第2回アグネス・チャン(Ph.D)杯争奪香港飲茶ツアー+α

♪おっかのうえ、ひぃなげぇしぃの♪マサよ!

君は中国大陸南部珠江デルタに黄金のトライアングルが存在することを知っているか!?

12月28日(日)

ということで、ANA909便香港行きB777-200機は定刻通り午前9時50分に出発すると4時間程度のフライトで世界有数のインテリジェントな空港である香港チェクラップコップ空港に到着した。空港から高速鉄道(HK$90)でわずか18分で九龍に到着するとおもちゃ箱をひっくり返したような香港の繁華街を抜け、中城港にあるマカオ行き国際フェリー乗り場に向かった。新渡輪澳門(FIRST FERRY MACAU)が経営する高速フェリー(HK$141)の4:30発の便に空きがあったのでそそくさと出国手続きを終わらせて搭乗させていただくことにした。珠海を挟んで64kmの距離を1時間程度の航海でマカオに到着したころには夕闇が迫っていた。フェリーターミナルで入国手続きをすませた後、今日の宿泊先である☆☆☆☆☆ホテルの京澳酒店に向かった。チェックイン後、早速マカオの繁華街を練り歩くべく街に繰り出すとにした。

1999年に中国に返還されるまでポルトガルの行政下にあったマカオは東洋と西洋が融合した街並みを色濃く残しているものの香港のような妙なケバケバしさは無く、どことなく落ち着いた雰囲気を醸し出していた。マカオの繁華街の中心であるセナド広場はクリスマス風のデコレーションをいまだに残しており、多くの観光客がクリスマスツリーを背景にして記念写真を撮っていた。ところでマカオと言えば東洋一のギャンブル地帯として有名であるが、その中でも最高位に位置するホテルリスボアのカジノがおびただしいほどの観光客を集めていた。しかしながら、日本有数の勝負師である私に一人勝ちされるのを警戒してかどの賭場も立錐の余地の無いほどのさくら的ギャンブラーでブロックしていやがった。

12月29日(月)

マカオ南部の埋立地に2001年に建立された高さ338mのマカオタワー(HK$70)がそびえていたので登頂して見ることにした。一般観光客がアクセスする展望台は58階にある216mの室内展望台と61階にある233mの室外展望台になるのだが、冒険好きの輩用に空中漫歩や空中漫歩X版というアトラクションが用意されている。X版のほうは233mの高さのタワー外部の外周部のワッカの部分を命綱をつけて顔を引きつらせながら記念写真を撮り、一周するというものである。また、百歩登天というタワーの最高部である338m地点によじ登るツアーも存在するのだ。ちなみにこのタワーからはマカオだけでなく、中国本土や香港まで見渡すことが出来る。

マカオの歴史を学習するために海事博物館(HK$10)を訪問した。ここでは大航海時代からのポルトガルとマカオの関係の歴史や中国の航海史に関する展示の他、古いマカオの立体模型や数々の船の模型、はたまた1543年にポルトガルから種子島に伝わった火縄銃も展示されており、さらに地元の魚が泳いでいる水族館まで併設されているのだ。

海事博物館の向かいに媽閣廟という道教寺院が多くの参拝客を集めていたので覗いて見ることにした。ここはマカオの地名の発祥の地と言われ、ポルトガル人が最初に上陸した時「地名は?」と聞いたら阿媽閣(アマカオ)と寺の名前を言ってしまい、以来マカオと呼ばれるようになったという間抜けな言い伝えが残っているのだ。

フランシスコ・ザビエルが仕切っていたイエズス会の教会であるペンニャ教会がマカオ半島南部の高台にそびえている。この教会はもともと1622年にカトリック布教の中心として建立されたものであるが、現在のロココ調の石造りの建物は1935年に再建された何の変哲もないビルディングである。丘を降りて市の中心に向かう道すがら、おびただしい数の洗濯物がはためいている古いアパート群や商店街を通っているとやはりここは中国大陸のはずれに他ならないことを実感させられる。

17世紀初頭にイエズス会が建てた聖ポール天主堂が今は建物正面の壁面だけを残し、マカオのシンボルとして君臨しているのでお参りに伺ってきた。オードリーをこお~どり~させたローマのスペイン階段を彷彿とさせるような階段では多くの観光客が2B弾のようなパチパチ系の弾薬をしきりに足元に投げつけて快音を楽しんでいたのだが、その最上部には東洋一の壮大な美しさを持っていた面影を残す天主堂跡が仁王立ちするように立ちふさがっていた。1835年に起こった隣の学校からの火事の飛火により正面だけを残して焼け落ちてしまった天主堂であるが、壁面にはキリスト少年像、聖母マリア像、ザビエル像等の美しい彫刻を残しており、当時の威厳そのままに保たれた形で存在しているのだった。

天主堂の隣にとある高台があり、そこに22門の大砲が残されている。モンテの砦と言われる大砲台は1622年に攻めてきたオランダ軍を撃退したという戦果を誇っており、なぜか天主堂と秘密の地下道で結ばれていたと言われている。

カジノだけでなく、多くの観光地が存在しているマカオの見所をすべて見ることが出来なかったので後ろ髪を引かれるような思いで午後6時に香港行きのJet Foil(HK$161)に搭乗し、香港島の皇悦酒店の最上階に引きこもり英気を養うことにした。

12月30日(火)

マサよ、君は「食は広州にあり」ということわざを知っているか!?香港では飲茶の代わりにマックと吉野家くらいでしか飯を食えなかったので、アグネス・チャン(Ph.D)には悪いと思ったが、飲茶発祥の地であり、広東料理のメッカである中国広東省の広州まで足を伸ばすことにした。今年の9月から観光目的で30日以内の場合は中国へ入国するためのビザが必要なくなったため、比較的簡単に中国に入国できる利点を利用して九龍にあるホンハム駅から汽車(HK$190)に乗って広州東駅を目指すことにした。乗車、下車各駅で入出国の審査を行い、2時間弱の汽車の旅を経て華南最大の都市である広州に到着した。大都市広州には従来から君臨している広州駅と最近出来た広州東駅が存在するのだが、最近では発着列車が徐々に広州東駅にシフトしている。広州東駅からホテル近辺を目指すべく地下鉄に搭乗させていただいたのだが、出来たばかりの広州の地下鉄はICを組み込んでいると思われるプラスチックの円形のチップが切符となっており、それを改札口の特定の場所に接触させるだけでゲートが開くようになっている。また下車時にはチップは回収されるので再利用されているものと思われた。

広州五大酒店と言われる一流ホテルのなかでも最も近代的な設備を誇るマリオットホテルグループが展開する☆☆☆☆☆ホテルである中国大酒店に到着するとそこの1階は一大ブランド物ショッピングセンターと化していた。怪しい中国でのブランド物ということでシャネルがチャンネルになっていないか、ルイ・ヴィトンがルイ・ボタンになっていないか、はたまたグッチが祐三になっていないか確認して見たが、一見するとバッタ物ではないように思われた。

ホテルの近くに大きな越秀公園(5元)があり、その中の広州博物館(6元)に侵入することにした。まず、この博物館の建物である鎮海楼は1380年に建立された著名な古代建築であり、その西側には碑廊と大砲の台座が据え付けられている。館内は5階に分かれており、1階の漢代~元代をはじめとして清代から現代までの広州の歴史風俗をダイジェストで学習することが出来るようになっている。

越秀公園から北に進路を取り、広州駅を目指すことにした。広州ホンダの城下町としてモータリゼーションが進んでおり、北京、上海に匹敵するほどの大都市広州の道路は広く、近代的な街の風景が広がっているものの広州駅前の広場の光景はマサに中国という感じのズタ袋を抱えた旅人達の溜まり場となっていた。広州東駅でなく、ここ広州駅で列車に乗らなければならない場合は間違いなく仁義亡き戦いに巻き込まれることは必至であると思われた。

広州駅から地下鉄に乗って大河である珠江のほとりの沙面に向かった。珠江河岸にはおびただしいほどの水産会社が軒をつらねており、その辺の水族館よりも多くの魚や甲殻類を間近で見たり安価で購入することが出来るのだ。沙面から多少北に進むと上下九路という広州の昔からの繁華街に行きついた。午後7時を過ぎたこの辺の通りは歩行者天国となっており、そこいらで串焼き等の食い物が売られ、大変な賑わいを見せていた。またこの通りには広州三大酒家のひとつである広州酒家が「食在広州」のネオン看板もまぶしく営業していたので入ろうかと思ったのだが、なぜかスルーして同じ建物に入っている唐人街という中華食堂で唐人街炒飯と魚の唐揚を食ってお茶を濁しておいた。

12月31日(水)

中国大酒店には数多くのレストランがあるが、1階に食街という大衆的な中華があったのでここで朝から飲茶を堪能した後、観光に繰り出すことにした。広州駅前の大通りを東に1kmほど行ったところに環市東路という広州で最先端をゆく通りがある。ここは日本で言えば銀座のような場所で数多くの一流ホテルや企業や高級ブランドショップが軒を連ねている。

辛亥革命で有名な孫文(中山)を祈念して建立された講堂である中山祈念堂(5元)をチラッと見た後、陳氏書院(10元)を訪問することにした。ここは1890~1894年に当時の広州72県の陳姓の人々がお金を出し合って建立した族祠と書院であるが、「料理の鉄人」にて中華の鉄人とうそぶき、日本でボッタくりレストランを経営して暴利を貪っている陳健一が名を連ねているかどうかは定かではなかった。院は典型的な中国南方建築様式を採用しており、透かし彫りという高等技術を用いたレリーフが随所に見られる非常に美しい建築物である。

昨日訪問した広州博物館とは別に広東省立の広東省博物館(15元)なるものが市の中心に君臨しているので見物させていただくことにした。近代的な設備を誇るこの博物館には中国4000年の歴史を彩る青銅器をはじめとする数多くの歴史的に貴重な遺品の数々や中国南部に住む動物の剥製や陶器、水墨画等を目のあたりにすることが出来る。また、館内には旧中山大学の鐘楼を改造した魯迅博物館も併設されており、広州時代の魯迅の足跡を垣間見ることも可能になっているのだ。

広州一と言われる繁華街である北京路で広州市民の挙動を観察しながらぶらぶら歩いた後、広州の寺院巡りと洒落込むことにした。広州で語り継がれている伝説の5人の仙人を祀った祠である五仙観(5元)をのぞき、広州で最も古い九層の仏塔がある六榕寺(10元)で1400年以上の歴史の深さを垣間見、メインの大雄宝殿を大改装していたものの数多くの参拝客でごった返していた広州で最も規模が大きな仏教寺院である光孝禅寺(3元)をはしごした時に感じたのだが、人民の参拝の仕方が半端でないことだった。まずは日本寺院が使うちまちました線香とはレベルが違う巨大な線香の束を3元くらいで購入し、それを胸の前に携えて仏の前で何度も何度もおでこが膝に付くくらいの深さでお辞儀をし、さらには土下座をして額を地面にこすりつけんばかりにする輩もたくさんいる。ちなみに仏の前には必ず土下座用のクッションが設置されており、人民の膝に負担がかからないような配慮がなされていた。

今日は大晦日ということで早めに観光を切り上げ、ホテルの衛星放送で紅白歌合戦を視聴することにした。時差が1時間あるため、午後6時半にはじまった歌合戦はNHKの総力を上げて開発した海外向けの衛星放送プログラムであったため、映像よりも多少音声が遅れるという脆弱性を持っていた。従って、4時間あまり天然のいっこく堂ネタを食らってしまうはめになってしまったのだが、女子十二楽坊の演奏だけは何とか普通の状態で持ちこたえられたのではないかと思われた。

1月1日(木)

通常であれば新年明けましておめでたいところであるが、中国では春節(旧正月)を祝うため、元旦とはいうものの通常どおりの日常生活が繰り広げられていることが確認された。

早朝より昨日参拝した光孝禅寺と六榕寺の様子を見に行って昨日と同じ状態であることを確認した後、広州最強の見所であると思われる西漢南越王墓(15元)を見物することにした。秦の始皇帝が紀元前214年に現在の広東省一帯を占領して統治した。秦の崩壊後、秦の将軍であった趙佗が自ら王を名乗り、ここに南越国を建国し、現在の広州を都とした。1983年に前漢時代の南越国第二代王文帝の石室墓が発見された。この墓は2200年前のもので中から1000点以上もの埋葬品が出土した。この墓自体と出土品を展示しているのがこの博物館であるのだが、出土品の中で最も目を引くものは絲ろう玉衣と言われる埋葬された王の衣装であろう。また、発掘された墓自体はいくつかの部屋に分かれており、観光客のアクセスも可能となっているのであった。

