーでマツダのデミオをレンタルすると道央の平野を北東に向かってアクセルを踏みしめていた。この時季の北海道は紅葉のベストシーズンであり、あたりの木々は赤、黄色、緑の見事なコントラストで山や谷を彩っていた。夕張市では丁度紅葉祭りの真っ盛りで沢山の人々が祭りの会場に集っていた。ところで夕張と言えば炭鉱の他に夕張メロンの産地として有名である。夕張メロンとは果肉は鮮やかなオレンジ色で表面には格子状の縞模様をあしらった最高級品のメロンであり、私が子供の頃メロンだと偽られて食わされていた縞の無いウリ系のプリンスメロンとは別世界の食い物なのだ。

3時間ほどの短いドライブを経てお昼時に車は富良野市内に突入すると早速「北の国から」でおなじみのキーポイントの散策に向かった。ところで作り物のドラマ嫌いの私は今まで一度も「北の国から」を見た実績が無いのだが、これもひとえに富良野に来ない奴は「北の国から」を見る資格がないと田中邦衛が目で訴えていたからに他ならない。

富良野の優雅な大自然を背景としたロケ地への道路は想像を絶するような込み具合であったが、まず最初にロケ地のファン投票1位に選ばれている「石の家」にたどり着くことが出来た。しかしながら「石の家」は「北の国から」が定めた重要文化財に認定されているため、展望所から遠巻きにしか眺めることが出来なかったので多くの人たちが「五郎(田中邦衛)のケチ!」と叫んでいた。私も「石の家」をモチーフにした「牛の家」を吉野家のどんぶりと牛革で作成し、狂牛病患者の保養施設として次回のシリーズはマサを患者役として送り込もうという野望を持っていたのだが、もう次回作は無いということなので野望はあっけなくついえてしまった。

ふらのジャム園の奥地から麓郷展望台にかけて多くのロケ地が散在しているので軽く車で流すことにした。展望台には親切にもロケ地マップが設置されており、またそこからは目の前に広がる富良野の山々や広大な平野や木々を見渡すことが出来、ここが広い北海道で最も風光明媚なスポットではないかと思われた。

そんじょそこらの大工では太刀打ち出来ないほどの家つくりのテクノロジーを持つ田中邦衛が建立した丸太小屋が麓郷の森に保存されているので見物に行って来た。麓郷の森には移設されてきた丸太小屋の他にショップや喫茶店等もあり、丸太小屋の中は観光客の出入り自由となっており、たくさんのドラマの名場面の写真や台詞等が展示されていた。

最新作の「北の国から2002遺言」で使用された「拾ってきた家」のサイト内にはおびただしい数の観光バスや自家用車、タクシーが駐車することが出来る交通整理員付きの駐車場が設置されていたのだが、この家も文化財保護の観点から遠巻きにしか眺めることが出来ず、観光客は土産物屋でボッタくられるという倉本聡とフジテレビの描いた脚本に見事にはまっていた。

一連のロケスポットを後にし、富良野市内を抜け、十勝岳中腹に位置する秘湯吹上温泉に向かった。山間にただずんでいる吹上温泉露天風呂は無料のためか多くの入湯者でマサに芋洗い状態であったため、今回は入湯を断念させられた。しかしながら、近辺に吹上温泉保養センター白銀荘という日帰り温泉のファシリティ(¥600)があったのでここの露天風呂に入りとりあえずお茶を濁しておいた。

気が付くと旭川までわずか40kmのポイントに迫っていたので今夜は旭川駅近辺のビジネスホテルにしけこむことにした。夜の街に繰り出してみたもののススキノのようないかがわしい店も少なく1kmもの距離をマンツーマンディフェンスでマークするようなつわもののポン引きにも出会えなかったのが心残りであったのだが、とりあえず基本の旭川ラーメンだけは押さえておいた。

10月14日(月)

旭川から百数十キロの道のりを一気に南西に下り、はるばる港町小樽にやって来た。小樽築港にはすでに倒産しているはずのマイカルが幅を利かせており、同じ建築様式で数多くのハーバービューの部屋を高値で提供しているヒルトン小樽がそびえていた。丁度昼飯時だったので地元の海産物を売りさばいている市場に隣接する食堂で飯を食うことにした。メニューを見ると毛がにの姿茹での下にラーメンが付属している店長推薦のメニュー(¥1,800)が目に飛び込んで来たのでためしに発注してみることにした。運ばれてきたものは剛毛で毛深い毛がにが浮いているラーメンとよく切れるはさみとかにの身ほじくり用のスプーンプラス取り皿であった。すなわち責任を持って自分で毛がにを解体しろという無言のメッセージが込められていたのだ!飛び散るラーメンスープのしぶきとかにの身の攻撃をかわし、完食したころには指先には多くのトゲが刺さっており、東京に帰ると巣鴨のとげ抜き地蔵に直行しなければならないと思われた。

林家一門に庇護されている峯竜太か妻百恵の印税でぬくぬくと暮らしている三浦友和を引きずりおろし、石原プロへの入閣を狙っている私にとってどうしても訪れておかなれればならない重要スポットがここ小樽にある。石原裕次郎記念館(¥1,500)は北原三枝こと妻石原まき子館長のプロデュースにより、裕次郎が幼少期を過ごした小樽で営業されており、石原プロの重要な金ヅルとなっているファシリティである。この記念館には裕次郎にまつわる数々の歴史が展示されている。例えば、主演した99本の映画の中の代表作のポスターの中ではまだ化粧の濃くなかったころの朝丘ルリ子とのツーショットが決まっており、俳優業の片手間で出していたレコードのジャケットはすべて展示されており、喜びの酒「松竹梅」のCM等が流れているのだ。

また、石原裕次郎年表の中では患った病気の歴史も記されており、「太陽にほえろ」をやってたころにはすでに重い病気を抱えていたため、仕方なく電話番と屋上でタバコを吸う役に徹しており、電話で「よ~し、わかったすぐ行く!」と答えても自分は行かずにテキサスやボン等の下っ端を走らせていた実情を今理解することが出来たのだ!

