FTB青春アミーゴスペインとその他もろモロッコツアー

つい一週間前の古代エジプトツアーによりついにアフリカ大陸への扉をこじ開けることに成功したFTBであるが、その余韻も覚めやらぬうちに新たなツアーが企画され、実行される運びとなった。前回はアラビア半島との境界であるエジプトを制覇したのだが、今回はイベリア半島の南岸、地中海のジブラルタル海峡を挟んだ対岸に位置するモロッコに上陸する計画が立てられたのだ。

12月29日(木)

ボンジュール マサよ! サバ(鯖)!!

ということで、ANA205便にておなじみのパリ、シャルル・ド・ゴール空港に定刻午後4時半頃到着し、フランスへの入国を果たすとすかさずバスでターミナルを移動し、スペインが誇るイベリア航空IB3433便に搭乗し、スペインの首都マドリッドに到着したのは午後8時半を過ぎた時間帯であった。

空港で東京メトロを彷彿とさせる地下鉄路線図を入手すると、早速空港から地下鉄(1ユーロ)でマドリッドの中心部を目指した。午後9時を回った時間にPlaza de Espanaという市の中心部に降り立ったのだが、マドリッドは日本人を狙った強盗事件が頻発しており、♪シ~、Si♪と言って寄ってくる青春アミーゴ系の若者が集団で首絞め強盗などをプロデュースしているので注意しなければならないという情報を得ていたので今夜はおとなしく☆☆☆ホテルのBest Westernに引き払ってフテ寝をすることにした。

12月30日(金)

早朝より地下鉄でマドリッドの中央駅の1つであるアトーチャ駅に向かった。加藤茶をほうふつとさせるアトーチャ駅は列車でスペイン各地に旅行する輩が全員集合する場所であるのだが、屋内植物園のような吹き抜けの待合室が非常に印象的である。

8時15分発のアルへシラス行き列車で6時間程車窓に広がる広大なスペインの風景を眺めていると午後2時半頃目的地に到着した。列車を下車すると早速フェリーのチケットを販売している数ある旅行代理店の1つに飛び込みモロッコ行きのチケット(32ユーロ)を入手した。EuroFerrysが運行するカーフェリーは定刻4時に大きな汽笛とともにアルへシラス港を出港し、左手に巨大なジブラルタルロックを眺めながら、2時間半の船の旅がスタートした。

出航から10分くらい後に船内のPolice officeでモロッコへの入国手続きをすまし、1時間の時差を超えて午後6時前に船はモロッコの海の玄関口であるタンジェ港に入港した。港内の銀行で円をモロッコの通貨であるディラハムに両替し、暗くなったタンジェの町を軽く散策しながら、とあるインターネットカフェで今日宿泊する予定のホテルの位置の確認などを行った。

Hotel Ibis Tangerはダウンタウンから15km離れた空港近くに位置しており、公共交通機関でアクセス出来ないため、タクシーを見つけることにしたのだが、モロッコのタクシーシステムは市内の近距離を走るプジョー系のプチタクシーと遠距離まで行く、乗合ベンツタクシーであるグランタクシーに棲み分けされていることが確認された。ホテルへはグランタクシーしかなく、相乗りするモロッコ人もいなかったので仕方なく、DH150もの大金を支払ってホテルに移動し、モロッコに来たという哀愁を噛みしめながらホテルのレストランで地ビールである「カサブランカ」を飲みながら哀愁のカサブランカを歌ってモロッコの第一夜を過ごしていた。

12月31日(土)

早朝よりグランタクシーでタンジェ駅に移動し、窓口でレシート仕様の切符を購入し、9時発の列車でモロッコが誇る世界遺産都市フェズを目指した。途中Sidi Cacemという駅で列車を乗り換え、地中海性気候がはぐくむ雄大な遊牧風景を見ながら合計5時間半の汽車の旅で念願のフェズに到着した。

駅前のHotel Ibisにチェックイン後、軽くフェズの見物に乗り出すことにした。フェズの町は3つに分かれており、旧市街のフェズ・エル・バリ、フェズ・エル・ジェディド、新市街で構成されているのだが、手始めにフェズ・エル・ジェディドから様子を探っていくことにした。街路樹のオレンジがたわわに実っている道を歩いているといつしか城壁に行く手をはばまれてしまったので大きく迂回してスパ門から旧市街に侵入した。

気が付くと迷路の中をさまよっており、まとわりつく少年が道案内を買って出たが、金を要求されると癪なのであえて少年が示す道の反対方向に進んでいくとますます道がわからなくなってきた。動物的勘により何とか方向感覚を取り戻すと、フェズ・エル・ジェディド通りというにぎやかな通りに紛れ込んでしまった。ここは衣料品のアーケード街になっており、多くの原住民が大晦日の年末商戦にいそしんでいた。

さらに迷路を奥深く進むと観光バスとおびただしい数のプチタクシーが停車している美しい門の前に到達した。門の奥には入り組んだ通路の脇におびただしい数の店が営業しており、客と店主と物資の輸送手段である馬やロバの織り成すモロッコ独特の光景が展開されていただのであった!

1月1日(日)

ハッピー ニュー マサよ!!!

ということで、昨日遭遇した雑然とした環境は何だったのかということを昨夜のうちにレビューし、再びその喧騒に足を運ぶことにした。まずは欧米観光客と一緒に美しき王宮の正門を見上げた後、世界遺産であるフェズ・エル・バリに向かった。フェズの旧市街メディナのフェズ・エル・バリは9世紀の初めにモロッコの最初のイスラム王朝、イドリス朝の都となり、そのときに造られた町が1000年を超えて今なお、市民の生活の場所として生き続けている所なのだ。

昨日入門して中の雰囲気に圧倒された門はブー・ジュルード門というメディナの入口にあるフェズ最大の門であることをすでに学習していたのであらためて幾何学文様によって彫刻された青色や緑色で彩られた門をくぐって見ることにした。世界最大、最強の迷路であるフェズ・エル・バリには2つの大通りがあり、そこに無数の枝分かれした袋小路がつながっているのだ。道は人が2人並べばいっぱいになるほどの狭さで日干し煉瓦と高い土壁により、昼間でも日の光が遮られている。道の脇の店は場所により、衣料や工房や食品売り場に分かれているようで、魚屋の前では切り落とされるイワシの頭待ちの猫が数匹正座している様子を垣間見ることが出来る。

メディナを颯爽と闊歩している私に対して様様な土産物屋から郷ひろみでもないのに容赦なく♪ジャァパ~ン♪という歓声が浴びせられるのであるが、その♪出会いはァ、億千万のむなさわっぎぃ♪を感じさせるものだったので立ち寄らずに人間模様の観察だけにとどめておいた。フェズ・エル・バリも奥の方に入り込むと染色された牛皮を背負ったロバとすれ違ったり、強烈な異臭を放つ区域がある。ある原住民がいきなり私の腕をつかんで「NAMESI~GA~WA~」「ナメシ皮~」と叫んで工房に引き込もうとしたのだが、なめされる恐怖を覚えたのでモ~という捨て台詞を残してその場を後にした。ちなみに川べりにはなめされたばかりと思われる牛革が数多く干されていた。

フェズ・エル・バリの迷路で閉所恐怖症の逆療法に成功したのでフェズ駅から約1時間の汽車の旅で古都メクネス(世界遺産)に移動した。メクネスは今も続く現モロッコ王朝アラウィー朝が17~18世紀に都と定めた街である。フェズに比べ建造物は新しく、色鮮やかでメディナも整然としており、王都の入口に構えているマンスール門は北アフリカで最も美しく、有名な門として君臨しているのだ。

堅く閉ざされているマンスール門の向こうにモロッコ少年達が草サッカーにいそしんでいるエディム広場があり、しばらく歩くとリフ門に到着した。この門を抜けると両側をどっしりとした高い壁で囲まれた直線の道が現われた。この長い道は通称「風の道」と呼ばれ、又三郎系の強い風が吹き抜けていくのである。

壮大な王都建設を夢見て、その完成を待たぬままこの世を去った王ムーレイ・イスマイルの墓が安置されているムーレイ・イスマイル廟を訪問させていただいた。ここはマンスール門と同様、メクネスで最も重要な見所として君臨しており、美しいモザイクやしっくい彫刻のすばらしさを堪能出来るイスラム文化の傑作である。

メクネスからフェズに戻り、フェズ駅のレストランで夜飯を食うことにした。適当にカバブ系の肉料理を発注したのだが、小太り系のウエイトレスが頼みもしないのに安物系のミネラルウォーターやパンやサラダを次々と運んできやがった。最終的に金を払う段になって、ペテン師づらした店主がマイルドなボッタくり値段を要求し、モロッコ通貨のディラハムがなくなってしまったので「ユーロでどや?」と言ったところ「両替出来るぜ!」という返事だったのでユーロで支払うことにしたのだが、両替マジックによりマイルドから通常のボッタくりプライスに値上げされたような屈辱感を覚えさせられた。

1月2日(月)

「こんな夜中にどこいくねん!?」というようなHotel Ibisのフロント担当にチェックアウトを申し出ると午前1時半にホテルを出て1時50分のタンジェ行き夜行列車に乗車した。夜行列車とはいえ、寝台ではなく昼間走っている列車が単に夜走っている代物なので、6人乗りの一等車両のコンパートメント内には白人旅行者達が無理な体勢で睡眠にいそしんでいた。

午前7時過ぎにタンジェ駅に到着し、出勤体制に入ったモロッコ人とともに朝日を浴びながらタンジェのメディナを目指した。フェリー乗り場を見下ろす高台に位置するカスバ門からはジブラルタル海峡を隔てたスペインの山並みを見渡すことが出来、憂いを帯びたモロッコ人イスラム教徒と犬が絵のような景色に見入っていた。

迷路や軽いボッタくりその他もろもろの貴重な経験をさせていただいたモロッコを後にすべく正午発のフェリーに乗り込むと午後3時半頃にスペイン、アルへシラスに戻って来ることが出来た。すでに乗るべき列車に乗り遅れていることが発覚したので仕方なくアルへシラスを観光し、アンダルシア気分を満喫することにした。

とりあえず駅と港のほど近い場所に中心街であるセントロがあったので、小高い展望場所から夕日を浴びているジブラルタルロックを眺めながら感慨に耽ることにした。夕飯時になり、港の近くのスペイン料理の飯屋に入り、スペイン語で書かれた意味のわからないものを発注すると美味なシーフード系のスープと車海老系のエビを辛く揚げたものが出てきたのだが、何故か付け合せのパンが高いという軽いボッタくり感を味わってしまった。

午後9時15分発マドリッド行き寝台夜行列車に乗車すべくアルへシラス駅に戻ると自分の肉体に匹敵するサイズのバックパックを抱えた欧州人ギャルペア等の旅行客に混じりながら列車待ちをしていた。乗車券込みでわずかEURO46.5の2等寝台、6人寝のコンパートメントの中段に潜り込むとほどなくして青春アミーゴ系の若者に取り囲まれてしまったのだが、彼らは夜中に♪シ~、Si~、お~れたちはいつで~も♪といった唄を歌ってドンちゃん騒ぎをすることもなかったので割と平和に寝台車内生活を満喫することが出来たのであった。

1月3日(火)

列車は11時間以上の時間をかけて午前8時前にマドリッドチャルマンティン駅に到着した。早速地下鉄で市の中心部に移動し、プラド美術館(EURO6.0)を目指した。大橋巨泉も推奨する世界的に有名なプラド美術館の見所はスペインが誇るグレコ、ベラスケス等の巨匠が描いたスペイン絵画であるが、特にゴヤの作品に関しては様様な絵画がチャンプル風に展示されたひとつのコーナーとして観光客の目を引いていた。

マヨール広場というスペインを代表する広場にいつのまにか入り込んでいたのだが、ここでは年末年始のイベントが行われたであろう会場設定の撤収作業が行われていたのでそのまま私もスペインから撤収すべく地下鉄でマドリッド国際空港に引き払い、そのまま流れ解散と相成った。

ということで、前回のエジプト、今回のモロッコと立て続けに北アフリカを制覇した訳であるが、これらアラブ諸国ではサンコンさんやニカウさん、ブッシュマン、クンタ・キンテ、ルーツ等の典型的なアフリカ人に遭遇することが出来なかったので次回はもっと深いアフリカに行かなければならないと思われた。

また、モロッコ最大の経済都市であるカサブランカへも行けなかったかわりにFTBがジュリーと共同開発している♪TOKIO♪発♪ダーリング♪以外の♪危険なふたり♪で行くモロッコ♪カサブランカダンディ♪現地観光と帰りは♪勝手にしやがれ♪、ツアコンが♪寝たふりしてる間にぃ~、出て行ってくれ~♪ツアーを財務省の慰安旅行向けに提供したいと考えている。オプションとしてトリプルボギーをたたいた後に♪ボォギ~、ボォギ~~、あんたの時代はよかったァ~♪と泣き言を歌っている三流ゴルファー見学ツアーも考えられよう。移動バスのカラオケ大会では盛り上がることまちがいなし!!http://music.yahoo.co.jp/shop?d=p&cf=52&id=233731

マサよ、必ず実行しろよ!!!

FTBサマリー

総飛行機代 \197,560

総フェリー代 64ユーロ

総スペイン国鉄代 100.5ユーロ

総マドリッド地下鉄代 4ユーロ

総モロッコ国鉄代 DH314.5(DH1=\13程度)

総モロッコバス代 DH5.0

総グランタクシー代 DH300

総宿泊費 64.2ユーロ、DH1,095

協力 ANA、イベリア航空、ルフトハンザ航空、スペイン国鉄、Tanger – Algesirasフェリー会社モロッコ国鉄(ONCF)www.oncf.org.ma/、Best Western、Hotel Ibis

FTBギザギザハートのピラミッドツアー in エジプト

♪ちっちゃな頃から悪がきで♪あったチェッカーズと異なり、ちっちゃな頃はチッチキチ~!だった私であるが、♪ナイフみたいにとがっ♪た鋭さは今も変わっていないので今回は頂点がとがったものを目指すことを検討していた。折りしも日本列島は寒波に襲われ、寒がりであるはずのマサであれば100円カイロが手放せない天候が続いているが、スケールの大きい私はいっそのことカイロまで飛行機を飛ばして暖を取ることに決定し、FTB史上初のアフリカ大陸に繰り出すツアーが決行されることになったのだ!!

2005年12月15日(木)

JALのマイレージが余っていたのでマサであれば¥6~7万くらいかかるところを私はただで搭乗することが出来るJAL719便、B777-200機シンガポール行きは定刻通り午前11時に出発すると約7時間程度の快適シートテレビ付フライトでチャンギ国際空港に午後5時過ぎに到着した。シンガポールから乗り次ぐべきフライトの時間は6時間ほど先だったにもかかわらず、今回はシンガポールへの入国は果たさずに満を持して世界のベストエアポートと言われるチャンギ国際空港の探索に乗り出すことにした。

さすがに貿易立国シンガポールの国際空港だけあって空港内にはトランジットホテルやシャワー、ジャグジー、ジム、礼拝用ファシリティ、コンビニ等至れりつくせりの設備が確認されたのだが、中でもインターネットに関してはそこかしこに無料で使用出来るPCが数多く設置されており、貧乏旅行者から小金を巻き上げて低スピードのネットアクセスしか提供しない成田空港との格の違いをいやがおうでも見せつけられてしまったのだった。

シンガポール航空のトランジットカウンターで搭乗券を入手し、ラウンジで軽飯を食った後、午後11時過ぎに待望のシンガポール航空が運行するB777-300機に搭乗する機会を得ることとなった。

12月16日(金)

まず機内で私を迎えたくれた方々は厳しいオーディションを勝ち抜いたであろう悩殺ボディコン系制服もまぶしいアジアンビューティ系のスチュワーデス群であった。また機内誌の情報によると制服の柄の色によりスチュワーデスの序列があることが確認されたのだが、何はともあれSQ492便ドバイ経由カイロ行きは定刻より多少遅れたことも少しも気にならずに浪漫飛行へと旅立って行ったのだった。

アラブ首長国連邦のドバイ国際空港に着いたのは深夜の3時過ぎであった。ここでクルーの交替等のためにカイロに行く乗客もすべて降ろされたので、空港内で夜を明かすべく、ふて寝を決め込んでいるアラブ人等を踏まないように注意しながら45分程の時間を過ごし、再び搭乗するとそこにはさらにパワーアップされたアジアンビューティ軍団が待ち構えていた。

シンガポールを出発してトータル15時間弱でついにカイロ国際空港に到着することが出来たのは午前6時半ごろであったのだが、とり急ぎ入国前に銀行に寄り、¥をエジプトポンド(LE)に両替すると同時にビザ(LE90.72)を入手するとついにアフリカ大陸への一歩を踏み出すことに成功したのであった。とは言ってもいたるところで工事が行われているエジプト空港内の勝手がわからなかったのでとりあえず第二ターミナルから第一ターミナルへバスと徒歩で移動し、エジプト航空のカウンターで今回のツアーに必要な国内線のチケットを購入することにした。