中国大酒店からはマカオ行きと香港行きのバスが発着しているのだが、午前10時50分発の香港行きバス(105元)に乗ると一路香港への帰路を急いだ。香港との国境である深せんでは中国出国と香港入境のために2回もバスを降ろされて審査をされることになったのだが、3時間程度の快適なドライブを経てアグネス・チャン(Ph.D)の故郷である香港へ何とか帰ってくることが出来た。

尖沙咀にある皇悦酒店九龍にチェックインするとスターフェリー(HK$1.7)で香港島に渡り、香港唯一の観光地であるビクトリアピークに向かった。ピークトラム(往復HK$30)で頂上まで登るとお約束の夜景の時間と相成ったわけであるが、霞がかかり、しかも正月でビルの光が少なかったため、100万HK$の夜景も大幅ディスカウントされ10万HK$くらいの値打ちしかないように感じられた。

仕方なく、再度フェリーで九龍に戻ることにした。奇跡の1マイルと言われる尖沙咀の目抜き通りであるネイサンロード(Nathen Road)はその名の通りおね~系のギャルであふれていたものの「カオルーンで会いましょう」とばかりに長谷川京子を彷彿とさせるジャスミン系のギャル(通称シュガーレィディby河村隆一)はほんの0.5%くらいではないかと思われた。

1月2日(金)

午前中とあるローカルな土産物屋で電式自動腕振り黄金招き猫(HK$28)を購入した後、香港島からバス(HK$40)に乗り、香港国際空港を経由してANA911便にて帰国、そのまま流れ解散と相成った。

*香港最大の英雄アグネス・チャン(Ph.D)の情報は以下をご参照下さい。

 尚、奴はマサでも持っていないスタンフォード大の博士号を持っているのだ!!http://www.agneschan.gr.jp/

次回はバンコクから万国共通の情報が届けられるかも知れまへん。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥65,340

総宿泊費 US$98.-、HK$1,582、1,100.04元

総高速フェリー代 HK$303

総九龍至広州東汽車代 HK$190(1HK$ = 約\15)

総広州至香港バス代 105元(1元 = 約\15)

クリスマス特別企画!ダイエー帝国の繁栄と衰退の歴史を探るツアー in ロンドン

2003年日本プロ野球を制覇し、栄華を極めたダイエーが小久保の無償トレードとともに身売りされる危機にさらされている。かつて大航海時代といわれた時代に7つの海を制覇した大英帝国も今では日本と同様にアメリカの植民地に成り下がっている。しかし、大英帝国が残した栄光はアメリカ東海岸をはじめ、香港、中国、オーストラリア、ニュージーランド等FTBが制覇して来た数多くの土地に刻まれていることが確認されている。新しい大陸や土地の発見に大きな貢献をもたらした人物は英国の探検家キャプテンクックであるが、彼が率いる探検隊もどこへ行っても桜田淳子のように♪ようこそここへクック、クック♪と歓迎を受けたわけではなく、当然命の危険を伴ったものであったろう。

というわけで、世界中の数多くの地域で大英帝国が残した文化の遺構に触れてきたわけであるが、今回念願のロンドン入りすることによって帝国の繁栄と衰退の歴史が晴れて解明されることになったのだ。

12月19日(金)

午前11時35分発、ANA201便、B747-400機テクノジャンボが誇る航空業界ナンバー1と評価されたANAスーパースタイル機内エンターテイメントで映画を2本ほど見ていると12時間のフライトはあっという間に過ぎ、飛行機は午後3時過ぎにロンドンヒースロー空港に着陸した。空港からロンドン中心部には地下鉄(£3.7)で1時間ほどで到着した。今日はFTBの子会社であるJCBトラベルに予約させておいた巨大☆☆☆ホテルであるロイヤルナショナルに引き払ってとっとと寝ることにした。

12月20日(土)

北緯50度を超えるロンドンの12月は朝8時の段階でもまだ夜が明けず、しかも外は雨が降っているにもかかわらず人々は傘もささずに歩いており、いきなり雨の都ロンドンの実力を思い知らされたような気がした。ホテルを出て適当にさまよっているとセント・ジェームズパークからバッキンガム宮殿を抜け、ハイド・パークに到着した。ここでも雨の中スキンヘッドのサンプラザ中野系のランナーがジョギングをしたり、ダッシュをしたりする姿を見ることが出来た。

バッキンガム宮殿を取り巻く広場では年端もいかない日本人の餓鬼を中心としたおびただしいほどの観光客が降りしきる雨の中を衛兵交替式が始まるのを今か今かと待ち構えていた。ところが、係りのおっさんが突然出てきやがって今日は天候不良のため、衛兵交替式は中止すると言いやがったので撤収を余儀なくされてしまったのだ。

ビクトリア駅の3階にあるケンタッキーでフライドチキンをを食った後、ダイアナ元妃の葬儀が行われたことで有名なウエストミンスター寺院(£6)を見学した。イギリスのゴシック建築の中でも最も壮麗と言われるこの教会は歴代国王の戴冠式場であり、また墓地としても機能している。エドワード、ヘンリー、ビクトリア、エリザベスI等のおなじみの王や女王がここに埋葬されており、ここに来れば大英帝国統治の歴史をダイジェストで学習することが出来る非常に有効な場所である。

ウエストミンスター寺院に近く、テムズ河の河岸に重厚なネオゴシック建築の国会議事堂が君臨している。正式名称はウエストミンスター宮殿と言われ、時計台を持つビッグベンという塔はロンドンのシンボルになっている。その後テムズ河沿いを歩き、高さ135mの世界最大の観覧車であるロンドン・アイをスルーしてセントポール大聖堂(£7)に到着した。チャールズ皇太子と故ダイアナ妃の結婚式も行われたここセントポール大聖堂は現在改装中ながらもドーム内部のらせん階段を上りきるとロンドン市内が一望出来る展望台に達することが出来るのだ。

午後4時を過ぎるとあたりが暗くなってしまったので明るいネオンを求めてロンドン一の繁華街であるソーホーに向かった。ニューヨークのブロードウエイのようなソーホーにはたくさんのミュージカルの劇場があり、チャイナタウンにも隣接しているため、はなやかさと土臭さが同居した独特の雰囲気を醸しだしていた。

マサよ、君はピエロも空中ブランコもないサーカスを知っているか!?

ということでロンドンのヘソと言われているピカデリー・サーカス一帯はウエストエンドと呼ばれ数多くの夜遊び好きの輩で賑わっている場所であるのだが、決して♪ミスターサマータイム♪のようなスローな音楽は流れてなく、ユーロビート、パンク、フーリガンに似つかわしい環境が提供されている。また、少し南にあるトラファルガー広場では素人クリスマスソング合唱会らしきものが行われており、サンタクロース帽子を被ったおばちゃんたちがストリートミュージシャンを寄せ付けないような迫力で寒風の中おたけびをあげていたのであった。

12月21日(日)

デーモン小暮率いる聖飢魔IIの出世作である「蝋人形の館」のモデルになっていると思われるマダム・タッソー蝋人形館(£19.99)を見物することにした。ここに展示されている物体は♪生きたままの蝋人形のごとくぅ~♪化粧の濃い観光客が並んで写真を取っているとどちらが蝋人形だかわからないほど精巧に出来ていた。館内は今をときめく俳優や女優のコーナーから始まり、シルベスター・スタローンやスティーブン・スピルバーグ等の映画人から歴史上の人物さらにはロンドンタクシーをあしらった乗り物に乗り込みロンドンスピリットを体感するコーナーから最後にはプラネタリウムと非常に幅広いエンターテイメントが提供されているのだが、ここには何一つとして日本人の蝋人形は存在することはなかったのだ。

現在日本では年金崩壊と財務官僚の関与という問題を抱えているが、この難事件を解決するために名探偵シャーロック・ホームズ博物館(£6)を訪問し、解決の糸口を探ることにした。ホームズの友人であるワトソン博士にはパソコンがおかしな挙動を起したときにお目にかかることが出来るのだが、ホームズゆかりの品々を生で見るためには221b Baker Street Londonにあるこの博物館に来なければならない。一見すると普通のアパート風のこの建物は入り口を入るとかわいいメイド姿のシャルロッテが迎えてくれ、1階はみやげ物コーナーになっている。2階はホームズの仕事場になっており、ホームズゆかりの小道具が所狭しと並べられているのだ。3階はワトソン博士の部屋もあり、また、3階、4階にはホームズが解決した数々の難事件を蝋人形等で再現したストーリー仕立てになっている。

シャーロックホームズ博物館から一気に南下してサウス・ケンジントンという繁華街の中で一見すると大聖堂のような出で立ちで君臨している自然史博物館(無料)にやってきた。ここには世界中から集められた4億点もの動植物の標本などが展示されており、児童が自然科学を学習するのに最適なファシリティになっている。数あるコーナーの中で特に恐竜物が非常に充実しているのと哺乳類のコーナーでは地球最大の哺乳類であるシロナガスクジラの模型が全長30mに渡って幅を利かせているが印象的である。また、ヒューマンバイオロジーのコーナーでは生命誕生の神秘や人間の体の動きを特命リサーチ200Xよりも詳細に体感することが出来るようになっており、エージェントの伊達君も一目置くのではないかと思われた。

12月22日(月)

今日は月曜日ということで早朝から颯爽と闊歩するビジネスマンの後を追って歩いていると段々とお金の匂いが強くなってきた。かつて大手証券会社のトップセールスマンとしてならしていた私はいつのまにか世界の金融市場であるシティに紛れ込んでいることを実感させられた。ロンドン発祥の地であるシティはロンドン証券取引所を始めロイズ保険会社の本社や数多くの金融機関であふれているが、一方ではローマ時代の城壁が残されており、新旧入り混じった独特の雰囲気を醸し出している。

今日は気温が非常に低いものの早朝から晴れ渡っていたのでバッキンガム宮殿にて衛兵交替式が間違いなく実施されるだろうと思ったのでわざわざリベンジにやって来た。11時30分開始にもかかわらず、1時間前からすでに人だかりが出来ており、宮殿の門の前では騎馬婦人警官たちが観衆の整理にいそしんでいた。おそらく0℃近くに冷え込んでいるであろう気候の中でじっと立っていると体の芯から凍えてくるのを感じずにはいられなくなってくるのであるが、フランス語らしきものをしゃべる外人たちはバッキンバッキンガムを噛みながらも寒さをこらえていた。ついに衛兵交替式が始まった11時半ころにはディズニーランドのパレードの3倍くらいの人が集まり、ロンドンで最もロンドンらしい儀式が厳かに行われるのを人だかりのわずかな隙間から眺めつつ、雰囲気だけでも味わっていたのであった。

マサよ、君はロンドンが世界有数の心霊スポットであることを知っているか!?

ということでここから世界有数のロンドン心霊スポット特集をお届けすることになるのだが、その第一弾であるロンドン塔(£13.50)へ入城することにした。ロンドン塔はそもそも中世時代にウイリアム征服王がロンドンを守る要塞として作った城であるのだが、その後血なまぐさい歴史の舞台となる牢獄として機能するようになるのだ。城内には数々のタワーがあり、それぞれがラチ、監禁、暗殺等の歴史を持っているため夜な夜な幽霊が現れるにもかかわらず多くの霊感の弱い観光客で賑わっていた。また、ジュエル・ハウスという宝物館には歴代王、女王の冠をはじめ、目もくらむような財宝も展示されており、多くの女性観光客がため息をついていた。

地下鉄駅ロンドン・ブリッジの高架線の下のじめじめしたスペースを利用してロンドン・ダンジョン(£12.95)というホラー系のファシリティが営業していたので軽く入場して見ることにした。ここではロンドンの血なまぐさい歴史的事件の数々が人形を使って再現されているのだが、ホラー系のメイクを施したストーリーテラーのおにいさん、おねえさんもいきなり観光客をわっと驚かせて楽しませてくれたりもするのだ。また、天井は配管剥き出しで狭いと思われた館内は以外にも広く、しかもボート系の乗り物まであり、ホラー系カリブの海賊プラスジェットコースターのような気分も味わうことが出来るように取り計られている。基本的には見ず知らずの観光客同士のグループ行動が原則とされているのだが、観光客は皆、いけにえにならないようにストーリーテラーの係りとは決して目を合わせようとはしないであった。アトラクションの最後はかの有名な切り裂きジャックのストーリーテリングになっており、おおとりは絞首刑にされた犯人が上から降ってくるというおまけまでついていやがった。

12月23日(火)