記念館には裕次郎のスターとしての実績の他にも数々の私生活の遺品が展示され、また、裕次郎関連のグッズやワイン等も市販価格よりも割高で購入することが出来る。

夕暮れ時に天狗山(522m)という市街夜景展望の名所にロープウェイ(往復¥1,000)で登ってきた。小樽は北海道の3大夜景名所に選ばれているスポットであり、ここから昼夜に渡って小樽港の全景を見下ろしことが出来るのだ。

次回はFTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 与那国島をお送りします。

今後予想されるFTBツアー

*FTBもっと北の国から(From 宗男ハウス)

*FTBJもっとも北の国から(From 北極圏)

*FTBSEAカーテンコールの向こうにアンコールワットへの道を見た!!

FTBサマリー

総飛行機代 \800

総レンタカー代 \13,650

総ガソリン代 \3,395

総高速代 \750

総走行距離 661km

総宿泊代 \6,720

世界まるごとHOW FTB

ボンジュール マサよ!

というわけで、1998年の夏にFTBを立ち上げてから早くも4周年を向えてしまったわけであるが、その間の特別企画として「なるほど・ザ・FTB秋の祭典」「FTB不思議発見」「特命リサーチ200FTB」等数々のツアーを手がけてきた。今回はFTBEU主催の新企画として「世界まるごとHOW FTB」を北の国からお送りすることになり、倉本聡、田中邦衛もマサに真っ青の企画となることが予想される。

9月15日(日)

同時多発テロ一周年の余波はこんなところにも及んでいたのか!?

成田空港第二ターミナルは想像を絶するほどの出国客でごった返していた。何と出国のゲート入り口から続いている人の列はおよそ1kmにも達し、どの顔も各自が乗るはずの便に時間内に無事搭乗出来るのか不安の色を浮かべていた。ベテランの私は余裕を持って空港に到着していたので、何とか時間内に2002年版ポケモン模様をあしらったボーイング747‐400テクノジャンボ、ANA205便パリ行きに搭乗することが出来た。アップグレード券が余っていたので、マサであれば¥5~60万くらいかかるところをわずか¥17万程度の支払いでビジネスクラスのシートにふんぞり返って余裕をこいているといつものようにパーサーが挨拶に訪れたので適当に相手をしておいた。

約12時間のフライトで飛行機はシャルル・ド・ゴール空港に到着した。空港では宇宙ステーションを彷彿とさせるようなチューブ式、段なしエスカレーターが縦横無人にはりめぐらされていた。乳酸のたまったふくらはぎを伸ばしながら登りのエスカレーターに乗り、バッゲージクレームで荷物を受取ると空港バス(EURO 8)に乗り、パリの市内を目指した。あらかじめFTBの子会社に成り下がっているJCBトラベルにオペラ座の近くのホテルを予約させておいたのでとりあえずオペラ座に向かうことにした。バスはオペラ座のサイドに到着し、下車すると早速オペラ座の正面に回りこんで見ることにした。そこには一目見ただけでよその国から来た人々であることがわかるオペラ座の外人が数多くたむろして時間つぶしをしていた。

夕方6時ごろTIMHOTELという☆☆ホテルにチェックインすると早速パリの繁華街に繰り出すことにした。渡辺真知子よろしく3~40分くらい♪迷い道くねくね♪歩いていると、とうとう凱旋門にたどり着くことが出来た。この凱旋門から東の方に伸びているのはご存知シャンゼリゼ通りである。ここに来るまでは所詮銀座の通りと変わらないレベルの認識であったのだが、なんとここの歩道はリクルートに成功し、3倍に増殖したGメン75のメンバーが横一列にならんでオープニングで歩いて来てもなお有り余るほどの歩道の広さを誇っていたのだ!

9月16日(月)

東京に来た観光客は必ず東京タワーに登る現象をおのぼりさんと言うらしいが、パリに来てエッフェル塔に登らないとパリに来た意味が無いと言われているので早速朝一からエッフェル塔に向かった。高さ320mのエッフェル塔で観光客がアクセス出来るのは3rd floorと言われる3階の部分が最高点であるのでEURO 9.9をはたいてエレベターで最高部へ登った。高さ300mあまりから見るパリ市内の眺望はすばらしく特に天気がよかったせいもあって、ブローニュの森や蛇行するセーヌ川のはるかかなたまで見下ろすことが出来た。

ところでこのエッフェル塔は1889年に当時のテクノロジーの粋を集めて建立され、東京タワーを作った竹中工務店もその技術をお手本にしたと言われている。また、英語ではアイフルタワーと呼ぶらしいが「どうする?アイフル!」というような金銭的に逼迫した状態になっても決して高利貸しはしてくれないのではじめてのお客さんは注意しなければならない。