空港から市内までバス(LE2.0)が出ているのでしかるべきバスに乗り込むと40分くらいでカイロ市の新市街のタフリール東バスターミナルに到着した。カイロに来てまず実行しなければならないことはエジプトの歴史を学習することであったので世界に誇るエジプトの秘宝を展示しているかの有名なエジプト考古学博物館(LE40)に入館させていただくことにした。この博物館は概観は2階建てでこぢんまりとしているが、中にはファラオの墓から掘り起こしてきた金銀財宝や棺やミイラがところ狭しと飾られているのだ。中でもトゥトアンクアムン(ツタンカーメン)の黄金のマスクと財宝は別格の扱いを受けており、専用の展示室には仮面舞踏会のように黒山の人だかりが絶えないのであった。

エジプト考古学博物館での3時間の滞在でエジプト5000年の歴史を会得することに成功したのでナイル川に架かる橋を渡って今日の宿泊先であるカイロ・シェラトンに向かった。同ホテルでは上客である私のためにナイルビューのスイートルームへのアップグレードを提供してくれたので今日は長旅の疲れをとるために早々と休ませていただいた。

12月17日(土)

午前6時15分発のエジプト航空85便ルクソール行きに搭乗するために午前4時に起床し、そそくさとシェラトンリムジン(LE140)で空港に向かい、機上の人となった。約1時間ほどのフライトでルクソール国際空港に到着するといきなり田舎者プライドを表情に滲ませたアラブ服を着た原住民タクシー運転手に捕まってしまったのでおんぼろタクシー(交渉後LE40)でルクソールのダウンタウンを目指すことにした。

車内で運転手の執拗な観光の押し売りをのらりくらりとかわしながら何とか最初の目的地であるルクソール神殿に到着するとそこで首尾よくエスケープして神殿(LE35)の見学に乗り出すことにした。紀元前1000年以前に建立されたこの神殿の有名なストーリーは2本建っていたオベリスクの内の1本はフランスに寄贈され、現在パリのコンコルド広場におっ立てられているということだ。

ルクソール神殿からナイル川に沿って1kmほど北上したところにカルナック神殿(LE40)がある。カルナックのいくつかの神殿の中でもアムン大神殿はエジプト最大規模の遺跡で大列柱室という高さ23m、15mの2種の巨柱が134本並んでいるスペースが圧巻である。尚、アムン神はもともと小部落でしかなかったテーベの地方神だったのだが、中王国時代からテーベが発展するにしたがい、太陽神ラーと結合して国家の最高神となったのであった。また、神殿内にはその周囲を回ると願いがかなうと言われている特大のスカラべ(ふんころがしの像)が鎮座しており、多くの観光客グループがぐるぐるしていたので私もマサの天下り先が税金無駄使いの不正の温床にならないように願をかけておいた。

昼飯時になったのでダウンタウンに戻り、庶民的エジプト料理を味わうためにRestaurant El Tawhidという壷焼き専門店でビーフシチュー系の煮込み料理セット(LE15)を発注するとサラダとライスとパンがついてきたので蝿がブンブン飛び回る音をバックグランドミュージックに空腹を満たし、その後今回の宿泊地であるルクソールヒルトンに引き払い、部屋からナイルの眺めを見下ろしながら古代エジプト時代のファラオの妄想にふけることにした。

12月18日(日)

ルクソールの観光地は巨大神殿を要するナイル川東岸と王墓とモニュメントが点在する西岸に分けられるのだが、今日はルクソール観光のハイライトである西岸を攻めることにした。ルクソール神殿の目の前にローカルフェリーの船着場があり、そこからナイル川横断フェリー(LE2.0)に乗船するとほどなくしてしつこい観光勧誘野郎に捕まり、仕切りにタクシーでの遺跡巡りを薦められたのだが、今回はFTBが開発した「砂漠ダイエット」を実践するために徒歩で観光スポットを回ることにした。

フェリー乗り場から西3kmの各種遺跡のチケット売り場に向かう途上にメムノンの巨像が2体青空を切り裂くようにそびえているので軽く見上げた後、数種類の遺跡チケットを購入すると早速吉村作治とその早稲田隊が仕切っている位置的には神殿の西北にあたる王家の谷(LE55)を目指した。数多くの観光バスやタクシー、自転車等に抜かれながら乾いた殺風景な砂漠道を行けども行けども目的地になかなか到着しないのもファラオの呪いのせいか?と考えながら数時間歩くと命からがら王家の谷に辿り着いた。

ファラオたちはそもそも盗掘を防ぐために奥深い谷に死後の安住の地を求めたのであるが、皮肉なことにここにある百以上の墓のほとんどは盗掘者の餌食となってしまっているのであった。現在公開されている墓は60ほどあり、入場チケットで3つの墓の中に入ることが出来るのでラメセス3世、トトメス3世、ラメセス1世の墓に侵入し、内部に残されている壁画や象形文字を堪能させていただいた。

王家の谷の中で唯一盗掘を免れ、その金銀財宝の数々はエジプト考古学博物館の2階の半分を占めているツタンカーメンの墓(LE70)が別格の扱いで観光客を待っているのでお邪魔させていただくことにした。この墓は王家の谷の中でも質素で狭い部類のものであるが、その奥には棺があり、今でもツタンカーメンが呪いをかけながら眠っている様子が確認出来た。

谷は山とセットになっているので「砂漠ダイエット」のハイライトとして王家の谷を一望すべく山登りを実行し、頂上から王たちに別れの挨拶をすると隊列して歩いている黒ヤギを横目に逆方向の谷に下ることにした。下りきった崖を背景にして巨大な建造物が佇んでおり、97年のイスラム原理主義過激派のテロにより日本人新婚旅行客を含む多くの犠牲者を出したハトシェプスト女王葬祭殿(LE20)だと確認されたので入場し、女王とともに犠牲者を奉っておいた。

その後廃墟と呼ぶにふさわしいラメセウム(ラメセス2世葬祭殿、LE20)で幼い姉妹の手作りみすぼら土産押し売り攻撃を受け、代わりに私からの日本製ボールペン土産でかわしながらも調査を続け、さらにデール・イル・マディーナ(LE20)という王家の谷を建設した労働者の町の遺跡を軽く見物して西岸を後にしたのだった。

日もとっぷり暮れるとカルナック神殿で音と光のショー(LE55)が各言語で上演されるというので7時45分からの英語版に参加することにした。このショーは遺跡をライトアップして冷え込んだ観光客に古代エジプトの話をサウンドとともに語りかけて金を巻き上げるという催しものであることが確認されたのだが、体験的に一度見れば十分な代物であろう。

12月19日(月)

ということで、98年のラスベガスでの擬似ルクソール体験(http://www.geocities.jp/takeofukuda/1998last.html)以来心待ちにしていた本物のルクソールを堪能することに成功したので意気揚揚と朝10時25分発のエジプト航空65便でカイロまで帰ってきた。

カイロ市内から恒例のバスでカイロ市内に移動し、日本製車両を使っている地下鉄に乗り、ギザ広場駅で下車してホテルに向かって歩いているとマクドナルドがあったのでそこでご当地メニューであるマックアラビーヤを食ってアラビヤ気分を味わった。ピラミッド通りとファイサル通りの間に位置するシェラトン・ロイヤル・ガーデンズの無駄に広い部屋にチェックインするとギザ広場にあるバスターミナルを探したが、まだファラオの呪いが解けてなかったと見えてなかなか目的地に到着出来なかったので今日はカイロの市民生活をウォッチングするだけにとどまってしまった。

12月20日(火)

マサよ、君は一級建築士のいなかった時代に設計・施工された神秘的な建造物件を見学したことがあるか!!??

ということで、FTB最大の念願であると言っても過言ではないギザのピラミッドを訪れる朝を迎えることになった。ルクソールで開発した砂漠ダイエットを引き継ぎホテルから4kmほどの道のりを歩いてギザのピラミッドの入り口に開門前の午前7時45分ころ到着した。午前8時の開門を待つゲートには数名の徒歩観光客と観光バスの数が次第に増えていった。警備員のゴーサインが出たので観光バスに先を越されながらも200mの坂を登りきり、チケット(LE40)を購入するとさらに加速して80m先のクフ王ピラミッドの入場チケット売り場を一番乗りで制することに成功した。

築4500年のクフ王のピラミッド(LE100)の内見希望者は一日300人に限定されていたものの何とかチケットを入手し、壮大な高さ137m(元々は146m)の四角錐を見上げながら入り口に向かった。この入り口は本来の物ではなく盗掘者によってこじ開けられた物だそうだが、そこを入って大回廊という腰をかがめて急な坂道を登る通路の先に待っている部屋は王の玄室である。大きな石棺が据え付けられたワンベッドルームは多少内装がリフォームされているものの居住性に難があると思われ、鉄筋を通していないであろう天井が崩落すると生きて帰れなくなるのでそそくさと退去させていただくことにした。

ピラミッド群のはるかかなたに広がる壮大なリビア砂漠を遠まきに眺めながら高さ65.5mのメンカウラー王のピラミッドを軽く見た後、中央棟として君臨している高さ143mのカフラー王のピラミッドの内見(LE20)を実施した。こちらは特に入場制限はしていなかったので多くのツアー客が列をなしていた。回廊はクフ王のものよりも広いので多少余裕のある物件だと思われ、また外装として表面を覆っている化粧岩も上部と下部の一部に残っているためギザギザした印象はなく、エジプトで最も美しいピラミッドだといわれている。

ラクダを縦横無尽に操作する砂漠の民のラクダは楽だよ!という勧誘をかわしながらピラミッドパノラマポイントに到着するとそこからギザの三大ピラミッドを眺めて♪ギザギザハートの・・子守唄ぁ・・・♪http://www.geocities.jp/haneuma512/gizagiza.htmlと心の中で熱唱すると最終ポイントであるスフィンクスを目指した。

マサよ、君はスフィンクスの鼻の先にあるものは「ケンタッキーフライドチキン」というトリビアを知っているか!?

知っていたら、80へぇ~と「金の脳」を贈ってくれ!!!

というわけで、My Favorateトリビアであるスフィンクス周辺にはエジプト人遠足小学生を筆頭におびただしい数の観光客で大賑わいであった。尚、スフィンクスの頭はカフラー王に似せて造られたという説があるのだが、アラブ人の侵入後、鼻が削られイギリスに立派であったはずのあごひげを削り取られ、しかもそのひげは大英博物館で「ものじち」になっているとのことである。ちょうど昼飯時になったのでスフィンクス側のゲートから退場して仕方なく、ケンタッキーフライドチキンの3階の窓際に陣取り、スフィンクスとピラミッドの絶景をさかなに鳥肉を貪ってギザのピラミッドを後にした。

古代遺跡で有名なエジプトであるが、もうひとつの顔としてイスラームの世界を心の拠り所にしているのでバスに乗って世界遺産であるイスラーム地区の最も有名な観光地であるシタデルを目指したのだが、その道中のバスの車内では車掌と乗客の口喧嘩が永遠に繰り返されていた。シタデル地区(LE35)の中心はカイロのランドマークとなっており、ヘビー級ボクサーを連想させる名前を持つ、ガーマ・ムハマンド・アリというモスクである。軽快なフットワークで蝶のように舞いながら中に入るとシャンデリアをはじめとしたうっとりするような内装に見とれて思わずダウンしてしまった。気を取り直して外から建物を眺めると蜂のように刺すことが出来るほど尖ったミナレットが天を貫くようにそびえていた。

12月21日(水)

今回のエジプトとカイロのツアーでエジプト観光に必要な回路を構成することに成功したので午後1時45分発のSQ493便で再びドバイを経由してシンガポールに帰っていった。

12月22日(木)

午前7時15分にシンガポールに到着するとそのまま8時15分発のJAL便で帰国し、思わずカイロが必要な寒さに襲われ、次回のリターンを誓うのであった。

ミイラ取りをミイラにするエジプト情報

*アラブの主要国であるエジプトでは西洋数字のかわりにアラビア数字が幅を利かせており、バスの番号や物品の値段もすべてアラビア数字で表記されている。したがって、アラビア数字を理解しないマサであれば、小学生レベル以下に貶められてしまうのだ。

*エジプト人はボールペンを欲しがる傾向にあるという情報を入手していたので仕事関係の展示会等で略奪していた大量のボールペンを携えて現地入りし、遺跡の中を裸足で歩きまわり、手作りの物品を売りつけようとする青少年少女にくれてやった。何故なら、日本人はせいぜい2000年程度の日本史を学べが良いのだが、やつらは5000年ものエジプト史を学習しなければならないことが不憫に思えたからだ。

*カイロ大学は行かず後家兼小泉首相の情婦として活躍している小池百合子環境大臣を輩出したことで有名な割にはエジプト国内の環境は悪いと思われた。世界遺産の遺跡内であっても煙草の吸殻やゴミ等が溢れており、町を走る古い車は排気ガス規制がなされておらずおまけに信号がほとんどないので歩行者は危険を冒して道路を横断しなければならないのだ。

*エジプト国内はイスラム原理主義過激派によるデモを警戒して至る所で厳重な警備体制が敷かれているので緊張して観光しなければならないのだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥11,350(JAL税金)、SG$2,033(シンガポール航空)、LE1,078(エジプト航空)

総エジプトビザ代 LE90.72

総宿泊費 LE1,664.05

総タクシー代 LE220

総ナイル川渡しフェリー代 LE4.0

総カイロ地下鉄代 LE3.75

総カイロバス代 LE8.0

総目撃した車にはねられたおばちゃんの数 1

協力 JAL、シンガポール航空、エジプト航空、HiltonHHonors、Starwood

FTB炎の離島デスマッチ第?弾 in ペナン島

例年より冬の訪れが早く感じられ、朝ふとんから抜け出すのに一苦労する今日この頃であるが、そんなだらけた雰囲気を一掃するために年中プールに入れる南国を求めてマレーシアの首都クアラルンプールを目指し、♪Malaysia Truly Asia♪の雰囲気を満喫するツアーに繰出すことにした。

2005年11月23日(水)

マレーシア航空が運行するANAとのコードシェア便NH5855便、B777-200機は定刻午前10時前に離陸すると深緑ボディコン系民族衣装制服に身を包んだマレースチュ-ワーデスの手厚いサービスを受けながら順調に航行していた。飛行機男として有名な私であるが、何故かシートテレビで選択した日本映画「電車男」を見ながら免税品の「エルメス」のスカーフを買い占めてやろうという野望もむなしく、エルメスは販売していないという現実に直面し、何とか無駄使いを防ぐことに成功した。

KLIAという略称で有名なクアラルンプール国際空港に午後5時過ぎに到着するとKLIAエクスプレスという空港と市内をノンストップで結ぶ特急列車(RM35)に乗り込み、約28分の列車の旅でKLセントラル駅に乗り込んだ。あいにくの雨模様の天気ににもかかわらず、アジア有数の大都会であるクアラルンプールのダイナミズムを実感するために徒歩で本日宿泊する予定のWESTINホテルを目指した。モータリゼーションの進行したクアラルンプールの街並みは複雑でわかりにくく、結局ネオン輝く大都会を2時間ほどさまよって午後8時過ぎに高級地域にそびえているWESTINホテルにチェックインすることが出来たのであった。

11月24日(木)

都市モノレールでKLセントラルステーションに向かい、そこからKLIAに乗り、再び空港に戻ってきた。マレーシア航空国内線が誇るクアラルンプール-ペナン島間は一日に数多くの便を就航させているので午前9時15分の便に搭乗すると1時間程度のフライトでペナン島国際空港に着陸した。

小雨そぼ降る中、適当な汚れ系のバスに乗り、空港方面からペナン島のダウンタウンとして有名なジョージタウンを目指すと30分ほどでペナン島のランドマークになっている65階建ての高層ビルKOMTARに到着した。今日は天気が悪かったので予約していたシェラトンホテルにそそくさとチェックインして軽く落ち着きを取り戻した後、イギリスの影響が色濃く残るジョージタウンの見学に繰り出すことにした。

ペナン博物館(RM2)というペナン島の歴史、文化、自然をダイジェストに学習するのに最適なファシリティが私を待ち構えていたので入ってみることにした。館内には日本軍人を含むペナン島に侵入してきた諸民族の紹介展示や人々の衣装や暮らしぶりが紹介されており、雨の中時間潰しに来たであろうバックパッカー系の白人観光客数人がたむろしていたのだった。

11月25日(金)

今日は朝から本格的にペナン島の調査に乗り出すことにした。ペナン島には様様な宗教の寺院があるのだが、今回はKOMTARからバスに乗りこむとマレーシア最大の仏教寺院である極楽寺を訪問することにした。12万㎡の広大な敷地内にカラフルな建物群が建ち並んでおり、地元華人にも観光客にも人気の高い寺院である。高台にはペナン島遠景を見下ろす巨大な仏陀像がそびえており、、また高さ30m、7層からなるパゴダはビルマ風、タイ風、中国風が混在しているエスニックの粋を集めて建立されたものとなっているのだ。

1922年に敷設されたペナン名物のケーブルカー(往復RM4)に乗り込み30分ほどの時間をかけて標高692mのペナンヒルに登頂した。折からの雨模様の天気も何とか持ち直し、頂上からはこれぞ「東洋の真珠」にふさわしいすばらしい景色を堪能することに成功した。尚,この場所は蒸し暑いペナン島の中の高原のリゾート風の様相を呈しており、すばらしい風景はジョージタウンやマリンブルーの海原のみならず、遠くマレー半島の緑のジャングルにまでおよんでいるのだ。

ペナン島のリゾートビーチは島の北部に集中しており、ジョージタウンからバスでアクセスする事が出来るので、代表的なビーチリゾートであるバトゥ・フェリンギまでバスを転がしてやってくることにした。ペナン島の海は「東洋の真珠」と言われる割にはウーロン茶系の色が混じっており、そんなにきれいだとは思えないのでここでのアクティビティはきれいな海を眺めるよりもひたすらジェットボートやパラセイリング等のマリンスポーツに励まざるを得なくなる現状が確認された。

夕飯時になったのでフェリンギの有名なステーキレストランであり、巨大な船の形をしたThe Shipという肉屋に入ったのだが、木造の有名レストランでも湿気のマネージメントが出来ていないらしく、一歩店内に入ると一瞬でカビの香りに包まれてしまったのだが、我慢して高値のステーキを口にしながら無理やりリゾート気分に浸っていたのであった。

11月26日(土)

ゴムや錫のプランテーションから脱却し、工業化に成功しているマレーシアにはプロトンという国産車が縦横無尽に走っている。そのプロトン製のタクシーでKOMTARからペナン空港に戻ると、午前9時過ぎのマレーシア航空便でクアラルンプールに帰還することにした。尚,ペナン島のお土産にペナントでも?と思っていたのだが、無かったので恒例の手ぶらで引き上げることに相成った。

マサよ、君は世界で一番高いビルがマレーシアくんだりにそびえていることを知っているか!? しかも2棟もだぜ!!!