ギャラリーフェイクといわれ、過去ルーブル、メトロポリタン、上野等数々の美術博物館を制覇してきたFTBであるが、今日は念願の大英博物館(無料)を訪問する日となったのだが、今回のツアーの目的はこのためだけにあると言っても決して過言でないのである。ダイエーの王監督も訪問したことがあるであろう大英博物館はミレニアム記念事業のひとつとして2000年末にオープンしたグレート・コートを中心に世界各国から略奪された貴重な代物が各コーナーでこれ見よがしに展示されているのだ。世界的に評価の高い展示物の中でも必見物はロゼッタストーンとアテネのパルテノン神殿の彫刻群である。また、古代エジプト関係のコレクションは群を抜いており、数多くのファラオの棺やミイラや保存状態のいい古代エジプト人の死体等かなりのきわものまで展示されていた。また、ここではパネルでミイラの製造工程も学習することが出来るのだ。

大英博物館内を長い間さまよっていると脳みそがだんだんとミイラ化してくるような感覚を覚えてきたので昼飯時にコヴェント・ガーデンという小洒落たモールで露天市の小物を見ながら脳みそに水分補給することにした。コヴェントガーデンからさらにトラファルガー広場に抜けると55mの塔から市民を見下ろしているネルソン提督像が目に入ってきた。1805年のスペイン・トラファルガー沖の海戦で、ナポレオン率いるフランス軍を破ったイギリスの英雄ネルソンは不夜城ロンドンでは寝ると損するぜ!とでも言いたげな憂いのある表情を浮かべながら塔の上で寒さに耐えているのではないかと思われた。

ウエストエンドはクリスマスを控えたファッショナブルなMichiko London風の買い物ギャルで賑わっており、流行の最先端であるロンドンの実力を否が応でも思い知らされるのだが、玉塚新社長が立ち上げたユニクロロンドン店も数多く出店しており、そのすきまを埋めるようにGAPも細々と営業しているのだった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥117,290

総宿泊費 ¥48,000

次回は第二回アグネス・チャン杯争奪香港飲茶ツアー+αをお送りします。

協力 ANA、JCBトラベル

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in 福江島

11月末を持って「なるほどザFTB2003秋の祭典」を終了したものの、息つくまもなく次の企画の立案に東奔西走している今日この頃であるが、ふと、いにしえの旅人にさそわれるように九州の西の果て、長崎県沖の五島列島最大の島である福江島を訪れ、はるか東シナ海のかなたの中国大陸に思いをはせることにした。

12月13日(土)

羽田から福岡空港を経由してANK785便にて午後4時前に五島福江空港に到着した。空港からバスで福江市の繁華街までわずか10分程度で到着すると適当なところに五島バスターミナルホテルというバスターミナルとビジネスホテルを兼ねたファシリティがあったので軽くチェックインすると福江市街地をぶらぶらすることにした。ホテルから歩いて2分くらいのところに福江港があり、ここから博多行きのフェリーや長崎行きのジェットフォイルが出ているのが確認された。

さらにうろついていると街中に福江城(石田城)跡が君臨しているのを発見した。福江城は三方が海に望む我が国唯一の海城であり、外国船(黒船)の襲来に備えて国防のために江戸時代最後に築城されたものであるが、現在は石垣や城壁程度しか残っておらず、今ではその中にひっそりとたたずむ長崎県立五島高校の健児たちを不良観光客から守っている様子だった。

福江市の繁華街は通常の長崎の繁華街の様相を呈しているものの、驚いたことにマックやロッテリア、ケンタッキー等のファーストフードやセブンイレブン等のメジャー系コンビニは一切存在しないことが確認された。

12月14日(日)

福江市の市街地には1634年に五島藩士170余家を福江に定住させ、城下町を形成していた名残である武家屋敷が数多く、そのまま武家屋敷通りとして残されている。その中心となるファシリティは福江武家屋敷通りふるさと館であり、ここには地元のバラモン凧、草木染と織の実演が体験出来るコーナーがあるのだが、午前9時過ぎの段階では地元の猫数匹以外観光客は誰もいなく、すさんだ猫屋敷と化していた。

福江城の城壁の中に五島観光歴史資料館(¥220)が営業していたので入って見ることにした。ここでは大小140の島々から成る五島列島の歴史や自然、民族行事等を学習することが出来るのだが、最大の見所は福江島を最後の寄港地として中国大陸に向かう遣唐使が健闘している様子をビデオや再現された遣唐使船や歴史年表等でわかりやすく理解出来る点であろう。

地元のレンタカーでホンダのライフをレンタルすると福江島一周ドライブに乗り出すことにした。五島列島最大の島とはいえ、福江島は東西45km、南北30kmの小さい島なので半日もあれば一周出来てしまうのだ。島の最西端のそのまたはずれに大瀬崎断崖という東シナ海に突出した入り組んだ海岸線を持つ断崖がある。この地の突端にある白亜の灯台は200万カンデラという日本一の明るさで日本の西の海の航海安全を守っている。尚、ここでは日本最後の夕陽を拝むことが出来るのだ。

高浜ビーチという天然の海水浴場としては日本一の美しさを誇る白砂のビーチがある。日本の渚百選にも選定されている高浜ビーチは季節柄、ウエットスーツに身を包んだ一人のヘタクソなサーファー以外は誰もいなかったので沖縄のどのビーチよりも美しい景色を十分に堪能することが出来た。

日本の奈良時代から平安時代にかけて文化的に世界で最も進んでいた国は唐である。当時は唐から学ぶべきものが非常に多かったため、遣唐使を派遣して貢物と引き換えに唐の進んだ文化を吸収していたのだが、福江島は日本における遣唐使の最後の寄港地として重要な役割を果たしていたのでここには遣唐使にまつわるものが数多く残されている。私も平安の世に生きていれば、894年に遣唐使を廃止した菅原道真と喧嘩してでも遣唐使になることを検討していたはずであったろう。

というわけで島の西北端の柏崎というところから遣唐使を乗せた4つの船が出港していた当時のおもかげをしのばせる碑が万葉集に詠まれた遣唐使に関する短歌として数多く残されているのだが、その中で一番観光客の注目を集めているものは真言密教の教祖である空海記念碑である。高野山に金剛峰寺を開いた空海は天台宗の比叡山延暦寺の開祖である最澄とともに遣唐使として長安に入り、帰国後現代のオーム真理教に匹敵する密教を広めたことはあまりにも有名であろう。

長崎県というとキリスト教伝来、キリシタン大名、かくれキリシタン等で名高い場所であるが、かくし事の好きな私はかくれキリシタンが禁教令を解かれ正々堂々と信仰出来るようになった最初のファシリティである堂崎天主堂を訪れることにした。明治41年に建てられた五島最古の洋風建築物である堂崎天主堂はヨーロッパの典型的な教会スタイルを採用しており、庭には聖母マリア像だけでなく、十字架にはり付けにされたフンドシ野郎の銅像等で彩られていた。

マサよ、君は西海国立公園の代表地であり、且つ五島のシンボル的存在でさらに市民の憩いの場になっている場所を知っているか!?

福江空港の近くに鬼岳温泉を核としたリゾート地であるコンカナ王国が君臨しており、そこに入国すると標高315mの全山芝生に覆われた美しい臼状の火山である鬼岳へのルートが開かれている。尚、鬼岳周辺にはゴルフ場や口径60cmのニュートン式反射望遠鏡を持つ鬼岳天文台等のレジャー施設が充実しているのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,200

総宿泊費 ¥5,250

総レンタカー代 ¥5,250

総ガソリン代 ¥1,520

次回はダイエー帝国の繁栄と衰退の歴史を探るツアーをお送りする予定です。

協力 ANA,ANK

なるほどザFTB2003秋の祭典完結編ついに来た!超南の島

私がひいきにしてやっている江戸川区にある東京健康ランドでゆったり、たっぷり、のんびり過ごしながら常々考えていたのだが、これまでディズニーランド、アイルランド、アイスランド、グリーンランド等様様なランドを制覇してきたFTBであるが、それらは所詮北半球に存在するランドに他ならない。ところで地球上で一番南にあるランドはどこかと調べて見たところ、それは羊大国ニュージーランドであることが判明した。さらなる調査を重ねた結果、ニュージーランド航空が私がゴールド会員になっているスターアライアンスに加盟していることをつきとめたので何とか「なるほどザFTB秋の祭典」のオーラスを飾るべく、ツアーを強行することが決定した。

11月23日(日)

ANA率いるスターアライアンスに加盟しながら、JALとのコードシェアを行っているという複雑なお家事情を持つニュージーランド航空のチェックインはJALのカウンターで行われていた。JALのロゴをあしらったボーディングパスを受け取るとJAL系のヤマトラウンジでしばしくつろいだあと、午後6時30分発のNZ090便、B747-400機に搭乗した。ニュージーランド航空ではエコノミークラスをパシフィッククラスという名称に変えてお茶を濁しているものの座っているシートも食事も所詮はエコノミークラスと同等であった。しかも航路上で赤道を越えるという一大イベントがあるのもかかわらず、乗客が寝ているのをよいことに何のアナウンスもなされることはなかったのだ。

11月24日(月)

飛行機は定刻どおり、午前9時過ぎにニュージーランド最大の都市であるオークランド空港に到着した。ニュージーランドは北島と南島から構成されており、今回のツアーは超南の島が目的地であったため、北島にあるオークランド空港からとっとと飛行機を乗り換えて南島最大の都市のクライストチャーチを目指すことになっていた。

南半球に位置するニュージーランドは当然日本とは季節が逆で春のこの時期は時差の関係で日本より4時間早く時を刻んでいる。午後1時前にクライストチャーチ国際空港に到着するとハーツでフォードのマニュアルのエコノミーカーをレンタルすると早速市街へと乗り出すことになったのだが、日本と同じ左側通行なので車も右ハンドルであるにもかかわらずウインカーとワイパーの仕様は左ハンドル車仕様となっていたので交差点を曲がる際にいきなりワイパーを動かすという屈辱を味わってしまった。南緯45度という高緯度に位置し、春とはいえ日本の晩秋のような季節を引き継いだようなクライストチャーチの気候は肌寒く市民や観光客はまだジャケットを羽織っていた。

クライストチャーチのランドマークとしてCity Centerの中心にクライストチャーチ大聖堂が君臨しているので早速見物に行って来た。1864年に着工し、1904年に竣工したこの箱物は高さ63mの尖塔を持つゴシック様式の美しい教会であり、中には一般市民が懺悔出来るファシリティが備えられているのだが、マサのような悪徳高級官僚が懺悔をしていると×点を出したイエスキリストの指令で必ず上から水をかけられるのではないかと思われた。

マサよ、君は南極点到達第一号を目指してノルウェーの探検家アムンゼンとしのぎを削り、結局アムンゼンに先を越され失意のうちに南極点からの帰還途上で凍死してしまったイギリスの探検家キャプテン・スコットを知っているか!?

クライストチャーチの外港のリトルトンを出航して南極点を目指したスコットの像がCity Centerのエイボン川のほとりに建てられているので今後南極点を目指すことになるFTBとしても探検家スピリットを伝授していただくべくスコット像にお参りに行かなければならなかったのだ。

市の中心を流れるエイボン川には38の橋が架かっているのだが、そのなかでひときわ美しく有名なのが追憶の橋である。大きなアーチ型の門を持った追憶の橋は第一次世界大戦で命を落とした兵士を追悼するために建立されたものである。

大聖堂を中心に市の中心部を歩き回っているとふいに参議院議員を辞職したいような無責任な衝動にかられてしまった。ふと我に返ると目の前に大橋巨泉が経営するOKギフトショップが日本人観光客から暴利をむさぼるようないでたちで君臨していやがった。

空港の近くに国際南極センター(NZ$30)という南極好きにはたまらないファシリティが開業していたので見物してみることにした。ニュージーランドと南極とは距離的にも近く、クライストチャーチ国際空港が南極への輸送・通信基地として使われるなど深いつながりをもっている。ここでのアクティビティとして南極で実際に使用される雪上車に乗ってファシリティ周辺の悪路を暴走するというオプションがある。2002年12月にここに来た皇太子と雅子妃も実車した雪上車はキャタピラドリフト走行も滑らかに45度の傾斜もらくらくと上り下りし、雪上車が半分ほど沈んでしまう大きな水溜りも楽々とクリアして観光客も思わずこれがあれば南極旅行も快適になるのではないかと錯覚してしまうほどエキサイティングな経験をさせられてしまうのだ。また、ビジターセンターの中には-5℃くらいの冷凍庫に防寒具を付けて閉じ込められ、松任谷由美でも凍ってしまいそうなブリザード攻撃を体感出来るアトラクションもある。

11月25日(火)

ニュージーランド南島の東海岸ほぼ中央に位置するクライストチャーチからアルプス街道を通り、クイーンズタウンを目指すことにした。スイスの山岳風景を彷彿とさせ、南半球のアルプスということでサザンアルプスとよばれる山並みを開拓し、雄大な牧草地帯となっている丘陵地にはおびただしいほどの羊達がのんきに草を食っている様子を永遠と車窓から眺めていると突然美しい湖に遭遇した。サザンアルプスの氷河から絶え間なく供給される水により、南島にはおびただしい数の氷河湖が形成されているのだが、突然目の前に姿を現したテカポ湖の姿には誰しもが感嘆の声をあげるほど美しいものであった。