エッフェル塔でパリ中の景色を堪能したあと、セーヌ川沿いを東に歩き、シテ島にそびえ立つノートルダム大聖堂を訪問した。この建物は中世建築の代表作であり、800年もの長きに渡ってパリの歴史を見つづけてきた重量感があり、パリ観光では決して見逃すことの出来ない観光スポットとなっている。

国家公務員一種試験を優秀な成績でパスした物知りのマサであれば当然知っていると思うが、パリは芸術の都と呼ばれ、多くの美術館が林立している。そのなかでの最高峰と言えば世界を代表するルーブル美術館であり、将来私もルーブルのキューレーターの座を狙っているのでとりあえず下見をしておくことにした。ルーブル美術館の建物は巨大な「コ」の字型をした形状をしており、「コ」の字の中央にピラミッド状の建物があり、そこが入り口となっている。荷物のX線検査を受け、入場料(EURO 7.5)を支払うと早速見学を開始したのだが、巨大過ぎてどこから手をつけてよいのかわからなくなってしまっていた。館内には世界史の教科書でしか見たことがないような絵画や彫刻の実物がところ狭しと展示されており、中には海外出張中の作品もあった。

ルーブルの所蔵品の目玉は絵画部ではレオナルド・ダ・ヴィンチ作の「モナリザ」であり、他の絵画とは異なる状態で展示されており、エアコン付きの展示ボックスの中で謎の微笑を浮かべていた。古代オリエント美術部では「ハムラビ法典」が目を引いた。あの有名な「目には目を・・・」というやつである。また、彫刻部では「ミロのビーナス」がたくさんの観客を集めており、とりあえずこの広い美術館の中で何を見てよいかわからないやつはまずは「ミロのビーナスを見ろ!」と言わんとしているような雰囲気を醸し出していた。

結局ルーブルには5時間ほど滞在し、足が棒になるほど歩き回ってしまった。いずれにしてもここに展示されている作品はビートたけしや石坂浩次であってもホールインワン賞を取れないほど、値段の付け方がむずかしいものばかりであり、司会の大橋巨泉の思う壺だと思われた。

9月17日(火)

パリには地下鉄の他にRERというパリの近郊都市までを結ぶ鉄道が走っている。マサがひいきにしている宝塚歌劇団でおなじみのベルサイユ宮殿にはRERに乗って30分かけて近郊のベルサイユまで行かなければならない。ベルサイユ駅で下車して600m程歩くと想像を絶するほどの量の石畳が敷かれたベルサイユ宮殿の正面ゲートに到着する。宮殿への入り口は個人客と団体客やツアー客に分かれているのだが、とりあえず入場料(EURO 7.0)を払って中を見ることにした。宮殿内部は17世紀~18世紀にかけてのフランス王朝の栄華の痕跡を示す絵画やシャンデリア、フランスベッド等のファシリティが当時の状況そのままの形で残されていた。尚、この宮殿に飾られている肖像画の主は浪費のしすぎでフランス革命時にギロチンにされたマリー・アントワネットやルイ14、15、16世であるが、B級アイドルとしてデビューした頃の太川陽介であれば思わず「ルイ・ルイ」と歌って新人賞にノミネートされていたことであろう。

宮殿を出るとオプションでEURO 3.0を支払うと庭園の見物が出来るようになっているのでついでに庭園の散歩と洒落こむことにした。庭園は広大な敷地面積を誇っており、徒歩、馬車またはトラムで回ることが出来る。中には色とりどりの花が咲き乱れる花壇や立ち入り禁止の芝生、ボートに乗れる人工池等が見事な調和で配置されているのだ。

ベルサイユ宮殿からRERで再びパリ市内に戻り凱旋門の頂上に登ることにした(EURO 7.0)。果てしなく続く螺旋状の階段を登ると頂上近くのミュージアムに到達する。ここには土産物屋や凱旋門の歴史として今までどんなやつらが凱旋行進を行なったのか等の変遷を垣間見ることが出来る。凱旋門の頂上からは凱旋門を中心として放射状に伸びている12本の道路を見渡すことが出来る。各道路から流れ込んでくる車の列は弱肉強食の様相を呈しており、強い者のみが行きたい場所に行くことが出来、弱者は永遠に凱旋門の周囲をグルグルと回っていなければならないのだ。

日も暮れてきたので、エッフェル塔を見渡すベストスポットに夜景を見に行くことにした。夕焼け時から徐々にあたりは暗くなり始め、エッフェル塔にイルミネーションが灯りはじめた様子は息を呑むほど美しく、これぞマサにパリ観光のハイライトと言える代物であった。

9月18日(水)

休日にディズニーランドに行くのはミーハ-であり、わくわく動物ランドを立ち上げたのはムツゴロウさんであるが、同じランドに行くのなら究極のランドを目指さなければ意味が無いと思っていたのでヨーロッパ最西端に位置する孤島アイスランドに向かうことにした。

シャルル・ド・ゴール空港からアイスランド航空レイキャビック行きの便に搭乗すると3時間半かけてはるばるアイスランドのケフラビーク国際空港までやって来た。空港からバスに乗り1時間ほどで本日の宿泊地であるレイキャビック市内にあるアイスランドエアーホテルズが誇る☆☆☆☆ホテルであるホテルロフトレイデルに到着した。今日は着いた時間が遅かったのでとりあえず軽くレイキャビック市内の観光をすることにした。同じ港町で緯度が近いこともあるせいか町の雰囲気は何となくアラスカのアンカレッジに似ている感じがした。