ということでクアラルンプール市内に戻るとKLCC(Kuala Lumpur City Center)という最大のビジネスセンターに繰出し、高さ452mを誇るペトロナス・ツインタワーの周辺を散策することにした。マレーシアの国営石油会社であるペトロナス社の発注により、ツインタワーのうちタワー1は日本、タワー2は韓国のゼネコンが請け負うことになり、双方の意地とテクノロジーが結集されて1998年に竣工しているものなのだ。ところで私がわざわざここまで足を運んで来た目的は言うまでもなく、これらのビルが耐震性の安全基準を満たしているかどうかの疑問をぶつけるために姉歯建築士の偽装工作話をリークするためだったのだが、土曜日はオフィスは開いてなかったので仕方なくタワーの麓に隣接されているショッピングセンターで飯を食うだけにとどまってしまった。ちなみにショッピングセンターの周辺でフレンドリーに声をかけてくる老若男女が多数いるのだが、彼らは間違いなく恒例の「ブラックジャック詐欺」の鴨を探している輩だと認識していたので、真剣勝負しか興味ない私には「ババ抜き」で来い!と言い返すしかなかったのだ。

結局ペトロナスタワーに登頂することも、姉歯の不正をチくることも出来なかったのだが、高いところにはどうしても登る必要があったため、地上421mで東南アジア一、世界で4番目の高さを誇るKLタワー(RM20)に登ることにした。地上276mの展望台にエレベータで到着するとヘッドホンセットを手渡され、かつ日本語にチャンネルまで合わされてしまったのでこのタワーから見える景色の解説を聞いてやることにした。聞くところによるとクアラルンプールは地盤が非常に強固なため、高層ビルの建築に適しているそうで西新宿や東京タワーが束になってかかってきても太刀打ち出来ないほどのビル群をタワーから見下ろす事が出来た。また、解説いわく、光のガーデンといわれるクアラルンプールの夜景を見るためには昼だけでなく、夜もこのタワーに登ってきやがれというプロモーションも忘れてはなかったのだ!

KLタワーから下界に降りるとその足でマスジッド・ジャメという美しいモスクを過ぎてムルデカ・スクエアという独立広場に向かった。この広場の周辺にはアラビアンナイト風のエキゾチックな建物が並び、高さ100mの世界一高いフラッグポールには独立を祝うかのようにマレーシアの国旗が風になびいていたのだった。

総飛行機代  \63,210 + RM352 (RM1 = \31)

総宿泊費  RM788.5

総KLIA Express代 RM140

総ペナン島バス代 RM8.7

総ペナン島タクシー代 RM30

総クアラルンプールモノレール代 RM6.9

協力 ANA、マレーシア航空、STARWOOD PREFERED GUEST

FTBEUベネルクス+蘭学事始

ボンジュール マサよ! 鯖(サバ!?)

ということで、秋も本番を迎えて青魚だけでなく、FTBツアーも油が乗ってきた今日この頃であるが、最近私の肉体を覆い始めてきた脂肪の燃焼も兼ねてヨーロッパ各国を過酷なスケジュールで巡りながら中世の古き良き時代に思いを馳せることにした。

9月23日(金)

マサよ、君は機内食のおかわりを要求する変わり者乗客に直面したことがあるか??

私は・・・直面してしまった・・・・・しかも2名様であった・・・・・・・・・・・

ということで、ANA205便パリ行きは定刻より10分程度遅れて離陸し、北方航路、シベリア上空を順調に巡航し、いつものように着陸約2時間前に軽いお食事が振舞われる段取りになった。32Dという通路側の絶好の座席をせしめていた私の右隣の二人組みの若者はやたらとジュース類を飲みまくっていたのが気になったものの平和に機内で過ごしていたのだが、一番最初に軽食をゲットした私の隣の隣の32Fに座っている若者Fはものすごい勢いで軽食を平らげると私の仕切っている逆サイド通路側から食事を配っているスチュワーデスに何とおかわりを要求するという暴挙に出やがった。

この事態に動揺を隠し切れないスチュワーデスは数を確認するといって一旦エスケープしたものの若者Fはまんまとおかわりをゲットしてしまったのだった。さらに私の隣の32Eに座っていた若者Eはこの勢いをかって別のスチュワーデスにおかわりを要求したのだが、数が足りないという理由で却下されてしまったので私の心の中で大きなガッツポーズと「残念!」という雄たけびが沸き起こっていたのであった。

夕方5時ごろにお馴染みのシャルルドゴール空港に到着するとそのままRERという列車に乗り込みパリ市内を北から南に縦断し、なぜかオルリー空港に向かっていた。HiltonHHonorsのポイントが余っていたのでマサであれば140ユーロくらいかかるところを私はただで泊まることが出来るHilton Paris Orly Airportに引き払うと夕刻の空港の喧騒を窓越しに眺めながらごゆるりと休息させていただくことにした。

9月24日(土)

早朝よりオルリー空港からバス(EURO5.8)と列車(EURO1.6)を乗り継いでパリ北駅までやっきたものの私が乗車すべき列車は500m離れたパリ東駅から出発することになっているので徒歩でとぼとぼと移動してきた。8時52分発のフランクフルト行きの2等車両に乗り込み世界の車窓からの気分を満喫していると11時40分ころにMETZという町に到着した。

フランス西部の歴史的情緒を感じさせるMETZにMETZ Cathedralという伝統のありそうな教会があったので軽くお参りし、今回のツアーの成功を祈願させていただくとMETZから列車を乗り換えてルクセンブルグを目指した。小学校のよい子の社会科でベネルクス3国のことを学んで以来、必ずベネルクスを訪問しなければならないと考えつづけてきたのだが、ついにベネルクスへの足跡の一歩となるルクセンブルグに午後2時半頃到着することに成功した。

ベルギー、フランス、ドイツに囲まれたルクセンブルグ大公国の首都ルクセンブルグは”ヨーロッパの緑のハート”と呼ばれているのだが、市内はその名に違わないすばらしい環境と風景で観光客を喜ばせているのだ。ルクセンブルグ中央駅から北側に10分程歩くと緑で覆われた深い渓谷に架かっている高さ46mのアドルフ橋に着く。橋の上から見事なまでの深い谷間を覗き込んだ後、そのまま橋を渡り17世紀に建立されたノートルダム寺院に向かった。寺院の階段を利用したおびただしい数のスケボー練習野郎どもをかわして寺院の中に入ると美しい宗教画等を十分に堪能させていただいた。

ノートルダム寺院を出て市の中心部に入るとそこから右に折れてボックの砲台(EURO1.75)を目指した。ここの断崖絶壁からの景色はマサに絶景であり、おびただしいほどの観光客がそこから谷底の川や教会等を見下ろしていた。また、ボックの砲台は要塞として必要なすべてを備えており、”陸のジブラルタル”と言われるほど堅固で難航不落を誇っており、その古い町並みと要塞群は世界遺産に指定されているのだった。

9月25日(日)

ルクセンブルグ市内の中心から8kmほど離れた空港近くのシェラトンホテルに宿を取っていたのでバス(EURO1.2)で早朝より、市内に向かうことにした。峡谷は朝もやで覆われていたものの内部に下りて見ると緑があざやかで数多くの人間を引き連れた犬たちが散歩に興じていた。

緑の王国ルクセンブルグに別れを告げ、午前10時52分の列車に乗り込むといつのまにかドイツに入国し、周りをドイツ人トランプ野郎どもに囲まれてしまっていた。トランプの仲間に入れてもらえない屈辱感を引きずりながら列車は午後2時前にケルン駅に到着した。

なぜ私が今回わざわざケルンくんだりまで来なければならなかったのか?その謎はアディダスケルンというスポーツシューズにあった。私が中高生として優秀な成績を収めていた当時は現在のルイヴィトンやシャネルを凌ぐ勢いでアディダスというブランドが普及していた。当時の運動部に所属している輩は皆アディダスのウインドブレーカーやバッグを持って悦に入っていたのだが、貧乏人はAddodasというバッタ物で我慢するしかなかったのだ。幸いにも本物のアディダスのウインドブレーカーを持っていた私はついでにシューズも物色していたのだが、その時私の目を引き付けたのがアディダスケルンという靴であった。しかし当時の私のバジェットでは高すぎて買えないという屈辱を味わったため、いつかケルンに行って溜飲を下げてやろうと思っていたのであった。

ルール工業地帯の中核都市であるケルンの巨大な駅から一歩出ると目の前に巨大なゴシック建築が怪しい黒光りで来るものを威圧していた。黒光りを避けるように川辺リに向かって歩を進めると大河にはかの有名なライン川下りの船が行き交っていたのだった。川辺には多くのカフェやバーが営業しており、昼間からビールを飲んでいるドイツ人やビールを飲んでいないドイツ人で溢れかえっていた。

ローマ時代の歴史も色濃く残しているこの地にそれを証明するようにローマ・ゲルマン博物館(EURO5.0)が観光客を集めていたので入館してみることにした。館内には石像や石柱、装身具、ガラス器、貨幣などが展示されており、ローマ時代の生活の様子が現代に伝わってくるかのようであった。

ケルン駅周辺を歩いているといつも何者から見下ろされているような気分に苛まれるのだが、満を持してその正体を解明するために黒光りに接近することにした。1248年着工、1880年に完成したカトリックの大聖堂であるケルン大聖堂(世界遺産)は通称Domと呼ばれ、高さ157mを誇り、来るものを圧倒している。調度雨が降って来たので奥行き144m、幅86mの内部にエスケープさせていただいたのだが、内部には荘厳な祭壇画や美しいステンドグラスが輝いていた。午後5時から日曜日のミサがはじまってしまったので、しばらく賛美歌のリズムに耳を傾けていたのだが、飽きたので外に出て町歩きをしている人の靴のアディダス比率のサーベイを行った。しかし意外にもライン川のほとりで3本ラインを見つけることは困難を極めたのであったのだ。

9月26日(月)

午前9時から開業するDomの正面右側の入り口から509段の螺旋石段がのびていたのでEURO2.0を支払って高みを極めることにした。尖塔の最上部には到達することは出来ないものの高さ100mを超える展望所からケルンの町並みを見渡すのには十分であった。

ドイツが誇る国際列車ICEに午前10時18分に乗り込み、約2時間半の汽車の旅で念願であったオランダのアムステルダム中央駅に到着した。歴史を感じさせる重厚な建造物である駅舎を一歩出るとそこには街中を行き交うトラムやバス、運河を縦横無尽に行き来しそうな観光船で一種独特の雰囲気を醸し出していた。とりあえず周辺を軽くさまよった後、町の中心であるダム広場に向かうことにした。

マサよ、君はアムステルダムのダムがマサにダムを意味することを知っているか!?

ということでアムステルダムという名前は、13世紀にアムステル川をダムでせき止めて町を築いたことに由来すると言われている。その中心であるダム広場には水が轟々と流れるダムはないものの王宮や新教会が君臨しており、観光客や鳩が轟々と流れるように行き来していた。

時代が時代であったなら私のライター仲間であったろうアンネ・フランクの家(EURO7.5)がミュージアム的なおももちでアムステルダムに君臨しているのでお邪魔させていただくことにした。1944年にナチスの秘密警察であるゲシュタポに発見され、アウシュビッツに送られるまでの2年間、アンネをはじめ計8名様が潜んでいた家は表の家と回転式本棚で仕切られた裏の家にはっきりと区別されている様子を生々しく残しており、ここを訪れる者ははかなさとやりきれなさで皆涙にくれながら戦争の悲惨さを実感させらるのであった。尚、アンネが実際に暮らしていた部屋はたまに差し入れてもらえるわずかな写真等で飾られており、潜伏生活の中でのささやかな楽しみを見出そうとしている様子が伝わってきた。

美術館広場というただっぴろい敷地の中に3つの美術館が営業しており、その中で一番面白そうな国立ゴッホ美術館(EURO10.0)を見物することにした。精神病に苦しみ、最後には非業の自殺を遂げてしまい、しかも彼の作品が評価され始めたのは彼の死後であったという悲劇を絵に描いたようなゴッホが描いた絵が年代別に並べられている館内の中で私の目を引いたものはゴッホが葛飾北斎の浮世絵を模写したものだった。きっと彼も浮世のはかなさを感じながら絵を描き続けたのではないかと思われた。

とりあえず、本日の観光プログラムを終了したので、飛行機に乗る気もないのにアムステルダム国際空港であるスキポール空港まで汽車で向かうことにした。KLMオランダ航空が仕切っているスキポール空港は世界有数の国際都市であるアムステルダムの名に違わずインテリジェントなファシリティを誇っていた。空港に併設されているワールドトレードセンターにさらに併設されているヒルトンホテルに宿を取っていたのでネクタイ姿の国際ビジネスマンとともに国際舞台での成功を夢見て眠りにつくことにした。

9月27日(火)

7つの海を制覇した海洋王国オランダの歴史が見て取れるオランダ海洋博物館(EURO9.0)に開館時間の午前10時より見学に訪れた。ここでの見所はおびただしい数の年代別船の模型もさることながら、日本の形もままならない古い世界地図やさらに江戸時代における日本との交易に関して「日本人は俺らを出島に閉じ込めやがって将軍にも会わせてもらえへんかったぜ!」といったような歴史的史実も紹介されているところである。さらにJapanというコーナーには一万円札の神様福沢諭吉が大々的に取り上げられており、諭吉が蘭学に傾注していたころにはオランダを第二の故郷と言っていたことやペリー来航後、横浜に英語があふれているのを見て蘭学を捨てて英語を学び始めた「福翁自伝」のエピソードも紹介されているのだった。

博物館で蘭学を始めることに成功したので実施研修としてオランダの伝統的家屋や風車を見るためにザーンセ・スカンスという町に汽車に乗ってやってきた。ここでは伝統の切妻家屋や工場に動力を供給している数多くの風車を間近で見物しながら村下孝蔵の♪かざぐるま♪を口ずさむことに成功した。また、偶然にも川に架かったアスファルトで覆われた橋が跳ね上がり船を通している光景を目撃することも出来たのであった。

マサよ、君はかの有名なハイネケンビールはオランダが発祥の地だということを知っているか!?