テカポ湖から約45kmほど車を走らせるとこれまた美しいプカキ湖が出現した。晴れ渡った青空の下、プカキ湖のはるかかなたにはニュージーランドの最高峰であるマウントクックの勇姿を拝むことが出来た。ミルキーブルーと形容される独特の湖の色と白い氷河を抱いたマウントクックのコントラストを見ると桜田淳子でなくても自然と♪ようこそここへクッククック♪と口ずさんでしまうのではないかと思われた。

500km弱の道のりを6時間以上かけてついにニュージーランド最大の商業的観光地であるクイーンズタウンに到着した。冬場にはスキー場として賑わうコロネットピークから町を見下ろした後、早速ダウンタウンに侵入することにした。ワカティプ湖畔に広がるクイーンズタウンはマサにクイーンビクトリアにふさわしい風光明媚な町である。湖畔にアンダーウォーター・ワールド(NZ$5)というボート乗り場の地下から湖の中の魚を見物出来るファシリティがあり、ニジマス等の淡水魚が餌につられて目の前にやってくる姿を眺めつつクイーンズタウンでの優雅なひとときを過ごすことに相成ったのだ。

11月26日(水)

ニュージーランド最強の商業的観光地であるクイーンズタウンは無数のアクティビティで溢れている。その中でもジェットボートに乗って360度スピンを決められて気分が悪くならないとニュージーランドに来た意味がないと言われているのでワカティプ湖畔で営業しているTwin Rivers Jet (NZ$75)(http://www.twinriversjet.co.nz/)が提供する1時間のジェットボートに乗ってみることにした。ジェット噴射式のボートは湖面を時速80kmで疾走し、湖畔の風光明媚な風景が風のように流れていく。途中から川に入ると川岸に生えている木々すれすれをドリフト航法で間一髪でかわし、乗客の度肝を抜きながら、パイロットが手を上に上げてぐるっと回すとそれは360度スピンのサインとなり、救命道具を身にまとった観光客であっても一瞬ボートから放り出されるような重力がかかり、恐怖とスリルのどん底にたたき落とされることになる。

ジェットボートから降りて内臓の動きを鎮めた後に向かった先はキーウィ&バードライフ・パーク(NZ$15.50)である。ニュージーランドの国鳥として君臨しているキーウィは個体数が減っているため、国中のいたるところで保護されているのだが、羽を持たず、夜行性のため、内部を暗くされた部屋でうごめいている様子を観察することになる。中原めい子よろしく軽快に♪きみたちキーウィ・パパイア・マンゴだね♪と歌いながらキーウィのシルエットにくりぬかれた入り口を抜け、入場料を払って内部に侵入することにした。ここではキーウィ小屋のほかにニュージーランドの原生林を彷彿とさせる環境で珍しい鳥をライブで観察することが出来るシステムになっている。

クイーンズタウンから北東へ21kmほど走るとアロータウンというHistoricな町に到着した。この町を流れるアロー川で1862年に金が発見され、急速に発展したらしいが、今ではゴールドラッシュの古き良き時代を思い起こさせるようなレトリック調の町づくりにより多くの観光客を集めている。

マサよ! 君は商業バンジ-ジャンプの発祥の地がどこにあるか知っているか!?

ということで世界最初のバンジ-サイトとして有名なカワウラ川を見下ろす高さ43mの橋から人々がダイビングする様子を見物に行ってきた。今後気合の入ってないマサをいつでもどこでもバンジ-ジャンプさせるためのノウハウとバンジ-後の処理方法を身につけるのが目的であったのだが、通常であれば私自身が伸身2回転半宙返りwithフィッシュキャッチという荒業を披露して観光客の拍手喝采を浴びているところであったのだが、時間がなく断念せざるを得なかった。

マサよ~ 時間がなかったのだ~

ということで命からがらクイーンズタウンを後にしてワナカという静かな湖畔のリゾートタウンに逃げこむことにした。ワナカ湖を背景にしたこじんまりとした静かな町はそれでも湖を中心としたボートや水上スキー等の数多くのアクティビティのパンフレットで溢れ返っていたのであった。

11月27日(木)

統一教会にだまされる前の純粋な桜田淳子の歌声がどうしても忘れられなかったのでマウントクックを望む山岳リゾートであるアオラキを訪問することにした。大航海時代のイギリスの探検家キャプテン・クックの名を冠したマウントクックは原住民であるマオリ族の名前ではアオラキとよばれ、それがそのまま町の名前になっているのだ。

あいにくの悪天候のため、見通しが悪くサザンアルプスの明峰を拝むことが出来なかったものの、マウントクックビレッジに向かう途中のテカポ湖が醸し出す幻想的なミルキーブルーに染まった風景を眺めながら車を転がすことが出来た。ビレッジでのアクティビティは主に山歩きとなるので約1時間のウォーキングコースであるキーアポイントを目指すことにした。ところでキーアとはニュージーランド南島の山岳地帯に住むオウム科の鳥である。体長50cmほどで全体が緑褐色のこの怪鳥は飛びながら”キィアァ~”となめた鳴き声を発するのでマオリ族にキーアと名付けられたそうだ。この鳥は人をあまり恐れないため、油断しているマサ等の持ち物を奪おうとするので注意しなければならない。この怪鳥が飛び交っているポイントがキーアポイントであり、ここからマウントクックの勇姿が見えるはずであったのだが、分厚い雲に妨げられてしまい、またここでは♪私の青い鳥♪として君臨するキーアの登場もなかったのだ。

11月28日(金)

昨日のうちにクライストチャーチに戻っていたので今日は朝から再びクライストチャーチの見所の解明に乗り出すことにした。クライストチャーチ大聖堂スクエアの一角にサザン・エンカウンター水族館(NZ$10)という1997年にオープンしたニュージーランド各地の淡水魚をコレクションした小じんまりした水族館が営業していたので見物することにした。ここでは大型のうなぎやマスや現地でクレイフィッシュと呼ばれる高級伊勢エビが動作している様子を思う存分堪能することが出来た。

大聖堂から西側に5分ほど歩くとアートセンターというゴシック調の建物群が見えてくる。アート好きの輩はここで演劇や工芸に親しむことが出来るのだが、私はここをスルーして突き当たりのカンタベリー博物館(寄附NZ$5)を訪問することにした。ニュージーランド南島の大都市クライストチャーチを擁するカンタベリー州は古くは原住民のマオリ族が狩りや釣りをして平和に暮らしていたのだが、1800年代からイギリスより移民が流入するようになり、欧州の近代文化と酪農産業が発達する歴史を学習することが出来た。ここでの最大の見所はニュージーランドにかつて生息していた巨鳥モアの卵と骨格の標本であるのだが、それ以外にもアムンゼン、スコットを中心とした南極探検家の装備や雪上車等も十分南極通をうならせるほど迫力のある体制で展示されている。

カンタベリー博物館にて英国移民の歴史を学習することが出来たので、実際にイギリス人が入植してきた港であるリトルトンを訪問することにした。リトルトンの町は天然の良港以外はこぢんまりとした町で隔日しか営業していない博物館以外はたいした見所はなかったのでフィッシュアンドチップスを食ってとっとと撤収することにした。坂の多いリトルトンから山道気味の道路が開けていたので車を転がしていると上に行けば行くほどこれぞニュージーランドという光景が目の前に開けてきた。

とある羊の放牧場で羊野郎がのんきに草を食っていやがったのでとりあえず羊達にアンソニー・ホプキンスをどう思うか聞いてみることにした。ところが羊達は「メェ~そうもない」という表情を浮かべながら沈黙して逃げてしまったのだ。

高台からリトルトン港の入り江の美しいブルーやクライストチャーチの町並み、はるか遠くに広がるサザンアルプス等の山並みを眺めながら走っているとクライストチャーチゴンドラに到着した。通常の観光客はふもとからゴンドラ(NZ$16)に乗って標高400mの頂上までやってくるのだが、上級トラベラーの私は車を高台に止めて徒歩で頂上に到着することが出来た。頂上には展望レストランと土産物屋、クライストチャーチの発展の歴史をダイジェストで学習することが出来るタイムトラベルというちょっとした博物館があるのがうれしかった。

今日はクライストチャーチで過ごす最後の夜となるため、巨泉に義理立てするためにOKギフトショップで蜂蜜を原料にした高価な健康食品であるプロポリスや巨泉キャラクター付きボールペン等を購入して彼の営業成績に貢献してやることにした。

11月29日(土)

早朝の便にて空路クライストチャーチからオークランド空港まで戻ってきた。NZ099便成田行きの搭乗ゲートはおびただしい数の日本人観光客でごった返していた。カウンターのアナウンスで不意に私の名前が呼ばれたので行ってみると頼みもしないのに私の席がビジネスクラスにアップグレードされてしまったのでこいつらもやっとスターアライアンスのゴールド会員である私の実力を理解したのだと思い、彼らの施しを受けることにした。

意味もなくただっ広い前から2番目の席でウエルカムシャンペンを飲みながらくつろいでいると通路を挟んだ私の隣の席に明らかにマサの太ももより太い腕を持ったいかつい野獣が搭乗して来た。野獣はK1の正道会館の師範代である角田信朗http://www.so-net.ne.jp/feg/k-1/fighters/kakuda_nobuaki.htmであったのでとりあえず、「正道会館の石井館長だけでなく、あなたも脱税しているではないか!?」と聞こうと思ったのだが、今日はヘッドギアとプロテクターを持参していなかったので断念せざるを得なかった。尚、師範代は飲み物はニュージーランド産白ワインのシャルドネを何杯も飲み、持参しているDVDプレイヤーを見ているふりをして寝るという上級技を披露していた。

ニュージーランド情報

*農業と酪農立国であるニュージーランドの植物検疫は武器の持ち込みよりも厳しくおこなわれている尚、黙って(気づかずに)食物を持ち込んだことが発覚するとその場でNZ$200の罰金を取られてしまうのだ。

*ニュージーランド国内の主要宿泊施設としてモーテルが君臨しているのだが、どのモーテルも小奇麗に整備されている。また、チェックイン時のホスピタリティとしてミルクを恵んでくれ、しかもスタンダードかローファットかの指定も出来るという酪農大国ならではの独自の実力を示している。

*バンジ-ジャンプ!?とともにニュージーランドの国技になっているラグビーのナショナルチームはニュージーランド航空とも提携しているかの有名なオールブラックスである。オールブラックスは試合の前に相手チームの目の前で「カマテ、カマテ」と叫びながらハカという儀式を行うことで試合への闘志を高めているのだが、このハカの起源は原住民であるマオリ族の戦いの前に行う踊りである。

*全日空の機内映画でも上映され、あまりの面白くなさに10分で断念してしまったロードオブザリングのロケ地はクイーンズタウンの近くにあり、ロードオブザリングツアーというものまで出現してしまっている始末である。また、ニュージーランド航空ではロードオブザリングのキャストを機体にあしらったジャンボまで就航させているという気合の入れようである。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥165,040

総宿泊費 NZ$513 (NZ$1 = \77.-)

総レンタカー代 NZ$555

総ガソリン代 NZ$91.18

総走行距離 1,429km

総空港使用料 NZ$25

なるほどザFTB2003秋の祭典第5弾アカシアの街大連

日露戦争と帝政日本の植民地支配の歴史を研究している私にとって中国東北部の遼東半島の最南端に位置する大連は決して避けて通れない目的地である。大連は「北方の香港」として現在も発展を続ける北方最大の港湾都市であり、日本をはじめ多くの国の企業が投資を行っている。また、大連外国語学院が供給する良質な外国語スピーカーにより、数多くの日本企業のコールセンターを抱えている街でもあるのだ。

11月15日(土)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば¥15万くらいかかるところを私はただで大連行きの往復航空券を入手していたので、早速午前9時30分発のJL797便に乗り込み、空路大連を目指した。約3時間のフライトで飛行機は大連周水子国際空港に到着した。空港で円を元に両替して足早にタクシー乗り場に向かい、今回のツアーの宿泊先となっているHilton大連へと車を走らせた。HiltonHHonorsのポイントが余っていたのでマサであればUS$180くらいかかるところを私はただで宿泊することが出来る☆☆☆☆☆ホテルのHiton大連にチェックインし、そのまま大連市街地の散策に繰り出すことにした。

ホテルから400m離れた街の中心である中山広場に向かう道すがらおびただしい数の工事現場に遭遇し、大連市街が急ピッチで近代化されている様子を垣間見ることが出来た。中山広場からは放射状に道路が延びており、中国第2位の港である大連港へは人民路を歩いて20分程で到着した。土曜の昼過ぎの大連港は人影もまばらで日本における晴海ふ頭のようなコンテナが醸し出す物悲しさに耐え切れなくなり、足早に撤収を決め込むことにした。

大連港からホテルへ戻る道すがら「博多」や「中洲」といった数件のさびれた日本名の飲み屋が並んでいる通りを発見した。また、回春系の薬を販売している店の看板には性が「セッワス」と訳されていたのはご愛嬌だったのか?