ホテルロフトレイデルに戻り、レストランで夕飯を食うことにした。メニューはビュッフェ形式のバイキングと通常のレストランのメニューがあり、とりあえず魚系のCatch of the dayという食い物を発注したのだが、無難にもシャケをソテーした奴が出てきた。しかし本当に今日獲れたのかどうかは不明のままだった。ところで私のテーブルの対面は偶然にもバイキングのローストビーフのコーナーだった。1人の小太りのアメリカ人タイプのおっさんがローストビーフを食おうと思ってコーナーにやって来たのだが、不幸にもローストビーフを包丁で切り分けてサーブしているシェフが不在だった。当然シェフが戻ってくるのを待つものと思っていたのだが、何とそのおっさんは自分のテーブルからたまたま持参していたナイフでいきなりローストビーフを切りやがった!あわれなローストビーフの切り口にはシェフの美学に反するような不自然なギザギザが取り残されていたのであった。

9月19日(木)

昨日アイスランドに着陸したばかりのような気がするが、今日はさらに過酷と言われるランドであるグリーンランドツアーに参加することになっていたのだ。グリーンランドと言うと全面氷で覆われて人の住む余地は無いと思われがちであるが、何とグリーンランド東部のクルスクという村はレイキャビックからわずか735kmしか離れてなく、アイスランド航空がツアーを敢行しているのだ。

ホテルロフトレイデルに隣接するレイキャビック国内空港にはやぶ蚊のような形状のモスキート級のプロペラ機がたくさん離着陸していた。アイスランド航空が誇るFosker50という50人乗りのプロペラ機に乗ると1時間40分程でクルスク村の上空に差し掛かった。あたりは数多くの小島から成っており、海には青く不気味に光る氷山が無数に浮かんでいた。強い横風にあおられ、思わず座席ポケットのエチケット袋に手が伸びそうになったものの何とか持ちこたえ、Fosker50は無事クルスク空港に着陸した。空港の滑走路は平らにならされているもののアスファルトで舗装されてなく、砂利道剥き出しの状態であり、富良野よりも厳しい北国の環境をまざまざと見せ付けられたような気がした。

空港の周辺は氷河を抱く山と氷山をたたえた海に囲まれており、今日の宿泊予定地であるホテルクルスクは空港の近くに位置していると聞いていたのでとりあえず歩けそうな一本道を寒風吹きすさぶ中歩いてみることにした。幸か不幸かこのような僻地では建物の数が限られているので比較的簡単にホテルを発見することに成功し、首尾よくチェックインを済まし昼飯までご馳走になることが出来た。その後、部屋に戻り、「何というとんでもない場所に来てしまったのだ!」という後悔の念と動揺を鎮めた後、気を取り直して周囲の散策に向かうことにした。

ホテルを出て空港から来た道をさらに1kmくらい下ると十字架がたくさん刺さっている墓地やカラフルな屋根が眩しい集落に到着した。民家に近づくにつれてたくさんの甲高い、かすれた獣のような声が大きくなり、これは寒さに強く、そりを引くための小道具として使われる地元のハスキー系の犬だと思い知らされた。また、集落に住んでいる人の容貌を観察するとどの人も日本人と同じモンゴロイド系の顔をしており、ここが夢にまで見た日本人の祖先であるイヌイット系のエスキモーの村であると実感させらてしまった。

彼らは漁業と狩猟で生計を成り立てているようで各家の軒先にはたくさんの干魚がぶら下がっていた。また、彼らはマウンテンバイクと3輪バギーとスノーモービルをたくみに乗りこなし、アザラシ成金と思われるほど金を持っていそうなやつは巨大なタイヤのランドクルーザーまで持っていやがったのだが、声高らかなハスキー犬達はラジアルタイヤは履いていなかった。

ホテルクルスクでは一応イギリスBBC等の衛星テレビは受信出来、観光客は多少なりとも退屈しのぎは出来るのであるが、今日は何故か心に寒風が吹きすさんだため夜9時ごろにはとっとと寝ることにした。

9月20日(金)

朝起きて窓の外を見るとたくさんの流氷がホテル近辺の岸辺に着岸していたので早速見物に向かった。このあたりは朝の時間帯は干潮になるらしく、巨大な氷の塊は陸地の奥深くまでたどり着いていた。氷の破片をひとしきりかじってみると塩分は少ないがミネラル分を多く含んでいるため、水割用にするには最適な材料であると思われた。

ホテルクルクスをチェックアウトして帰りの飛行機に乗るまでしばらく時間があったため、再びクルクス村の散策に向かった。クルクス村には唯一の食料品兼雑貨店が開業しており、今日は週末ということもあってか多くの日帰りの旅行者や地元のエスキモーの子供達がたむろしていた。

クルスク空港のバラック風の空港ビルの待合室にはおかしら付きの白熊の毛皮が誇らしげにかざってあり、この熊は1999年に空港ビルの近くに突如出現し、なかなか撤収しなかった2頭のうちの1頭であるとの能書きまで書いてあったので、決して口から冷気を発するようなパムでパムエアコンと混同する奴はいないと思われた。また、帰りの飛行機では大阪弁を巧みに操る日本人家族まで搭乗して来やがったので巨大な賽の河原のような物悲しい雰囲気が一変して道頓堀状態になってしまっていた。