ということで、アムステルダムに戻るとその足でハイネケン・エクスペリエンス(EURO10.0)というアトラクション系のファシリティに向かった。ここではお決まりのビールの製造工程からハイネケンがいかに世界で飲まれているかを主張するフィルムやバーチャルな乗り物で工場の中でのビール瓶の流れを追いかけたり、馬車に揺られている気分を味わったりする事が出来るのだが,最大の得点は何とヘイネケンが3杯飲めるチケットと最後にお土産として缶入りのグラスがいただけることであろう。

アムステルダムは北方のベニスと言われるほど、運河が発達しており、街中のあちこちで運河クルーズ(EURO8.5)が展開されているのでたそがれ時を見計らってそのうちのひとつに参加することにした。クルーズは1時間以上かけて市内のいたるところを解説付きで回り、水辺から美しいアムステルダムの風景を眺める事が出来るのだが,運河を航行していて運が良ければ跳ね上げ橋が跳ね上がる光景を目撃することも出来るのだ。

♪今日はよしわら、ほりのうちぃ、なかす、すすきの、ニューヨークゥ♪と歌われたのはタケチャンマンの主題歌であるが、世界的に有名なオランダのその手の地域として「飾り窓」が君臨している。飾り窓地区はダム広場や駅から近く、マサに繁華街の中心に位置しており、姿見のような大きな窓の中には世界各国から荒稼ぎに来ている下着姿の色とりどりの女性が待ち構えている。尚,窓にカーテンが引かれているとすでに客が入っているということなのだそうだ。また、飾り窓の入り口には13世紀に建立された旧教会がそびえており、快楽と懺悔をセットでこなすことが出来るように取りはかられていることが確認された。

9月28日(水)

スキポール空港から汽車に乗り、ライデンという14~15世紀の町並みが残る美しい古都で下車した。この町は日本とのゆかりも深く国立民俗学博物館(水曜日なのでタダ)には、シーボルトが持ち帰った数多くの日本コレクションが展示されていると聞いていたのだが,展示品は仏像や大工道具等であり、シーボルトも鳴り物入りで日本に来ていたわりには大したものを持ち帰っていないと思われた。

昼過ぎにオランダ第二の都市ロッテルダムに到着した。ここは蘭学の学習に最適な伝統的なアムステルダムやライデンとは異なり、近代的なメトロポリタンの様相を呈しており、数多くの高層ビルが立ち並んでいた。昼飯時になったのでマサかどこかにロッテリアが・・・?と思ったが、無かったのでバーガーキングでお茶を濁しておいた。尚,繁華街の半径100m以内に3件の日本食屋が展開されていたのだった。

9月29日(木)

福沢諭吉が習得するのに数10年かかったであろう蘭学を3日で吸収することに成功したのでその勢いでベネルクスツアーの最後の目的地ベルギーに向かった。ベルギー国鉄の運行するタリスという真紅の新幹線系列車であっ!という間にブリュッセル南駅に到着するとそこから汽車を乗り換えてブリュージュという有名な観光都市に向かった。

「天井のない美術館」と形容されるブリュージュ(世界遺産)の町並みを歩いているとまるで中世にタイムスリップしたようなブルーな感覚に包まれてしまう。レンガ造りの建造物に囲まれている石畳の道を馬や犬のウンコに気をつけながら歩いていると中心部のマルクト広場に到着した。その中心には13~15世紀に建立されたブリュージュを代表する建造物である鐘楼がランドマーク的な存在感で居座っている。EURO5の支払いで366段の階段を登って頂上に達することが出来るので登頂してみることにした。15分毎に見事な鐘の音を鳴らすこのファシリティの仕組みは巨大なオルゴール構造になっており、曲のレパートリーも何曲かあるようだった。広場は観光馬車のターミナルとなっており、オープンカフェでは観光客がランチやビールを飲み食いしながら回りの美しい建造物に見入っていた。

12世紀に創立された聖ヨハネ病院の一部がメムリンク美術館(EURO8.0)として開業していたので、そこで数々のフランドル派の画家が描いた画を見物した後、小運河をクルーズするボートツアーを横目に街を練り歩き、ベギン会修道院に到着した。1245年創立のこの修道院の近くには愛の湖という池系の水溜りが佇んでおり、レンガ色の建物と緑色の森と湖が見事に調和している様子を醸し出していた。

9月30日(金)

あいにくの曇り空の下、ブリュッセルの市街を北上しているとサン・ミッシェル大聖堂に到着したので中に入ってみる事にした。13世紀から15世紀までの300年の年月をかけて建立された壮麗なゴシック様式の大聖堂では、1999年にフィリップ皇太子とマチルド皇太子妃の結婚式が執り行われた実績があり、その当時の写真が飾られていたのだが,その中には日本代表として裕仁天皇と美智子皇后の晴れ姿もしっかりと写真の中央に写りこんでいた。

チョコレートをぶっかけてもらったベルギーワッフル(EURO2.0)を買い食いしながらブリュセルの中心であるグラン・プラス(世界遺産)に向かった。”絢爛たる劇場”と呼ばれ、世界で最も美しい広場と賞賛されるグラン・プラスをさかなにワッフルを食っているとこれぞマサに王国ベルギーの真髄であると実感させられるのであった。

地下鉄で王立軍事歴史博物館(ただ)とオートワールド(EURO6.0)までやってきた。軍事の方には特に第一次世界大戦で使用された武器や戦車等が展示されていた。一方、オートワールドはかつてのベルギーの自動車産業の栄光を彷彿とさせるクラシックカーや名車の数々が処狭しと展示されていた。

マサよ、君は”ブリュッセルの最長老市民”が下ネタ系であることを知り、思わず股間を押さえ込んだ経験があるか!?

ということで、グラン・プラスの王の家にて開業されている市立美術館(EURO2.5)を軽く見学した後、ブリュッセルで最も有名な小便小僧に会いに行った。絶妙な角度で背を反らせ、見事な放物線の水流を描いている小便小僧はいちもつだけでなく、体自体も非常に小さく、割と質素な野郎だと思われた。また、小僧用に世界各国から衣装が贈呈されているのだが、それらを展示しているミュージアムさえ存在しているのだ。また、ブリュッセルには小便だけでなく、どう見てもゲロを吐いているようにしか見えないおっさんの像があることも発見された。

800以上の銘柄を誇るビール大国ベルギーであるが、それを証明するためのベルギービール博物館(EURO5.0)がグラン・プラスの南側に佇んでいたので喉を潤しにやってきた。館内は大したファシリティはなく、永遠とベルギービールを賞賛するフィルムを見せ付けられ、飽きたらチケットとビールを交換して溜飲を下げる仕組みになっていた。ビールを飲んだ勢いをかって小便小僧と是非「連れション」でも?と考えていたのだが,その代わりに日本で小便小僧のパクリとして「ウンコ垂れ」という像を作り、ソフトクリームを製造して一儲けをたくらみ始めた今日この頃であった。

今回ブリュッセルを訪問することにより我慢していた小便を出し切った時のような爽快感を覚えたのでその余韻に浸りながらパリを経由して日本に帰ることにした。

FTBサマリー

総飛行機代 \152,460

総宿泊費  EURO820.21

総汽車代  EURO297.90

総バス代  EURO2.40

総地下鉄代 EURO3.00

今回歴訪した国:フランス、ルクセンブルグ、ドイツ、オランダ、ベルギー

協力 ANA、HiltonHhnors、Starwood、フランス国鉄、ドイチェバーン、オランダ国鉄、ベルギー国鉄

FTBJ夏が来れば思いだスペシャル 尾瀬にお~ぜ~の観光客を見た!

♪夏が来~れば 思い出す~ 遥かなマサ~ 遠い出世 !♪

ということで、マサが財務省の要職として権力を握り、FTBに公的資金を注入するには郵政民営化後さらなる年月が必要となるので今回は8,000年もの年月の積み重ねにより構成された本州最大の高層湿原である尾瀬を訪問し、はかない夏の思い出を刻み込む事にした。

7月30日(土)

順調に流れる関越自動車道の車の波に乗り、草津温泉の玄関口となっている渋川・伊香保インターをチョイナ・チョイナと交わし、埋蔵金の名門(マサよ、君んとこの工場で大量にロット不良を起こしている¥500玉を埋めてあげたらどないやねん!?)として名高い赤城の山に向かって「今宵限り!」と捨て台詞を残し、群馬県の奥地「沼田インター」で高速を降りると国道120号線を東に向かって疾走した。遠く日光まで続いている国道120号を30km程度走り途中で現れた尾瀬戸倉温泉の看板を目印に軽い山道に入ると午後3時頃には尾瀬ハイキングゲートウエイになっている尾瀬戸倉温泉に到着した。

何がしかの夏祭りが開催されている尾瀬戸倉地域で御輿の行列等に行く手を阻まれながら車を流し、最終的には尾瀬かもしか村という看板をかかげている「シャーレおぜとくら」という宿泊ファシリティに腰を落着け、温泉に浸ると同時に夏の思い出に浸るための準備をひたひたと行っていた。

7月31日(日)

午前8時ごろに「シャーレおぜとくら」をチェックアウトすると冬はスキー場として賑わうはずの尾瀬高原ホテル近辺の駐車場(¥1,000)に車を止め、自然保護のためにマイカー規制の敷かれている尾瀬の中心部を目指すべく軽いぼったくり系のシャトル乗合タクシー(¥900)に乗り、鳩待峠に向かった。

くねくね山道を20分くらい走ると鳩待峠に到着した。ここは尾瀬ハイキングのゲートウエイになっており、3.3kmほどの山道を下ると尾瀬山の鼻ビジターセンターという山小屋プラス食事処系ファシリティが見えてきた。ビジターセンターで軽く尾瀬の情報収集を行い、湿原に張り巡らされたボードウォークに沿って尾瀬のハイキングを開始することにした。

群馬、福島、新潟の3県の県境に位置し、雄大かつ繊細な自然が残る事で知られる尾瀬は2,000m級の山々に囲まれた山岳湿原地帯であり、尾瀬ヶ原では♪夏が来れば思いだ♪したようにさまざまな花が咲き乱れるのである。また湿原を囲む森林地帯には数多くのツキノワグマが生息し、中年ハイカーの8割以上は熊よけの鈴を鳴らし、また、トレイルにも熊に人間の存在を知らせるための鐘が据え付けられているのだ。

マサよ、君は尾瀬の土地の7割を所有し、庶民からぼったくった電気代で「自然保護を行っているぜ」と偽善的アピールをしている電気屋を知っているか!?

ということで、1960年代に入り、人々の生活に余裕が出始めると、「尾瀬ブーム」と言われるほどお~ぜ~のハイカーが♪はるかな尾瀬ぇ~♪に進出し,湿原を踏み荒らし、収拾がつかなくなってしまった。その状況を苦々しく思った東京電力は尾瀬には関係ないであろう人々からかき集めた電気代を尾瀬の木道整備に投資し、ハイカーがむやみに湿原に入らないようにするとともに東電小屋という山小屋まで作りやがり、電力事業以外の副業まで展開していたのであった。

尚,尾瀬がもっともお~ぜ~の観光客を寄せ集めるのは水芭蕉の花が水のほとりに夢見て咲いている6月や紅葉の美しい10月上旬だと言われているが、盛夏に訪れても様様な花を見る事が出来、しかも高原性の涼しい天候のため、ツキノワグマさえマークすれば日中でも気分良くハイキングをたしなむことが出来るのであった。

FTBサマリー

総高速代 \8,550

総ガソリン代 ¥3,832

総走行距離 427km

総宿泊費 \7,000(2食付き)

総乗合バス代 \1,800

総駐車場代 ¥1,000

総歩行距離 19.6km

チョー・ヨンピル推薦FTB版釜山港へ帰れ!

♪つ~ばき咲くぅ~ 春なのにぃ~ あ~な~たは かえらない~♪http://www5f.biglobe.ne.jp/~futakoz/versoj/v-sengokayou/pusanhanhekaere.htm

ということで、バブル経済の絶頂期に大和證券北九州支店で肩で風を切って歩いていた私が大和證券青森支店の山田君を従えて短い夏休みを韓国で謳歌し、ソウルのシェラトン・ウォーカーヒルのカジノで無類の勝負強さを発揮したのはまだ海外渡航履歴の浅かった1989年のことだった。それ以来15年間、近くて遠い国として韓国を訪れる機会がなかったのだが、この期に及んでチョー・ヨンピルのリクエストに応えなければならないという衝動に駆られ、釜山港へ帰る決意を固めることにした。

5月27日(金)

早朝6時30分発のANA981便に搭乗し、羽田から福岡に乗り込んだ。到着した時刻が経済活動が始まる前の午前8時過ぎだったため、とりあえず博多駅の地下街のロッテリアで朝飯を食いながら時間を潰し、適当な頃合を見計らって西鉄バスで博多港の中央埠頭国際ターミナルへ向かった。

釜山港へ帰るためには旅情溢れるフェリーでないとヨンピルも浮かばれないと考えたので全長170m、幅24mの巨大貨客兼用フェリー「ニューかめりあ」の2等客室(¥8,500)に乗船すべくチケット売り場に向かった。窓口にはユン・ソナ系の美女とユン・ソナに似てない普通の女子がチェックインの業務を行っていたので迷わずユン・ソナが待つ窓口でチケットの購入を果たした。

マサに釜山港へ帰らんとする韓国の大学生旅団の嬌声を聞きながらも定刻どおりに出国、乗船を果たすとニューかめりあは午後12時半ごろ博多港を出港した。船内でキムチチゲ定食を食い、展望風呂で海を眺めながらひと汗かく等の優雅な船旅アクティビティをこなしていると夕方6時前にフェリーは世界を代表する港である釜山港に入港した。

釜山国際フェリーターミナルで韓国への入国を果たすと今回のツアーの宿泊地であるHotel Kukuje(国際)の場所を探すことにした。中央洞という地下鉄駅の切符売り場で手持ちの1万ウォンが自動販売機で使えないため対応にもたついていると回りの韓国人がしゃべっているアンニョンハセヨがハヨセヨ!早よせよ!!と聞こえてしまう妄想に駆られてしまい、仕方なく徒歩でホテルを目指すことにした。

アウェイの博多にユン・ソナを送り込むほど人材の豊富な韓国だけにホームの釜山では韓流ブームもあいまって道行くギャルは圧倒的にチェ・ジウ系が多いことが期待されたのだが、実際には「チェ!」と舌打したくなるような女子ばかりが私の横をすり抜けていった。私の舌もしびれはじめた夜8時頃にホテルにチェ!ックインを果たし、ハングルだらけの街に繰り出すとハングリーになったのでお粥専門店で海鮮粥(W8,000)を食って溜飲を下げ、これから対決することになる辛さに舌をならしはじめることにしたニダ。

5月28日(土)

釜山総合バスターミナルまで地下鉄(W1,000)で移動し、そこから高速バスで韓国の古都慶州(キョンジュ)を目指すことにした。チケット売り場にて慶州までのチケット(W3,900)の購入を試みていると日本名を蜂谷真由美と名乗りそうな金賢姫似の美女が機転を利かせて日本語で対応してくれたのですぐに目的のバスを見つけることに成功した。

78kmの道のりを1時間半ほどの時間をかけてバスは午前10時半頃、2000年の歴史を誇る世界遺産の古都慶州に到着した。慶州高速バスターミナルから市内バスに乗り換えて30分くらい走ると仏国寺(世界文化遺産、W4,000)に到着した。3国に分かれていた朝鮮が新羅により統一された751年頃に建立されたと伝えられている仏国寺は高い築台の上に平地を造り、そこに殿閣を建てた伽藍である。殿閣に入る前に33段の石組みがあり、その上が仏国になっているのだが、早速私も何かをぶっこくためにトイレを使用させてもらった後にゆっくりと観光にいそしむことにした。

仏国寺からさらに山を登った吐含山の頂上に石窟庵(世界文化遺産、W4,000)という最高峰の新羅仏教彫刻が鎮座しているので見物に行ってきた。自然石を成形した人口のドームの中で八部神衆のレリーフに守られたご本尊は保存のためにガラスで仕切られており、観光参拝客はかろうじてガラス越しに本尊仏に対面することが出来るのだけにとどまっていた。

慶州中心部に大陵苑(W1,500)という新羅1000年の古墳23基が散在する公園がある。その中の天馬塚は内部が公開されており、古墳の構造を観光客が学習出来るようになっている。高さ27.7m、下部の直径が47mにもおよぶ古墳の中心には王の棺桶が設置されており、その周りは石垣で厳重に覆われている様子を垣間見る事が出来、また金銀財宝の出土品は慶州国立博物館や古墳内部に展示されたりしているのだ。

マサよ、君は韓国の食い物屋のメニューにキムチが存在しないのを知っているかニカ!?