勝利橋(旧日本橋)を渡ってロシア街方面に足を運んで見た。大連は日露戦争以前はロシア語でダーリニーと呼ばれており今もロシア街にはロシア風建築様式の遺構が残されている。その隣の上海路では寒風吹きすさぶ中、路上散発屋で髪を切ったり、髭を剃ったりする光景をライブで見ることが出来る。

ホテルに帰ってテレビのリモコンを操作していると中国の放送でワールドカップバレーの中国対日本の熱戦が繰り広げられていた。無類のバレーボール好きである私は当然テレビの前に釘付けになってしまった。フジテレビから提供される映像は日本選手のアップばかりを追っかけているのだが、音声は中国語という非常にアンバランスな状況で「帰って来たオリンピック戦士吉原」や「日本の元気印高橋」等の奮闘を目の前に回りの中国人に気づかれないように小さな声で「ニッポンチャチャチャ」を繰り返しながら大連の夜は更けていった。

11月16日(日)

早朝より中山広場を経由して2kmほど南西に位置する人民広場まで歩いて行った。人民広場は広大な芝生の敷地となっており、数多くの暇人たちがゲイラカイト系の凧あげにいそしんでいた。広場の周辺では満州帝国の建築物である大連市人民政府(旧関東州庁)等の歴史ある箱物を見物することが出来る。

大連森林動物園(60元)が市の南、緑が鬱蒼と生い茂る白雲山風景区内に君臨しているので中国人には相手にされなくても動物からは愛されている私にとっては格好の訪問地であると思われたため、見物に立ち寄ることにした。ここでの見所の一つとして大熊猫(ジャイアントパンダ)があげれれる。ぬいぐるみ状の大熊猫はまばゆい青空の中のんきに昼寝をこいており、いくら観光客が歓声を上げても決して身じろぎだにしない頑固な性格を持っている様子であった。

大連森林動物園は大きく2つのパートに分かれている。ひとつは上野動物園状の普通の施設であるが、園内に設置されているゴンドラで山を越えるといきなり自然動物園が出現してしまうのだ。虎の縞文様をあしらったバスに乗り込むと恐らく北限に位置するであろうと思われる壮大なサファリパークへの旅がスタートするのである。パークにはヒグマをはじめ、アフリカ系の動物であるシマウマやライオン、スプレーで塗られたような見事なホワイトタイガーや通常の黄色い東北虎などの猛獣を真近に体感することが出来るようなシステムになっていた。

上野駅の建築様式を模倣して作られたと言われている大連駅がホテルから1kmほどのところに位置しているので出稼ぎに来たたくさんのおのぼりさんを見ることが出来るのではないかと期待して見物に行ってきたのだが、普通の大連駅であった。

Hiltonホテルの対面に百姓屋という居酒屋風の飲み食い屋があったので入って見ることにした。惣菜等はすべて中華になっており、また、所狭しと並んでいる魚や蟹を指名すると勝手に料理してくれるらしいので28元の白身系の魚と88元の蟹を指名させていただき、豪勢な中華ディナーを堪能することが出来た。

11月17日(月)

朝飯用の食料を調達する道すがら、中山広場の朝の光景を見物に行って来た。広場では裕福そうなマダム達を中心とした軽快なリズムのエアロ系ラジオ体操が繰り広げられており、皆蝶のように手をひらひらとさせて自己満足に浸っている様子であった。

尚、中山広場を取り巻く建物のほとんどは日本統治時代から引き継がれており、旧大和ホテルは現在大連寶館というホテルに生まれ変わっており、旧横浜正金銀行大連支店は今では中国銀行としてなおも人民の財布を牛耳っているのであった。

午後1時発JL798便にて帰国

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,760(税金のみ)

総宿泊費 ただ

総タクシー代 83.7元(1元=約\15)

総空港使用料 90元

次回はなるほどザFTB2003秋の祭典完結編を超南の島からお送りする予定です。

協力 日本航空システム、HiltonHHonors

なるほどザFTB2003秋の祭典第4弾南の国から

かねてより買収の噂が絶えず、閉店間際の底力により日本一を勝ち取った王ダイエー・ホークスの有終の美で幕を閉じた日本プロ野球であったが、各球団は来年の雪辱を期してすでに秋季キャンプをスタートさせている。キャンプというと通常は南国宮崎や鹿児島、高知が主流であったのだが、ここ数年の傾向としてもっと南の国の沖縄でキャンプを張る球団が増加の一途をたどっている。今回は私の大先輩である山下大輔監督率いる横浜ベイスターズと落合新監督が指揮する中日ドラゴンズがすでに沖縄で秋季キャンプをスタートさせているという情報を入手したので、将来マサの天下り資金を横領して球団経営に乗り出すことを目論んでいる私にとって経営のノウハウを入手するには最適な機会だと思い、キャンプレポートを行うことになったのだ。

11月8日(土)

午前8:05発のANA121便にて11時前に那覇空港に到着すると早速トラベルレンタカーで三菱のミニカをレンタルすると国道58号線を北上した。那覇市よりわずか12km北の宜野湾市はかねてより横浜ベイスタ-ズのキャンプ地として地元民に根付いており、ベイスターズに歓迎の意を表する垂れ幕をここかしこで見ることが出来る。全日空のラグナガーデンホテルと沖縄コンベンションセンターに隣接する宜野湾市営運動公園はベイスターズタウンの様相を呈しており、サブグラウンドでは浜の番長ことエースの三浦大輔と正捕手の中村武が内野の個人ノックを受けて死にそうになっていた。しかしながら、どんなに苦しい状態であっても浜の番長のリーゼントは一糸乱れることはなかったのだ。

メイングラウンドでは若手を中心としたバッティング練習が繰り広げられていた。今年は最下位という屈辱を味わったものの、若手の中にきらりと光る素材がいないかどうか目を凝らして見て回ったのだが、皮肉なことに一番輝いていたのは山下監督の頭であったのだ!

宜野湾市から数キロ北上すると北谷(ちゃたん)という町に到着した。落合新監督という目玉を擁する中日キャンプは横浜と異なり、数多くのテレビクルーと報道陣でごった返していた。ここでもメイングラウンドでは珍プレーの元祖と言われる宇野勝バッティングコーチが陣頭指揮するフリー打撃が行われていたのだが、そこには落合新監督の姿は見られなかった。メイングラウンドのスタンドからふとサブグラウンドに目をやるとそこでは一塁手の捕球を中心とした内野守備の練習が行われており、多くのマスコミ陣がそこに集中していたので私もその場に向かうことにした。意外なことに落合新監督は打撃よりも昔取った杵柄である一塁守備の指導をオレ流に熱心に行っていたのであった。

ということで、セリーグの下位球団のキャンプ運営ノウハウを入手したFTBは、早速日本のプロ野球に見切りをつけ、余った時間を観光にあてることにした。世界遺産に認定されている琉球王朝のグスクおよび関連遺産群として沖縄本島西海岸に勝連城跡が君臨しているので見物に行って来た。勝連城の詳細についてはこれでも見といてくれ!http://www.churashima.net/shima/okinawa/isan/20010418/index.html

マサよ、君は沖縄本島最強のリゾートホテルに泊まったことがあるか?

ということで2000年の沖縄サミットの際にクリントン大統領御一行様も御宿泊された実績がある全日空ホテルズが展開するリゾートホテルの頂点に位置する万座ビーチホテルにチェックインすることにした。ANAマイレージクラブダイヤモンド会員にのみ提供されるANAホテルズの無料宿泊券が余っていたのでマサであれば¥30,000くらいかかるところを私はただで最上階の下の階の高級ルームを手配していただいていたのだが、この部屋は万座ビーチを一望出来るロケーションで万座ビーチに沈む夕日をテラスから鑑賞することが出来るのだ。

11月9日(日)

沖縄の海の美しさを一般市民に体感させるために2002年に鳴り物入りでオープンした沖縄美ら海水族館(¥1,800)が一周年を迎えていたので水族館フリークの私としてはどうしても見逃すことが出来ないと考え、降りしきる雨の中わざわざ名護市の奥に位置する海洋博公園まで車を転がすことにした。

これまで大阪の天保山にある海遊館やオーストラリアのシドニー水族館等各地のすばらしい水族館を体感したことがあるのだが、ここは海遊館とシドニー水族館の双方のすばらしいところを取り入れた形で運営されていた。美ら海水族館の目玉は何と言っても巨大なジンベイザメ2匹と複数のマンタ(オニイトマキエイ)が厚さ603mm(海遊館は300mm)のアクリルガラスで守られた水槽の中で悠然と泳いでいる様を真近に見ることが出来ることである。また、シドニー水族館のグレートバリアリーフのコーナーを彷彿とさせる生きたサンゴ礁さえも見物可能となっていた。

28年に渡って海洋博公園を代表するアトラクションとして君臨しているオキちゃん劇場というイルカショーを3年ぶりに見学したあと、さらに沖縄本島を北上し、JALのプライベートリゾートオクマを見学して私がひいきにしているANAの万座ビーチよりも面白くなさそうなことを確認して安心した後、やんばる野生動物保護センターを見学させていただいた。ここでは手に負えなくなったペットの猫をやんばるの森に放流してやんばるくいなが野猫のえさになっている悲惨な実態が科学的なデータで解明されていた。

次回は中国北部大連に進出する予定です。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥4,600

総レンタカー代 ¥9,690

総ガソリン代 ¥1,953

総宿泊費 ただ

協力 ANA、全日空ホテルズ、トラベルレンタカー

なるほどザFTB2003秋の祭典第3弾もっと北の国から

裏の仕事の忙しさにかまけて本職であるFTBのミッションをなかなか遂行出来ないでいたが、地元サンフランシスコから飛行機を飛ばして帰国したその翌日に晴れてFTBを再開することになった。ところで昨年の10月の紅葉シーズンには田中邦衛主演の人気フィクションドラマ「北の国から」の舞台となった富良野から北海道の美しい景色をお届けすることに成功したが、今回は田中邦衛でさえも足を踏み入れることを躊躇するであろうもっと北の国の稚内に約8年ぶりに足を踏み入れることになった。

10月25日(土)

午前9時55分発のANA571便、エアバスA321機は定刻どおりに羽田空港を離陸し、日本列島を北に向かって進路を取った。東北の山間部、室蘭、札幌の景色を眼下に見ながら、飛行機は定刻どおり昼前に稚内空港に着陸した。空港のニッポンレンタカーでいすゞジェミニ系の小型車をレンタルすると早速日本最北の地である宗谷岬を目指していた。

マサよ、君は間宮林蔵という日本を代表する探検家を知っているか?