9月21日(土)

昨晩レイキャビックに戻り、ホテルロフトレイデルで夜を明かした後、今日は朝からホテルの近くのハーツレンタカーの事務所に車を借りに行った。レンタル出来た車は燃費の良いカローラであったのだが、何と足元にはクラッチ、右手サイドには5速シフトレバー付きの左ハンドルマニュアル車だったのだ。尚、アイスランドを走っている車はほとんどマニュアル車のようであった。

わずか1分程度でマニュアル車操作の感覚を取り戻した後、早速人口11万の大都会レイキャビックを抜け出して大自然の脅威が広がるアイスランドの内地に踏み込むことにした。レイキャビックを抜けるとあたりは溶岩に苔が蒸した広大な台地や愛想の悪い羊や牛や馬を放し飼いにしている牧草地が永遠と目の前に広がっていた。

レイキャビックの北東120kmほどのところにゲイシールというアイスランドを代表する観光スポットがある。ゲイシールとは間欠泉の英語であるガイザーの語源になった言葉である。ここゲイシールで見ることの出来る間欠泉はアメリカのイエローストーンのものよりかなり小規模であるものの、やはり元祖であるということでおびただしい数の観光客を引き寄せていた。尚、ゲイシール自体の活動は現在停止しており、今は2代目間欠泉のストロックルが5分~10分間隔で30mの熱湯を吹き上げているのだ。

ゲイシールからさらに北東に10kmほど走るとグトルフォスの滝に到着した。別名「黄金の滝」と呼ばれるこの滝は氷河から流れてくるアイスランド最大の滝であり、幅70m、1段が15~30mの高さで階段状の幾重の溶岩層を白い水煙を上げ、郷ひろみの歌のようにごうごうと轟音をとどろかせながら流れ落ちている様を見物することが出来る。

アイスランドには独特の温泉、温水プール文化が発達しているのだが、その頂点に君臨するのがブルーラグーンという広大な温泉リゾートだ。今日の宿泊先はブルーラグーンホテル(http://www.randburg.com/is/hbl_jp.html)を予約していたのでとりあえずチェックインを済ませた後、早速ブルーラグーンの調査に向かった。異様なほどのイオウの臭いとシューシューと蒸気を巻き上げる巨大な地熱発電所地帯のはずれに位置するブルーラグーン(ISK980)は発電で使用した排水温泉をプールに流し込んで作成した人口露天温泉である。アイスランドの温泉は水着着用が原則なので持参していた海パンを穿くと更衣室を抜け出し、外気10℃のテラスを経由して青白く輝く液体の中に突入した。ブルーラグーンの規模は野球場がすっぽり入ってしまうほど巨大であるため、場所によっては水温に差があるところが発生しているものの概ね35℃~39℃くらいに保たれているようだった。(http://iceland.jp/home1/bluelagoon.htm)

温泉の色が薄青白く広大な温泉内を徒歩で進むとき底が見えないのでたまに転がっているシャープエッジを持った溶岩のかけらで足を怪我しないように注意しなければならないのだが、かといってイアン・ソープやパンパシ水泳の選手のように豪快に水しぶきを上げて泳ぎ去ることも出来ないのであるが、温泉の中でカクテルなどを発注して飲むことは可能なのである。

温泉の浅瀬の方には硫黄系の泥が堆積しており、人々はしきりにその泥を顔やボディに塗りまくって健康を維持していた。結局1時間以上ブルーラグーンに入りっぱなしであったのだが、日本の露天風呂のように湯あたりしてのぼせたり、指先がふやけて指紋が消えるようなことはなかったのがこの温泉の魔力と言えるのではないかと思われた。

9月22日(日)

マサよ、君は地球の割れ目といわれているギャオをこの目で見たことがあるか?

私は・・・・・見た!!!

というわけで、埼玉県立浦和高校(名門!)にて優秀な成績で地学と地理Bを履修した実績のあるマサであれば当然知っていると思うが、我々がボケ~と暮らしているこの地球はユーラシアプレートと北アメリカプレートの2つの岩盤から成立っている。ギャオというのはこの2つのプレート間の割れ目が地上に現出している地球上でもっともホットなスポットで川口浩探検隊と水曜スペシャルクルーも当然のようにその探検を行なった実績があるのだ。http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/3522/kawaguchi.html#1983 (1980年11月19、26日放送分)歌を作ってまでその業績を称えていた嘉門達夫と同様に川口浩の探検家スピリッツを尊敬している私はギャオの放送当時からこの地を必ず訪れなければならないと思っていたのだが、今日とうとうその夢を実現することが出来たのだ!

レイキャビックの北東50km地点に広がるシンクヴェトリル国立公園の周辺は氷河におおわれた美しい連山や深く切り込んだ溶岩床の雄大な大パノラマ、そしてアイスランド最大の湖シンクヴェトリル湖の景観など、風光明媚な景勝地として有名なところである。また、ここではこの地に入植したヴァイキングが930年に世界最初の民主議会を開いた場所としても有名である。アイスランドを貫くギャオはこの地に顕著にあらわれており、多くの観光客はここを訪問し、地球の神秘と川口探検隊に敬意を払うことになるのである。

アイスランドくんだりまで来てここに来なければアイスランドに来たことにはならないと言われているので2日連チャンでブルーラグーンに入ってしまった。ところで北緯60度を越える北国であるアイスランドでは秋から春にかけて美しいオーロラを見ることが出来るのだが、実はここブルーラグーンはアイスランドでも屈指のオーロラハントスポットに認定されているのだ。ところが、何と私の滞在中は不幸にも曇りと小雨続きで空には晴れ間がなく、結局オーロラを見ることが出来なかったのだ。これもひとえにペイオフをなかなか解禁しない財務省の祟りであると言えるのではないか?