ということで、バスで釜山に戻りホテル近くの韓国食堂で夕飯を食う運びとなった。メニューはすべてハングルで書かれていたのでおばちゃんに日本語のメニューを要求すると「ン」であるべきものがすべて「ソ」になっていることが気になったものの無事に「サムゲタソ」をW8,000で発注することに成功した。私が実際に発注したものは鶏にもち米を詰めて高麗にんじん等の薬膳で煮込みまくったサムゲタソだけだったのだが、その回りはキムチ、カクテキ、ニラ、青とうがらし、生にんにく等で完全包囲され、テーブルは色とりどりのカプサイシンワールドと化していたニダ。

5月29日(日)

日本から密輸した手持ちのガムの在庫が切れてしまったので補充のためにロッテという大百貨店にやってきた。韓国女性の花形職業として駐車場ガールという車で来店した客を誘導兼悩殺する業務があり、開店前の振り付け練習を軽く見学した後、デパートの中に侵入したのだが、ここではついにお口の恋人であるガムやチョコは発見出来なかった。

釜山市立博物館(W500)で豊臣秀吉から近代までの日韓関係の歴史を紐解いた後、海雲だいという釜山きってのビーチリゾートに向かった。オンザビーチには水族館やウエスティン、マリオットといった特1級ホテルが立ち並んでおり,さらに数棟のホテルの建築も進んでいた。またシーフードレストランも数多く、関釜フェリーで交流のある下関と漁場をシェアするふぐ料理も名物のひとつとなっていた。

韓国に来て韓国エステを体験しないと決して垢抜けることがないと言われているので博多港で入手したパンフレットを頼りに山庭というエステ専門店にやって来た。ここではW70,000で基本コースを受けることにしたのだが、まずは黄土汗蒸幕オンドルというサウナに閉じ込められ体の毒素を出された後,アカスリルームに向かった。ルームでは下腹の出たおやじが手ぐずねを引いて待ち構えており、アカスリ用の布を右手にぐるぐる巻きにして私の敏感もち肌をこすり始めた。おやじが日本のアカスリに関して逆取材してきたので日本ではアカスリ用のミットを両手にはめてゴシゴシやるぜと答えると彼は本場の韓国ではミットを使わないからといってミットもないと思うなよニダと言わんばかりに擦る手に力が込められたのであった。その後、足マッサージ療法を受け睡眠ルームで休憩した後、山庭を後にして下界におりることにした。

ロッテ百貨店やホテルを要する西面(そみょん)という若者の流行発信基地にロッテ一番街という屋台街がある。そこに釜山B級グルメを代表するテジクッパプ(W4,500)というご飯に豚骨ベーススープをぶっかけた食い物屋が軒を連ねていたのでエステで減量した体重を取り戻すべく庶民の味に舌鼓を打ちながら釜山のラストナイトは更けていった。

5月30日(月)

釜山を代表する温泉として東莱温泉があり、そこからさらに8km北へ進むと梵魚寺(W1,000)という新羅時代創建の山寺がある。国宝に指定された本堂やその他の堂の建築様式のすばらしさを堪能しながら木魚のポンポンサウンドを聞いて軽くお参りをすることが出来たので下山してプサンの伝統的繁華街である南浦洞に向かった。

龍頭山公園という市民の憩いの場所である小高い丘の上に高さ120mの釜山タワー(W3,000)が君臨しているのでエレベーターで登頂し、釜山の全景を目に焼き付けながらこれでチョー・ヨンピルも浮かばれることだろうと安心してプサンを後にすることにした。

帰りはJR九州の運行する海飛ぶカブトムシとの異名を持つビートル(¥13,000)というジェットフォイルでわずか2時間55分で博多港に帰還し、博多に来た足跡として長浜ラーメンを食ってお茶を濁し、ANAの最終便で東京への帰路へ着いたのであった。http://www.jrkyushu.co.jp/beetle/index.jsp

FTBサマリー

総飛行機代 ¥2,900

総船舶代 ¥21,500

総博多港国際ターミナル利用料 ¥400

総釜山港港湾利用料 W2,200(¥1=W10)

総韓国バス代 W12,200

総釜山地下鉄代 W7,800

総宿泊費 W174,240

協力 ANA、カメリアライン(株)、JR九州

FTBGW大西洋スペシャル ゴジラv.s.アマデウス

ということで、今回のFTBGWスペシャルはこの時季恒例となったゴジラの近況調査に加えてはるか大西洋をまたぎ、音楽の都ウィーンとビールの都ミュンヘンまで足を伸ばし、最近生活コスト削減のために発泡酒より安いビールもどき雑酒飲料である大豆ペプチド発酵飲料を痛飲している現状のうさを晴らしに行くことにした。

2005年4月27日(水)

ANA002便ワシントンDC行きB777-200機は定刻出発、定刻到着を果たし予定通りこの日の午前中にアメリカの首都ワシントンDCに進出することに成功した。早速空港バス($8)で最寄のMetro Stationまで移動し、そこから地下鉄でスミソニアン地区に向かい、さわやかな快晴の空を天に向かってのびているワシントンモニュメントを横目に今回はメモリアルシリーズを挙行することにした。

まず、ポトマック川沿いにたたずんでいるThomas Jefferson MemorialとFranklin Delano Roosevelt Memorialの見学を立て続けにかました後、白亜のギリシャ建築の柱の奥に鎮座するリンカーンに会いにLincoln Memorialを訪れ、FTBのFTBによるFTBのためのツアーの成功を祈願させていただいた。そこからさらにツアー業界ではベテランとなったFTBはKorean War Veterans MemorialとVietnam Veterans Memorialまで足を伸ばしベテランを敬うことの重要さを肝に銘じることにした。

かつて大リーグ随一の集客能力の低さを誇るモントリオール・エキスポズという球団が存在した。モントリオール人のあまりの野球に対する無関心さに頭を痛めていたMLB機構はワシントンDCへの移転を画策し、今年34年ぶりにワシントンにMLB球団が戻ってくる運びとなったのだ。ワシントン・ナショナルズの本拠地であるRFKスタジアムはDCの中心から地下鉄でアクセス出来る便利な立地条件のために平日の4時35分からの試合開始にもかかわらず数多くの集客に成功していた。フィラデルフィア・フィリーズを迎え撃つナショナルズの打線はこの日は沈黙し、3対0でフィリーズリードの9回裏フィリーズの守護神である左の豪腕投手ビリー・ワーグナーが登場した。交響曲の作曲家を彷彿とさせるワーグナーは得意の100マイルの速球は出さなかったものの見事なタクトさばきでナショナルズ打線を簡単に封じ込めてしまったのであった。

本日の宿泊先であるDAYSINNにチェックインしようとしたところ脆弱なコンピューター予約システムが不具合を起こしてオーバーブッキングが多発したため、グレードの高いマリオットホテルにDAYSINNのコスト負担で移動させられ、ひょんなことから高級ホテルでの一夜を過ごさせていただくこととなってしまった。

4月28日(木)

米国内を網目のように張り巡らせているグレイハウンドのバス路線を使ってニューヨークに向かうためにユニオン駅の北にあるグレイハウンドバスディーポに向かった。あらかじめワシントン-ニューヨーク間($29)をウエブで予約しておいたのでWill Call用の券売機でチケットを引き出すと早速グレイハウンドの関連会社であるピーターパンが運行する午前9時発のバスに乗り込んだ。

ヤンキースの帽子を被った黒人肥満おやじの運転するバスは予定通り、午後1時20分頃に42nd Streetにある巨大なポートオーソリティバスターミナルにすべりこんだ。そこから徒歩でタイムズスクエアからブロードウエイを抜けてLowerManhattanに到着し、地下鉄でBrooklinまで抜け、今日の宿泊先であるDAYSINNにチェックインを果たすと再び地下鉄でBronxを目指した。

開幕からの低迷にもかかわらず51,000以上の観客で膨れ上がったヤンキースタジアムのネット裏の上段席に腰を落ち着けると不振にもかかわらず今日も4番に座っているゴジラの打球が右翼席に吸い込まれていく光景をイメージしながら試合開始時間を待ちわびていた。ロサンゼルス・エンジェルスのラッキー投手と相対したゴジラは1打席目にあわやホームランという大飛球を打ち上げたものの2打席目もチャンスに痛烈なファーストライナーで凡退してしまった。3打席目で待望のタイムリーツーベースを放ったものの結局この日もヤンキースは試合に敗れてしまったのだった。

4月29日(金)

マサよ、君はテディベアの正体とは何だったのか知っているか!?

ということで、今日も朝から地下鉄に乗りニューヨーク巡りに繰り出すことにした。Upper ManhattanにHamilton Grangeというニューヨークにゆかりのあるハミルトンという偉いアメリカ人の住居を見物した後、ハドソン川沿いに建つグラント将軍の墓兼記念碑を訪問した。ちなみにグラント将軍は南北戦争で名声を博した輩でアメリカではジョージ・ワシントンやアブラハム・リンカーンと並び賞されるほどの人気者となっており、わざわざニューヨークのど真ん中に巨大な墓が建造されるほどの英雄なのである。

パークアベニューの南にTheodore Rooseveltの生家($3)が摩天楼に囲まれながらも今でもRooseveltファンを集めているので見物に行ってきた。National ParkServiceが管理するこのファシリティはレンジャーによるツアーで家の内部が案内されることになる。ツアーの最後にかのレンジャーが展示されてある古いテディベアのルーツについて説明をかましてくれた。テディとはTheodoreのニックネームであり、テディベアはテディに敬意を表して日本で作られたという歴史的背景があるとのことだった。また、テディはポーツマス条約という形で日露戦争の仲介も果たした実績も持っており、日本の偉い人から毛筆で書かれた読めもしない感謝状さえも送られていたのだった。

テディべアの正体の解明に成功したのでかつてパンナムビルとしてアメリカ横断ウルトラクイズの決勝が行われていたMetLifeビルを眺めながらManhattanを北上し、ロックフェラーセンターで高いマンゴー生ジュースを飲んだ後、セントラルパークに向かう道すがら吉田兄弟のように3本の弦で全米を熱狂させるような野望を持った若者たちの集いを横目に再び地下鉄でJFK空港に向かいニューヨークを後にすることにした。

4月30日(土)

昨夜6時50分発のUA956便にて今朝7時前にロンドンヒースロー空港に到着していた。午前9時半発ルフトハンザLH4751便に乗り換えるとお昼過ぎにはミュンヘン国際空港に到着した。空港からミュンヘン中央駅に出るべく汽車の切符を買おうとしたが、買い方がわからなかったのでルフトハンザが運営する簡単な空港バス(EURO9.5)で駅に向かうことにした。

ミュンヘン中央駅でいかにしてオーストリアへの侵入を果たすべきか現地調査をした結果、結局正攻法であるドイツ国鉄が民営化されているドイチェ・バーンの鉄道を使って一路ウィーンを目指す事にした。午後2時半頃中央駅を出発した列車は新緑がまぶしい田園地帯を疾走し、気がつくといつのまにかオーストリアへの侵入を果たしており、約1時間半後にザルツブルグに到着した。ここで列車を乗り換えてさらに約3時間半の汽車の旅でついに音楽の都ウィーンへの到着を知らせる列車のドアがウィ~~ンと開いたのであった。

列車はウィーン西駅に到着していたのでそこから地下鉄(EURO1.5)に乗り換えて国立オペラ座が鎮座する町の中心部へ向かった。今回ウィーンではANAマイレージクラブダイヤモンド会員に提供されている全日空ホテルズの無料宿泊券を利用してマサであればEURO290/泊くらいかかるところを私はただで泊ることが出来るグランドホテルウィーンに乗り込むことになっていたので、古き良き時代の豪華さを残しているロビーでチェックインをさせていただくことにした。

夜8時を過ぎてもまだ明るさが残っていたのでウィーンの繁華街を軽く練り歩くことにした。さすがに音楽の都の土曜日だけあって街のいたるところに音楽用の簡易ステージが設置されており、おびただしいほどの人々がミュージックに酔いしれていた。世界遺産にも指定されているウィーンの旧市街をさまよっているといやがおうでもヨーロッパの伝統と格式を叩き込まれてしまっている自分に気付かされるのだった。

5月1日(日)

マサよ、君は天使の歌声を生で聴いて舞い上がったことがあるか!?

というわけで、早朝よりホテルを抜け出すとブルグ庭園にあるモーツアルト像を見上げ、頭の中でアイネ・クライネ・ナハトムジークのメロディーを奏でた後、ゴシック建築の荘厳な建造物である王宮に向かった。王宮の礼拝堂で日曜日のミサが行われることになっているのだが、そのミサにウィーン少年合唱団がレギュラー出演しているとの情報を入手していたので早速チケットの入手を試みることにした。チケット売り場と思われるところは多少の行列が出来ていたので周辺の様子をうかがっているとオーストリアレッドのジャケットを身にまとったツアーコンダクター系のおばちゃんが公認ダフ屋よろしく買い占めたチケットを道行く観光客に売りつけていた。入場券にはEURO14と記載されていたが、おばちゃんのコミッション込みの合計EURO19を支払ってチケットを入手することに成功した。

ミサ見物の座席は指定席になっており、係りの者に2階のレフト観覧席に案内された。ミサは定刻の9時15分からスタートし、神父のおことばとともに中年賛美歌隊の合唱が音響の良い礼拝堂に広がるとその後を追うように3階センターバックスクリーンの上部にミニオーケストラと中年コーラス隊を従えたウィーン少年合唱団の天使の歌声が参拝者を包み込み、神父と中年と少年の見事なコラボレーションが生み出されていた。約1時間のミサの終了間際に少年合唱団は1階の祭壇前にお目見えし、礼拝堂の中央に陣取っているミサのレギュラー参加者である地元クリスチャン達と2階と3階の観覧席に閉じ込められているひやかし観光客に向かって挨拶をすると大きなスタンディングオベーションが沸き起こったのであった。

天使の歌声により背中に翼が生えた感覚を覚えたのでその勢いでウィーン中心部をうろついているとふと運命的な出会いを感じた。するとそこには「エリーゼのために」や♪キッスは目にして♪http://homepage3.nifty.com/poptrip/single/ippatu/venus.htmlの作曲家として有名なベートーヴェンの銅像が睨みを利かせていた。その近くの緑多き市立公園にはシューベルト像やあの「トムとジェリー」にも採用されたことで有名なワルツの帝王ヨハン・シュトラウス像が黄金のヴィオラを弾きながらドナウ川へ誘ってくれたのでそのままドナウ運河に向かうことにした。かつて美しき青きドナウと呼ばれたドナウ川であるが、ウィーン市内を流れている運河の部分は屋形船が浮かんでいる♪春のうららの隅田川♪と何ら違いがなかったように思われた。

世界遺産であるウィーン市街はリンク(環状道路)の内部が主な観光エリアとなっているのだが、その中心にシュテファン寺院が高さ137mの尖塔をそびえたたたせている。13世紀の後半から300年の歳月をかけて建立されたこの寺院はオーストリア最大のゴシック教会である。寺院の塔では世界3位の高さを誇っている尖塔の73mの地点までEURO3の支払いで登れることになっていたので343段の狭い螺旋階段を駆け上がり73mの高みからウィーンの市街地を見下ろすことに成功した。

ウィーンを都とし、ヨーロッパに君臨、栄華を極めたハプスブルグ家ゆかりのシェ-ンブルン宮殿に地下鉄に乗ってやってきた。EURO8.9の支払いでインペリアルツアーに参加するとオーディオセットからドイツ語なまりの日本語が聞こえてきたのでおばちゃんの話に耳を傾けているとここは昔マリア・テレジアという田中真紀子の数百倍の権力を持つ女帝が仕切っており、かの有名なベル薔薇マリー・アントワネットは彼女の16番目の子供兼末娘で政略結婚のだしにされていたということであった。また、ここは6歳の鼻たれ小僧時のモーツアルトがマリア・テレジアやマリー・アントワネットの前で演奏し、拍手喝采を浴びた部屋を見物出来ることがひとつの目玉となっている。

ベートーヴェン、シューベルト、モーツアルトといったクラシックの巨匠が埋葬されている中央墓地がウィーン市のはずれで墓参り観光客を待ちわびているのでトラムという路面電車に揺られてやってきた。墓地は広大なため、ビジターセンターで巨匠の墓を確認しようと思っていたのだが、閉まっていたので墓地のレイアウトの把握が出来ず、仕方なく墓地のサイト内ではあるがリモートで巨匠達の墓参りを済ませておいた。

5月2日(月)

2日間無料宿泊させていただいたグランドホテルウィーンを後にするとウィーン西駅から列車に乗りザルツブルグを目指した。約3時間の汽車の旅で午前10時前にザルツブルグ中央駅に到着すると一目散に街の中心部を目指した。

アルプスの麓であり、音楽祭で有名なザルツブルグは映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台として世界各国から数多くのミュージカルファンを集めている。私もふいにボイストレーニングをしなければならない衝動にかられたのでミラベル庭園で踊りながら♪ド~はド~ナツぅのド~♪から始まるドレミの歌のフルコーラスを熱唱し、その勢いでモーツアルトの住居(EURO6)に向かった。

17歳~24歳にかけての8年間を過ごした住居は第二次世界大戦で破壊され、その後日本企業の寄付により96年1月に再公開となっていた。おなじみのオーディオでの解説を聞きながらモーツアルト自筆の楽譜や書簡や貴重なお宝である楽器を見ているとさらにモーツアルト出生の秘密を解明する必要性にかられてしまったので川を越えて世界遺産に指定されている旧市街に突入し、モーツアルトがおぎゃ~と生まれた生家(EURO6)になだれこんだ。1756年1月27日にこの地を支配する大司教の宮廷音楽家レオポルト・モーツアルトの子として生まれたヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトはその類まれなる才能から神童と呼ばれていたことはあまりにも有名であるが、ここに来るとその神童ぶりがひしひしと感じられるのだった。

岩山に囲まれたザルツブルグ旧市街はモーツアルトの生家の他にも音楽祭の会場や教会、墓地、大聖堂など見るべきものがたくさんあるのだが、岩山の上にホーエンザルツブルグ城塞(EURO8.4)が下界を見下ろすいでたちで構えているので急な坂道を這い登って入城を果たすことにした。1077年に大司教ゲーブハルトによって建立された中世の城塞建築からはザルツブルグの市街が一望出来るほか、遠く雪を抱いたアルプスまで見渡すことが出来るのだ。

城塞を下ったところで「サウンド・オブ・ミュージック」ゆかりのノンベルク修道院を発見したのでジュリー・アンドリュース系のシスターをストーキングして私の最大の悩みである民営化後の郵政と郵貯に代わる財政投融資の財源についての物語を語り尽くそうと思ったのだが、修道院は男子禁制なので♪エーデルワイス♪を歌いながら引き下がり、そのまま列車に乗ってミュンヘンまでエスケープと相成ったのだ。http://cinemakun.com/soundmusic/

5月3日(火)

マサよ、君はディズニーのシンデレラ城が手本としたドイツの古城を目の当たりにしたことがあるか!?