林蔵を知らないやつは稚内へ足を踏み入れることを許されずそのまま樺太へ島流しにされるという特典付きツアーが存在するのかどうかは確認出来なかったが、江戸時代に樺太を発見した英雄である林蔵が間宮海峡に向かって船を漕ぎ出した地点には彼の偉業をたたえる記念碑が誇らしげに建立されていた。

林蔵が醸し出すノスタルジーを感じながらさらに東に車を転がすとついに日本最北端の地という看板が誇らしげに掲げられた北緯45度31分に位置する宗谷岬に到着した。宗谷岬を見下ろす高台は公園になっており、そこには祈りの塔や世界平和の鐘や子育て平和の鐘等のオブジェが建てられている。中でも祈りの塔は1983年にサハリン北西沖で起きたソ連ミグ機による大韓航空機撃墜事件の遭難者の霊を慰め、二度とこの悲劇を繰り返さないようにと世界の恒久平和を願い宗谷岬公園に建造されたものである。

宗谷岬からオホーツクの海岸線に沿って南に車を転がすとクッチャロ湖という風光明媚な湖に到着した。この湖はオオハクチョウやコハクチョウの飛来地として有名であり、時代が時代であったなら、スキー合宿に来ていたであろうチャイコフスキーも絶賛するほどのすばらしい白鳥の湖である。

由美かおるも所属していた西野バレエ団の練習風景のようなおびただしい白鳥の舞を満喫した後、道北を西に向かって横断し、サロベツ原野に到着した。ここは日本有数の湿地帯で原生植物が保護されており、宮ノ台展望台からは遠く地平線も見渡すことが出来るのだ。

道北のオホーツク海に面した道路はオホーツク夢街道と言われているのだが、日本海側は日本海オロロンラインと呼ばれ、初心者マークをつけたドライバーがオロオロしながら走るには最適な直線コースが提供されている。サロベツ原野からオロロンラインを通って稚内市内に入り、稚内市が誇る最高級ホテルである稚内全日空ホテルにチェックインして早速茶でもしばこうかと思っていたのだが、お湯がなかなか沸っかないのでいらいらしたので再び車を駈って日本最北端の温泉である稚内温泉童夢(¥600)に向かった。この温泉は地元客は割引料金で入湯することが出来、お湯がなかなか沸っかない稚内市内でも安心して入浴を楽しめる現実を確認して気持ちが安らぐ思いがした。

10月26日(日)

稚内の観光では決して欠かすことの出来ない稚内公園の中に開基百年記念塔(¥400)という稚内百周年を記念して建立されたファシリティが強風の中北の海を見下ろすように立っていたので立ち寄ることにした。この建物の1階、2階の部分は北方記念館という博物館になっており、北国の暮らしや日・ロ友好の歴史などを学習出来るように取り図られている。海抜240mの塔の頂上からは利尻・礼文島や宗谷岬、稚内港、遠くサハリンまで見晴らすことが出来た。

日本で2番目に高い稚内灯台を持つノシャップ岬が夕日景勝の地として人気を博しているのだが、この日は寒風がすさまじかったので地元の食堂でウニラーメン(¥1,500)を食ってとっとと撤収することにした。

感動稚内「九人の乙女」物語

日露戦争に勝利した日本は樺太の北緯50度以南を領土とし、その支配は太平洋戦争の終結まで続くことになった。樺太で郵便局の交換手の任務に就いていた九人の乙女がおり、彼女らは昭和20年8月20日、旧ソ連軍の侵攻を受けた樺太の地で最後まで任務を果たしたという。もう逃げられないと判断した最後には「皆さん、これが最後です、さよなら さよなら」という言葉を残して自らの命を断ってしまったそうだ。九人の乙女の慰霊碑は稚内公園に建てられており、観光客はこれを見て皆涙を流すと言われている。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,600

総レンタカー代 ¥9,870

総ガソリン代 ¥1,814

総走行距離 304km

総宿泊費 ¥6,000

今後のなるほどザFTB2003秋の祭典は沖縄、大連、羊の国等が控えております。

協力 ANA、全日空ホテルズ、ニッポンレンタカー

なるほどザFTB2003秋の祭典第2弾 in アモイ

日本有数のトラベラー / 紀(奇)行家兼優秀なサラリーマン兼投資家として活躍している私が今注目しているのは中国市場である。先週中国地方に行ったばかりであるとはいってもそこは所詮日本国内であったので今週は満を持して本場中国まで足を伸ばすことにした。今回の訪問先は中国南部福建省を代表する港湾都市であるアモイである。何故この忙しい時にアモイくんだりまで行かなければならないのか!?

それはまだ行ったことがなかったからだ!!

9月13日(土)

遅れて来た夏を満喫するわけでもあるまいが、3連休を海外で過ごそうとする素人トラベラーの異常大発生により成田空港第2ターミナルは異常なまでの賑わいを見せていた。私も人の波を押しのけながらANAのプレミアムカウンターに到着するとマサであれば15~6万くらいかかるところを私はマイレージを使ってただで入手していた成田-アモイ行きの便のチェックインを行った。

午前10時発のANA935便、B767-300ER機は約30分遅れで離陸し、4時間のフライトで1時間の時差を越えて午後1時15分頃アモイ国際空港に到着した。香港や台湾に近く、中国南部に位置する福建省のアモイは経済特区に指定され、数多くの外資系企業が進出している。空港からバス(6元)でアモイ駅に行く道すがらDELLやPanasonic等多くの外国企業の看板を目にしてここが豊富な労働力の提供により世界の工場として発展している姿をいやがおうでも目の当たりにさせられてしまった。

アモイ駅からダウンタウンの沿岸部まで距離にして数キロの道のりを酷暑の中歩くことにした。観光都市というよりも商業都市の色合いが強いアモイのダウンタウンにはほとんど見るべきものがなく、ミーハーな観光地しか興味のないマサであれば「ア、モ~イ~」という捨て台詞を吐いてとっとと日本に帰っていったことであろうが、この国に対する投資価値を厳しい目で判断しなければならない私はこの地の環境をつぶさに見て歩かねばならなかった。

福建省というと中国茶が有名であるが、やはりここかしこに茶葉や茶器を売っている店が多く、また、食い物屋の軒先においてもミニチュアのような茶器セットで午後のウーロン茶が楽しめるようになっていた。今日の宿泊地はJCBトラベルに予約させておいたキャンペーン価格のベストウエスタンホテルであったのだが、アモイではベストウエスタンはコンシュルジェもいる高級ホテルとして君臨しているのだ。ホテルの向かいに「吉永」という日本食屋が開業していたので試しに入って見ることにした。「吉永」ではバックグラウンドミュージックとしてチャゲアス、徳永英明、中森明菜、松田聖子等をランダムに流して日本人の望郷の念をあおっていた。

9月14日(日)

キャンペーン価格であるにもかかわらず朝食無料サービスの恩恵にあずかっていたのでホテル1階のレストランで中華、洋食、日本食混在の自助(セルフ)朝飯を食った後、アモイで中国を代表する観光地として君臨しているコロンス島を訪問することにした。アモイダウンタウン沿岸部にある渡し船乗り場から船に乗るとわずか10分程度でコロンス島の船着場に到着した。

コロンス島は面積わずか1.78km2の楕円形の小島で独特の景観を持つことから「海上明珠」「海上花園」と呼ばれている。1902年に公共租開地に定められ、イギリス、アメリカ、フランス、日本、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダなどの国が次々に島内に領事館、商社、病院、学校、教会などを設立し、一方で華僑が住宅や別荘を建て、電気や水道のインフラも整備されて発展したそうだ。そのような歴史的背景のためか島内にはおびただしい数の洋館が建てられており、今では島内住民2万3,000人あまりの住居となっているのだ。

日光岩(60元)というコロンス島の最高峰(92.68m)が島最大の観光スポットとして多くの観光客で賑わっているので訪問することにした。日光岩の元々の名前は晃岩といったそうであるが、ここから眺める景色が日本の日光山に勝るとも劣らないことから無理やり晃を分割して日光と拝命したそうだ。日光岩の最高峰からはコロンス島の様子が一望出来、また、対岸のアモイ島の港やビル群のすばらしい景色も堪能することが出来る。

というわけで、「ア、モ~イ~」という捨て台詞を吐いてすでに撤収してしまっているマサであれば、帰国後にコロンス島のすばらしさを知り地団駄を踏んで悔しがることになるのである。

夕暮れ時にアモイの繁華街である中山路をさまよっているといつしか巨大な市場の通りに紛れ込んでしまった。狭い道沿いにはおびただしい種類や数の魚やカニ、ラチされてつながれているアヒルや鶏、鳩、食用カエル、すでに毛がむしられてしまっている元アヒル等が所狭しと並べられていた。中国ではこのような市場の賑わいを見なければ中国に来たことにはならないということは常識だと言われている。

9月15日(月)

昨日、一昨日とTシャツに塩の縞模様が入るほど蒸し暑い中を歩き回ってしまったので今日はチェックアウト時間ぎりぎりの12時までホテルにしけこむことにした。その後ホテルのシャトルバスで通り沿いのおびただしい数の電子部品企業の看板を見ながら空港まで帰っていった。

午後2時45分のANA936便にて帰国

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,820(税金のみ)

総ホテル代 1,132元(1元=約¥15)

総バス代 6元

総タクシー 23元

総空港使用料 90元

総中国ビザ代 ¥0(9月1日より30日以内の観光であればビザは要らないことになったのだ!)

協力 JCBトラベル、ベストウエスタンホテルグループ

なるほどザFTB2003秋の祭典第1弾日本三景天橋立

今年は夏の猛暑を経験することなく秋を迎えてしまった今日この頃であるが、秋はトラベルの季節ということもあり、1998年にテキサス州オースティンで実行して以来の「なるほどザFTB秋の祭典」を復活させ、物足りなかった夏に向けるべきであったエネルギーと鬱憤を晴らすべき、楠田枝里子も納得するような過酷なツアースケジュールが組まれることになった。その第1弾として選ばれた訪問先は古代から文人、歌人、天皇らを引きつけてやまない京都の天橋立である。

実は1990年~1994年にかけて京都市民として京セラという会社の京都本社を仕切っていた私であったが、何故か天橋立を見物に訪れた実績を持っていなかったのだ。京都府は広く、北部は遠く日本海にまでおよんでいるせいもあり、また北部は北朝鮮の工作船の活動も活発な様子だったので避けて通らざるを得ない目的地でもあったのだ。

9月6日(土)

早朝7時10分のANA293便で目指した先は何故か山陰の鳥取空港であった。定刻8時20分に空港に到着し、草なぎ剛の推奨するトヨタレンカーでカーナビ付きヴィッツをレンタルすると日本海沿岸部を東に進路を取り、一路丹後半島を目指した。兵庫県豊岡市を抜け、京都府峰山町に差し掛かるといきなり阪神の快進撃に対する強い妬みの感情に襲われてしまった。実は税金対策で定評のあるサッチ-の旦那として有名な野村克也氏(現社会人野球シダックス監督)は京都の峰山高校の出身でテスト生として南海ホークスに入団を果たして身を成した話は阪神ファンであれば誰でも知っていると思うが、この地域では野村を退けて阪神監督に就任した星野に対する妬みと怨念が渦巻いているのである。

ノムさんのぼやきのようなエンジン音が何とかおさまると丹後半島の東の付け根に位置する天橋立にお昼頃到着することが出来た。ドライブインで地元の寿司定食を食ったあと、早速現地の調査に乗り出すことにした。日本三景天ノ橋立西国二十八番という肩書きを持つ成相山成相寺が天橋立を見下ろすようにそびえているので¥500の大金をはたいて参拝に行って来た。成相(ナリアイ)寺のキャッチフレーズは願い事必ず成り合う寺というものだが、実は身の毛もよだつような由来と歴史を持っているのだ。

成相寺を代表するファシリティとして「撞かずの鐘」が君臨しているのだが、これは1609年に地元のえらいおっさんが古い鐘に代わる新しい鐘を鋳造するために地元民に寄付を募っていた。しかしながら一回、二回と鋳造に失敗し、三回目の寄進を募った時、裕福そうな家の女房が「子供は沢山居るがお寺へ寄附する金はない」と険しい目の色で言いやがったそうだ。やがて鐘鋳造の日に大勢の人の中に例の女房も乳呑児を抱えて見物していたのだが、銅湯となったルツボの中に誤って乳呑児を落してしまった。このような悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色がこだましていた。しかし、耳を澄ますと子供の泣き声、母親を呼ぶ悲しい声が聞こえ、聞いている人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞くことをやめ、撞かずの鐘となったそうだ。ど~だ!身の毛がよだったろう!?

ということで成相寺の歴史とそこにまつわる民話を十分に堪能した後、展望台から天橋立を見下ろし、その後ホテルにチェックインし、天橋立温泉で疲れを取り、だらだらとした夜を過ごすことになった。

9月7日(日)

丹後半島の付け根から宮津湾(与謝の海)と阿蘇海をくっきり分けて砂洲が流れるように細長くのびる天橋立は長さ3.6kmにもおよぶ松並木に囲まれた絶好の散歩道を提供しているので早朝より散策をすることにした。知恩寺という由緒ある寺を起点に延旋橋という観光船を通す時に回転して進路を提供する橋を渡り、海水浴場や行き交う船やモーターボートを横目に見ながら40分ほど歩くと対岸に位置する傘松公園行きのケーブルカーターミナルに到着した。黄金の足腰を持つ私はケーブルカーで4分、リフトで6分かかる急坂を迂回路の階段を汗だくになりつつ登ると傘松公園の展望台に到着することが出来た。

マサよ、君は天橋立くんだりまで来て「股のぞき」をしないと天橋立に来たことにはならないことを知っているか!?