9月23日(月)

レイキャビック~パリ経由で成田に帰国、そのまま流れ解散。川口探検隊の足跡より大事なオーロラを見ることが出来なかったのでリベンジに行かなければならないと思いつつ帰路につく。

氷の国アイスランド情報

*シーフード料理屋で鯨の刺身を食った(ISK1,490)  

*アイスランドの通貨の単位はアイスランドクローナ( ISK 1 = \1.39)であり、硬貨にはさまざまな魚のデザインが施されているため、ここが世界有数のおさかな天国であることを容易に実感することが出来よう。

*アイスランドは平和な国で地理的にもワシントンとモスクワの中間に位置しているため、冷戦終結のためのレーガン・ゴルバチョフ レイキャビック会談が行なわれたこともある実力国である。

*ブルーラグーンでは温泉成分を抽出したヘルスケア製品を高値で売りさばいて暴利を貪っている。

*地球の生命を実感出来るアイスランドでは9割以上の家庭に温泉が引かれているのだ!

FTBサマリー

総飛行機代 ANA \170,600

            アイスランド航空 \63,020

総グリーンランドツアー代 \74,830

総ホテル代 EURO 330

            ISK 42,400

総レンタカー代 ISK 15,301

総ガソリン代 ISK 3,510

次回はFTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 与那国島をお送りする予定です。

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 in 竹富島&波照島

大型で勢力の強い台風16号が沖縄方面に停滞し、宮古島、石垣島を暴風域に巻き込みながらゆっくりと北西に進んでいると沖縄日報が伝えていた。ところで「嵐を呼ぶ男」と言えば石原裕次郎であり、その後「太陽にほえろ」でもボス兼電話番として重要な役割を果たしていたのは記憶に新しいところである。しかし、私が日本有数の晴れ男、いわゆる「太陽を呼ぶ男」という異名を持っていることを知っている輩はまだそんなに多くはないかも知れない。

9月6日(金)

羽田発夜8時の那覇行きANA便に乗り込むと飛行機は2時間半ほどで那覇空港に到着した。那覇空港で私を待っていた光景は台風16号の余波を受け、飛行機の相次ぐ欠航により、ゴザを敷いて運行を心待ちにしている沖縄難民の壮絶かつ悲しき姿であった。今日はとりあえず到着した時間が遅かったため、名前を聞いただけで沖縄のホテルであると認識出来る沖縄ホテルに引き払い、とっとと寝ることにした。

9月7日(土)

マサよ、君は街角テレビでおなじみのB級芸能司会者である大木凡人(おおきぼんど)を知っているか?大木凡人はいきなり那覇空港のANAラウンジに登場し、なんと私と同じ石垣島行きの朝一の便に搭乗しやがったのだ。

ところで昨夜石垣地方に停滞していた台風16号のおかげで昨日の那覇-石垣の便はすべて欠航状態であったのだが、台風よりも勢力の強い私が登場したおかげで今日は朝から運行を再開しており、私の「太陽を呼ぶ男」としての実力を再認識した次第であった。石垣空港に朝9時ごろ到着するとここでも石垣難民がひしめきあっており、どの顔もやっと故郷に帰れるんだといった安堵に満ち溢れていた。しかも、それが実は私のおかげであるということも知らずにだ!

早速空港からバスで石垣港の離島桟橋に向かった。今朝は台風の余波もあって西表島等の離島行きのフェリーが相次いで欠航になっており、欠航毛だらけ、(イリオモテヤマ)ネコ灰だらけ状態であった。今回のツアーの最終目的地である波照間行きのフェリーも欠航になっていたので仕方なく近場の竹富島行きのフェリー(往復¥1,100)に乗ると波を越えてわずか10分程度で到着してしまった。

竹富島は西表国立公園に属し、いにしえの沖縄の現風景が残されており、国の保存地区に選定されている風光明媚な小島である。船から下りて多くの客引きの誘いを振り切り、徒歩で集落に向かった。そこには多くの民宿やレンタサイクル、バイク屋が軒を連ねていたのだが、一番の大手であると思われる丸八でママチャリをレンタル(¥300/hr)すると早速島の調査に乗り出した。島にはいくつかの名所、旧跡があり、水牛車で「♪ドナ・ドナ・ドナ・ド~ナ~♪」と歌いながら島内を巡ることも出来るのだ。

また、ここのビーチは星砂の浜もあり非常にきれいであるのだが、いかんせんヤドカリの多さが際だっていたので「♪お~いらは宿なし!♪」と歌っていた世良公則がこの光景を見れば即座にツイストを解散していたものと思われた。

9月8日(日)