ということで、ミュンヘンからまたまた列車に乗ってロマンティック街道の最南端であるフュッセンまで2時間もかけてやってきた。ドイツは数多くの古城を観光の目玉としているのだが、ここにはその頂点に君臨するすばらしい城郭が存在しているのだ。

フュッセン駅からバス(EURO1.55)で数分走ると古城のチケット売り場に到着した。ここではホーエンシュウヴァンガウ城とノイシュヴァンシュタイン城を見物出来るのでEURO17を支払ってコンボチケットを購入した。城内はお得意のオーディオガイド付きツアーで回ることになるので城には決められた時間に行かなければならない。まず最初に見物したホーエンシュウヴァンガウ城はライオンの噴水に守られた一見すると普通のライオンズマンションのような外観であるが、一歩中に足を踏み入れると手抜き工事の得意な日本の大手ディベローッパーでは施工することが出来ないような豪華な内装が施され、また日本のホームセンターでは決して購入する事が出来ない高価な家具・調度品が絶妙のバランスで配置されていた。

ノイシュヴァンシュタイン城は道を挟んだ反対のさらに高い場所に位置しており、足腰の弱い観光客は金の力に物を言わせて2馬力の乗り合い馬車で坂を登るのだが,私は恒例の徒歩で城を目指した。かつてのバイエルン国王ルートヴィッヒ2世が1869年から17年の歳月と巨額の費用をかけて建立したこの城はディズニーランドのシンデレラ城や「恋のから騒ぎ」城http://www.ntv.co.jp/koikara/のモデルになったと言われており、ヨーロッパの中世の古城の典型的な建築スタイルに祭り上げられているのだ。ただし、この城のすばらしいところはアルプスの麓に位置する風光明媚なロケーションであると思われ、都会の真中に存在してしまうと普通のラブホテルに成り下がってしまうのではないかと懸念された。

耽美的芸術を愛してやまなかったルートヴィッヒ2世はワーグナーに心酔し、ワーグナーを招待するためにこの城を建立したとも言われているのだが,薄情なワーグナーは一度もこの城を訪れることはなかったそうだ。ちなみにこの城の美しい全景を写真撮影出来るスポットとしてマリエン橋というつり橋が掛けられており、その上で数多くのGW日本人観光客のミーハーな嬌声がこだましていたのだ。ドイツ観光の目玉となっているロマンティック街道ははるかヴュルツブルグから始まっており、日本人観光客は長年の缶コーヒーの飲みすぎで太ってしまったCCBを見て♪む~ねが、む~ねが、くるしくなるゥ♪とさもロマンティックが止まらない勢いで南下してくるのだが、皮肉にもロマンティック街道はこの地で終焉を迎えるという事実に直面してしまうのだ。http://music.yahoo.co.jp/shop?d=c&cf=10&id=upch5297

列車の車窓から牧草地の緑とたんぽぽイエローの牧歌的な風景に酔いしれながら夕暮れ時にミュンヘンに帰ってきた。ミュンヘン中央駅から街の中心であるマリエン広場へと向かう道すがらバーの軒先で会社帰りの労働者が楽しそうにビールを飲んでいる光景を見ながら、これぞマサに念願であったどいつもこいつもドイツ人という好環境に身を置いていることを実感させられた。また、ミュンヘンではストリートライブもオーケストラ風のクラシックを演じており、道行く人はヨハン・シュトラウスのワルツに酔いしれながらビールで悪酔いしていくのであった。

5月4日(水)

午前11時55分の飛行機に乗るために午前中にミュンヘン中央駅に向かった。日本では高嶺の花となっているベンツがドイツやオーストリアではクリーム色のタクシーとして庶民の足となっており、BMWはパトカーとして犯罪者の送り迎えをしてくれるような駅前のロータリーからバスに乗りミュンヘン空港への帰路を急いだ。

ミュンヘンからUA903便、B777-200機でワシントンDCにひとっ飛びし、DCからJFKに到着した時間は午後7時近くになっていたので今日は空港近くのBestWesternに引き払って明日の長時間フライトに備えることにした。

5月5日(木)

午後12時15分発ANA009便に搭乗すべく、JFKのファーストクラスラウンジにて今回のツアーでは私がそ~と~自信を持って使えるドイツ語である「ハイル・ヒットラー!!」を使う機会がなかったことを深く反省し、ナチス党のマークに思いを馳せていると何故か日本のお寺のシンボルである卍が私の脳内を駆け巡る衝動を感じ、ふとラウンジのソファーの方向に目をやると卍固めをかけられたように体が硬直してしまった。そこにはまるで闘魂が燃え尽きてしまったかのような猪木が巨体をソファーに沈み込ませていたのだった。

5月6日(金)

飛行機は定刻どおり成田空港に到着し,そそくさと入国審査の方に歩を進めた。私の列の隣の列に並んでいた猪木の直前で入国審査を受けていた外国人は間違って日本人用の列に紛れ込んでしまったと見えて何かの書類を書かされていた。このもたつきに剛を煮やした猪木が後ろから怒りの延髄斬りをお見舞いする光景を期待していたのだが、闘魂の燃え尽きている猪木には「元気ですかぁ~!」と叫ぶ気力も残されていないようであった。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥88,190(ANA) + $614.81(UA)

総宿泊費 $215.2  + Euro156

総ワシントンDCバス代 $8

総ワシントンDC地下鉄代 $8.2

総GREYHOUNDバス代 $29

総ニューヨーク地下鉄代 $10

総AirTrain代 $5

総ルフトハンザ空港バス代 EURO19

総ドイツ・オーストリア鉄道代 EURO184.7

総オーストリア地下鉄・トラム・バス代 EURO7.55

協力 ANA、ユナイテッド航空、ルフトハンザ航空、DAYSINN、全日空ホテルズ、STARWOODS HOTELS、BestWestern、

        ドイチェ・バーン、オーストリア連邦鉄道、猪木事務所http://www.inokiism.com/

FTBJ炎の離島デスマッチ第?弾 与論

マサ率いる財務省と小泉政権の失政にもかかわらず日本経済はゆるやかな回復基調を示してきた今日この頃であるが、先般からの中国と韓国における反日デモのあおりを受けて日本の行く末に再び暗雲が垂れ込めて来た。今回のFTBは日々熾烈を極めているデモの最中、日本の領土を主張するために尖閣諸島か竹島に上陸することも考えられなくもなかったのだが、各国の世論の動向なども考慮して与論島に落ち着くことになったのだ。

4月16日(土)

午前8時55分発ANA123便沖縄行きB747-400機は定刻通り羽田の第二ターミナルを出発すると11時40分頃にはお馴染の那覇空港に到着し、そのまんま東の?ANAからJALへとターミナルをまたぎJTAの搭乗口を間借りしている琉球エアーコミューター乗り場でRAC815便の出発時刻を今や遅しと待ちわびていた。垂直尾翼にシーサー紋様をあしらったDHC8型プロペラ機39人乗りは午後1時15分頃けたたましいプロペラ音をともなって那覇空港を離陸すると沖縄本島を北上し、わずか25分程のフライトで与論空港に到着した。

空港にて予約しておいたホテルのバンが迎えに来ていたのでそそくさと乗り込み、今日の宿泊先である与論コーラルホテルへ向かった。チェックインを済ますと早速島の探索に向かうために24インチママチャリレンタサイクルにまたがり、島沿岸部のサイクリングロードに沿って勢い良くペダルを漕ぎ始めた。美しいピンクの後羽もまぶしい体調8cmにもおよぶタイワンツチイナゴやトノサマバッタが先導するサイクリングロードは数々のビーチに繋がっており、サンゴの死骸が粉砕されて形成されたまばゆいほどの白砂のビーチがどこまでも続く景色を思う存分堪能することが出来たのであった。

島の東部の大金久海岸から百合ヶ浜を見渡せるビーチリゾート地帯でママチャリを止め、看板の地図を眺めながら佇んでいると明るい漁村系の色黒おやじが果敢にもグラスボートの営業を仕掛けてきたので船に乗って透明度の高い海原に乗り出すことにした。船底に貼り付けられたガラス越しに見える海の底はおびただしいほどのサンゴの死骸で溢れていたのだが、船が海中公園と呼ばれるテーブルサンゴの生息地帯に近づくと段々と生きたサンゴの数が多くなってきた。船頭はとあるお魚見物スポットで船を停めるとサンゴの隙間から鯛系の魚が最近露出度の多くなったWinkの推薦する無表情な「淋しい熱帯魚」を伴って♪ロンリー、ゆらゆらスイミン♪というようなリズムを奏でながら次から次へと船底ガラスを横切っていった。http://norikochan.s1.xrea.com/wink_samishii_b10.html

船は百合ヶ浜という沖合い1.5kmに浮かぶ干潮時にのみ姿を現す美しいビーチに到着するとすでに先着観光客がシュノーヶリングや砂あさり等のアクティビティに精を出していた。ここは星砂のビーチとして有名であり、年の数だけ星砂を見つけるといいことがあると言われているのだが、いくら道端でお金を拾う技術がすぐれている私であっても14個もの星砂は見つけられないと思ったので捜索を断念することにした。

与論の美しい海を思う存分堪能したので再びママチャリにまたがりホテルへの帰路に着いた。途中茶花という与論随一の繁華街でふとアメリカ軍に囚われた中東の独裁指導者が大量破壊兵器も見つからないのにむりやり口をこじ開けられるような感覚を覚えふと見上げるとそこには与論島民の虫歯治療を独占しているはずの「サダム歯科医院」という看板がマサに隣の沖縄本島を侵略しそうな勢いで与論の青空を引き裂いていた。

4月17日(日)

マサよ、君は与論の新しいダイビングポイントを目的に無理やり海の藻屑とされた沈船あまみを知っているか?

ということで、美しい朝のビーチの光景を見ながら朝飯を食った後、与論コーラルホテルをチェックアウトすると島の南部の高台の方面に徒歩で向かうことにした。今では石垣しか残っていない与論城の隣に鉄筋コンクリート5階建て展望台を持つサザンクロスセンター(¥200)がそびえていたので入館してみることにした。最上階の5階は360度の展望を誇っており、天気のいい日には23km南の沖縄本島最北端の辺戸岬も眺めることが出来、また、南十字星が観測出来る最北端の地が与論島であることからサザンクロスの名が付けられているそうだ。

鹿児島県奄美群島の最南端である与論はサンゴ礁が隆起して形成された島であり、その周りはぐるりとサンゴ礁のリーフに囲まれている。27年の長きに渡り、奄美群島の海を守り続けた海上保安庁の巡視船あまみが与論の海の守り神として帰ってきているらしい。しかもダイビングポイントの目玉として島の西側500m沖に無理やり沈められるという強引な手法まで用いているそうだ。サザンクロスセンターでは当然そのような荒業を正当化する資料も展示されているのであった。さらに与論はギリシア国ミコノス市の姉妹盟約都市としてヨロンRUNAURU王国として外国人である日本人の来島をいまや遅しと待っている独立国ごっこをして喜んでいるという驚愕の事実にも直面してしまったのだ。

いずれにしても周囲わずか22kmの小さな島に原住民が6,300人、淋しい熱帯魚が24億匹、動物が6,000頭共存している与論はロマンと神秘に満ち溢れた南海のパラダイスであることは間違いなく、ここに来たことがない外国人は一生後悔することになるであろうと思われた。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥400(ANA) + ¥18,500(RAC)

総宿泊費 ¥10,500(2食付き)

総レンタサイクル代 ¥1,300

総グラスボート代 ¥3,000

協力 ANA、琉球エアーコミューター、与論コーラルホテル、百合ヶ浜グラスボート組合

FTBSEAエキサイティング インド入門

♪インドの山奥で しゅ~ぎょ~をしてぇ~ ダイバダッダのたましいやどしぃ♪http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/tvhero10.html

というわけで、かつてタケチャンマンとよばれたこともある私であるが、当時相手にしていた敵はブラックデビル、妖怪人間しっとるけ、なんですか~マン、アホちゃいまんねんパ~でんねん等の単なる色物系に過ぎなかった。さらなる強敵「死ね死ね団」http://www.urban.ne.jp/home/ak1go/Rein2.htmlに対抗するためにはインドへ行ってダイバダッダの下で修行をしてレインボーマンにならなければならない。なぜなら、ダイバダッダではなく台場程度でしか修行をしていないであろう財務官僚であれば、不祥事を起こしたときにせいぜい「レ陰謀マン」の土の化身に変身して地中深くもぐることしか出来ないと思われたからだ。

2005年3月16日(水)

ANAのマイレージが余っていたのでマサであれば14~15万くらいかかるところを私はただで入手していた東京-バンコク往復チケットを手にANA953便にて定刻10時20分に成田を出発した。午後3時頃にはB767-300機は着陸体制に入り、眼下を見ると何と空港の敷地内に紫外線対策を施したキャディを従えてクラブを振り回している輩を多数発見してしまった!今までタイ国際空港には夜しか来たことがなかったので気がつかなかったのだが、ここには滑走路と滑走路の間にゴルフ場が展開されており、飛行機の離着陸の騒音に悩まされながらダブルボギーで回ることが出来るのだった!!

バンコクはインド各都市との乗り継ぎ便が多いため、今回はタイ国際航空を利用してデリーを目指すことにした。TG315便、A330機は定刻より少し遅れて午後8時15分頃離陸し、3時間強のフライトで深夜デリーのインディラ・ガーンディー国際空港に到着した。早速空港内の銀行でUS$70を提出するとインドルピー(Rs)2,950になって返ってきたので、札束を握りしめて空港バスに乗ることにした。EATS社というオンボロ系の空港バスが停泊していたので早速乗り込み出発を待っていたのだが、何と客が私以外にいなかったのでおっさんが運行をキャンセルするので他のバスを待てと言いやがった。30分くらいするとDTC(Delhi TransportCorporation)社のバス(Rs50)が現れて今度は多少インド人の乗客も増えていたのでバスは無事に走り出すことになったのだが、空港を出ると深夜にもかかわらずひどい渋滞に巻き込まれてしまったのだ。

20km程度の道のりを1時間半程かかったのであろうか、バスがデリーの中心部のコンノートプレースに到着するとバスを降りて予約しておいた☆☆☆☆☆ホテルであるメトロポリタン・ホテル・ニッコーを探すことにした。暗がりの中地図と方位磁石を頼りに街中をさまよっていると地面に人が寝ていたり、犬が追いかけて来たり、怪しいオートリクシャーの運転手がしきりに客引きしようと迫ってくるので最高レベルの注意をしながらホテル方面に早足で歩いていた。

30~40分くらい歩いているとうまく方向感がつかめてきて、Hotel Nikkoへの道のりを示す道看板も現れてきたので多少安心感が広がったころ思いもつかぬ出来事に遭遇してしまった。とあるインド人のおっさんががしきりに「Where are you going?」と何度も声をかけてきてしつこく付きまとって来たので無視して歩いていると奴はいきなり背後から私の後頭部をはたくという暴挙に出やがった。「早速死ね死ね団の手先の登場か!?」と思い、延髄斬りナマステバージョンで応戦しようかと思ったが、インドに来ていきなり引導を渡すか渡されるかの大立ち回りを演じるにはまだ修行が足りないと思ったのでここは六本木のマハラジャで鍛えたカレーな!?ステップを駆使して攻撃をかわし、一目散に逃げることにした。

何とか死ね死ね団員?の魔の手を逃れてホテルにしけこみ、落ち着いた頃には深夜の2時を回った時間帯であった。いずれにしても深夜のデリーを徘徊することが非常に危険な行為であることが教訓として深く刻み込まれたのであった。

3月17日(木)

朝8時半頃目を覚ますとここデリーは日本との時差が3時間30分という中途半端な時間体制を取っていることに気づかされた。早速ホテルを出て昨夜恐怖を演出した町並みが朝方どのように変化しているかを確認するために昨日通った道筋に沿ってコンノートプレイスを目指した。ホテルから出てほどなくすると何がしかの客引き系の輩が入れ替わり立ち替わり話かけてきて目的地のコンノートプレースではない路地の方向に私を導こうと躍起になっており、1人あたり平均100mはくっついて来たので適当にいなしながら進んで行った。

ニューデリーのヘソと言われ、リング状に繁華街を形成しているコンノートプレースはイギリスの植民地時代の都市計画によって建設されたニューデリーの中心のひとつでここから各方面に放射状に道が伸びているのだ。恐らくインドで最も発展した地域であるのは間違いないのだが、歩行者用の信号が機能していないので道を横断するのにリスクを犯さなければならないのだ。コンノートプレースをぐるっとひと周りしながら落ち着いて地図が見れる人気の少ない場所を探したのだが、あるはずもなかったのでとりあえずホテルに戻り体制と行動計画を仕切りなおすことにした。

強固な城壁とガードマンにより外界から隔離されたホテルのロビーは市内の喧騒とはかけ離れた別天地であるので地図を大きく広げて観光地を物色し、今日はニューデリー市街地の南部方面を散策することにし、気を取り直して民衆の渦の世界に再び舞い戻ることにした。1時間ほど歩いて国立博物館(Rs150)に到着した。ここにはインダス文明から中世、近代にかけての貴重なお宝が数多く展示されているのだが、中でもゴダイゴが喜びそうなガンダーラの仏像やヒンドゥー寺院の彫刻、神像等が目を引いた。国立博物館から東に目をやると高さ42mのインド門が第一次世界大戦で戦死したインド兵士の慰霊碑としてそびえているので見物しに行ってきた。さらに逆方向の西側の丘の上には大統領官邸が鎮座しており、その近辺には陰謀渦巻くであろう国会議事堂の円形の建物が建ち、一大官庁街を形成していた。