ということで、「股のぞき」で有名な傘松公園から逆さにのぞく景色は、マサに天に架ける橋の趣を呈しているのだが、御多分にもれずいかにも足腰の悪そうなじじいやばばあもおっぴろげた股の間に頭を突っ込んで「股のぞき」を満喫していやがった。また、ご丁寧にも展望台には「股のぞき」用の足型が示されており、スタンスまで決められているので世界の王が開発するであろう一本足股のぞきのような応用に走ってはいけないことになっているのだ。

傘松公園を下り、再度天橋立の松並木を引き返し、傘松公園の対岸のビューポイントである天橋立ビューランド(飛龍観展望所)行きのリフト(¥800)に乗り込んだ。このビューランドは展望所の他にチャチな遊園地という形式になっているのだが、この角度から見る天橋立はマサに龍が天に昇るようなダイナミズムを覚えさせるものである。

天橋立の全貌を満喫し、和泉式部顔負けの歌人になることに成功して満足したので丹後半島をぐるッと一周して北朝鮮の工作船が容易にカモフラージュ出来る入り組んだ海岸線と青い海を右手に見ながら、鳥取への帰路を急いだ。

マサよ、君は山陰地方にサハラ砂漠を髣髴とさせる乾いた大地があることを知っているか!?

というわけで、サンセットが迫ってきた時間帯に約10年ぶりの鳥取砂丘に到着した。山陰海岸国立公園が誇る鳥取砂丘は東西16km、南北2kmにおよぶ日本最大の砂丘である。この砂丘の砂のふるさとは中国山地であり、そこには広く花崗岩質の岩石が分布しており、これらが風化して真砂(マサ!)土と呼ばれるもろい岩の地層になった。この地層が侵食され、千代川によって砕かれつつ運ばれて鳥取平野に堆積し、日本海に流出した。日本海に出た砂は沿岸流に乗って海岸に打ち上げられ、強い北西風によって内陸に運ばれ、鳥取砂丘が出来上がったのだ。

尚、今回訪れた鳥取砂丘は長雨の影響が祟ってかそこかしこに草が生えており、十分に乾いた気分を満喫することが出来なかったのだが、初めてここに来たシロウトは一様に驚嘆の声をあげていた。また、砂丘ではラクダライディングが可能であり、ラクダと一緒に写真をとるだけでも金を取られてしまうのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥600

総レンタカー代 ¥10,500

総ガソリン代 ¥2,264

総宿泊費 ¥5,750

次回は第2弾高速中国編をお送りします。

FTBロッキー4ゴジラの逆襲

ロッキー 2000年4月フィラデルフィア美術館の階段を登りエィドリア~~ンと叫びながらガッツポーズを達成

ロッキー2 2000年10月コロラド州デンバーからロッキー山脈国立公園を制覇

ロッキー3 2003年5月フィラデルフィア美術館内部に侵入し、美術品を鑑賞しながらアメリカンドリームを実感

ロッキー4 2003年8月??????

例年より13日も遅い梅雨明けを迎え、日本列島に猛暑の季節が訪れる。ところで今まで公にはしてこなかったが、FTBは水面下でロッキープロジェクトを進行させており、今回その総決算と避暑を兼ねてロッキーの総本山と言われるカナディアンロッキーで山ごもりと修行を行い、調子の上がってこないゴジラが逆襲するように願をかけるという壮大なプロジェクトを遂行されることになったのだ!

8月2日(土)

NH006便、B777-300機は十分な追い風を受けることが出来ず通常よりも長い10時間もの時間をかけてロサンゼルス国際空港に午前11時25分に到着した。エアーカナダが運行するAC744便は午後2時45分に出発し、2時間50分程度のフライトで午後7時前にカナダのカルガリー空港に到着した。空港でフォードのトーラスをレンタルすると通常であればカーステレオから畑中葉子と平尾マサ!晃の歌が♪ラブレタ~フロ~ム、カナァ~ダ~♪と「後ろから前から」聞こえて来るはずであったが、この歌はカナダのどの場所かが特定されていない大雑把でいい加減な歌なので地元では相手にされていない様子であった。http://www.ne.jp/asahi/sgmori/mitarashiya/hirahata.htm

今日は到着した時間が遅かったのでHiltonHhonorsのポイントを使ってただで宿泊することの出来るHampton Inns & Suitesに引き払い、近くのベトナム料理屋で生春巻きと麺類を食って時差調整を行うべくテレビを見ながら夜更かしすることにした。

8月3日(日)

ユネスコの世界自然遺産に指定されているロッキー山脈国立公園を形成する公園群はバンフ、ジャスパー、クートネイ、ヨーホーの4つの国立公園とマウント・ロブソンやアシニボイン山などを加えた山岳エリアから成っており、これらを総称してカナディアン・ロッキーとして世界中からおびただしい数の観光客をおびき寄せている。

カルガリーの西128kmにバンフという町があり、ここがカナディアンロッキーの表玄関になっており、今回のFTBはここを拠点にして活動することになっている。カナダ国道1号線を西に走っていると道の両端からゴツゴツした岩山が迫ってくる。この岩山がマサにロッキーと言われるゆえんであり、その後しばらく道なりに進むとバンフ国立公園のゲートに差し掛かるのでここでCA$7/人を支払うと念願のカナディアン・ロッキーに晴れて侵入することになる。

ロッキーには氷河の溶水によって形成された無数の湖があるが、その中でも誰もが代表としてあげるのがレイク・ルイ-ズである。ビクトリア女王の娘ルイ-ズ王女にちなんで名付けられたこの湖はバンフの北西約55kmの場所に位置しているのだが、さすがにカナディアン・ロッキー観光のハイライトとして君臨しているため、駐車場には止めきれないほどの車があふれ返っていた。何とかイリーガルなポジションに車を押し込むことに成功し、生い茂っている針葉樹の林を抜けるとそこにはこの世のものとは思えないほどの幻想的な風景が目の前に広がっていた。氷河によって削られた細かい泥により、エメラルドグリーンに色付けされた湖の背後に標高3,464mのビクトリア山が立ちふさがり、その山肌には真っ白なビクトリア氷河が覆い被さっている。運が良ければ光と水面の微妙なあんばいにより、湖面に氷河が写りこむ様子を垣間見ることも出来るのだが、今日は残念ながらそのような光景を見ることが出来なかった。しかし、ここを訪れる観光客のすべてがこの景色に感嘆と驚愕の声を上げていた。

レイク・ルイ-ズの近くにモレイン・レイクという風光明媚な湖があり、ここの景色はカナダの20ドル紙幣の図案として採用されているという話を聞きつけたのでついでに見物に行って来た。テン・ピークスと呼ばれる山々に囲まれたこの場所は青空と白い雪と湖の緑のコントラストが非常に美しく、多くの観光客がカヌー遊びに興じていた。

夕暮れ時にバンフに戻り、予約しておいた★★★★ホテルのバンフパークロッジにチェックインすると近辺の探索に乗り出すことにした。バンフのダウンタウンから南に2kmほど外れた位置にバンフ名物のひとつであるバンフスプリングスホテルが中世の古城のいでたちで君臨しているので予約もしてないのに見物させていただくことにした。フェアモントホテルグループが総力を結集して建設したこのホテルはロッキーから切り出したと思われる石垣のようなレンガをふんだんに使用しており、内部にはアンティークな家具が絶妙に配置され、数多くの高級ショップが軒を連ねていた。

マサよ、君はバンフの目抜き通りであるBanff Avenueに君臨しているOKギフトショップの経営者を知っているか??

11PM、クイズダービー、世界まるごとHow Much、こんなものいらない等のテレビ番組を仕切り倒し、暴利をむさぼった大橋巨泉が業界をセミリタイアしてからすでに何年も経っているのだが、儲けた金で土産物屋を開業し、さらなる暴利を貪りつづけている。しかもOKとは大橋巨泉のイニシャルであるが、実はテレビに出ていたころおびただしい数のNGを出していたため、その腹いせにOKにしたのではないかと言われている。ところで財務省のマサが天下りをせずにセミリタイアを試みてもセミのように早死にするのは確実視されていることは火を見るより明らかであろう。

8月4日(月)

マサよ、君は太陽にほえろの殉職シーンのロケで誰が一番金を使っていたか知っているか!?

神奈川県警のような通常の日本の警察であれば犯人を追って海外に出ることはまずないが、石原プロがバックについている七曲署であればロッキー刑事を殉職させるためだけの目的でロッキー山中でロケを行った実績を持っているのだ。繁華街のため、ロッキー刑事にしっかりと守られたバンフをカナディアン・ロッキーの表玄関とするとジャスパーという町が裏玄関になる。バンフ~ジャスパーを結ぶ300kmのハイウエイのうち、レイク・ルイ-ズからジャスパーまでの93号線230kmは通称アイスフィールド・パークウエイと呼ばれており、このルート沿いにはロッキーを代表する山々と氷河、湖が次々と姿を現すのだ。

今回のツアーは日程的に余裕があるのでじゃ~スパっとジャスパーまで行って帰って来ようと思ったので車を飛ばしてロッキー最北部を目指すことにした。アイスフィールド・パークウエイのすばらしい景観に包まれながら3時間ちょっとのドライブで午後12時過ぎにジャスパーに到着した。ジャスパーのダウンタウンはバンフと比べて小じんまりとまとまっているもののその分静かな佇まいで自然環境と町並みが一体となっている様子であった。

ジャスパーのダウンタウンの南西7kmの地点に標高2,464mのウイスラー山が控えている。この山の頂上近くにある展望台へは30人乗りのロープウエイ(CA$20)を使って約7分でアクセス出来るので早速登頂してみることにした。地上の乗り場の標高は1,304mで標高差973mをロープウエイで登りきると2,277mの地点に達するのだが、気温も8℃ほど下がるので観光客は上着を羽織らないとこの場所では凍えてしまうのだ。展望台から頂上へはなだらかなトレイルが形成されており、老いも若きも澄み切った空気の中で元気にトレッキングに興じていた。ここからはジャスパーのダウンタウンが一望出来るのはもちろんのことカナディアン・ロッキーの最高峰であるロブソン山(3,954m)のピラミッド状の独立峰も目にすることが出来る。

バンフに帰る途中でアイスフィールド・パークウエイの名前の由来となっているコロンビア大氷原のビジターセンターに立ち寄り、数日後に行われるであろう本格的な探索を前にした下見と情報収集を実施し、その後夕暮れで観光客の数も少なくなっているレイク・ルイ-ズを一目見て撤収することにした。

8月5日(火)

バンフから国道一号線を西に向かって進むとアルバータ州からブリティッシュ・コロンビア州の州境に差し掛かる。ヨーホー国立公園はそのBC州側に位置する小じんまりとした国立公園である。ナチュラル・ブリッジという長年に渡って川床のライムストーンを削り続けたキッキング・ホース川が作り上げた自然のアーチがある。また、そのさらに奥の方へ車を走らせるとエメラルド・レイクというその名の通りのエメラルドを彷彿とさせる美しい湖がある。エメラルド・レイクの周辺にはトレイルが形成されており、1時間半ほどかけて一周して見たのだが、湖のエメラルド色の美しさはもちろんのこと、湖面に映し出された周囲の山々の風景により、湖はクリスタル状に輝いている感じがした。

ヨーホー川を源流とするタカカウ滝が400m近い落差で豪快に落ちているので武者修行にと思ったが、あまりにも水量が多く、水しぶきがかかってしまうトレイルまでの接近にとどめておいたのだが、マサを筆頭とする財務官僚は税金を使い込みたいという煩悩を排除するために是非ここで滝に打たれるべきだと思われた。

ヨーホー国立公園からバンフに帰る際に高速からバイパスに入り、自然の景色に見入っていると巨大な鹿であるエルクが道端で草を食っており、時おり顔を上げてこちらの様子をうかがっていた。さらに進むと薄汚い羊のビッグホーンが若芽をあさっている光景を目撃した。さすがに夏場のロッキーだけあり、動物たちも活発に活動している様子であった。

バンフの町外れのサルファー山の麓にアッパー・ホットスプリングスという温泉(CA$7.5)が開業しているのでバンフで是非ババンバ・バン・バン・バン・アビバ・ノンノンをやりたかったので入湯することにした。しかしながら、ここはサルファー山原産の硫黄を含んだ温泉であったもののそれ以上に塩素を添加しており、しかもここでは入湯者は水着着用、監視員付きの39℃の温水プールに成り下がっていたので「たまにはババンと」と思って大金を払ってここまでやって来た日本人観光客の満足のいくものとは思えなかった。

地球の北部に位置するカナダだけあり、さすがに夜9時半頃まで明るいので観光客はバンフの繁華街でぶらぶらしながらコーヒーやアイスを買い食いしていた。しかも標高1,380mに位置しているため、気温は涼しく景色や町並みが美しいので歩いているだけで楽しいのだ。とあるボウ川沿いの公園では正装した若者がソフトウエアの欠陥のような名前の楽器であるバグパイプを吹きながら小金を稼ぎ、バンフの夕べを彩っていた。

8月6日(水)