朝8時ごろ再び石垣港の離島桟橋に登場し、フェリーの運航状況をチェックしていた。さすがに今日は海上のシケはおさまったらしく、どのフェリーも通常どおりのスケジュールで運航している様子であった。波照間島(はてるまじま)という日本最南端に位置する離島には安栄観光の高速フェリー(往復¥5,700)に乗れば1時間程度で行けるという情報を事前に入手していたので早速チケットを購入し、一路波照間島を目指して海上に出た。海上の波はさすがに荒くフェリーはジェットコースター状態でそのたびに内臓のポジションが変わるようで非常にスリルのある船旅を楽しむことが出来た。

フェリーが港に着岸するとここでも多くの波照間難民がマサに狂喜乱舞の状態で帰りのフェリーに乗り込んでいったのが印象的であった。とりあえず「みのる荘」という民宿のバンに乗り込み集落までたどり着くとそこでレンタサイクルを調達(¥250/hr)し、島の徘徊を始めることにした。人口わずか500人程度の集落から南に4kmほどチャリを転がすと日本最南端の碑に到着してみごとに日本人としての義務を果たすことに成功したのだ。

最南端の碑から400mほど西に星空観測タワーというファシリティ(¥300)がある。波照間島は北回帰線にも程近く4月~6月にかけては南十字星も観測出来るほど南国に位置しているのである。ところで島全体の印象であるが、単なる田舎の島で何も考えずに脳みそを溶かすにはもってこいのところであるが、何とドコモのアンテナが誇らしげにそびえており、携帯を持っていればうっかり行方不明になることも許されない島なのである。

*FTBJめずらしい昆虫情報

 マサよ、君はナナフシという昆虫をしっているか?http://www1.harenet.ne.jp/~mihoku/data_musi/nanahusi.htm

 竹富島でたまたまナナフシを発見し、捕獲を試みたが、世界ナナフシギといわれる形態模写で枯れ枝に変身し、みごと私の追撃をかわしやがったのだ!

FTBサマリー

総飛行機代 ¥6,000

総高速フェリー代 ¥6,800

総貸自転車代 ¥2,100

総宿泊費 ¥12,600

次回から新シリーズ「世界まるごとHOW FTB」が始まる予定です。

FTBJ1000円札肖像画争奪戦会津磐梯山の旅

紙幣肖像画人事政策(By財務省)

1万円 : 福沢諭吉続投!

5千円 : 眼中なし

2千円 : 自然消滅

1千円 : 坊ちゃん育ちの夏目漱石を更迭し、苦労人の野口英世を起用

ということで、私の財布の中で束になっている福沢諭吉の肖像画の足元にはおよばないものの、マサ率いる財務省造幣局桜ノ宮500円硬貨鋳造所が心血注いで作り上げた500円玉の倍の実力を持つ1000円札の肖像画として野口英世が登用されることになり、地元の福島県猪苗代町では近年にない盛り上がりを見せているという。流行の最先端を走るFTBは早速その生地である会津磐梯山の麓に位置する野口英世の生家を訪れ、その実力が如何なるものか確認させていただくことにしたのだ。

8月24日(土)

日本で3番目に大きい猪苗代湖の湖岸に茅葺屋根のみすぼらしい家が建っている。そこが、黄熱病の研究で有名な野口英世博士の生家であり、今では野口英世記念館(¥500)として永久保存されている。ここでの最大の見所はやはり英世が一歳半の時に左手に火傷を負った囲炉裏である。この事件をきっかけに英世は勉学にいそしむようになったわけであるが、もしこれがなければ普通の百姓としてコシヒカリの製作に精を出していたものと思われた。

英世の生家の他にこの記念館には数々の偉業をたたえた資料が展示室にたくさん展示されているのだが、ロックフェラー医学研究所の正員として活躍していたときには野口研究室という自分の研究室と数多くの助手、さらには自分のネーム入りのフラスコや My 試験管を持っていたのが印象的であった。ちなみに日本人としてここに来ない奴は1000円札を使う資格がなくなってしまうことが予想されるので今からマサのところに大量の500円玉を発注して備えておかなければならなくなるのだ。

猪苗代湖から車で30分ほど北東に走ると中ノ沢温泉という温泉街があり、多くの温泉宿の中から露天風呂の宿花見屋が今日の宿に選ばれていた。ここの露天風呂は日本庭園風の中庭に位置しており、24時間いつでも好きな時間に好きなだけ入湯出来るのでふやけた肌を持つ多くののぼせた宿泊客の溜まり場となっている。

8月25日(日)

今日はFTBJ山岳修行第2弾として会津磐梯山の登頂にチャレンジすることにした。磐梯山の周辺は夏は高原リゾート地であるが、冬になると雪が多いらしく数多くのスキー場が点在している。夏草で覆われた猪苗代スキー場の隣にひっそりと登山道が開けていたのでここから登ることにした。稼動していないリフトとゲレンデを横目に急な坂道を登り、途中から熊の出没する森や平原、火山岩で覆われた大地を進むと2時間半ほどで1819mの山頂に到着することが出来た。山腹および山頂から周辺を見渡すとここが日本で最強レベルの田舎であたり一面田んぼや湖で覆われている美しい景色を十分堪能することが出来、ここに住めば野口英世でなくても勉学や農作業に専念出来ることを確信した次第である。

今日は晴天の日曜日ということもあり、山頂はおびただしい数の登山客でごった返していた。中には携帯電話で知人に登頂成功を自慢するものや吉幾三に匹敵する東北弁さばきで酒を飲んでクダを撒いている輩の宝庫と化していた。