午後4時頃にコンノートプレースに戻り、マクドナルドで遅い昼飯を食うことにしたのだが、ヒンドゥー教徒が仕切っているマックのメニューには牛を殺生して挽肉にしたハンバーガーのメニューはなく、チキン、フィッシュ、べジーやカレー等のオリジナルメニューが幅を利かせていたのでMac Curry Panセット(Rs99)という長方形のナン系の土台にインドカレーが流し込まれた物を発注した。尚、メニュー表で燦然と輝いていたマック・マハラジャ・チキンという代物がビッグ・マックに相当する物であろうと予想された。 

インドの街中を歩いていると当然のように民族衣装であるマハリク・マハリタ系のサリーを着こなした女性が闊歩している姿を見かける。私も少しでもインドに溶け込むためにサリーにあやかり、せめてサリパパ(サリーのパパ)ヘアーの寝ぐせをつけるために無意識にホテルのベッドで頭を枕に擦りつけながら奮闘したのだが、成果物は単なるカブの後ろ髪にとどまってしまった。 

3月18日(金)

昨日は主に新興のニューデリーを散策させていただいたのだが、今日は恐怖の人間のるつぼと言われるオールドデリーに満を持して足を踏み入れることにした。デリーは言わずと知れたインドの首都であるが、それがニューデリーを指すのか普通のデリーなのか素人には判断が付きにくいものであろう。原住民がオールドデリーと呼ぶ普通のデリーはニューデリーに隣接しており、それらの位置的関係は横浜と新横浜というよりもむしろ大久保と新大久保に近いと思われたのだが、一歩オールドデリーに足を踏み入れると町の雰囲気が一変してしまうのだ。

コンノートプレースのすぐ北側はすでにオールドデリーであり、ニューデリー駅でさえ、オールドデリーの一帯に組み入れられているのだが、そこには無数の人間とオートリクシャー、サイクルリクシャー、野良犬、牛等が交差する一大無法地帯の様相を呈していた。牛の中には荷物引きとしての定職に就いて活躍しているものもいるのだが、多くの牛はフリーターとして道端でだらだらした生活を送っているようで、この地域はほこりと人いきれと牛でマサにモ~モ~とした空気に満ち溢れていた。但し、野良犬にとっては食い物がたくさん落ちているのでワン!ダーランドと言えるのではないだろうか?

オールドデリーを代表する観光地としてRed Fort(赤い砦)と呼ばれるラ-ル・キラー(Rs100)が17世紀のムガル帝国の栄華を偲ばせるような出で立ちで君臨しているので入ってみることにした。赤砂岩で造営された堂々たる城壁の内部は緑の芝生と重厚な建物群のコントラストが美しく、その上、外界から隔離されているので観光地というよりも人込みに揉まれて疲れきった観光客が自分を取り戻すための避難所として有効に機能しているのではないかという気さえした。

ラ-ル・キラーから距離的に近いのだが、人込みをかき分けなければならないので到着するのに時間がかかる場所にジャマー・マスジッドというイスラムのモスクが町を見下ろす高台にそびえているので靴を脱いでお邪魔させていただくことにした。1658年に完成し、インド最大の規模を誇るイスラムのシンボルは赤砂岩と白大理石を配した美しいドームやミナレット(塔)から成り、中庭は2万5000人を収容可能な広さを誇っている。金曜日は集団礼拝の日ということもあり、本堂の前には安物のじゅうたんをはじめとした礼拝体制が敷かれていた。

3月19日(土)

今回のインド入門ツアーの予定としてインド北部の3主要都市の徘徊が組まれていたので、早朝ホテルニッコーをチェックアウトするとインド門にほど近い、ジャイプル行きバスターミナルへ向かった。一昨日下調べをしておいたにも拘らずFTBのコンピューターを狂わすインドの魔術にはまったおかげでバス停の場所を探し出すのに大変手間取り、予定のバスよりも遅い午前11時発のGold Line Volvo(Rs435であるはずなのにRs500取りやがった)に実車することになった。

ところで、インドは暑いのでスポーツはインドア系のものが盛んであると思っていたのだが、バスの待合室では皆インド対パキスタンのクリケットの試合に夢中になっており、広場では大人も貧乏そうな子供もクリケットに興じていた。

エアコン付きの高級バスであるため、外国人観光客と裕福なインド人を乗せたVolvoバスは定刻通りに出発し、デリーから南西へ266km離れた広大なラジャースターン州の州都であるジャイプルを目指した。乾燥した砂漠の州であるラジャースターンの内部に踏み込むにつれてラクダが荷物や建築資材を載せた荷車を引っ張っている光景を頻繁に目にするようになる。バスは途中休憩所での30分程度の停車を含めて6時間余りの時間をかけてジャイプルの中央バススタンドに到着した。

バスを降りるとお決まりのオートリクシャーの客引き攻撃をかわし、持っていた地図を頼りに今日の宿泊地の位置のあたりをつけるために鉄道駅近くの州政府観光局を目指して歩き始めた。デリーよりも整然とした町並みを北に向かって歩いていると思いがけず赤褐色ピンク色の城門を持つ城壁に囲まれた町に行き当たってしまった。とりあえず目的地は北だと思い、さらに進んでいると町中にはおなじみの牛だけでなく、豚、やぎ、にわとりがうごめいており、マサにわくわく動物ランドの様相を目撃してしまったのだ。

地図を慎重に見ながら夕暮れ時のジャイプルの町を縦横無尽に歩き回ったのだが、なかなか目的地を見出すことが出来なかったので仕方なく、近くの高級ホテルで客待ちをしているタクシーに頼ることにした。老人ドライバーにホテル名を告げると彼はすぐにホテルの場所を理解しなかったため、次の順番待ちの怪しげな若者ドライバーが割って入るように私が持っていた地図を覗き込みながら場所の指南を始めた。老人が場所を理解し、古いセダンに乗り込むと横から若者ドライバーがいい土産物屋を知っているので寄っていかないかとか窓を空けてくれたりとかのおせっかいを焼きやがった。私を乗せた老人のタクシーが走り出してしばらくするとホテルまで何分くらいの時間がかかるか調べようと思って左手首にふと目をやるとそこにあるはずのFTB仕様のダブル時間帯高級ウォッチが忽然と姿を消していることに気づいてしまった。そ~か、若者ドライバーもきっと死ね死ね団の一味に違いないと後々から気づかされる羽目に陥ってしまったのだった。

罪のない人の良さげな老人の運転するセダンは器用に人込みを掻き分けて何とか宿泊先であるTrident Hilton Jaipurに到着した。ロビーで観光マップをもらい、私が頼りにしていた地図と見比べてみるとまたしても驚愕する事実に直面してしまった。何と通常は地図の上部は北を示すルールがあるにも拘らず、私が見ていたものは端っこに小さいマークで右方向が北だと示すNマークが付けられており、またしてもインドの魔術に引っかかってしまったような屈辱を味わってしまった。 

3月20日(日)

腕時計をスられていたのでバックアップ用に携帯していたコンパクト目覚ましクロックをポケットに忍ばせてホテルをチェックアウトすると昨日訳もわからずさまよい歩いた城壁町である旧市街の中心にリベンジ観光に出ることにした。

世界最大の日時計が設置されたジャンタル・マンタル(Rs50)という1728年に建設された天文台で数多くの天文観測ファシリティを見物した後、今もマハラジャが暮らしていると言われるシティ・パレス(Rs180)に侵入した。この建物は時のマハラジャ、サワーイ・ジャイ・スィン2世により1726年に建立されたもので一部が博物館として公開されている。主な見所はTexitileという展示館でマハラジャ名物であろうお立ち台や羽毛の付いたジュリ扇は無いものの歴代のマハラジャの豪華絢爛な衣装が展示されている。 

風の宮殿という異名を持つHama Mahal(Rs5)の彫刻を施したテラスが涼しげにバザールの大通りを見下ろしていたので裏通りから中に入って暑い砂漠の中の清涼剤のような涼しい風を受けるために工事作業員に気を使いながら上まで登り不毛の山に囲まれたジャイプルの町並を眺めた後、通り沿いのバス停から市バス(Rs5)に乗り、ジャイプル随一の観光地であるアンベール城に向かった。

市街地から北東へ11km、インド人と一緒に30分程ブーゲンビリアの花が咲く山道をバスに揺られると荒涼とした丘の上に要塞のような城壁が見えてきた。16世紀にはカチワーハ家の王国(アンベール王国)の首都であったこの地にジャイプルの威信をかけて築城されたアンベール城(Rs50)が建つ丘の上に行くには名物のゾウのタクシーが運行されているのだが、私はゾウの糞を避けながら徒歩で登ることにした。城内の敷地の中にはゾウのターミナルだけでなく、鏡をちりばめた幾何学的な模様の装飾が見事な勝利の間(鏡の間)や美しい庭園、堂々とした門構えのガネーシャ門等が目を引いた。

アンベール城からさらに30分程登った山上に難攻不落のジャイガール要塞(Rs35またはCityPalaceのチケットに含まれる)が構えているので炎天下の中、最後の力を振り絞って登頂することにした。この要塞は1036年に建てられ、アンベール城が完成するまでマハラジャが住んでいたそうだ。好立地条件?のおかげで一度も敵の手に落ちたことがないので非常に保存状態よく残っている。ここに美しい空中庭園があり、ここから見下ろすとアンベール城や市内が一望出来るのだ。また、この近辺にはガン黒系の尾長ザルが集団で生活しており、彼らも景色を見ながらサルとしての人生を考えているようであった。

美しいジャイプルの観光を終えると予約しておいた高級ホテルであるRajputana Palace Sheratonに引き払い、バイキングで提供されるインド料理を食いながらマハラジャの雰囲気に浸り、乾燥した夜を過ごすことにした。

3月21日(月)

外界から隔離された別天地のSheratonホテルをチェックアウトすると中央バススタンドにて9:30発のアグラ行きエアコンなし、デラックスバス(Rs125)に乗り込み、インド北部3都市トライアングルツアーの最後の目的地であるアグラを目指した。ジャイプル-アグラ間のバス路線は総じて片道一車線の田舎道でバスはトラックやトラクターやラクダを追い越しながら進み、時には将来マトンカレーの材料になるであろう羊の群れに行き先を遮られもした。6時間半ほどの時間をかけてバスはアグラのイートガー・バススタンドに到着したころには全開した窓から入ってくるほこりでそれなりに体中が汚れていることに気づいた。 

バスを降りた際のお決まりの客引き攻撃はうまくかわしたものの、道行くヘビ使いが「俺の技を見ろ!」と言わんばかりにコブラの首を持って追いかけてきたのでコブラツイストで応戦するわけにもいかず、そのままロープに飛んだ勢いで逃げることにした。アグラの町並みを見ながら約7kmくらいの道のりを1時間ほどかけて宿泊先のTrident Hilton Agraに到着し、とりあえず最終目的地のアグラに着いてほっとしたので今夜は梓みちよの「二人でお酒を」http://norimitsu.cool.ne.jp/uta/hutarideosake.htmlの2番をあぐらをかきながら歌ってくつろぐことにした。

3月22日(火)

マサよ、君は世界で最も美しい建築物であるタージ・マハルの迫力にタジ、タジになったことがあるか!?

ということで、今回のツアーのハイライトとも言えるタージ・マハル(Rs250 + Rs500 for ADAチケット、いわゆるインド考古学局へのみかじめ料)をついにこの目で見ることに成功した。ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃のために22年の歳月をかけて建立した白大理石の世界一豪華な墓であるタージ・マハル(世界文化遺産)はアグラの青空の下で圧倒的な存在感を示していた。その美しいシルエットを見るために世界各国から観光客が殺到し、皆裸足で大理石の上を歩いて足の裏から頭の先まで感動に浸っているようだった。尚、シャー・ジャハーンはヤムナー川の対岸に自らの墓として黒いタージを建立してタージ・マハルと橋でつなぐという壮大な野望を持っていたそうであるが、自分の地位を狙うバカ息子に拉致されて叶わぬ夢となったといわれている。

タージ・マハルから2km程北西のヤムナー川の河岸に1565年に建立されたアグラ城(Rs250)がムガル帝国の権力を誇示するかのようにその赤砂岩の城郭をそびえたたせている。城の内部には当然のごとく宮殿や謁見の間や庭園等のすばらしいファシリティがあるのだが、シャー・ジャハーンがバカ息子に幽閉された塔(囚われの塔)からはタージ・マハルの姿を眺めることが出来るので観光客は「なんでわいがこんなめに遭わなあかんねん?」とシャー・ジャハーンの気持ちを代弁することも出来るのだ。 

今回はスケジュールの都合で訪問できなかったのだが、アグラ近郊にファテープル・スィークリーという壮大な都城の遺跡がある。ここは莫大な金で築城したにもかかわらず、水不足が原因でわずか14年後に立ち去らなければならなかったという事情を持っており、中世インド版厚生年金基金の掛け金で建てた箱物の廃墟の様相を呈しているはずで今後社会保険庁の慰安旅行の目的地として役人は「ほれ見たことか!」と皆癒されに来ることが予想されよう。

3月23日(水)

早朝よりホテルからオートリクシャーでイードガー・バススタンドに移動し、そこからデラックスバスではない普通バス(Rs110)でデリーへの帰路につくことにした。川べりで連れ野グソをしている老人と少年等ののどかな光景を見ながらバスはより整備の進んだアグラ-デリー間の道路をこれまでよりも少ない数のクラクションを鳴らしながら疾走した。 

普通バスの硬いシートにケツが馴染んできた6時間後くらいにバスはデリーに到着した。バスターミナルの近くにフマユーン廟(Rs250、世界文化遺産)という皇帝の墓が君臨していたので立ち寄ることにした。1565年に建立されたこのファシリティは庭園の中に廟を置く形式で、後に影響を受けて建てられたタージ・マハルのモデルとなったイスラーム建築の傑作である。

再びオールドデリーの喧騒の中に舞い戻ってきた。通常の都会であれば車で道が渋滞しているのであるが、ここでは人間とリクシャーと牛等で身動きが取れなくなってしまうという恐ろしい状況を体験することが出来た。小腹が減ったのでコンノートプレースのマクドナルドに寄ることにした。ここで野蛮な肉食獣に無理やり連れてこられた羊系のベジタリアンが食うに困らないために編み出されたメニューであるマックべジーを賞味させていただいたのだが、カレーコロッケ風で以外にも美味だったのだ!

3月24日(木)

深夜0:05発のタイ国際航空TG316便のチェックインをしている最中に実はインドの魔術により、搭乗日を一日間違えてしまったことが発覚した。すでに修行を積んでいる私はカウンターですっとぼけてまんまとこの日の便に潜り込むことに成功した。金に関することはマサに黄金の化身に変身して解決すれば良いだけの話であった。

早朝6時前にはバンコクに到着してしまった。成田行きの便の出発は夜になるので時間は有り余っているのだが、今回はタイに入国せずにタイ国際空港内で生きることにした。タイ国際航空の乗換えカウンターの近くにDay Room Serviceという空港内時間制ホテルサービスがあったので2,100バーツの支払いで6時間使用させていただくことにした。このファシリティにはベッド、テレビ、シャワーや飲み物が完備されており、深夜タイ空港に着いて翌朝早く出発する際には非常に有用であると思われた。

ANAの乗り継ぎカウンターで何とか便の調整をつけて頂き、空港内のマッサージ屋で握力の弱いおね~ちゃんに足裏をぐりぐりしてもらった後、22:25発ANA954便にて帰国、翌早朝流れ解散。

インドで引導を渡されないための有用な情報

*インドの季節について

  インドには3つの季節があると言われている。それはHot!, Hotter!!, Hottest!!!だ。従って素人は11月~2月の冬に訪れるとよいだろう。

*インドの高級ホテル 

  財務省の出先機関である金融庁の陰謀ゼロ金利政策により銀行預金が意味のないものになっているのでHSBCインドオープンhttp://www.rakuten-sec.co.jp/ITS/topinfo/HSBC_20050207.htmlに投資している私は多少インドに金を落とすために今回は高級系のホテルに滞在してやったわけだが、城壁に囲まれた高級ホテルの中央にはプールとデッキチェアがあり、暑いインドでもスイミングと睡眠が同時に出来るようになっていることが確認出来た。

*インドの路上食い物屋について

  インドのバザールでカットフルーツや生ジュース、揚げ物やカレーが群がるハエの中で売られているのだが、今回それらの食い物には決して手を出さなかった。なぜならコンピュータとモデムを使って通信を開始した時のようにお腹がピ~ひゃら状態になることを恐れたためだ。

*インドの路上トイレ

  路上にトイレはある。しかしそれは男性用に限られ、かなりオープンな環境になっているので不幸にも不意にモデム通信が開始されてしまった場合は近辺のホテルか観光用のファシリティに駆け込むしかないのだ。

*インドで人間不信にならないために

  インドでは観光客と見るとお金をごまかしたり、だまそうとする輩が次から次に襲い掛かってくる。隙をつくらないためにうそでも良いので何か目的を持って行動すべきである。私の場合は「ダイバーの友達のダイバダッダに台場でバーターする約束をしているので、てめ~の相手はしてられね~ぜ」というオーラを発して未然に危機を防いでいたのだ。

*インドの魅力について

  とはいってもみんななりふり構わず一生懸命生きている姿に好感が持て、マサに人間の原点を取り戻すために皆インドを目指すという図式が出来上がっているようだ。

FTBサマリー

総飛行機代 ¥6,240(ANA税金) + ¥65,210(タイ国際航空)

総宿泊費 Rs33,499.27  +  US$186.90 +2,100バーツ

総バス代 Rs755 (Rs1 = \2.6くらい)

総タクシー代 Rs300

総オートリクシャー代 Rs100

総インドビザ代 ¥1,200

協力 ANA、タイ国際空港、HiltonHHonors、Starwoodhotels、Delhi Transport Corporation他インドバス会社

非協力 ETAS社

FTBスペシャル マヤの聖地にマサの正体を見た!!!