ここ3日間のロッキー山中での滞在により、ほぼカナディアン・ロッキーの全容が解明されつつあるので今日はツアーのハイライトに乗り出すべく再びアイスフィールド・パークウエイを北上することにした。空が真っ青に晴れ上がっているせいもあったのかも知れないが、2日前にジャスパーまで行ったときの状況とは打って変わってこの日のアイスフィールド・パークウエイから見上げる山々や氷河は光り輝いていた。とはいうもののツアーの資金が底をついてきたのでそろそろどこかで金を仕入れなければならない。ロッキーには無数の湖があるのだが、ほのぼのレイクといった消費者金融は存在しないので金はバンフの銀行のATMでおろしておく必要があるのだ。

高利貸しはしてくれない代わりに旅行者に深い印象を刻み付ける美しい湖が存在しているので立ち寄ることにした。巨大な鳥の足のような氷河であるクロウフット氷河の解けた水が流れ込んで出来た湖であるボウ・レイクは午前中の静かな時間帯であれば湖面が氷河や山々や青い空、雲を映し出し、人々をボウ然とさせるほどの異様を誇っており、金には換算出来ないほどの景色を提供してくれるのだ。

今回のツアーのハイライトであるコロンビア大氷原へのツアーの拠点となっているアイスフィールド・センターに昼過ぎに到着した。日本でコロンビアというと売れないレコード会社やお笑い芸人が参議院議員に転進した走りであるコロンビア・トップといった冴えない印象をぬぐい切れないが、北米大陸では発見者のコロンブスに敬意を表してコロンビアという敬称はアメリカの首都やスペースシャトルや雄大な自然にしか使われていないのである。

1892年からカナディアン・ロッキーのツアーを事実上支配しているブリュ-スター社が催行するコロンビア・アイスフィールド・スノーコーチツアー(CA$29.95)に参加させていただいた。アイスフィールド・センターのターミナルから大型バスに乗り込むと小太りのデイビッドの運転兼ガイドでスノーコーチと呼ばれる雪上車が停泊しているポイントまで連れて行かれ、そこからのガイドは中年女性のスノーコーチのドライバーであるタニヤに引き継がれた。タニヤに言わせるとブリュ-スター社は世界中にあるスノーコーチ23台のうち22台を保有しており、彼女は行く手にいきなり立ちふさがった32%の下り坂をスーパーローギアを使って安定した走行で巨大なスノーコーチを自在に操っていた。

コロンビア大氷原は325k㎡に及ぶ、北極圏以外では北半球最大の氷原であり、ここから流れ出す川は北極海、太平洋、大西洋に注ぐ、マサに大陸大分水嶺である。ブリュ-スター社のツアーで接近出来るのは大氷原から流れ出すいくつもの氷河の一つである、全長6kmのアサバスカ氷河の標高2210m地点である。ツアーの参加者はスノーコーチから降りて20分ほど氷河の上で過ごすことが出来、タニヤはマイペットボトルの水を携帯しており、いきなり氷河から流れ出している水を汲んで飲んでいやがった。ちなみに8月いっぱいであればツアーの参加者は無料でタニヤのサインがもらえるとのたまっていた。

コロンビア大氷原を十分に堪能した後、アイスフィールド・パークウエイを南下してボウ峠に到着した。アイスフィールド・パークウエイの最高地点(2,070m)であるボウ峠からはペイト・レイクを見下ろすことが出来、展望台では多くの中国人団体旅行客と一般白人旅行客が記念撮影のベストポジションをめぐって仁義なき戦いを繰り広げていた。

午前中に遭遇したボウ湖の美しさが忘れなれなかったので夕方再び立ち寄って見たのだが、湖面に立っているさざ波と光の影響のために景色の反写が見られず、全く異なる湖と化していた。

今日はバンフでのラストナイトとなるため、11PMでお世話になった若者(私はトゥナイト派だったのだが・・・)を代表して大橋に義理立てするためにOKギフトショップでメープルシロップとメープルシロップで作った砂糖を買ってやることにした。しかも合計金額はトゥナイトが始まる時間と同じ11.25ドルもしやがった。

8月7日(木)

ビクトリア氷河を映し出すレイク・ルイ-ズの姿を見ないとロッキーに来てもラッキーではないと言われているので早朝より、三たびレイク・ルイ-ズへと向かった。早朝の冷気を残している湖面は予想通り波立つこともなく静かな雰囲気をたたえており、そこにはくっきりとビクトリア氷河の姿が写し出されていた。尚、ボート乗り場が開業してしまう午前10時にはこの景色は消されてしまうのでボ~としているとロッキーのハイライトを見逃すことになるので時間選定には最新の注意を払うべきであろう。

バンフの近郊にも数多くの見所があり、今日は城のような形の山であるキャッスル・マウンテンやジョンストン川が大地を削り取って形成したジョンストン渓谷や冬季には人気スキー場と化すマウント・ノーケイからバンフの町を一望したりもした。さらに侵食によって形造られた不思議な土柱フードゥーやボウ滝、サプライズポイントから見下ろすバンフ・スプリングス・ホテルが森林と一体化している姿も堪能することが出来た。

バンフの市街にいくつかの博物館があり、数多くの化石等を展示している自然史博物館で未確認生物であるビッグ・フットに遭遇し、カナダ最古の木造建築で1903年に建立されたバンフ公園博物館(CA$4.-)ではグリズリ-等野生動物の剥製を目の当たりにすることが出来た。

ということで、将来マサの退職金を横領する私がセミリタイアして避暑地として生活することになるであろうカナディアン・ロッキーの下見が無事終了したのでカルガリーに帰る道すがら、1988年に冬季オリンピックが開かれたカナダ・オリンピック・パークをチラッと見てなぜスピードスケートの清水宏保がワールドカップの500mで世界新を出すことが出来たのかを解明するまでもなくカナダを後にすることになったのだ。

8月8日(金)

マサよ、君はゴジラの逆襲を生で見たことがあるか?

私は・・・見た!!しかもぎりぎりのところだった!!!

朝8時15分のUA便でカルガリーを後にしてシカゴ経由、合計5時間以上のフライトではるばるニューヨークのラガーディア空港に午後5時半頃到着してすぐにレンタカーをピックアップし、ヤンキースタジアムを目指した。

今日は知っての通り、日本人の日本人による日本人のための頂上決戦の第3ラウンドがここニューヨークを舞台にして繰り広げられるので急がなければならなかったのだが空港からスタジアムまでのルート選択を誤ったため、渋滞にはまっていたヤンキースタジアムを目の前にして無常にもラジオからプレーボールの声が聞こえてしまった。しかも1回の表にヤンキースが最大のピンチを迎えるイチローとの対決も初球を打ってあえなく凡退してしまった様子であった。

あらかじめ予約していたライトスタンドの後方にたどり着いたのは2回の表の攻撃でマリナーズが1点を先行したところであった。2回の裏ヤンキースの攻撃は5番ゴジラからの打順であった。初対決となるフランクリン投手の初球ストレートを叩いたゴジラの打球はラインドライブの低い弾道でライトポール際に向かって一直線に飛んでいった。あまりの打球の速さに俊足のイチローでも追いつくことが出来ず、打球はそのままライトスタンド最前列のぎりぎりのところに飛び込む第14号のホームランとなったのだ。しかし、昼飯を食ってないせいでスタジアム周辺のホットドッグ売り場で立ち止まり、あと数分スタジアム入りするのが遅れていたらこの逆襲の場面を見落とすことになり、今回のツアーの意味がなくなってしまうところであったのだった。

ところで試合の方はゴジラの逆襲ホームランで同点に追いついたヤンキースが6回にニック・ジョンソンの満塁ホームラン等で大量5点を奪い、接戦にもつれながらも9回に守護神のマリアーノ・リベラがマリナーズの反撃を退け9対7でヤンキースに貴重な勝利をもたらしたのであった。今日の客の入りはチケットは完売状態だと思われるが、ダフ屋の営業努力が足りなかったためかところどころに空席が目立ち、入場者数は5万2千人程度であった。

試合終了後駐車場から車を出すために1時間ほど待たされた後、夜11時過ぎにヤンキースタジアムのあるガラの悪いブロンクスからマンハッタンを抜けてニュージャージー州ラガーディア空港のヒルトンホテルを目指して車を走らせていた。ヤンキースタジアムでは観客席のブルーが目に焼き付いていたのだが、ブロンクスからアッパーマンハッタンは黒の世界だった。時おり車のヘッドライトさえも映し出すことが出来ない黒い人影が、車の前や脇をすばやくすり抜けていく気配を感じるのだが、彼らはインラインスケートを履いた黒人青少年たちであった。さらにマンハッタンを南下するときらびやかなネオンが目に飛び込み、人と車で渋滞状況に陥ってしまう場所がある。ここはいわずと知れたブロードウエイのタイムズスクエア近辺である。このあたりから回りを走っている車はすべてイエローキャブになり、割り込みや急な車線変更に対応出来なければ生きていけない世界に迷い込むことになる。さらにこのまま朝を迎えてしまうと町は八神純子の歌うパープルタウンと化していくのであろうと思われた。

8月9日(土)

アメリカの国立公園管理局の配下にあるエジソンのラボラトリーがニュージャージーにあるので見物に行って来たのだが、長期メンテナンスの最中で残念ながら発明のノウハウを取得することが出来なかった。出来れば東京特許許可局に発明内容を登録してロイヤリティーで収入を確保してセミリタイアを実現したいと思っていたのだが・・・

今日の頂上決戦第2戦は午後1時25分にプレーボールとなった。試合が始まる直前に赤いヤンキースの帽子にJTBのマークを付けたツアーコンダクターの男女に引率された松井・イチロー対決見物ツアーの一団が大挙してFTBである私の周辺を取り囲み、あたりは東京ドームのライトスタンドかと見まがえるような状態に陥ってしまったので彼らのペースに巻き込まれないように細心の注意を払って試合を見なければならなかった。

ところで試合開始前にゴジラのバッティング練習を目撃することが出来た。5月に見たときと打って変わって明らかにオーバーフェンスの数が増えていた。3球に1球くらいの割合でスタンドインする打球はたまにアッパーデッキまで達していたのだが、同じ組で打っているジェイソン・ジオンビーの打球はほとんどがアッパーデッキを直撃していた。これもひとえに食い物の差ということだろうか?

日本人のために行われた今日の試合の主役はイチローであった。ヤンキースはマリナーズの若手スターターのギル・メッシュに完璧に押さえ込まれ、ニック・ジョンソンのホームランによる1点しか取れず、ゴジラもチームヒット数3本のうちの1本を打ったにとどまっていた。一方のイチローはヤンキースの左腕アンディ・ペティットに苦戦して1,2打席とも凡打に終わっていたのだが、3打席目に待望のライト線ツーベースを放ち、次打者のバントとブレット・ブーンの犠牲フライにより、勝ち越しのホームを踏んだ。4打席目のイチローはゴジラの守るレフト前にしぶとく落とすポテンヒットで打率を稼いだのだが、レフトスタンドのヤンキースファンは「Matsui, you are a bad man!」とイチローの打球を取れなかったゴジラを痛烈に批判おり、ニューヨークのファンの厳しさを目の当たりにしてしまったのだ。

大魔人佐々木の負傷によりマリナーズの守護神として君臨している長谷川滋利が1点差を守るべく、9回のマウンドに立った。5万4千人の大観衆が発する「Let’s go Yankees!チャ、チャ、チャチャチャ」に動揺してヒットを1本打たれたものの落ち着いたマウンドさばきで後続を討ち取り、今日はマリナーズが見事に雪辱を晴らしたのであった。

8月10日(日)

ニューアーク空港から早朝便でワシントンDCに飛び、飛行機の予約の都合でDCからANA001便で成田に帰国し、そのまま流れ解散。

FTBサマリー

総飛行機代 \230,220

総レンタカー代 CA$534.23 + US$195.44

総ガソリン代 CA$117.05 + US$12.00

総宿泊費 CA$116.48 + US$160.46 +

総国立公園入場料 CA$21.00

(CA$1 = \94.71)

FTBレンタカートラブル情報その2

1998年8月にマサ等を率いてヨセミテツアーを敢行した際にフォードトーラスのタイヤがパンクしてしまったのをトラブルその1とする。当時代表であった私の冷静な判断により、JAFの救助員顔負けの修理能力でタイヤ交換を行い、無事サンフランシスコに帰還することに成功した。今回はカルガリーでレンタルしたフォードトーラスでアイスフィールド・パークウエイを疾走していた時に対向車が跳ね上げた小石がフロントガラスを直撃し、クラックが入ってしまった。これは人並みはずれた動体視力と反射神経をあわせ持つ私であっても避けられない出来事であった。正直者の私は返却の際にハーツの従業員にこのトラブルを報告したのだが、彼は状況を見るなり、「Who cares ?」と言って見逃してくれたのだが、後で請求書が回ってきたりしないだろうか??

今後の予定:秋は旅行のシーズンということで「なるほど・ザ・FTB秋の祭典」が再開されるかも知れません。