山頂から2時間半ほどで下山するとそのまま喜多方市に向かって車を走らせた。ラーメン王国の福岡県出身である私にとって喜多方ラーメンの実力を評価しておく必要があったからだ。とある老舗風のラーメン屋でチャーシュー麺を発注して食ってみたのだが、東京で食する喜多方ラーメンよりも麺のちじれ具合とコシが優れていることが確認出来たが、福岡が誇るとんこつラーメンとは勝負にならないと思われた。

FTBサマリー

総ガソリン代 \7,168

総高速代   \11,950

総宿泊代   \11,332(2食付き)

総ラーメン代 ¥800

次回は日本最南端の島からFTBJ炎の離島ツアーをお送りする予定です。

祝FTBJ日本最高地点到達記念3776mの死闘(パート2御来光編)

♪エービィバデー サムライ スシ ゲイシャ ビューティフォー フジヤマ HA HA HA ♪というわけで、原辰徳は「私の夢には続きがあります!」という捨てぜりふを残して現役を引退し、その後見事に巨人軍の監督として帰り咲き、夢を実現させたわけだが、実は私の野望にも続きがあったのである。

7月27日(土)

テレビの天気予想によると今夜も熱帯夜が続くとのことで関東の住民はしばらく寝苦しい夜を過ござなければならない。冷房と掃除機を同時に使っているとブレーカーが落ちてしまうほど省エネ対策が施されている市川市の2DK高級賃貸マンションに居住している私のところにも容赦なく熱波が襲って来ることは確実視されている。

ところで先週炎天下の中、富士山発登頂に成功し、私の肉体の日に当った部位が真っ赤に腫れ上がっているところを見て血中のヘモグロビン量の増加を確信していたので今週も継続して高地トレーニングを行ないたいと考えていた矢先の熱帯夜予想であった。といった背景から今回は先週のツアーでは達成することの出来なかった御来光を見に再び立ち上がる決意をして夜の8時に家を飛び出したのだ。

マサよ、君はガキのころ東名高速道路が透明であると思ったことはなかったか?私は・・・思っていた(しかも長い間・・・)ということで用賀インターからトーメイに入るとマサに透き通るような車の流れでわずか1時間ほどで御殿場インターに到着することが出来た。御殿場を出て富士スカイラインという無料の登山道を経由して11時前には富士宮の新五合目という登山口に到着したのだが、ここで目にした光景はおびただしいほどの車が登山道に沿って路駐している状況でここでもまた、五合目入り口より1km程度手前に駐車し、歩かなければならなかった。ここ静岡県富士宮口は頂上まで最短で登れるコースで登山者に最も人気のある様子で五合目の登山口は多くの観光客で賑わっていた。

2年半前にネヴァダ州とアリゾナ州の州境のフーバーダムで購入したライト付きヘルメット($10.50)が私の部屋に長い間無造作に放置されていたのだが、今回初めて活躍の場が与えられることになった。先週の下見の段階で富士山の地形を足の裏で記憶していた私には特に登山道の明るさは関係ないのだが、やはりここは登山ガイドの手引きに従い、ライトを携えて午後11時10分に登山を開始した。

7月28日(日)

ガラすきだった東名高速とは裏腹に登山道は大渋滞の様相を呈していた。静岡県の夜景と駿河湾を眼下に見下ろしながら、午前2時には8合目に到着した。午前2時は日本で言う草木も眠る丑三つ時のことであるが、3010mのこの地は草木さえ生えていない不毛地帯である。午前3時半ごろ頂上に到着するとそこにはたむろしている登山者で足の踏み場もないほどだった。今回の登山は前回と比べると比較にならないほど体力の消耗度が少なかったのでここからさらに歩を進めて最高地点の剣が峰を目指すことにした。

午前4時前に剣が峰に到着したのだが、さすがにここまで這い上がって来た登山者は少なく、何とか質のいい御来光ポジションをキープし、寒さに打ち震えながらその瞬間が来るのを今か今かと待ちわびていた。満天の星空兼月夜の空が徐々に白くなり始め、4時20分頃には東の空が真っ赤に染まり始めた。午前4時35分、1人のおばちゃんが「出た!」と叫ぶと雲の上から真っ赤な太陽がその神々しい姿を現した。その瞬間、富士山の頂上ではカメラのシャッター音が鳴り響き、信仰心の厚い人々は手を合わせて拝んでいやがった。私も高級官僚であるマサが将来鈴木宗男のような強力なスポンサーを得られるようにお願いしようと一瞬思ったが、面倒臭かったのでやめておいた。

剣が峰で御来光を見物した後、火口をグルッと1周した。頂上にある土産物屋兼宿泊所の山口屋の前はマサに銀座か竹下通り状態、いや満員の東京ドームと言えるくらい多くの御来光見物野郎でごった返していた。その影響も手伝ってか頂上の空気が非常に薄く、危険を感じたので早々と午前6時半には下山することにしたのだ。渋滞の富士宮登山道を引き返し、午前9時にはスタート地点である5合目に生き長らえて返ってくることが出来た。

マサよ、君は5の平方根を知っているか???ということで時間も早かったので昔富士山麓でオームが泣いていた上九一色村あたりを見物し、イニシエーションでも受けて来ようかと思ったが、眠くなったのでとっとと撤収することにした。

FTBサマリー

総ガソリン代   ¥3,435

総高速代     ¥7,450