コモエスタ マサよ!!

ということで、長年にわたり私の裏の仕事であったシマンテックからFA宣言して1ヶ月あまりの歳月が流れてしまった。その間、リクルート業界の目玉を獲得するために様々な業界各社の間で壮絶な争奪戦が繰り広げられてきたのだが、FTBの次の活動資金源となる移籍先との交渉が佳境を迎えてきたため、移籍を完了させる前に古代の遺跡を巡って身を清めておく必要があると考えたので遺跡巡りに最適な環境が提供されているユカタン半島まで羽を伸ばすことにした。

2005年2月23日(水)

今月2回目の搭乗となるANA006便ロサンゼルス行きは機材到着の遅れにより、定刻より1時間半ほど遅れて離陸となったため、現地に到着したのは正午に近い時間帯であった。早速ハーツでヒュンダイ小型車をレンタルして太平洋湾岸通り1号線を北に向かって走っていたのだが、サンタモニカ近辺で崖崩れ系か何かのインシデントにより道が通行止めになっていたため、迂回してUS101号線を北上することにした。

サンタ・バーバラ沖合に野生動物の宝庫となっている4つの美しい島々が浮かんでおり、Channel Islands National Parkとして君臨している。そのビジターセンターが101号線沿いのVentura Harborに付属しているので見物してみることにした。おびただしい数のヨットが停泊している港の脇の建物の中にはChannel Islandsの各島の説明資料や動物達の剥製やレプリカが展示されていた。ビーチからはChannel Islandsの姿が遠巻きに写し出され、寒風の中をBodyボードに精を出している若者の姿も見受けられた。尚、Channel Islandsへは近隣の港から定期船が出ているのだが、今回はスケジュールの都合で訪問を見送らせていただいた。

夕飯時になったのでサンタモニカに戻り、今、日本の貧乏人に対して最も貴重なご馳走を提供する食い物屋であるYoshinoyaで牛丼を食うことにした。ここでは吉牛は供されているものの生卵と味噌汁やおしんこのオプションがなかったので仕方なく、クラムチャウダーとぺプシと一緒に米国産ばら肉を賞味した。日本の国民食である吉牛を久々に食った感激を胸に車に乗り込むとその勢いを買ってブレーキとアクセルを踏み間違えて店に突っ込むパフォーマンスをやろうかと思ったが、何故かそのままロサンゼルス空港近くのMotel6に引きこもり、玉葱の甘さをかみしめて夜を更かすことにした。

2月24日(木)

早朝6時発のUA1296便にてデンバーに飛び、そこからUA968便に乗り換えてメキシコ最強のリゾート地として多くの行楽客をかき集めているカンクンへ向かった。午後3時半頃カンクン国際空港に到着したのだが、入国エリアには見たこともないような人数のリゾート待ちの観光客でごった返していた。軽く1時間以上の時間をかけて何とか入国を果たし、US150$を1,500メキシコペソ(N$)に両替すると空港の出口近くに停泊していたセントロまでのシャトルバス(N$15)に乗り込み、カンクンのバスターミナルに向かった。

バスターミナルでユカタン州の州都であるメリダ行きの1等バス(N$191)のチケットを購入して待合スペースでADO社のバスを待っているとむさくるし系の日本人男子が「Where are you from ?」と英語で話し掛けてきやがった。私が日本人であることを把握すると奴はなつかしそうに中南米を長らく旅してきたが、初めて日本人に会ったぜと言いやがったのだが、私にして見ればいきなり会った奴が日本人であるという非常に不本意な状況が提供されてしまったわけであったのだ。

6時半にカンクンを後にしたバスはハイウエイをひた走り4時間の時間をかけて夜10時半頃にメリダのバスターミナルに到着した。着いた時間が遅かったため、町は闇夜に包まれているのではないかと懸念されたが、テキーラを要する酒飲み大国メキシコの都市は宵っ張りでソカロを中心とした町のいたるところで人々が溢れかえっていた。とりあえず、ソカロの北300mに位置するコロニアル風の中庭がきれいだが、部屋がしょぼいことが発覚したHotel Montejo(N$325/night、エアコン付き部屋)に引き払い、出来るだけ早く意識を失うように苦心することした。

2月25日(金)

碁盤の目のような完全な条里制が敷かれているメリダの町を練り歩き、町の南部の2等バスターミナルに向かった。「マヤ」というキーワードで街づくりがなされているユカタン半島の代表的な遺跡であるウシュマル行きのOriente社の2等バス(N$32)は9時半に出発すると途中のバス停で原住民を乗り降りさせながら、11時ごろに遺跡のゲート前に到着した。メインゲートのチケット売り場で入場料N$88を支払うとマヤ・プウク様式の代表的な遺跡であるウシュマル(世界文化遺産)の散策に乗り出すことにした。

鬱蒼とした森の中に忽然と出現するウシュマルは7世紀初頭のマヤ古典期に栄えた遺跡であり、プウク様式と呼ばれるマヤ色の濃い建造物で有名である。まず最初に目の前に現れた巨大な建造物は高さ38mを誇る魔法使いのピラミッドである。小人が一夜のうちに造りあげたという伝説を持つこの建造物には様々な彫刻が施されており、頂上は神殿になっているのだが、残念ながら、観光客は神殿に登ることは許可されていなかった。しかし、遺跡内を我が物顔で徘徊するイグアナは自由に行き来することが許されているようだったのでどうしても登頂しなければならない輩はイグアナの着ぐるみが必要ではないかと思われた。遺跡内を巡回していると建造物の壁面のいたるところに彫られている像がある。これは雨神チャック像と言って河川がなく、生活用水を雨水に頼っていたマヤ人に非常に崇拝されていた雨乞いの神様で決して「世界まるごとハウマッチ」に出演していたクラークハッチ体育研究所のウイルソン系のチャックではなかったのだ。

大ピラミッドという高さ32mの大神殿には何とか登頂することが出来たので国指定爬虫類のような面持ちで勝ち誇ったように首を上にもたげているイグアナと一緒に遺跡の全景を見下ろしているとマヤ建築で最も調和の取れた建造物である総督の宮殿や今では壁だけしか残っていない鳩の家や尼僧院、球戯場等のファシリティがすばらしいコントラストで配置されているのが確認出来たのであった。

ウシュマルからATS社のバス(N$35)を拾ってメリダまで戻ってきた。メリダは黄熱病の研究で有名な野口英世が足跡を残した地でその研究を行っていたオーラン病院には野口博士の銅像が建っているそうである。1万円の神様である諭吉の足跡であれば草の根分けても探し出すのだが、所詮千円の価値しかない英世の銅像は差し置いてダウンタウン北部のユカタン人類博物館(N$33)に入館することにした。ユカタンのマヤ文明を学習するのに最適な場所である博物館内にはマヤ人の奇習として知られている変形させて平べったくした頭蓋骨の実物とその作成方法や遺跡から出土した古代地図や彫刻の数々が展示されていた。

夕暮れ時にソカロの広場を歩いている観光客や原住民がベンチに腰掛けながら夕涼みにいそしんでいる姿を目撃することが出来る。ホテルに戻り、付属のレストランで丸刈りになった巨人の清原の頭を思い起こしながらマルガリータを飲み、ユカタン料理のスペシャルを発注すると清原の好きな鳥のささみをほぐして煮込んだものとあずきをすりつぶしたような豆料理とともにメキシコの主食であるトルティーヤが出てきた。この日はのちにトルティーヤの正体を知りマサに愕然とした状況になることも知らずに相変わらずメキシカンはまずいな~と思いながらディナータイムを過ごしていたのであった。

2月26日(土)

2日間お世話になったHotel Montejoを早々に引き払うと、今日も朝から2等バスターミナルを目指してメリダの町を練り歩いていた。チケット売り場でN$51を支払い、8:30発カンクン方面行きのOriente社のバスでチチェン・イツァーまでの2時間半の旅が始まった。メキシコ・マヤ文明が残した最高傑作と言われるチチェン・イツァー(世界文化遺産)の遺跡は昨日訪問したウシュマルよりも規模が大きく、鈴なりに連なった観光バスで訪れているおびただしい数の観光客で賑わっていた。チケット売り場でN$88を支払い、壮大な遺跡群の調査をスタートさせた。

遺跡は大きく新チチェン(10世紀以降)と旧チチェン(6世紀頃)のエリアに分かれていたのでまずはファシリティの整っている新チチェンの探索に向かった。メインゲートから遺跡エリアに出てまず最初にエルカスティージョ(ククルカン宮殿)の壮大さに圧倒されてしまった。9世紀初頭に完成したといわれるこの神殿は高さ25m、9層の基壇を持つ建造物である。傾斜角45度、91段の階段を這うように上がると先客のイグアナが高みの見物をしていたので邪魔しないように遺跡全体のパノラマと地平線まで広がる密林の景色を堪能した。また、神殿のふもとの入口から神殿内部も公開されており、蒸し暑い中、薄暗い階段を登りつめるとそこにはヒスイの目を持つ赤いジャガー像と生贄の心臓を置いたチャック・モール像が鋭い目でこちらをにらみながら鎮座されていた。

敷地内にユカタン半島最大の規模と神話を誇る聖なる泉セノテがたたずんでいる。日照りの時期になるとここに若い処女が人身御供として投下されたり、生贄や貢物が捧げられたそうである。とりあえず私も緑の水面に向かってマサが不正の口封じのための生贄にならないように祈願しておいた。

球戯場という全長150mあるファシリティが開けており、かつてここで豊穣の神に祈りを捧げる宗教儀式として何がしかの球技が行われていた。何でも勝ったチームのキャプテンが栄光をにない、生贄として捧げられたそうで、その様子が首を斬られ、その血が7条の蛇となってほとばしるレリーフとして残されている。日本でいうと北朝鮮を破ったジーコジャパンのキャプテン宮本がいちいち斬首されなければならないことになるだろう。ちなみにこの場所はマヤが誇る石組みテクノロジーにより、ニッポン、チャチャチャ!等をやると反響するように設計されており、外人ミーハー客を連れたツアーガイド達がそのパフォーマンスにいそしんでいた。

その他の見どころとして戦士の神殿やおびただしいほどの柱が立つ千本柱の間、旧チチェン側にはカラコルという天文台も残されている。また、ウシュマルもチチェン・イツァーも夜の時間帯に遺跡を幻想的にライトアップする神秘的な光と音のショーも毎晩行われているそうで昼だけでなく、夜も別途観光客から金を巻き上げるための効率的な遺跡の使い方がなされていた。

Oriente社の2等バス(N$85)で4時間半かけてカンクンバスターミナルに戻ってきた頃には日もとっぷりと暮れていた。カンクンはセントロというダウンタウンとホテルゾーンといわれるカリブ海とラグーンに挟まれた20kmにも渡る洲がかなり離れているものの市バス(N$6.5)が連なるように巡回しているのでバスに乗って今日の宿泊先であるヒルトン・カンクンに向かった。さすがに国際的なリゾート地の高級ホテルだけあり、カリブ海の白砂のビーチの美しさと巨大なプール群が群を抜いており、ビーチ脇のレストランで波の音を聞きながらシーフードのシチュー系のディナーを堪能させていただいた。

2月27日(日)

次の目的地を目指すために早い時間にヒルトンをチェックアウトしなければならなかったので早朝よりビーチの散策に励むことにした。世界で一番青く美しいといわれるカリブ海はその名に違わず非常に美しく、波打ち際では魚を捕まえようとしている首長系の水鳥がしきりに海中に向かってダイブを繰り返していた。

カンクンバスターミナルからMAYAB社のバス(N$48)でトゥルム遺跡に向かった。カンクンから130kmほど南、カリブ海を望む断崖にたたずむ遺跡トゥルム(N$38)は規模は小さいが、3方を城壁に囲まれた城塞都市としての面影を残しており、密林の王者と言われずっとジャングルで発展したマヤ文明が最後にたどり着いた地である。この遺跡内には真っ青なカリブ海を見下ろす切り立つ断崖の上に建っている神殿エルカスティージョやフレスコ画の神殿等、イグアナと一緒に見学出来る数多くの見どころもあるのだが、カリブ海の白砂のビーチに降りて海水浴も楽しめるため、多くの家族連れで賑わっていた。

ADO社の1等バス(N$61)でカンクンへの帰路についた。バスは途中でプラヤ・デル・カルメンという都市に到着したのだが、ここからフェリーに乗って世界で一番透明度の高い海を持つコスメルという島に渡ることも可能である。尚、コスメルへの進出はスケジュールの都合で成らなかったのでまた来なければならないと思われた。

日没前に今日の宿泊先であるシェラトン・カンクンに到着した。早速チェックインカウンターに行くとまるで私がライバルヒルトングループのゴールドメンバーであることを察知しているかのようにプロモーション的に部屋がスイートにアップグレードされていた。5階角部屋の541号室はぶち抜きで543号室と繋がっており、巨大なテラスから見下ろすカンクンの美しいビーチの光景はまるでこの世の天国のようであったのだ。

ホテルの目の前にカンクンで最も新しいライラス・ショッピング・ビレッジが財布の紐のゆるくなった観光客を待ち受けていたので買う気もないのに軽く散策することにした。ビレッジのあちこちには橋が架けられており、まるでディズニーランドのような雰囲気さえ醸し出していた。不夜城となっているカンクンホテルゾーン内にはこのようなショッピングセンターが数多くあり、商業主義的リゾート地の側面を強く演出しているのである。

2月28日(月)

午後12時35分発のUA969便に間に合わせるために早朝より速攻で海水浴とプールをこなしてそそくさとスイートルームを後にした。セントロのカンクンバスターミナルからシャトルバス(N$15)で空港へ向かう道すがら物の本を読んでいると衝撃的な事実に直面してしまった!マサよ、その衝撃度に関しては以下のトレビアのFTBを参昭して見てくれよ!!

カンクン国際空港出発エリアは予想通りおびただしい数のリゾート済み元観光客でごった返しており、彼らは例外なく、引越し並の荷物を引きずっていた。デンバーで再び米国入国を果たし午後6時半頃に無事ロサンゼルスに戻ってくることが出来た。Motel6の中でも最高級の部類($57.44/night)に属するLAX International Airportはシャトルバスも運行させており、5分程で到着すると早速高層階の8階にチェックインした。部屋からはLAの夜景とともにひっきりなしに着陸滑走路にファイナルアプローチする航空機のライトが光り輝いていた。

3月1日(火)~3月2日(水)

ANA005便にて帰国、そのまま流れ解散~

マサお待ちかねの「トレビアのFTB」を食らえ!

ということで、今回のトレビアのFTBであるが、実は財務省の高級官僚兼FTBの斬られキャラとして活躍しているマサの正体がついに白日の下にさらされることになった。メキシコで最もポピュラーな料理であるタコスは主食であるトルティーヤが重要な役割を果たしている。実はこのトルティーヤは水でふやかしたとうもろこしを練り込んだ生地「マサ」!!を薄く円形状に延ばして焼いたものだったのだ!!!

http://www.e-food.jp/country/mexico/1/mexico.masa.htm
http://www.worldtradingk.com/new_page_4.htm

マサよ~ 財務官僚として北の新地でブイブイいわせているであろう君もメキシコでは単なるとうもろこし野郎にすぎなかったのだ~~ この事実を知ってショックを受けたマサが今後大阪のTACOBELLでやけ酒を食らい、泥酔して警察のお世話になり、「許しテキ~ラ!」と言い訳している姿が見受けられるかどうか要注目である。

http://www.tacobell.com/

FTBサマリー

総飛行機代 ¥33,210(ご利用券\40,000分使用)+ $641.81

総レンタカー代 $98.01(ガソリン代込み)

総宿泊費 $114.88 + N$49,15.59

総バス代 N$559

Presented by FTB Co. LTD

代表 Masa

取締役運転手 Masa, acting

シニアインターン Kazu

調達実施本部長 Masa, acting

総統 Takeo(FTBJ代表兼務、ソートーすごいらしい)

スポンサー 旧大蔵省

協力 ANA、ユナイテッド航空、HiltonHHnors、シェラトン・カンクン、ADO社、Oriente社、ATS社、MAYAB社

   Riviera社、Motel6